日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2016年イースター特別企画

2016-02-28 15:30:47 | イベント
藍色のシャマール
~フリージャーナリスト後藤健二さん・彼の視線の先にあったもの~

【プログラム】
第一章:音楽劇「イマジナリーライン」
第二章:トークライブ
       ※約2時間を予定しています。


【日時】2016年3月26日(土)14:00  27日(日)15:00
※開場は開演の30分前

【開場】日本バプテスト大阪教会
    大阪市天王寺区茶臼山町1-17(JR/大阪市地下鉄天王寺駅より北へ5分)
     HP:obcs@jimdo.com
駐車場はございません。最寄りの公共交通機関でお越しください。

【出演】(五十音順)
伊冴美緋彩(WEB-CINEMARS)
熊谷憲八
齋之内遊
ながはままなみ(劇団ウンウンウニウム)
馬場さくら
山本英輝(未来探偵社)
《ダンサー》
ストット彩
西谷友里
吉野有紗
《ゴスペル》
ゆかり☆ゴスペル
大橋旬子(SOUL☆MATE)
Tomoko Murabayashi
和歌淳子
(公演により2名〜4名
でのゴスペルユニット)

【音楽劇「イマジナリーライン」あらすじ】
戦場ジャーナリスト・ケンジは、アキラを連れて紛争直後のとある町に取材に来るが、町の中心である教会のシスターに取材を拒否される。許可を何度も求めるケンジに、シスターはなぜ取材をしたいのか理由に納得できたら取材を許可すると言う。ケンジは、自分が何故ジャーナリストになったのかを話し始める…。大学を卒業したばかりのアキラは、ジャーナリストに憧れ、ケンジにコネでついてきたが、ケンジのやり方にまどろっこしさを感じ、単独行動にでる。そして「イマジナリーライン(超えてはいけない一線)に直面する…・。紛争地域の子供たちや市民の生活を取材し続けた、フリージャーナリスト後藤健二氏の体験談をもとにしたオリジナル書き下ろし作品。
【演出】馬場さくら
脚本家。演出家。水都大阪2009で大阪市長賞受賞。
第27回S1グランプリ奨励賞授賞。
エンターテイメント社会派演劇で活躍中。
【お申込み】http://my.formman.com/form/pc/6TLSLf76uiPbzsmn/
※車椅子の方もそのままお入りいただけます。
※パソコン画面による字幕表示があります。
【お問合せ】Email:info@sakura-presents.com
TEL:080-5302-7101(制作平野)
桜人企画(さくらきかく)
HP:http://sakura-presents.com/
SAKURA PRESENTS 色シリーズ第9弾

第二章:トークライブ
【土曜トークゲスト】
守田 早生里(もりた さおり)
フリーライター
(クリスチャントゥデイ記者)
短大卒業後、米国に留学。
外資系企業で勤務の後、
2004年に長男を出産後、翻訳、執筆業などの在宅ワークを経て、
現在は、フリーライターとして、地方紙、行政紙、キリスト教ウェブニュース「クリスチャントゥデイ」などへ寄稿。
2014年5月には、「クリスチャントゥデイ」紙で、後藤氏へのインタビュー「それでも神は私を助けてくれる」を寄稿した。
1995年に受洗。日本ナザレン教団教会員。

【日曜トークゲスト】
伊良子 序(いらこ はじめ)
作家。
昭和24年、鳥取市出身。関西学院大卒。
祖父は明治の詩人・伊良子清白。
神戸新聞社で、社会部、学芸部、論説委員室などで勤務。学芸部時代に長年、映画を担当、論説委員時代は朝刊一面コラム「正平調」を5年間担当。
新聞社在職中、平成8年に神戸市に委嘱され「神戸100年映画祭」の総合プロデューサーを務め、阪神淡路大震災からの文化復興を目的にした1カ月のロングラン映画祭を、世界から約二十人の映画人を招いて開催する。現在はNPO「神戸100年映画祭」顧問。
新聞社退社後は執筆活動に専念。著書に「スリーマイル島への旅」「ジョン・フォード/孤高のフロンティア魂」「昭和の女優」「猫をはこぶ」「小津安二郎への旅」など。主にノンフィクション、エッセーなどを執筆。
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イエスは真のぶどうの木

2016-02-28 15:29:17 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15:1-17 レントⅢ


先週はイエスさまが弟子の足を洗われた記事から、「互いに足を洗い合いなさい」というメッセージを聞きました。今日はヨハネ15章の箇所から、イエスさまが「ぶどうの木」のたとえをとおしてお示しになるメッセージに耳を傾けていきたいと思います。

パレスチナは豊かなぶどうの産地で、そのまま食べたり保存食としたり、またぶどう酒にしたりと生活に欠かせない農作物です。出エジプトの折にヨシュアとカレブがその地を偵察に行き、たわわに実ったぶどうの房を携え帰って、その土地の豊かさを示したとあります。旧約聖書はイスラエルの民をそんなぶどうの木にたとえ、詩編80編9節には「あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました」と記しています。
イエスさまはそのぶどうの木に御自分を重ねながら今日の冒頭で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とおっしゃるのですね。ここで、イエスさまが「わたしはまことのぶどうの木」と敢えて言われたのは、本物の良きぶどうの木とはいえない、実をもたらすことができないような木があったということです。
イザヤ書5章4節では「わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酢っぱいぶどうが実ったのか」と語られます。又、エレミヤ2章の21節で主は「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに どうして、わたしに背いて 悪い野ぶどうに変り果てたのか」と嘆いておられます。
イエスさまの時代もまた、多くの人々が主の救いの恵みを忘れ、その高慢によって主の愛と憐れみを蔑ろにするような事態が生じていたのです。イエスさまはそこで、「わたしがまことのぶどうの木である」と宣言なさるのです。そのイエスさまにつながることこそが豊かな実を結ぶことになる。これが今日の主題であるわけですが。
ところで、2節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる」とありますよね。ちょっと不思議に思いますのは、イエスさまにつながっていても実を結ばない枝があるというのは、どういうことなのでしょう。屁理屈かも知れませんが、イエスさまにつながっているなら豊かに実を結ぶ、と宣言されたことと矛盾しているように思えます。そのことにひっかかってなかなか前に進めなかったのですが。それは後程触れることにいたしまして。
先日は教会の玄関のバラの剪定が先日お花のことに詳しいYさんにご奉仕いただき助かりましたが。剪定の時期を逃しますと、バラの花が咲かないだけでなく、バラ自体もダメになってしまうということでした。又、柔軟に誘引することができる枝を残し、剪定する人の描く形に誘引することができない堅い枝は取り除く外ないことも教えてもらいました。ぶどうの木を剪定する場合もそうなのでしょうが。通常剪定は果実期の終わり頃に行われ、冬は幹とわずかな枝だけになってしまうそうです。そしてぶどうの苗木は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうです。石の上にも3年ではないですが、その間まあ徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、よき実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされていくというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である父なる神さまは見分けられるかということですね。私たちには正直分からないことです。
 ただ、ここでイエスさまは、弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃることに注目したいと思います。教会の玄関前のバラもしっかり花を咲かすためには土を消毒し、葉が繁ってくればこまめに消毒しないといけないそうで、そうしないと根っこも葉も病気になったり害虫がついたりします。
私たちクリスチャンも主のお語りになる言葉によって清くされることが必要ですね。
イエスさまがここでおっしゃる清さというのは、神の前において聖別されたことを意味します。よく言う、清潔感のある人とか言うのとは違います。私たち人間は自分では拭っても決して取り去ることのできない罪や性質があるものです。全き聖なるお方の前に立つとき、「わたしはきよい者です」などとは決して言えないでしょう。唯「世の罪を取り除く神の小羊」イエスさまによる贖いのきよめに与る外ない。それが私たちです。その救い主イエスさまのお言葉に聞き、与かって生きて行く時、主は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃるのですね。このイエスさまのお言葉、福音によって私たちも又、きよくされているのであります。

ここで見逃してならないのは、そのイエスさまにつながっていることの大切さです。
ぶどうの幹であるイエスさまにつながり続けること、御言葉にとどまり続けることによって必要な養分を日々いただき、それが豊かに実を結ぶ枝とされるということなのです。

今、イースターの信仰告白に向けて河さんのバプテスマ準備会を持っていますが。Kさんが大阪教会に来られて半年になりますが。ご本人を前にして何ですけれど、福音の力ってすごいなぁ。主はほんとうに生きて働かれ人を新しくされるって改めて思わされ、逆に私の方が力づけ励ましを頂いているのですが。こうした救いの恵みは、教会につながり、兄弟姉妹と共に御言葉に聞き祈る中で与えられたものなのですね。

4節で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と、イエスさまはおっしゃいます。ここに「あなたがた」と複数形で呼ばれていますように、実によい実が結ばれていくには、「あなたがた」、つまり主イエスにある共同体、教会につながること、その必要性がここで語られているのです。わたしたち一人ひとりがちょうどぶどうの房のように主にある共同体として共に御言葉に聞き、祈り合い、支え合うところに福音の豊かな実りがもたらされるのです。

さて、9節-10節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と語られています。
ここでイエスさまは「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃいます。それは父なる神が子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまは弟子たちを愛してこられた。そのイエスさまの愛にとどまるというのは、具体的には「イエスさまの掟を守ること」だというのです。さらに12節にあるように「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と、おっしゃるのです。
「互いに愛し合う」。かの12弟子といえども、それはイエスさまのお言葉なくして出来ることではありませんでした。ペトロが他の弟子をして「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ね、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられた、そういうエピソードがあります。イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。そして「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、イエスさまは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い変えられて、自らそれを十字架の最期の時まで実践なさったのです。
しかし、そんなことはできない。そんな愛など私のうちにないというのが私たちの現実ではないでしょうか。どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係なら何の苦労もいといません。けれどもイエスさまが招いておられるのは、自分の中には見出せないような愛、いわばこの世界では非常識な程の愛なのです。だからこそ、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたの足を洗ったように、あなたがたの救いを切に求めて十字架で血を流されたように、そのイエスさまにつながり、の愛にとどまり続けて、互いに愛し合うことを勧めておられるのです。
イエスさまはこれらのお言葉によって私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。それは私たちに重荷を負わせるためのものでは決してないのです。イエスさまにつながりその愛と救いの福音を知れば知るほど感謝が溢れます。私たちは主の体なる教会につながる中で「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さを発見し、育まれます。そうやって実りを得ていくのです。神さまの愛は、ある意味私たちが持ち得ない愛でありますけれども、しかし、イエスさまにつながり、イエスさまの愛にとどまり続ける者のうちに主は豊かにお働きくださり、実を結ぶものとならせてくださるのです。
2節に語られたとおり、主につながっているといいながら、実を結ばない枝はみな、取り除かれてしまうとございますが。大切なのは、主のお言葉に日々きよめられつつ、その愛と救いに共につながり、互いに愛し合うことです。そこに豊かな実りがもたらされると、イエスさまはおっしゃるのです。
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弟子の足を洗うイエス

2016-02-21 14:35:25 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ13:1-17 レント(受難節Ⅱ)

先日はローマ法王が移民政策について「どこであれ、壁を作ることだけを考え橋を作ろうとしない人はキリスト教徒ではない」と述べ話題になりました。先週のヨハネ12章20節以降からのメッセージでは、ギリシャ人という異邦人の訪問によってイエスさまの「時が来た」との宣言がなされたこと。又、弟子たちを通して民族や言葉の違いを越え神の福音がもたらされて来た事実をご一緒に確認しました。私たちも又、主に取り継ぐ・つないでゆく・橋渡ししてゆくという役目が託されています。
今日のメッセージはその具体的なあり方についてイエスさま自ら模範を示してくださったそのような箇所であります。私たちの教会の玄関には菅原画伯の絵がかけられていますが。イエスさまがひざまずき弟子の足を洗っておられ、弟子は何だか申し訳なさそうにしているという様子が描かれています。この絵は、新しくなって、さあこれから芽生え育っていこうとしている私たちに向けてのイエスさまからのメッセージとして贈って頂いたのだと、今回改めて気づいた次第です。立派な建物にまさってキリストの教会とされるのは、私たちが互いに足を洗い合うという実践においてであることを今日のメッセージから詳しく聴いていきたいと思います。

この「イエスさまが弟子たちの足を洗われる」洗足の記事は、ヨハネ福音書にしか記載されていません。他のマタイ、マルコ、ルカの共観福音書には、そのところにイエスさまが弟子たちと共にもたれた「最後の晩餐」の記事が記載されています。
先週はイエスさまが「時が来た」と言われ、「一粒の麦のたとえ」をお話になられましたが。今日の箇所でもイエスさまが「御自分の時が来たことを悟られ」て、自ら弟子たちの足をお洗いになったことが記されています。
「足を洗うこと」も「最後の晩餐をもたれたこと」も、間近に迫る神の時、十字架の道を前にイエスさまご自身の意志を弟子たちに示し、託されるためであったのです。

3節-5節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」

そうしてイエスさまが弟子たち一人ひとりの足を洗い、ていねいに手ぬぐいでふかれ、ペトロの番が来ました。ところが、師であるイエスさまの思いもかけぬ行為に驚愕したペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と必死に断ります。なぜなら足を洗う事は当時奴隷の仕事であったからです。まあペトロは師であるイエスさまに大変な敬意をもっていましたから、「わたしの足など、決して洗わないでください」とお断りしたというのは人間的に分かる気がします。私がもしそこにいたとしたなら、やはり「とんでもないことです」と言って遠慮したかもしれません。しかし、イエスさまはそんなペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになるのです。これまたペトロには大変なショックであったでしょう。
ここを読むとき、イエスさまをして一つの真理が語られているように思えます。
それは、私たち人間のもつ自然な感情から生じる思いが、そのまま主の御心に適ったものになり得るものではない、ということです。
私たち日本人は恥の文化を持っていると言われます。こんなことを言ったら、人と違ったことをしたら恥ずかしい。常識的でないから恥ずかしい。人様に迷惑はかけられない。それは立派なことである反面、過敏になり過ぎると、せっかくの恵みや善意が無駄になることもあるでしょう。
「もしわたしがあなたを洗わないなら。」
イエスさまが足を洗われる行為には「十字架の死による罪の贖い」が象徴されていたのです。主イエスが流される血によって罪ゆるされ、きよめられる。そのもったいない恵みに与ることがなければペトロも私たちもイエスさまと何の関わりもないことになるんですね。
前の教会で主の晩餐が行われる礼拝に必ずお休みなさる方がおられました。その方に事情を伺うと、主の晩餐の折に「回って来るぶどう酒の入った杯がうまくとれなくてこぼしてしまう。それで迷惑をかけるのなら主の晩餐のある礼拝は控えよう」ということが一番の理由だったことを知らされ、私はショックを受けたのですが。その方にぶどう酒をこぼすことよりも主イエスさまの恵みをそれで頂かないことの方が神さまは悲しく思われます、とお話しすると、それから主の晩餐に毎月来られるようになられたのですね。
また、よく、人のために尽くし、活動的な人は、逆に他の人から同様にしてもらうことに対しては、素直に受け入れることが難しい、ということを聞くことがあります。
人からしてもらうことを喜び受け入れることって素直で謙虚な心がないとできません。人に尽くすことはできても、人からしてもらうことを受け入れることができない人が意外と多いのではないでしょうか。
人の世話になること、人の手を煩わすことは良くない、という美徳があります。確かに謙遜なように思えますが、その裏側には自分の弱さや汚れた部分を周りには見せたくないという思いがあるかもしれません。それが悪い事だとは言えませんが、イエスさまが互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったこの「互いに」ということの中には、えてして人にしてあげる側に立っていたい人間の、あるいは人より立派でいたいという人間の願望に対するお言葉であると言えます。ただ受けるのでもなく、ただ仕えるのでもない、「互いに仕え合う」この関係性を主イエスは大切にされておられるのでしょう。
さて、イエスさまは、十字架にはりつけにされ自らをさらしものとされるそのお姿を通して私たち人間をまるごと愛しておられることを示されました。それはまさに私たちが周りには見せたくないような弱さ、汚なさを自ら負い、私たちがゆるされ受け入れられるためでした。それが十字架の愛なのですね。1節冒頭のところで、「イエスは、、、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあるように、主イエスはすべての弟子たちの足をお洗いになられました。それはどんな弟子たちもイエスさまによって洗って頂く必要があったということです。そこにはイエスさまを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダもいました。イエスさまがその「ユダの足をも洗われた」ということの意義はほんとうに奥深いものです。しかしよくよく考えますと、ペトロもイエスさまが捕えられた時、主イエスを3度否んで裏切ったのです。そういう意味では両者とも同じでありました。けれども2人が大きく違っていたのは、ペトロは主イエスのお言葉とその胸に刻みつけていたということです。そのことによって主に立ち返ることができたということです。イスカリオテのユダはイエスさまを裏切った自分をひたすら責め、罪責感でいっぱいのまま主の救いの言葉を受け入れることなく自分の命を断ってしまうのです。主イエスの愛を拒みゆるしを否んだことの代償はあまりにも大きなものでした。ペトロとユダのそこに光と闇の別れ道があるといえるでしょう。

さて最初に、イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、イエスさまが御自身の意志を弟子たちに示し、託すものであったということを申しました。

14節-15節
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」

イエスさまは、弟子たちの度重なる「誰が一番偉いだろうか」という議論を耳にする中で、自ら奴隷のようになって弟子たちの足を洗われました。互いに仕え合うこと、その仕えることと受けることを、自身の姿をとおしてお示しになられたのです。これ以上言葉を要しないほどの説得力をもった模範をイエスさまご自身がお示しになられたのです。そのお姿は弟子たちの胸に刻みつけられたことでしょう。
私ども人間同士の関係というのは、どこか自分に心地よく思えるところでは共感もし、受け入れあうことができても、わずらわしい部分やうっとうしく思えることがあると、自分とは関係ない関わりを断ってしまいたくなるものです。しかし、いつもその自分のその感情のままに関わりを断ってしまうような集まりなら、世のサークルや団体と何ら変わりありません。肝心なことは、主イエスが自ら模範をお示しになられたとおり、一番汚れているように思える足を洗い合うように、主イエスの愛とゆるしの中でキリストの弟子とされる、ということであります。
日常の生活において「足」は頻繁に洗う必要があるほど、汚れやすい部分であります。1回洗ったからずっときれいというものではありません。同様にその都度その都度主にゆるされているのですからゆるすものとなり、受け入れられているものとして受け入れるように努める。その関係性を喜び合えることにキリストの教会たる福音のかおりが放たれてゆくのではないでしょうか。私どもはうみつかれることなく、キリストの愛が満ち溢れることに期待してまいりましょう。
今、レント、受難節のただ中で私たちの歩みがなされておりますが。主イエスさまが僕の姿となって人に仕え、十字架の死に至るまで愛し抜いてくださったそのお姿を模範とし、この深い主の恵みをより多くの方々と分かち合うべく、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」とのお言葉に聞き従ってまいりましょう。
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時が来た

2016-02-17 14:23:43 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ12・20-28節 受難節(レント)

今日のお話で、まず、ユダヤの祭の時期に礼拝するためにエルサレムに上ってきた何人かのギリシャ人が、イエスの弟子のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ、と記されています。彼らギリシャ人がユダヤ教に改宗していたのか、ユダヤ教に興味を持っていたのか定かではありませんが、イエスさまのなさったしるしやお働きを耳にして何か聞いていて、何とかイエスさまにお会いしたいという思いがあったようです。けれども彼らはギリシャ人でしたから言葉がうまく通じません。そこで彼らは、ギリシャ語名をもつフィリポに話せば何とかイエスさまに取り継いでくれるに違いないと考えたのでしょう。すると、フィリポは同じようにギリシャ語名を持つもう一人の弟子アンデレにそのことを話し、二人は行って、イエスさまにそのギリシャ人たちのことを話した、とあります。

その後、イエスさまがこのギリシャ人たちと会われたかについては何も記されていませんが、ただここから読み取れるのは、彼らがイエスさまの弟子たちを通してイエスさまにお会いすることを願ったように、主の福音が弟子たちを通して、民族や言葉の違いを乗り越え伝えられていくことを象徴的に物語っているように思えます。イエスさまに「取り継ぐ、つないでいく、橋渡していく」という役目。それは今も私たち一人ひとりに託されています。昨年は大変多くの新来会者が礼拝に集われました。それも今日の聖書ではありませんが日本以外の国々の方々も多く来られ、通訳者が必要な折に、主は大阪教会に必要な通訳できる方々を起こしてくださいました。昨年の来会者の一人で台湾から日本語の勉強に来られていたクリスチャンのKさんは、台湾に帰国されて自分の教会に大阪教会のことを報告され、数か月して同じ台湾教会の青年が日本に来られた折に大阪教会を訪ねて来られたということもございました。未信者、クリスチャン問わず新来者を主イエスにあって心をこめてお迎えし、交流の時を持つ事をとおして主にある喜びを分ち合うことがこれから益々期待されています。

さて、ギリシャ人たちのことを取り継いだアンデレとフィリポらの前で主イエスは言われます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」
この「栄光の時」とヨハネ福音書が記すとき、それはイエスさまが十字架の苦難と死を引き受けられる時のことを示している、ということを何度も礼拝宣教で話してまいりましたが。イエスさまはカナの婚礼のときに現わした、水をぶどう酒に変えられた最初のしるしの時から、幾度も様々なしるしを行われながら、「わたしのときはまだきていない」と言われたのです。ところが、まさにその時が来た、とここでおっしゃるのですね。

それまでイエスさまの宣教活動の対象はほとんどユダヤ人に限定していました。マタイ10章で主イエスは「天の国は近づいた」との福音を伝えるため弟子たちを派遣なさるのですが。それに際して弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられていました。
 しかしヨハネ福音書は、この福音の訪れから除外されていたギリシャ人たちの来訪を機に、イエスさまの「人の子が栄光を受ける時が来た」という宣言をもって、宗教的な隔ての壁や民族的な境界を越えて、福音が広く世界に及んでいくその新しい時代のはじまりを告げるのです。そうして私たちも今、隔ての壁、様々な違いを越える福音の恵みに与かっているわけです。

ところで、イエスさまはここで御自分を「人の子」と言っておられますが、それは何を表しているのでしょう。旧約聖書の預言書の一つであるダニエル書7章13-14節にこういう記事があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。」 まあ、このように全権をもつ王、メシア(救い主)として来られたことを世にお示しになった、と読むことができます。今日のエピソードの前には、民衆がイエスさまを熱狂的に迎える場面が記されていますが。そのようにイスラエルの民は彼をローマの圧政から解放し治めてくれる王、メシアの登場を切望していたといえます。
 それは、イエスの弟子たちも同様にそういった人の子のイメージを抱いていたことは否めません。ですから、イエスさまがここで「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたことを聞いた弟子たちは、いよいよ主がローマの支配を打ち破って、イスラエルの王国を再建なさる「時が来たぞ」と、高揚した気持になったのではないでしょうか。
ところが、イエスさまはそんな弟子たちの期待とは裏腹に、「一粒の麦」のたとえを通して御自分が「十字架の苦難と死によって栄光を現わされる」ことをお語りになるんですね。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
これはユダヤの人々をはじめ弟子たちには思いもよらぬショッキングな言葉だったに違いありません。「人の子が栄光を受けるための時が来た」と聞き、大いに期待を膨らましたのに、「人の子は地に落ちて死ななければならない」と言われ、弟子たちの心境はまさに急転直下といえるものであったでしょう。

ここでイエスさまは、イスラエルでも主食であった麦、その一粒の麦をたとえにして、
御自分の生涯、担うべき十字架の苦難と死を示されます。麦は命の糧として貴重なものです。麦は土に蒔かれると人に踏まれます。そうやって踏みつけられることによって芽を出し、しっかりと育っていきます。地に蒔かれもせず、踏みつけられないで大事にとっておかれるだけなら、それは一粒の麦のまま、何の役にも立たず人を生かす命の糧とはならないのです。イエスさまは御自分が地に落ちた一粒の麦のように、あたかも踏みつけられ、冷たく暗い土に埋められる一粒の麦のように死ぬことによって、やがて多くの実を結ぶことになるということをここで明らかにされたのですね。
イザヤ書53章11節に預言されたように、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」とあるとおりです。このイエスさまの十字架の苦難と死による実りをおぼえると共に、益々主イエス福音が実を結んでいくことを願うものです。
続く25節には、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。これを世間一般の人が読むと、キリスト教の教えは難しい、と感じる方がおられるでしょう。自分の命を愛することは大事なことのはずです。そして自分の命を憎むということほど自虐的で否定的なことはないと思います。そのまま読みますと命を粗末にするような表現になりそうな言葉ですけれども。岩波訳聖書は、「自分の命に愛着する者は、それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、それを永遠の命にまで護ることとなる」と訳されています。
イエスさまは、自分の命を利己のために保とうとすればそれを失うが、自分の命を主と人のために使い果たそうとする人はかえってそれを得て、永遠の命(神の命)に至る、と言っているのですね。ここで使われている「命」は人間に備えられたあるがままの命、ギリシャ語でプシュケーです。それは生理学的な命、肉体を抱える自然的な命です。ですからやがて衰え消えゆくものです。それはある意味限界を持つ命のことですよね。けれども、神と人のために私たちがそのプシュケーの命を使い果たしてゆくとき、かえってそれを保って、「永遠の命」、ギリシャ語でゾーエーの命に至るっておっしゃるんですね。「永遠の命」という言葉が実にこれほどの重みをもっているということをここで見るのであります。

最後に、イエスさまは真に神の子でありますが、又、全く私たち同様人間としてこの地上にお生まれになり、そのご生涯を全うなさいました。先程申しました、人としての命と永遠の命のせめぎ合いのなかでもだえ苦しまれるイエスさまのお姿を、本日の27節以降のところで伝えています。それは他の共観福音書にございますゲッセマネの園で、血の汗をしたたらせながらもだえ祈られたお姿を重ねて見るのでありますが。
ここで、イエスさまはこのように訴えておられます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。父よ、御名の栄光を現わしてください。」
イエスさまが「心騒ぐ」と叫ばれた、「心」は実は「プシュケー」、人間の自然の命、限りある命を指し、そこにはイエスさまであられても想像を絶するような苦悩があられたということであります。十字架の苦難と死が差し迫る中での苦悩と恐れから、イエスさまは父なる神さまに、「わたしをこの時から救ってください」と訴えて祈られたのですね。十字架の道はイエスさまにとっても受け入れ難いものであった。
けれどもその後で、イエスさまは、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と御自分に言い聞かせるようにおっしゃって、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られるのですね。「自分の命を救ってください」という命を保つ訴えから、まさにこの時のための命として父なる神さまにすべてをゆだね切って行く決意を表されるのです。イエスさまは永遠の命の初穂となるためこのように地に落ちた一粒の麦となって下さった。この事を深く想う時、私たちも25、26節のみ言葉にア―メンと唱和させられのではないでしょうか。
イエスさまのその祈りに28節、すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」
それは父なる神がこれまで御子イエスさまを通してなされた多くのしるしによってその臨在と神の国を証されたように、十字架の道を通してその大いなる栄光を遂に現わそう、という約束の声であったのですね。
そして「神の最大の栄光。」それこそは御子イエスさまの十字架の苦難と死を通してなされた全人類のための救いのみ業であります。この事実を今日も確認したいと思います。今や一粒の麦主イエス・キリストによってもたらされた救いの福音が、民族的な境界を越えて、広く世界に多くの実りをもたらして来たことを私たちは知っています。私たちも又その実りの麦であるのです。
先週読みました「イエスこそ、復活であり、命である。」3章16節の「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」その命のみ言葉が今も世界中において、又私たちのうちにも生きて働いているその幸いおぼえつつ、これからも主の救いの福音が世界の至るところに蒔かれ実り続けていくよう、この受難節より祈り、努めてまいりましょう。
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死をも越える信仰

2016-02-07 14:05:00 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ11・1~27 

本日は「ラザロの死と復活に関する」11章の記事から、御言葉に聴いていきたいと思います。エルサレムの近くにベタ二アという村がありました。そこにマルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟が住んでいました。イエスさまはこの兄弟とは以前から顔見知りで、度々彼らの家に泊り、そこで神の国のお話をなさっておられたのです。この3人とはことのほか仲が良く、5節にあるように、イエスさまは「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」のです。ところが、そのラザロがかなり重い病気に罹ってしまいました。心配でならないマルタとマリアはイエスさまのもとに遣いを送って、助けを求めます。この時イエスさまはヨルダン川東部において宣教活動をなさっていました。そこでは多くの人たちがイエスさまを信じた、とあります。イエスさまは人々に必要とされ多忙であったに違いありません。それでもマルタとマリアの姉妹はイエスさまが自分たちの兄弟、そのラザロのことを愛しておられることを知っていたので、きっとすぐにラザロのもとに来て、手をおいて祈ってくださると思っていたのです。
 ところがイエスさまはラザロの病気の知らせをお聞きになると、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃって、「なおも二日間同じ所に滞在された」というのですね。なぜイエスさまはラザロのもとに直行されなかったのでしょうか。それはイエスさまがラザロを愛しておられたと聖書がわざわざ伝えていることと矛盾するように思えます。
 興味深いのは、5節で「イエスさまがラザロを愛しておられた」この「愛」はギリシャ語訳で「アガペーの愛」であることです。つまりそれは「神の愛」であったということです。これど3節の、マルタとマリアの姉妹がイエスさまのもとに遣いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたその「愛」は「フィリア」すなわち「友情や善意の愛」が使われています。イエスさまとラザロら兄弟との関わりはそういった友情や善意が確かにあった、働いていたでしょう。ほんとうに善い人間関係がそこにあったことでしょう。しかしそれによってイエスさまがラザロのもとへ直行なさることはなかったのです。聖書は、イエスさまがアガペー、神から来る愛をもってラザロを愛しておられたがゆえに、なお二日間そこに滞在された、ということを記すのであります。では、イエスさまが二日間もラザロを放置されたようになさったことのどこがアガペーの愛なのか。そのことについて見ていきたいと思います。
 第一に、イエスさまは言われます。「この病気は死で終わるものではない。」
どういう意味でしょう。イエスさまははっきりとそうおっしゃるのです。口語訳聖書を見ますと「この病気は死ぬ程のものではない」と訳してありますが、正しい訳ではありません。ラザロは文字通り死ぬんです。人間にとって死は破壊的な力をもっています。なぜならそれはすべての終わりであり、すべてが終わるんです。しかしイエスさまはここで、「ラザロは死ぬが、それは死で終わるものではない」とおっしゃるんですね。終わらないんですよ。それは、彼の死が滅びでも絶望でもない、ということであります。

第二に、なお二日間留まられるのは、これからラザロの上に起こる出来事によって「神の栄光のためである。神の子がそれに栄光を受けるのである」と、イエスさまは言われるのです。
ヨハネ福音書が「神の栄光」というとき、それは「イエスさまの十字架の苦難と死」を意味しているということを幾度も宣教で申しましたが。
ここでのラザロの病気、死、さらによみがえりは、間近に迫ったイエスさまの苦難と死、復活を指し示す「しるし」なのです。
そのことと関連しますが、イエスさまは弟子たちに「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われます。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言ったとあります。弟子たちはまだラザロは眠っているので、イエスさまが起こしにゆかれるんだ、とそのようにイエスさまの言葉を誤解します。
イエスさまはその弟子たちにはっきりと言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」
「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたのいためによかった」というのはどういうことでしょう? この言葉の意味は少し難解ですけれども。イエスさまがたとえばラザロの重篤の病床にかけつけて病気をおいやしになることもできたお方だと思いますが。ラザロが死んだのは、17節によりますと、イエスさま一行がベタ二アに着いた時、ラザロは死んで墓に埋葬されてからさらに4日が経っていたことが分かります。それを勘案しますと、マルタとマリアの遣いがイエスさまのところにその伝言を持って来たその日くらいに、ラザロはすでに死んでいたということになります。イエスさまはラザロが死んだことをご存じであったのではないでしょうか。つまり、イエスさまはラザロの死を知っておられ、その上で「わたしは彼を起こしに行く」と言われているのです。それを考えますと、ここでイエスさまが弟子たちに、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」という意味が解けます。

イエスさまにはその後、十字架の苦難と死をお受けになります。それは弟子たちに耐え難く乗り越え難い躓きとなっていくのです。イエスさまは、死んだラザロを生き返らすしるしを通して、弟子たちに「死をも越える命の信仰」を示し、それを彼らに与え、彼らを力づけようとなさったのであります。私たちも又、信仰の目をもってその「神の栄光」、神の御子、主イエスの十字架の苦難と死によってもたらされる復活の命の希望に活かされているのですね。それは主イエスを信じて日々歩む私たちにとっても、大きな力と支えであります。

さて、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまを迎えに行くと、開口一番「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。彼女はイエスさまに病人をいやす力があると信じていたがゆえに、ラザロが生きていた間にイエスさまがおられなかったことが残念でなりませんでした。しかし、彼女には微かな信仰の望みがあったのです。マルタはイエスさまに言います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」かすかに望みがあると思いましたのは、マルタが「今でも」と言っていることです。それが起こった今でも、そんなことになってしまった今でも、主よ、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは承知しています。」
その彼女にイエスさまおっしゃいます。「あなたの兄弟は復活する。」
それに対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。マルタの答えはユダヤ社会一般に通じている復活観であったのです。しかしここでイエスさまが言われるラザロの復活は終末の時ではなく、まさに「今」イエスさまのお言葉が投げかけられたその時を指しているのです。
イエスさまはここでマルタと一対一で向き合いこう言われます。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ここで、イエスさまは「御自分が復活であり、命である」と言われます。そのイエスさまを信じる者は「死んでも生きる。」ここにキリスト信仰の神髄が語られているのでありますが。皆様の中にはこのイエスさまの「死んでも生きる」とその後の「生きていてわたしを信じる者はだれも、死ぬことはない」と言う言葉とは矛盾しているのではないか、と思われた方もおられるでしょう。信じている人が死なないのなら、死んでも生きるというのはおかしいのでは、と。
それについてイエスさまは今日の箇所で、はっきりと「ラザロは死んだのだ」とおっしゃっています。始めにお話しましたように、死は必ず私たちに訪れます。私どもの肉体は朽ち果てます。しかし肝心なのはそれで終わることはない、という事であります。

聖書教育誌のコラムに次のような記事が掲載されていたのでご紹介します。「4節に、『この病気は死で終わるものではない』というみ言葉がありますが、これをひっくり返して題名にした書、それがキルケゴールの『死に至る病』です。この本の冒頭、緒言のところで彼はこのみ言葉から語っています。「ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだから、この病は死に至らないといえるのではなく、キリストが現にそこにいますから、それだから、この病は死に至らないのである。」
キルケゴールは復活のキリストに結ばれて生き続ける「命」のことをいっているのですね。死とは罪の報酬ですが、それで終わることのない「命」をもって生きる者でありたいですね。

最後に、イエスさまは「このことを信じるか」と、マルタに問われます。この問いかけはそのまま私たちへの問いかけであります。マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。マルタはまだラザロの復活を見ていないのです。ラザロに何が起こるのか彼女にはまだ分からなかったでしょう。しかし彼女は「主イエスよ、あなたを信じます」と、ここですべてを主に委ねて生きることを決意するのですね。

ヘブライ人の手紙11章に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されているとおり、マルタはそれがまだ見えていない中で、主に信頼し委ねきったのです。見えるから信じる、というのは信仰ではありません。目には見えない中でなおそれを望んでいくからこそ信仰なのです。主はその信仰を私たちに期待しておられるのです。
聖書はその後、復活であり、命である主イエスがラザロを死からよみがえらされたことを伝えます。単なる現象やしるし、見えるものによってではなく、命の主を信じ、主の命に与り、主につながって生きることこそ、死をも越える命の道であります。
私は今日のこの箇所を読みながら、昨年暮れに重篤の中、一時意識を回復された折に、その病床で「主イエスを救い主と信じますか」という問いかけに、「はい、信じることにいたしました」と、信仰告白されて死の床から起き上がったY兄のことが思い起こされました。10日間という喜びの中で教会に歩いていくための練習をなさり、クリスチャンとしてご家族、教会員と実に濃い時間をもたれ、主のもとに召された兄弟。ほんとうに、主がその時を備えてくださったことにただ感謝。兄弟の出来事を通して私たちも又、マルタとマリアのように命の主、復活の主に結ばれている確信と、その確認をさせて頂き、さらに感謝でした。

最後に、私たちが生きる世界で、神が無力であるように思えてならない現実の悲しみや絶望に直面することがございます。しかし、この私たちの苦悩を十字架の苦難と死を身に負われたイエスさまご自身が誰よりもご存じであります。自ら私たちの苦しみや悲しみ、痛みや悩みをすべて知ってくださった私たちの主イエス・キリスト。それは他の何ものにも替えがたい私たちの生きる力であります。今日の聖書のメッセージ。イエスさまが十字架の苦難と死、そして復活をもって打ち開いて下さった命の道を、今週も主に導かれ、従ってまいりましょう。たえず現わされた神の栄光、主イエスを仰ぎみつつ歩んでまいりましょう。
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