日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

執りなし、執りなされて

2010-12-29 08:50:48 | メッセージ
歳晩礼拝宣教  ローマ16章1~16節 

3カ月にわたって礼拝で読んできましたローマの信徒への手紙からの解き明かしは終わりますが。その締めくくりとしてこの16章はパウロの個人的な、そして感動的な友愛に満ちた挨拶の言葉からメッセージを聞いていきたいと思います。

①「姉妹フェベの紹介」
パウロは冒頭で、「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します」と書き出しています。このケンクレアイはコリントの東の港町で、貿易の中心地でした。港町は活気に満ちていましたが、同時に貧しい者もたくさんいたようです。又各地からの旅行者や、逆に各地に出てゆく人々が教会の中でも絶えなかった。そのような街の教会で執事として仕えていた女性フェベ。パウロは彼女がローマに何らかの理由で赴くということで、ローマの信徒に「わたしたちの姉妹フェベ」と彼女のことを紹介し、何かと彼女のことをよろしく頼むと執り成したのですね。教会では信徒間で兄弟・姉妹というふうに呼び合いますが。それは、イエスさまが「わたしの父の御心を行う者は、誰でもわたしの兄弟、又姉妹なのだ」とおっしゃったからです。
そういうことで当時まだ奴隷や女性も地位が低くみなされていたような世の中で教会が一女性を「わたしたちにとっての姉妹」として尊敬の念をもって送り出したというのは本当に画期的なことであったのです。その彼女が未知の土地に行く、それも女性ということでもありまして紹介状があるということはどれ程心強かった大きかったことでしょう。

私どもにとりましても、例えば、見知らぬ地に行くことになり、どこの教会に行けばよいのか迷うような時、予め牧師や兄弟姉妹を通して、こういう教会があるからというお薦めがあるととても安心です。又、他の教会に行った時、私は何々教会から来ましたと、牧師や教会から紹介があった旨を伝えることができるなら、これはスムーズにいきますよね。
そのような執り成し合いの中で、この広い世界にあっても私どもは主にある交わりの豊かさを互いに喜び合うことが出来るのであります。

②「主に結ばれた知人にあてた挨拶」
パウロはそのフェベのために紹介状を書き、その中にローマの教会にいる知人たちへのあいさつを加えます。16節までに既に26人の名前とその人となりが詳しく書かれているのですが、これほど長く多彩なあいさつのリストは、パウロの他の手紙にはありません。まだパウロがローマに行っていない時に書かれたのですから、殆どの人たちと実際に会ったことはないはずですが、親愛の情が伝わってくるようであります。普段からローマの信徒たちと手紙や人を介して、その様子に思いを馳せ、意思疎通を計っていたのでしょう。いまだ会っていない人たちのことをここまで覚えることができるそのパウロの執り成す思い、祈りの思いが強く伝わってきます。

a.あいさつの始めに「プリスカとアキラ」の名が登場します。彼らは、パウロがコリントの開拓伝道を始めた時の最初の協力者でした(使徒18:2)。彼らは指導者アポロに聖書を教えることができ、さらにパウロの同労者と呼ばれ、4,5節から、プリスカとアキラの家の教会がローマにあったこと。また彼らはこの当時異邦人教会の中で最も有力な指導者で主の働き人であったということがわかります。そして夫のアキラよりも妻のプリスカの名が先にあげられていますが、これは当時の男性中心社会において、先の姉妹フェベもそうでしたが、彼女の働きが如何に大きく、多くの人から認められていたかということです。初代教会のこの女性の働きは、これは今日の教会にも当てはまるように思います。この大阪教会を支えて下さっている女性たちの働きに、本当に感謝を表します。

b.もう一つこのあいさつから知らされますことは、この26人のうち、何と10人が貧しい奴隷であったということであります。ロ―マの教会にはいろんな人たちがいました。ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人、そして奴隷や自由人もいました。又、中には有力者や富裕層もいたようですが。どちらかといえばその多くは奴隷や民衆によって形成されていたのです。そして、ローマの教会といえばどっかイメージとしてローマカトリックのような大きな教会が思い浮かびますが、この新約聖書時代のローマの教会は、個々の信徒が家を開放して持たれていた家の教会が多く存在し、主にあって互いに結ばれ、交流し合っていたのです。そしてこの手紙もそれぞれの家の教会に回覧されていたようであります。

私たち大阪教会はキリストにあるバプテスト連盟の群につながっていますが。バプテストも又、主イエスが与えたもう自由と平等を大切にしており、そこに身分、国籍、職業、性別による相違による多様性を認め、受容してきた歴史をもつ群であります。バプテストのそれぞれの教会の殆どは比較的少人数ではありますが、このローマの家の教会のように主にあって互いに結ばれ、交流を持ち、時に助け合い、祈り合って共に働きます。関西地方連合というのはそういう意味で存在しているということに、このローマ書から気づかされます。

③「執り成し、執り成されて」
この個所から、「執り成し、執り成されて」という宣教題をつけました。
それはまさにパウロとローマの信徒たちの関係然りでありました。
今年一年の最後の主日礼拝にあって、いま一度心に留めたいことは、私たちのこの1年はそれぞれにいろんな出来事があったかと思いますが。この私、あなたは、主に結ばれている兄弟姉妹によって執り成されてきた、そして今があるのです。私自身、今年も特伝以外の主日礼拝の宣教をすべて果たすことができましたのも、牧師、又家族のために、倒れることなく守られて主のご用を果たすことができるようにと、主に結ばれている兄弟姉妹が捧げて下さった執り成しのお祈りに支えて戴いたからであります。私も又、敬愛する皆様お一人おひとりをご聖霊の助けを戴きつつ、これからも祈り努めてまいります。
教会は執り成し、執り成されていく群であります。その素晴らしさは世にはないものです。執り成しの祈りには、神の豊かな力がほんとうに働いているのであります。
私たちは個人的、又感情的に祈れなくなることがありますが、しかし教会は、その祈れないようなその中にあっても、仲介者であられる主イエスさまの御名によって「祈り合う」ことができる。どんなにありがたいこと、素晴らしい恵みでしょうか。祈祷会ってほんとうに大切です。どうか来年は恵み多い祈祷会へ努めて参加されることをお勧めいたします。

2011年は今週の土曜日の元旦礼拝から始まります。みなさまのうえに神さまの祝福と平安を祈り、新たな一年を始めてまいりましょう。

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今年の恵み

2010-12-29 08:40:31 | 巻頭言
 今年も様々な出来事がありました。1人の姉妹の信仰告白とバプテスマが与えられ、2人の姉妹が転入会されたことはまことに嬉しい感謝の出来事でした。今年は大阪教会にとって宣教開始60周年という記念すべき年となり、特伝、信徒研修会、リフレッシュデーが恵みのうちに行われ、60周年記念誌の作製作業が目下なされております。特にこの60周年記念誌を作っていく過程において、大阪教会の過去、現在、将来を確認していくことが出来たのですが。その中で私は、「感謝・悔い改め・希望」という3つのキーワードが与えられました。それは、これまでの歩みに感謝しつつ、悔い改める点は悔い改め、今私たちが神さまの前に如何にあるべきか、どう歩んでいくのかというみ旨をしっかりと聞きとり、希望をもってキリストの教会を築いてゆくこと。それは今私たちが主にできることを精一杯なし、次世代の人たち、その子どもや孫たちが教会を引き継いでいけるようにしていくことだと、そう確信いたしました。信仰の継承、今この時私どもは大阪教会につながっていますが、それはある意味有限な時間であります。先のことは分かりません。ですからこの二度と繰り返されることのない与えられた時を、主の前に精一杯生き、恵みに応えていく事がとても大事ではないでしょうか。後の世代に信仰のバトンとキリストのみ体なる教会という宝を手渡す事ができるようにしていきたいものであります。
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愛の贈りもの

2010-12-26 07:04:35 | メッセージ
キャンドルライトサービス宣教 ヨハネ3章16節 

「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた。権威が彼の肩にある。その名は驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。イザヤ9章5節は、神が遣わされる「救い主メシアが来られる」という旧約聖書時代の預言者イザヤを通して語られたみ言葉です。幼子として弱々しい小さな赤ん坊、人間の子どもとして来られる救い主が、世のすべての人の贖いのみ業をその肩に担われるとイザヤは預言したのです。
新約聖書ヨハネ3章16節は、まさにその預言が現実のものとなったことが記されているのであります。時満ちて「神は、全世界に救いの道を開きたもう御独り子なるイエスさまをこの世に与えてくださった」。これがクリスマス・救い主の降誕のメッセージであります。御独り子・イエスさまご自身が、まさにみ神の愛の贈りものなのであります。

① 「救い主の降誕の知らせを聞いて迎えた人たち」
最初の救い主の降誕の折、世の人々はその知らせに殆ど無関心でした。現代ではクリスマスは世界で祝われるようになっていますが。けれどもクリスマスという言葉だけが先行し、単なるお祭り行事となり、ある意味、昔も今も救い主について無関心である世の中に変わりないといえます。
聖書は降誕の地ベツレヘムという本来静かな田舎町は住民登録をするためにやって来た人々で賑わい、救い主を身ごもったマリアらが泊る宿すらなかったと伝えます。このことはせわしなく、慌ただしく世の事柄に追われて、神の救いを拒み無関心である世の人達の心の状態を表しているといえましょう。
しかし驚いたことに、救い主の降誕を驚きと喜びをもって迎えた人たちがいました。名もなき羊飼いと東の星を研究していた学者たちです。

羊飼いたちは、御使い(天使)たちの出現を非常に驚き恐れました。それは神さまに対する畏敬の念を表しています。「自分たちには恐れ多いもの、神の栄光の出現に値する価値がない」という恐れのうちに救い主の降誕の知らせを聞いたのです。新約聖書時代の羊飼いは、旧約時代とは異なりとても貧しい人たちの仕事でした。
昼も夜もなく働き、ユダヤの重要な戒律である安息日も羊の番をしなければならなかったことゆえに、ユダヤ社会から蔑視や偏見を受けていたのであります。羊飼いたちはどこかで安息日を守ることができないことへの神に対する畏れをもっていたことでしょう。
人々から嫌がられるような仕事であり、神から愛される資格さえ持ち得ない者であるかのように自らを呻きつつ、救いを渇望していたことでしょう。しかしみ神は救い主のご降誕を知らせるため、この砕かれた魂のもとへ天使をお遣わしになったのです。

この羊飼いたちが、天使が現れて告げた救い主の降誕の知らせを、信仰によって受け入れ、救い主を迎えていくのであります。彼らは喜びに満ちながら、お生まれになった救い主を礼拝するために、暗く険しい山や谷を越えてベツレヘムへと向かいます。
それだけではありません、救い主を目の当たりにし礼拝した彼らは、「救い主が私たちのところに来てくださった。いと高き方であられるのに、家畜小屋で飼い葉桶にくるまれて幼子の姿で、こんなにまで私の近くに、ここに、お出でくださった」その喜び・福音を人々にも知らせたのです。彼らこそ魂のドン底から救い主を待ち望んでいた人たちでした。

又、同じく幼子イエスさまを礼拝した占星術の学者たちは、今で言えば星を研究する天文学者でした。彼らは異邦人でありながら旧約聖書に約束された救いの王メシヤがやがて来られる日を待ちわびている人たちでした。その証拠に、救い主の誕生を告げる星の出現に彼らはいてもたってもいられず、随分遠い異国の地にいたにも拘わらず、メシア・救い主に会うためにベツレヘムに向かうのであります。まことの救い主にお会いし礼拝するために遥々遠い異国の地より山や川を越え、危険も顧みず時間と労力を費やしてやって来たのです。
それだけではありません。彼らはそれぞれ自分たちの最も大切な宝物を救い主にささげたのです。羊飼いたちは、救い主がお生まれくださった福音を人々に伝え分かち合いました。そして学者たちは自分たちの宝ものを持って全世界の人々と喜びを分かち合ったのです。

② 「私たちのクリスマス」
今日、私たちは神のみ言葉を通して、救い主イエス・キリストの降誕の知らせを聞きました。クリスマス;それは神さまが、私たち人間を罪の滅びから救うために最も大事な独り子イエスさまを「メシヤ・救い主」として人類にお与えになったその記念の日であります。
それは人には喜び、楽しみとなる日であり、神さまには生みの苦しみの日でありました。なぜなら本当の救いは、その御独り子イエスさまが私たちの罪を贖うために十字架で血を流し、肉を裂いて死んでくださることによって完成されるからです。私たちが永遠の命に生きるために、神さまがそれ程までの犠牲を払い、この世のどんなものより高価で尊い「愛の贈りもの」を与えてくださった。それがクリスマスであります。

今年もクリスマスが訪れましたが。救い主イエス・キリストは救いを本当に必要とするすべての人々のもとに、世を照らすまことの光としておいで下さるのであります。
ここに招かれ、導かれた皆様はきっと今日のクリスマスのみ言葉のメッセージを受け取って戴けると信じます。ぜひ、神の独り子イエス・キリストを救い主として迎え入れて、新しい人生をここから始めて戴きたいと心からお勧めいたします。まことの光を灯された人は、そのともし火を分かち合うべく感謝と隣人へと遣わされます。

最後に、今年もこのキャンドルライトサービスの席上献金をすべて、目のご不自由な方が読める点字聖書を作製している日本聖書協会や滋賀県にあります知的しょうがい者施設止揚学園へ、そして野宿生活を余儀なくされている方々を支援している釜ケキリスト教共友会へ贈ります。
昨年1月~2月まで毎週金曜日にその釜ケ崎キリスト教協友会が主催する越冬の夜回りに参加したのがきっかけで、毎月一度、これは主に路上生活者で持病や残してきた家族のこと、仕事や人間関係などの問題を抱えながらも相談に行くところのない方がたの何らかのお手伝いができたらと細々と関わらせていただいています。どうか、ご理解とご協力をお願いいたします。

すべての人々に与えられた神さまからの愛の贈りもの。今日受け取りましょう。そして喜びを分かち合いましょう。「栄光がいと高き天にありますように、地には平和が、主の救いを必要とするすべての人々のうえにありますように。」メリークリスマス!
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愛のかたち

2010-12-23 13:09:17 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 「愛のかたち」 ヨハネ1章1~18節  

メリークリスマス。救い主イエスさまご降誕をお慶び申し上げます。
2010年も残すところ僅かとなりましたが。今年も世界で、日本で、また私たちの身近なとことろで様々な出来事がありました。年々ますます世知辛い世の中、人が人として生きにくい社会、人びとのうちに先の見えない閉塞感と重苦しさが漂い、不安な時代になっていくように思えます。

神の独り子・救い主イエス・キリストはその闇のような世界に、又「すべての人を照らすまことの光」として来られ、神の言として「肉となり私たちの間に宿られたのです」。これがクリスマスのほんとうの意味であります。

① 闇と光
5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解できなかった」とありますが。
神様の御目からご覧になれば、まさに暗闇のようである私たち人の世のただ中に「輝く光として与えられた神の救い」イエス・キリストであります。
しかし人の世はこのみ神の「愛のかたち」を理解できなかったのであります。救い主・メシヤが貧しい家庭に、しかも家畜小屋で生まれえましょうか。十字架刑に処せられるなどありえましょうか。それが世の思いでした。

神の愛と救い主は人の姿をとって現わされた。光はすでに射し込んでいるにも拘わらず、この世の人々はまことの光であるイエス・キリストに敵対し、無関心で受け入れない。  その事がもはや闇なのだと、もっといえば罪の滅びを表すのだと聖書は言っているのです。
時代や社会の闇というものは確かに私たちの現実問題としてあるわけでありますが。
しかし聖書は根本的な闇は、まことの神に背を向け、敵対し、受け入れずに自己中心に生きるそのことこそ闇だと言うのです。人の世の常として人生の荒波や試練がやってきたときも、まことの光であられるイエス・キリストを迎え入れ、その主と共に生きてゆくとき、世にはない平安と希望を戴くことができるのであります。それだけではなく、神さまの恵みのみ業を仰ぎ見ることができるでしょう。それはちょうど暗い部屋の中でカーテンを開けた時射し込んで来る朝日のようです。閉ざされていれば暗闇のままですが、しかし私たちが心のカーテンを開けてまことの光なるキリストを迎え入れるなら、神の愛と救いのみ業が私たちの心と日常に充満されるのです。

② 神を神とする証し人
さて、本日の個所の15節に、バプテスマのヨハネという人物が紹介されています。   なぜここで彼のことが記されているのでしょうか。それは7~8節にありますように「彼は光ではなく、光について証しするために来た」ということを強調するためであります。
この福音書はかつてバプテスマのヨハネの弟子で後にキリストの12弟子の一人となったヨハネによるものですが。同じ名でややこしいのですが。そのヨハネが、バプテスマのヨハネの正しい役割について強調する必要を感じていたのであります。そこには恐らくヨハネへの過大評価を是正する必要があったのです。このヨハネは当時、多くのユダヤの庶民からだけでなく、ユダヤ教の中枢にいた律法学者や祭司からも好意的に見られ、この福音書が書かれたエフェソスにはヨハネの影響を受けた弟子たちの群があったのであります。(使徒19:1-7)
しかし、バプテスマのヨハネは「すべての人を照らすまことの光」ではありません。神の独り子イエス・キリストのほかに救い主としての権威は与えられていないからです。
彼は命そのものではありませんでした。ただ命と光について証しし、それを指し示すために、又、イエス・キリストの道備えをなすために生きたのであります。
今日、多くの人々がこの部分で躓きます。教会や牧者、伝道者は常にまことの光なるキリストを指し示す者でなければなりません。また信徒も、それがどんな牧者、伝道者であっても宣教の中から神のみ救い・キリストを受け取ってゆく感性が必要です。最近まで教会に消火器が投げ込まれるという事件が起こりましたが。犯人が捕まったら信徒であったということでした。彼は教会の牧師に依存し、信奉する程であったようで、牧師が教会を移るとキリスト教会そのものを逆恨みして犯行に及んだとのことでした。教会も、又牧師も、どんな立派な伝道者も、信仰者も、キリストを指し示す者に過ぎません。キリストに出会っていくための道備え、役割を果たす者に過ぎないのです。その意味でバプテスマのヨハネは、ほんとうにキリスト者としてのよい手本と言えましょう。私どももまた、人を見るのではなく、神を見、神を神として証ししてゆく者であり続けたいものです。

③ 受肉の言(ロゴス);イエス・キリスト
聖書に戻りますが、1~2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。ここには、初めに言は神と共にあったということが強調されています。つまり、神と御子イエス・キリストは世界のはじまりの原初より共にあったというのです。ですから「言」は神ご自身の御心そのものであるといえます。そして御子イエス・キリストは神の言葉として御心をなすお方としてこの世界に、人々のもとに来られたのであります。
一方、「ことば」というものは、一般的にも「意思や事がらを伝達するため」に大事なものであります。又「相互の理解や関係を築き、つないでいく」ための鍵ともなります。
聖書において「言」は神を指すものでありますが、神は御子イエス・キリストを目に見える「ことば」、いわば「受肉した神のことば」として私たちの世界にお遣わしになり、このイエス・キリストを通してご自身の御心を明らかにされたのであります。
話がとびますが。

今年も二人の日本人の方がノーベル物理学賞を受賞されました。何の研究が認められたかといいますと。私たち、世の中の身の回りのものは炭素Cと炭素Cが結合した有機化合物でできているそうですが。CプラスとCマイナスが結合するのに対して、CマイナスとCマイナスでは互いに反発し合うのです。しかしそこにパラジウムという化学物質を媒介することによってそれらを結合させることができるそのことを発見したというのです。
この事から思いますのは、私たちと神さまとの関係についてであります。私たちと神さまとの関係は人の罪のゆえに反発し、結ばれることができなかったのであります。けれども神さまがお遣わしになった御独り子イエス・キリストによって、私たちは神と結びつけられるのです。
さらにこの和解の奥義について述べるなら、神の独り子イエス・キリストは人間の姿となり、その苦しみや悩み、貧しさ、悲しみや不安、そして死をも担われることによって、罪の贖いと救いを成し遂げてくださったのです。先ほどのパラジウムの媒介ではありませんが、まさにそのようにしてキリストは、神と人を結びつける仲介者となられたのです。

ここにキリストをまだ受け入れていらっしゃらない方がいらっしゃったら、ぜひこのイエス・キリストによる神さまの和解の福音を、今この時、受け取って戴きたいと思います。又、すでにクリスチャンであられる方は、いま一度14節にあるように、み神の「言が肉となって、わたしたちの間に宿られたこと。また、それは父なる神の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちている」。そのことを深く心に刻んで歩んでまいりましょう。

本日は「愛のかたち」という宣教題が与えられました。
クリスマスという救い主の誕生を記念するこのとき、神さまがなされた愛のかたちについて、ヨハネ3章16節にこう記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
それは神さまからの素晴らしいプレゼントです。それも独り子をお与えになるというとてつもなく大きな犠牲、深い愛によるプレゼントであります。

フィリピ2章6節以降にはこう述べられています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。
神の言なる主の愛はまさに人の思いを遥かに超えた「かたち」をとって世に現わされました。神と独り子なるキリストが私たちに対してなしてくださったこの「愛のかたち」をもう一度心に留め、クリスマスの恵みに感謝いたしましょう。

この愛によって今生かされている私ども一人ひとりもまた、神と人とを結びつけることのできる唯一のお方「イエス・キリスト」をヨハネのように証しし続けていきましょう。メリークリスマス。救い主イエスさまのお誕生を心からお祝いしましょう。
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愛によって互いに仕え合いなさい

2010-12-19 07:59:00 | メッセージ
宣教より  ローマ14章1~12節

先週私たちは神の祝福を受け継ぐ者として接ぎ木された枝であるというメッセージを戴きました。それは何か私たちが優れているとかというのではなく、ひとえにキリストのみ業による神の賜物と招きによるものです。12章、13章を読んでくることをお勧めしましたが如何でしたでしょうか? キリストにおける新しい生活は決して一人で、単独でなされるものではなく、教会の兄弟姉妹とのキリストによる結びつきの中で、また地域、隣人との関わりの中で全うされてゆくものだということがおわかり戴けたと思います。

14章はそのような神さまの祝福の招きの中にあるにも拘わらず残念ながら人の裁き合いによって主の交わりが損なわれていたのであります。この個所を読みますとローマの教会内には菜食主義者や特定の日を重んじるキリスト者たちがいたことがわかります。それがユダヤ人であったのかローマ人などの異邦人であったかはっきりと書かれていませんのでわかりませんが。そもそもユダヤの人々は律法に定められた食物規定を守ることを神の民のなりわいとして生きてきました。それが、行いではなくキリストにおける信仰によって生きる者とされたとき、人のこだわりや捕われからの解放が恵みによって与えられたのです。しかし中にはその捕われから抜け出すのが困難な人たちもいました。神の民であるからには「こうあらねばならない」「こうでなければふさわしくない」と垣根を作り他者を裁く人たちもいたのであります。

ここで肝心なのは、キリストの僕である私どもは、主人であられる主の心を自分の心として、兄弟姉妹のことを考えなければならないというこの一点であります。「私はこう考える。しかし主はどう言っておられるのだろう」。ここに聖書を学ぶ・み言葉に聞くことの意義があります。

7節-9節「わたしたちの中には、誰一人自分のために生きる人はなく、誰一人自分のために死ぬ人はいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。ここのところが、本日のメッセージの中心なのです。
キリストのバプテスマに与ったキリスト者は自らの生も、そして死すらも、主に結びついているのです。今、私の生きているありとあらゆる時間・場所・生の全領域のことがらは、主との結びつきにうちにすべての意味を与えられていると信じて生きる。そこにはキリスト者の根源的な安らぎと平安があります。
しかしそれは又、同様にキリストの死と復活に与ってバプテスマされた兄弟姉妹もまた尊く主のものであるということであります。信仰が弱いとか、信仰が強いとか、何を食べるか食べないか、かの日を尊ぶか否かといった、そういった考えや立場について互いに裁き合っていたキリスト者たちに対してパウロは、「わたしたちは何ものなのか?わたしたちは互いに主のものではないのか!」と強く訴えたかったのでしょう。

宣教題を「愛によって互いに仕え合いなさい」とつけさせて戴きました。
わたしは、今日のこのローマ書14章のメッセージは私たちにも語りかけられているものだと思います。一人ひとりの考え方やその思想はみなそれぞれに違います。それは又、時と共に移ろい行くものでもあります。教会はそういう中で、何を大事にしてきたのかということを聖書から聞いていく必要があります。それは「みな人間的にそれぞれ違いをもっているのでありますが、キリストに罪贖われて「主のものとされた」ということであります。自分も主の尊い恵みによって「主のものとされた」のですが、それはここにいる主の兄弟姉妹もまた、私と同様「主のものである」という尊敬の念をもって、兄弟姉妹と接し、「神の愛によって互いに仕え合う」ように招かれているということであります。
17節、18節に「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」とあります。
互いに主のために仕え、感謝と喜びをもってまっすぐに進んでいくとき、教会はよきキリストの薫りを放つことができます。そしてそれが何よりのキリストにある証しとなり、主の栄光を表すこととなっていきます。そのようなキリストの体・教会となりますよう祈り努めてまいりましょう。

ガラテヤ5章13節「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え合いなさい」。

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神の慈しみと厳しさ

2010-12-12 07:40:51 | メッセージ
宣教 ローマの信徒への手紙11章11~24節

①神の民・イスラエルについて
11章全体を読みますと、「神がただ恵みによって、その民を選ばれた」というメッセージがベースにあることが伝わってきます。まずイスラエルは旧約聖書の時代より神によって選ばれた民でありました。それは何かイスラエルが優れていたとか、力があったからというのではなく、ただ神の自由な恵みの選びによるものでした。
申命記7・7にこう記されています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。その神の恵みの信仰はアブラハム、イサク、ヤコブという父祖たちの信仰を土台にイスラエルの民の中にあって継承されてきたのです。しかしイスラエルの民はその神の恵みの選びに与ったにもかかわらず、神に背き、異教の神々にひれ伏し、罪を繰り返しその神の恵みを台なしにしてしまいました。

②異邦人の救い
救いは神の恵みによってイスラエルの民にまず与えられたものであります。パウロによれば11節「かえって、彼ら(ユダヤ人たち)の罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になった」と述べます。独特の言い方ですが、そこには恐らく、ユダヤ人たちの不信仰がイエス・キリストを十字架につけ、そのことによって全世界の人々に救いがもたらされるようになったという意味がここに込められているのでしょう。
さらにまた、使徒言行録13章44-46節にはこういう記述があります。異邦人への伝道の皮切りのところですが。これは皮肉な言い方ですがユダヤ人たち自身が拒んだみ救いが全世界に広げられていくようになったということです。
しかし全世界に福音が告げ知らされ、み救いが伝えられていくという異邦人への伝道は、間接的にはユダヤ人・イスラエルの人々が救いに与っていくことにつながるであろうというのが、パウロの切なる願いであったのでしょう。

③パウロの警告
パウロはそこで異邦人キリスト者にいくつかのことを指摘し戒めます。
第一の戒めは、18節「折り取られた枝に対して誇ってはならない」ということです。つまり、過ちを犯したユダヤ人に対して誇ったり、見下してはならないという警告であります。
それは、そもそも異邦人キリスト者は、イスラエルに与えられた恵みを糧にして生かされているということであります。何か異邦人キリスト者が持ってきたものをその土台としているのではないのです。それがただ恵みによって与えられたものである以上何ら誇ることはできないのです。
異邦人キリスト者が救われる根幹となったのは、イスラエルに与えられた神の恵みであります。私たちキリスト者もアブラハム、イサク、ヤコブの信仰の父祖たちから継承されてきた信仰、ただ神のあわれみによって義とされ、救われるとの信仰に与っているのです。
私たちは神に対して何ができたか、何をしたから救われたのではありません。逆に神に逆らい罪を犯し続けるような私たちであるにも拘わらず、神はイスラエルに与えられた恵みを、私たちにもただ恵みによって受け取って生きるように招いておられるのです。
私たちは何よりもそのことを共に感謝し、喜び合う群であるのです。その原点を見失うことがないようにしたいものであります。
第二の戒めは、20節「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。この不信仰とは、御神に究極的み救いであるメシア、イエス・キリストを受け入れなかったことであります。一方、信仰によって立っているとは、異邦人でありながらただ救い主イエス・キリストにより救われているあなた方、ということです。
そのうえで、信仰によって立っているあなたがたは、20節「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。つまり、「高ぶりの思いを捨てて、主を畏れつつ信じて行きなさい」という峻厳です。

④神の慈しみと厳しさ
私たちをも含む異邦人キリスト者は、このみ言葉にしっかりと立っている者であるかを、たえず日々の祈りのうちに自己吟味し、確認していくことが大切であります。キリスト者はただ神の憐れみによって義とされ、救われた罪人であるのです。その「救いのみ恵み」を台なしにすることがないようにしなければなりません。21節「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう」。
折り取られた枝に表されるユダヤの民の二の舞を私たち異邦人キリスト者が踏むことのないために、この教訓をしっかり心の奥そこに留めていなければなりません。
パウロはさらに22節で「神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみと厳しさにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られる」と述べます。このメノ―:「留まる」というのは、キリストによる救いの恵みに留まるということです。逆に留まらないというのは、その神の恵みにではなく、自分と自分の働きや業に依り頼んで肉を誇るということであります。それは神の慈しみの拒絶であり、見えるところでは高ぶり、人を見下し、裁く罪となって現われてきます。
パウロ自身もイスラエル人としてかつては自分と自分の業績や能力に依り頼んでまっしぐらに走り、肉、すなわち自分の知識や業績を誇っていました。しかし彼はイエス・キリストと出会うことによって、その自我の罪を打ち砕かれたのです。
それだけではありません。彼は神の御子イエス・キリストに敵対し、キリスト者を迫害してきた自分の恐ろしい罪を知るとき、ただ主の憐れみによって救われるしかないことを思い知らされたのです。彼は、自分や自分の業績や能力によっては決して救われ得ない者であること、又この肉の誇り高ぶりが神の御子イエス・キリストを十字架に引き渡し磔にして殺害したのだということ示されたのであります。ですから、キリストの使徒となったパウロにとって信仰とは、自分と自分の業績や働きによって得られるものではなく、ただ神にのみ依り頼み、神に慈しみ・十字架のイエス・キリストの救いの御もとに立つことでした。私たちは異邦人キリスト者として救われたのは、イスラエルの根本に接ぎ木された者であるということ、それはただ神の憐れみによるものだということを忘れてはなりません。見失ってはなりません。ややともすると私たちの枝も折り取られてしまうそういう神の厳しさがあるということであります。それはキリストの体なる教会が、またその教会に連なる一人ひとりが、お話してきたような「救いの恵みの忘却」という不信仰に陥るときに起こってくるでしょう。
それと同時に、一度折り取られたれ枝であっても、神の恵みといつくしみに真に立ち返り、神に依り頼む信仰を見出す者に、神は再びその枝を接ぎ木してくださる、そういうみ業を自由になさることがおできになるということであります。

私たちの大阪教会は今年この天王寺に植えられて60周年を迎えました。その歴史の中で紆余曲折ありながらも、こうして私たちがありますのも、当初から福音宣教という根に支えられ続けてきたからです。18節にあるように「私たちが根である教会を支えているのではなく、その福音の教会が私たちを支えてきた。このことを謙虚に受けとめ、これからのあゆみにつなげてゆきたい、福音の恵みを後の世代に継承してゆきたいと願うものです。
神の慈しみと厳しさを、今日今一度、主の十字架のみ前に心に刻んでまいりましょう。
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勝利の信仰

2010-12-05 07:35:44 | メッセージ
宣教より  「勝利の信仰」 ローマ8章31~39節

38、39節には「どんな被造物も主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という確信が語られています。わたしたち人間にとって一番の恐れや不安は「死」であり、それに伴う家族や身近な人との別離ではないでしょうか。恐らこの時の使徒パウロも、自分の「死」について身近に意識していたのではないでしょうか。
牧師として立たされている私は、その職務上「死」ということに対して、如何に向き合い、ふるまって生きるのかということを強く突きつけられることがあります。それは又、「人のいのちの最期に関わることが許されている」という光栄でもあります。
わたしたちは誰もが例外なく、やがて死にゆく存在です。その過程は様々でありますが。
最期の時を前にいたしますと、否応なく「わたしという存在は独りである」ということを思い知らされてゆきます。
私も牧師になってキリスト者の方のお葬儀に幾度も携わってきました。闘病生活のすさまじさの一端を垣間見るそういう経験もさせて戴きました。闘病生活のはじめは、険しくかたくななお顔であった方が、だんだんとやわらかな表情に変わっていかれるそういうお姿に接することが幾度もありました。
そういう中で、私たちはほんとうに神の愛を知っているということは何よりもの支え、希望だと知らされるのであります。キリスト者には、十字架と復活のイエス・キリストが共におられます。誰にでも訪れるその死の時に、「主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしを引き離すことはできない」という信仰の確信、勝利の信仰を戴くことができるのです。それは、私の側が何か頑張ってキリストから離れないということではありません。キリストがすでにわたしのうちに訪れてくださっている。この愛、この愛から何ものも私を引き離すことは出来ないということであります。私たちのなすべきことはただ一つ、日々このお方と共に「光あるうちに光の中をあゆむ」ことだけであります。
イエスさまはヨハネ16章33節で、「あなたがたには世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」とおっしゃっています。
世にあって苦難や不幸は災いであり、死は痛むべき悲しみであります。けれども、キリスト者にとって、そういう苦難や災い、死は、キリストとともに勝利と栄光にあずかる過程・プロセスなのであります。キリスト者は先週8章で学びましたように、「体があがなわれることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのです」「霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるのです」。それはまさに神がわたしたちキリスト者を、「御子の姿に似たものにしようとあらかじめさだめておられる」のであります。そこに私たちの光栄と希望があります。私たちの日々の生活の中にこの勝利の信仰を携えてまいりましょう。
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