日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

巻頭言

2007-05-28 11:10:20 | メッセージ
土俵を噛む  M・Y(壮年会) 

いま東京国技館で大相撲夏場所が真最中だ。朝刊をひろげると夏場所星取表に目をやってから力士たちが昨日どの様な戦い振りだったのか記事を読む。今日(21日・八日目)、TV実況中継を観ていて気づいた。アナウンサーと解説者が力士らの得意技について話を進めている。熟知しているのに感心する。横綱朝青龍の足の親指はいつも「土俵を噛んでいる」と注目するよう促した。すると、解説者は、昔は、親指が土俵を噛んでいない力士に対して親方は厳重注意をしたが、最近は怠っているようだ。すり足で土俵を噛まないといい相撲ができないからだ。体験者が語る一言には重みがある。勝った力士にマイクを向けて語る場面で大抵の力士は「自分の相撲をとって一番一番頑張ります」と肩で息をしながら言っているのを聞いていると、「頑張って!」と声援したくなる。勝負が終わると、場内アナウンサーは「決まり手」を必ず紹介している。解説者はかつて土俵に上がった経験者である。今は、土俵の外で相撲は取らない代わりに視聴者に解説をする。一番一番に全力を出し、緊張し、格闘している力士の心技、それぞれの得意技、うまさを分かりやすく解説をする。力士が土俵で自分の力を発揮するためには精神力を蔑ろにしない。気合を入れ、自分の中にある敵に挑んで土俵に上がる。現在、国際色豊かになった力士たちが火花を散らしている。土俵での傷は彼らにとって勲章としている。後ろのものを忘れて前向きに挑んでいる姿を見て、使徒パウロが言った「なすべきことはただひとつ」フィリピ3:13のことばを我が心に植えつけたい。   
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あかし

2007-05-22 09:38:14 | メッセージ
母の日礼拝 証し  Y・K
「主を恨んだ事、いつか納得して感謝する日」

私は小さい頃、主を恨み続けていました。
精神が不安定で何かきっかけがあると、ヒステリーを起こし我を失う母を与えられた事を。
そんな母から逃げ続け目をそらし続ける父と姉を与えられた事を。
いつも学習机の引き出しに入れてあった「聖書物語」を片手に恨み続けました。
何故、母から「バカ、グズ、ノロマ」と言われ「あんたなんかどうしようもない人間や」と言われ叩かれる?
赤ん坊の時の事などどうしようもないのに「おむつの交換が汚くて、嫌で嫌でしょうがなかった」「誰がやってやったと思ってるんだ?」と言われる?
何故、まだ幼稚園にも行ってない私が近所でニコニコ・ペコペコして近所づきあいを何とかしようとしている?
何故、年端のいかない私に「うちは共同生活者であって家族ではないから」「確かにあなたを産んだけどお母さんと思わないで」とまで言うのだ?
小学生の中頃にもなると複雑な家系も理解できるようになり、あきらめも生まれ何となくその中で生活するようになりました。
そして、随分ひねくれてしまったのでしょう。
先生からは嫌われ、尻馬に乗った生徒達からひどいいじめにあいました。
日が経つにつれ「聖書に書いてある事は正しいけど絵空事なんだ。」と思い始め、その後は世の中の事に何も感じなくなりました。
それでも何か救いが欲しかったのでしょう、心理学、精神医学、哲学にのめり込み始め、学校の特別授業で「虐待連鎖の防止法」というものに出会いました。
内容は至って簡単、「虐待した親を許す事」「親にも大変な事情があり、それを理解して受け入れてあげてください」との事でした。
結局、「許し」という聖書の根本的な課題と同じで、主の御手の中で転がりまわっていただけと気付き聖書に戻る事ができました。
現在持つ「悲しい思いをする子供達を減らしたい」「救いを求める人の手助けをしたい」との思いの礎となった私の母ですが、今となっては、少し落ち着き
「この様な事を起こさないと理解しなかった頑固でひねくれた私に与えられた試練だった。」「おかげで勉強させていただいた」と、主と母両方に感謝しています。
しかし、納得して感謝出来るようになるにはまだまだ信仰の整えと鍛錬が必要です。
教会にいる時だけは、「家庭に恵まれなかった私に、主はこんなにたくさんの家族を用意してくださった」と素直に思えます。
主と大阪教会の皆様に感謝

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巻頭言

2007-05-20 17:38:11 | メッセージ
 神の愛に応える  青年会 T・Y

2005年5月27日、めったに通る事のない大阪教会の前を通りかかり、『2005年5月29日牧師就任式』の案内を見て、礼拝に出席するようになってから早くも2年が経過しようとしています。
 そして今年からは立候補にて青年会長をさせて戴いています。リーダーには色々なタイプがありますが、私が目指しているのはムードメーカーのような役割です。そのことで、メンバーひとり一人の個性が発揮されれば嬉しいです。また、バプテストの特徴である「自由と平等」について考え、学び、実践していくためにも、例会などの話し合いを大切にしていきたいです。
 活動内容としては、各委員(会)の要望に柔軟に対応して色々な取り組みに新しい力を全面的に出し、教会全体の活性化につなげられればと思います。教会が成長し、実を結んでいくためには、まだまだ多くの課題(短期目標)が山積しているのが現実です。それらの課題に積極的に取り組んでいくと同時に、次世代の教会を担う青年の霊的・人格的な育成の一助としてこの青年会が用いられるように、と心から願っています。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられる
 事です。」Ⅰテサロ二ケ5・16―18 この聖句が教会生活を通して、青年会のメンバーひとり一人の心と身体に浸透していくように願いつつ、常に前進の気概をもってがんばります。お祈りとお支えを宜しくお願いします。
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巻頭言

2007-05-14 10:59:51 | お知らせ
ドラムセットが用いられるように  H・T

皆様、ドラムセットを送ります。どうぞ大阪教会の伝道にお役立てください。

このドラムセットはこちらでお世話になっている牧師先生のご好意によって譲ってもらったものである。教会に来始めたある青年が“バンドをやりたい!”という思いを持っていたため、牧師先生が自腹で用意したそうである。一見、教会が若返り活性化したように思えたが、実際に使用したのは4回ほどだったそうで、その青年は全く来なくなってしまった。
何事も、苦労して自分で手に入れたものは長く大事にするものであるが、大した苦労もなく与えられたものには感謝がなく、愛着もなく、いつしかほったらかしにされてしまうのであろう。
バンド活動が教会形成につながって行かなかったことを振り返ると、神様を抜きにした活動であったわけで、いかなる思い、祈りも御心に叶わないものは実らない。
急成長する兆しのある組織の抱えた脆さ、福音宣教の難しさを実感する。

さてドラムセットには、福音宣教に生かしてほしいという牧師先生の祈りが添えられています。ゆっくりといろんなアイデアによって、これからの大阪教会の歩みに用いられるよう、期待しています。
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あかし

2007-05-08 09:59:18 | メッセージ
2007年5月6日 主日礼拝 「あかし」 Y姉


水曜日の祈祷会は礼拝と共に私にとって大切な命のオアシスです。聖書の学びのときに交わされる率直な意見の交換とそのあとの牧師によるポイントをおさえた解説、これが主日礼拝のメッセージの前哨線です。 グループに分かれての祈りのとき、今週の教会の祈りと各自の祈りの課題について祈ります。再び全員が集って新生讃美歌623番「時は満ちて」をうたって祈祷会は終わります。その後の昼食はまさに愛餐会です。夫々が持ち寄った料理やお菓子をいただきます。たべる物が溢れているときも、すこし少な目のときも、みんなで分け合って楽しい会話がはずみます。何の遠慮もなく言いたいことが言えるというのは、いのちの洗たくになります。
つくづく神さまは人間を人と共に生きるように創って下さったのだなと感じます。一人一人ちがった賜物、ちがった欠点、ちがった生い立ちをもった兄弟姉妹がお互いに補い合いながら支えあって何十年も繰り返してきた営みです。にもかかわらず、この頃、歳のせいか、妙に人恋しく、何かにつけて心細さを感じるようになりました。私はこのことをマイナスに受け取って情けないなあと思っていましたが、最近、通いはじめたある授業の中でそれは正常なごくあたり前のことと、教えられホッと胸をなでおろしました。人はいくつになっても誰かに甘えたい、愛されたいと思うものなのだ、そうです。色々な体験や学習によって、たしかに表面は大人になっていくのですが心の奥底は幼児のときと、すこしも変わっていないのだそうです。体力が衰え、記憶力が衰えてきて、心細くなることでかえって、本来のありのままの自分に気づかされるチャンスが与えられているのかも知れません。自分の弱点を人に知られたくないと肩肘はって生きるのは息苦しいものです。なぜなら誰よりも自分の目からその弱点を隠そうとしているからです。しかし神さまはそのままでわたしの前に立ちなさい、と言われます。ことばで言うのは簡単ですが、なかなかそれができないのです。にもかかわらず最近つくづく感じることですが、教会の兄弟姉妹に自分が受け容れられているという安心感です。私たちの交わりをとりなして下さるイエス様の存在を感じます。娘がバプテスマの決心をしたと知ると沢山の方が涙をながしてよろこび、祝福して下さいました。その涙は、長い年月にわたって、祈って、待っていて下さった結果なのだと気づき感謝で一杯になりました。ピンチのとき、あつい祈りと優しいことばをかけてくださいました。そういう支えの積み重ねの中で、少しずつ聖書のことばの意味が解き明かされてきます。人に受け入れられると気持ちが素直になって、私も人を受け入れていこうと思えるのです。主の日の礼拝を共にまもり、みことばのとき明かしをうけ、共に祈り、共に賛美し、共に新しいいのちをいただいて、一週間のあゆみをスタートする。それがどんなにかけがえのない祝福にみちたことなのかということにあらためて気づかされています。欠点だらけの私ですが、神さまと人とに受け容れられた自分をもう一度うけとりなおして、すこしでも誰かの支えやなぐさめに役立てていただけるように、さし出していく、これが今のわたしの課題です。

フィリピの信徒への手紙4章4~7節 「主において常によろこびなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

マルコによる福音書12章29節「イエスはお答えになった。『第一の掟は、これである。イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
                      

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巻頭言

2007-05-06 13:37:34 | メッセージ
さんびする恵みを豊かに受け取って 音楽委員

先日、O兄が天に召され、その前夜式が行われた時、O兄のお兄様がご挨拶をされました。「この式のすべてが、さんびの響きが、わたしの悲しみをやわらげてくれました、ありがとうございました」と。その言葉を聞いて私もとても心やわらぎ、ほっといたしました。これは私だけではなかったことでしょう。イエス・キリストのとりなし、はかり知れない慰めの霊が満ちていたことにほんとうに感謝でいっぱいになりました。 
毎主日、礼拝の中で私たちは、祈りと、み言葉の受け入れと、さんびと応答をいたします。毎週あたり前のように、何十年もくり返してきましたが、実は毎回、毎回、いのちの再出発という奇跡が起こっていたのだなあと、この頃つくづく感じるようになりました。聖歌隊の御用をさせて頂く時、いつも、自分の至らなさに、心萎える経験をしますが、隊員のみなさんの明るい笑顔と励ましに支えられて、続けております。与えられている力をありのままに差し出して、育てて下さる神の力にゆだねていきたいと思います。なまけ心に鞭うちつつ、、。
この頃、礼拝に出席される方が徐々にふえてきました。それにつれて、さんびの歌声も少しずつ力強く、厚みを増してきつつあります。感謝です。
さんびする恵みを、豊かに受け取り応答していきましょう。(H・Y)
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