礼拝宣教 創世記25章1-11節 平和月間
7月末の台風12号が関西地方を直撃してから約1か月。すでに8つの台風が起こり、今回の20号は先週末、四国・関西地方を横断しました。私ども家族は帰阪を一日早め23日木曜朝に無事帰って来ることができました。19号と2つの台風に挟まれながらも筑紫野南教会の礼拝奉仕、久山療育園のワークキャンプと守られ祝されたことを心より感謝します。又、大阪教会の礼拝が滞りなく守られましたことも感謝であります。
この8月は特に平和月間の礼拝として、神がお造りになられた被造世界、いのちと平和の尊さをおぼえ主に祈りつつこれまで主に祈りつつ過してまいりました。
創世記で、神さまはお造りになられたものすべてをご覧になって「見よ、すべては極めて良かった」とおっしゃったとあります。
しかし、人の世に罪が生じてから現在に至るまで争いが絶えません。又、経済力をもった裕福な国や指導者があらゆる世界の資源を独占し、格差がますます広がっています。さらに経済至上主義のもとで地球環境の崩壊、地球温暖化、海水温上昇が生じ、これまでにないような様々な異常気象を引き起こしています。集中豪雨や大型台風が次々と世界中に巻き起こり、一方で高温、乾燥地では大規模な山火事も起っており、世界各地において甚大な被害が及んでいるのです。
このような世界がうめき、痛み、悲鳴をあげるこの事態。それに対して、聖書のローマの信徒への手紙8章にあるとおり「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」「被造物は、神のきつつ、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます」と伝えています。今一度、私たち人間は、その被造世界を守り、治める責任が天地万物の主より託されているということを思い起こし、すべての造り主なる神、いのちの源であられる神を畏れ、神に立ち返って生きることが求められています。
さて、本日は創世記25章より「主にある兄弟」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
一族の長として信仰に生きたアブラハムは175年の生涯を終えました。
かつてアブラハムは神から「あなたの生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(創12:1-2)と召命を受け、主の言葉に従い、行き先も知らないまま旅立ち、約束の地カナンに入るのです。
主はかつてアブラハムに臨まれこのようにもお語りになりました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。この主のお言葉に対して、「アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義とお認めになった」と創世記15章に記されています。このようにアブラハムは神の祝福を受けるのであります。
その一方で、その一族、家族の中には不和や争いの種が尽きなかったのです。
これまでも読みましたが、妻であるサラは高齢で子がなく将来の先行きの見えない中で、アブラハムに「女奴隷ハガルのところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」と頼み、アブラハムはサラの願いを聞き入れて、ハガルはイシュマエルをみごもるのでありますが。しかしハガルは自分がみごもったのを知ると、女主人サラを軽んじるようになります。サラはそのハガルを憎むようになり、アブラハムに訴えるとアブラハムは、「あなたの女奴隷はあなたのものだから好きにするがいい」と許可を経て、サラはハガルにつらくあたり、身重のハガルは荒れ野へと逃げていきます。
しかし主はそんなハガルを顧みて、アブラハムのもとに帰るように促され、彼女はアブラハムのもとでその子イシュマエルを出産するのです。
その後、サラはアブラハムの子イサクが与えられ、イサクは神の約束の子でありますから当然アブラハムの跡継ぎとして扱われる中、イシュマエルとその母ハガルの立場は大変難しいものになります。そしてとうとうサラとのいざこざによって、イシュマエルとハガルの母子はアブラハムのもとから、険しい荒れ野へ再び追い出されてしまうことになります。
まあ、このように神の祝福と約束のうちにあっても、人の生活はすべて順調に行くわけではなく、むしろ叫ぶように祈るほかない状況も起って来るわけです。しかしそれは、神の憐れみと慈しみが顕わされされるためであります。炎天下で水もつき、もはや死を待つほかないハガルとイシュマエル。
その母子が大声で共に泣いていた時、神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて、「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と約束されるのですね。(創21:17-18)
するとハガルの目が開け、井戸を見つけ、水を得て、彼らは生きる力を取りもどし、その信仰の井戸によってイシュマエルに対する約束は実現されていくのであります。
さて、本日の箇所に戻りますが。
アブラハムはそういう出来事の後、妻サラは死に、つらい別れを経験します。そうした後には、後妻にケトラをアブラハムは迎えるのですね。まあそれはありうるでしょうが。驚きは何とそのケトラとの間に6人の子が生まれたというのです。
跡継ぎのイサクが生まれたときアブラハムは100歳で、サラが亡くなったのは137歳の時でしたから、それ以後から175歳迄の間に6人の子が生まれるとなると、ちょっと想像を超えますが。
ただ間違いなく、跡継ぎや相続の問題で悩むことになったことでしょう。結局アブラハムは跡継ぎのイサクのもとに他の子どもたちをおくと、争いやねたみが生じるという考えから、その6人の子らに贈り物を与えて、東方の地に移住させるのです。
このように聖書は、人間の確執や跡継ぎ、相続権をめぐるなんともこてこての事態について包み隠さず露わに記しているのですね。
神の祝福に生かされている者であっても、いやむしろそうであるからこそ、悩みや苦しみの中で祈り、苦闘し、神に信頼し、従って生きる道があり、その中にあってもがきながら模索していく、それが信仰者の姿であります。
さて、聖書はそのように信仰の父祖としての生涯を全うしたアブラハムが死んだ時、9節「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」と伝えます。
疑問に思いますのは、どうしてイシュマエルは父アブラハムの死を知ったのでしょう?人々を介して知ったのでしょうか?異母兄弟であったイサクの何らかの働きかけによってその訃報を知ることになったのか?それはわかりません。
ただ確かなのはその葬りの場であるマクペラの洞窟の前で、二人の息子が並んで父アブラハムを葬ったという事実です。
イサクにしてみればイシュマエルと再会することは恐れと不安もあったのではないでしょうか。
イシュマエルにとっても、イサクに会うことでかつて自分が受けた苦しみがフラッシュバックするという恐れもあったのではないでしょうか。
又、父アブラハムが埋葬される洞穴は、かつて母ハガルと自分を荒れ野へ追い出したサラが死後先に埋葬されていた洞穴でした。
そこへ向かうことはイシュマエルの感情として大変複雑な思いがあったのではと想像します。が、しかしイシュマエルは父アブラハムの埋葬のために、サラが先に埋葬された洞穴に向かい、イサクと並んで父アブラハムを葬るのであります。
このアブラハムの二人の子、イサクとイシュマエルの心の内は知りようもありません。ただ、これまでずっと読んできましたように、アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、そしてイサクの背後にあって、主がいろんなかたちで、そのすべてを守り、導いておられたということは確かなのです。
アブラハムやサラが人間的な思いによって、跡継ぎ、相続について、子孫のことについて解決の手立てを講じてきました。そこでは、人と人の思いのすれ違い、対立のようなことが引き起こされてきました。しかし、神さまは、その度にアブラハムの想いを超えた業を起こし、よき方向へと導いてくださっていたのです。
箴言19章21節に「人の心には多くの計らいがある。しかしただ主の御旨のみが実現する」とあるとおりです。
イサクはアブラハムの祝福を受け継ぎます。一方のイシュマルも「大きな国民とする」との主のみ約束は着実にその実現へと向かっていきます。その証しが、12節以降に記されているイシュマエルの系図です。それは又、後妻ケトラの6人の子孫をも東方の国民とし主は繁栄をお与えになるのですね。
祝福の源アブラハムの子らは、それぞれの地にあって、文化や慣習、民族性や国民性をもって生きることになるわけですが、もとはアブラハムの子、主の祝福の源から始まったということであります。
そして、今日の箇所の最大の主のみ業は、あらゆる人間の確執や思いを超えて、そのアブラハムの子らが並んで父アブラハムを葬ったということです。イサクもイシュマエルも「主にある兄弟」。これこそが主のお計らいなのです。
イザヤ書55章8-9節にこういう御言葉がございます。私が大阪教会へ導かれた時の聖句でもありますが。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」
まあ人間的に見たアブラハムやサラ、ハガルもいろいろな長所もあり短所も、それは人間ですから当然持っていたし、生身の人間として苦悩し、間違いも犯し得る弱さも抱えていたといえます。
しかし、それでもアブラハムはそのあるがまま主とそのみ約束に信頼し続けて生き抜いた生涯であった。
その信仰をして、主はアブラハムの想いを超えて、その御業を示し、ゆたかにお導きになられたのだと私は信じます。
私どもにとりまして、その主のみ約束の基はいうまでもなく、救い主イエス、このお方にございます。何をもってしても、このお方と救いのみ約束に信頼する人生を歩み通したいと願うものです。
最後に、平和を願う8月、異なる道を歩んだイサクとイシュマエルが、天寿を全うした父アブラハムのもとで、再会し、共父を埋葬したという場面を黙想する中で、バプテスト誌8月号の今月のことば・Messageに日本キリスト教協議会総幹事である金性済(キム ソンジェ)師が寄せられたその思いを、ご紹介したいと思います。
金さんは、日本国憲法への片思い、という段落で、『在日コリアンは45年8月まで大日本帝国臣民として日本に暮らしていましたが、日本の敗戦後は祖国に帰還する道を失った在日コリアンや台湾人は、新しく制定された日本国憲法の基本的人権の対象はすべて「国民」という枠づけがされたため、在日コリアンは「国民」の枠から、排除されたということです。
当初GHQのマッカーサー憲法草案が、日本政府に手渡された際、「人民(people)の権利と義務」と訳され、その草案13条には「自然人の法の前での平等」、16条では「外国人は法の平等な保護を受ける」と謳われていた。ところがその後日本政府からGHQに返された改訂版では、peopleがすべて「国民」と訳し変えられた。
1947年5月3日に日本国憲法が施行される前日、昭和天皇が天皇の最後の勅令として「外国人登録令」が発令され、それによって在日コリアンや台湾人は、日本国籍を保有したまま「外国人」とみなされることになる。』
金さんはここに、『基本的人権の普遍性と「国民」の排他性の矛盾の問題を、日本国憲法は抱えるようになった』といいます。
金さんはさらに「憲法9条との再会」との段落でこう記します。『日本国民でもなく、選挙権もない私が、日本国憲法の改憲に反対する人々とともに、戦争の永久放棄、戦力の交戦権を否定する憲法9条を守る運動に加わっていることに私ははじめ不思議さを感じました。しかしながら、憲法9条を守るたたかいの隊列に並ぶ中で、憲法9条の理念には、単に国家間の問題にとどまらず、人間の内面にある「我と汝」の問題にまで深く問いかける問いを秘めている。自分の心に潜んでいながら、気づくことができなかった差別という心の武装に気づかされ、それを打ち砕かれて、遂に武装解除に至る道筋を暗示している。国民という枠の中に憲法の人権条項は閉じ込められることはあっても、恐れと敵意を友愛と歓待の関係に変革することを願う憲法9条は、他者「かれら」を排除しては成立しないのです。』
日本国憲法は素晴らしい、守るべき日本の宝、世界の宝だと思いっていた者にとっては、それが唯日本人の側から見た権利主張であるということを知らされた思いです。基本的人権条項の対象から除外されている存在がある。日本が犯した戦争に翻弄された人々、戦後もその子孫たちまでも、日本に住みながら「国民」という枠から除外され、基本的な人権を保障されないまま今も翻弄され続けています。
これはまさに日本人の私たちの側からは見落としていた視点であります。その排他性と違和感について私も知らされた者として、ほんとうに地道ではありますが、外国人住民基本法制定を求める国会請願書への署名へのご理解とご協力を毎年この大阪教会のみなさんにも祈りつつ、呼びかけているわけです。
今日のところで、アブラハムの子である、イサク、イシュマエル、そしてケトラの6人の子どもたちのおかれた場所はそれぞれ異なるわけですけれども。それぞれの祝福の源は父アブラハムであり、その祝福をお与えになったのは、天地創造の父なる神であられます。
アブラハムの子、主にある兄弟として世界中にその子孫は拡がり、ひとり一人が主にあって大切な愛されるべき存在として生かされている、ということを今日のところから心に留め、身近なところから平和を造り出す私たちでありたいと願うものです。
今日もここから遣わされてまいりましょう。