日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祝福を運んできた主の使い

2014-07-27 12:39:20 | メッセージ
礼拝宣教  創世記18章1~15節 

この18章といえば、16節以降に、神がソドムとゴモラの滅びを宣告された時、その住人が滅ぼされないようにと、アブラハムが神に全身全霊で執り成し、交渉していく場面が大変印象的なのでありますが。本日はその前のところに記されております、神さまのアブラハムへの約束に関わる、そのところから「祝福を運んで来た主の使い」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

さて、この主の使いが運んで来た祝福でありますが、それは14節「主に不可能なことがあろうか。わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という非常に具体的なものでありました。この時アブラハムもサラも高齢のため到底それは常識的に考えられないことでした。それを聞いたサラは、「ひそかに笑ってしまった」とあります。思わず笑った、ということです。
聖書教育では、この「サラの笑い」に焦点があてられておりますけれども、そのサラが思わず吹き出して笑うほど信じがたい事を、「主は必ず実現してくださる」というのが実は本日の中心的なメッセージなのであります。そして、その祝福の知らせを運んで来たのは不思議な3人の旅人でありました。

18章1節に「主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた」とあります。
マムレの樫の木の所とは、前の13章、14章にもありますように、アブラハムが主の祭壇を築き、礼拝を捧げていた場所です。そこに主は顕現なさったというのですね。
私たちは安息の主イエスさまがいつも共におられるのですから、一日24時間、一年365日いつも主を礼拝して生活しているわけですが。それでもこうして神さまが思いを持って導いて下さったこの場所に週に一度共に集い、祈り、賛美して礼拝を捧げる中に、主は共にあってご聖霊として臨んで下さるのです。主がお一人お一人のために用意しておられる特別なメッセージをこの礼拝から一つでも受け取って戴きたいと願っております。

ところで、先週から本当に暑い真夏日が続いております。体温と同じような気温、さらに40度にも届こうかという気温の高さに加え湿度と強烈な日照りは10年前からすると「本当にここは日本なのか」と思うような暑さです。
アブラハムのもとに主が臨まれたのは、このような暑い真昼のじりじり焼けつく日差しの中でした。
「ある暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。」
真昼の時間に外出する人はめったにおりませんし、旅行者も真昼は避けて移動するものです。ですからアブラハムは、突き刺すような日差しの中3人の人が自分に向かって立っているのを見た時、その様子にただならぬものを感じたに違いありません。
「アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、『お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持ってこさせますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みしてください。何か召し上がるものを整えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから』」と、そう言ったというのであります。

それに対して、3人の人たちは「では、お言葉どおりにしましょう」とアブラハムの申し出を受けるのであります。
この時もし、アブラハムが無関心にあるいは面倒に思って3人の人たちを素通りさせ、見過ごしていたとしたなら、彼らとの出会いは起こらなかったでしょう。それはつまり「サラに男の子が必ず生まれる」との約束をいただく機会も、「主に不可能なことがあろうか」との信仰の賜物に触れ、与ることもなかった、ということであります。
このところが。一つの大きな分岐点になっているといえます。

3人の人はアブラハムのもてなしの申し出に対して、「お言葉どおりにしましょう」と応じると、アブラハムは急いで天幕にいたサラにパン菓子をこしらえさせ、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理をさせたとあります。
「急いで」というのは、彼らが時間に余裕のない旅人だと思っていたのかも知れません。そういう中で、もしかしたらもうお会いすることもないかもとの思いを持ちながらも、アブラハムは自分がなし得る最善のものを出し、料理を運んで3人の人たちが食事をしている間中、そばに立って給仕をしたというのであります。そこにはアブラハムの真心から旅人や客人をもてなす姿があったのです。
新約聖書のヘブライ13章2節には次のような御言葉が記されています。
「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づか
ずに天使たちをもてなしました。」これはアブラハムの事を指しているのでありますが。
また、新約聖書の小黙示と言われるマタイ25章でイエスさまはこう言われました。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
いったいどこに神さまはおられるのか分かりません。神さまは隠れておられるのです。
兄弟姉妹のうちに、身近な隣人との関わりのうちに。あるいは私たちの思いを超えたような、人と人の出会いの中におられるのかも知れません。そして主が最も小さい者とおっしゃったように、私が心ならずも軽んじてしまう人が、実は主ご自身である、ということが私たちを謙遜にいたします。

私が最初に教会に行くようになったのは教会学校でした。小学4年生の時でしたが、その時は教会に行っていた友達に誘われて行くようになったので、自然に教会学校へ行くことができました。けれども自分一人で教会に行っていたかと考えると多分一人だったら教会に行くことがなかったんだろうと思います。
そういうことを考えますと、私を教会へ誘ってくれた友人は主の使いであったし、彼もまた私が主を信じる者となったので、信仰の友を得たわけです。いったいどこに主の使い、主の友がいるのかは分かりませんね。
ここ大阪教会が新会堂になって新来者の方々が多く礼拝に来られるようになり、それはほんとうに感謝なことであります。これからもどんな出会いが主によって起こされるのか期待いたしておりますけれども。

今日のアブラハムが3人の旅人に対してとった行動、何よりその思いと信仰からは大変学ばされます。主にあるよき出会いと分ち合い、祝福を祈り合うよき機会がこれからもますます、私たちの歓迎ともてなしの中で豊かにされていきますように心から祈ります。

創世記18章に話を戻しますが。
アブラハムの真心からのもてなしを受けた3人のうちの一人がアブラハムに次のように言います。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう。」

すると、そのすぐ後ろの天幕の入り口でこのことを聞いていたサラは、「ひそかに笑った」というのです。おそらく彼女にしてみれば、現実とはあまりにかけ離れたことだったので、思わず吹き出してしまったのでしょう。
ところが、主はアブラムに「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのか」とサラの内心までズバッと指摘されると、サラは恐ろしくなり、打ち消して「わたしは笑いませんでした」と主に答えるのです。すると主は「いや、あなたは確かに笑った」と言われます。主はすべてをご存じであられるお方です。

「そんなこと今さらありえないでしょう」と、思わず笑いが吹き出たサラ。
彼女はずっと以前に主がアブラハムと交された約束を信じることができず、待ちくたびれ自分のそばめをアブラハムに与え、子をもうけますが、いざこざが起きてその女性も子供も結局そこを追われてしまうといった事が起こってしまいました。
そのような年月の中でサラの心もどこか頑なになり、主の祝福をすんなりと受け取ることができなくなっていたのではないでしょうか。
主が、「あなたは笑った」とサラに言われた時、サラは恐ろしくなり「わたしは笑いませんでした」とすぐさまそれを打ち消します。サラがそういわれ「恐ろしくなった」というのは、神さまへの信頼の関係をそこで問われ、突きつけられたからです。

その後21章に「イサクの誕生」についての記事が記されておりますが。
イサクという名は、実は17章19節において、神がアブラハムに「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい」と言っておられるのです。イサクという名は「笑い」という意味をもっていたのです。
そして遂にそのイサクが生まれた時にサラは次のように言ったとあります。
「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」

18章で思わず吹き出した「笑い」、それは、「まさかそんなことが」という思いからで、
主を拒んだわけではありません。けれどもこれも不信からしみでたような笑いであった
のです。しかし、それが遂に神によって実現された時。その笑いはまさに、「神から与
えられた笑い」「喜び」となるのです。「聞く者は皆、神がお与えくださった笑いを共に
してくれるでしょう」とサラはいうのです。

私たちそれぞれの人生には、とても笑えないような時があるのも又事実です。それにも拘わらず、そのような現実の中でさえ、神の救いと祝福の約束は決して揺らぐことはありません。
ルカによる福音書6章21節でイエスさまは言われました。「今泣いている人びとは、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」
神の御子イエス・キリストがその命をもって約束しておられるこの祝福を信じ、望み、
今週も顔を上げて生きてまいりましょう。
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信仰義認

2014-07-20 13:55:04 | メッセージ
礼拝宣教 創世記15章1~6節 

先週は民間の旅客機がウクライナの上空で地対空ミサイルに撃墜されるという傷ましい惨事が起り、中東ではイスラエルが遂に地上戦となるガザへの侵攻を開始しましたが、武器や武力によって憎しみの連鎖が拡大するばかりです。昨今の社会情勢を見渡す時、どこもかしこも紛争の火種がくすぶっており、世界的に不安と緊張の度合いが高まってきています。片や経済の回復や成長が叫ばれる中、益々貧富の差は大きくなり、それは私たちの日本も深刻な状況になっております。
今日に至りますまで、私たちの生活における安心というものは「信頼関係」のうえに成り立ち、保たれてきました。例えば、日常生活において、食品をはじめ様々な商品を買う時も、いちいち疑っていたら何も買うことができません。仕事をする上でもそのことは欠かせませんし、銀行にお金を預けることも、信用できなければ預金などできません。この新会堂建築においても最初に設工業者と私たち教会とで契約を結びましたが、それも信頼関係のうえにこうして建てられているのです。何ごとにしても「信頼」があって日常生活の様々な事象は始まり、この目には見えない信頼関係によってこの社会は成り立っているといっても過言ではないでしょう。
しかし、その信頼関係が様々なところで大きく揺すぶられ損なわれてきている昨今であります。私たちは何を確かなものとし、どこに希望をおいて生きてゆくことができるのでしょうか。
 7月の礼拝から、信仰の父といわれるアブラムの記述より聖書を読んでおりますが。
ただ神の導きに信頼し、行き先も知らないで旅立ったアブラム。天幕を張るその先々に祭壇を築き、主の御名を呼んで神と1対1の信頼関係を築こうとするアブラムの姿を追ってまいりました。

本日は創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とのお言葉から、私たちの命の基である神さまとの信頼関係をさらに深めてゆきたいと願っております。

さて、本日の創世記15章1節の冒頭には、「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう』」と記されています。

これらのことの後というのは、前の14章の出来事を指すのですが。ソドムとゴモラの地の王を中心とする5カ国同盟と、カナンの地の4カ国同盟が戦い、結局カナンの地の4カ国同盟がソドムとゴモラの地にあった財産や食糧を奪ってゆくのですが、そこに住んでいた甥のロトも捕虜となり財産もろとも連れ去られてしまうのです。
その知らせを聞いたアブラムは訓練を受けた者318人を召集し、まったく奇跡的にもカナンの地の4国同盟を打ち破り、ロトとその財産、女性たちやそのほかの人々も取り戻すことができたのです。
このことを知ったソドムの王はアブラムを出迎え、神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒をもって来てアブラムを祝福し「いと高き神がたたえられますように」と宣言すると、アブラムはすべての物の10分の1を彼に贈ります。
一方ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言うのですが、アブラムは「あなたの物はたとえ糸一筋、靴ひも1本でも、決していただきません」と言って断ります。それは何もアブラムが遠慮したわけではなく、「アブラムを裕福したのは、このわたしだ」とソドムの王に言われたくなかったというのが、その理由でした。アブラムにとって祝福はソドムの王から来るのではなく、主なる神から来るものであり、アブラム自身国や自分の利益のため戦ったのではなく、ただ甥のロトとその家族らを救出するための行動でしたから、ここで借りを作ったり、しがらみに縛られて国々の争いに巻き込まれたくなかったのでしょう。主はこの地を与えるといわれたにも拘わらず、そこには先住民の力関係や争い事が渦巻いており、アブラムの目に映った現実はあまりにもほど遠いものであり、それら一連の出来事のゆえにアブラムは恐れを抱いていたのであります。
15章の冒頭において、主はそのようなアブラムに「恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と語られるのです。
あなたの盾とはあなたを守る盾となる重い約束です。犠牲をいとわないという意味です。

アブラムは不安でした。この先どうなるのか。どこに祝福を見出せばよいのか。未だ目に見える保証は何もありません。
彼は、「わが神、主よ。わたしに何をくださるのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。アブラムは言葉をついで「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と、主に訴えます。

ここに来て初めてアブラムは、「あなたのおっしゃることのどこに信頼したらいのですか」と、半ば主に詰寄るように問うているのです。主の導きにすべてをかけて旅立った。そして「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたの子孫にこの土地を与える。」 
さらに「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」との御声を聞いた。ところが、未だそれが現実となるような兆しすらない、そのことへの焦りや不満が一度に噴き出すのです。

そのようなアブラムの訴えに主は答えられます。
「ダマスコのエリエゼルが跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
そして主はアブラムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる。」

これまで、主はアブラムを祝福の源となる、子孫と土地を与えられることによって現実のものとなるとの約束を繰り返されてきました。それは主なる神さまから一方的に語られる言葉でありました。ところが、今日の箇所の6節において「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」とあるように、神さまとアブラムの間に信頼の関係が築かれるのですね。力関係の中でただ従うというのとは違う1対1の信頼関係。その中で主なる神さまとアブラムは大いなる約束、契約を結んでゆくのであります。

本日の箇所を読んで心に留まりますのは、主なる神とアブラムとの直接的な対話であります。あの信仰の父として称賛されるアブラムであっても、恐れを抱えながらの日々と
先行きに対する不安から、神さまに焦りや不満を口にしたというのは、私たちにはどこか遠い存在であったアブラムが少し近しい存在として感じられもいたしますが。しかし、アブラムはそこで不信に陥るのではなく、神さまに対する強いこだわりや関心をもって神さまと向き合い、その祈りと黙想の中で神さまとの信頼関係を見出してゆくのです。

最後にローマの信徒への手紙4章18節を読んでみましょう。新約聖書p279上段18節。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
跳んで20節~22節。「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」

人は自分の力で、神の前に義を得ることはできません。では私たちはどうしたら神の義、神の救いに与ることができるのでしょうか。
続けてローマ4章23節以降を読んでみましょう。
「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」

神が御独り子イエス・キリストを私の罪のために、その罪を贖うために与えてくださったその一方的な愛と恵みを、アブラムがなしたように祈りと黙想、神さまとの対話のうちに、神との信頼関係を見出し、信仰をもってそれを受け取り続けてゆくとき、私たちも又、その信仰によって義とされ、主の救いのうちにあって生きていくことが、恵みとして与えられるのです。私たちにとって神の義とは、その信仰による救いそのものであります。

私たちは日常の様々な出来事に右往左往したり、上がったり下がったりする中で、神さまのことを忘れてしまうようなことがありますけれども、神さまは私たちになさった救いの約束を決してお忘れになることはありません。

ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているとおりです。御独り子を与え尽くすほどに私たち一人ひとりのことを愛してやまず、覚えてくださる神さま。アブラムに「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と約束したもう神さまは、今日私たちにも又、「恐れるな、わたしはあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい」と語りかけておられます。この尊い信仰による神の義に与って、約束の祝福を受ける者とされてまいりましょう。
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神の祝福とは

2014-07-13 14:09:42 | メッセージ
礼拝宣教  創世記12章10~13章18節 

「あなたは祝福の源となるように」という神の約束の御言葉に従って旅立ったアブラム。カナンの地に入りますと、主はアブラムに現れて「あなたの子孫にこの土地を与える」と宣言なさいます。アブラムはそこに主の祭壇を築き、感謝を込めて礼拝をささげました。その後、幾多の理由からベテル、さらにネゲブ地方に向けての旅を続けますが、アブラムはその所その所において主の祭壇を築き礼拝を捧げていきます。
この先どうなっていくかわからない。問題や不安を抱え、願い未だ叶わず。しかし、そんな人生の旅路にあって、今日も主の祭壇を築くため、ここに集まってまいりました。
本日は「神の祝福とは」と題し、御言葉を聞いていきます。

「エジプトでのアブラム」
移り住んだネゲブ地方に激しい飢饉が起こったのでアブラム一行は肥沃なエジプトを目指して旅を続けます。12章10節以降には、エジプト滞在についてのエピソードが記されていますが。そこで何とアブラムは妻サライに自分の妹であると偽らせ、身の安全を図ろうとします。美しい妻を自分のものにしようとして夫である自分は殺されてしまうかも知れない、というのがその理由でした。アブラムは恐れと不安のゆえに何とか身の安全を図ろうと考え、万一に備えてのことだったのでしょうが。多くの聖書注解書では「利己的」で「自分本位」なもので、何より「神への信頼を欠いた態度」との見方が強いようです。
そして、事態はアブラムの予想を超えた展開となり、妻サライがエジプトのファラオに召し入れられ、12章16節にあるように「アブラムもサライのゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなど与えられた」というのです。

「不思議な神の取り扱い」
ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせます。主はそのような策を企てたアブラムにではなくファラオに対して災いを下すのです。まあファラオや宮廷の人たちはサライがアブラムの妻であることを知りもしなかったわけですから、神さまは何てアブラムをエコひいきされるのかと思いますけれども。実はそこには、たとえ我が身の安全のために策をこうじるような人間的なアブラムでありましても、なお、「あなたを祝福する」「あなたは祝福の源となるように」との神さまの約束は決して揺がずアブラムの生涯に亘って貫かれていることが、伝えられているのであります。
ここの場面を黙想していきます時に、ああ私もまた、主に信頼していると言いながら、次々に起こる様々な状況の中で、あれやこれやと安全を図るための策を巡らすことを最優先してはいないか、主の言葉によらず自分本位な判断に陥っていないかと、問われるものでありますが。
しかし、たとえそのように人生の課題の中で右往左往するような者でありましても、神さまの救いの選びは変わることがありません。私たちもまた、神さまの一方的な恵みといつくしみによって選ばれ導かれているのです。その神さまの選びは、私たちの行いによって得たものではありません。むしろ至らなさと罪に滅びゆくしかない私のために、神は御独り子のイエス・キリストが審きをその身に負ってくださった。否、今も負い続けてくださっています。その主イエスにつながり続け、そこに命を見出して生きていることこそが、私たちの選びそのものであるのです。

さて、ファラオはアブラムを呼び寄せて、「あなたはわたしに何ということをしたのか」「なぜ、あの婦人は自分(おまえ)の妻だと、言わなかったのか」「なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか」と問い詰めます。
そこでアブラムがファラオの問いにどう答えたかは聖書に記されておりませんが、このような出来事の後に記された今日の13章の箇所を読みますと、アブラムのうちに何らかの変化が生じているように思えます。

「初めに主の御名を呼んだ場所に」
その1つは、アブラムがもと来た道へ戻り、原点ともいえる約束の場に立ち返ったことです。エジプトから送り出されたアブラム一行は、再びネゲブ地方へ上り、そこからさらにべテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来ます。
そこは、彼が最初に主の祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝を捧げた所であり、彼は再びそこへ戻って来たのです。彼は「主の御名を呼ぶ」という必要に迫られていたのではないでしょうか。同時に彼は魂の底から主に立ち返って生きるほかない者であることに気づいたのではないでしょうか。この最初の祝福の地カナンへ戻って行く道のりは、まさに神に立ち返ってゆく巡礼の旅路であったといえるでしょう。

ここにアブラムをして、初めて祭壇を築いたときの信仰に立ち返って生きる、とのメッセージを聞くことができます。私たちクリスチャンはご聖霊の介在を通して救いの神と出会い、イエス・キリストの贖いの御業と復活の命を信じて、罪の赦しの恵みを受けました。その出来事は生ける神さまからの賜物にほかなりません。
しかし、時の経過とともにその神さまの計り難い恵みの重さを忘れ、心が鈍くなって世の習わしにのまれそうになってしまうことが起こり得るのであります。そのいわば信仰の危機から脱する道は、アブラムが「主の御名を呼んで」捧げた礼拝に立ち返って行ったように、救いの日、救いの原点である主イエス・キリストに立ち返ることであります。
恵みの主に立ち返って歩み出すところにあります。

さて、アブラムの「心の変化」の2つめは、「自己への執着からの解放」です。
アブラムも甥のロトも、多くの財産を持つようになり、限られた地ではもはや一緒に住み続けることができなくなるという問題が生じたこの時、アブラムは甥のロトに次のような提案をします。「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」
アブラムはこの時、かつて自分に約束された神の言葉に信頼をおき、ロトに好きな地を選ばせます。一般的な慣例に従うなら族長のアブラムにまず選択する優先権があったわけですが、彼はそれを放棄するのです。結局、ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移っていきます。それは目に麗しく「主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限り潤っていた」とあります。そういう水源豊かな地をロトは選んで移っていきました。

「見上げて、見渡しなさい」
この時アブラムは、下を向いてうつむいていたのではないでしょうか。       主に委ね、自分の思いを手放して、ロトに好きなように地を選ばせたけれども、心のどこかに「やっぱりロトは遠慮することなく潤い、水源豊かな地を選んだか」という寂しい思いや後悔を多少は抱いていたのかも知れません。

しかし、主はそのアブラムに声をかけられます。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見える限りの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。」
主なる神は、アブラムに「目をあげて、見渡しなさい」と言われ、見渡せる限りの土地と多くの子孫を与えることを約束されます。それは、主がかつてアブラムに与えた約束が今も生きていることの証しでありました。アブラムは伏せた目を上げ、神の示された土地を見渡します。彼は、そこでロトが見、自分も肉の目で見たようにではなく、今や信仰(霊の眼)によってその地を見渡し、主の祝福の約束を再確認するのであります。
私たちの信仰の歩みについても、主の御声に聞いていくこのアブラムの信仰を辿るものでありたいと願います。

「神の祝福とは」
今日の箇所から、偉大な信仰の父と称されてきた義人アブラハムですが。葛藤や弱さをもおぼえる人間的な人物であったことが分かります。けれども、主なる神はこのアブラハムに与えた祝福をどんなことがあろうとも彼から剥奪するようなことはなさいませんでした。アブラムも又、主の計り難い守りと賜物によって生かされていることを思い知らされ、その恵みの主に立ち返って生きるよう導かれるのです。

本日の箇所で、アブラムがロトに気前よく水源豊かな潤いの地を譲ってしまい落ち込む姿は、どこか人間味に溢れ身近に思えますが、聖書はアブラムのこの自己放棄によって神の約束された祝福がアブラムに注がれていく様を描き出します。それはカナンの地、見渡す限りの土地をすべて永久にあなたとあなたの子孫に与える、というものであり、あなたの子孫を数えきれない大地の砂粒のようにする、との祝福であります。
その祝福はまだアブラムの目の前にあるわけではありません。そのことが実現していくのはずっと後のことなのです。子の時代、孫の時代、そのずっと先のことです。
それでではアブラムの祝福とは何だったのでしょう? それは「神の約束」であります。

私たちも又、それぞれに今の状況の中で、具体的な祝福を見出すこともあれば、逆に、どこに私の祝福があるのか、とそれを見出すのが困難に感じられることもあるかも知れません。けれども、主イエスによる「救いの約束」は、私たちにとってまぎれもなき、そして何ものにも代えがたい「神の祝福」なのであります。
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幸いを運ぶ人

2014-07-06 12:58:05 | メッセージ
礼拝宣教 創世記12章1~9節 

「アブラムの召命」
アブラムの生まれ故郷はメソポタミヤのカルデア地方のウルという町でしたが、父のテラは商業中心地であったハランに移住いたします。恐らく生活の豊かさを求めてハランに移住したのでありましょうが。しかしこのハランもウルと同様、偶像の街であり父のテラやその家族も偶像を礼拝していたようです。(ヨシュア24:2)
都会は田舎のように神社仏閣は少なくそういったしがらみはありませんが、逆に拝金主義や欲望をあおる様々な虚像、偶像に多くの人が惑わされ、捕らわれているというのは今も昔も同様かも知れません。
さておき、そういう状況において1節にありますように、アブラムは生きておられる真の神、主の御声を聞くのであります。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。」
主は、アブラムに生まれ故郷から、さらに父の家から離れ、旅立つようにお命じになります。それはアブラムにとっては大変辛い決断を強いられることでありました。さらに主は、アブラムに「わたしが示す地に行きなさい」とだけ命じ、それが実際どこなのか具体的に伝えられていなかったのです。アブラムにとってそれはまさに行き先もわからない旅であったのであります。
そのような突然の主の招きに恐らくは戸惑ったであろうアブラムに主は2節以降でこう言われます。
「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

「信仰の旅路」
このアブラムの祝福については後程お話するとして、これらの主の招き、召命のお言葉をアブラムはどう感じ、どう考えたでありましょうか。ここには何も書かれていませんが。ただ4節に「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ記されています。
「主の言葉に従って」安住の地から旅立っていったアブラム。その決断へ導かれるにはいろんな葛藤があったことでしょう。父とその家との別れ。大いなる国民と言われてもアブラムは75歳という高齢であり、妻のサライも子を産む齢をとうに過ぎていました。見知らぬ地を旅すること自体無謀に思われます。しかし聖書はただ、「アブラムが、主の言葉に従って旅立った」とだけ伝えるのですね。
それはアブラムが自分の考えや思い、又、現実や世の常識によらず、主のお言葉によって立つものとされた、という事であります。これを私たちは「信仰」といいます。

先ほど読みました1節以降には、主自らアブラムに対して「わたしが」と何度も呼びかけられていますよね。それはあたかも、「わたしに信頼し、任せなさい。あとはわたしが責任を負う」とおっしゃっているかのようです。アブラムにとって生まれ故郷や父の家を離れるというのは容易いことではなかったはずです。けれども彼はただ、あなたと私という1対1で関わろうとなさる神さまの「約束の言葉」に自分の全存在をかけ、ハランを出発するのであります。聖書は生ける神さまの約束の言葉に従った人々とその実現の歴史です。主の約束を信じ、立つ者とされる時、私たちも又、アブラムの子孫なのであります。

そして、主の約束の言葉を信じて決断したアブラムは、妻のサライ、甥のロト、さらにアブラムの信仰的決意に賛同した信仰の同志を加え、一緒にカナンの地へ向かいます。
決して一人で旅立ったわけではないのですね。アブラムは主の祝福を自分一人だけのものとは考えていませんでした。祝福に与るため共に労苦する人たち、祝福を分かち合う人たちと共に旅立ったのであります。
私たちもそうですね。クリスチャンとして救いに与り、こうして教会に連なって礼拝を捧げますのは、祝福を互いに分かち合うためであります。

さて、そうしてアブラムは旅を続け、カナンのシケムの聖所、モレの樫の木まで来ると、7節「主はアブラムに現れて、『あなたの子孫にこの土地を与える』」と言われます。

主はそこに来て初めてアブラムにここが約束した地であると、はっきりと告げられます。実にこのカナンの地こそ、1節で、神さまが示された地であったことが明らかになるのです。
アブラムは信仰の長い旅路を経て、遂に神の真実な約束を確認できたのですね。彼は主の約束の言葉に聞くだけでなく、それを信じて実際に行動を起こすことによって、主の約束の言葉が真実であったことを経験するのであります。                  
主なる神の祝福や幸いは、知識や学問で獲得できるのではありません。それはアブラムのように、主の言葉に従ってゆく信仰の実践を通して体験し、経験することができるのです。

「礼拝を捧げる」
さて、主はそのところで「アブラムの子孫にカナンの地を与える」と約束してくださいました。すると「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」とあります。あのノアが箱舟から出て来た時もそうしたように(創世記8章20節)、アブラムもまず主なる神に礼拝を捧げたのであります。

けれどもアブラムはそのカナンの地に定住するのではなく、そこからベテルの地へ、さらにネゲブの地へと移っていきます。カナンの地にはカナンの先住民族が住んでおりましたから、いろんな困難や問題があったのでしょう。13章によれば、ネゲブでは飢饉が起こったのでエジプトまで行ったとあります。しかしそこも安住の地ではありませんでした。そして最終的に再びかつて祭壇が築かれた礼拝の場所へとアブラムは帰ってくるのであります。
困難があり、紆余曲折ありながらも、ついには主が「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束なさったその場所で、そのお言葉が実現されてゆくのです。
アブラムにとって現実の旅路は様々な問題や困難と苦悩の連続でした。しかし彼は、その行く所行く所に祭壇を築き、主なる神さまを礼拝しました。それは「ここに、この現実の今ここに、主はおられる」という信仰の確認でした。

私たち一人ひとりも問題のただ中にありながら、又、悩みを抱えながら、あるいは病を負いながらも、今日このところで礼拝と祈りの祭壇を築くために集まってまいりました。主はここに、私の重い現実の今ここにおられ、祈りと願いとに耳を傾けて下さることを私たちは信じています。

本日は、「幸いを運ぶ人」と題し、アブラムの召命と移住の旅の記事から御言葉を聞いてきました。
一体アブラムの祝福とは何であったのでしょう。2節と3節には「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」「地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る」というものでした。アブラムに与えられた祝福、それはアブラムから星の数程多くの子孫が出るという約束でした。確かにその子イサク、そして孫のヤコブから、イスラエルの12部族が誕生していくのでありますが。そして遂に時至って新約の地代にお生まれになったイエス・キリストを通して、今、私たちもまたアブラムの霊的な子孫とされ、その大いなる祝福に与るものとされているのであります。
主はアブラムに「あなたは祝福の源となるように」と言われていますが。それは「あなたは幸いの根っこになりなさい」という意味であります。

今わたしが置かれている状況、生活の場。そこには煩わしい問題も横たわっているかも知れません。地味なこれといって変わり映えのしない毎日かも知れません。けれども主は、そこに私たちが身を置いて祝福の源となること、祝福を分かつ者として生きるようにと、招いておられるのです。「あなたは祝福の源だ、幸いな人だ。幸いの根っこになりなさい。」

私たちにとって幸いは、「主のお言葉に聞き、そこに身をおいて生きてゆく時、やがて主の約束の言葉が真実なものであるということを確信できる日が訪れる」ということです。信仰は聞くことから始まりますが。それはさらに御言葉を信じ実践し、生きてゆくことを通して、主の祝福、幸いを体感することができるのであります。
私たちはその幸いに与りつつ、この一度限りの人生の旅路においてそれを持ち運ぶ者とされているのです。今週の一日一日において恵み豊かな神さまを信じ、祝福を受けとってゆく方が起こされていきますよう祈り続け、主のご用に勤しんでまいりましょう。
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分かれ道に立って、さらに見定めよ

2014-07-02 08:38:42 | 巻頭言

昨日7月1日、政府は「集団的自衛権の行使ができるという」現憲法を解釈変更(事実上、解釈改憲)する閣議決定を行いました。
安倍首相は「戦争に巻き込まれることはさらになくなった」と述べられましたが、果たしてそうでしょうか。逆に、武力行使により殺し、殺される機会が多くなり、その可能性が高くなったといえます。日本は戦後70年憲法9条によって、殺し、殺されることなく中東、東アジア周辺諸国との平和的な関係は築かれてきました。平和憲法は今も脈々と生き続けています。それを、集団的自衛権の行使容認によって壊すことこそ、大きな損失といえるでしょう。
聖書の「武力によって平和が築かれない」という使信を素直に聴き、信じ、平和の主イエスに従って生きることこそ、平和を築く道と信じます。平和憲法の精神が暗い闇世にあっても輝きを放ち生き続くために、祈り求めてまいります。     
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