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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

苦難を通って来た者よ

2016-04-24 15:42:29 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録7章9-17節   

今日はヨハネの黙示録7章のところより、「苦難を通って来た者よ」と題して、御言葉に聞いていきたいと思います。

①「生ける神の刻印を押されたイスラエルの子ら」
この7章の1~8節のところには、イスラエルの民の全12部族の中から、それぞれ1万2千人のあせた14万4千人の額に「生ける神の刻印」が押されていきます。
その「神の僕」と呼ばれる人たちは、神に忠実に仕える義なる人たちです。大地と海が損われないようにし、又同時にそれらを損なうことが許されている4人の天使に、その刻印をもった天使は「待った」をかけて神の僕らの額にそれを押していくわけです。
それはあたかも出エジプトの過ぎ越しの時のように、これから起ころうとしている災いを過ぎ越すためのしるしのようにも思えます。
刻印といえば、家畜にその所有者、管理する人を示すため焼印を押します。使徒パウロは、自分たちクリスチャンが「イエスの焼印を押されたものである」と言いました。
私たちは自分が何者であるかを問われた時、国籍やかたがきや性別で一般には答えるでしょう。けれども主イエスに救われた者は「イエスの焼印を押されたもの」、すなわち主イエスにある者なのです。私たちのアイデンティティーはここにあります。  

②「白い衣を身に着けた大群衆」
さて、そのことを念頭におきながら本日の記事は、9節-10節に「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着けて、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声で「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と叫んだとあります。
すると一人の長老が問うのですね。「この人たちは何ものなのか」「どこから来たのか」。ヨハネが「それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老は「彼らは多くの苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」というのです。
彼ら神の小羊イエスさまが十字架で罪の贖いのために流された御血汐によって、その衣を洗われ「白」くされた人たちです。彼らは勝利を象徴する「なつめやしの枝」をもって玉座の前と小羊の前に立ち大声で叫ぶのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである。」
まさに彼らの勝利は、神の小羊として世の罪を取り除き、死に打ち勝たれたお方であることを声高らかに賛美し、宣言するのです。

③「小羊の血」
14節には「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」とありますが。
その大きな苦難とは、ヨハネの黙示録が記された時代のローマのドミティアヌス帝によるクリスチャンへの大迫害でありました。同時に6章で、小羊が第5の封印を開いた時にヨハネが、そこに「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された魂」を見たと記しているように、それは今日に至るまで世界中で繰り返されてきた弾圧と迫害によって殺された、信仰者を指しています。この日本においてもかつてそのような時代があったわけですが。同様にこの現代においても世界のあらゆる地域で、「神の言葉と自分たちが立てた証しのため」迫害や弾圧を受けているクリスチャンの方々が大勢おられます。教会が壊され、焼かれ、指導者の行方がわからなくなっていることもあります。今の日本でも信仰を貫こうとしたがゆえに職を追われたり、罰則を受けたり圧力をかけられることがあります。ただ大切なのは迫害を受けることそのものではなく、大きな苦難と思える状況の中でも「神の言葉とその証しのために生きる」ということです。そのように小羊なる主イエスの御血汐で衣を白くする者が、こうして主イエスの勝利を讃える天上の礼拝に連なり、勝利の喜びと慰め、報いを受けている、そのような情景がここに示されているのです。

ちょっと話がとびますが。主が7つの教会に手紙を書き送るようにお命じになった、その1つのラオディキアにある教会のところに「白い衣」について書かれてあるのでそこを少し読んでみましょう。「3章15-20節」そして「21-22節」。如何でしょうか。
戦後70年を経て一見ゆたかであるように思ってきた経済も社会も政治も、そして大地までもが大きく揺さぶられています。私たちも世にあって厳しい状況や危機がいつ起こらないともかぎりません。しかし絶対的勝利者である主イエスが共におられる。それも屠ふられた小羊のお姿で、ご自身傷を荷い、寄り添い、ともにあゆまれる方としておいで下さるのです。ほんとうに感謝であります。
さて、「白い衣を身に着けた人たちは、その衣を小羊の血で洗って白くした」のですが。それは一度洗えば「はい終わり」というものではありませんでした。大きな苦難を通る中で、その衣を小羊の血で「洗って白さを保った」人たちなのです。白い衣は汚れが目立ちます。調理する職業の方は白い服やエプロンを身に着けておられます。それはちょっとした汚れでもわかって清潔を心がけることが出来るためだそうです。そのように私たちも意識して、主の御前に自己吟味していく必要があります。
白い衣にもししみを見つけたならば、小羊イエスさまの流された贖いの御血汐を想い、悔改めと、それにふさわしい行いの応答をもって生きて行くことが、主から与えられた白い衣の白さを保つために大切です。漂白剤や蛍光増白剤ではだめなんですね。
そうしてその衣を白くする人たちは、15節「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
私たちの罪は根深く頑固でなかなか拭いきれるものではありませんが。しかし大切なのはその私たち自身が小羊の血によって根深く頑固な罪を、神に仕えつつ、昼も夜も日々洗っていくことにうみつかれてはならないということです。それが神の僕とされた者のあゆみなのです。

④「礼拝者の上に幕屋が張られる」
さて後半15節以降には、主と共にその勝利に与る者の幸いが語られています。
「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張られ、彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」と長老は言います。
玉座におられる神さまは、昼夜神に仕える彼らに天の幕屋を張って、守ってくださる、というのです。主御自身が生ける幕屋として世の様々な苦難の中で、衣を白くされた人々の幕屋となられるのです。

⑤「小羊イエスなる牧者」
そして7章の終りには、「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、いのちの水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」との御約束が語られます。
ここにはもはや地上の教会と信徒らを苦しめる飢えや渇きはなくなり、太陽もどんな暑さも彼らを襲うこともありません。小羊イエスさまが牧者として彼らを導き守ってくださり、命の水の泉へ導いてくださるのです。そして天に帰った暁には、神はこの地上における苦難によって流された涙をことごとくぬぐわれ、喜びで満たしてくださるのです。そのような希望を今日も主は私たちに語っておられるのです。
最後に詩編23編をご一緒にお読みして本日の宣教を閉じたいと思います。
この幸いを思い描きつつ、日々衣を白く保ってまいりましょう。
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屠られた小羊

2016-04-17 14:35:18 | メッセージ
 礼拝宣教 ヨハネ黙示録5章1-14節   

先週の4章では「天に開かれた門」と題してお話をしました。主イエスはヨハネ福音書10章7節以降で「わたしは羊の門である」「わたしは羊のために命を捨てる」とおっしゃいましたが。そのように十字架のあがないによって、私たち羊のようにさまよう者を救い、「開かれた門」となって導いて下さる主イエスの恵みをおぼえました。今日も万物の創造主なる神に捧げられている天上の礼拝がこの所にも真の救いの門であられる主イエス・キリストによって開かれています。

本日は引き続き天上の礼拝の場面でありますヨハネの黙示録5章より、「屠られた小羊」と題し、メッセージを聞いていきたいと思います。

①「巻物を開かれるお方」
ヨハネは玉座に座っておられる方の右手に巻物があるのを見ます。それは表にも裏にも字が書いてあり、7つの封印で封がされていました。当時、正式な文書等にロウをたらして刻印を押して封印をしていたのです。封印がしてあるのですから、それを解くのにふさわしい人しか開封することが許されていません。ましてや、それは主なる神さまの右の手にあり7つの封印で封じられていました。7は完全数ですので厳重に完璧に封がされており、その内容は秘められていたということです。
この巻物とは何でしょうか?それは「御心によって万物を造られたお方」(4:11)による「この世界と歴史に対する審きと救いについての秘められた計画書」と考えることができます。キリスト者に対する当時の激しい弾圧の時代に、ヨハネは救いの訪れるその時をどんなにか切望していたことでしょう。「主よ、いつまでなのですか」と。
しかし、大天使の呼びかけにも拘わらず、「天にも地にも地の下にも、この巻き物を開くことのできる者。見ることのできる者はだれもいなかったので「わたちは激しく泣いていた」とあります。
ここを読む時、黙示録の時代に生きる人たちの叫びや嘆き、悲しみの涙を感じますし、それは又、今日の時代においても、同様の迫害や弾圧を受けているキリスト者の叫びでもあるでしょう。また地上には様々な不条理や理不尽とも思えるような出来事が起こり、その度に、私どもも「どうしてこのようなことが起こるのですか」と主に訴えたくなることがあります。「神さまどうか、あなたの主権と力をお示しください」と願わずにいれないことが多々あります。けれど私たち人間には秘められた神のご計画の封印を解くことはできません。ヨハネのように激しく泣く以外ない私たちです。

ところが、神を礼拝していた「長老の一人がヨハネに、『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、7つの封印を開いて、その巻物を開くことができる。』」と言うのです。
この「ユダ族から出た獅子」は旧約のホセア書に、又、「ダビデのひこばえ」はイザヤ書に預言された救い主の象徴です。それは新約の時代に至って、罪に滅びるほかない人類のために救いを勝ち取って下さったお方、主イエス・キリストであります。

ヨハネは又、「玉座と4つの生き物の間(真中)、長老たちの間(真中)に、屠られたような小羊が立っているのを見ます。玉座に座っておられる方の右の手から、巻物を受け取った」のを彼は目にするのであります。
「屠られたような小羊。」
それはただの羊ではありません。の傷跡を残している小羊です。その小羊は生なましい傷跡をさらしていたのです。

ヨハネの福音書において、バプテスマのヨハネはイエスさまのことについて、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と言い表しました。イスラエルの民は律法に則り自分たちの罪のあがないの犠牲を贖罪のささげものとして「小羊を屠る」ことで、神の御赦しを得ていました。けれども何度小羊を屠っても人間はまた罪を犯します。それでは人間は救われず、自分の罪の深さに滅びる以外ありません。

しかし遂に、イエス・キリストは神の御子でありながら、イザヤ53章の苦難の僕の姿に示されるとおり、私たち人類の罪の審きを自ら背負われ、屠られた小羊となってくださったのです。完全なあがないは、まさに主イエスさまの十字架の苦難と死によってもたらされたのです。
それだけではありません、その主イエスは死より復活されたのです。神の愛が絶望の闇と死に完全勝利されたのです。屠られた小羊となって。ハレルヤ。礼拝が賛美に始まり賛美に終わるのは、この救いの勝利を私たちは讃えるほかありません。

さて、この「屠られたような小羊」という言い方は、復活されたイエスさまのみからだに十字架につけられた時の生なましい傷跡が未だ残っていることを伝えています。
この「主イエスの十字架の生傷の跡」こそが、黙示録の時代の激しい迫害に遭い苦しむ信徒たちの信仰を励まし、支えたのではないでしょうか。天上において神の巻物を開くにふさわしい者がどこにもいないのを知った時、激しく泣いたヨハネ。その涙を真に拭いとることのできるのは、ご自身も又その愛のゆえに傷を負って血を流し痛みを共してくださる主イエスさまなのです。私たちを真に救うことのできるお方は、その「屠られたような小羊」であるのです。
 又、この「小羊には7つの角と7つの目があった」と記されております。
角は力や名誉を表します。7は完全数ですから強大で完全な力と名誉がその屠られたような小羊にあった、ということです。
さらに7つの目は、「全地に遣わされている神の7つの霊である」と言われています。これは私たちのこともそうですが、地上においてその全能なる主に知られない場所や出来事は何一つなく、主はすべてをご存じであられるということです。世の様々な戦いや苦しみが私たちを襲っても、この神の7つの霊がたえず働いているということを知るとき、私たちは世には得られない平安をいただくのです。主は知っておられる。いっさいは主の権能の御もとにある。その信仰と希望とに私たちも日々生かされていきたいと願います。

②「すべての被造物から賛美されるべきお方」
今日の後半の8~14節では、その屠られた小羊なるイエス・キリストを天と地のすべてのあらゆる者たちが、「新しい歌」をもって賛美している壮大な情景が描き出されています。
ここで「4つの生き物と24人の長老は、各々、竪琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した」とあります。そこにこう解説が加えられています。「この香は聖なる者たちの祈りである。」
ここには、前の2章3章にも記されているような様々な問題にさらされている地上の教会の切なる祈りが聞こえてくるようです。その聖徒たちの祈りが金の鉢いっぱいの香りとなって小羊イエスさまの御前に立ち上っている、というのです。
 祈りというのは何か無力のように思える方もおられるかも知れません。「祈ることしかできない。祈るばかるで何もできない」とよく耳にします。しかし、私たちの祈りは地に落ちることなく、主の御前に香となって立ち上っているのです。
 
さらに4つの生き物と24人の長老はそれまでになかった新しい歌を唄います。
「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、ご自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します。」
 ここには救いの真理が唄われています。私たちは単に救われたというのではなく、神のためにキリストの血によってあがなわれた者であり、神に仕える者、又祭司として地を受け継ぐ者とされているのであります。

さらにヨハネは、「天の大群の賛美」を目にします。
「その数は万の数万倍、千の数千倍であった」という天使の数え切れないほどの群が、「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」と、その救いの御業をほめたたえます。

又ヨハネは、「天と地と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものが賛美する声を聞くのです。玉座に座っておられる方と小羊イエスさまに賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」

私はこの最後のすべての被造物の賛美を想うとき、今日の礼拝の招詞として読まれたローマ8章の言葉が思い起こされました。ちょっと長いですがお読みします。(18節19節、21節-23節)
「現在の苦しみは、将来わたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷族から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
世の誉や権力のために損なわれてきた被造物が、神の子たちの出現を待ち望んでいるのです。私たちも又、神の子とされることを切望しています。
人間も動物も自然界も一つの主にあって造られた存在として共に生きていく必要が問われているのではないでしょうか。救いの恵みのもと、主の御心に応え、自分たちさえよければという貧しい生き方から解放され、神が本来お造りになったこの世界のよき管理者として、動物や自然界を守り、おさめて、共生、共存の道を選び取っていくことが求められているのではないでしょうか。
創造の主なる神と、私たち人類の全き救いのために「屠られた小羊」の姿で今も共におられる主イエスこそ、世々限りなく賛美されるお方であり、真の希望であります。
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天に開かれた礼拝

2016-04-10 14:37:13 | メッセージ
 礼拝宣教 ヨハネ黙示録4章1-11節 

本日はヨハネの黙示録4章から、「天に開かれた礼拝」と題し、今日の私たちの状況と照らし合わせながら、御言葉に聞いていきたいと思います。
今日の箇所には天における礼拝の様子が視覚的に描き出されています。しかし、肝心な「主なるお方」をはっきりと描くことはできません。人間には神のお姿をはっきりと見ることはできませんが、唯確かに、そのお方は「天の玉座に座っておられ、天にあって4つの生き物と24人の長老たちから讃美を受け、栄光と誉をたたえて感謝がささげられ、礼拝されるお方であられる」のです。

①「真に礼拝されるべきお方」
先週の1章のところでも言いましたが、この黙示録が書かれた時代のキリスト教会とその信徒たちは、ローマ皇帝による激しい迫害に遭っていました。殊にドミティアヌス帝は自らを神として礼拝するようにすべての人々に強要していったのであります。
10節に記された「栄光と誉れをたたえて感謝をささげる」。又「自分たちの冠を玉座の前に投げ出して」。さらに11節の「わたしたちの神よ」と伏し拝む様子などは、皇帝に忠誠を誓う時実際に行われていたことなんですね。当時ペルシャの王がローマ皇帝の前に自分の冠を投げ出したという史実も残っているそうです。
まさに地にあって皇帝崇拝や神ならざるものを神として崇める偶像礼拝がはびこる時代の只中で、ヨハネはこの天上の礼拝を見るのです。まことに玉座にいまし24人の長老たちと4つの天的な生きものから賛美と誉れを受ける礼拝されるべきお方は、世の権力をもつ皇帝ではなく、聖なる全能者であり、この天地万物を創造され、今もおられ、やがて来られるお方こそ、栄光と誉と力を受けるにふさわしいお方なのです。

②「天に開かれた門」
さて、ヨハネはまず「開かれた門が天にある」のを目にします。そして「ラッパが響くように語りかける声を聞く」のです。「ここへ上って来い。この後必ず起こることをあなたに示そう」。するとたちまち彼は霊に満たされ、天における礼拝を体験するのです。
この天とはイエスさまが昇られたところであり、父の神がおられ、み使いもいて、やがて主の来臨のおりにイエスさまが出てこられるところであります。ここに「玉座に座っておられる」とあるとおり、そこは万物を造られた全能なる神さまの完全な統治がなされています。全き聖なる天上ですから、罪ある地上の人間はそこに入ることができません。しかしその「天の門が開かれている」というのですね。実にこの「開かれた門」とは主なる神さまが、自ら開けられた、ということですね。
門といえば、ヨハネ福音書でイエスさまはご自身を「わたしは羊の門である」とおっしゃっています。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。父の御神はその独り子イエスさまによって、私たちに天の門を開いてくださっているということです。何とすばらしい恵みでしょうか。それは何よりも、神さまの唯恩寵による御業であります。
「開かれた門が天にあった」という御言葉は、苦しみの中で神さまを遠く感じ、闇の深さに沈んでいるこの黙示録の時代の信徒たち、その後様々な厳しい迫害の時代を生き抜いた世代の教会、そして今を生きる私共にとってもどれ程大きな希望である事でしょう。

③「天と地をつなぐ礼拝」
さて、「ここへ上って来い」との声を聞いたヨハネが「たちまち霊に満たされた」とあります。ヨハネは霊に満たされることで天上の礼拝を体験するんですね。それは又、私たちも現在主イエスの約束された聖霊が教会に注がれていることによって、この地上にありながら天上の礼拝につながり、そこに連ならせて戴いているのです。
天において4つの天的な生きものたちがが昼も夜も絶え間なく「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主」を賛美し続けたように、又長老たちが冠を投げ出してひれ伏し真の主を礼拝したように、私たちも絶えず主をほめたたえてくものとされてまいりましょう。黙示録の時代の教会も現代の教会もそうですが、地上において絶えず捧げられる私たちのどんなに小さな礼拝であったとしても、そこで霊とまことをもって捧げられる礼拝は天に通じ、天に開かれた礼拝となるのです。

④「真の礼拝への回帰」
先週はこのヨハネの黙示録1章から、主イエスにあって会堂にともに集い、聖書の朗読をし、御言葉に聞き、それを守り行う者のうえに、主の祝福と幸いが臨むというメッセージを聞きました。
今日の4章から示されますことは、「天に開かれた礼拝につながって生きる」ということです。私たちは常にそのような真の礼拝に回帰してゆく必要があります。そうでなければ人は容易に偶像崇拝、神ならざるものを神としていく者に変質してしまうからです。多くの人がお金さえあればと口にします。科学技術や医学、又世の権力者や先生と呼ばれる人たちに依存する人もいます。占いに頼る人も実際多いらしいですね。強さや美しさに心奪われ、偶像としたがために自分を失う人もいます。神さまではない別のものに寄り頼み、崇拝してもそれらは神さまがお造りになったものに過ぎません。すべての源は天地の創造主なる神さまであられるのです。いくら形あるものを伏し拝んでもすべて朽ちてしまいます。虚しい限りです。しかし、主の救いと真理とは永遠です。
私たちが礼拝すべきは、生ける神、救いの主のほかありません。この天の礼拝につながって地上にある礼拝をともに捧げる私たちに、霊なる神さま、ご聖霊がゆたかに臨まれ、その栄光を映し出してくださるのです。

最後に、今青年の有志の会で「イエスの御名で:聖書的リーダーシップを求めて」というヘンリ・ナーウェンさんの本を読んで共に学ぶ時を持っています。昨年の特伝でお招きした工藤先生も大変影響を受けたとおっしゃっていたナーウェン氏ですが。ノートルダム、イェール、ハーバードの各大学で神学を教えたゆたかな経歴を持っていた彼は、司祭としてラルシュ共同体という知的に障害をもった人々と共に生活することによって、自分の真のアイデンティティを再発見せざるを得なくなった、と思いを綴っておられるのですが。そこの下りのところを少しご紹介します。
 「心破れ、傷つき、まったく自分を装うことをしないこれらの人々を前に、能力を持つ自分というもの、すなわち、何かができる自分、何かを示せる自分、何かを証明できる自分、何かを築ける自分というものを手放すしかありませんでした。そして、どのような業績にも関わりない、ただ愛を受け、与えるだけの、弱く傷つきやすいありのままの自分に、自分を改めざるをえませんでした。私が深く確信していることとして、これからの時代のクリスチャン指導者は、まったく力なき者として、つまり、この世にあって、弱く傷つきやすい自分以外に、何も差し出すものがない者になるように召されている、ということを言いたいのです。それは、イエスが来られて神の愛を明らかにされた方法でした。(これは十字架におかかりになるという弱く傷ついた姿を差し出すことで、私たちに神の愛を表された、ということですね。)
さらにナーウェン氏はこう言うのです。「神の言葉を伝える者として、またイエスに従う者として、私たちが携えるべきすばらしいメッセージは、神が、私たちの行いや成し遂げることのゆえに私たちを愛されるのではなく、愛の内に私たちを創造し、贖われたがゆえに私たちを愛される、ということです。そして、すべての人間のいのちの真の根源である愛を宣べ伝えるために、私たちは選ばれました。」
その霊性にあふれたその言葉に触れた時、それは「真の礼拝への回帰」を示していると思いました。私たちにとりまして、天の礼拝は今ここに開かれています。まさに愛なる神の霊に満たされるこの礼拝から、すべてが始まっていくことをおぼえて、又ここから新しい歩みを主ととも始めていきましょう。
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神の言葉とイエス・キリストの証し

2016-04-03 21:42:07 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録1章1-8節

先週は主イエスの復活を祝うイースターをともにすることができ本当に感謝でありました。イエスさまの福音は弟子たちを通して証しされ、主の約束の聖霊降臨によって教会が誕生し、今日に至るわけですが。こうして世界中に主の救いの福音が伝えられるまでには、多くの迫害と人としての過ちの歴史がありました。そのような時代の中で主はどのように歴史に介入されたのか。信徒らはどう応えて生きたのか。今の混迷の時代に生きる私たちも、このヨハネの黙示録から、主の語りかけに信仰の思いをとぎすませていきたいと願っております。

このヨハネの黙示録の書かれた時代は、ローマ帝国の支配とその強い影響下のもとにありました。信徒たちにとって主イエスの信仰を保って生きることは厳しく、困難極まりない状況にありました。殊にローマのドミティアヌス皇帝の折には皇帝崇拝が強いられ、クリスチャンたちは「カイザルかイエスか」を問われて苦しんだのです。そのような厳しい迫害の中で主はこのような啓示をお与えになったということであります。

ここでヨハネは、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座の前におられる7つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」(4-5)とイエスさまを言い表していますね。それは主こそが真にすべての時を権威をもってすべ治めておられる方であることを示しています。世の権力や苦難の時は必ず終わりがあるという信徒たちへの励ましが、ここに語られているんですね。このように主は私たちの苦しみの時にも今ここにおられる。かつてそうであったように、やがて主権をもってすべ治めてくださる時が必ず訪れる。それは私たちへのエールでもあります。

さて、ヨハネは当時パトモス島におりましたが、それは彼がパトモスに伝道するために行ったのではなく、「神の言葉とイエス・キリストの証し」をなすがゆえに流刑されていたのです。彼は2節のところに、「すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」とありますように、かの地で神の霊に導かれ、示されたすべてのことを記録し、主が命じられたとおりに7つの小アジアの教会に手紙を書き送ったのです。それがこのヨハネの黙示録なのであります。
まあ「黙示録」と聞きますと、一昔前はノストラダムスの大預言だとか、あるいはここに記されている幻や数字を殊さらとりたて、怪しげなミステリーとして扱われ、何かと得体の知れない不気味なものとして世間では思われがちかも知れません。又、14章の「14万4千人」ということを強調して、「天国に行ける人は予め決まっているから」と勧誘するカルト的な教団もございます。しかしそれらは迫害の目をくぐり抜け、信徒らにメッセージが届くための工夫でもあり、人をいたずらに脅すために書かれたものではないんですですね。

このヨハネの黙示録の中心テーマは、1章の冒頭に記されていますように、「イエス・キリストの黙示」であります。この「黙示」と訳されたギリシャ語原語「アポカリュプシス」は、アポという「取り除く」という動詞と、カリュプシスという「覆っているもの」という名詞の合成語で、「覆っているものを取り除く」という意味です。ですから得体の知れない荒唐無稽なものではなく、むしろそれは旧約聖書の預言者を通して啓示されてきたその覆いが取り除かれて、今やイエス・キリストを通して人類の救いが露わにされたことを明らかにする証言なのです。そういうことで、このヨハネの黙示録は、イエス・キリストが世の罪を取り除く神の小羊として来られ、十字架の苦難と死を通って人の罪を贖い、復活なさった主であることが証しされている書なのであります。

同時にこの書は、過ぎ去った過去のことではなく、与えられたその救いの信仰を守り、忠実に生きる者にとっては、今も生きて働く神の言葉なのです。やがて来られるお方とその全き日の到来を今日の私たちもともに待ち望みつつ、この書を読むことが重要であります。

私はこの今日の1章3節の「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記さ
れたことを守る人たちは幸いである。時が迫っているからである」という言葉の中に
3つの大事な勧めが語られていると思います。
信仰の自由が保証されている今の私たちであっても、程度の違いこそあれ、世の思い
との葛藤や様々な妨げに遭う経験をすることがあります。そういう中で私たちが如何に主の御救いと平安に満ちた信仰者として保たれ、生きていくか。ここにはそのための有効な勧めが語られています。

まずその一つは、「預言の言葉を朗読する」ということです。
これは公の礼拝の場で神の言葉・御言葉が読まれることの大切さが示されています。
当時は今こうして私たちが一人ひとり聖書が持てるような時代ではありませんでしたから、個々人で聖書を読むことはできません。ですからみな会堂に集い、そこで聖書の言葉(当時は旧約聖書)が朗読されることが必要だったわけです。しかし今こうして礼拝するために一つの場所に集う中で読まれることの大切さは変りありません。
個人個人で読んだり、黙想してのデボーションは大切なことですが、主イエスに連なる教会で共に読むことの拡がりとゆたかさは格別です。自分の独断や先入観で聞いていた御言葉が、礼拝や聖書の学びを通して、単なる知識に終わらず、時に適った新しい響きをもって迫って来る。ともに集うことでそういった生きた言葉として体験されるわけです。この後の2章から諸教会に向けたメッセージが語られていきますように、教会は単なる建物や人の集まりではありません。神の救いが実現されていくことを信じ、主を仰ぎ見て行く群なのです。そこに教会で御言葉が朗読されていくことの意義があります。

二つ目は、「預言の言葉を聞く」ということです。
次の2章3章に続く7つの教会にあてた手紙において、主は再三「耳のある者は霊が諸教会に告げることを聞くがよい」とおっしゃているんですね。「聞く」ということは意識的に耳を傾けないとできないことです。御言葉が単に物語や昔のこととしてあるのではなく、自分に語られていること、私の、私たちのこととして聞き、受ける、傾聴することが大切です。そしてこの「聞く」ということは、三つ目の「聞いたことを「守る」」ということにつながります。
主イエスは御言葉を聞いて、それを「守り行うこと」の大切さを教えられました。「家と土台のたとえ」で「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7章24節以降)とおっしゃいました。又、ヤコブの手紙にはこうあります。「自由をもたらす完全な律法(イエス・キリスト)を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」(ヤコブ1章25節)そのように御言葉に生きることこそが、様々な世の誘惑や妨げから自らを守っていくことになるのです。それは又、来るべき「神の時に備える」ということであります。御言葉を「朗読」し、その御声に「聞き」、それを「守る」。信仰者にとってのこれら3つの柱を思いますとき私は、へブル10章25節の御言葉を思い起こしました。
「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」ここにも、今日の箇所の「時が迫っている」と共通する「かの日が近づいている」という言葉が出てまいります。
人は元気で、差し迫る問題もない時には、いつまでも時間が続くように思えます。けれども必ずかの日はやってまいります。そしてその日その時は人には分からないのです。だからこそ1日1日を差し迫る貴重な時として捉え、いつ何時も主の前に立ち得る者として生きることが大事なんですね。
迫害の時代の中で、脅迫や暴力に遭い、恐れにおびえる日々に疲れ果て、信仰を見失いそうになる人も大勢いたことでしょう。個々人それぞれにそのようなた戦いがあったのです。そう言う中で、ともに集い、礼拝をささげることはどれ程大きな慰めとなったことでしょうか。御言葉を朗読する者と、これを聞いて守る人は幸いである、との言葉に彼らはどんなにか勇気と励ましを見出したことでしょう。

このヨハネの黙示録が記されて早や2000年が経ちました。今の世界状況、社会情勢もまた、終末の時の迫りを確かに感じるものです。しかし黙示録は滅亡や絶望を示すためのものではなく、今日もイエスを主と信じる者たちに、神の審きと救いが迫っているという「希望」を示す励ましの書なのです。
苦難の時代を耐え忍んだ初代教会の人たちに倣い、私たちも又、イエス・キリストのからだなる教会につながってともに神の言葉を読み、聞き、行って生きる。近づいている終末の時、主の来臨の日に備え、1日1日をそのようにイエス・キリストの証し人として生きていくことがほんとうに大事なのですよね。

今日の最後の8節の御言葉にこう記されています。
「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』。」

先週のイースターの宣教において「主イエスは生きておられる」というお話をいたしました。主イエス・キリストは2000年前に私たちの姿となってこの地上に来られ、その死をもって救いの御業を成し遂げられました。そこから3日の後によみがえられ、天に上げられ、約束の聖霊が降ることで教会が誕生しました。私たちもその主の教会に働かれる聖霊を通して、「主は今も生きておられる」ことを知らされています。主はかつておられ、今おられ、同時にやがて来るべきお方であられるのです。
ヨハネの黙示録の時代の信徒たちは確かにその主が再び来られる時を目にすることはありませんでした。その後2000年の長い年月を経ましたが未だその時は訪れておりません。けれども主の来臨の日は必ずやって来きます。イエス・キリストはアルファ:初めから、オメガ:終りまですべ治めておられる私たちの主であられるのです。
それゆえに私たちもヘブライ人への手紙12章にあるとおり、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走り抜こうではありませんか。」今週もここからそれぞれの場所に遣わされてまいりましょう。
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イースター特別公演の報告

2016-04-01 10:41:51 | お知らせ
藍色のシャマール
~フリージャーナリスト 後藤健二さん 彼の視線の先にあったものから~

後藤健二さんがお亡くなりになって1年となる桜人企画の記念公演に足を運び鑑賞してから1カ月後の3月26日(土)、27日(日)、再びこうして舞台設定の教会において公演が行われることになるとは夢のようでした。桜人企画代表の馬場さくらさんに「教会でこの演劇をぜひして頂けないでしょうか」と直談判し、さくらさんも快諾くださり、見事その夢は現実となったのです。二日間の公演はおかげでさまで満席で、盛会となった。それも「イースター」(復活祭)にこの公演が行われた意義はとても深かった。

私自身3度公演を鑑賞させていただいたが、その度に感動するものがあった。
劇中でゆかり☆ゴスペルさん、Tomoko Murabayashiさん、大橋旬子さん、和歌淳子さん4人のゴスペルシンガーによるスペシャルユニットの歌声は圧巻。クリスチャンの後藤健二さんが好きだった「When I Think About The Lord」が歌われる度に何度涙があふれ、泣いただろうか。
1日目のトークゲストは守田早生里さん、クリスチャンのフリーライターで後藤さんとも友人のようにお付合いがあった方で、後藤さんが洗礼を受ける時のことやフリージャーナリストとしてのなかなか聞くことのできない逸話をお聞きすることができました。
2日目のトークゲストは伊良子序(はじめ)さん、元神戸新聞の論説委員、現在は作家として「スリーマイル島への旅」「猫をはこぶ」等多数の著作があり、クリスチャンでもある。トークの中で、「子どもたちからどうして戦争が起こるのですか」と聞かれると伊良子さんはどう子どもたちに答えますか、という場面があったのですが。伊良子さんは「くらべる」ことから優劣感や争いが生じる。「あなたはあなたでいいんだよ」ということを学校教育で、社会でもっと大切に伝え、愛をもって接する。このことを私たち一人ひとりが大事にしていくことが、地道だけれども平和につながることだ、ということをお話くださったことが心に強く残った。

今回のこの公演はほんとうに神さまの導きによってなされたことだと、幾度も思わされました。桜人企画の馬場さくらさんはじめ、劇団の役者さん、ダンサーさん、スタッフの皆さんに心から感謝申しあげます。「藍色のシャマール~後藤健二さん・彼の視線の先にあったもの~」は今後もいろんなところで、伝えていただけたらと強く願っております。

『一粒の麦が地に落ちて死んだなら、豊かに実を結ぶようになる』ヨハネ12章24節
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