礼拝宣教 ヨハネ黙示録7章9-17節
今日はヨハネの黙示録7章のところより、「苦難を通って来た者よ」と題して、御言葉に聞いていきたいと思います。
①「生ける神の刻印を押されたイスラエルの子ら」
この7章の1~8節のところには、イスラエルの民の全12部族の中から、それぞれ1万2千人のあせた14万4千人の額に「生ける神の刻印」が押されていきます。
その「神の僕」と呼ばれる人たちは、神に忠実に仕える義なる人たちです。大地と海が損われないようにし、又同時にそれらを損なうことが許されている4人の天使に、その刻印をもった天使は「待った」をかけて神の僕らの額にそれを押していくわけです。
それはあたかも出エジプトの過ぎ越しの時のように、これから起ころうとしている災いを過ぎ越すためのしるしのようにも思えます。
刻印といえば、家畜にその所有者、管理する人を示すため焼印を押します。使徒パウロは、自分たちクリスチャンが「イエスの焼印を押されたものである」と言いました。
私たちは自分が何者であるかを問われた時、国籍やかたがきや性別で一般には答えるでしょう。けれども主イエスに救われた者は「イエスの焼印を押されたもの」、すなわち主イエスにある者なのです。私たちのアイデンティティーはここにあります。
②「白い衣を身に着けた大群衆」
さて、そのことを念頭におきながら本日の記事は、9節-10節に「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着けて、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声で「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と叫んだとあります。
すると一人の長老が問うのですね。「この人たちは何ものなのか」「どこから来たのか」。ヨハネが「それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老は「彼らは多くの苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」というのです。
彼ら神の小羊イエスさまが十字架で罪の贖いのために流された御血汐によって、その衣を洗われ「白」くされた人たちです。彼らは勝利を象徴する「なつめやしの枝」をもって玉座の前と小羊の前に立ち大声で叫ぶのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」
まさに彼らの勝利は、神の小羊として世の罪を取り除き、死に打ち勝たれたお方であることを声高らかに賛美し、宣言するのです。
③「小羊の血」
14節には「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とありますが。
その大きな苦難とは、ヨハネの黙示録が記された時代のローマのドミティアヌス帝によるクリスチャンへの大迫害でありました。同時に6章で、小羊が第5の封印を開いた時にヨハネが、そこに「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された魂」を見たと記しているように、それは今日に至るまで世界中で繰り返されてきた弾圧と迫害によって殺された、信仰者を指しています。この日本においてもかつてそのような時代があったわけですが。同様にこの現代においても世界のあらゆる地域で、「神の言葉と自分たちが立てた証しのため」迫害や弾圧を受けているクリスチャンの方々が大勢おられます。教会が壊され、焼かれ、指導者の行方がわからなくなっていることもあります。今の日本でも信仰を貫こうとしたがゆえに職を追われたり、罰則を受けたり圧力をかけられることがあります。ただ大切なのは迫害を受けることそのものではなく、大きな苦難と思える状況の中でも「神の言葉とその証しのために生きる」ということです。そのように小羊なる主イエスの御血汐で衣を白くする者が、こうして主イエスの勝利を讃える天上の礼拝に連なり、勝利の喜びと慰め、報いを受けている、そのような情景がここに示されているのです。
ちょっと話がとびますが。主が7つの教会に手紙を書き送るようにお命じになった、その1つのラオディキアにある教会のところに「白い衣」について書かれてあるのでそこを少し読んでみましょう。「3章15-20節」そして「21-22節」。如何でしょうか。
戦後70年を経て一見ゆたかであるように思ってきた経済も社会も政治も、そして大地までもが大きく揺さぶられています。私たちも世にあって厳しい状況や危機がいつ起こらないともかぎりません。しかし絶対的勝利者である主イエスが共におられる。それも屠ふられた小羊のお姿で、ご自身傷を荷い、寄り添い、ともにあゆまれる方としておいで下さるのです。ほんとうに感謝であります。
さて、「白い衣を身に着けた人たちは、その衣を小羊の血で洗って白くした」のですが。それは一度洗えば「はい終わり」というものではありませんでした。大きな苦難を通る中で、その衣を小羊の血で「洗って白さを保った」人たちなのです。白い衣は汚れが目立ちます。調理する職業の方は白い服やエプロンを身に着けておられます。それはちょっとした汚れでもわかって清潔を心がけることが出来るためだそうです。そのように私たちも意識して、主の御前に自己吟味していく必要があります。
白い衣にもししみを見つけたならば、小羊イエスさまの流された贖いの御血汐を想い、悔改めと、それにふさわしい行いの応答をもって生きて行くことが、主から与えられた白い衣の白さを保つために大切です。漂白剤や蛍光増白剤ではだめなんですね。
そうしてその衣を白くする人たちは、15節「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
私たちの罪は根深く頑固でなかなか拭いきれるものではありませんが。しかし大切なのはその私たち自身が小羊の血によって根深く頑固な罪を、神に仕えつつ、昼も夜も日々洗っていくことにうみつかれてはならないということです。それが神の僕とされた者のあゆみなのです。
④「礼拝者の上に幕屋が張られる」
さて後半15節以降には、主と共にその勝利に与る者の幸いが語られています。
「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張られ、彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」と長老は言います。
玉座におられる神さまは、昼夜神に仕える彼らに天の幕屋を張って、守ってくださる、というのです。主御自身が生ける幕屋として世の様々な苦難の中で、衣を白くされた人々の幕屋となられるのです。
⑤「小羊イエスなる牧者」
そして7章の終りには、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、いのちの水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」との御約束が語られます。
ここにはもはや地上の教会と信徒らを苦しめる飢えや渇きはなくなり、太陽もどんな暑さも彼らを襲うこともありません。小羊イエスさまが牧者として彼らを導き守ってくださり、命の水の泉へ導いてくださるのです。そして天に帰った暁には、神はこの地上における苦難によって流された涙をことごとくぬぐわれ、喜びで満たしてくださるのです。そのような希望を今日も主は私たちに語っておられるのです。
最後に詩編23編をご一緒にお読みして本日の宣教を閉じたいと思います。
この幸いを思い描きつつ、日々衣を白く保ってまいりましょう。
今日はヨハネの黙示録7章のところより、「苦難を通って来た者よ」と題して、御言葉に聞いていきたいと思います。
①「生ける神の刻印を押されたイスラエルの子ら」
この7章の1~8節のところには、イスラエルの民の全12部族の中から、それぞれ1万2千人のあせた14万4千人の額に「生ける神の刻印」が押されていきます。
その「神の僕」と呼ばれる人たちは、神に忠実に仕える義なる人たちです。大地と海が損われないようにし、又同時にそれらを損なうことが許されている4人の天使に、その刻印をもった天使は「待った」をかけて神の僕らの額にそれを押していくわけです。
それはあたかも出エジプトの過ぎ越しの時のように、これから起ころうとしている災いを過ぎ越すためのしるしのようにも思えます。
刻印といえば、家畜にその所有者、管理する人を示すため焼印を押します。使徒パウロは、自分たちクリスチャンが「イエスの焼印を押されたものである」と言いました。
私たちは自分が何者であるかを問われた時、国籍やかたがきや性別で一般には答えるでしょう。けれども主イエスに救われた者は「イエスの焼印を押されたもの」、すなわち主イエスにある者なのです。私たちのアイデンティティーはここにあります。
②「白い衣を身に着けた大群衆」
さて、そのことを念頭におきながら本日の記事は、9節-10節に「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着けて、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声で「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と叫んだとあります。
すると一人の長老が問うのですね。「この人たちは何ものなのか」「どこから来たのか」。ヨハネが「それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老は「彼らは多くの苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」というのです。
彼ら神の小羊イエスさまが十字架で罪の贖いのために流された御血汐によって、その衣を洗われ「白」くされた人たちです。彼らは勝利を象徴する「なつめやしの枝」をもって玉座の前と小羊の前に立ち大声で叫ぶのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」
まさに彼らの勝利は、神の小羊として世の罪を取り除き、死に打ち勝たれたお方であることを声高らかに賛美し、宣言するのです。
③「小羊の血」
14節には「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とありますが。
その大きな苦難とは、ヨハネの黙示録が記された時代のローマのドミティアヌス帝によるクリスチャンへの大迫害でありました。同時に6章で、小羊が第5の封印を開いた時にヨハネが、そこに「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された魂」を見たと記しているように、それは今日に至るまで世界中で繰り返されてきた弾圧と迫害によって殺された、信仰者を指しています。この日本においてもかつてそのような時代があったわけですが。同様にこの現代においても世界のあらゆる地域で、「神の言葉と自分たちが立てた証しのため」迫害や弾圧を受けているクリスチャンの方々が大勢おられます。教会が壊され、焼かれ、指導者の行方がわからなくなっていることもあります。今の日本でも信仰を貫こうとしたがゆえに職を追われたり、罰則を受けたり圧力をかけられることがあります。ただ大切なのは迫害を受けることそのものではなく、大きな苦難と思える状況の中でも「神の言葉とその証しのために生きる」ということです。そのように小羊なる主イエスの御血汐で衣を白くする者が、こうして主イエスの勝利を讃える天上の礼拝に連なり、勝利の喜びと慰め、報いを受けている、そのような情景がここに示されているのです。
ちょっと話がとびますが。主が7つの教会に手紙を書き送るようにお命じになった、その1つのラオディキアにある教会のところに「白い衣」について書かれてあるのでそこを少し読んでみましょう。「3章15-20節」そして「21-22節」。如何でしょうか。
戦後70年を経て一見ゆたかであるように思ってきた経済も社会も政治も、そして大地までもが大きく揺さぶられています。私たちも世にあって厳しい状況や危機がいつ起こらないともかぎりません。しかし絶対的勝利者である主イエスが共におられる。それも屠ふられた小羊のお姿で、ご自身傷を荷い、寄り添い、ともにあゆまれる方としておいで下さるのです。ほんとうに感謝であります。
さて、「白い衣を身に着けた人たちは、その衣を小羊の血で洗って白くした」のですが。それは一度洗えば「はい終わり」というものではありませんでした。大きな苦難を通る中で、その衣を小羊の血で「洗って白さを保った」人たちなのです。白い衣は汚れが目立ちます。調理する職業の方は白い服やエプロンを身に着けておられます。それはちょっとした汚れでもわかって清潔を心がけることが出来るためだそうです。そのように私たちも意識して、主の御前に自己吟味していく必要があります。
白い衣にもししみを見つけたならば、小羊イエスさまの流された贖いの御血汐を想い、悔改めと、それにふさわしい行いの応答をもって生きて行くことが、主から与えられた白い衣の白さを保つために大切です。漂白剤や蛍光増白剤ではだめなんですね。
そうしてその衣を白くする人たちは、15節「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
私たちの罪は根深く頑固でなかなか拭いきれるものではありませんが。しかし大切なのはその私たち自身が小羊の血によって根深く頑固な罪を、神に仕えつつ、昼も夜も日々洗っていくことにうみつかれてはならないということです。それが神の僕とされた者のあゆみなのです。
④「礼拝者の上に幕屋が張られる」
さて後半15節以降には、主と共にその勝利に与る者の幸いが語られています。
「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張られ、彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」と長老は言います。
玉座におられる神さまは、昼夜神に仕える彼らに天の幕屋を張って、守ってくださる、というのです。主御自身が生ける幕屋として世の様々な苦難の中で、衣を白くされた人々の幕屋となられるのです。
⑤「小羊イエスなる牧者」
そして7章の終りには、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、いのちの水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」との御約束が語られます。
ここにはもはや地上の教会と信徒らを苦しめる飢えや渇きはなくなり、太陽もどんな暑さも彼らを襲うこともありません。小羊イエスさまが牧者として彼らを導き守ってくださり、命の水の泉へ導いてくださるのです。そして天に帰った暁には、神はこの地上における苦難によって流された涙をことごとくぬぐわれ、喜びで満たしてくださるのです。そのような希望を今日も主は私たちに語っておられるのです。
最後に詩編23編をご一緒にお読みして本日の宣教を閉じたいと思います。
この幸いを思い描きつつ、日々衣を白く保ってまいりましょう。