日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

クリスチャンホームの誕生

2009-11-29 05:46:05 | 教会案内
本日の宣教 使徒言行録16:11-15

①クリスチャンホームの誕生
このところで特に心に留まりますのは、救いがリディアだけでなく、彼女の家族一同も信じてバプテスマを受けたという点であります。使徒現行録には家族全員が主に立ち返り、主を信じてバプテスマを受けたという家族全員の救霊についての記事が、今日のこの個所を含め4か所もあります。10章~11章の百人隊長コルネリウスとその家族。16章25節以降の看守とその家族。18章8節にはユダヤ人の会堂長のクリスポとその家族です。使徒たちによって福音が伝えられ、その地において家の教会ができていくのでありますが、その核は家族単位であったのです。この家族は血縁の家族以外にも遠い親類縁者や雇い人まで含まれていたようです。
本日は「聖書教育」のカリキュラムに沿った聖書の個所でありますが、リィデアとその家族が主を信じてバプテスマを受ける記事が与えられ、T・Uさん、T・Yさん親子の信仰告白とバプテスマの日が見事に重なりました。これもご聖霊の導きであると知らされます。今日の時代においても、家族伝道、クリスチャンホームの誕生は教会の使命であり、原動力ともなっていくものであります。1人の救いが家族の救いとなり、クリスチャンホームの祝福が親族・知人・友人の祝福と広がっていきますように祈ります。

②家庭の開放
このリディアがフィリピの開拓伝道の核となった人物として召しだされた点について、なるほどと思えるところが今日の個所から読み取れますね。それは15節、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊りください」と言って、パウロら一行を招待し、無理に承知させたというところです。えらい強引だなと思いますが。それほど彼女は主のために自分の家を開放することに喜びを感じたのです。神はリディアの心を開かれましたが。彼女はその開かれた心で家庭をオープンにしたのです。家を主の為に開放し、ささげ、働きのために用いられることに、さらなる喜びを見出したのです。ここにフィリピの教会の前身がありました。
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リフレッシュデー

2009-11-24 16:32:33 | イベント
22日礼拝後、愛さん昼食を済ませると午後2時、総勢20人余りが乗り込んだマイクロバスが一路和歌山の南紀白浜へ向かった。天王寺から目的地の国民宿舎迄150キロ。途中小雨程度で、高速は工事渋滞があったものの、車中ワイワイガヤガヤにぎやかなバスはまるで楽しそうに揺れながら、午後5時前に現地到着。
 これまでのリフレッシュデーはずっと大阪の近場でボーリング大会、バーベキューなど日帰りで行ってきた。しかし、今年は大型免許を持っているTさんが運転をかって出てくれたことで、このような遠距離の旅行が可能となった。一泊二日互いに親交を深め合い、ゆったり温泉につかり、美味しいお魚を頂き、大阪では見ることのできない深い緑色をした白良浜の海まで足を運び、心身共にリフレッシュすることができた。何より、23日見事なお天気を与えてくださった神さまに感謝したい。

早い話であるが、大阪天王寺から半径150キロ以内をコンパスで丸く円を描くと、四国、京丹後、名古屋までその行き先可能となる射程圏内は広がる。
来年は大阪教会が宣教開始してから60年となる。さて、来年はどこに行こうか。ほんとうに楽しみ、、。(T・S)
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主人公はイエスさま

2009-11-22 07:51:45 | メッセージ
使徒言行録15章1~21節より

聖書教育では本日の聖書の個所から「話し合いをあきらめない教会」というテーマがつけられています。確かにそれは大事なことであります。が、ただがむしゃらに話し合いを続ければ結論が出る、というものではないでしょう。聖書はむなしい議論を避けなさいとアドバイスされていますが、人の考えは様々ですし、立場によって違いが生じてしまいます。
そこで、教会が大切にしなければならないことは何か。それを今日の個所は私たちに示しています。それは、そこに集まった使徒や長老、パウロ、バルナバらが、「自分たちの思いによるのではなく神さまのみ心が何であるのか。どこにあるのか」ということを最優先されるべきこととして、求め、確認したそのことであります。
それを使徒ペトロの言葉から聞くことができます。8節「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。」9節「また、(神は)彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らの間に何の差別もなさいませんでした。」11節「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、それは彼ら異邦人も同じことです。」
如何でしょうか。つまりペトロの語るそのどれも、「神」がどこまでも主語であり、主イエスの救いに帰結しています。このことが、エルサレム教会会議において最も大切にされるべきこととして確認されたのです。彼らがなしたことは、「主はこうなさった」「神はこのように導いておられる」という出来事に目を向け、証しすることでした。
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目から鱗(うろこ)

2009-11-15 07:15:40 | メッセージ
 使徒言行録9章18節

先日、使徒言行録9章18節に「目から鱗」ということわざ同然に用いられている聖句を改めて目にした。「うろこ」のところが漢字ではなく「ひらがな」をつかっている。うろこは魚偏で鱗と普通書く。一体魚偏には何種類あるのか調べてみた。なんと189文字あることを知った。まさに、目から鱗であった。アナニアは主の厳命に従ってサウロに「兄弟サウロよ、」と呼びかけたとき、サウロの目から鱗のようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった、と記している。使徒言行録は新約聖書中重要な書物であることを知るに及んで、今回も何枚かの「鱗」のようなものが目から落ちる思いがする。そこには教会の初期の歴史が記されていて、重要な出来事の瞬間をのぞき見る一連の窓を開けてくれている。
復活のキリストの命令は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てまで、キリストの証人となる(1:8)目標が設定されている。当時の教会に迫害の脅威がふりかかっていた中で、キリスト教が政治的に危険なものではなく、道徳的にも非難されるところがない、と証明しているところが随所に見られる。この働きに関わった使徒および120人の普通の人々が出て行って、世界を回心させるように命じられた(1:15)。この使徒言行録は、復活のキリストの権威と力との働きの歴史であり、その業が「聖霊」の導きによって21世紀の現代も継続していることを告げている。「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。」(14:3) (M.Y.)
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不思議な出会いと救いⅡ

2009-11-08 07:31:30 | メッセージ
聖書 使徒言行録9章1節~22節より (抜粋)

 先週は、松井選手の大活躍でニューヨークヤンキースが大リーグ優勝へ導かれ、ご自身もMVP最優秀選手に選ばれるという大きなニュースがあり、とてもうれしくされました。今シーズンも当初から故障の影響で活躍もできず、移籍話なども出され、本当に苦しい日々が続いてきたようですが。先日優勝した時の「どんな時も野球がしたい、つらい時はなかった」というその言葉に、野球に対する松井選手の思いを改めて知らされました。
 
 本日は熱心なユダヤ教徒であったサウロが、復活の主、メシヤなるイエス・キリストに出会って救われてから180度方向転換がなされ、イエス・キリストの福音を伝える使者となっていくのであります。それは喜びと共に苦難の始まりでもありました。使徒となったパウロはクリスチャンたちから不信を持たれ、ユダヤ教徒たちからは裏切り者だと恨みや憎しみを買いました。彼の伝道者としての生涯は、ユダヤ人から39の鞭を受けたことが5度。ローマの残虐な鞭が3度。石で打たれたのが1度。難船したことが3度。川の難、盗賊の難、同族から受ける難、都会の難、荒野の難、偽兄弟の難、飢え、渇き、寒さに凍え、裸でいた経験。そんな生涯でした。しかしそのような苦難の中で、Ⅱコリント4:8「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらない、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」と言い、生涯をかけてキリストの福音を伝える働きを全うしました。心身共に疲れ果て、生傷の絶えないような中においても、Ⅰテサロニケ5:16「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と勧めをなした使徒パウロ。松井選手ではありませんが、どんな時でも福音を伝えたい。何があっても福音を伝えずにはいられない。なぜなら「自分はキリスト・イエスに捕えられているからです」。フィリピ3:12の彼の言葉ですが、今日そんなパウロのスピリットとその原点を聖書から受けていきたいと願っております。
 Ⅱコリント9:23「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」。
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不思議な出会いと救い

2009-11-01 07:43:13 | メッセージ
使徒言行録8章26節~40節(抜粋)

エチオピアの宦官はイザヤ書53章に記された「神のしもべ」とは誰のことなのか心に引っかかっていました。その5節「彼が、、、いやされた」これはどういうことだろう。12節「多くの人の過ちを担い、、、この人であった」この人とはだれなのだろう、、、、と。
その彼のもとへ主の天使に命じられたフィリポが遣わされます。そして宦官がまさに53章の「神のしもべ」について思いめぐらしたその絶妙のタイミングで、主の霊はフィリポに行けと命じられるのです。不思議ですよね。彼はギリシャ語を話すユダヤ人クリスチャンでしたから、宦官のギリシャ語でのイザヤ書の朗読の声がよくわかりました。
そこで、宦官はフィリポの口をとおして、イザヤ書53章の「神のしもべ」がイエス・キリストであり、この方の十字架の苦難とその死によって、私たちの罪、過ちは償われたのだ、この方こそメシヤであるとの福音を聞くのであります。
ローマ書10章にこういう言葉があります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」と記されているとおりです。(10:13-15)。この「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」という一節は「神のしもべ」について記されているイザヤ書53章の前の52章7節からの言葉なのです。宦官がそこを読んでいた時、丁度ご聖霊、神の霊によってフィリポが行けと命じられ走り寄っていった時だと思いますと何だかワクワクしますが。そのように、私たち人の目には偶然にと思えることも、主のお取り計らいがあってなされているみ業であるということを知らされます。

みなさんも初めてキリスト教会の礼拝に出席するようになられた時は、イエス・キリストとはどういうお方なのか。罪とは何か。救いとは何か。などの疑問を抱かれたことと思います。そこで、私は聖書を読んだらよく分かったとか。聖書についての注解書や本を読んだら分かったといった人は多くはいらっしゃらないのではないでしょうか。又、クリスチャンとしての歩みの中でも分からないことや一人では聖書がどうしても読めないということがあります。実際、聖書は一人だけで読んで理解できるものではありません。どんな立派なテキストを使っても必ず行き詰まってしまいます。なぜならみ言葉・神の言葉は生きており私たちの命の営みの中で力を現わすものだからです。聖書は主にある兄弟姉妹との交わりの中で読まれ、それぞれに与えられた証を通して、分かち合われていく中で、その理解が豊かにされ、生活の中に生きていきます。受肉してくるのです。それは頭だけの理解、解説に終わるのではなく、主が私にどのように働かれたか、み言葉が私の生活に何をもたらしたか、ということが隣人との出会いや関わりの中で読まれ、分かち合われることが大切なのであります。聖書の歴史や背景、又原語の注解や文章の解釈は深く読む上でもちろん必要ではありますが。大切なのは聖書の言葉が私たちの生き方、又日常において支えとなり、力となり、祝福となっていくことです。教会の交わりはそのお一人お一人の証が分かち合われていくところにその素晴らしさがあると思います。
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