歳晩礼拝宣教 イザヤ61章1-3節,9-11節
「主の恵みを数え」
本日は2023年12月31日と1年最後の日が主の日と重なり、正に歳晩主日の礼拝を捧げております。この1年間主の御前に生きる私たちの歩みがありました。
教会は、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」との聖句を掲げてきました。今、与えられている恵みを感謝できる信仰。それは言うまでもなくキリストのあがないと御言葉の確かさへの確信。それは日々の祈りとその確認によりもたらされるものです。
この事を基盤に今年は、「今、キリストと共にどう生きるか」を問いかけてきました。
4月のイースターと12月のクリスマスには信仰告白をされ、バプテスマを受けられ方もおられました。そこで共に主の救いのみ業をたたえ、自らの救いの原点を思い起こして心正されつつ喜びを共にすることができました。さらに、ブラジルの方が主イエスを救い主として信じ、バプテスマを受ける信仰決心をもたれました。
又、12月24日にクリスマス礼拝とキャンドルライトサービスと一日中クリスマスの恵みを覚える幸いな日となりました。キャンドルサービスは青年たちが進行役の準備をし、祈りをもって当日の司会、奏楽、朗読、奉献、点火の奉仕を担ってくださいました。又、コロナ下にずっとできなかったクリスマスの祝会が久しぶりに行われ、会食・特別演奏、ゲーム等、主にある楽しい時を過ごすことができました。
教会員の中には現在様々な事情で長い間この所に集う事ができない方々もおられます。又、コロナ以降疎遠になっておられる方々もおられます。そのような方々にとってもいつか帰る場所があるということは教会の役割と言えるでしょう。
主が建てられた教会を通して福音が伝えられ、救いが起こされ、救いを確認し、祈り合い、主の恵みが分かち合われていきますよう祈り続けてまいりましょう。
ところで、みなさまそれぞれも今年の初めに願った事や実現できた事がおありでしょうか。あるとすればそれは幸いなことでありましょう。
一方で、生きる限り人生に悩みは尽きません。けれど私たちは、すべてを御手におさめ、愛をもって導き続けて下さるお方がおられることを知っているか、いないかでは大きく人生が変わってきます。
「まことの幸いと希望」
今日はイザヤ書61章より、「まことの幸いと希望」と題し、苦難と忍耐の時代を生きた民の歩みと預言者をとおして語られた御言葉から聞いていきます。
まずこの箇所は、いわゆる第三イザヤと言われる預言者が語ったメッセージです。
それは、バビロニアの捕囚から解放されたユダの人々に向けられたものでありました。
半世紀以上異国の地で捕囚とされた彼らは、エルサレムへの帰還が許されます。
しかし彼らが期待した復興は困難を極めました。当初は神殿の再建という喜ぶべき事業に希望をもって取りかかりますが、それは大変厳しいものでした。
彼らはバビロンに連れていかれずにエルサレムに残っていた人々と対立したり、エルサレムを支配していたサマリア人たちの妨害にも遭います。実現にはほど遠い状況が長引くにつれ期待や情熱も薄れ、失望の中におかれていたのです。
預言者はその彼らに向け、希望の言葉を語るべく神に遣わされるのです。
預言者は1節にあるように、「貧しい人に良い知らせを伝えるために」主が遣わされたのだと語ります。
この貧しさは単なる経済的な貧しさというより、社会的に抑圧され苦しみ、又そこで起こってくる魂の飢え渇きという、全人的な貧しさを表します。
エルサレムに帰還したユダの人々はまさにそのような状態でした。その魂が霊的に貧しい状態であったのです。現実の状況に翻弄され、疲れ果て、御言葉への信頼さえも喪失してしまいそうな日々を送っていたのです。
しかし、主はそういう霊的に貧しい人々に対して、油注がれ、主なる神の霊が臨んだ「神の人」を遣わして、「良い知らせ」:口語訳では「福音」を語られるのです。
その福音とは、主が「打ち砕かれた心を包み」「捕われた人には自由を」「つながれている人には解放を告知される」。この良き知らせであります。
さらに詳しく2-3節で、「主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」、神の人は遣わされるのです。
ここには主が、敗北といえる状況を勝利へと逆転させてくださるその恵みの御業が示されています。この「主が恵みをお与えになる時とは、当面はエルサレムの神殿の再建と神への信仰回復の時を指したものと考えられます。
その神殿再建と信仰復興への道のりについては、当時祭司であったエズラが書き残したエズラ記や総督であったネヘミヤの回顧録であったネヘミヤ記にも記載されておりまう。
神殿再建が遂に果たされていく時には、律法の朗読と神への賛美と喜びの祝いがもたれていくのです。
「主が嘆いている人々を慰め、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる」と語られた御言葉がこうして実現するのです。
しかしこの知らせは、後世においてはユダの民だけではなく諸国に知れ渡ることになるのです。
9節にあるように、「彼らの一族は国々に知られ、子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人々はすべて認めるであろう。これこそ、主の祝福を受けた一族である、と」。
それは実に、主なる神さまがすべての民、全世界の人に自らの栄光を顕される時であり、主の救いのみ業が御独り子、インマヌエルの主、イエス・キリストを通して全世界に告げ広められることとなってゆくのです。
本日の箇所の1節は、イエスさまが会堂で教えておられた時に読まれた箇所です。
ルカ福音書4章のところにありますが。イエスさまはこの時渡されたイザヤ書から「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わしたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められたのです。
エルサレムから離れたガリラヤの地、ユダヤの人から見れば異教の地に等しいとされるようなそのところには、イザヤの時代同様、抑圧されて痛みと苦しみにあえぐ人たちがおり、自分たちを解放し、救い出してくださるメシア、救い主を切に待ち望んでいたのです。
先週はクリスマスを祝いました。神の御独り子のイエスさまがすべての人、全世界の救い主としてお生まれ下さった。私たちのところにまで来てくださった。その大いなる神の恵みを喜び祝いました。
この福音、よき知らせはイエス・キリストの御降誕から始まり、主イエスの地上における福音宣教、それに伴ういやしと解放の業を通して告げ広められました。
そして遂には、主イエスご自身の計り知れない愛によって十字架の苦難と死によるあがないが遂げられます。
そしてさらには、死より復活されるという完全なる勝利をもってこの「良い知らせ」、神の救いが、ユダヤから全世界の人々に知らされ、島々にまで、今日の私どものところにまでも至っているのであります。
それまであざける国や勢力のもとにあった人たちまでもが、イエス・キリストを世界の主と認め、主の御救いを受け取って、真の神さまに立ち返り、救いと解放の恵みに与って生きる人たちが起こされていくのです。
本日の第三イザヤの預言で語られている御言葉は、こうして今日も日々確かに実現されているのです。
10節にはこう記されています。「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる」。
今や、人となりし神の言、イエス・キリストにより、主に依り頼む私たちのまさに福音であるのです。ここに私たちの「まことに幸いな希望」がございます。このまことの幸いと希望は主御自身にあります。
私たちがこの主に依り頼み、御心を求めて行くとき、私たちの歩みは確かに御言葉によって確かなる幸いと喜びで満たされていくでしょう。
今日は今年最後の歳晩主日礼拝となりました。今年一年の主の恵みを数え、感謝をもって新しい年の歩みのために祈り、備えてまいりましょう。