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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主にある兄弟

2018-08-26 16:58:41 | 教会案内

礼拝宣教 創世記25章1-11節 平和月間

                     

7月末の台風12号が関西地方を直撃してから約1か月。すでに8つの台風が起こり、今回の20号は先週末、四国・関西地方を横断しました。私ども家族は帰阪を一日早め23日木曜朝に無事帰って来ることができました。19号と2つの台風に挟まれながらも筑紫野南教会の礼拝奉仕、久山療育園のワークキャンプと守られ祝されたことを心より感謝します。又、大阪教会の礼拝が滞りなく守られましたことも感謝であります。

 

この8月は特に平和月間の礼拝として、神がお造りになられた被造世界、いのちと平和の尊さをおぼえ主に祈りつつこれまで主に祈りつつ過してまいりました。

創世記で、神さまはお造りになられたものすべてをご覧になって「見よ、すべては極めて良かった」とおっしゃったとあります。

しかし、人の世に罪が生じてから現在に至るまで争いが絶えません。又、経済力をもった裕福な国や指導者があらゆる世界の資源を独占し、格差がますます広がっています。さらに経済至上主義のもとで地球環境の崩壊、地球温暖化、海水温上昇が生じ、これまでにないような様々な異常気象を引き起こしています。集中豪雨や大型台風が次々と世界中に巻き起こり、一方で高温、乾燥地では大規模な山火事も起っており、世界各地において甚大な被害が及んでいるのです。

このような世界がうめき、痛み、悲鳴をあげるこの事態。それに対して、聖書のローマの信徒への手紙8章にあるとおり「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」「被造物は、神のきつつ、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます」と伝えています。今一度、私たち人間は、その被造世界を守り、治める責任が天地万物の主より託されているということを思い起こし、すべての造り主なる神、いのちの源であられる神を畏れ、神に立ち返って生きることが求められています。

 

さて、本日は創世記25章より「主にある兄弟」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

一族の長として信仰に生きたアブラハムは175年の生涯を終えました。

かつてアブラハムは神から「あなたの生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(創12:1-2)と召命を受け、主の言葉に従い、行き先も知らないまま旅立ち、約束の地カナンに入るのです。

主はかつてアブラハムに臨まれこのようにもお語りになりました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。この主のお言葉に対して、「アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義とお認めになった」と創世記15章に記されています。このようにアブラハムは神の祝福を受けるのであります。

その一方で、その一族、家族の中には不和や争いの種が尽きなかったのです。

これまでも読みましたが、妻であるサラは高齢で子がなく将来の先行きの見えない中で、アブラハムに「女奴隷ハガルのところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」と頼み、アブラハムはサラの願いを聞き入れて、ハガルはイシュマエルをみごもるのでありますが。しかしハガルは自分がみごもったのを知ると、女主人サラを軽んじるようになります。サラはそのハガルを憎むようになり、アブラハムに訴えるとアブラハムは、「あなたの女奴隷はあなたのものだから好きにするがいい」と許可を経て、サラはハガルにつらくあたり、身重のハガルは荒れ野へと逃げていきます。

しかし主はそんなハガルを顧みて、アブラハムのもとに帰るように促され、彼女はアブラハムのもとでその子イシュマエルを出産するのです。

その後、サラはアブラハムの子イサクが与えられ、イサクは神の約束の子でありますから当然アブラハムの跡継ぎとして扱われる中、イシュマエルとその母ハガルの立場は大変難しいものになります。そしてとうとうサラとのいざこざによって、イシュマエルとハガルの母子はアブラハムのもとから、険しい荒れ野へ再び追い出されてしまうことになります。

まあ、このように神の祝福と約束のうちにあっても、人の生活はすべて順調に行くわけではなく、むしろ叫ぶように祈るほかない状況も起って来るわけです。しかしそれは、神の憐れみと慈しみが顕わされされるためであります。炎天下で水もつき、もはや死を待つほかないハガルとイシュマエル。

その母子が大声で共に泣いていた時、神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて、「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と約束されるのですね。(創21:17-18

するとハガルの目が開け、井戸を見つけ、水を得て、彼らは生きる力を取りもどし、その信仰の井戸によってイシュマエルに対する約束は実現されていくのであります。

 

さて、本日の箇所に戻りますが。

アブラハムはそういう出来事の後、妻サラは死に、つらい別れを経験します。そうした後には、後妻にケトラをアブラハムは迎えるのですね。まあそれはありうるでしょうが。驚きは何とそのケトラとの間に6人の子が生まれたというのです。

跡継ぎのイサクが生まれたときアブラハムは100歳で、サラが亡くなったのは137歳の時でしたから、それ以後から175歳迄の間に6人の子が生まれるとなると、ちょっと想像を超えますが。

ただ間違いなく、跡継ぎや相続の問題で悩むことになったことでしょう。結局アブラハムは跡継ぎのイサクのもとに他の子どもたちをおくと、争いやねたみが生じるという考えから、その6人の子らに贈り物を与えて、東方の地に移住させるのです。

このように聖書は、人間の確執や跡継ぎ、相続権をめぐるなんともこてこての事態について包み隠さず露わに記しているのですね。

神の祝福に生かされている者であっても、いやむしろそうであるからこそ、悩みや苦しみの中で祈り、苦闘し、神に信頼し、従って生きる道があり、その中にあってもがきながら模索していく、それが信仰者の姿であります。

 

さて、聖書はそのように信仰の父祖としての生涯を全うしたアブラハムが死んだ時、9節「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」と伝えます。

疑問に思いますのは、どうしてイシュマエルは父アブラハムの死を知ったのでしょう?人々を介して知ったのでしょうか?異母兄弟であったイサクの何らかの働きかけによってその訃報を知ることになったのか?それはわかりません。

 

ただ確かなのはその葬りの場であるマクペラの洞窟の前で、二人の息子が並んで父アブラハムを葬ったという事実です。

イサクにしてみればイシュマエルと再会することは恐れと不安もあったのではないでしょうか。

イシュマエルにとっても、イサクに会うことでかつて自分が受けた苦しみがフラッシュバックするという恐れもあったのではないでしょうか。

又、父アブラハムが埋葬される洞穴は、かつて母ハガルと自分を荒れ野へ追い出したサラが死後先に埋葬されていた洞穴でした。

そこへ向かうことはイシュマエルの感情として大変複雑な思いがあったのではと想像します。が、しかしイシュマエルは父アブラハムの埋葬のために、サラが先に埋葬された洞穴に向かい、イサクと並んで父アブラハムを葬るのであります。

このアブラハムの二人の子、イサクとイシュマエルの心の内は知りようもありません。ただ、これまでずっと読んできましたように、アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、そしてイサクの背後にあって、主がいろんなかたちで、そのすべてを守り、導いておられたということは確かなのです。

 

アブラハムやサラが人間的な思いによって、跡継ぎ、相続について、子孫のことについて解決の手立てを講じてきました。そこでは、人と人の思いのすれ違い、対立のようなことが引き起こされてきました。しかし、神さまは、その度にアブラハムの想いを超えた業を起こし、よき方向へと導いてくださっていたのです。

箴言19章21節に「人の心には多くの計らいがある。しかしただ主の御旨のみが実現する」とあるとおりです。

 

イサクはアブラハムの祝福を受け継ぎます。一方のイシュマルも「大きな国民とする」との主のみ約束は着実にその実現へと向かっていきます。その証しが、12節以降に記されているイシュマエルの系図です。それは又、後妻ケトラの6人の子孫をも東方の国民とし主は繁栄をお与えになるのですね。

祝福の源アブラハムの子らは、それぞれの地にあって、文化や慣習、民族性や国民性をもって生きることになるわけですが、もとはアブラハムの子、主の祝福の源から始まったということであります。

 

そして、今日の箇所の最大の主のみ業は、あらゆる人間の確執や思いを超えて、そのアブラハムの子らが並んで父アブラハムを葬ったということです。イサクもイシュマエルも「主にある兄弟」。これこそが主のお計らいなのです。

 

イザヤ書5589節にこういう御言葉がございます。私が大阪教会へ導かれた時の聖句でもありますが。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

 

まあ人間的に見たアブラハムやサラ、ハガルもいろいろな長所もあり短所も、それは人間ですから当然持っていたし、生身の人間として苦悩し、間違いも犯し得る弱さも抱えていたといえます。

しかし、それでもアブラハムはそのあるがまま主とそのみ約束に信頼し続けて生き抜いた生涯であった。

その信仰をして、主はアブラハムの想いを超えて、その御業を示し、ゆたかにお導きになられたのだと私は信じます。

私どもにとりまして、その主のみ約束の基はいうまでもなく、救い主イエス、このお方にございます。何をもってしても、このお方と救いのみ約束に信頼する人生を歩み通したいと願うものです。

 

最後に、平和を願う8月、異なる道を歩んだイサクとイシュマエルが、天寿を全うした父アブラハムのもとで、再会し、共父を埋葬したという場面を黙想する中で、バプテスト誌8月号の今月のことば・Messageに日本キリスト教協議会総幹事である金性済(キム ソンジェ)師が寄せられたその思いを、ご紹介したいと思います。

 

金さんは、日本国憲法への片思い、という段落で、『在日コリアンは458月まで大日本帝国臣民として日本に暮らしていましたが、日本の敗戦後は祖国に帰還する道を失った在日コリアンや台湾人は、新しく制定された日本国憲法の基本的人権の対象はすべて「国民」という枠づけがされたため、在日コリアンは「国民」の枠から、排除されたということです。

当初GHQのマッカーサー憲法草案が、日本政府に手渡された際、「人民(people)の権利と義務」と訳され、その草案13条には「自然人の法の前での平等」、16条では「外国人は法の平等な保護を受ける」と謳われていた。ところがその後日本政府からGHQに返された改訂版では、peopleがすべて「国民」と訳し変えられた。

194753日に日本国憲法が施行される前日、昭和天皇が天皇の最後の勅令として「外国人登録令」が発令され、それによって在日コリアンや台湾人は、日本国籍を保有したまま「外国人」とみなされることになる。』

金さんはここに、『基本的人権の普遍性と「国民」の排他性の矛盾の問題を、日本国憲法は抱えるようになった』といいます。

金さんはさらに「憲法9条との再会」との段落でこう記します。『日本国民でもなく、選挙権もない私が、日本国憲法の改憲に反対する人々とともに、戦争の永久放棄、戦力の交戦権を否定する憲法9条を守る運動に加わっていることに私ははじめ不思議さを感じました。しかしながら、憲法9条を守るたたかいの隊列に並ぶ中で、憲法9条の理念には、単に国家間の問題にとどまらず、人間の内面にある「我と汝」の問題にまで深く問いかける問いを秘めている。自分の心に潜んでいながら、気づくことができなかった差別という心の武装に気づかされ、それを打ち砕かれて、遂に武装解除に至る道筋を暗示している。国民という枠の中に憲法の人権条項は閉じ込められることはあっても、恐れと敵意を友愛と歓待の関係に変革することを願う憲法9条は、他者「かれら」を排除しては成立しないのです。』

 

日本国憲法は素晴らしい、守るべき日本の宝、世界の宝だと思いっていた者にとっては、それが唯日本人の側から見た権利主張であるということを知らされた思いです。基本的人権条項の対象から除外されている存在がある。日本が犯した戦争に翻弄された人々、戦後もその子孫たちまでも、日本に住みながら「国民」という枠から除外され、基本的な人権を保障されないまま今も翻弄され続けています。

これはまさに日本人の私たちの側からは見落としていた視点であります。その排他性と違和感について私も知らされた者として、ほんとうに地道ではありますが、外国人住民基本法制定を求める国会請願書への署名へのご理解とご協力を毎年この大阪教会のみなさんにも祈りつつ、呼びかけているわけです。

 

今日のところで、アブラハムの子である、イサク、イシュマエル、そしてケトラの6人の子どもたちのおかれた場所はそれぞれ異なるわけですけれども。それぞれの祝福の源は父アブラハムであり、その祝福をお与えになったのは、天地創造の父なる神であられます。

アブラハムの子、主にある兄弟として世界中にその子孫は拡がり、ひとり一人が主にあって大切な愛されるべき存在として生かされている、ということを今日のところから心に留め、身近なところから平和を造り出す私たちでありたいと願うものです。

今日もここから遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝:主の食卓を囲んで ご案内

2018-08-24 11:10:29 | 教会案内

8月26日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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巻頭言

2018-08-13 08:52:55 | 巻頭言

本日の宣教から 「平和があるように」マタイ福音書10章5-10節

弟子たちは、初めての町や村に入ってふさわしい人を探し出し、立ち去るまでその人のところに留まっていなければならないのです。ふさわしい人というのは、神様をおそれる人のことでしょう。時の流れに身を委ねたり、悪に妥協したりしない人が必ずいるはずです。そういう人を探し出しなさいと言われているのです。弟子たちが初めて足を踏み入れる新しい町や村、そこに知人がいるはずがありません。しかし、弟子たちの語るところに耳を傾ける人が必ずいるはずです。それが「ふさわしい家」なのです。

「その家に入ったなら、まず、平和があるように祈ってあげなさい」。堅苦しくない言葉で。そこから、会話が始まり、信仰の話へと進展してゆくのです。弟子たちはキリストに命じられて宣教に赴きますが、行く先々で、挨拶することから始めなければなりませんでした。イエス様は、あなたの家に平和がありますように、と祈ることから始めるようにと言われたのです。

 「平和があるように」とは、ユダヤ人の日常的な挨拶の言葉です。出会った時も別れる時も、一言、「シャローム!」と言lいます。この「シャローム」は、ヘブライ語で、おはよう、こんにちは、こんばんは、といった挨拶のすべてに使われており、旧約聖書に200回以上も出てきます。

 聖書にとって「平和を造り出す者」とは、平等より、より自由な。公平よりも、惜しみなく与え合う。喜び踊るような相互の関係を構築しようとする者のことです。神様の平和が臨む時、私たちの自己中心的な物差しを手放さない頑なさ、高ぶりは暴露され、砕かれるのです。それは不自由さから真の自由へと招く神様の愛ある行為なのです。神様の平和は、激しい葛藤、衝突、相互対話の中で構築されていくのです。(K神学生)

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夕べの礼拝「主の食卓を囲んで」のご案内

2018-08-11 12:49:46 | 教会案内

夏休みもお盆も関係なくやっていますよ。

8月12日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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「おいでや」こども食堂(第6回)ご案内

2018-08-07 07:45:30 | イベント

9月12日(水)午後4時~7時

親もこどもも赤ちゃんも

中・高校生も みなおいでや

教会の2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:水餃子(台湾秘伝)

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円

みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパもおいでや。

ボランティアさん、ほぼ10人でまっています。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフがおります)

場所 日本バプテスト大阪教会 (検索)

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神は子供の泣き声を聞かれ

2018-08-05 18:21:01 | メッセージ

礼拝宣教 創世記21章9-21節 平和

                     

今月8月は平和月間としておぼえて、祈り、あゆんでいく月です。6日広島、9日長崎への原子爆弾投下、15日敗戦記念日から73年目を迎えます。核兵器全廃へ国連が舵を切った中、唯一の被爆国の私たちの日本政府はそれを否決し、大変残念な思いを多くの人たちが致しました。原子爆弾によって苦しんでいる被爆者の方々の思いは今も踏みにじられています。9日長崎の平和式典に国連事務総長が初めて参加されるようですが。祈りつつ見守りたいと思います。

私たちの国が戦争への道を二度とたどることのないように、今後の動きに注視しながら、祈りにおぼえていきたいと願うものです。

先日7月24日、連盟の問題特別委員会のフィールドワークが奈良県の水平社博物館で行われ、参加しました。

「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる宣言は日本で最初の人権宣言、又被差別マイノリティーが発信した世界で初めての人権宣言とされています。

その記念碑には真っ黒な背景に真っ赤な荊冠:いばらのかんむりが刻まれていました。黒はこの世の闇であり、そこにキリストが十字架に磔にされた折に頭に被された荊の冠を描くことで、「殉教者」の覚悟をもって解放を求め差別と闘う決意を表わしたそうです。実はこれを考案された方は仏教関係者だそうですが、宗教の枠を超えたメッセージをキリストのお姿に見出されたのでしょうか。

もう一つ興味深かったのは、被差別マイノリティーの平等や解放を訴えてきた運動の16回大会において、戦時下に入り初めて日の丸が講壇の中央に掲げられ、「挙国一致」(天皇制)を合い言葉とする戦争協力を全面に打ち出したということです。あえてそうしたのは、一丸となって国に協力することを通して差別がなくなる社会になると考えたからです。けれど結果的に戦争は多くの犠牲者を作り、人を殺し他国を侵略する分断と差別を生み出す結果にしかならなかった。差別されていたものが一致団結のもとで差別する側になっていったということであります。このことは心に深く残りました。

 

さて、今日は先週読みました創世記21章のイサクの誕生に続く記事であります。

神の賜物として与えられた約束の子イサクが乳離れをして間もなく。サラはエジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを目にします。サラはアブラハムに、「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」と訴えます。

そもそも事の始まりは、子供がいないサラが自分のエジプト人の女奴隷ハガルをアブラハムのもとに連れて来て、「側女としてほしい。わたしは彼女によって子供が与えられるかも知れないから」と頼み、アブラハムはそれを受け入れてハガルはみごもるのです。

ところがそうなりますと、ハガルは女主人のサラを軽んじるようになります。その心におごりたかぶりが表われたのです。

サラはこのハガルの態度に怒り猛然とアブラハムに抗議し訴えます。それに対してアブラハムから、「女奴隷はあなたのものだ、好きなようにするがいい」と言われたサラは、ハガルにつらく当たったので、身重のハガルは荒れ野に逃げます。

まあ人間くさいというか、それぞれの思いや感情、その言動がここには赤裸々に記されていますが。そういった人間の側の思惑を超えたかたちで、そこに神さまが介入して来られるのです。

 

逃げたハガルが荒れ野の泉のほとりまで来ると、主の使いが彼女と出会い「どこへ行くのか」とお尋ねになります。

ハガルが事情を話しますと、御使いは彼女に「女主人のもとに帰って従順に仕えなさい」とさとした上で、「あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」と約束し、「その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから」と伝えます。

それを聞いたハガルは「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)」と言って、主の言葉に従い、帰って行きます。

ハガルは女主人サラのもとに戻ることに対して、人間的には抵抗感や反発心を抱くような感情もあったかもしれません。けれど主のおっしゃるまま帰って行くのです。

ここで肝心なのは、彼女が人間的な思いはいろいろあったと想像できますが、主に信頼し、主のお言葉通りに自分を従わせた、ということですね。

そのことによって主のご計画は実現し、アブラハムが86歳の時にその子が生まれ、ハガルはその子にイシュマエルと名付けるのであります。

さて、そうした事の後にサラはイサクを産み、その子が乳離れした頃。

今日の箇所では、ハガルの子イシュマエルがサラの子イサクをからかっているのをサラが見て、「あの女とあの子を追い出してください」とアブラハムにまた訴えたというのです。

先の箇所ではハガルが荒れ野に逃亡せざるを得なくなったのにはハガルにも非があったわけですが。今日の箇所はある意味不可抗力といいますか、ハガルには何ら非がないといえます。まあ子供の間に生じたことによって、ハガルとその子イシュマエルは荒れ野に追いやられてしまうのですね。

ちなみに、イシュマエルとイサクの誕生時のアブラハムの年齢から換算しますと、イシュマエルとイサクの年齢差は14歳開いていたと考えられますが。「イシュマエルがイサクをからかっていた」というのがどういう状況であったのかはわかりませんけれど、サラにとってはそれがたまらなく悔しく許せないことだったのでしょうか。

 

このサラの訴えは「アブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである」と記されています。

非常に苦しめたという原意・もとの意味は「アブラハムの目に非常に悪だった」ということになるそうです。まあ、サラの「あの女とあの子を追い出してください」との言動がアブラハムの目に非常に悪だと見えて彼を悩み苦しめたということですね。

すると神はアブラハムに「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさいとおっしゃいます。

この、「すべてサラがいうことに聞き従いなさい」と神さまがおっしゃるというのは意外な気がします。神はどうして、このわがままともいえるサラの肩をもたれるのか、そう思われる方もおられるのではないでしょうか。

 

けれど、実はここでアブラハムは試みられているのですね。

アブラハムにとってイシュマエルはイサク同様我が子に違いありません。ハガルに対する思いもあったでしょう。彼らをサラの言うとおり荒れ野に追い出すなんて、アブラハムはどんなに忍びなかったでしょう。又、自分の目に悪と映ったことには激しい葛藤がったかも知れません。けれどアブラハムは神のお言葉に自分を従わせました

先のハガルが荒れ野において女主人のもとに帰りなさい、とのお言葉に自分を従わせたように、アブラハムは神に従ったのです。

神は続けてアブラハムに、「あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」と、約束なさいます。

アブラハムが自分の考えや思い煩いを神にゆだね御言葉に従った時、「苦しまなくてもよい」との、その神さまの約束とそのご計画が実現していくのですね。

 

アブラハムは、せめて陽が暑くならないうちにと考えたのでしょうか。朝早くに荒れ野の険しい道に備えてパンと水の入った革袋をハガルに与え、背中に負わせて、イシュマエルとともに送り出します。

こうしてハガルは子供と一緒に立ち去り、ベエル・シェバの灼熱の荒れ野をさまようことになるのです。

 

人っ子一人いない灼熱の荒れ野において遂にアブラハムが用意してくれた革袋の水は無くなります。ハガルは一本の灌木の下に子供を寝かせ、「子供が死ぬのを見るのが忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り自ら声をあげて泣きます。遠くから見える子供も泣いていたのでしょう。

するとハガルに神の使いのお言葉が臨みます。

「恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。

ここは旧約聖書の中でも本当に神の慈しみをおぼえる箇所ですね。

人間の社会やその関係には時に差別や排除が生じます。それは逃れ難い人間の性質から起ってくるのでありますが。しかし神はその世の中から出されて泣くほかないような人の泣く声、神に訴えるほかない人の叫びを、聞いておられるのですね。

イシュマエルという名は「神は聞かれる」という意味をもっています。神は、まさにその名のとおり世から見捨てられたようなイシュマエルの声を聞かれるお方なのであります。

 

さて、神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけ、その井戸の水を革袋に満たし子供に飲ませることができました。死を待つほかなかったイシュマエルの命を救い出されたのです。

又、そればかりか「神がその子イシュマエルと共におられたので、その子は成長した」とあります。神はどこまでもこのイシュマエルに慈しみを示されるのですね。

実はそこには理由があります。

それは「彼もイサクと同様アブラハムの子であり、アブラハムにあってイサクと兄弟だから」です。

イサクはアブラハムの子、いわゆる約束の子として選ばれたシオンの民の基となっていきます。そして神はイシュマエルにも、その約束どおり大いなる国民の父とされ、その死後イサクと共に父アブラハムの墓に納められたと25章に記されています。

イサクとイシュマエルは全く別の人生を歩みましたが。最後は父と兄弟同じ墓に納められました。そこに神さまの偉大な愛とそのご計画の深さを見せられる思いがいたします。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とのヨハネ3章16節は聖書の命の言葉を凝縮した一番濃い内容だとされます。

ひとりとして、神の愛されていない者などいない。神は御子イエスさまを十字架に引き渡してまでも私たち一人の命が尊く、滅びてはならない存在として見捨てられることなく、愛を注ぎ続けて下さっているお方です。その証明が主イエスの十字架です。

 

最後に、今日のこの個所から思いますのは、私たちは目に見えるところによって良し悪しの判断をしてしまいがちですが。神さまはいつも主に聞き従う者に最善の道をご計画してくださっている、ということです。

ハガル、そしてアブラハム。彼らはある意味、自分を悩ます苦境に立つ中で、主のお言葉に信頼し聞いて行うことをまさに実践しました。そのことを通して、主が導かれる最善に与るのです。

御言葉は聞くことで終わるのではなく、それを聞いて行っていくときにその効果は発揮され、神の備えたもう最善が起こされていく、ということを今日の聖書の御言葉から私たちも受け取ってまいりましょう。

 

8月の平和月間の一日一日、キリストにある平和を心から祈り求めて歩む私たちでありたいと願います。

今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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マザーテレサ

2018-08-02 08:32:32 | イベント

MOTHER TERESA

本当の愛~マザーテレサの生涯をお話と音楽でたどる~ 

 

日時 8月5日(日)

公演時間 16開演(開場15時半)

会場:日本バプテスト大阪教会 

入場料 2000円 こども小学生迄 1000円 

お問い合わせ・ご予約(事務局) ☏075-862ー2551

                 090-3940-6280

             メールアドレス onpana4u@yahoo.co.jp

主催  音譜の花束

 

会場には公共交通機関をご利用下さい。

尚、近隣に有料パーキングもございます。

 

出演者 吉村美穂(ソプラノ)

    立命館大学法学部卒業後、京都市立芸術大学音楽学部音楽専攻卒業。

    ウイーンに留学、グラーツ国立音楽大学(オーストリア)リート、

    オラトリオ科修了。ウィ-ンを拠点とするアーノルド・シェーンベルク

              合唱団員として、

    ウィ-ンフィルやベルリンフィルと世界各地でオペラやコンサート活動する。

    傍ら、ソリストとしても研鑽を積む。2006年に、

    クリスチャンシンガーとして活動開始。

    現在国内外のキリスト教会をはじめ、病院、教育機関、施設などで、

    賛美コンサートを開催している。CDを8枚オリジナル楽譜集を発売している。

 

    野田常喜(ピアノ)

    両親の影響を受け7才からキリスト教会で賛美歌やゴスペルの演奏を始める。

    大阪音楽大学ピアノ科卒業。岡山若い芽のコンサート入賞。

    なにわ芸術祭等出演。現在、クラッシック、ゴスペルを中心に演奏活動。

    レコーディング、アレンジ、ミュージカル作曲等も手掛け、

    多数の音楽家のサーポートに力を入れている。

    ジャンルを超えた音楽性と心深く語りかける瑞々しいピアノの音色には、

    定評がある。

   

    中沢旨宣(テノール)

    2016年より湖南地区(滋賀県)クリスマスミュージカルに出演。

    演技・歌・演出にも秀で、マザーテレサでは、準主役の神父役を熱演

 

当日は、なおマザーテレサとの交流を重ねて来られた是枝律子さんもご来会、貴重な資料も展示いたします。

どうぞ、奮ってご参集ください。

 

 

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