日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主を畏れて生きる

2017-01-29 13:29:16 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ10章16節~31節

今日は「主を畏れて生きる」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
イエスさまは、12人弟子達を選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子達を派遣するにあたり、行くべきところ、なすべきことなどを幾つかお示しになります。それを聞いていた彼らは、弟子として選ばれた高揚感とともに、「よし、主の弟子としてここはひとつがんばろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。
ところが主イエスは思いがけず、あなたがたは迫害と苦難を受けることになる、そのように予告なさるのです。

イエスさまは、まず「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言って具体的にどのようにあるべきかをお教えになります。
福音宣教の為に遣わされる弟子達が人々から憎まれ中傷されるだけでなく、「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、総督や王の前に引き渡されることになる」というのです。
弟子達はそれをどんな思いで聞いたでしょう。「この方こそ神の救い」と信じ、従う決心をした。唯それだけなのに、迫害されるとか苦難を受けると言われても」。弟子達の中には戸惑う者もいたのではないでしょうか。
 みなさまはどうでしょう。主とその救いが自分にとってなくてはならないものになったとき。思いがけず身近な人から迫害を受けた。憎まれ、中傷された。そういう方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
 私たちが本気で主に従っていこうとするとき、そこには多かれ少なかれ、神の救いから引き離そうとする力が働きます。「何も悪いことをしていないのに、そんな理不尽な」と思うわけですが。それが試みる者、サタンの働きです。
 しかし、主イエスはそれに抵抗して戦えとはおっしゃいません。18節。「総督や王、さらに異邦人に証しをすることになる」。つまり証しの機会となるとおっしゃるんですね。
そして、「引き渡されたときは、何をどう言おうか心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と言っておられます。

捕えられ権力者の前に引き渡された時、ただ怯え怖れるしかないときに、イエスさまは「心配してはならない。あなたたちのうちに住んでおられる御父の霊、聖霊が語るべきことをお語りくださるので、ただ聖霊に委ねるがいい。そして26節以降でも、イエスさまは迫害と苦難に際して、「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とお語りになります。

それは、人間の内面に秘められている事柄は、なにがしかその人となりに現されてくるものだし、いざという時にはその本質が現されるものだ、とそういう風にも読めます。あるいは又、神の真理は、どんなに抑圧され封じ込められようとも、必ずいつかは明らかにされる時が来る。真理は決して滅びない。
 余談ですが、黙示録はギリシャ語の原語で「アポカリュフォィス」。それは「覆いを取り除く」という意味です。イエス・キリストが救いを成し遂げられたことで、秘められていた神の真理とご計画の覆いが取り除かれ、明らかにされたということです。黙示録も厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で信徒達は、すでに覆いが取り除かれた神のご計画と成就、さらにキリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望みつつ、苦難の中でなお証が立てられていったということであります。

本日の28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との主イエスのお言葉がありますが。
むろん体が傷つけられたり、殺されたりなんて考えたくもないことです。けれど主イエスは、そのように危害を加える者に魂まで殺す力はない、むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。
この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実はエルサレム東方郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場のような場であったんですね。まあそんな塵芥のように体も魂も焼き尽くされるなど想像するのもおぞましいことですが。

しかし、興味深いのは、その体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方のことを、イエスさまは次のようにおっしゃるのです。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがた父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本では1円です。その二羽の雀の一羽といえばもうその半分なわけですから貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないようなもの。しかし、みなさんここが肝心なんです。「あなたがたの父」はそのように価値無きものに思えるような小さく弱い存在をも決して見逃されないと言われるのですね。その命は御手のうちにあるのです。そのように主イエスは、あなたがた一人ひとりはおぼえられているんだよ、とおっしゃるのです。しかも「あなたがたの父」、天の父である方が子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」ではないか、とそう主イエスはおっしゃるのであります。

今日私たちはこうして自由に礼拝を捧げ、どんなに大声でも讃美できます。信仰の自由が認められているのです。2月11日を私たちは「信教の自由を守る日」とし、集会を守っていますけれども。この幸い。どれほどありがたいことでしょうか。一方海を隔ててそれがままならない状況にある国々の主にある兄弟姉妹を思うわけですが。しかしこの日本でもかつて激しい弾圧や迫害の時代があったのですね。

本日の聖書の箇所を黙想していた折、これもお導きなんでしょうか。今「沈黙~サイレンス」が上映されています。みなさんの中で、すでに御覧になった方もおられるようですが。私も先週鑑賞しました。
この映画は遠藤周作さんの「沈黙」の原作をマーティン・スコセッシュ監督が見事に映像化した作品です。その構成のすごさに圧倒されましたが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害の場面が続き、何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。わたしの座席近くに十字を切りながら御覧になられている方も数人みかけました

本日の聖書の26節の御言葉が、わたしの胸に強く迫ってきました。
「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。
映画では、ある司祭が先に長崎に布教のために来日にして消息が絶たれてた大先輩の司祭のあとを追って長崎に辿りつくのです。そこで村の隠れていたクリスチャンたちから聖礼典などを求められてそれに応えていくことになるのです。ところがこの司祭はその自分の信仰を貫くことによって同胞のクリスチャンたちが過酷な弾圧と処刑に遭うことに、これ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていったその時。踏み絵の銅板の主イエスがこうお語りになる声を彼は聞くのです。
「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。

そうして痛みをもって踏み絵をふむのです。その後棄教したとされるこの司祭は日本名を名乗り、キリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのですが。最後に映し出されたその棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのですね。外見や目に見える形は棄教していてもその魂までは変わることなく、主の御手のうちにあることが、そこに証されていたんです。わたしはそこに希望を見た思いがいたしました。

人には神が沈黙しておられたように思われるその時代から380年、いやもっと古くの、豊臣秀吉がキリスト教を迫害するようになり、長崎で26人の司祭と信徒達が焚刑(ふんけい)にされた1587年以来から数えますと430年余、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りのもと、この地にキリストの真理と福音は確かに息づいています。その時と比べることはできませんが、今に生きる私たちにも現代社会の抱える特有な困難があります。一人ひとりのうちにも課題があるでしょう。主はそのすべてをご存じです。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。

今週もここから主のいのちの言葉に信頼し、それぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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一人ひとりと向き合う主イエス

2017-01-23 10:00:19 | メッセージ
宣教 マタイ9章18~26節

この箇所は、主イエスを介して、ある指導者(他の福音書によれはユダヤ教の会堂司のヤイロ)のエピソードに、長い間出血の止まらない女性の話が挟まれるような形で記されています。先の指導者は主イエスのそばに来て、ひれ伏して、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と願い出ます。
彼はユダヤ教の会堂を管理する地位のある人でありましたから、当然このような姿を、ユダヤの人々はじめ、律法学者や祭司に見られようものなら、異端視されたり、蔑視され職も立場も失う危機さえあったでしょう。けれどもそれを十分承知のうえで、彼は主イエスに「ひれ伏し」、なりふり構わず懇願するのです。我が身を投げ打つ親の愛を感じますが。彼はかねてより主イエスの言葉とその行いや業に強く関心を持っていたのではないでしょうか。そして、神がお働きになるのでなければ出来る事ではないという思いを強くしていたところであったのかも知れません。そのような時に起ったかわいいさかりの娘の悲しい死の出来事。他に望みのないこの人はただちに主イエスのもとに向かいます。教会もそのような存在としてあらねばと思わされますが。神の言葉が真に語られ、先週の主イエスの教え、隣人愛を地道に実践していく中で、救いを必要としている人、命の問題に直面した人が駆け込んで来る、そのようなキリストの教会でありたいと願います。
 聖書に戻りますが、そうして懇願する指導者の思いを受け、19節「そこで、主イエスは立ち上がり、彼について行かれた」というんですね。
主イエスはこの指導者的立場にあった人の、その切なる求めと信仰に応えれるべく「立ち上がる」のです。ここのポイントは、主イエスが会堂を管理する指導者だからとか、律法を守り間違えのない人であったから「立ち上がって」彼と共に行かれたのではないということです。そうではなく主イエスは、彼の信仰のゆえに「立ち上がられた」それが重視されているんですね。
 すると、そこへ、「12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れる」ということが起るわけです。どうしてそのような行動をとったのか、それはこの女性が『この方の服に触れさえすれば治してもられる』と思ったからである、と記されています。「思った」。それは信じたということですね。
 異常な出血はユダヤ社会においては古くから不浄な病とされていました。それは当人が不浄であると見なされるだけでなく、その人が触れるもの、またその人に触れるものまでも汚れると見なされていたのです。そういうことですから、彼女は人と関わりをもつことをはばかっていたでしょう。又彼女に関わりをもとうとする人も殆どいなかったでありましょう。この12年間もの病の苦痛とともに、偏見やあらゆる制約の中で生きていくしかなかった彼女の孤独は計り難いものがあります。それは当事者でなければ分からない苦しみです。
それでもこの女性は自分の思いを神は知ってくださるというまさに信仰をもって、人に
とがめ立てされないように、後ろから主イエスの服の房に触れたのです。

私はこの記事を昔初めて読んだ頃、この女性が後ろからイエスさまの服の裾の房にしか触れられなかったことを「消極的な信仰」と捉えていました。主イエスはそんな消極的信仰でも受けとめ、治されると思い込んでいたのです。しかしそれから何度もこの箇所を読むごとに、彼女の信仰は決してそんな消極的なものではなかったことがわかってきました。
「けがれている」とされているわけですから、正面から願い出ることはできません。
人と接触すれば人をけがすことにもなるという複雑な思いもあったことでしょう。けれども彼女はこの方の服の房にでも触れたならきっと事態が変わるに違いないと、その信仰を強くもち、気持ちを奮い立たせて行動するのです。それは、私のようなものが願ってもとか、私の問題は難しいから煩わすには及ばないというような消極的なものでは決してなく、むしろ大胆な求め、信仰であったんですね。この彼女の信仰、ある種の気迫に、主イエスは気づかれ振り向いて、彼女を見ながら「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。すると、その時「彼女は治った」。どうでしょう。主イエス御自身が「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃるように、先の指導者もそうですが、主は私たちの信仰、信頼して仰ぎ望むその信仰に対して立ち上がり、振り向いて応答してくださるお方であることがここに示されているのですね。

さて、そのことが起っている間、先の指導者はどんなにじりじりした思いで待っていたか、とも思いますし、このことでさらに信仰が強められたようにも想像しますが。
ところが、主イエスが指導者の家に到着なさると、そこには笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいたのです。つまり少女の葬儀が始まっていたのです。当時のユダヤを含むパレスチナ地方では、どんなに貧しい家の葬儀でも、「笛吹きと泣き女」に頼んで来てもらう習わしがあったと言われています。世界各地で泣き女を招く風習があるようですが。主イエスはこの少女や家族への同情心のかけらもなく、ただ雇われて騒いでいるその人たちに対して「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。
このお言葉は、父親の気持ちと願いを代弁しているように思えます。「ああ娘は死んでいるんじゃない。眠っているだけだ」。それは父親の願い、叫びであったのではないでしょうか。そんな切父親の思いを全く意に介さない群衆は、主イエスをあざ笑った、とあります。それは父親の信仰、必死に訴え懇願する思いを打ち砕くものでありました。
主イエスは、そのことに強い憤りをおぼえて、群衆を家から追い出されたのです。
そして、他の福音書によればイエスさまは少女の両親と三人の弟子だけを連れて少女のいる家の部屋に入っていかれたようです。主イエスは神に望みをおくもの、信じ求めるもののみを伴われます。厳粛なその祈りと願いの中で、主イエスが少女の手をお取りになると、まるで目を覚ましたように「少女は起き上がった」というのであります。
主イエスの御言葉に心から信頼しる人は、主の御業を見ることができる。しかし、それをあざ笑う者には、躓きでしかないのです。

今日の礼拝の招詞でマタイ9章35-36節が読まれました。それは「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」という記述です。
このイエスさまが「深く憐れまれた」というのは、自分のはらわたが引き裂かれる、断腸の思いをもたれるほどに、という意味なんですね。それほどまでに惑い、弱り、打ちひしがれる一人ひとりのことを主イエスは思われるのです。

それは、あの長血で苦しみ続けていた女性の訴え、求めを主イエスは不特定多数の群衆の中にあって、見出された。又、悲しみに打ちひしがれていた父親の切なる願いを主イエスは断腸の思いで共鳴なさったから立ち上がり共に行かれた。
そのように主イエスは、その愛と慈しみのゆえに私たち一人ひとりの課題や魂の渇きを知って下さるお方なのです。

主に見出され、救いに与っている者として、主イエスに倣いつつ生きていきたいと願います。今日もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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愛に生かされ、愛に生きる

2017-01-15 17:03:25 | メッセージ
主日礼拝宣教 マタイ7:7~12

今週の火曜日は阪神淡路大震災から22年目を迎えます。関西地方教会連合では、この出来事が風化し忘れ去られことのないようにと、毎年この日に集会が守られています。昨年は日曜日でしたので集会がもたれず、教会の礼拝で祈りに覚えましたが。今年は17日午前10時半から宝塚バプテスト教会において「1・17祈念礼拝」が行なわれます。時間の許される方はご出席ください。震災に遭われた人、又震災の出来事を知らない人も、ともに祈りを合わせて、この震災から今も問われ、求められている課題を覚え合うことができたらとの願いを込めて「1・17の祈り」を連合役員協働で作成されたものを、先に礼拝で覚えて祈りを合わせました。
新聞等によれば震災から22年も経ちながら、被災地の兵庫において未だに震災の影響を受けた方々が昨年60人以上もおられた、という悲しい現実を知らされ、心が痛みます。その中にはいわゆる孤独死なさった方々も多くおられたようです。被災者が入居されている集合住宅から行政支援の期限が切れるということで、あてもないまま出て行かざるを得ない状況に追い込まれている、そういう何ともやるせない問題も出てきています。私たちの中にも御自身、あるいはご親族、知人が被災された方々がおられます。
東日本大震災、また熊本地震もそうでしょうが、こうして機会あるごと当事者の声に耳を傾け、たとえ細々とでも覚え続けるというのは、ほんとうに大切な事だと思います。
多くの人が自分を守ることで精一杯という大変厳しさの増す社会状況の中で、主は私たちに何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。

本日は「愛に生かされ、生きる」と題して、マタイ7章7~12節より御言葉に聞いていきたいと思います。
まず、主イエスは今日の個所を「山上の説教」の中でお語りになりました。主イエスは、当時、神のみ心から遠く離れてしまったファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いておられました。「では、弟子であるあなたがたはどう生きるのか」と主イエスは彼らに問いかけお勧めになった。それがこの山上の説教であります。律法の規定を守り教えることに優越感をもち満足しきっていた宗教家たちとは逆に主イエスは、「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい」と語られます。もっと原語のニュアンスに沿えば、「求め続けなさい。探し続けなさい。門をたたき続けなさい」と、主イエスは弟子たちに強く訴えておられるのですね。

この「求める」ということについては大きく2つあると思うのです。
その1つは、願い求めること。「祈り」ですね。もう1つは、求め続けるという、意思とそれに伴う行為、行動です。
その点について、同じ記事が書かれたルカ福音書11章では、「求めなさい、そうすれば与えられる云々・・・まして天の父は『求める』者に聖霊を与えてくださる」となっています。そこで強調されているのは、「神さまに向かって真剣に祈る者に、まさに神さまの力あるお働き、聖霊が臨まれる」というダイレクトな祈りについてのメッセージとなっています。

一方、今日のマタイ福音書では、主イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる云々と語られた言葉の後に、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」とおっしゃっています。つまり祈りとはそのようにアクション、意思をもって自ら行い続けるように招かれているんですね。これこそ「律法と預言者である」。つまり神の御心、神の愛に応えて生きる。ここにマタイの福音書の主イエスの重要なメッセージがあります。

よく「求めよ、さらば与えられん」という聖書の御言葉は、キリスト教会の看板に掲げられていたりします。私もこの御言葉に実際、大変励ましを受けたり、又強められてきた一人であります。皆さまも、主に祈り求める中で、主が祈りに答えてくださったという体験はきっとおありでしょう。
同時に、祈ったら猫も杓子も何でも思い通りにかなうというものではありません。祈りは何でも願いをかなえる、というようなうさん臭い魔法の杖ではなく、私たちにとってもっとよいものを知っておられる、生きた神さまとの対話であります。お願いしっぱなしというのではなく、神さまの御心を知り、それを受け取って生きるのです。
それに近い祈りがあります。使徒パウロはフィリピの信徒へ書き送った手紙にその祈りがありますので、ご紹介します。フィリピ1章9節以降です。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。」
 祈りは、生きた神さまとの関係性の中でゆたかに育まれていくものなのであります。

今日主イエスは、「祈り」についてもう一つ大切なことを私たちに示しています。
それは、私は「何のために」主に祈り求めているのか。あるいは、私は「何を」主に祈り求めているのか、ということです。自分のために祈る。求める。人はそうしないではおれないし、主イエスは必要を父なる神に積極的に祈り求めるように勧めておられますけれども、主はさらなるゆたかさへと私たちを招かれます。
それは、私の求めが私ごとに終始するのではなく、「私たち」の事柄とされていく。
そういう求め、そういう祈りへの招きです。先ほど使徒パウロの祈りをお読みしましたように。

私たちの大阪教会は、今年度「祈りの教会」というテーマをもって一年を共にあみたい、と願っております。ある方から私に「祈り」についての問いかけのようなお尋ねがありました。
それは、「私たちが教会の方々のことを祈る場合、ただ名前を呼んで祈るのと、その相手の方について知り、課題についても具体的に覚えて祈るのとは、ずいぶん祈りが変わってくるのではないでしょうか」という趣旨のものです。
相手の必要を把握していれば祈りも具体的なものになっていきます。自分の求めに留まらず、隣人、他者の求めを知り、思いを寄せて祈り合う。主イエスの招きによってそういう「祈りの家」であり続けるなら、またさらにその祈り合いが広がっていくならば、生きたキリストの教会として愛の証しとなっていくことでしょう。

さて、今回、1・17の祈りを諸教会・伝道所の方々にも、ぜひ祈りに覚えていただければと願い、可能な限り全国に発信させて頂きました。すると、九州や北海道の教会の方々から、次のようなメールが返ってきました。「週報に載せて共に祈ります」「大変な事だったことを思い起こし、いろんな傷や痛みを今も背負っておられる方々を覚えて祈ります」「礼拝の中で、少しアレンジして祈りに覚えたい」などとうれしい応答メッセージが届きました。こうして私たち関西地方の教会伝道所が覚えて祈っている具体的な課題を、全国の諸教会に知っていただいたことで、関西の教会だけの祈りにとどまらず、全国の教会の方々が関心をもって頂く祈りに広がっていった。共有して頂くこととなったんですね。ちょうど先週ここの「求めよ、さらば与えられん」というお言葉を思い巡らしていたわけですが。それはまさにこの「求め」の終わりが、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」という言葉で締め括られていることに改めて気づかされる出来事でした。

「律法と預言者の本質」。それは生きた神さまとの関係性であり、隣人を自分のことのように愛するという求め、祈り。意志と実践です。宗教家や学者たちは律法の規律や遵守していることのプライドに囚われ、逆に律法と預言者の本質を見失っていたといえます。これは教会でも、又クリスチャンであっても、あまりにクリスチャンはかくあるべきというのを自分ばかりか、人にも要求したり、教会に対しても組織や人の動向、能力への依存を優先させてしまうと、動揺に愛の本質を見失ってしまう。そういう危険性があることを知らなければなりません。
主イエスの弟子たちに向けての教え、それは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。これこそ律法と預言者だ、という愛の教えであります。私たちはその教えの実体が主イエスのご生涯であり、十字架と苦難、その死によって身をもって示されたことを知っています。私たちはその弟子として神の愛に倣うようにと、招かれているのですね。
同じ山上の説教のマタイ5章に、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らしてくださる」とございます。
 主イエスは、弟子たち、また私たちに、「天のお父様の子」として生きるように、その御心を思って、敵味方の垣根さえ越えて神の国を求めるようにお教えになっています。

しかし、その要求に対して、私たちは自分の力や業で応えうるものを持ち合わせていないことを知らされます。どうして許せないような人を許し、敵対してくるような人のために祈れますか。感情をもつ私たち、人間的には無理な話です。そんな時、愛は自分のうちに探しても見つからないことに気づくでしょう。それはもうイエスさまがこの自分を十字架から執り成されるお姿を日毎に見上げながら、「求め続け、探し続け、門をたたき続け」ないと出来ることではありません。しかし、そういう迫りの中で神の愛を求め続けていくとき、実はほかならぬ私自身が生きた神さまにつながり、その愛に生きる者として育まれていくのであります。
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」との御教えに少しでも具体性をもって生きていきたい。そんな求めと祈り、願いこそが、他のどんな修養を積むことに優って私たちをキリストの弟子とし、キリストの教会とされることを信じます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、」「何でも」ですから、特別でなくてもいい。日常の生活の中で、身近なことから、具体的に祈り求め続けることです。
きっと、そこにゆたかな実りある証が立てられていくことでしょう。今日もここから、私たち一人ひとり、キリストの使者として遣わされてまいりましょう。
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2017年元旦礼拝

2017-01-01 13:47:30 | メッセージ
宣教 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」 マタイ3章13-17節

主の年2017年を迎え、主にあってお喜び申しあげます。
「一年の計は元旦にあり」と申しますように、今年は丁度1月1日が主の日となりました。一年最初の日を主に礼拝を捧げて始めることのできる恵みを感謝します。
先日「新聞配達に関するエッセイストコンテスト」で、最優秀賞となった熊本市の方のエッセイに目がとまりました。少し長いですがご紹介しますと。「新聞がくれた勇気」という題ですが。「平穏な夜に突然、熊本に地震が来た。避難先で夜を明かし、自宅に戻ったら、いつものように新聞があった。いつもと変わらず玄関ドアのポケットに新聞があった。ああ家に無事帰れたと、ほっとした。
ほっとしたその夜、また熊本に地震が来た。一瞬死を覚悟するほどの大きな地震だった。揺れやまない大地、漆黒の夜、サイレンとヘリコプターの音。バッテリー残量が心もとないスマホを握りしめて、車中で震えて過ごした。
一睡もできず、もうすぐ夜明けかという頃、一台のバイクが走り抜けた。わが目を疑った。前かご、後ろかごに載っているのは新聞である。こんな非日常の朝、定刻の新聞が配達されている。
熊本の人はみんな被災者だ。配達員の彼も被災者だ。なのにいつものように、当たり前に新聞が配達されている。ここに日常がある。いつもの朝がある。
 停電の日々、毎朝夜明けとともに避難先から帰宅すると、玄関ドアに新聞があった。日常はきっと取り戻されると確信した。」 
昨年を振り返りますと、私たちそれぞれにも大なり小なり非日常ともいえる出来事があったのではないでしょうか。そのような中でも様々なかたちで届けられ続けた神さまの愛のメッセージは、どんなに私たちを根底から支えるものであったでしょう。主の与えてくださる励ましと希望がその時々の日常を生き抜く勇気と力になったことを心から感謝します。この新しい年もまた、どのような状況の中でもどうか、週に一度の礼拝と祈祷会が守られ、主にある姉妹兄弟の祈りととりなしとともに、福音が届けられますように。
さて、今日はマタイ3章から、新年のメッセージを聞いていきます。ここの箇所はイエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになる、よく知られた記事ですが。
今日は13節から読んだんですが。前の11節12節のヨハネの言葉も読んでみますと、こうあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
ヨハネはエルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、ぞくぞくと自分のもとに集まって来る人々に、「罪の告白、悔い改め」に導くためのバプテスマを水で授けていました。この後にもバプテスマを受けるための水槽がありますが。人々が罪を悔い改めてバプテスマを受け、神に立ち返って生きる。ヨハネはすでにそのような働きをなしていたのです。
ところが、自分の後から来るお方、つまりイエスさまは「聖霊」と「火」でバプテスマをお授けになる。自分のなしていることとは到底それは及ばないというんですね。
さて、本日のイエスさまがヨハネのもとにバプテスマを受けるために来られたというところですが。ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、わたしのとことへ来られたのですか」と言って、イエスさまを思いとどまらせようといたします。
ヨハネは知っていました。イエスさまが罪の告白、悔い改めのバプテスマを受ける必要のないお方であることを。自分よりも遙かに優れたお方が私からバプテスマを受けることなどありましょうか、そうヨハネは思っていたのです。
それに対してイエスさまはこうお答えになります。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです。」
一般に、正しいことを行なうと聞くと、「間違えのないことをする」こととか。「道義的に行動する」こととか。「善を行なう」ことなどと思うわけですが。しかしこの「正しい」とされているギリシャ語原語は「ディカイオ-シュネィ」、「義」ということなのです。ですからこの新共同訳の「正しいことをすべて行う」という訳はあまりよくない訳で、本来は「すべての義を満たすのは、我々にふさわしい」と、イエスさまはおっしゃったということですね。
ヨハネも又、神の義を満たすために悔い改めを迫り、バプテスマを施す者でありました。しかしヨハネは知っていたのです。人がいくら一時的に悔い改めたとしても、また行いによって罪を取り繕うようにしてがんばったとしても、それでは神の義が満たされることにはならない、ということです。人が自ら神の義を守り行なっていくことの限界をヨハネはひしひしと感じていたのではないでしょうか。だからこそ神の側からその義を満たすためにおいで下さったイエスさまを知って、「わたしはその方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言ったのです。
バプテスマのヨハネ以前のイスラエルの民は、神さまの宝の民として、その与えられた律法によって神の義に生きるように導かれてきました。しかし律法はかえって人の罪を露わにし、従えない人は滅びに向かう外なかったのです。バプテスマのヨハネは人が自ら進んで罪を言い表し、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受けることで、神の義を満たすよう用いられました。それは完全ではありませんでしたが、ヨハネがそのように道を備えたことによって遂に、イエス・キリストを通して神自らその義を満たされるという、霊によるバプテスマ、罪の贖いと救いの道が開かれたのです。
罪のないイエスさまはまさに私たちがどんなに水で洗いきよめても、ぬぐい去ることのできない罪、悔い改めても悔い改めても失敗を繰り返してしまうような私たち罪人が救われるため、イエスさま御自身が私たちの罪を身に負い、その刑罰を受けてくださった。Ⅱコリント5章21節にこうございます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」とあるとおりです。神さまは全きお方です。罪を見過ごされるようなことはありえません。ほんとうに神の義が満たされるため、それは私たちが罪から解放され、救いを得るためにイエスさまは来られたのです。
聖書は、イエスさまがバプテスマを受けて、水から上がられたとき、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。霊は、イエスさまの誕生の折からイエスさまと共におられましたが。イエスさまは、バプテスマを受けて「神の義を満たす」ための働きを開始されるにあたり、霊が鳩のように降るのを御覧になるのです。そこでその働きにおける確信と力をお受けになるのですね。私たちも又、聖霊のお働きを求めるわけですが、それは何か超自然的な現象を求めるためではなく、「神さまの御心が成る」。そのことのために求めるのですね。
さて、そのような霊が鳩のように降って来られたそのとき、「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」とあります。このお言葉を今日の宣教題とさせて頂きました。
この「わたしの心に適う者」というのも又、原語に忠実に訳せば「わたしは彼を喜んだ」というのが本来の意味なんですね。どうでしょう。「わたしは神さまを父なるお方として、又、その子として生きていきたい」「神さまに喜ばれる者として生きていきたい」。みなさまもそう願っておられるのではないでしょうか。
今日私たちは「正しいことをすべて行なうことは我々にふさわしいことです」とのイエスさまのお言葉を聞きました。そしてそれは「神の義を満たす」という本来の意味であることを知りました。
イエスさまは御自分を正しいとなさるのではなく、神さまの義が満たされるために御自分を従わせていく、その決意のバプテスマであった。それが神さまとの父と子の関係性であり、神さまの喜びであったことを覚えたいですね。
今年の新しい年の始まり、私たちも主イエスによって新しく創造された者として、今日から始まる一日一日、このイエスさまに従ってまいりましょう。「神さまに喜ばれる者」として。
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