礼拝宣教 創世記18章1~15節
この18章といえば、16節以降に、神がソドムとゴモラの滅びを宣告された時、その住人が滅ぼされないようにと、アブラハムが神に全身全霊で執り成し、交渉していく場面が大変印象的なのでありますが。本日はその前のところに記されております、神さまのアブラハムへの約束に関わる、そのところから「祝福を運んで来た主の使い」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、この主の使いが運んで来た祝福でありますが、それは14節「主に不可能なことがあろうか。わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という非常に具体的なものでありました。この時アブラハムもサラも高齢のため到底それは常識的に考えられないことでした。それを聞いたサラは、「ひそかに笑ってしまった」とあります。思わず笑った、ということです。
聖書教育では、この「サラの笑い」に焦点があてられておりますけれども、そのサラが思わず吹き出して笑うほど信じがたい事を、「主は必ず実現してくださる」というのが実は本日の中心的なメッセージなのであります。そして、その祝福の知らせを運んで来たのは不思議な3人の旅人でありました。
18章1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」とあります。
マムレの樫の木の所とは、前の13章、14章にもありますように、アブラハムが主の祭壇を築き、礼拝を捧げていた場所です。そこに主は顕現なさったというのですね。
私たちは安息の主イエスさまがいつも共におられるのですから、一日24時間、一年365日いつも主を礼拝して生活しているわけですが。それでもこうして神さまが思いを持って導いて下さったこの場所に週に一度共に集い、祈り、賛美して礼拝を捧げる中に、主は共にあってご聖霊として臨んで下さるのです。主がお一人お一人のために用意しておられる特別なメッセージをこの礼拝から一つでも受け取って戴きたいと願っております。
ところで、先週から本当に暑い真夏日が続いております。体温と同じような気温、さらに40度にも届こうかという気温の高さに加え湿度と強烈な日照りは10年前からすると「本当にここは日本なのか」と思うような暑さです。
アブラハムのもとに主が臨まれたのは、このような暑い真昼のじりじり焼けつく日差しの中でした。
「ある暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。」
真昼の時間に外出する人はめったにおりませんし、旅行者も真昼は避けて移動するものです。ですからアブラハムは、突き刺すような日差しの中3人の人が自分に向かって立っているのを見た時、その様子にただならぬものを感じたに違いありません。
「アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持ってこさせますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みしてください。何か召し上がるものを整えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』」と、そう言ったというのであります。
それに対して、3人の人たちは「では、お言葉どおりにしましょう」とアブラハムの申し出を受けるのであります。
この時もし、アブラハムが無関心にあるいは面倒に思って3人の人たちを素通りさせ、見過ごしていたとしたなら、彼らとの出会いは起こらなかったでしょう。それはつまり「サラに男の子が必ず生まれる」との約束をいただく機会も、「主に不可能なことがあろうか」との信仰の賜物に触れ、与ることもなかった、ということであります。
このところが。一つの大きな分岐点になっているといえます。
3人の人はアブラハムのもてなしの申し出に対して、「お言葉どおりにしましょう」と応じると、アブラハムは急いで天幕にいたサラにパン菓子をこしらえさせ、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理をさせたとあります。
「急いで」というのは、彼らが時間に余裕のない旅人だと思っていたのかも知れません。そういう中で、もしかしたらもうお会いすることもないかもとの思いを持ちながらも、アブラハムは自分がなし得る最善のものを出し、料理を運んで3人の人たちが食事をしている間中、そばに立って給仕をしたというのであります。そこにはアブラハムの真心から旅人や客人をもてなす姿があったのです。
新約聖書のヘブライ13章2節には次のような御言葉が記されています。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づか
ずに天使たちをもてなしました。」これはアブラハムの事を指しているのでありますが。
また、新約聖書の小黙示と言われるマタイ25章でイエスさまはこう言われました。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
いったいどこに神さまはおられるのか分かりません。神さまは隠れておられるのです。
兄弟姉妹のうちに、身近な隣人との関わりのうちに。あるいは私たちの思いを超えたような、人と人の出会いの中におられるのかも知れません。そして主が最も小さい者とおっしゃったように、私が心ならずも軽んじてしまう人が、実は主ご自身である、ということが私たちを謙遜にいたします。
私が最初に教会に行くようになったのは教会学校でした。小学4年生の時でしたが、その時は教会に行っていた友達に誘われて行くようになったので、自然に教会学校へ行くことができました。けれども自分一人で教会に行っていたかと考えると多分一人だったら教会に行くことがなかったんだろうと思います。
そういうことを考えますと、私を教会へ誘ってくれた友人は主の使いであったし、彼もまた私が主を信じる者となったので、信仰の友を得たわけです。いったいどこに主の使い、主の友がいるのかは分かりませんね。
ここ大阪教会が新会堂になって新来者の方々が多く礼拝に来られるようになり、それはほんとうに感謝なことであります。これからもどんな出会いが主によって起こされるのか期待いたしておりますけれども。
今日のアブラハムが3人の旅人に対してとった行動、何よりその思いと信仰からは大変学ばされます。主にあるよき出会いと分ち合い、祝福を祈り合うよき機会がこれからもますます、私たちの歓迎ともてなしの中で豊かにされていきますように心から祈ります。
創世記18章に話を戻しますが。
アブラハムの真心からのもてなしを受けた3人のうちの一人がアブラハムに次のように言います。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」
すると、そのすぐ後ろの天幕の入り口でこのことを聞いていたサラは、「ひそかに笑った」というのです。おそらく彼女にしてみれば、現実とはあまりにかけ離れたことだったので、思わず吹き出してしまったのでしょう。
ところが、主はアブラムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのか」とサラの内心までズバッと指摘されると、サラは恐ろしくなり、打ち消して「わたしは笑いませんでした」と主に答えるのです。すると主は「いや、あなたは確かに笑った」と言われます。主はすべてをご存じであられるお方です。
「そんなこと今さらありえないでしょう」と、思わず笑いが吹き出たサラ。
彼女はずっと以前に主がアブラハムと交された約束を信じることができず、待ちくたびれ自分のそばめをアブラハムに与え、子をもうけますが、いざこざが起きてその女性も子供も結局そこを追われてしまうといった事が起こってしまいました。
そのような年月の中でサラの心もどこか頑なになり、主の祝福をすんなりと受け取ることができなくなっていたのではないでしょうか。
主が、「あなたは笑った」とサラに言われた時、サラは恐ろしくなり「わたしは笑いませんでした」とすぐさまそれを打ち消します。サラがそういわれ「恐ろしくなった」というのは、神さまへの信頼の関係をそこで問われ、突きつけられたからです。
その後21章に「イサクの誕生」についての記事が記されておりますが。
イサクという名は、実は17章19節において、神がアブラハムに「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言っておられるのです。イサクという名は「笑い」という意味をもっていたのです。
そして遂にそのイサクが生まれた時にサラは次のように言ったとあります。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
18章で思わず吹き出した「笑い」、それは、「まさかそんなことが」という思いからで、
主を拒んだわけではありません。けれどもこれも不信からしみでたような笑いであった
のです。しかし、それが遂に神によって実現された時。その笑いはまさに、「神から与
えられた笑い」「喜び」となるのです。「聞く者は皆、神がお与えくださった笑いを共に
してくれるでしょう」とサラはいうのです。
私たちそれぞれの人生には、とても笑えないような時があるのも又事実です。それにも拘わらず、そのような現実の中でさえ、神の救いと祝福の約束は決して揺らぐことはありません。
ルカによる福音書6章21節でイエスさまは言われました。「今泣いている人びとは、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
神の御子イエス・キリストがその命をもって約束しておられるこの祝福を信じ、望み、
今週も顔を上げて生きてまいりましょう。
この18章といえば、16節以降に、神がソドムとゴモラの滅びを宣告された時、その住人が滅ぼされないようにと、アブラハムが神に全身全霊で執り成し、交渉していく場面が大変印象的なのでありますが。本日はその前のところに記されております、神さまのアブラハムへの約束に関わる、そのところから「祝福を運んで来た主の使い」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
さて、この主の使いが運んで来た祝福でありますが、それは14節「主に不可能なことがあろうか。わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という非常に具体的なものでありました。この時アブラハムもサラも高齢のため到底それは常識的に考えられないことでした。それを聞いたサラは、「ひそかに笑ってしまった」とあります。思わず笑った、ということです。
聖書教育では、この「サラの笑い」に焦点があてられておりますけれども、そのサラが思わず吹き出して笑うほど信じがたい事を、「主は必ず実現してくださる」というのが実は本日の中心的なメッセージなのであります。そして、その祝福の知らせを運んで来たのは不思議な3人の旅人でありました。
18章1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」とあります。
マムレの樫の木の所とは、前の13章、14章にもありますように、アブラハムが主の祭壇を築き、礼拝を捧げていた場所です。そこに主は顕現なさったというのですね。
私たちは安息の主イエスさまがいつも共におられるのですから、一日24時間、一年365日いつも主を礼拝して生活しているわけですが。それでもこうして神さまが思いを持って導いて下さったこの場所に週に一度共に集い、祈り、賛美して礼拝を捧げる中に、主は共にあってご聖霊として臨んで下さるのです。主がお一人お一人のために用意しておられる特別なメッセージをこの礼拝から一つでも受け取って戴きたいと願っております。
ところで、先週から本当に暑い真夏日が続いております。体温と同じような気温、さらに40度にも届こうかという気温の高さに加え湿度と強烈な日照りは10年前からすると「本当にここは日本なのか」と思うような暑さです。
アブラハムのもとに主が臨まれたのは、このような暑い真昼のじりじり焼けつく日差しの中でした。
「ある暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。」
真昼の時間に外出する人はめったにおりませんし、旅行者も真昼は避けて移動するものです。ですからアブラハムは、突き刺すような日差しの中3人の人が自分に向かって立っているのを見た時、その様子にただならぬものを感じたに違いありません。
「アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持ってこさせますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みしてください。何か召し上がるものを整えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』」と、そう言ったというのであります。
それに対して、3人の人たちは「では、お言葉どおりにしましょう」とアブラハムの申し出を受けるのであります。
この時もし、アブラハムが無関心にあるいは面倒に思って3人の人たちを素通りさせ、見過ごしていたとしたなら、彼らとの出会いは起こらなかったでしょう。それはつまり「サラに男の子が必ず生まれる」との約束をいただく機会も、「主に不可能なことがあろうか」との信仰の賜物に触れ、与ることもなかった、ということであります。
このところが。一つの大きな分岐点になっているといえます。
3人の人はアブラハムのもてなしの申し出に対して、「お言葉どおりにしましょう」と応じると、アブラハムは急いで天幕にいたサラにパン菓子をこしらえさせ、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理をさせたとあります。
「急いで」というのは、彼らが時間に余裕のない旅人だと思っていたのかも知れません。そういう中で、もしかしたらもうお会いすることもないかもとの思いを持ちながらも、アブラハムは自分がなし得る最善のものを出し、料理を運んで3人の人たちが食事をしている間中、そばに立って給仕をしたというのであります。そこにはアブラハムの真心から旅人や客人をもてなす姿があったのです。
新約聖書のヘブライ13章2節には次のような御言葉が記されています。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づか
ずに天使たちをもてなしました。」これはアブラハムの事を指しているのでありますが。
また、新約聖書の小黙示と言われるマタイ25章でイエスさまはこう言われました。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
いったいどこに神さまはおられるのか分かりません。神さまは隠れておられるのです。
兄弟姉妹のうちに、身近な隣人との関わりのうちに。あるいは私たちの思いを超えたような、人と人の出会いの中におられるのかも知れません。そして主が最も小さい者とおっしゃったように、私が心ならずも軽んじてしまう人が、実は主ご自身である、ということが私たちを謙遜にいたします。
私が最初に教会に行くようになったのは教会学校でした。小学4年生の時でしたが、その時は教会に行っていた友達に誘われて行くようになったので、自然に教会学校へ行くことができました。けれども自分一人で教会に行っていたかと考えると多分一人だったら教会に行くことがなかったんだろうと思います。
そういうことを考えますと、私を教会へ誘ってくれた友人は主の使いであったし、彼もまた私が主を信じる者となったので、信仰の友を得たわけです。いったいどこに主の使い、主の友がいるのかは分かりませんね。
ここ大阪教会が新会堂になって新来者の方々が多く礼拝に来られるようになり、それはほんとうに感謝なことであります。これからもどんな出会いが主によって起こされるのか期待いたしておりますけれども。
今日のアブラハムが3人の旅人に対してとった行動、何よりその思いと信仰からは大変学ばされます。主にあるよき出会いと分ち合い、祝福を祈り合うよき機会がこれからもますます、私たちの歓迎ともてなしの中で豊かにされていきますように心から祈ります。
創世記18章に話を戻しますが。
アブラハムの真心からのもてなしを受けた3人のうちの一人がアブラハムに次のように言います。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」
すると、そのすぐ後ろの天幕の入り口でこのことを聞いていたサラは、「ひそかに笑った」というのです。おそらく彼女にしてみれば、現実とはあまりにかけ離れたことだったので、思わず吹き出してしまったのでしょう。
ところが、主はアブラムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのか」とサラの内心までズバッと指摘されると、サラは恐ろしくなり、打ち消して「わたしは笑いませんでした」と主に答えるのです。すると主は「いや、あなたは確かに笑った」と言われます。主はすべてをご存じであられるお方です。
「そんなこと今さらありえないでしょう」と、思わず笑いが吹き出たサラ。
彼女はずっと以前に主がアブラハムと交された約束を信じることができず、待ちくたびれ自分のそばめをアブラハムに与え、子をもうけますが、いざこざが起きてその女性も子供も結局そこを追われてしまうといった事が起こってしまいました。
そのような年月の中でサラの心もどこか頑なになり、主の祝福をすんなりと受け取ることができなくなっていたのではないでしょうか。
主が、「あなたは笑った」とサラに言われた時、サラは恐ろしくなり「わたしは笑いませんでした」とすぐさまそれを打ち消します。サラがそういわれ「恐ろしくなった」というのは、神さまへの信頼の関係をそこで問われ、突きつけられたからです。
その後21章に「イサクの誕生」についての記事が記されておりますが。
イサクという名は、実は17章19節において、神がアブラハムに「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言っておられるのです。イサクという名は「笑い」という意味をもっていたのです。
そして遂にそのイサクが生まれた時にサラは次のように言ったとあります。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」
18章で思わず吹き出した「笑い」、それは、「まさかそんなことが」という思いからで、
主を拒んだわけではありません。けれどもこれも不信からしみでたような笑いであった
のです。しかし、それが遂に神によって実現された時。その笑いはまさに、「神から与
えられた笑い」「喜び」となるのです。「聞く者は皆、神がお与えくださった笑いを共に
してくれるでしょう」とサラはいうのです。
私たちそれぞれの人生には、とても笑えないような時があるのも又事実です。それにも拘わらず、そのような現実の中でさえ、神の救いと祝福の約束は決して揺らぐことはありません。
ルカによる福音書6章21節でイエスさまは言われました。「今泣いている人びとは、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
神の御子イエス・キリストがその命をもって約束しておられるこの祝福を信じ、望み、
今週も顔を上げて生きてまいりましょう。