宣教 ガラテヤ6章11~18節 受難週
本日より受難週に入りました。主イエスの十字架の苦難と死を偲びつつ、来週の復活祭・イースターを心から喜びと希望をもってお迎えしていきましょう。
先週礼拝で旧会堂の玄関前に処分することになった教会の古書や聖書と讃美歌などを二つのボックス棚の中いっぱいに並べ、旧会堂の最後の福音伝道がなされている、と申しあげましたが。ほんとうに多くの方が立ちどまり手に取って聖書や信仰書を読んでおられる姿を、私も何度も見かけました。古書や聖書がみるみるうちに減っていきほぼなくなりましたので、本棚の方は残念ですが片付けました。又、教会堂建替えのための仮会堂移転の張り紙にじっと目をとめておられる人を何人も見かけました。この天王寺という寺町では、四天王寺や一心寺などにお参りに行く方々が大変多くおられるわけですが。お参りで教会前を行き交うその中に、キリスト教や教会に興味をもっておられる人も予想を超え沢山さんおられるということを今回改めて示された思いです。ただ、興味や関心はあっても、一歩を踏み出して教会や礼拝にまでといいますと、それはなかなか戸惑いや不安もあり、勇気がいることではないでしょうか。勇気がいるのではないしょうか。
今後新会堂へ移行したときには、どうしたらそういう方々が教会や礼拝に足を運べるのか、祈りながら備えていきたいですね。この前を通る一人でも多くの方々にキリストの福音を知って戴きたいと心から願います。
さて、本日はガラテヤの信徒への手紙より「主イエスの十字架」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。ガラテヤというのは都市や町の名前ではなく、当時ローマ帝国の領土として、行政区画された地区の名、ガラテヤ州のことです。
パウロはその小アジアのガラテヤ州にかつて数回宣教旅行をして主イエスの福音を伝え、幾つかの教会ができていったようです。パウロが最初に福音を伝えた時は、心から敬愛の念をもって教えに聞き従ったガラテヤの信徒たちでしたが、パウロが去った後、そこにキリスト教でありながら、なおかつ律法を重んじる指導者たちがやってきます。彼らは律法に従い割礼を受ける事をガラテヤの信徒たちに強く勧めるのですね。「そうすることで霊肉共に真実な神の民になることができんだよ」というようなことが教えとして持ちこまれてきたのですね。ガラテヤの信徒たちは、彼らの教えに戸惑いながらもそれに影響され、彼らの教えを信じ、パウロが伝えた主イエスの福音とその教えから離れ、割礼を受けようとする者、同じ信徒たちにもそれを強いて受けさせようとする者もいたようであります。
割礼は「産まれた男児の包皮の部分を切り取ることで神との契約のしるし」とする、旧約時代からユダヤの人々の間で受け継がれて来た儀式であります。今も旧約聖書の律法と教えを厳格に守るユダヤ教の人々は割礼を守っておられますが。それは彼らにとって大切な信仰者の要素でもあるのです。割礼によって清められた者のみが神との契約に入ることが出来得る。いわば神に選ばれた清き民のしるし、それが割礼であったのです。
しかし、神の子イエス・キリストによる新しい契約が始まった時、人が律法を守らねば救われないというのではなく、神から与えられた贖いの業を信じ、受け入れることで救いがもたらされることになったのです。
当時のガラテヤの信徒たちの状況というのは。新しい契約から古い契約に逆行するようなことであり、パウロ曰く「神の恵み、キリストの死を無駄にすること」でした。そのことを知ったパウロは、再びガラテヤの信徒たちに正しい信仰に立ち帰ってほしいと強く願ってこの手紙を書き送ったのでした。
本日の箇所は手紙の最後の部分でありますが、パウロの譲ることのできない福音の本質に係るゆえの情熱とガラテヤの信徒への親のような愛情が激しいほど文字に表れております。
パウロは外部から来た割礼を受けさせようとする指導者たちのことを次のように言っています。12節「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。」
確かにユダヤの律法を厳守する人たちからの迫害は大変なものであったでしょう。割礼を受ければある意味いい逃れ出来るような部分も実際あったかも知れません。又、それを受けることが一種のステータスといいますか、自分は神の民の一員となったみたいな思いをもったのかも知れません。
そんな人たちの中に、「イエス・キリストは神の子メシアで、それを信じたら救われる。なにもわざわざ神の子が、十字架刑にかかり無残にも殺されたということまで強調しなくても、キリストを神の子と信じて割礼も受けたら神の民になるから、それでいいじゃないか。身の安全にもなるし、社会においても摩擦なく、もっと堂々とうまく布教できるじゃないか」。どこかそういう考えがあったのではないでしょうか。
そういう人々に対してパウロは次にように書いています。
14節、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。
十字架は、当時凶悪な罪人に対してなされた最も残酷な極刑でした。十字架は極刑の道具。その十字架刑で神の子が殺された。それは多くの人々にとっては躓きでしかありませんでした。けれどもパウロにとっては、いや、キリストの救いを信じる者にとってはむしろ誇りである、とパウロは言うのであります。
かつて日本の多くのキリスト教会が、国家護持と国体のもと、天皇を神と崇拝した後で礼拝を守っていたという大変残念な歴史があります。クリスチャンというだけで売国奴、敵の宗教と決めつけられ、白い目で見られた時代です。しかしそのようにして迫害を避け、教会の保身をはかるため神ならざるものを神とし、願わずとも戦争に加担することになっていきました。確かに当時の過酷な時代に生きた人々でないとその思いを知ることはできないでしょうが。しかしそれはもはや礼拝とは言い難いものだったのではないでしょうか。それも又、「主イエスの十字架を語らない罪」といえます。もう二度とそのような罪を犯さずにすむ平和な世界、信教の自由が守られる社会が実現されることを願うものですが。ご存じのように憲法改正がいよいよ具体化しよとし、戦争ができる国づくりの準備が刻々と進められているように、今日の日本の状況は予断を許さない領域に来ています。しかし、いかなる時代にあっても「主イエスの十字架こそ人間の罪と神の救い」であり、キリストの教会はそれを抜きには存在し得ないのです。
さて、パウロが「キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはならない」と訴えているのには、わけがありました。
彼もかつては優秀でユダヤ教徒として律法に精通するエリートであり、大変熱心な信者でありました。しかしその熱心さゆえにキリスト教会とその信者らを神の教えに反する異端として激しく迫害し、自分は神に忠誠を尽くしているのだと誇りをもっていたのですね。ところが、使徒言行録に記されているように、彼は復活の主と出会うのであります。そこで彼が聞いたのは、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」との、それはイエス・キリストなる神さまの御声であったのです。パウロは目が見えなくなるほど衝撃を受けました。これまで神のため神のためといってキリスト教徒らを迫害してきたパウロ。けれどもそれは自分の思い込み、自己満足であり、神への高慢であったのです。自らを誇りとしていたパウロでしたが、この活ける主イエス・キリストとの出会いによって彼は打ち砕かれたのです。主に逆らい続け、神の御独り子イエス・キリストを十字架にはりつけにしたのは、まさに自分の高慢、自分の罪であった。彼の脳裏に、自分が迫害し、苦痛を与えてきたキリスト教徒たちの姿が、主イエスの十字架と重なって映ったのです。パウロにとって「主イエスの十字架」は、自分の罪を思い知る原点であった。しかしそれは又、救いの原点でもあったのですね。ここから新しいパウロの人生が始まっていきます。
自らを誇りとしていたパウロは、「誇るなら主を誇れ」「キリストの十字架のほかに誇るものなし」。そのように「割礼の有無は問題ではなく、大切なのはキリストによって(その十字架の御業によって)新しく創造されること」だと訴えているのであります。
本日から受難週に入りましたが。
主イエスの十字架に示される救いの確かさ。それは、わたしの罪のために神の御独り子が十字架にはりつけにされたその犠牲によるものです。当然わたしが背負わなければならない裁きを、神の御独り子・主イエスさまが身代わりなって負ってくださいました。このすさまじいばかりの神の愛を前に、人の業など到底報いられるものではありません。
今日の使徒パウロの言葉にあるように、「主イエスの焼き印を身に受けて」、私たちも又、「キリストの十字架のほかに誇るものはなし」と、新しく創造された者として確信をもって私に与えられた人生をあゆんでまいりましょう。
大切なのは、主イエス・キリストの十字架の福音によって新しく創造されることです。
最後にⅡコリント5章17節~19節を読んで、一週間の派遣の言葉とさせて頂きます。
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」