日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2023/9/3 主日礼拝式 おしらせ

2023-08-30 13:40:14 | 教会案内

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試練の中で御言葉に聞き従う

2023-08-27 14:48:04 | メッセージ
礼拝宣教    創世記7章1-24節 平和

8月は平和月間としておぼえ、祈りつつ過ごしてまいりましたが。世界中の様々な地域で今も平和が脅かされ、人権と思想信条が侵害されています。特にそのような中、主のみ言葉と教えに聞き従う同胞、世界のキリスト者を覚えて祈りたいと思います。現在バプテスト連盟からインドネシアに野口宣教師、シンガポールに、アジアミッションコーディネーターとして伊藤師が派遣されていますが。続けられて来た宣教師派遣の働きは、かつての侵略戦争の悔い改め、平和と和解の祈りと願いをもって起こされたものです。又、ご存じのように、ルワンダで和解と平和の構築のための働きをなさっておられる佐々木和之さんを支援する会の季刊誌が届きました。ルワンダの「暴力紛争後の癒しと平和の道すじ」というテーマで大変貴重な対談の内容が掲載されております。
私は又、ミッション・宣教の声という月刊誌を発行者より個人として送っていただいているのですが。そこには、海外邦人、欧州諸国、および迫害下にある聖徒への宣教の記事や今の実情が掲載されています。

本日は創世記7章からみ言葉を聞いていきます。
先週の6章には、ノアについて「その世代の中で、神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」とありました。主なる神はそのノアに箱舟を造るようにおっしゃいます。
今日の7章では、主はノアに、「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい」とお命じになります。それは起ころうとしている40日間に及ぶ大雨と洪水の難を逃れ、彼らが生き残ることを意味していました。
ノアは人類が存続するための働きを担うものとされたのです。主が彼に目をとめられたのは、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」と、主の信任を得たからでした。

主はノアに、家族のほかにも、「あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい」とお命じになります。
この「清い動物」と「清くない動物」についての詳細は、律法の書の申命記やレビ記に記されていますが。
簡単に言えば「清い動物」は人が食べてもよい動物のことで、「清くない動物」は人が食べてはいけない動物のことです。
毒があるものや、人が食べると病気になるもの、伝染病を介するもの、当時の衛生環境では豚の肉もそうでした。
  神がノアに、箱舟に「きよい動物はすべて7つがいずつ取って入れ、きよくない動物はすべて1つがいずつ取って入れなさい」とお命じになります。
どうしてきよくない動物も箱舟に入れる必要があるのかと考えてしまいますが。その理由については、きよくないとされるそれらの動物はノアたちの食糧にはなりませんが、ノアと共に箱舟に入った清い動物たちの食糧となるためのものであったようです。また洪水後に、天地万物の生態系を保つために必要だったからではないでしょうか。主なる神の創造のみ業とその知恵は、人知を遙かに超え、実にゆたかです。

  さて、ノアが主に命じられたことを行う期間は、4節にあるように僅か7日間でした。
この7というのは、主なる神が天地創造を6日お造りになったあと、7日目に聖別されたことから、7は「聖」なることを意味する数です。7日間で天地創造を完成なさった、その同じ7日の内に家族はじめ、命じられたあらゆるきよい生き物、きよくない生き物を主が命じられたとおりに選り分け、箱舟に入るようにしなければなりません。如何に大変なことであっただろうかと想像しますが。ノアは「すべて主が命じられたとおりにした」のです。
そしてその7日後に、主の語られたとおりのことが起こります。遂に40日間、止むことなく大雨が降り続き、大洪水となって地上を完全に覆いつくしてゆくのです。

 この40日40夜の40という数にも意味があります。
イスラエルの民が出エジプトからシナイの荒野を経て、約束の地に入るのに実に40年を要しました。その期間に様々な悪と罪の誘惑、信仰の試み、試練が起こっていきました。
又、主イエスは40日間、荒野で断食した後、悪魔の試みに遭います。悪魔の試みは空腹の中よりむしろ、断食を終えた後の達成感の中で巧になされていきました。その断食をし終え自己達成した、という思いの中に悪魔が働くのです。それは人の世を自分の思うがままに支配させ、人類もろとも神の愛と救いから引き離そうとする誘惑でありました。
しかし、主イエスはその悪魔の試みに対して、どこまでも神の言葉に聞き従うことによって悪魔の誘惑を退け、それに打ち克たれました。主に倣い従う者は、試みといえる状況の中で、主の御言葉にどのように聞き従って生きるか、その信仰が練り上げられていくのです。
その40日間であったということです。

さて、今日のノアとその家族の40日間でありますが。
その初まりは主が命じたすべての動物が箱舟に入った後、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」のであります。時が迫る緊迫した状況の中、すべてを司っておられるのは主なる神であることの威厳が示されるのです。
私どももそれぞれ御心に尋ねつつ事をなすのでありますが。すべてを司っておられる主を信じるこっとから始めることが大切です。主が共におられることに勝る平安はありません。
ノアとその家族は遂に大雨が降り出した時、「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」ことを知ります。地上を叩きつけるすさまじい雨音が聞こえ、水は地上に増し加わり箱舟を押し上げ水の上を漂いはじめるのです。

近年日本でも地球温暖化が進む中、線状降水帯の発生などゲリラ豪雨に見舞われ、バケツをひっくり返したような大雨、地を叩きつけるような激しい雨が頻繁に降るようになってきました。それは人命に危機を及ぼすものとなり、様々なところに甚大な被害も生じています。先進的な科学技術が駆使されている今の時代になっても、津波や大洪水のような自然の脅威を前にすると、私たち人間は土から造られたもろい存在でしかないことを思い起こします。これだけ文明が栄えているように思えたこの21世紀に戦争や紛争、豪雨災害や山火事、又、物価高によって日毎の食糧や医療が受けられない、まさに終末的とも言えるようなことが私どもの日常のすぐそばにあります。しかしだからといって、ただ恐れ不安を抱えているなら、そこにカルトのような感情を煽りたてるようなものがしのびより、ひっかかってしまいかねません。
 主イエスは、世の終りの徴について、次のように言われました。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終りではない。」(マタイ24:6-7)又、次のようにも言われました。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)
世の終りはいつ来るかはわかりません。それだけでなく、個々人の地上の歩みだって、いつ終わりの日が来るかわからないのです。
だからこそ、目を覚まして日毎に主との交わりを築いて歩んでいく事が肝心なのです。日毎に主のみ心を尋ね求め、み言葉に聞き従って歩んでいるか。その真価が問われるのです。それは急にできるものではありません。日毎に御言葉を読み、主と相まみえて祈り、主の御声に聞いて従って生きる一日一日の歩みが大事なのです。

それはまさに、この洪水物語で、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」(創6:22)その生き方であり、「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。」(創7:5)その信仰、神への信頼です。
ノアは周りからどう言われても、どう思われても、そのつど自分に語られた主の言葉をまっすぐに受け取り、忠実に聞き従っていった人であったのです。

この「洪水物語」が伝える危機とは何でしょうか。それは洪水自体ではありません。先週の6章で読みましたように、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかり心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。」
その主と被造物のわたしたちとの関係性の損壊と崩壊こそが、危機的事態なのです。
地上に起こっている戦争や紛争、異常気象による災害も、貧困や飢餓の問題も、実は私たち人間が神との関係性を損なっている結果生じているのです。
ノアは、主の御言葉に聞き従い、箱舟を造り、「すべて主の命じられたとおりに果たした。」
それは主なる神さまにとって人間との破れた関係性が再び創り直される希望であり、慰めであったのではないでしょうか。

40日40夜に及ぶ大雨と大洪水によって、箱舟の外の地上のものはすべて拭い去られていきます。
しかし、そこから主の新しい創造が始まってゆきます。
ノアの息子のセム、ハム、ヤフェトの3人も生き残り、すべての民族、部族、諸族のもとになります。セムの子孫は主に中近東に。ハムの子孫は主にアフリカ、エジプト、リビアに。ヤフェトの子孫は主にトルコ、ギリシャに。それは世界中にも拡がってゆき、今日の世界に至っているのです。

主はこのノアについて、「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」と仰せになります。
私たちも又、この地上にあって誘惑や試みは尽きませんが、主との交わりを絶やすことなく、み言葉に聞き、従って、生きていきましょう。主から「わたしに従う人だ」、と認めていただけるにふさわしい歩みを続けてまいりましょう。

お祈りします。「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(ヨハネの黙示録3:10)
主なる神さま、今日あなたから頂いたいのちのみ言葉をもって、今週も歩んでまいりたいと思います。どうか、私たちの歩みがあなたの御心に適うものでありますように。今日どうしても共に礼拝できなかった方々の上にも、その信仰と健康とが守られますように。主の御名で祈ります。
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2023/8/27 主日礼拝式 おしらせ

2023-08-24 08:46:01 | 教会案内

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洪水の予告

2023-08-20 13:47:05 | メッセージ
礼拝宣教  創世記6章5-22節 平和

 今年も関西地方教会連合社会委員会主催による8・15平和祈祷集会がオンラインのみで行われました。講師のマキン・サンサン・アウンさんは、1988年のミャンマー国民民主化運動全国デモによりすべての学校が閉鎖を余儀なくされため日本に来日。名古屋YMCA日本語学校を卒業し、その後、日本においてキリスト教宣教の志を与えられ、JTJ神学校、日本バプテスト神学校を卒業され、2015年からバプテスト同盟・杉並中通教会の伝道師、さらに2022年からバプテスト同盟・高槻教会の牧師となられ、伝道とアトゥトゥミャンマーの支援共同代表をなさっておられる方です。今回の演題は「神はどこにいるのか」というお話を伺いました。お話の中で特に心に残ったのは、ミャンマーから来日されてから重なる困難と生き辛い状況に悩み苦しんでいた折に、エレミヤ33章3節の「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」のみ言葉が示され、そのように主を呼び求め、苦境を訴えつつ祈る中で、これからの自分のなすべきことがなんであるかの答えが拓かれいったということです。それが現在のお働きであり、今日本に遣わされている意味であり、そこに主が生きてお働きくださっているという、その体験をお証しくださいました。お話の中で、アウンさんはご自身のことを振りかえりながら、ミャンマーから来日された折に大変だったのは言葉、日本の細かなルールや生活習慣について教えてくれる方がなかなかいなかったということです。教会でも困難と生きづらさを抱える外国の方がたが来られている時に、そういったことを教えてくれる方が教会にいらっしゃると、とてもありがたい、という提言をなさっていました。アウンさんは、確かに平和な生活を損なわれた当事者として講演をなさったわけですが。そのお話は、そのような状況の中で神に祈り、神に導かれて、信仰をもって従い行く一人の女性の物語、その証しでありました。

本日は創世記6章の「ノアの箱舟」の箇所からみ言葉を聞いていきます。
世界各地には大洪水伝説が残っており、世界最古の文学・ギルガメシュ叙事詩に記されているのもその一つです。紀元前2600頃、アヌとエソリルの神々が人類を滅ぼすために大洪水を起こすのですが。人類に友好的だった知恵の神・エンキは王に人類を救うために大洪水を起こすことを伝え、エンキは王に巨大な船を建造するように命じ大洪水に備えたというものですが。
このエピソードも又、9節に「これはノアの物語である」と記されておりますとおり、悪が地に満ち、平和がむしばまれ時代の中で、ノアがどのように生き、創造主なる神と共に歩んだか、その信仰について語られております。
私どもも、この時代にあって神のみ前にどのように生きてゆくかが日々問われています。

ここまで聖書の初め、創世記の天地創造の記事を読んできました。
神はすべての世界と、その被造物をお造りになった後で、「見よ、それはすべてよい」と絶賛なさるのでありますが。初めの人アダムとエバが神の言葉に逆らい罪を犯したことから楽園を追放される出来事が起こりました。さらに、アダムとエバの子孫カインが神に対して不平不満の怒りをもち、弟アベルを憎悪と妬みから殺害する出来事が起こりました。これらは、神と人との関係の崩壊が人と人との関係の崩壊に連動しているということであります。それがこの6章において、全被造物の崩壊へと向かうことが物語られているのです。
それはまさに神の創造の秩序が脅かされ、被造物全体が危機に瀕している今日の時代と、そこに生きる私たちにも警鐘を鳴らしているようであります。

5-6節で「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」とあります。
11節にも「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」とあります。

天地創造の主であられる神は、「地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ」、遂に7節において「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われるのです。

罪のない家畜や地を這うもの、鳥までも一掃するとおっしゃることに驚きますが。それは家畜はもとよりあらゆる被造物は、「ご自分に似せて造られた人」をとおして神の楽しみ、又喜びとなるのであって、人がいなければ虚しいことであると思いになられたのかも知れません。人にはわかりませんが、それほどまでに主なる神は人を愛してやまなかったから、そのようにおっしゃったのかとも思えます。

何よりもここで驚かされますのは、主なる神が「心を痛められた」という事であります。ご自身に逆らい敵対するような人間に対して激怒をもって臨まれても決しておかしくないのに、主は「心を深く痛められた」のです。
人の罪と悪のゆえに人間自身が苦悩し、被造物全体が苦しみ呻いている状況。それを主ご自身が自らのものとして感受なさり、お心を深く痛められる。それは主ご自身が慈愛なるお方であるゆえです。

今も、平和が損なわれた状況によって尊いいのちや生活が奪われています。医療や食糧を必要としている人たち、思想信条の自由や人権が奪われてる人たちはじめ、神ならざるもがあがめ格差が拡大し、多くの人が日毎生きるのに苦しんでいます。神ならざるものをあがめ、経済的利益ばかりを優先し追い求めていった結果、地球の温暖化は進み、異常気象が地球を襲い、世界のいたるところで豪雨災害・山火事・サイクロンによる災害が絶えず起こり、山も海もあらゆる生きものも痛み、叫びをあげている現状があります。

しかし、この聖書が語る「洪水の出来事」において最も大きな痛み、苦しみを担うのは、植物でも動物でも、人間でもなく、主なる神御自身であられるのです。
神がご自身の似姿としてお造りになった「人」が神のもとから遠く離れ、罪のなすままに滅びの道につき進むことに深く心を痛めておられるのです。
それは、愛する我が子が迷い出たことに困惑する親の姿と重なります。あの放蕩息子の物語の父親の姿がそうでした。神の御手から離れ、欲するままに暴走する息子が、いつ帰ってくるかと日毎戸口で待っていた父の姿。その愛するがゆえの心痛、苦悩。この「洪水の予告」は単なる罰とかいうことではなく、このようなお心の苦しみ中からしぼり出されるような主の決断であったのです。

7節「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。」
このお言葉を前に私たち人間はただ絶望に終わるしかありません。
しかし、まさに聖書はそこに「主の好意を得る」唯一人の人ノアを登場させるのです。

彼については5章29節に「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の労苦を、この子は慰めてくれるであろう」と、言ってノア:「慰め」、と名付けられたと記されています。が、彼がどのような生活を送っていたかなどは何も書かれていません。
ただここで注目すべきことは、人の罪と悪がはびこり、滅びの危機に向かう地上の只中にあって、ノアだけは「主の好意を得た」ということであります。ノアの存在は、人に失望された神の慰めであったのです。
このノアが「主の好意を得た」と訳されているヘブライ語ですが。直訳すると「ノアは主の御目の中に恵みを見つけた」となっています。
主の御目に恵みを見出す人は幸いです。その人はカインのように顔を伏せることはありません。あるのは平安であって裁きではないからです。そこに神と人とのいのちの交わりがあったからでありましょう。

ノアについてこうも記されています。
「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」
この無垢とは、人間的にまっすぐで実直なという意味にもとれますが、口語訳では「正しい」と訳されています。それは先に申しましたように、神の恵みを知る者としてノアは神と心を通わし合い、神に従う正しさが備わった人であったということです。
さらに大事なこととして、ノアは「神と共に歩んだ」人であったということです。
ノアは神の喜びを自らの喜びとし、神の憂いを自らの憂いとして歩んだ人であったのです。人間が罪と悪の力に翻弄されていく姿に心痛められる主なる神。その痛みにノアもまた心痛め神に従い行くのです。彼は神の慰めであり、彼もまた神から慰めをいっぱい受け、その時代の中で主と共に歩んだのであります。

主である私たちの神は罪深い私たち人間が滅びゆく危機にあって心を痛め、ノアに生き延びるようにと箱舟を造るよう示し、新しい契約を立て、救いを約束して下さいました。ノアは22節にあるように、「すべて神が命じられた言葉に従い、そのとおりに果たした」のです。それはいのちをつなぐ使命でした。

今私たちは箱舟に優る救いとその罪をあがなうために、実に神の御独り子なる主イエス・キリストを賜ったのです。
そのイエス・キリストの十字架のみ業により成し遂げられた新しい契約に生かされているのです。
主イエスは十字架上でこうとりなし、祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
それはまさに、父なる神の嘆きとその慈愛を共にする叫びでありました。今日私どもは、このすべて神が命じられたとおりに果たしたお方によって生かされ、救われているのです。
ノアのように、主イエスのみ姿に倣う者としていただきましょう。いかなる時代にありましても主に従い、主のきよさに正され、主と共に歩む人生を歩み通してまいりましょう。
ノアのようにたとえ一人であったとしても、主の御目のうちに恵みを見つけて生き続ける者でありたいと願うものであります。今週もこのところからそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。
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2023/8/20 主日礼拝式 おしらせ

2023-08-17 09:19:04 | 教会案内

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カインの罪が示すもの

2023-08-13 13:33:12 | メッセージ
礼拝宣教   創世記4章1-16節 平和

今週15日は敗戦78年目を迎えます。戦争によって尊い命が奪われ、又奪っていった惨禍と過ちが二度と繰り返されませんように祈ります。キリストは「平和を実現する人びとは幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。人と人、国々も又、和解を経て真の平和が実現されるには、この世界とすべてをお造りになられた創造主、いのちの源なる方への畏敬がなければならない。そうでなければ、偽りの平和、力に依存し、寄りかかり軽薄でぜい弱な関係性しか望めません。主を畏れ敬い、悔い改めをもって真の平和を祈り、希求する日本、全世界となりますよう共に主に願い求めてまいりましょう。

今日は創世記4章の「カインとアベル」の記事からみ言葉を聞いていきたいと思います。
先週はアダムとエバが主のお言葉に反して罪を知る者となったため、彼らはエデンの園から出て行かなければならなくなります。しかし、主なる神の慈愛、憐みのもと、ここから人類の文明や歴史は始まっていくのです。
まず、この4章においてエバは最初の子、カインを産みます。そしてさらに第二子のアベルを産みます。
アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となり、ある日それぞれ主なる神のもとに献げ物を持って来るのです。
カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来ます。ところが、「主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」というのです。

その理由について何も記されていませんので、定かではありませんが。
ただここに、「アベルは羊の群れの中から肥えた初子をもって来た」とありますから、アベルが羊の群れの中から、どれが神に喜ばれるものとして最善だろうかと考えた上で、身つきのよい初子の羊を選び持っていったことは伝わってきます。主がその小羊をご覧になられた時、アベルとその真心をお察しになり、喜ばれたように思えます。

一方のカインは、主が自分の献げ物に目を留められなかったことに対して、「激しく怒って顔を伏せ」ました。カインの心は炎のように燃え上がります。それは主に対する憤怒の炎でした。

そこで、主はカインに言われます。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せしており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインは顔を上げられません。
そうですね。良心に責められることがないのなら顔を上げていられるはずです。「正しい」というのは神の前にやましいことがないということです。「正しくない」というのは神に責めを負うべき思いがあるということです。
土を耕す労苦から神への不満が募っていたのか、それはわかりませんが。確かなのは、カインが真心から主に献げていたなら主への感謝があったでしょう。カインはそれを忘れ、主に対して激しく怒りを燃やしたのです。
またそこには、弟アベルに対する強烈な嫉妬心が生じました。カインの心の内に、自分は長子であるのにあいつよりおれの方が上なのにという思いあがった感情が働いたとも考えられます。カインも、「良かったな」とアベルを祝福してあげることができれば、ほんとうに幸いであったのでしょうが、そうはいきませんでした。そういった思いは私たちの内にもあるのではないでしょうか。

主はカインに、「正しくないなら罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」と告げられます。主はカインの心をすべてお見通しになられた上で、激情に駆られ暴走しないようにいさめられるのです。それは又、妬みや憎しみといった負の感情から解放され、立ち返って生きる機会をお与えになっておられるのです。
しかし、カインはその主の忠告を聞き入れることなく、「弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」と、取り返しのつかない恐ろしい罪を犯してしまうのです。聖書で最初の殺害が兄弟殺しであったということです。

旧約聖書の中で知られる兄弟の関係性について記した記事は、いくつかあります。例えばヤコブとエサウの物語。ヤコブはエサウから祝福を騙し取りエサウは怒りと妬みでヤコブを殺そうとします。又サムエル記にはアムノンとアブサロムという兄弟がおり、ここでは弟アブサロムが兄アムノンに復讐し殺害します。
新約聖書にも、兄弟と神との間にある問題を取り扱った放蕩息子の話があります。兄はカインのような形で弟を殺害していませんが、彼は殺人者と同じ状態でした。弟が家に帰って来た時、兄は妬みに燃え家に入ろうとはしませんでした。この兄に罪が待ち受けていたのです。兄は弟との関係だけでなく、見えざるところで実は父との関係が損なわれていたのです。まあこのように聖書の記事から見えてきますことは、神との関係性、そして人との関係性。その祝福であるはずの関係性が、妬みや恨み、不平や不満、その感情の暴走によって破壊的結果をもたらしたということです。
カインによるアベルへの恐ろしい暴力と排除は殺人にまで至ります。この人間のもつ嫉みや恨みが暴力や排除となって実に主イエスを十字架にかけ、殺したというおぞまし罪を思うのでありますが。
ここで主はカインに対して、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と問われます。主はカインに、「兄弟」としての関係性を問いかけられたのでした。それに対してカインは、「知りません」と主に嘘をつき、「わたしは弟の番人でしょうか」と、その兄弟の関係性を否定し、排除したのです。それは神との関係性を拒むものでもあったのです。

主なる神はカインの犯した罪に対するさばきの宣告をします。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
神はすべてをご存じであられ、犠牲となった者の血の叫びをお聴きになられるのです。カインは神が厳格な裁きの座についておられることを知ります。彼は恐れおののきながら自分の犯した過ちの大きさに気づき、次のように言います。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
カインは確かに自らの過ちに気づきますが、罪を認め、悔い改めたというのではありません。
ただ、自分の犯した行為の結果について恐怖と不安をおぼえ、動転しているのです。そうして彼は、「わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となる事への恐れを口にするのです。
これに対して主は意外な事を仰せになります。「いや、それゆえカインを殺す者はだれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
カインがこの後地上をさまよう者となる、という宣告については撤回なさいません。主なる神は全き方であり、ご自身の聖なることをごまかすことなどありえません。神の義は不変であります。厳然として今日も変わることはありません。
しかしそうでありながら主は、その深く寛大な愛と慈しみゆたかなお方であられます。それは、詩編に「神は悪人の上にも日を昇らせるお方」と謳われているように、その憐みによって「ああ、わたしの罪は重すぎて負いきれません」と叫ぶほかなかったカインのいのちを保護なさるのです。
日本では未だに死刑制度がありますが。心底悔い改めても刑が執行されることがあるわけですが。弟殺しの大罪を犯したこのカインのいのちですらも、人手にかかることをお許しにならないほど、主であられる神の慈愛は深いのです。

主なる神はカインに出会う者がだれも彼を打ち殺すことのないように、カインに「しるし」を付けられます。そのしるしとはどんなものであったのでしょうか?
そのことについては何も書かれいませんが。確かなことは、彼に出会う者が、だれも彼を打ち殺すようにすることがないためのしるしであったという事です。聖書には主は「復讐はわたしがすることである。復讐するは我にあり」と、記されている箇所がありますが。真のさばきは、人にではなく神にあるのです。

カインは主の付けられたそのしるしを確認する時、自分の罪を深く思い起こしたことでしょう。そしてそのしるしによって今を生かされ、守られている主の憐みをおぼえ、さすらいの地にあって慰めと力を得ることができたでしょう。
それはまた、この出来事を伝え聞き、そのしるしを目にする人が、神の厳格なさばきとともに、慈愛と救いを深く思い起こすしるしとなったのではないでしょうか。
この神の義と愛は今やキリストによって明らかにされました。私どもにとりまして、自らの罪と主のみ救いを身におびるしるしとは、それは、まぎれもなく主イエスの十字架であります。

私ども人間はみなカインのような性質があります。人との関係の中で優劣を付けてはかり、ある時は高ぶり、ある時は卑下して落ち込み、妬み、さげすむ。そんな罪の縄目からなかなか自由になれず、自分を、又、人を傷つけ、主のみ前に顔を上げることができなくなってしまうような者であります。
でありながら、キリストの十字架のしるしを見上げる時、神の救いが迫って来るのです。神の義と救いの十字架から流れる贖いの血汐により、真心からの悔い改めを呼び覚まされ、お前に立ち得る者とされるのであります。

4章の最後ところに、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」と記されています。この時代とは、カインとアベルに代わって与えられたセトの子、エノシュの時代ですが。時を同じくして、カインの子孫たちに家畜を飼うもの、すなわちそれは「ささげもの」に。琴や笛、それは「賛美」に。青銅や鉄の道具、それは「聖具」として、それぞれ主の御名を呼び求める礼拝が暗示されているように、そうした人々が興されて起こっていったということであります。
主の前にうつむいて顔を伏せていたカインにしるしが付けられた後、うつむいた顔を上げて、「主の御名を呼び求める」人たちがまことに賛美されるべきお方を仰ぎ見ていく新しい希望の歩みが細々ではありますが、始まっていくのです。
私たちも又、すべて、主の御名を呼び求める者に、御顔を向けて下さる、その主なる神の救い、キリストの十字架のしるしに生かされてる感謝と喜びにあって、共に礼拝を捧げてまいりましょう。
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2023/8/13 主日礼拝式 おしらせ

2023-08-09 13:16:23 | 教会案内

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主なる神の顔を避けて

2023-08-06 13:26:48 | メッセージ
礼拝宣教 創世記3章1~24節 

先週は2章のエデンの園において、「園のすべての木からとって食べなさい。ただし、善悪の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と主なる神は人に言われました。神のかたちに似せて造られたアダムと女は、罪を知らず、平和に日々を送っていました。
しかしある時、最も狡猾な動物であった蛇が女を罪に誘うのです。
この蛇とは一体何ものか?と話題にのぼることがあります。
「サタン」や「その手先」ではないかと思う方もいらっしゃるかも知れませんが。そのようなことは一切記されていません。ただ興味深いのは蛇が人に語りかけていることです。聖書の中で動物が人と言葉を交わすという記事は、この創世記の「蛇」と、民数記の「ろば」の記事のみです。擬人化して物語っているということでありましょうが。
蛇は始めに、神のことを語り、いかにも敬虔そうな装いをもって訪れるのです。
そして蛇は、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」そのように巧妙に神の言葉を否定して誘ってくるのです。

女はそのような蛇の言葉に対して、躍起になって答えます。「わたしたちは園のどの木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実(善悪の知識の木の実)だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」

それに対して蛇は女にこう言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け。神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
この、不死を手に入れ、神のようになれるという甘い誘いを聞き「その木はいかにもおいしそうで、見た目に賢くなるように思えた」女は、実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた、というのであります。
「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と問いかけられるのですが。それに対してアダムはこう答えます。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」自分が悪かったという反省ではなく、女が勧めたのでと弁解をし、女に責任を転嫁するのです。そして女も同様に13節「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをするのです。

いけない事をした、申し訳ないことをした、とわかっているけど、痛い思いをするのでは、と心配や不安、恐れが先に立って過ちを認めることから逃れようとする、謝れない。そういうことは教えもしないのに幼ないこどもにさえも人の心に起こってきます。
さらには、素直に犯した過ちや失敗を認めるのは損をする、愚かなことだ、とするような風潮が当然のように現代の社会にあるように思います。何とか傷つかないでいよう、自分を守ろうとする思いや自己を正当化しようとする感情が知恵を得、善悪を知るものとなった人に湧き起こってきたのです。聖書はあらゆる罪の根底に何があるのかをあぶり出していきます。
アダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が・・云々」と弁明しながら、そもそもの原因は「神さまあなたにある」と言い訳しているのです。
神と人との信頼関係が損なわれると、人と人の関係も損なわれ、人は本来与えられた祝福を見失ってしまうのです。アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。女はその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーなのです。それが逆に裁き合い、責任をなすり合うのなら本来の祝福は遠ざかってしまいます。
人は自分の心と向き合う時を持たなければ、絶えず周りや人を、神さまでも自分に都合のよいものにして生きてゆこうとします。賢く立ち回り人のせいにしたり、自分は正しいと人や自分に言い聞かせまでも自分を守ろうとする弱き存在。それが人であるとも言えるでしょう。
このところから、私たちも又、どんな時も神の祝福を見失うことない者でありたいものです。

ところで、この蛇の誘惑の企てとは何であったのでしょう。それは、神と人との特別な恵みの関係を妬み、その仲を引き裂こうとする働きであったのです。
1節に「神が造られた野の生き物のうちで最も賢いのは蛇であった」とありますが。それが高慢となり、神と人との関係を妬むのです。
人が善悪の知識の木の実を食べる前のエデンの園は、神の造りたもう調和の中で完全な守りに満ちていた事でしょう。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きることのできる平和な世界があったのです。
又、男も女も裸であったが、「二人とも恥ずかしがりはしなかった」とあります。
この時には、互いに後ろめたいこともなく、隠すようなこともなければ、負い目もない。罪は認識されませんから神との関係性も平安そのものでした。人はそこで何でも神に願い、求め、たえず全て与えられる恵みを享受していたのです。
ところが、この3章において、その神とのいのちのつながり、その関係性が損なわれていくのです。神によるあるがままの喜びと平安が自我の欲望、エゴによって損われ、後ろめたさや恥ずかしさにより、神の呼びかけから身を隠そうとするのです。

彼らが善悪の知識の木の実を食べると、「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」と、記されていますが。
「恥ずかしい」という意味はいくつかあるでしょう。「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して恥ずかしくなる」。他にも自分の弱さを意識した時、失敗した時も、恥ずかしくなるのですが。人の心のうちにそのような感情が起こってきたということであります。言うならば自分の心のうちに自我に目覚める自覚が生じ、とても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、いちじくの葉なんかで、とりつくろい、隠すほかなかったのです。

8節には、「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた」と記されています。
「主なる神の顔を避けて。」これこそ、神との関係性が崩れた状態。聖書が言う「罪」です。
聖書で罪をハマルティアと言いますが。それは神に対して的外れのところにいる、という意味です。ここでアダムと女が、主なる神のみ顔を真っ直ぐに見ることができなかった。そのように罪によって人は自らを隠そうと神のみ顔を避ける者となってしまうのです。そうして神との麗しい関係が歪んだものになってしまった時、彼らはもはや神の信頼を失ってしまいます。
そうして主なる神さまはアダムと女を、エデンの園から追い出されるのです。エデンの園ではどの来からも取って食べることが出来ましたが、もはや生涯、食べ物を得ようと苦しまなければなりません。又、産みの苦しみ、人と人との関係性の難しさ、生きるための苦労が生じ、やがて土に返る者となるのです。すべては、「決して食べるな」と神が言われた木の実を食べてしまったために起こりました。
人は「手をつけずに食べない」という自由な意志が与えていたのです。神さまは私たち人間を神の言うなりのロボットのように造られたのではありません。ただそこで、何をどう選び取るかが問われるのです。
今私たちはソーシャルメディアというものが急速に普及していて、猫もしゃくしもそれを使っているわけですが。しかし、その使い方は千差万別で、それを手にする人が何を見て、どう使っていくかは、その人の自由意志に委ねられています。まあその中で親は子供に注意し、フィルタリング機能をかけて、危険なサイトに行かないように気を配るわけです。又、人を誹謗中傷する書き込みはしないように勧告がなされていますが。しかしそういうのではなかなか難しく、結局は使う人の自由意志に委ねられている状態です。この日本では多くの事柄が自由意志に委ねられています。それはとても大切で幸いなことであります。その一方で「何を選び取っていくのか」が、私たちは常に問われています。
人がその与えられた自由を、私利私欲のために乱用するなら地は呪われるものとなるでしょう。それは寓話に過ぎないとは決していえない現実が、今日の私たちの世界にも数知れず拡がっています。
この社会において、又、あらゆる対人関係においても、罪と滅びの法則が働いています。人があたかも神のように尊大に振舞い、造り主である方のお心を思わず的外れに生きるなら、そこには真の平安はなく、労苦の果てに滅びて土に帰っていく虚しさしか残りません。
私たちは与えられた自由の中で、何をどのように選び取り、どう用いていくのか。神さまは今日も私たち人間一人ひとりに問うておられるのです。

では、何を基準に選び取っていくか、どのように選び、如何に生きたらよいのでしょうか。
まさしくそのためにこそ、この世界に聖書が与えられているのです。人の思いに優る神の言葉に聴き、祈り、従って生きるとき、神は平安を与えてくださいます。私たちは真の平安を喜ぶために、又それを他者と分かち合っていくようにと招かれているのです。

最後に、本日の20節には「アダムは女をエバ、命と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と記されています。
アダムは神に「塵にすぎないお前は塵に返る。」つまり死ぬべき者にすぎない、と告げられたにも拘わらず、妻である女に、「命」エバと名付けたというのであります。
なぜでしょう?
アダムは生きる希望を見出したかったのかも知れません。そして、その様子をご覧になっておられた主なる神さまは、「アダムとエバに皮の衣を作って着せられた」というのですね。これからエデンの園から離れ過酷な地において生きていかねばならない彼らのために、主なる神さま自ら皮の衣を作り、それを二人に着せらせるのです。

背信の罪を犯し自らを恥じる彼ら。善悪を知って、いちじくの葉で裸を隠し、主なる神の顔を避ける彼らに、自ら作った皮の衣で包んでくださる神さまの愛といつくしみ。それは今や、主イエス・キリストにより新約聖書の時代に生きる私たちにさらに明確に示されました。これこそが、神に対して的外れな人生、犯し続けた罪を悔いる者の、その弱さと恥を覆う救いの衣。、イエス・キリストのあがないによる救の衣を着せ、罪を覆ってくださる主なる神さまの愛なのであります。

アダムとエバが神に対して犯した罪は消えるものではありません。しかし、主なる神はその彼らを憐みといつくしみをもって人の弱さやもろさを包み込むようにして彼らをエデンの園から送り出されるのであります。創造主なる神さまの義と愛。新約の時代に生かされる私たちは、ここに救いの十字架を見るものであります。罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちすべてです。その私たちに主なる神さまは、今や、イエス・キリストを通して「命の衣」を着せてくださいました。
イザヤ書61章10節「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」
アーメンです。
罪あるもの、足らざるもの、欠け多きものを、御前に立ち返って生きるものとしてくださる主。今日も罪を贖う義と愛の衣、主イエスの十字架の義と愛による贖いをもって、神と人、人と人との関係回復へとすべての人が招かれています
この愛に応えて生きる私たちでありたいと切に願うものです。今日のいのちのみ言葉をもって、今週もそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
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2023/8/6 主日礼拝式 おしらせ

2023-08-05 08:08:59 | 教会案内

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