日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

福音に見出された自由

2019-05-26 16:23:15 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ5章1-15節 

 

本日はガラテヤ5章より「福音に見出された自由」と題して御言葉に聞いていきます。

 

私は2つのタイプの神学校で学ぶ機会がありましたが。今ではそれはほんとうによかったと思えます。

はじめの神学校では、生活のあり方について一つ一つ指導がありました。

時には干渉もされ、神学寮(元学長宅のこじんまりとした学内にある一軒家)でも、かなり事細かな寮則が設けられていました。

20歳過ぎても禁酒禁煙。門限はなかったのですが毎日晩祷(夜の祈祷会)と毎朝6時前には早天祈祷会がありましたので、時間的にも制約がある中での2年間でした。

確かに、指摘されないと気づけないこと、分からないことは沢山ありましたので、そういったことを教えて頂けたということは感謝な事でありますが。

一方で、そういった状況の中では多くの場合、監督や指導の下、その指示に従うことそのものが重要であるかのようになってしまいがちなんですよね。

それは、わたしに限って言えば主体性が生まれにくかったように思います。

指示に従ってさえいれば変な話「安全」「安心」「それでよし」となってしまうんですね。また逆に「そうあらねば」とか「そうできない自分」に、もやもやとした思いがいつも残っていました。

まあ、その神学校は良き学びの機会と、奨学金制度も教派を超えて私にまで適応してくださり、経済的には多くのお支えとご支援を受けて2年間の学びと生活が守られたことに感謝は尽きません。

もう一方の神学校は4年間学びの機会が与えられました。

こちらは前者の神学校とは対照的でした。学びについてはそう変わりませんが。

生活の面、こちらも独身寮に4年間入りましたが。門限はありませんし事細かな寮則もありません。

まあ静かなところで、自然に囲まれた場所にありましたので寮にムカデが頻繁に出没し、時々、ギャーとか、痛!という声が寮内に響きました。熱い湯沸かしポットを持って走るスリッパの音がしたかと思うと、熱湯をムカデにかけて退治して「やった!」という声が響いて来ることもあるようなところでしたが。

まあ、生活面についてある意味、個々人の学生にゆだねられていて、放任というと言いすぎかも知れませんが。それで痛い目に遭う体験もしましたけれども。

そんな自由の中で、自分が一体そこで何をなしうるか、いつも問われていくことになり、毎日が学びの連続でした。

自由というと聞こえはいいですけれども。

それは実際何をしてもいいのですが、その中で何を選びとっていくかという厳しさがあります。時間も学びも行動も、自己管理しないと成り立たなくなってしまうからです。

たとえばレポートと筆記の試験どちらが楽かといえば、暗記して憶えてその回答を書く方がある意味楽じゃないでしょうか。けれどそこではレポートの提出が多かったんですね。レポートは決められた答えというものがありませんから、自分で考え、本や人との出会いからそれを選び、構築してかなければなりません。

これは大変でしたね。けれどもそれを仕上げた時の喜びは大きなものがありました。

 

このタイプの違った2つの神学校で学び、生活する機会が与えられたことは、

私の信仰理解とともに、いかに主の前に生きてゆくかという実践的な在り方を体得する良い学びの時となったことを本当にありがたく思っています。

 

今日は「キリスト者の自由」についての話でありますが。

その前におさらいですけれど先週はガラテヤの信徒たちが「福音の真理」すなわちキリストの十字架の贖いによって御救いに与った、にも拘らず、儀式や律法規定に囚われていった問題から聖書に聴きました。

そこでは、ガラテヤの信徒たちが、かつて神でない偶像や日や月の動き、時節に振り廻され囚われていたように、今度はユダヤの割礼をはじめ、諸々の律法規定、祭儀や儀式、慣習も神の民として守るべきであるという教えに惑わされていました。

 

「神の民となったのだから~(このよう)であらねば救われていない。~(このように)しなければ本当に救われているとは言えない、神の民ではない」などと聞いてそれを行い、囚われ、縛られて、肝心の救いの恵みと喜びが損なわれていたのです。

再び奴隷のように、それら肉(人)の教えに仕えていく虚しい生活に逆戻りしてゆこうとしていたのです。

 

彼らの信仰の導き手であり霊の親であった使徒パウロは、そのガラテヤの信徒たちに

対して、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」と、渾身の愛をこめ、忍耐をもって切々と訴えた、これが先週の箇所でした。

 

今日のところでは、「信仰を持つ私たちが陥りやすい囚われと、信仰によって得られる自由」をテーマに、ここからメッセージを受け取っていきたいと思います。

4章21節以降を見ますとパウロは、「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」(23節)の2通りの信仰者の姿を示します。

「肉による子」とは律法主義の下で囚われ縛られている人のことであり、「約束による子」とは主イエスの贖いと救いという「主の福音」を信じて、自由とされ、神さまとの新しい関係を築いて生きている人のことです。

 

5章1節でパウロは次のように述べます。

この自由を得させるため、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」

さらに、13節でも「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」と使徒パウロは述べています。

クリスチャンではない人は、キリスト教を信仰している人は何だか考え方が狭くて堅苦しくて、あれしちゃいけない、これしちゃいけないと青白い顔で禁欲的で、まるで囚人のような生活を送っている人というイメージがあるのではないでしょうか。

しかしここでパウロは、救いの福音がクリスチャンにどれ程自由をもたらすものであるかを説いています。

 

①  「キリストにある者の自由」

一節の「わたしたち」という中には使徒パウロ本人も含まれているわけですが、彼も以前は熱心なユダヤ教の律法主義であり、それを守り行う生活に大変なエネルギーを使って、実行できれば高慢になっては人を裁き、出来なければ自己を卑下するというような思いに囚われて生活していたのです。

クリスチャンが割礼も受けなければ律法も守ろうともしないのに、神のゆるしにあずかっている、神の民とされたと言っていることに激しい妬みと怒りをもって迫害をしていたのですが。

そういった彼の~ねばならない、~しなければならないということが、実は他者だけでなく、自分自身を捕らえ縛ってきたんですね。

けれどもそんな彼が決定的に変えられたのはキリストとの出会いによってでした。

いかに自分が神の愛と救いに気づけない不自由な者であったか。偏狭な自分の考え方が、実は神を悲しませるものであったことをパウロは思い知るのです。

キリストはそんなパウロの贖いのためにも、その罪の身代わりとなり神の裁きを受けて死んでくださった。それも死では終わらず復活された。そしてまさにその復活の

キリストが、このパウロに出会い給うのです。

パウロはキリストによって断罪され滅んでもおかしくない者であることを痛いほ

ど自覚していたでしょう。

けれどもキリストは唯その愛と憐みによってパウロの罪をゆるし、真の自由と解放とを与え、神の恵みによって新しい人、クリスチャンとしてのパウロが誕生するんですね。

 

だから、彼の「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」という言葉には重みがあるのだと思います。

そのパウロが2節以降で、ガラテヤの信徒たちにこう述べます。

「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたは、だれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」

 

パウロは割礼を受けなければ神の救いの中に入れないと考えていた人たちに対して、もしそうなら、「キリストの贖いと御救い」はもう何の意味も持たない、もし行いによるのなら神の恵みの福音は何の役にも立っていないじゃないか、というのですね。

 

ガラテヤの信徒たちのうちに入ってきたユダヤ人クリスチャンの一部の人たち、ユダヤの律法主義や割礼を推奨していった人たちの考え方は、「救いはユダヤ人から始まったけれど、キリストによって異邦人にも救いが開かれた」と認めながらも、一方で「救いの信仰も大事だけれど割礼や律法や祭儀などを守ってゆくことも必要で、それを行っていくことが神の民のしるしだということを主張したのです。

それが「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませている」というパウロのたとえのように、だんだんと大きくなっていき、キリストにあって結ばれ、折角愛と喜びに満ち成長を与えられていたガラテヤの教会に、分断と分裂を招く事態になっていたということです。

 

②  「愛の実践を伴う信仰こそ大切」

そんなガラテヤの信徒たちに向け、6節でパウロはこう述べます。

「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」

愛の実践を伴う信仰こそ大切です。

かつてのパウロは、自分の義、自分の正しさ、そして自己達成感とともにそれを誇り、高ぶり、裁き、知らない間に神さまよりも自分が主体となって、神さまの救いのご計画であるキリストを迫害していたという、神の愛を知らない人生、隣人愛もわからないまま、人とも分断をきたらすような、そんな自らの滅びを招く生き方だったんですね。

どんなに自分では信仰していると言ったとしても、愛なく殺伐としたその生き方は神の救いからほど遠いものです。

 

私が初めてこの「愛の実践を伴う信仰こそ大切」という言葉を読んだとき、「実践」つまり「愛があるような行い」が大切と言っているように思っていたのですが。

でもそうじゃなかったんですね。

主体は、「信仰こそ」とある「信仰」(ピスティス)なのです。

この信仰こそが本来、愛として働く原動力であるということなのです。

「キリストの救いにおける感謝と喜びの信仰」こそが愛の伴う行動を呼び起こさせるのですね。

この順序は大事であります。

さらに申しますと、ここの「愛」という言葉は、エロス;性愛でも、フィレオ;友愛でもなく、アガペー;神の愛なんですね。これは大きな意味をもっています。

人間のもつ情愛、ヒューマニズムによるものではないんですね。

 

だったら、私は愛がないなんて落ち込んだり悩んだり、あの人は愛がないなんて裁く必要はまったくないですね。

今日も救いの福音を聞いた、確認できた、そして心が安らいだ、嬉しくなった。

ちょっと誰かと挨拶しよう。愛さん食べて行こう、掃除してゆこう。

また、今日姿が見えなかったあの兄弟、姉妹どうしているかな、電話してみよう。そういう主にある信仰に伴って起こってくる愛の具体的な表れが尊い、大切だといっているんですね。そこに福音に見出された者の自由と愛があるのです。

それは行わねばという義務感や使命感という肉の思いとは異なります。

始めのほうで話しました信仰からくる霊的な「約束による子」、主イエスの贖いと救いという「主の福音」を信じて、自由とされ、神さまとの新しい関係を築いている人の生き方です。

礼拝の中で先に「交読文としてコリント一13章」をともに読みましたが。

この「愛」のところに自分の名前を入れて読むと、どうでしょうか。

大方の人は自分がどれほど愛のない人間であるか思い知らされるのではないでしょうか。けれどもそのところに、アガペーの愛「キリスト」ご自身のお名前を入れて読まれてみるとどうでしょうか。

私自身がこの主の愛によって生かされていることを覚えることが出来ますね。

私たちはこの「キリストの愛」を受け取って、それを喜び、そうして主とともに愛に生きてゆく、それが私たちの「愛」なのです。

主イエス・キリストを救い主として信じるとき、神は私たちを義としてくださり、救いの愛なるキリストが私たちのうちに生きて働いてくださることによって、私たちはそのキリストの愛に生きる者となることができるのですね。

この素晴らしい主の愛を心から感謝します。

 

③  「自由には目的がある」

最後に、パウロは13節以降でこう述べます。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」

私たちはもう、こうあらねばならない、こうしなければならないという囚われからキリストの愛によって自由にされています。パウロは「ただ、この自由を、肉による機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。」と記します。

実はこの13節、14節にパウロが記した「愛」もまた、アガペーの愛、神さまの愛、キリストの愛なんですね。

私たちは主イエス・キリストによって、今日学んだように自由を得ているのですが、

この自由をもって奔放にふるまうのではなく、むしろキリストの愛によってお互いに仕え合うところにこそ、律法全体が言わんとしているところの隣人愛が全うされていくんですね。

今日は「福音に見出された自由」と題して、御言葉に聞いてきました。

 主イエスを救い主として、感謝と喜びの信仰に生きる者のうちには、教会に豊かに注がれている御聖霊のお働きによって互いに主の愛を分かち合う兄弟姉妹が与えられていることを感謝します。

キリストは昨日も今日も変わることなく私たちのうちに生きておられ、「愛」としてお働きくださいます。。

今週もここからそれぞれの持ち場へ、この愛によって働く信仰に与って、遣わされてまいりましょう。

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RED 公演のおしらせ

2019-05-23 12:15:06 | イベント

 

日時 6月15日(土)ゲネ10:00 13:00/17:00  16日(日)15:00   料金:前売り¥2,500/当日¥3,000(韓国茶・韓国お菓子付)学生¥1,500  公開ゲネは¥500未就学親子等 

会場 日本バプテスト大阪教会

主催 桜人企画(さくらきかく) ご予約フォーム http://my.formman.com/t/A6D2/ お問い合わせ http://sakura-presents.com/

「RED」あらすじ~今回の演劇は韓国です。韓国は人口の3分の1がクリスチャンという、アジアでもフィリピンにつぐキリスト教大国です。今回は韓国最初の※1 殉教者ユン・ジチュン(カトリック司祭)を描いています。そして劇は過去と現在が平行しとて描かれます。現在の韓国を冤罪事件を通して、昨今のニュースやKPOP、韓国コスメなどからイメージされる韓国とは別な側面を描いてています。主人公である山本真一がが、いとこのジェドクに巻き込まれ、韓国で起った※2 冤罪事件にかかわることになり・・・。過去と現在が交錯する韓国の歴史に基づいた物語。劇中にはオリジナルゴスペルも歌われます。

※1 珍山(チンサン)事件 珍山村に住む2人のクリスチャン、ユン・ジチュン、クォン・サンヨンが、ジチュンの母親が亡くなった際、伝統的な埋葬の仕方をせず、キリスト教式にしたので、当時の儒教思想に反すると大問題になり、処刑された事件。

※2 冤罪事件は実在の事件を参考に描いたフィクション。

 

【出演】

綾鷹新、今井敦、春日、中村美咲、馬場さくら、フジサワユウ

masumi(シンガー)、Haruka(歌)、神薗善規(尺八)

      

 

 

                                                                                                 

 

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SOUND CLOSER vol.14 公演のおしらせ!

2019-05-20 08:40:45 | イベント

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福音の真理に立ち返って!

2019-05-19 14:00:58 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ4章8-20節  

 

  「神の先立つ恵み」

本日はガラテヤ4章より「福音の真理に立ち返れ!」と題して、御言葉に聞いていますが。今回もパウロのガラテヤの信徒たちに向けた語調は厳しいものであります。その理由について、8節~10節でパウロはこう述べます。

「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、いろんな日、月、時節、年などを守っています。」

 

日、月、時節、年とは、そういうものによる占いや迷信のことです。

ガラテヤの信徒たちはかつて、天地万物をお造りになり一切をつかさどっておられる、ただ唯一の神さまを知りませんでした。

天体の動きや、木や石、それらを刻んだ像など、目に見える物質的なものを神々として崇拝していたのです。

 

それは、万物の造り主であり、世界をすべ治めておられるほんとうの神さまが、すべての人を愛していてくださることを知らなかったからです。それで彼らは、虚しいものを神のようにして依り頼んでいくほかなかったのです。

わたしたちも、かつてはそうではなかったでしょうか。

 

しかし、彼らはガラテヤに滞在中であった使徒パウロから「福音の真理」を聞くことによって、すべてのみなもとであられる父なる神を知りました。そして罪から贖(あがない)いだしてくださる神の御子イエス・キリストによって父なる神と和解をして、聖霊を受け、あらゆる偶像や諸霊の下から解放されたのです。

 

パウロは、ガラテヤの信徒たちに「今は神を知っている」と言ったすぐ後に、「いや、むしろ神から知られている」と言い直します。

人の理解には限りがあり、時に間違いや思い込み、知っているようで実は何もわかっていなかったということが多くあるものです。

ガラテヤの人たち、まあ、わたしたちもそうですが。自分の理解で「神を知っている」なんて言うことはたいへん傲慢なことといえますね。

まず何よりも神さまご自身がわたしたちを知っていてくださり、目を留めていてくださる。

この「人間の力や働きによるものではない、どこまでも神さまからの救いの出来事である」ということ。それこそが「福音の真理」なのであります。

 

  「再び囚われた生き方へ」

使徒パウロは、そのような神さまからの救いの出来事に与ったガラテヤの信徒たちに、「なぜ、あの無力で頼りにならない、いやそれどころかあなたたちを支配しまどわし、引きずり回すような諸霊のもとに逆戻りして、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのか」と嘆きます。

 

ここでパウロは「今また、あなた方は、いろんな日、月、時節、年などを守っています」と先にも申しましたけれども。このガラテヤをはじめ、異教的世界においてはこうした日、月、時節、年といったもの、星や天体の巡りによって何か人の運命や人生が影響を受けているように考えて、それらを崇拝したり、呪術師から聞いたことに自分の行動や考え方が囚われて、人生が支配されている。それらの奴隷となっている。そういうことが、まあこれは現代でもよくあっていることでしょう。

 

たとえば、日本でも一年で昼と夜が半々になる彼岸や、祖先を供養する日として重んじられている盆などは、その日を守らず墓参りや供養をしなかったら、先祖がたたり、疫病神が取りつくということが主張されれば、それはまさにそういった時節や日による言い伝えが人の心を縛っていくことに他なりませんね。

子孫がそのような目に遭うことを本当に先祖が願っているのでしょう。もしそうであるとするなら、そのような先祖とは私にとって一体何なのかと思いますが。

 

私たちの日本には他にも厄年や仏滅、大安吉日、友引といった暦があり、断固それを守っている方もおられるでしょう。又、5月から元号が「平成」から「令和」にかわりましたが、元号は天皇が時間や歴史を支配していることを表します。

昭和天皇は敗戦後、自らご自分は神ではないと公言なさいました。すべての時間と空間、歴史を支配できるお方は、天地万物をお造りになられ、導かれる、主なる神さまのほかにおられません。

太陽も月も星も主なる神さまがお造りになられたものです。

わたしたちは主イエス・キリストによって本当の力ある存在であられるお方に直接祈ることが許されています。その方に確かな道を導かれる平安を頂いているのですね。虚しい占いや諸悪の霊から解放されていることに、ただ感謝であります。

 

さて、今日のところでは、一度異教的世界から救い主イエス・キリストを信じ、解放を受けたガラテヤの信徒たちが、律法主義的クリスチャンの影響を受けて、ユダヤの律法の細かな日、時節に定められた祭りごと、新月祭、過ぎ越し祭、新年祭、安息日を守らなければ救われないというような呪縛に囚われていったということです。

 

神さまは御ひとり子、主イエス・キリストを人間の罪の贖いとして十字架に引き渡され、そうして私たちは信仰によって救われています。それは完全な主の救いの業であって、信じた私たちは、もうその完全な救いの中に入れられているのです。

 

ところが、ガラテヤの信徒たちは、信仰によってその御救いに与っていたにも拘わらず、

人間の取り決めた日や祭りごとを守らなければ救われないというような、神さまの尊い犠牲を台無しにしてしまうような惑わしによって、主への信仰を失いつつあったのです。

パウロは彼らに言います。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。」

パウロはガラテヤの教会と信徒たちに対して強い危機感を持ったのですね。(私たちの教会は日本バプテスト連盟に加盟しておりそのことによって相互の見守りがあるということはありがたいことですが。)

教会も孤立しますとどこか独善的になってしまい、福音の本質さえ揺らぐことが起こりかねません。ともに吟味し、互いに祈りあう、主にある関係性はすばらしい主のたまものだと思います。

 

  「ガラテヤの信徒たちとパウロの関係」

さて、12節以降から、パウロはガラテヤの人たちとの出会いを回想していますが。

そこで「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。

(療養のため立ち寄ったガラテヤでパウロは伝道することとなったのですが)そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスでもあるかのように、受け入れてくれました。(中略)あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してわたしに与えようとしたのです」と記しています。

 

パウロは病を、しかもそれは伝道する相手が躓きを覚えるくらいの状況を抱えていたようです。

古代の異教社会にあって病気は、悪霊の仕業によるものとされ、病気にかかった人は、悪霊に取りつかれた人間と見なされたのです。

まあそのような病を抱えていたパウロに対してガラテヤの人たちは、神に選ばれ使徒とされたのなら、なんでこんなことになっているんだと「さげすんだり」「忌み嫌ったり」はしなかったのですね。。

むしろ彼らはそのパウロのその弱く見苦しい姿につまずくどころか、彼を主ご自身であるかのように迎え入れることを幸いとし、自分たちの目を使徒パウロのために差し出したい程の気持ちをもっていたというのです。

そういう中でパウロが伝えていったイエス・キリストの福音はガラテヤの人たちのうちに広がり、教会が形作られていき、ゆたかに分かち合われていくことになったのです。

 

ところが、パウロがそのガラテヤの信徒たちとその群れを後にしてから、ユダヤ人の律法主義的クリスチャンの一部の人たちがガラテヤの信徒の群れに入り込み、主イエスの贖いのまったき御業、完全な救いという福音の真理とは異なる教えを説き、次第にガラテヤの信徒たちは彼らの教えに影響され、割礼やユダヤの教えと祭儀を守らなければ滅びる、救われないという教えに傾いてしまうのです。

クリスチャンでありながらユダヤの律法主義者である彼らにガラテヤの信徒たちは

うまく取り込まれてしまい、何と自分たちの信仰の導き手であり、信仰の父であった使徒パウロに対しても、「律法を守らないのはおかしい」と言う否定的な見方するようになったのです。

あれほど主イエスの十字架の福音による感謝と喜びと愛に満ちた日々は、いったいどこへ行ってしまったのか、それはどんなにかパウロは悲しませたでしょう。

 

このようなガラテヤの信徒を取り込んでいった、律法的考え方や又その熱心さによる自己達成によって救いを得るというような考え方は、現代のキリスト教会においても気をつけなければならないことでしょう。これは残念なことに案外生真面目で、熱心な人が陥りやすいんですね。

パウロもイエスさまと出会う前熱心な律法の子でありましたから、神のためにと粋がり、その熱心さ余って激しく繰り返し、ユダヤ教以外の人たちを迫害していたのです。

けれども実は自分が熱心に迫害していたのは、神の救いのご計画である主イエス、救い主であった。

 

そこからパウロは主を自分の救い主として一生涯依り頼んでいくクリスチャンと主から新しく造り変えられて、その主イエス・キリストの福音を異邦人世界の人々に伝え、証しするものとされたのですね。

 

まあここで誤解してもらっては困るのは、「熱心」になるということ自体悪いことではありません。むしろ素晴らしいことです。

ただこの熱心がどこに向いているか、それが問題なのです。

方向性が大事なんですね。

ここでは律法を守らねば、これこれをしなければ、そうしなければ救われない、そういう「熱心」は、自分にその方向性が向いていて、それは出来なければ自分を責め、出来ているように思えば高慢になってしまう。そうして自分だけでなく、人までも裁いていくことになってしまうのです。こうした類の熱心の出所は、往々にして自己中心の思いから生じるものであって、そこには虚栄心や嫉妬であったり、妬みよる働きによるものです。

 

主イエスに出会う前のパウロは、超熱心なユダヤ教徒であり、知識や業績を兼ね備えて

いたエリートでした。が、彼のそういった自我の意識が民衆を引きつけていたキリスト教会と信徒に対する嫉妬や妬みが激しい迫害という罪の力となったんですね。

 

けれど主イエスの福音に満たされたパウロの熱心さは、その方向性が神の愛に基づくものとして、主にある兄弟姉妹への愛に方向づけられていくのですね。

 その熱心は自己中心的なものではなく神への愛、隣人愛という方向性をもって、ほんとうに人を生かす力が働くんですね。

 

  「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで」

殊にパウロはある意味、ガラテヤの信徒たちの霊の親、信仰の父でありましたから19節以降で、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言っています。

 

病に苦しみつつ愛を持ってキリストの福音を伝え、産みの苦しみを経て誕生したガラテヤの教会です。主イエスは彼らのうちに住まわれていました。

ところがキリストの救いのお姿、十字架のお姿が見当たらない。代わりに律法やまつりごとが重んじられています。

 

それでも、使徒パウロはあきらめません。

その方向性がはっきりしているからです。

「わたしの子供たちよ、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」

パウロは再び彼らの内に「キリストが形づくられ」る、その救いと恵みの回復を切に祈りながら訴えているのです。

 

最後に、今日のこの4章を読みながら思います事は、わたしたちもある意味このガラテヤの信徒たちのように、異教的な文化や慣習を背後にもちながら育つ中で、主イエスの福音と出会い主なる神に知られ、見出されて救われたものでありますが。まあ私たちそれぞれが主の御救いに与っていくまでには、その背後で、どれだけの信仰の諸先輩方また霊の親や家族、教会の兄弟姉妹の祈りと支えがあったことでしょう。また教会の寛容な受け入れとお許しの中で主イエスの十字架と復活の福音に育まれ救われてきたことを私自身忘れるわけにはいきません。
けれども、信仰の歩み、教会生活が長くなっていきますと、ややともしますと、ある意味律法主義的に何々しなければクリスチャンではないとか。あるいは、であらねばならないと。そういった縛りを自他共に課していたりしていないでしょうか。

これは祈祷会で出た話でしたが、ある教会でクリスチャンは兄の葬儀に出てはいけないと言われて、家族の葬儀には出れないのかと悩んだと言うお話を伺いちょっと驚きましたが。あるいは家に仏壇や神棚、位牌があるから撤去したり焼いてしまうことを強要していくような教会もあるようですが。こういった、「~あらねばならない」と言う杓子定規に凝り固まった教えがどれほど主イエスの恵みの福音、救いの良き知らせを曇らせているかと思います。

わたしたちは本当に救われているならどうしたら良いか直接神さまに、ご聖霊にご相談し、聖書から御言葉を聴き取って、信仰によって選びとって行けば良いのです。
決められたとおりのことに従うのではなく、主なる神さまと向き合い、一対一の対話をもって主に求めていくわたしたちの信仰を、主は知っていてくださり、最善をお導きくださるのです。
いずれにしろ、私たちも弱く、つまずきやすいものには変わりありません。であればこそのさらのこと、主イエス・キリストが私たちの内に形づくられ、キリストが活き活きと生きてくださる必要がございます。どんな時でも主イエスの十字架における贖いと復活の新しい命に満たされた私たち一人一人、この大阪教会でありたいと願います。

今週も、今日の福音の御言葉をもってそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

 

祈ります。

フィリピ3章9節b-11節 

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5月 アンゲロス(天使)のバラが開花

2019-05-16 11:12:17 | 教会案内

5月 アンゲロス(天使)のバラが開花

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天使のバラ(アンゲロス)開花!

2019-05-16 11:05:01 | 教会案内

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神の恵みの約束

2019-05-12 15:18:27 | メッセージ

礼拝宣教「神の恵みの約束」ガラテヤ3章1-14節、26-29節                              

 

先週は「神の恵みを捨てないで」と題して、御言葉を聞きました。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

私たちクリスチャンは、キリストによる救いを、信仰もって受け入れることで救われているのでありますが。それはただ神の御恵みであり、恩寵というほかありません。ところがガラテアの教会では、律法を守らなければ救われない、割礼を受けなければ神の民とされない、そういう教えが入り込んで信徒を惑わせました。

残念なことにそれが主イエスの救いの福音をむしばんで、キリストのからだなる教会の中で分断を引き起こしていたのです。そのようなガラテアの信徒たちに対して、パウロは「神の恵みである福音の真理」救いはただ主イエスの十字架の贖いによって成し遂げられているというその神の恵みを無駄にしてはいけない、キリストの死を無意味にしてはならない、捨ててはならないと強く訴えたのであります。

今日の3章も、クリスチャンの救いは信仰によるものであることを、信仰の父祖であるアブラハムのエピソードを交えながら、パウロはこんこんと説いているのでありますが。

まず冒頭で「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と厳しい言葉がありますけれども。

それは、ガラテヤの信徒たちに対して愛をもって日々祈りとりなすパウロであったからこそ、本来の救いの喜びに立ち返ってほしいとの願いがこのような強い語調になったのでありましょう。

まあ私たちは自分の気づかなかった過ち、問題点を人から指摘された時、大概素直にありがとうなどとは思えないことのほうが多いのではないでしょうか。自分を守ろうとして言い訳したくなったり、余計なお世話だほっといてほしい、と思うことも時にはあるかもしれません。要(よう)は忠告が人からのものであるか、神からのものであるかを聞き分ける耳なのかなぁと思います。ガラテアの教会の人々には、パウロのこういった主のもとにある愛と祈りから出た𠮟咤激励を真摯に受け止め、キリストによる救いの信仰を再確認し、危機を免れる道が備えられていたのであります。 

さて、パウロはここでガラテヤの信徒たちに「あなた方が“霊”を受けたのは律法を行ったからか、福音を聞いて信じたからか」と問いただします。

聖霊はキリストの教会に注がれ、主の御心を実現したもう神の力であって、同時に私たちの救いの証印としておいで下さるお方でありますが。

すでに読んでまいりましたように、私たちは律法の行いによるのではなく、主イエスとその贖いの御業によって聖霊を受けています。それは信仰による神の驚くばかりの御恵みであります。

パウロはその恵みの確認のために、ここで旧約聖書の、信仰の父祖であるアブラハムを例に出します。「アブラハムは神を信じた。それによって彼は義とみとめられた」(創世記15章6節)。こどもがいなかったアブラハムは、いつも「こどもを私たちに授けてください」と、妻のサラと一緒にお祈りをしました。しかし一向にこどもは生まれません。そのうち二人はだんだんと年寄りとなり、もうこどものことなどすっかりあきらめてしまっていました。ところがある夜、アブラハムがお祈りをしようと戸の外に出た時のこと、空には満天の星が間近に輝いていました。その星を見つめていたアブラハムに神さまはこうおっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみなさい。」

まぁこの大阪の街では、夜空を見上げても三つか四つ、多い日も30くらいしか星を見つけることが出来ませんが、空気の澄んだ日に高い山に登って満天の星空を仰ぎますと、とても数えられませんね。神の創造の御業に畏敬の念を覚えるものですが。

神さまは、アブラハムを祝福して「あなたの子孫はあの星のように多くなる」と言われたのです。

アブラハムはその時100歳近かったし、サラも90歳でした。アブラハムは神さまに「冗談でしょう。そんなことあり得ません」とは言わず、彼は神さまがいわれた約束の言葉を聞いて、そのまま「信じた」のです。神さまは、このアブラハムの信仰を喜ばれ祝福されました。「アブラハムは神を信じた。それによって主は彼を義とみとめられた」のです。

パウロは7節以降でこう述べます。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

血筋によるのではなく、能力によるのでもなく、ただ信仰によって、私たちはアブラハムの子、その祝福にあずかる神の民とされているんですね。ここにおられるみなさんお一人お一人が、信仰によってあの時アブラハムが見上げた星の輝きなんですね。すばらしい神さまの恵みにただ感謝でありますが。

まあ「アブラハムの子」と言えば、その血肉の子孫であるイスラエル、ユダヤの人たちだということが常識としてあったわけですけれども。彼らは神さまがアブラハムと結んだ契約によってその祝福の民のしるしとして割礼を受けていました。

前々回からありますように、ユダヤ人でクリスチャンとなった人たちの中には「クリスチャンであっても割礼を受けなければ神の祝福を受け継ぐことは出来ない」「律法も守らなければいけない」という人たちがいて、その人たちがガラテヤの信徒たちを混乱させていたのです。

クリスチャンとなったにしても律法を守り、割礼を受けなければアブラハムの子孫、神の民にはなれない、つまり神の前に義とされないという教えを説き、それを異邦人のクリスチャンに強要していたのですね。

ところがパウロ、元はユダヤ教徒であり、旧約聖書に精通している彼がここですごいことを述べるのです。

それは、もう旧約の時代から、神さまは「アブラハムの信仰」を通して、異邦人もアブラハムの子孫として祝福に入るようにとご計画しておられた、という驚くべき福音です。

8節、「聖書(これは旧約聖書のことですが)は、神が異邦人を『信仰によって義となさる』ことを見越して、あなたによって地上の氏族(異邦人)はすべて祝福に入るという福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」

それはまさに、「信仰による神の恵みの約束」であります。                                                                                                          主イエスの十字架を通して顕された「神の救い」は、その神の御業を信じるすべての人に与えられるものです。信仰によって、神さまは異邦人、すべての人、私たちに対しても恵みと祝福を与えると約束してくださっているのです。

その一方で、10節以降でパウロは次のように述べます。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。」

それは、申命記27:26引用して「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書かれてあるからだといいます。

11節、律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。(中略)そして13節(ここが肝心です!)「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

呪いという怖いことをパウロは述べますが。私たちが神さまをまだ知らないとき犯してしまった罪、神さまに対して背を向けて思うままにふるまった日々。また正しく生きてゆきたいと願いながらそうはいかない、なしえない自分の弱さや不甲斐なさ。そうして自分や人を裁いてしまい、益々神さまの愛から離れてしまって祝福を見失っている息苦しさ。裁きに対する恐れ。破滅をもたらすそのような呪い。

イエスさまは、律法がもたらした、私たちがそれをなしえないために生じる呪いから私たちを贖いだすために、私に代わって呪いの木、すなわち十字架に呪われたものとなっておかかりくださったのです。

冒頭、ガラテヤの信徒たちにパウロが、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と訴えたのは、パウロ自身かつて律法主義に陥り、呪いのもとにあったように、「ガラテヤの信徒たちよ、決して再びそうなってはならない」。そして「主イエスが律法によっては決して義とはされないようなそんな罪深いわたしたちの贖いのために十字架につけられたのだ。いまさら律法の行いによって救いを得ようなどとして、その神の私たちに対する憐れみである主の死をあなたたちは決して無駄にするな」、と訴えているんですね。

11節「正しいものは信仰によって生きる。」アーメン!であります。

信仰によるのですから、神の救いの恵みはユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の外国人)を分け隔てるものでは決してありません。もしこの福音、主の御救いが民族や国籍、人間的行為や業、能力や技量、地位や立場、性差などの違いによって得られないことになるのであれば、先週も触れましたがそれは神の恵みを捨てることになります。主イエスが十字架の死をもって私たちすべての人間の罪の贖いを成し遂げてくださった尊い恵みを台無しにしてしまうことになります。

信仰によって与えられる恵みは、神の御慈愛によるものです。

キリストの十字架にお架かりになったそのお姿に、神さまの義と愛とを思うとき、救いの確信とともに私たちの心は感謝と平安と喜びとに満たされていくのです。

26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とパウロは述べます。

「神の子」とは、アブラハムの子孫と同様、旧約聖書ではイスラエル(ユダヤ人)の特権的な呼称(呼び名)でした。

しかしパウロはここで異邦人もまた神の子とされている、それは27節「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と述べます。                                     着る物は私たちの生活には欠かせないものです。そのようにイエス・キリストを日常の中でまとって生きているのがクリスチャンなのであり、その救いの衣によってクリスチャンは神の子と呼ばれるのです。

28節「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とパウロは述べます。

イエス・キリストを主と信じる信仰によって神さまとの和解を経たクリスチャンは、神の子、信仰の父祖アブラハムの子孫として立てられていることを、今日の御言葉から再確認し、律法的裁きと呪いの捕われから、また神の恵みを無駄にする高慢から解放をいただきましょう。

アブラハムの祝福が主イエス・キリストにおいて異邦人である私たちにも及んだ、その「神の圧倒的御恵み」、神の賜物としての恩寵に感謝を新たにいたしましょう。                                                                           

すべての造られた者には、主を唯依り頼んで生きるところに救いと平安がある。この福音が用意され、届けられていることを覚え、共に喜びに与るために、それぞれの日常の場へと、ここから今週も遣わされてまいりましょう。

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天使のバラ(アンゲロス)開花!

2019-05-11 12:07:30 | 教会案内

1年に2度開花する「天使のバラ」が5月に開花しました。

小さなピンクの可愛らしいバラがいっぱい咲きます。

ぜひお立ち寄りください!

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)のおしらせ

2019-05-11 11:44:03 | 教会案内

5月12日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。


みなさま、お気軽にいらしてください!

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神の恵みを捨てないで

2019-05-05 17:54:40 | メッセージ

礼拝宣教 ガラテヤ2章11-21節 

 

本日はガラテヤの信徒への手紙2章11-21節より聖書のメッセージを聞いていきます。

ここには十字架の出来事の後、復活の主イエスと出会い使徒となったパウロと、イエスさまの12弟子のひとりであった使徒ペトロが出てまいります。

2人はそれぞれ、パウロには異邦人に対する福音が委ねられ、ペトロにはユダヤ人に対する福音が委ねられていました。

 

そのときエルサレムの教会では会議が開かれ、ユダヤ人が守り行ってきた神の民としてのしるしとも言える割礼について、「それを受けていているユダヤ人も、受けていない異邦人も、神の恵みは等しく注がれており、人を分け隔てするものではない」ということが決議されたのです。

この会議がなされず、異邦人に救いの条件として割礼が義務付けられていたならば、ここまで主の福音が異邦人の間に浸透することはなかっただろうというくらいの、それは大変な決議であったわけです。

 

ところが本日の11節以降にあるように、ある事件が起きました。

当時アンティオキアの教会は、異邦人に対する福音宣教の拠点となっていたのですが。そこをケファ、ペトロが訪問した時に、パウロがみんなの面前で、ペトロを激しく批判したのです。

それはペトロが、ずっと異邦人と一緒に食事をしていたのに、一部のユダヤ人のクリスチャンたちがエルサレムからやって来ると、その割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、割礼のない異邦人のクリスチャンたちから身を引こうとしたからでした。

このペトロの態度はパウロに大きな衝撃を与えました。

さらにパウロにとって衝撃だったのは、「他のユダヤ人たちも、ペトロと一緒にこのような心にもないことを行い、厚く信徒たちの信頼を受けていたバルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまった」ということです。

まさに、あのエルサレム教会で確認されたことは一体何だったのか、ということで、異邦人に懸命に福音を宣べ伝えてきたパウロには大変なショックだったんですね。

パウロはこのペトロの態度はじめ、それに追従する人たちに対して、「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」と見なし、皆の前で、自分のまあ言ってば信仰の大先輩であったペトロに向かって、「どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と批判したのです。

 

まあここにはそれが異邦人との食事の場で起こったということが記されているわけですが。当時のユダヤ教では、共同の食事には細かな規定がありました。

その規定の徹底により、ユダヤ人以外の異邦人は罪人とみなされ、ユダヤの律法主義に立つクリスチャンは異邦人との食事を避けていました。

そうして、ユダヤ人である徴としての割礼を受けることを、異邦人のクリスチャンに強要していたのです。いわばユダヤ人が重んじる割礼を受けなければ真の神の民にはなれないということですね。

 

パウロはペトロから生前のイエスさまが行われたさまざまなお話を聞かされていたことでしょう。その中には、徴税人や罪人とされていた人たちと一緒に食事をしたエピソードもあったのではないでしょうか。

ガラテヤの信徒たちにも、そのイエスさまの様子や教えがパウロを通して知らされてきたことでしょう。

ところがこともあろうに信仰の大先輩ペトロが、何とここで、イエスさまの行ったことと真逆にも思えることをした。

パウロは激しくペトロを非難するのですね。

それはまさに、「異邦人にももたらされた神の恵みを無駄」にする行為であり、「福音の真理」を歪めることでした。そしてその動きがガラテヤ教会にも浸透し分裂を引き起こしていくことに対して、パウロは強い危機感を覚えていたのです。

 

ここで思わされますことは、

わたしたちもさまざまな問題や事態に直面した時に、いったいどうしたらよいのかわからなくなることがあるわけですが。

そんなとき自分の感情や思いだけで行動してしまう前に、やはり今一度心を静めて聖書には何とあるか、イエス様はどうおっしゃるだろうかと、思いを馳せてみたいものです。

言うは易く行うは難しですが、御言葉は真理に歩む道を教えてくださいます。毎日の生活の中で御言葉に聞き従う命の道を歩む習慣を培いたいものですね。

 

ところで、わたしたち大阪教会では月に一度主の晩餐が行われます。

主イエスは十字架につかれる前夜、パンを取り感謝の祈りを捧げてそれを裂き「これはあなた方のための私の体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われ、また食事の後で杯もおなじようにして「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲むたびにわたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。それをマタイ福音書26章においてはさらに詳しく、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と記されているのでありますが。

 

これらは3つの福音書で主が命じられたものであり、コリントの信徒への手紙Ⅰでは

すでに、教会がイエスさまの十字架の贖いによる救いを確認するため守り続けるよう主の聖餐が制定されていたのです。

もちろん大阪教会でも、私たちの信仰の基盤となる、この「主イエスの十字架の贖いと御救い」を思い起こす大切な時間として、主の晩餐式を持っているわけですが。

 

現在の大阪教会ではオープンスタイルで、主イエスを主と信じる人すべてが招かれたものとして主の晩餐にあずかることができるようになっています。

教会によっては、教会員のみしか受けることのできないクローズの聖餐式のスタイルをとっている教派や教団もありますけれども。

大阪教会も以前は教会員限定のクローズの主の晩餐でしたが、現在は「主イエスの福音の招きに信仰をもって応える方々すべてに開かれている」という、私たちも又この信仰によってオープンスタイルを選択しています。

 

そのような主の晩餐式で、大阪教会が大事にしていることは、主の愛と恵みを受入れ、応えていく信仰です。

主の晩餐は単なる飲食ではなく、主イエスの愛と救いを心から感謝し、信仰を自己吟味する時なんですね。

 

また、わたしたちは礼拝後に愛さん昼食を毎週持っておりますが。

そこは新来会者をはじめ、求道中の方や客員の方々にも開かれた場として提供され、主にある豊かな出会いと交流の場となっています。

 

このように教会での飲食は、主イエス・キリストと私との一対一の関係を確認すると共に、同じく主イエスに救われた兄弟姉妹方とその恵みの奥深さを分かち合い、互いに覚え、祈りあってゆくような関係性を頂いていく場でもあるのですね。

自己完結型の独りよがりの解釈や、頭でっかちな具体性に欠けた信仰生活に陥らないためには、やはり主にある繋がりをもって生きる共同体としての関りが大事です。

弟子たちに向けたイエスさまのもっとも大切な教えの一つは、ヨハネによる福音書13章にありますように、「あなた方は互いに愛し合いなさい」です。

また「あなた方は互いに足を洗い合いなさい」ともおっしゃいました。

お互いの違いを尊重しあっていく。それぞれを大切な存在として励まし合い、また喜びを分かち合っていく存在とされていく。それは信仰の生活の具体的あらわれです。

 

わたしたち大阪教会は、ある意味今日の聖書にありますアンティオキア教会とも重なるように思えます。

色々な背景を持った人たち、また様々な国籍の人たちが行き交う街にあり、教会の利便性もあって実に様々な方々が礼拝へ出席されます。

ある教会員の方が、「大阪教会はアメリカ合衆国のような教会」とおっしゃったのですが。私もなるほどと思いました。

それはおそらく、アメリカ合衆国がさまざま地域、或いは国籍の人たちによってかたち作られ、それぞれの特色をもった州が合わさってアメリカという国があるように、わたしたちの大阪教会もまた、教会を担ってゆく使命を与えられた教会員と、そこにさまざまな背景をもたれたクリスチャンや求道者の方々が、主によって共に礼拝に与り、共に祈り、時に御心の実現のために一緒になって労してくださることによって、今の大阪教会が形作られているんですよね。

これは人の業ではなく、主が大阪教会をそのようにイエス・キリストの使命が果たされるべく、教会形成されているのだと思います。

 

この地上にあって信徒同志が様々な違いを尊び、共に祈り合い、とりなし合い、仕えあってゆく、そういう主の御心を守り行う共同体。様々な諸教会とも連帯しながら主イエスの福音宣教の働きに参与していくこと、これこそパウロが願い、何より主が御心となさっていることであります。

ガラテヤの教会がそうであったように、確かに人の集まりである教会には問題や課題はどこにだってあります。ない教会なんてありません。

人間同士だから合う合わないあるかもしれませんし、近しいだけに関係性の難しさを覚えることもあるでしょう。

 しかし、それでもなお聖書は教会と信徒の霊的交わりを、目に見える「主の霊的な家族」として重んじています

問題や課題を抱えながらも、裁いたり、無関心で終わるのではなく、なお主イエスにある愛と寛容、時に忍耐をもって主の福音に生きるところに、私たちの信仰の証や喜び、恵みも数えられないほど増し加えられていくのです。

信仰のチャレンジをわたしたちは絶えず受けつつ、世にあって主に仕えていくことによって、わたしたちの信仰の実りと喜びが満ち溢れるようになるのです。

復活された主イエスが天に上られるに際し、次のような使命を世の教会に託されました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28章18-20節)

わたしたちのバプテストの教会も、この主の権能を第一とした教会です。

教職者中心の人による組織でなく、どこまでも主の権能、主の御心を第一としていくことを大事にして主の栄光の現れを、共に主の食卓を囲みながら待ち望んでいきたいと願っております。

 

聖書に戻りますが。

16節で、パウロは述べます。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」

 

ここでパウロのいう「イエス・キリストへの信仰」とは、二つのことを意味します。

一つは「イエス・キリストの信実」です。信仰というピスティスは信実とも訳されます。

イエス・キリストの信実によって、わたしたちは義、ただしい者とされる、ということです。人の行いや業によるのではなく、イエス・キリストが罪深いわたしたちを愛し抜く信実によって、わたしたちを義としてくださる、いうことです。

二つ目は、「イエス・キリストへの信仰」であります。これはイエス・キリストの変わることのない信実に対するわたしたちの信仰:ピスティスを意味します。

 

そのことから、わたしたちもそうですね。自分の力や努力では到底救われないと思い至ったからこそ、又自分の罪深さを到底自分で清算することなどで出来はしない、と思い知ったからこそ、主イエス・キリストの変わることの信実の救いを、信仰もって受け、その信仰によって神の前に受け入れられているのですね。

 

パウロは続けて述べます。

「わたしは、神に対して生きるために、律法に対して律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのはわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」

 

この十字架につけられている、というもとのギリシャの言葉は「十字架につけられたまま」であるということです。

「わたしはキリストと共に十字架につけられたままです。」パウロはなんでそんな言い方をしたんでしょう。

パウロは、割礼を重要視し救いの必須条件とするガラテア教会の人々以上に、クリスチャンになる以前は最たる律法主義者であり、それを守り行う人こそ神に認められる者なのだと自負してキリスト教会とクリスチャンを迫害していました。

ところがそんな自分の行いが逆に、すべての人に開かれた神の救いキリストを迫害するものであり、もっといえば主イエスを十字架にはりつけにして殺害したのはそんな自分の高慢であり罪であったことを自覚するのですね。

 こうして律法に対して自分ではなしえなかった救いを、主イエスとの出会とその贖いの業によってパウロは受けたのでした。

このような神の一方的恵みとしての救い、その恩寵を決して忘れないようにと、自らの体験と重ね合わせて「わたしはキリストと共に十字架につけられたままです」と、パウロは表現したんですね。

 

わたしたちはどうでしょうか。

何かキリストの救いの恵みだけでは物足りなくなって、あるいはこころもとなくなって、

救いの条件をあれやこれやと、自分に、また兄弟姉妹や教会につけてしまうようなことはしていないでしょうか。

 賛美歌の中に「君の賜物と若い力を」という歌詞にありますように、「どんなよいわざも神の一人子イエスの十字架の死には及ばぬ」と、私たちはどこどこまでも、この主イエス・キリストによる愛と救いの贖いの死と復活とを感謝し、ただその御恵みに喜びの応答を表わしていくものでありたいと願うものです。

 

今日も主イエスはあふれるばかりの救いの恵みを、私たち一人一人にその愛をもってお与えくださっています。

この主イエス・キリストによって与えられている「神の恵みを捨てない」ように、という福音のメッセージをいただいて、今週もそれぞれの場へとここから遣わされてまいりましょう。

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