礼拝宣教 詩編51編1-21節
詩編51編の始めに「賛歌。ダビデの詩。ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」とございますように、この出来事についてはサムエル記下11章~12章に詳細が記されておりますが。ダビデ王は部下のウリアから妻バト・シェバを欲望の赴くままに奪って妻としたのです。さらにダビデ王はその仕業を隠すために計略をねり、戦場の最前線にウリアを送り出し、彼をそこに一人残して戦死させるのです。地位や立場を利用しての不貞と殺害という恐ろしい罪をダビデ王は重ねるのです。
そこに現れた預言者ナタンは、このダビデ王に面と向かってその罪の重大さを指摘するのでありますが。ダビデ王はそう指摘されて初めてそれが神の前にどれほど重大な罪であったかを思い知らされるのです。
地位や権力は時としておぞましい高慢を生じさせます。そうでなくとも人の尊厳を認めていくということは、常に意識していなければいとも簡単に人を軽んじたり、排除したりしてしまう、そういう弱さをだれもが抱えているのではないでしょうか。
まあ、そうして預言者ナタンにズバッと指摘されたダビデ王は「わたしは主に罪を犯した」と、悔い改めに至ります。
この詩編51編はそのダビデの罪と悔い改めの詩であるわけです。詩編には7つの悔い改めの詩がありますが、今日の51編はその中でも代表的な悔い改めの詩であると言われます。
ダビデ王は3-4節で「神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐みをもって/背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください」と神に訴え祈ります。
「神よ、わたしを憐れんで下さい」。それはもはや自分で自分を救うことができない。神の憐みを乞うほかない。そういう者の祈りです。
「神よ、あなたは慈しみ深いお方です。その慈しみをもって憐れんでください」とダビデは訴えます。又ダビデは「罪、咎をぬぐってください。洗い清めてください」と言っています。
聖なる全き神の前に、罪、咎を負った自分はとうてい立ちえない。だからわたしを清めて今一度あなたの前に立てる者としてくださいと、そういう神さまとの関係回復をダビデは願っているのです。
私たちは自分の犯した罪を自分の力や業で消し去ったり、清めるということはできません。何か善行をなせば罪は消えるでしょうか。修行を積めば咎は軽くなるでしょうか。自らの罪の深さや重さを思い知らされる時、人はもはや「神よ、わたしを憐れんでください」と呻き、乞うほかありません。
12節で彼はこう祈っています。「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください」と。ここに「創造」という言葉がでてきます。創造というのは、それまでなかったものが新しく創り出されるということです。それは、清さが自分の内には無い、だから新しく創り出される必要があるということですね。自分の内には無いからこそ、切実な祈りをもって「神よ、どうか清い心を創造してください。新しく確かな霊を授けてください」と願い求めているのです。唯一完全なお方である神だけが、人を全く新たに造り変えることがおできになる。そういう信仰の祈りです。
それはただ、主の憐みと慈しみ、一方的な主の赦しによる以外できないことです。罪によって断絶された神さまとの関係の回復に与って生きる。言うまでもなく私たち主である神を信じて生きる者の救いは、イエス・キリストによって罪、咎があがなわれ、神さまのきよめに与ることがゆるされ、神さまとの関係の回復の道が開かれていることであります。心からこの主に感謝する者でありますが。
さて、天地をお造りになりすべてを治めておられる主なる神さまは、「すべてのことをご存じであられる」お方でありますが。それは私たちにとってどんなに大きな慰めでしょう。
たとえ人からわかってもらえなくても、又誤解されても主は知っていてくださる。
けれどもその一方で、自分の罪や咎すべてまでも見逃すことなく、一切を知られているということに、私たちは恐れを生じのではないでしょうか。たとえ自分や人はごまかせても、神の御目はごまかすことが決してできないということです。
先日新聞に三谷幸喜さんのコラムが載っていました。三谷さんは「自分は普通、人に迷惑を掛けないように生きている」と自負していたそうです。ところが人間ドックに行って麻酔をされて内視鏡検査を受けようとした時、ほとんど意識がないわけえすが、「やめろー!」「いやだ!」
と激しく抵抗して「大変だった」とあとで医者から聞かされショックを受けたということです。コラムによれば医学界では人間ドックの最中に受診者が意識のない状態で暴れまくることを「虎になる」と言うらしいですが。医者は三谷さんに「麻酔の効き方がゆるいと意識が残って、普段抑制している本来の自分が出てしまうんです」と言ったそうです。三谷さんは「僕の本当の姿は虎なのか。そんなに荒々しい部分をひた隠し抑えに抑えて生きてきたのか。暴力的で自分本位で、人からどう思われようが己の本能に従って生きる野獣のような男。それが本当の僕なのか」と自問自答し、「いつの日か抑制が効かなくなり、自分の中に虎が突然現れた時のことを想像すると、居ても立っても居られない」とまあ面白おかしく綴っておりましたが。
多くの人は自分の本性というか性質がわからない。知らないで過ごしているのでないでしょうか。「自分はそんな悔い改める罪など犯したことない」「自分は親切で優しい」。そう思い込んで生きてきて、でも本当にそうだろうか?麻酔を受けるのが怖くなりますが。まあ人はごまかせても神さまの前ではすべては明らかで、神さまを信じていればこそ、そこに畏れも生じものであります。過ちを犯せば罪や咎に対する慙愧の念に苛まれ、取り返しのつかない事をしたことを強く悔やみ恥じて苦しむわけです。
この詩人は5節で「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」とうたっています。
「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています」。ここには確かに罪を犯したことに対する慚愧に堪えない、いわば後悔の思いが示されているのですが。注目すべきは、その罪は「あなたに背いたこと」から生じていると言っているんですね。
それは6節においても「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました」とあるとおりです。
つまりどんな罪であれ、その大本は、神に背を向けて、その関係性が断たれたところに起こっているということです。「罪」はギリシャ語でハマルティアと言います。それは「的外れ」という意味です。
ダビデの罪は具体的には部下のウリアやバト・シェバに対してのものでした。にもかかわらず、ここでは「主なる神さまに対して『あなたに背を向け』『あなた、あなたのみに罪を犯しました』と言っていますね。
それは何かダビデ王が部下のウリアやバト・シェバに対して犯した罪をいい加減にしているとか、軽視しているということでは決してありません。そうではなくその罪の大本、出所が神の御前にあって的外れな状態、そこから罪が生じたのだということです。
罪というと刑法に触れる犯罪や人としての道義に外れる行為など草草のことが思い浮かびますが、それは罪の一部に過ぎません。
聖書は罪の大本は、神に対して的外れに生きている個々の状態にあることを教えます。
たとえば人を傷つけたり裏切るというような行為も、それはそのまま神に対する的外れな行為であったと認識した時、罪ということを本当に知ったことになるのです。人間関係だけですったもんだしている間は、罪の認識は浅く、表面的なものでしかありません。
刑法に触れるような犯罪を犯した人が、たとえそれ相応の処罰を受けたり刑期を終えたとしても、その人が神に対して的外れな行為をなしたという意識がなければ罪の認識も浅く、また大なり小なり同様の過ちを繰り返すかも知れません。
ダビデ王も預言者ナタンの指摘がなければ、相変わらず的外れな生き方をして同様の罪を犯し続け滅びを招いていたかも知れません。しかしダビデはその指摘によって神に立ち返りました。すべてをご存じであられる神にゆるしを乞い、神に立ち返るこの真の悔い改めこそ、赦しと平安、救いをもたらすのです。
13-14節に「御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」とうたわれているように、真心から神に立ち返って生きるところにこそ、単なる後悔で終わらない希望、救いの喜びが与えられてゆくのです。
創造の主によって造られた霊的存在である私たちは、神との交わりが断たれることは霊的死を意味します。創造主に造られた者として、いつも罪や咎、後悔や自己嫌悪に囚われることなく、主を仰いで生きるように自由の霊をもってお支え下さいと、祈り求めることがゆるされているのです。
最後になりますが、18-19節でこのようにうたわれています。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げものが御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」。
私たちは奉仕や善い行いやて献金をささげます。そのように心がけます。けれど、それらをささげられるから、私たちの罪がゆるされたり、軽くなったりするのではないということを私たちはすでに知らされてきました。何よりも主イエスが私たちの罪の身代わりとなって贖いの十字架の業を成し遂げてくださったがゆえに、私たちは救いの道を歩むことがゆるされているのです。それはまさに神さまからの一方的な恵みです。
この詩編の「焼き尽くす献げもの」とは、動物の犠牲による贖罪(罪の赦しのため)という儀礼を示していました。まあ、犠牲の動物さえ献げておれば、まあ罪は赦されるという、いわば悔い改めが形だけのものとなっていたことに対して、詩人は、神さまは形式だけの犠牲やいけにえは好まれない。神の前に「打ち砕かれた霊」こそが神に喜ばれると、言っているのですね。
神さまが私たちに期待されることがあるとするなら、それは私たちが主に立ち返って生きる真の悔い改めと、救いとゆるしの恵みに喜びと感謝の心をもって日々神の御心に生きる「打ち砕かれた霊」による新たな人としての生き方です。
今日は罪の「悔い改め」ということを柱にしながら御言葉に聞いていきました。
真の悔い改めとは「打ち砕かれた霊」を主にお捧げし、立ち返って生きる事。そのメッセージを受け取りました。
罪の自覚は、神さまとの関係でしか本当の意味では生まれません。人の関係でそのことを見てもそれは表面的、浅いのです。
人を傷つけたり、躓かせたり、裏切ったりした時、人は後悔します。しかし、先ほども触れましたが。後悔と悔い改めは根本的に違います。後悔は罪の根っこがわからないために、ただ一時的に自己の内に悔いるのみで、また同じような過ちを繰り返してしまうでしょう。
悔い改めは、自分が神に対して的外れの状態にあることを認識することから生まれます。
私たちは日々この主との関係を正され、真の喜びと平安を頂いて歩むものとされていきたいと願います。
今日の御言葉を自らに重ねつつ、今週もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。