日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

自分と他者をつなぐ力

2013-09-29 13:13:33 | メッセージ
礼拝宣教 エステル記8章1~8節 

先週は、月曜日に関西地方教会連合の信徒大会が神戸教会を会場に開かれました。140名ほどの子どもから大人が一同に会し、午前中は礼拝、そして「笑いは人を豊かに、元気にする」と題して、医師の伊藤実喜先生のご講演&ご公演がありました。先生は日本笑い学会の会員であり、マジックを通して医療の現場や様々なところでご活躍されていますが。今回実演を交えながらお話を頂きましたけど、まあ大盛況でありました。午後からは、カンボジアに連盟のミッションボランティアとして参加された加藤さんのご報告を伺い、その後少年少女と大人9つのグループに分かれて講演の感想、それぞれの教会の紹介や報告をして、交流の時が持たれました。又、子どもたちは「こどもデイキャンプ」として講師の伊藤先生からマジックを教えてもらい、信徒大会の閉会の時、マジックの発表をしました。先生曰く「子供達との触れ愛は最高でした。短い時間かなりむずかしい技術をマスターしてイリュージョンショーにまで披露したのは感動ものでした」ということでしたが。手品をする子どもを手拍子とか歓声で励ましながら、実は大人の方が元気をもらっていましたね。先生は講演のまとめの言葉として、「祈り・笑い・楽しみ」は脳下垂体を元気にして、ミトコンドリアを増やし、元気発電がフル回転します・・・「相手を思いやる事は、自分を元気にする事」であるとおっしゃっていました。
今回の信徒大会は大人だけでなく子どもたちも一緒に学び、楽しめるようなプログラムにいたしましたが。参加者の方々からも「元気が出た」と大変好評でありました。地方連合のつながりあればこその信徒大会、又こういった企画であり、学び、そして喜びでもあったと思います。これからも主イエスの福音を共に分かち、担い合うよいつながりが持たれていくよう覚えて頂ければと願います。

信徒大会の日の翌24日は、福岡にある久山療育園の全国支援者会議が開かれるので、日帰りで出席いたしました。前日が恒例の開園祭でしたが。全国支援者会議の内容は主に、新しい事業として展開する「在宅支援棟」と「ケアホーム久山」の建設と運営についてでした。久山療育園は開設以来、地域社会の重症心身障害児者の受け入れをなしてきました。数年前には改修工事がなされ、新しい建物ができました。現在88人の入所者の方々と在宅から通園される方々への医療と療育が提供されています。ところが今後の国の方針は、障害者は施設にではなく家族で看て、ケアをなし自立を促していくべし、という施設解体論や施設不要論ともいえるものに重点が向けられていくということです。それらは国費をこうした重症心身障害児者のために使うのは問題だという発想から来ています。しかし現実の重症心身障害児者の実態を明らかにしたデータによれば、施設にも入れないで在宅で医療と療育を切実に必要としている重たい障害を抱える方々が、社会には見えないですがたくさんおられ、一日一日を生きるためご家族が苦しみ闘っておられるというのが実情なのです。そういった在宅の重症児者の割合は非常に高いということです。こういう事態にきちんと目が向けられ、手厚いケアがなされていくための貴重な発信の場として久山療育園が建てられているその意味は大きいと改めて思わされました。
 会議の中である委員が、新しい事業「ケアホーム久山」を運営していくのに毎年大きな赤字が出る。もっと現状認識を園も私たちもする必要がある」と問いかけられました。「それだけの覚悟があるか」ということです。確かに私も初めこの事業のことを知った時、建設費用もかなりのものだし、そのうえ運営をすることで、現在受け入れている入所者のケアも看護や養育のスタッフも大変な状態なのに、さらに新しい事業を展開してやる必要があるのか、と疑問を持っていました。
ところが、会議の中で別の委員の方がこのように発言されたのです。
「赤字があるから支援するのではなく、赤字であってもそれをやろうとする久山の創設以来の理念を共有することがまず大事ではないでしょうか。久山の理念とは「重症児が社会の片隅にではなく(キリストが小さき者をみなの真ん中に立たせられたように)、社会の中心に位置づけられることを願う」というものであり、そのような福祉共同体の拠点となることを目指して創設された、それが久山療育園なのです。  
その方はさらに、「久山療育園のことを、久山のためにと特化すべきではない。久山の抱えている問題は教会の抱えている問題なのではないか。礼拝に来られている方然り。教会の中にも、教会の周辺社会においても、見えなくされている方。日々苦しみ、闘っておられる方と家族がおられる。実はその人たちの声や叫びに耳を傾け、少しでも寄り添っていけるのが教会なのではないのか。つまり、久山のこの問題は自分たちの事柄であるということから新しい事業ケアホームのことを捉えていくことが大事だ」と、そういう趣旨のことを言われたんですね。この方は仙台の教会において被災者の支援活動を地道になさっておられるのですが。私はその言葉が大変心に響いてきました。

さて、今日はエステル記8章1~8節が読まれました。
王妃エステルは王の足もとにひれ伏し、涙を流し、憐れみを乞い、アガク人ハマンの悪事、すなわち、ユダヤ人に対して彼がたくらんだことが無効になるようにと命懸けで訴えます。
すると王が金の笏を差し伸べられたので、エステルは王にお目通りが叶い、「王が調印した勅令すなわち、ハマンが作ったユダヤ人絶滅の文書の取り消しを申し出るのです。
エステルは王に、「私は自分の民族の滅亡を見るのに忍びないのでございます」と、その思いを吐露します。
すると王は答えます。「王の名によって書き記され、王の指輪で印を押された文書は、取り消すことができない。だからお前はよいと思うことをユダヤ人のため王の名によって書き記し、王の指輪で印を押すがよい」。つまり、一度調印された勅令は王であっても取り消すことができないが、お前たちがそれに代わる文書を作り、そこにわしの名を入れ、わしの指輪で印を押せば、前の勅令を無効にすることができる、という許可を得て、ユダヤの民は滅びから免れるのであります。
エステルの「私は自分の民にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのでございます」という言葉からは、同族の苦しみと痛みを、自分のものとして感受しているエステルの思いが強く伝わってまいります。
しかし一方で、ここには異邦人の地にあって生きるユダヤ人としての民族意識が強く表れています。ですからこの言葉を単に同胞愛、民族、国家への愛と読むと、キリストの福音からかけ離れたものになってしまいます。なぜなら、向かう先はエステル記9章にあるように他民族への排他的行為となり得るからです。
この、エステル王妃の作った新しい勅令は、本日読みませんでしたが。「ユダヤ人を迫害する人々を滅ぼす」というものでした。それが9章に至ますと、ユダヤ人たちの殺害行為は自分たちの身を守るという単なる自衛の範囲を大きく逸脱したものとなっていくのです。

私たちはエステルのこの「私は自分の民にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びない」というこの言葉を、キリストの教えと行動から聞いていくことが大切です。私の同胞とは誰か?隣人とは誰か?主イエスは身をもってそれを示してくださいました。私たちはいつも主が寄り添われたそのような隣人の痛みや苦しみを自分のものとして感受してく感性をもっていたいと願います。それが教会であり、主の民であると信じます。
私たちの身近なところに、その独自性、個性、違いのゆえに小さく人がいないでしょうか、そのような声すらならない声、言葉にすらならない呻きがごく身近にないでしょうか。

今日は始めに、伊藤先生の「相手を思いやる事は、自分を元気にすること」という話をご紹介しました。そして、久山療育園の理念と働き、そこで起こっている問題や課題は、実は私たちの身近にもすでにある出来事であり、そこに思いを寄せて共に生きることこそ、教会を教会たらしめるキリストの共同体である、ということをお話しました。
人のためにと支援することは大事です。しかしそれだけでは長続きしません、つぶれてしまいます。他者の抱えている事柄や問題は、まさに自分の事柄、私の事柄なのだと気づかされ、そこでつながっていけるのなら、きっとそれは拡がりと深まりをもって、さらに継続して実りをもたらします。今日このエステルの「私は自分の民族にふりかかる不幸を見るに忍びず、また同族の滅亡を見るに忍びないのです」との言葉を、私たちもイエス・キリストの隣人愛に根ざしつつ、とりなし・とりなされつつ共に生きる喜びを分かち合ってまいりましょう。
自分と他者をつなぐ力は、「愛と憐れみの神、十字架と復活の主イエス、見えないものを明らかにするご聖霊」であることに感謝し、この後も心から主を賛美いたしましょう。
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あなたにしかできないこと

2013-09-22 13:07:20 | メッセージ
礼拝宣教 エステル記4章 

本日はエステル記4章より「あなたにしかできないこと」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。まずは、このエステル記は、ユダヤ民が異邦の地バビロン、さらにペルシアの捕囚の地にあって先祖から受け継いできた神への信仰・神の教え(律法)を棄てることなく堅く保ち続けてきた。又、逆境にあってなお神の民として生きるユダヤの人々の骨太な信仰に焦点があてられています。

「3章までの粗筋」
4章に至るまでの粗筋を少し御話しますと。ペルシア王クセルクセス王の祝宴の招きを断った王妃ワシュテはその王妃の位を剥奪されてしまいます。王の家来たちはワシュテに代わる新しい王妃を選ぶことを王に提案し、新しい王妃を選ぶこととなります。
その頃、ユダヤ人の捕囚民で王宮に仕えていたモルデカイという人がいました。彼にはエステルという養女がいました。エステルが両親を亡くしていたので、いとこでもあったモルデカイが娘として引取り育てていたのです。そしてこのエステルが、ペルシア王の王妃に選ばれたのであります。

その後、クセルクセス王は、アガク人のハマンを引き立て、同僚の大臣のだれよりも高い地位につけました。このアガクとはアマレク人の王のことであり、ハマンはその子孫でした。イスラエルとアマレクは昔から敵対関係であったのです。モルデカイはアガクを滅ぼしたサウル王の子孫であったのですね。そういう因縁の関係にあったハマンが王の側近として地位につきます。そこで事件が起こるのです。
王宮の門にいる役人は皆、王の命に従ってハマンにひざまずき敬礼していました。
ところが、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかったのです。モルデカイにとってアマレク人にひざまずく事は、神への背信である程にあってはならない事だったのでしょう。
ハマンはモルデカイがひざまずいて敬礼しなかったのを見て、腹を立てます。そしてモルデカイが宿敵ユダヤ民族に属するのを知るや、彼一人を打つだけでは不十分だと思い、ペルシアの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうと企てます。ハマンはクセルクセス王に、「ユダヤ人を絶滅するとユダヤ人たちからの納税金がなくなって国家財政が厳しくなりますから、その分わたしが銀貨1万キカルを国庫にお支払いいたします」との提案をし(1万キカルとはおおよそ当時ペルシアの国家予算の60パーセント・3分の2に相当するそうですが。)、王はそのハマンの申し出を了承しました。そしてアダル(12)の月の13日に、その一日のうちにユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収される、という勅令が発布されることとなったのです

「モルデカイとエステル」
ここからが本日の4章の箇所であります。
モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげました。
モルデカイは、まさに心痛の極みであったでしょう。ハマンにひざまずいて敬礼しなかった自分の行動のために、自分だけでなく、捕囚民とすべてのユダヤ人が滅ぼされてしまう事態に至ったことに対し、どれほど深く嘆き悲しんだことでしょう。又、「ユダヤ人絶滅の勅書が届いたペルシアのどの州でも、ユダヤ人の間に大きな嘆きが起こり、多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」とあります。
何も知らない王妃エステルは、女官と宦官に王宮の門の前で粗布をまとうモルデカイのことを聞かされ、非常に驚き、モルデカイの粗布を脱がせようと衣服を届けますが、モルデカイは受け取ろうとしません。

「あなたにしかできないこと」
モルデカイは事の一部始終を遣いのハタクに聞かせ、同時にハタクに「エステル王妃自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように」との伝言を託します。モルデカイからの伝言を聞いたエステルは大変戸惑ったことでしょう。王からの召しもないのに王のもとに行く事(直訴すること)は誰であれ法律によれば極刑を免れ得なかったからです。しかし、モルデカイはそれでもエステルに伝えます。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

さて、このモルデカイの言葉を聞いて、皆さまはどのようにお感じになったでしょうか。何だかあまりにも彼は強引すぎるように思えます。けれどもこの言葉の背後に、モルデカイの信仰、「主は生き働いておられる、御言葉の約束をもって今も働いておられる」という信仰を見ることができます。
異邦の捕囚民として漂流地にあっても、決して流され得ない、自分たちは神の民であるという強い確信と共同体意識。そういうバックボーンがあってこそのモルデカイの発言であります。

モルデカイはエステルに、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と言っていますが。それは、そうすることが「神がエステルにお与えになった使命」であり、「エステルよ、あなたにしかできないことがある」と訴えているのです。

それを聞いたエステルも大変苦悩したに違いありません。けれども葛藤の末に手紙で次のような返事をモルデカイにしたためて送ります。
「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 
このエステルのしたためた手紙には直接「主」や「神」という言葉は出て来ていません。しかし旧約聖書の外典(旧約と新約の間に続編としている聖書をお持ちの方もいらっしゃると思いますが。そのギリシャ語のエステル記4章には、「主よ、思い起こしてください。この悩みの時、あなたご自身をお示しください。神々を支配し、すべての主権を握る王よ、わたしに勇気をお与えください」と、エステルの切実な祈りが綴られています。

このようにモルデカイの祈り、エステルの祈り、そして異邦の地にいるすべてのユダヤ同胞の執り成しの祈りのもと、エステルは、エステルにしかできないことを成し遂げるため、王宮に向かうのであります。

「杉原千畝・幸子夫妻のこと」
本日は「あなたにしかできないこと」と題し、お話させて戴いておりますが。
私はこのエステル記を読む中で思い浮かんできましたのが、「命のビザ」を発給し、6000人ものユダヤ人の命を救った杉原千畝・幸子ご夫妻のことであります。
杉原千畝氏は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知していた杉原氏は、助けを求めてくるユダヤ人に対して、パスポート以外であっても彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたものをパスポートの代替案として認め、何が何でも第三国行きがかなうべく情状酌量を求めて外務省に電報を打ちます。が、それに対する返事は、行先の入国許可手続を完了した者、つなり受け入れ先からきちんと許可された者、又、旅費及び日本での滞在費等の携帯金を有する者にのみ査証を発給せよとの指示が繰り返し回電されてきたそうです。
そういう中、杉原幸子夫人が、難民たちのなかにいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、旧約聖書の哀歌2章19節の「彼らはどの街角でも飢えに衰えゆく。あなたの幼子らのために両手を上げて命乞いせよ」という御言葉が突然心に浮かんだそうです。杉原氏は悩み抜いた末、夫人に「ビザを出せなかったら、神に背くことだ。わたしは自分の責任において、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と問いかけます。幸子夫人も「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」と同意しました。こうして杉原氏は苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても彼らを拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給し、それによって6000人のユダヤ難民の命が救われた、ということであります。
杉原氏は満州赴任の時代に洗礼を受けておられたそうです。後日談でありますが。日本に上陸したユダヤ人を受け入れたのはホーリネス教団のクリスチャンたちだったそうです。大戦下の自分たちすら食うや食わずの状況下で、逃れて来た人達に食べ物を提供し、臭くてボロボロの衣服を洗い繕い手助けしたということです。そして「聖書には、いつかイスラエルが再建されると約束されています。あなたたちは神の選びの民です」といって励まし、それはユダヤの人々に深い感動と力を与えることとなった、ということであります。

本日は「あなたにしかできないこと」と題し、エルテル記4章から聞いてまいりました。私たちはなぜ生かされているのか。私はなぜここにいるのか。それは「あなたにしかできないことが」があるからです。
私たちは、エステルや杉原ご夫妻と比べる必要などありません。それぞれが創造主であられる神さまに意味があって、何らかの目的をもって造られた存在であることが最も尊い事です。ましてや私たちは神のご計画により、主イエス・キリストにあって贖い出された者だと聖書にあるとおりです。神さまが「あなたにしかできないこと」を与えておられます。それはとっても身近なことかも知れません。神がお用いになることに大きい小さいは問題ではありません。必要なのは神の前にまっすぐに出て立つ姿勢であります。それぞれに与えられる神からの託宣を、キリストの愛と平和の中で受け取ってまいりましょう。

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年老いていくなかで

2013-09-15 15:49:57 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ1章5~7節  敬老感謝

9月になったとはいえ未だに湿度と気温が高い日が続いていますが。それでも朝晩は幾分涼しくなり秋を感じるようになってきました。
先週の日曜日朝に2020年の東京オリンピック開催が決定したというニュースがあり、マスコミ、テレビは連日そのニュースで湧いていますが。その一方で、安部首相が福島の放射能と汚染水について「問題はないコントロールできている」という発言をしたことに対して批判が高まっています。当の東電側は「我々はコントロールできているとは言えない」とコメントしていますが。オリンピック開催ありきと、まずは景気のいい話をということが優先される中、被災地と被災者の方々の不安、復興は後回しにされるのでは、といった懸念はますます深まるばかりです。未だ30万人以上の方がたが避難生活を余儀なくされている現況です。被災地と被災者の方々が決して置去りにされることのないように、覚え続ける私たち、そして日本であって欲しいと心から願います。又、一日も早い原発事故の終息を祈ります。

「人生の秋」
さて、話は変わりますが。皆さまは秋といえば何を連想されますか。新米。魚ならサンマ、秋鮭。果物ならぶどう、梨、柿。食欲の秋、実りの秋という方も多いでしょう。又、芸術の秋。スポーツの秋。などとも言われます。そんな私たちの五感に働きかけて暑かった夏の疲れをいやし、冬の寒さに備えるに適した心地よい秋の季節も、近年は異常気象と地球温暖化で、夏が秋を喰ってしまい秋が非常に短く、すぐに冬がやって来るように感じます。まあそれでも、この時期は何を行うにも適しているといえましょう。
スイス人でクリスチャンの医師であるポール・トゥルニエは、「人生の四季」という著書の中で、秋を意外にも「老年期」と位置づけています。まあ老年期というものが何歳ぐらいとするのかという問題はありますが。40年くらい前の60歳と、現代の60歳とでは随分事情が違っていますよね。昔のおじいさん、おばあさんといった年代の方々が、今は現役バリバリで働いておられたり、街を闊歩しておられます。それどもやはり65歳からでしょうか。確かに定年や年金のことが身近になり、70歳代に入るあたりは身体的な衰えや心身両面が変化していく分岐点ともいえるでしょう。
トゥルニエは「人生を振り返ったり、自問していく時、これが秋で、夏の最中、活動の最中には、こんな問いは決して浮かんでこない」とそのように言っています。このように、人生の秋とは、「じっくりと我について熟考できる時」として捉えるなら、それは又人生の豊かな実りの時、味わいの時と言えるのかも知れません。
本日は特別に敬老感謝を覚えての礼拝を捧げています。
一つの、あるいは幾つかの時代を担い務め、様々なご経験を積んで来られた方がたに敬意を表すこの日。日本全国で感謝の思いが伝えられていることでしょう。
「聖書の敬老感謝」
けれども私たちは、この「敬老感謝礼拝」で単にこの日を世に倣うということではなく、すべてをお造りなり、統べおさめておられる主なる神さまの御業を仰ぎ見ています。
それは、信仰の諸先輩方を通して顕わされる神さまの御業であります。敬老たるゆえんも、その人のもつ経験や徳、振舞にのみ目がむけられるのであれば、いわゆる立派で、精進し、頑張って来た人を祝う日です。それを否定はいたしませんが。
しかし、私ども信仰者は、すべての命の源である主の御業を、その方の人生に垣間見せて戴くことで、主をたたえ、同時にその方の存在の尊さを知らされて、感謝の思いへと導かれます。
 けれども、老いは美化されるものではないという意見もあるかも知れません。実際、年老いていくことによって生じる様々な問題があります。私も小倉に母がおりますが。最近随分と、もの忘れが増え同じ事を言う様な症状が出てきています。そういう親の介助やケアについて現実の問題として間近にきていることも確かであります。逆にご高齢の皆さまも、ご家族の事など様々な問題がおありかと思います。年老いていくなかで、身体的不自由さ、またそこから精神的な孤立感をも身に負うようになります。それは誰もが向き合わなければならない人生の課題でありましょう。

「年老いていくなかで」
私たちは、幸いなことに人の生涯を司っておられる主と出会い、そのおしえをと平安の道を「聖書」の御言葉から戴いて歩む恵みが与えられています。
本日は、ルカによる福音書1章5~7節から御言葉を選ばせて頂きました。
ここは、主イエス・キリストの誕生に先駆け、悔い改めのバプテスマ(洗礼)を説いたバプテスマのヨハネの両親ザカリヤとエリサべトの老夫婦についての記事であります。
アドヴェントの折に読むお馴染みの場面でありますが。二人の老夫婦は、天の使いから「男の子が生まれる」とお告げを受けるのです。7節にあるように、「彼らには子どもがなく、二人ともすでに年をとっていました」。そのことで夫ザカリヤは、天の使いのお告げを信じて受け入れることができず、その不信仰のゆえにしばらく口がきけなくなったというのですね。それと似たような記事が旧約聖書にもあります。信仰の祖アブラハムとサラのことです(創世記18章)。主はこの老夫婦に現れ、男の子(イサク)を授かるとの予告なさいますが、妻のサラは思わず「笑った」というのです。当時アブラハムは100歳、サラは99歳でした。ザカリヤがルカ1章18節で、「わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えていますが。それはアブラハム・サラの老夫婦にも共通する、自然な思いであったのです。
ここで問題になったのは、「年老いていた」という現実であります。
「年老いていた」という中に、先程も触れましたように、身体的、さらに精神的にも物事を消極的、あるいは悲観的に捉えがちになり、次第に諦らめ悟るような境地、仏教では諦観(ていかん)という言葉になるのでしょうが。ザカリヤも又そのような心境になっていったことが、18節の「わたしは老人ですし云々」という言葉に表れています。
人は年老いていく中で、自分のもっていた可能性や能力が次第に剥ぎ取られていくように思える経験をいたします。けれども、それはほかならぬ神ご自身がそのように人をお造りうになられているのです。それはザカリヤのように、どんなにその人が神の前に正しくとも、主の掟と定めとをすべて守り、世間的にも非の打ちどころのないような人であっても例外ではありません。立派な信仰があるからいつまでも老いない、弱らないということはないのです。
しかし、ここのところが大事なのですが。そういう弱さ、老いといった人の思いや力ではどうすることもできないような状況の中に、実は神さまのいのちの言葉、神さまのお約束が臨んだのだ、というのが聖書の語る救いのメッセージなのです。人間にとってみれば弱さがある、足りないことがある、欠点がある。そのことで悩み、苦しむことは確かにございます。しかし神さまは、そういう私ども弱さを持っている者、負い目を持つ者、希望すら持てないような者のうちに、臨んでくださり、いのちの御言葉を送り、希望の約束をしてくださるのです。

「ただ信じ、受ける」
さて、今日のエピソードの中でザカリヤは天の使いの御言葉をすんなり受け入れることができず、天の使いに対して「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか」と尋ねていますね。私たち人間は確証を得たくて、何かとしるしを求めたがります。
けれども聖書は、見えるから、確証や証拠があるから信じ、受け入れるというのは信仰ではないというのです。主の使いの言葉がそれを表していますね。信仰は、ただ神の御言葉をまっすぐに信じ、受けることでしかないのです。ヘブライ11章1節に、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。そのように「まだ目には見えていないが、事実としての神の御手の業を仰ぐ」ことこそ、重要だというのが聖書のメッセージです。
 私たちの主である神さまは、世にあって弱く小さくされた人、又、負い目のあるような人、不安や恐れを抱く人、希望を持つことすら困難な人のところに臨まれ、希望の御言葉と救いをお与えくださっています。それは昔も今もこれからも変わることはありません。ここに私たちの希望があります。
最後になりますが。信仰者にとって年老いていくことは、神さまのご臨在に益々与っていくチャンスを与えられていくということですね。失礼かもしれませんが。年老いて体力、気力様々なものが剥ぎ取られていくように感じられる中で、神さまは恵みの御業を照らし出す器としてお用いになられるのです。
私たちの大阪教会において、「敬老感謝」にふさわしい兄姉がたくさんいらっしゃいます。主がそれらの兄姉を益々祝福されますよう祈り、私たちもまた信仰者として後に続いていく者とされてきたいと思います。すべては主の御手のうちにあることを、信じ、確信して。
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神さまからのプレゼント

2013-09-08 16:07:12 | メッセージ
礼拝宣教 ルツ記4章1~17節 

「不思議な主の導きとお取り計らい」
先週は、夫に先立たれ、さらに2人の息子にも先立たれ、失意のどん底にあったナオミと、そのナオミの息子嫁であったモアブ人のルツのお話しでした。
ルツはナオミに寄り添うようにユダのベツレヘムに同行するのでありますが。そこで日毎の糧を得るために人の畑に出て行き、農夫たちのあとをついて落ち穂拾いをいたします。ミレーの絵画は有名でありますが。落ち穂拾いというのは、収穫の時農夫がとり落とした穂を拾い集めたり、刈り残したものを刈り取って糧を得ることをさしているわけです。  それはレビ記の19章9節、10節に記されていますように、貧しい者や寄留者のために「刈尽くしてはならない」「摘み尽くしてはならない」「落ちた穂を拾い集めてはならない」という神の戒めの下、いわば合法的に認められた権利であったということです。神の戒めは人を束縛するようなものではなく、むしろあらゆる人たちが虐げられることなく、人間らしく生きることができるようにという神の深い憐れみによるものなのです。
まあルツはそのようにしてナオミを支えるのでありますが。そのルツが落ち穂を拾っていた畑地を所有していたのが、奇遇にもナオミの亡き夫エリメレクの親戚の一人であるボアズであったのです。ボアズは自分の畑地で落ち穂を拾っていたルツが、モアブの野からナオミと一緒に戻ってきたのを知ると、ルツに「よその畑に落ち穂を拾いに行く事はない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい・・・喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんどいた水を飲みなさい」と厚意を示します。

「祝福を祈る」
ルツは顔を地につけひれ伏しつつ、「よそ者のわたしをこれほど目にかけて、厚意を示してくださるのは、なぜですか」と問うのですが。それに対してボアズは次のように答えます。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。」そして「どうか主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御つばさのもとに逃れてきたあなたに十分報いてくださるように」とルツを祝福します。
ルツはこのボアズの親切に感謝し、それからというもの日が暮れるまで一生懸命に落ち穂を拾い続け、姑ナオミのところに持って帰ったのでした。
一方姑のナオミは、ルツがいっぱいの落ち穂を拾って来た畑地の所有者が、亡き夫の近い親戚であるボアズだということをルツから聞かされ、「どうか生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主がその人を祝福してくださるように」と、主を賛美しつつボアズを祝福します。ボアズもナオミも互いに相手を祝福するんですよね。主を畏れ敬う人たちの関係が麗しいのは、このように相手を祝福することができるという事ではないでしょうか。それは自分に益のある人だけに向けられるのではなく、自分と直接的関係のないような人、さらに主イエスに至っては、」敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にし、悪口をいう者にさえ祝福を祈り、侮辱する者のためにも祈りなさい」とおっしゃるのです。主イエスは父なる神さまが人を偏り見ず情け深く憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6章28節)と言われます。私たちは互いに、益々祝福し合い、様々な人たちのことを覚え、取りなし祈ることで、神の栄光を表すものとされたいものであります。

「ボアズの知恵と行動」
さて姑のナオミは、ボアズが夫であったエリメレクの親族であることを知り、ルツにある大胆な計画を伝えます。それはルツの今後のことを考えた上でのことでした。そうしてナオミの言葉どおりにルツは、ボアズに近づき結婚の意志を示す行動にでるのです。
するとボアズは次のように答えます。「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっとあなたの言うとおり(あなたの家を絶やすようなことはしないよう)にします。・・・・確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。」ボアズはルツの結婚の申込に即答せず、保留したのです。
さて、ここからが本日の4章となります。
ボアズは町の門のところへ上って座っていると、折よく、エリメレクに最も近いもう一人の親戚が通り過ぎようとしていたので、声をかけ、町の長老10人の立ち会いのもと、畑地の買い取りについての話がしたいと言います。ボアズは「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。もしあなたに責任を果たすおつもりがあれば、買取ってください」と切り出します。ユダの家族法の一つには、「親族の者は氏族のもつ財産やその氏族に属する人が生きていくうえでの生活や生計が維持されていく義務を負う」というものがあったのです。この近しい親戚は、エリメレクの畑地が親族以外の者に移らないために自分が買い取っていくことが望ましいと考えて、「わたしが責任を果たしましょう」と、快諾をするのです。
ところがボアズは、さらに「畑地を買取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません」と持ちかけます。
親戚の人は、畑地を買取ることだけでなく、モアブ人のルツとの結婚もそれに含まれていることを知るや、「そこまで責任を負うことになればわたしの嗣業を損なうことになります。それはできません」と言い、「親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか」とボアズに伝え、その権利を放棄し、ボアズに譲渡するのです。

「贖いについて」
このボアズの提案については、確かに、ユダの家族法に売却された氏族の財産、あるいは危機に陥った氏族財産の請け出しを親族が負う責務はありました。が、ボアズの言う様に、義理の兄弟以外の親戚が、故人の先妻を引き取って妻とする義務などなかったのであります。けれどもこの親族もナオミやルツのことを当然伝え聞いていたでしょうから、反論はあえてしなかったのでしょう。ただ、ルツを引き取ってゆくことまでは考えられなかったのでしょう。ルツはモアブ人であり、ユダヤ人は外国人と交わることが禁じられ、モアブ人とは特に敵対関係にあったわけですから。いくら近しい親族であったとしても、外国人のルツを引き取って妻とすることは、周囲からどのような目で見られるか分からないという恐れや心配もあったはずです。さらにナオミをも引き取り養っていくとなると経済的負担の重圧もあったでしょう。そういう理由からこの親戚はボアズの提案を放棄し、それをボアズに譲ったのです。そのように考えますと、ボアズはそれらの負担の大きさを予想していながらも、ルツそしてナオミを引き受けていく覚悟でいたということです。
では、何がここまでボアズの心を動かしたのでしょう。
それは単に近い親族としての義務や責務だけでできるものではありません。「ああ、お気の毒に」といった同情心で出来ることでもなかったでしょう。そこには異邦人のルツが姑ナオミを愛し、慕い、切実にナオミを支え続けていたその姿に心打たれたということがあったのではないでしょうか。まあそこには、ナオミの祈りと取りなしが常にあったということが想像できますが。この二人の女性の姿はボアズにとって驚異ともいえる事だったのかも知れません。そのような思いから彼はルツを引き取り、エリメレクの氏族の財産と名を残す責務を果たす決意へ導かれていったのではないでしょうか。

さて、今日の聖書の中心は、ボアズがエリメレクの畑地を買い取って氏族の財産を守っただけでなく、ルツを請け出したという点にあります。「請け出す」とあえて申しますのは、このことでボアズが大きな代価を払い一切を引き受けていったからです。それは異邦人のルツにとっては当時のユダヤ社会における偏見や差別からの贖いと解放であり、ナオミにとっては新たな家族としてのつながりを得る、という神の慈しみに外なりませんでした。贖いの業と神の慈しみ、それは私どもにとりまして救い主イエス・キリストであります。寄る辺なき私、祝福から見放されたような私、世に小さくされた者の一人とされた私。
その私をかけがえのない存在として自ら十字架の犠牲とという計り難い大きな代価を払い、贖いとってくださった主イエス・キリスト。
このボアズなしたことから、主イエスの救いの御業に至るまで、そこには今も昔もそしてこれからも変わることのない父なる神の御愛と慈しみ、ヘセドの愛がその根底に流れているのであります。

「神さまからのプレゼント」 
さて、今日の4章の後半にもどりますが。ここには「人々の祝福と神の祝福」と小見出しがつけられています。証人となった長老たちがボアズとルツを祝福します。その後、ボアズとルツに男の子が与えられました。
すると今度は女性たちが一斉にナオミを祝し、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子があなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたの愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから」というのです。
ボアズの祝福の祈りとナオミの祝福の祈り、そして長老たちの祝福の祈り。さらにそれは女たちの祝福の祈りにつながっていくのです。そしてそれが、ダビデの系図を表すとおりユダヤの祝福となり、その延長線上において主イエス・キリストの誕生によって神の祝福が全世界に広がっていったということです。まあ何とも壮大な祝福の連鎖をここに見ることができるわけでありますが。私たちも神の祝福に与っている者として、その祝福を広げ分かち合い、その祝福の輪に連ならせて頂きたいと願うものです。

最後に、16節に「ナオミはその乳飲み子をそのふところに抱き上げ、養い育てた」とありますが。
モアブからユダに帰郷したとき彼女は何と主に訴えたでしょう。「主はうつろにしてわたしを帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに」(1章21節)と主に訴え嘆いたのでした。
その彼女が、今や肉の血筋を上回るような神の恵みの子どもを授かり、そのことによって生きる希望を与えられ、魂が生き返るような思いを与えられた。すなわち、「快い」というナオミ自身を取り戻すことができたのであります。それはまさに大きな「神さまからのプレゼント」であったのです。
このルツ記から、ナオミ、ルツ、ボアズの人となりから、神の愛と慈しみに改めて気づかされます。主の救いに生かされた者の証しを、私どもも祝福の祈りと共に立ててゆく者でありたいと心から願います。
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独りではない

2013-09-01 14:22:23 | メッセージ
礼拝宣教 ルツ記1章1~18節 召天者記念

本日は召天者記念礼拝として先に主の御もとに召されていかれた会員・会友を偲びつつ、御遺族又、教会の兄弟姉妹と共に、復活の主に礼拝を捧げています。
昨年の9月以降、新たに5名もの主にある兄弟姉妹が主の御もとに旅立って行かれました。
ご遺族ご近親、そして教会にとりましてそれは寂しい別れとなりましたが。しかし今は天の神の御手に抱かれて、その魂は憩いを得ておられることと、信じます。

本日は、先程読んで戴いたルツ記1章から「独りではない」という題で、御言葉を聞いていきたいと思います。聖書の物語のなかでは男の人が主人公になっているものが殆どでありますが。このルツ記、また次に読む予定のエステル記は、女性が主人公として描かれています。
本日の物語の流れを少しお話しいたしますと。ユダの地にユダヤ人のエリメレクとナオミという夫婦と二人の息子マフロンとキルヨンが住んでいました。ところがユダの地に飢饉が襲ったので家族4人は、食物のある肥沃な異邦の地モアブの野に移り住むことにしました。ユダヤ人から見ればモアブは異邦の地であり、古くから敵対関係にあったのですが、何とか家族が生き抜いていくためには致し方ない選択であったのです。そのモアブの地で悲しいできごとが起きます。ナオミは夫であり、二人の子どもの父であったエリメレクに先立たれてしまうのです。その後、二人の息子はそれぞれモアブ人の女性オルパとルツと結婚しますが、何とこのナオミの二人の息子も次々と死んでしまうのです。その心境たるや如何ばかりであったことでしょうか。
そこでナオミはモアブの地から郷里のユダの地に単独で帰る決心をいたします。そして二人の息子嫁であったオルパとルツに、「あなたたちは死んだ息子によく尽くしてくれた。自分の里であるモアブに帰りなさい」と言うのです。それを聞いたオルパは泣く泣く里の家に帰っていきました。しかしもう一人の息子の嫁であったルツは次のように言います。「あなたを見捨てて、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになるところに泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に そこで葬られたいのです。」そうしてルツはナオミのもとを離れようとしません。ナオミはルツの同行の意思が固いのを見て、二人で寄り添うようにしてユダのベツレヘムに帰っていった、というのが本日のお話の概要であります。

先週祈祷会の聖書の学びにおいて、この箇所を読んだ後に、出席されていた二人の姉妹からこういうようなお話がありました。お二人ともそれぞれご主人を先に天に送られたご遺族です。お一人の方は、40歳でご主人を亡くされた方です。ご主人の死に対して「どうしてですか」と主に問うことが当初多くあった。またどうやって残された子どもたちを食べさせていけばよいのかという不安もあった。が、しかし私の場合は神さまの守りと導きがあり今がある。いろいろもがき苦しむこともあったが、それはしかし「主の御手の中」でもがき苦しんでいただけであった。そのようなことをおっしゃっていました。
もう一人の方は、8年前にご主人を亡くされた方です。故郷の東北を離れて大阪に来て、大阪教会にいたご主人と結婚。結婚してから4年に一度しか郷里に帰れなかった。が、しかし教会の人たちとの交わりによる支えと祈り、「教会の家族」があったので、里に帰りたいとは思わなかったと、おっしゃっていました。
すべてのことは「主の御手」のうちにあるとの信仰の確信。そこに至るまでには大変なご苦労と祈りがおありだったことでしょう。そこには教会の主にある兄弟姉妹のお支えと祈りがあったことでしょう。「神の家族」という祈りと支え。それは主イエスの救いの具体的現れであります。主にあって誰も「独りではない」。それが聖書の語る福音の力強いメッセージであります。

さて、本日の箇所で、私が特に心に留まったのは、一人で郷里のユダの地に帰ろうとしていたナオミに対して、息子の嫁であったルツがかけた、「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉です。

モアブ人であったルツ。しかもモアブとユダの国は当時敵対関係にあったのです。宗教も人種も異なっていたモアブ人のルツとユダヤ人のナオミ。ナオミがルツにモアブの里に帰れというのはそういう事を考えた上での配慮であったのかも知れません。しかし、ルツはナオミと一緒にユダの地に行く道を選んだのですね。それは姑を独りにできないという心情や思いもあったのでしょう。しかし、それだけではなくルツはモアブの地においてナオミの神を信じて生きる姿に日頃から心動かされることがあったのではないでしょうか。むしろそのことが一番大きかったのではないでしょうか。ナオミの息子である夫との生活の上でも、生ける主を中心とした毎日は異邦人のルツにとって新鮮な驚きや感動があったのかも知れません。そういう中で、ルツは真の神さまを知るように導かれていったのでしょう。ナオミに対する「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」という言葉は、そのようなナオミの家族との信仰の生活から生まれた、ルツの証しの言葉とも言えるでしょう。

本日の召天者記念礼拝にご参列くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は教会員でクリスチャンであられても、ご遺族の皆様のうちにはクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおられるでしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。

話しは変わりますが。私がクリスチャンになる決心をしたのは高校1年生でした。その時、悩んだのは家が真宗で親も仏教であるということでした。長男であった僕がクリスチャンになると親のことも含め位牌のこと、法事や祭儀はどうしたものかといった心配がありました。それについて当時バプテスマ(洗礼)の準備クラスでお世話くださった牧師は、ご自分の体験を通じてのアドヴァイスをしてくださいました。「君の信仰は神さまとの関係として大事にすることが一番。ただし親の信仰も尊重してあげることは十分できる。例えば僕の場合は亡くなった母のための仏壇はおかないけど、母の信じていた信仰に基づき、母の小さな位牌は家において大事にしているよ」と、そうおっしゃいました。その言葉でクリスチャンになることに対してのわだかまりが晴れました。そうして高校1年となった春のイースター礼拝に、主なる神さまを信じてバプテスマを受けたのです。それまで、私がクリスチャンになることに反対していた母、さらに牧師となることに猛反対していた母でしたが、不思議なもので今ではクリスチャンであり、牧師となったことを喜んでくれています。

さて、本日は1章の19節以降は読みませんでしたが。ユダのベツレヘムにナオミは帰国すると、大勢のユダヤ人の同胞が集まってきて大騒ぎになったようです。ナオミの心は傷つき、私なんてどうでもいいんだ、神さま恨まれ見捨てられて不幸に落とされたんだ、と自暴自棄のようになり、もうナオミ(心地よいという意味)なんて呼ばないで、これからは(苦いという意味)マラって呼んでちょうだい、と嘆くのですね。そこに何も書かれていませんが、ルツはそのナオミの姿をそばで見ていたはずです。そしてただ黙々とそのナオミに寄り添い、落穂拾いをして日毎の食糧をつないでナオミを支えたというのですね。するとそこに思いがけずナオミの親戚のボアズとの出会いと助けが、神さまによって用意されていたというのですね。

このルツ記を読みながらつくづく思わされたのは、国の違い、生まれや人種の違い、世代の違いなど様々な違いを越えて、互いに支え合い、寄り添い合って生きる中に、主なる神さまが豊かにお働きくださるお方であるということです。
新約聖書のルカ福音書20章にですが。イエスさまに「神の国はいつ来るのですか」と質問がなされた時、イエスさまはこうお答えになられました。「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。それは死後の世界に限定されるものではなく、今この時に私たちの間、その関わりの中にすでに神の国、天の国は臨んでいる、というのですね。日々、わたしとあなたという人と人の間に、生ける真の神さまが臨んでくださる。そこに天の国、神の国はすでに到来しているというのです。私たちは神を信じ望む信仰の生活の中で、それを経験し、知ることができるのです。

今日、神さまは主を信じて天国に凱旋された故人を偲ぶ礼拝に、このようにお一人お一人を招いてくださいました。真の希望を与えてくださる主を賛美し、感謝します。わたしたちは、すべてを治め、導かれる、生ける神さまにあって、「独り」「孤独」ではありません。今ここに集われたお一人お一人が神さまにあるかけがえのない神の家族であることを共に喜び合い、今後も祈り合い、支えあって生きる者とされたいと願います。それが天に凱旋された故人の望んでおられる御遺志と信じます。
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