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道をそれて

2020-08-16 13:18:19 | メッセージ

礼拝宣教  出エジプト3章1-15節

 

「燃え尽きない柴」

今日の箇所は、よく知られている「燃え尽きない柴」の光景を前にしたモーセと召命のエピソードであります。

モーセは「燃え尽きない」柴を目にした時、「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言った、とあります。

かつてシナイ山に登る機会を得ました時、その山頂で目にしたのは、夜明けと共に日の出の光が山々の草木や山肌を照らし、まばゆいほどの黄金色に映し出された光景でした。それが、私の見た「燃える柴」でありましたが。

このところで肝心なのは、4節にあるように主なる神も、「モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった」ということです。

実にこの「道をそれて」という言葉には、モーセのエジプト逃亡からミデアンの地に逃れ、身をおいた40年もの長い道のりが象徴されているかのようです。

 

人の目からすれば、神はなぜもっと早く若い時にモーセを召し出して出エジプトを遂行されなかったのか?と思えます。モーセのミデアンでの40年はあまりに長く、神のお働きがそこにはないようにも見えます。

けれども、そうではありません。モーセが神のご計画のために用いられ、遣わされるには「道をそれて」と言えるような、ミデアンでの40年間の時が必要であったからです。

それは、かの地での出会いや経験、自分を見つめ神への信仰を立て直していく霊的な時間が必要であったのです。

 

人生はよく道にたとえられますが。道には、坂道、下り道、近道、回り道、迷い道、寄り道などいろいろあります。まあ大方の者にとっては回り道をするよりか近道をしたいものです。

神の人モーセでさえエジプトから異邦の地へ逃亡せざるを得なかった折、一体何でこのような目に遭わなければならないのか、思えるような時があったということです。

けれどもその道を歩む中で、彼はエテロやチッポラらと出会いを通じて癒され、育てられ、訓練されるのです。モーセはその地で実に40年という歳月を経る中で、神に遣わされていくために整えられていくのです。

 

「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」。その光景は神さまの臨在を顕していますが。同様にモーセがどのような状況、どのような心境で生きてきたとしても、神はモーセと共におられ、その選びと導きは絶えることがないことを、物語っているように思います。

モーセはその光景を「道をそれて」見に行きました。そこで自分の主であるお方と対面し、自分の本来行くべき道を示されるのです。

 

私たちも又、せわしない日常から離れ、自分の主なるお方と対面し、自分の本来行くべき道を確認する時が必要です。

日常からしばし離れ、一歩退き、自己を見つめ直していく信仰の再確認の時が必要だということを、この柴のエピソードは示しているようです。

私たちは時に、こんな日常に意味があるのか、と考えたりするかも知れません。又、祈っているのにどうしてこんなことが起こってくるのか、という出来事に直面することもあります。

偉大なモーセであっても人としてそのように思い悩むことがあったかも知れません。

私たちは今コロナ禍にあって、日常も礼拝も集会も、主にある親睦や交流や活動も、

様々なことが今までのようはいかない、出来ない、思うようにならない事態に直面していますけれども。

しかし、そういったある意味「道をそれて」いるように思える中においても、主である神さまは私たち一人ひとりを見守り続け、燃え尽きることのない愛と恵みをもって導いておられるのです。

この主なるお方の信実に私たちも又、信頼をもって応えていくものでありたいと強く願うものです。

 

さて、神は柴の間からモーセにお語りになります。

「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。

ここで神は、「わたしはあなたの先祖の神である」という彼のルーツについて証言なさっています。

イスラエル人でありながらエジプト人として育ち、そこから追われて異邦の地に寄留者として生きる自分とは一体何者なんだろう。先祖の神とその祝福から除外されたように思える人生。

神さまはそんなモーセに「わたしはあなたの神である」と、おっしゃるのです。

これはどんなにモーセにとって驚きであり、畏れ多いことであったでしょうか。

モーセが「神の顔を見ることを恐れて顔を覆った」とありますが、その衝撃的思いが伝わってくるようです。

 

「モーセの召命」

さて、神はそのモーセを、出エジプトのご計画を遂行されるために次のように召し出されるのであります。

7-10節「わたしは。エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。

世の力によって虐げられ、苦しみの中で叫び祈る民の叫び声を聞かれる神さまは、その苦しみや痛みを自らのものとして感受されるのです。それだけではありません。神さまは「降って行き」とありますように、その民のおかれる低みへ自ら降られて救いと解放のみ業をなされるのです。その解放と救いのためにモーセをお立てになるのです。

 

しかし、モーセはこの神の召しに対して、「わたしは何ものでしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さなければならないのですか」と否定的に答えます。

いまだ彼の心の奥深い所には、エジプトでの殺害事件や同胞であるはずのヘブライ人から罵られた事がずっとひっかかっていたのです。「わたしは何者でしょう?」「自分のような者がどうしてそのようなことができましょうか?」

同胞からも信用されず、罵られるような自分がどうして同胞を救い出す大任を果たし得ることができるのか?

彼はイスラエル人としての負い目を抱えながら、どうすることもできない弱さと無力感をずっとひきずっていたのです。

 

では、神さまはそのようなモーセに対して何とおっしゃたでしょうか。

モーセ、「あなたこそ適任だから」「あなたにその能力があるから」と、そんなことはおっしゃらないのです。神さまはモーセがどうであるかという事には一つも触れず、12節においてただ、「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と、おっしゃるのです。

モーセが目の当りにした「柴は火に燃えているのに、燃え尽きなかった」その光のように、どんな時も、どこにいても、神が共におられ、その恵みと憐みは尽きることがない、「わたしは必ずあなたと共にいる」。この神さまの約束が、あなたを遣わすしるしだ、とおっしゃるのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。それは今や、主イエス・キリストによる新たな約束、新しい契約に生きる私たちに向けて語られている希望のお言葉であります。

インマヌエル、神は共におられるというお約束、それをしっかりと受け取っていくところに、神さまがお造りくださった人間の本来の生きる意義を見出すことが出来るのです。

 

「名を開示する神」

さて、モーセはそこで神にこう尋ねます。

13節「わたしは、今、イスラエルの人のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何』

と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。

一見、モーセは神の召しに素直に答えたように見えますが、はたして彼らはどうしたら自分を信用してくれるのだろうかということで、まだ神の召命を承諾してるわけでないことが読み取れます。

神はそのモーセに、14節「わたしはある。わたしはあるという者だ」言われます。

そして「『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと、イスラエルの人々に言うがよい」と、おっしゃるんですね。

 

名前を語るときその相手との人格的な関係が生じます。そこに信頼と責任の関係が伴います。名前を語らぬ関係、匿名だとそうはいきません。

神はここでまず、モーセにご自身のお名前を開示なさったのであります。

名乗ることで神は親しく近づかれ、人が神と出会うことができるようになさったのです。

この「わたしはある」については、いろいろな解釈がありますけれども。天地万物を創造し、すべてのいのちの主であられるお方が人と出会われ、「わたしは必ずあなたと共にいる」、共にあるとおっしゃるのです。この主なる神さまが「わたしとあなた」という非常に近しいお方として人と出会われ、共におられるお方としてその名を言い表されるのです。

 

「罪の解決」

モーセは何よりもこの神によって、自らが何者であるのかを確認し、神との和解の道へ招かれているのです。それまでの半生、人を殺めたこと、同胞からの罵りや排斥の言葉に傷つき、父祖の神の祝福から切り離されていたような40年だったのではないでしょうか。それは、自分という存在を取り戻せないまま罪の中に埋没してしまうような人生で終わっていたかも知れません。

モーセとって「私の主」「私の神」との出会いがなかったのなら、彼はおそらく自分が存在している意義を見出すことなく、「自分の罪のうちに滅んでいった」のではないでしょうか。

彼自らが何者であるのかを思い起こさせ、生きる意味を与え、立たしめたのは、「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われるお方であったのです。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。今、新しい神との契約の時代に生きる私どもにとりまして、「神があなたと共にいる」との約束はまさに、「神我らと共にいます」、「インマヌエル」という名をもって、救い主としてお生まれくださった主イエス・キリストにおいて実現されています。

主イエスは、「わたしはある(あなたと共にいる)ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ福音書8章24節)と、おっしゃいました。

「わたしは必ずあなたと共にいる」。私どもはこの神さまのお約束によって神さまと和解の道、救いの道が開かれ、新たな人生を生かされていることを今日のみ言葉から受け取っていきましょう。

 

今日は「道をそれて」という宣教題をつけましたが。

私たちにとって道をそれてというような、人生の回り道と思える時、又不測の事態といえるような時があったとしても、燃え尽きることのない柴をモーセが見たように、「あなたに対する愛と憐み、人生におけるご計画は尽きることがない」という神さまの信実に堅く信頼しつつ、共におられる主、イエス・キリストにあって、御言葉の招きに応え、今週もここから歩みだしてまいりましょう。

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