日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

今求められていること

2012-07-29 15:41:39 | メッセージ
奨励 エフェソ4章1節b~3節 

神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。

①H姉召天の知らせを受けて
先週土曜日の朝、入院先の病院にてH姉が天に召されました。これまで姉妹のために主に執り成し、お祈りくださった兄弟姉妹、又お見舞い下さった兄弟姉妹に心より感謝申しあげます。
あまりに突然の訃報に、そしてさらにご家族のみで早々に日曜日に葬儀が執り行われたということを知り、そのことが残念でなりませんでした。せめて天に召されたというご家族からの連絡くらいは戴きたかったというのが正直な思いです。できることがもっとあったのではないのか。ご家族や病院とのコンタクトの取り方、H姉ご本人の思いをもっと知る方法があったのではなかったかなど、いろんな思いがこみ上げてきました。しかし、実際病院や家族との接触は親族でない立場の者には立ち入ることが許されないことも多くありました。
毎週訪問の際、教会の週報と宣教メッセージをお届けしていたので、郵便物やそれらの教会関係のものも整理されていたお姉さまが、入院中に教会のことや訪ねて来られた方があったことをご存じであったように思います。そういうかたちでこちらからの発信は許される限りしていたのですが、残念ながら反応はなく、最後まで何の連絡も頂くことはありませんでした。又、H姉ご本人も、様々なご事情がおありだったのかは分かりませんが、最期までご自分の病状やご家族について何も話されることはありませんでした。ほんとうに今となっては悔やまれますが、しかし、これはもう私のなす領域云々ということではなく、主がすべてをご存じであられる主の御手のうちに委ねていこう、という思いにされました。いろいろありますが、H姉との出会いと、共に過ごした時間は主が与えて下さった恵みであることに違いありません。姉が残してゆかれたぶどうやオリーブの木が今日も生き生きと緑の葉を茂らせております。その暖かな笑顔、見返りを求めない奉仕の姿は、これからも私たちの胸の中にあって忘れることはないでしょう。

②「招きにふさわしく歩む」
このことを通してもう一つ思わされたことですが。私たちは週に一度しかないこの礼拝の場に集い、それも二度と繰り返されない一度限りの時を共有していますが、それがどれほど尊いものであるかということであります。主イエスによって救われた私たち一人ひとりでありますが、こうして共に集うなか主の家族とされて、喜びも悲しみも分かち合い、祈り執り成し合う恵みを戴いている。人はひとりで信仰を守り通すことはできません。主イエスが「神の国は実にあなた方の間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われたとおり、それは私たちの出会いと関わりの中に築かれるからです。一期一会の主と兄弟姉妹との交わりを大切にしていきたいものであります。
先日発行された60周年記念誌の中に、座談会において話された記事を読み返しました。
その中で、「今後の大阪教会のあり方は、教会員同士の助け合い、自分が孤独でないことを意識させ支えていく。安心して来られる教会のあり方」という言葉に改めて心が留まりました。ほんとうにそうですね。信仰は神さまと私との個人的な関係であるものですけれども、しかしその神さまが私たちを招かれたのは、私たちがその神さまの招きにふさわしく歩んでいく点にあるのです。ただ神さまの恵みを受けるだけではなく、神さまの恵みを如何に用い、柔和と寛容の心をもって互いがつながり合い、豊かにされていく、それがやがて訪れる神の国の交わりの具体的備えとなるのです。
 
ヘブライ10章23節~25節にこのように書かれています。
「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望(信仰告白)を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
この御言葉の奨めに倣い、「主の招きにふさわしく歩む」者とされてまいりましょう。

③「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
さて、7月20日に宣教開始60周年記念誌が遂に出来あがり、教会員、客員、お祝いの言葉を寄せて下さった先生方、また関西連合諸教会に、贈呈させて戴きました。みなさまのうちにも親しい方へ贈呈された方、これから贈られるという方もおられるでしょう。すでに何人かの方がたから、お礼の言葉を戴きましたが。いよいよこれからが大事と申しますか、大阪教会が主にあって一つとされ、主の御からだなる教会として立てあげられていく、という主の事業が具体的に始まります。いやそのあゆみはすでに始まっているのですね。来年のクリスマスは新会堂でクリスマス礼拝が迎えられることを私は確信し、祈っていますけれども。
会堂建築についても、教会がキリストのからだとして立てあげられていくということについてもそうですが。その歩みにおいて求められていることは、まさに「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」という今日の御言葉にあります。
人間的な思いで一致を図ろうとするなら、真の会堂建築にはなりませんし、教会を立てあげられることはできません。私たちはそれぞれに性格や考え方も、物の見方も違います。人間の社会は、自分の考え方や思いが同じ相手となら心を開き、グループを作ります。反対に自分の考え方や思いと異なる相手とは、うまく心が打ち解け合えず、心閉ざしてしまいます。しかし教会は、そうであってはならないのです。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」群だからです。

聖書は私たちに、「霊による一致」は受け身で与えられるものではなく、主体的に「霊の一致を保つように努めなさい」と勧めています。この霊というのは、十字架のキリストを指しております。私ども人間の罪を贖うために、へりくだった者、仕える者」として来られ、血を流し、肉を裂く。その犠牲を払って和解の道を拓いてくださった愛なるキリストであります。そのキリストから溢れ出る平和のきずなに、私たち一人ひとりがしっかりと結ばれてこそ、霊の一致を保つよう努める事ができるのです。キリストの平和と平安が私たちの隅々に行き渡り、又世界に溢れ出ていくよう努めてまいりましょう。
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ダビデの罪と神の憐れみ

2012-07-22 21:04:05 | メッセージ
宣教 サムエル記下12章1節~23節 

本日はサムエル記下12章より「神の慈しみとダビデの罪」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。聖書教育では15節前半迄となっておりましたが、物語としてはまだ続いており15節で切ると中途半端に終わりますので、23節迄読むことにいたしました。

①「預言者ナタンのたとえ話」
主はダビデのもとに預言者ナタンを遣わしました。
ナタンは「ある町に二人の男がいました。一人は裕福で、一人は貧しかった。裕福な男は多くの羊や牛を持っていたが、貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていませんでした。貧しい男はその小羊を自分の娘のように養い育て大切にしていました。ある日、裕福な男のところにお客が訪れました。男は客人をもてなすのに、自分の羊や牛を出してもてなすのを惜しみ、貧しい男の持っていた小羊を取り上げて、自分の客に振る舞った」というたとえ話をいたします。

②「ダビデの罪」
これを聞いたダビデは、そのたとえ話に出て来る男に激怒し、ナタンに「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」と言い放ちます。

そこでナタンはダビデに向かって神の言葉を伝えます。
「その男はあなただ。(中略)不足なら何であれ加えたであろうに。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣にかけて殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」

ナタンを通してダビデのなした罪(11章に記載されています)が露わにされます。
「そんなことをした男は死罪だ」という激しい糾弾の言葉は、そのままダビデ自身に跳ね返ってくることになるのです。

ダビデはナタンが自分のもとに来るまで、それほど大きな罪を犯したかということを全く自覚していなかったのです。しかし善悪が分からなかったわけではなく、ナタンのたとえ話に激怒したように、他人の間違いや誤りに対しては過敏なほど厳しく裁こうとするのであります。ダビデはこの時、地位や権力、潤沢な財産を有し、まあそれを自分の思うままに用いることも許されておりました。それがゆえに傲慢な者となり、誘惑の罠に自らかかり、大罪を犯すこととなったのであります。9節にあるように、神は「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」と憂いておられますが。罪に対して無感覚となり、鈍感になっていったのであります。

イエスさまは新約聖書の中で次のようにおっしゃっています。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(中略)まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ福音書7章)
自分の行なっている大きな過ちに気がつかず、人の過ちを激しく責めたて、裁く。この時のダビデの姿は決して人ごととは言えないでしょう。神を畏れ敬う人は、イエスさまがおっしゃっているとおり、まず自分の立ち位置をしっかりと主によって確認させられていく、主に立ち返ることが大切であります。そこを起点として他者へと関わっていく術を得ることができるのではないでしょうか。

③「罪の告白」
さて、ダビデは神の大いなる慈しみのもとにおかれていながら、自分が如何に身勝手で重大な罪を犯したかを思い知って、「わたしは主に罪を犯した」と告白します。この時のダビデの心境については、詩編32編、又先程交読いたしました詩編51編に書き綴られております。そこを読みますと、自らが犯した罪を悔い、咎からのきよめと再び神の御前に受け入れられることを切望するダビデの姿があります。
主の深い大きな慈しみが注がれ続けているのにも拘わらず、その主を裏切り、大罪を犯したどうしようもない自分に気づいた時、彼は心の底から主に罪を告白しました。権力も財産も欲しいものは何でも手にしたダビデでしたが、主に立ち返ることにこそ、真の心の安らぎがあるということを、思い知らされるのであります。

④「主があなたの罪を取り除かれる」
ナタンは主に立ち返ったダビデに言います。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」「主があなたの罪を取り除かれる」と宣言されたこと、それはダビデにとってどれ程の救いであったことでしょう。
けれどもその後に続くのは、主の厳粛な裁きでありました。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」
確かに、ダビデの犯した罪は大罪であります。地位と権力を利用して忠実な部下の妻を奪い、それを隠すためにその部下を戦場の最前線に送って剣でもって戦死させたのです。
その罪に応じた裁きが与えられなければなりませんでした。地位を利用してウリヤを剣で他国人に殺させた行為は、そのままダビデの家から流血の争いが絶えないという形で返ってきます。また、後に預言通り、ダビデの妻たちはダビデから取り上げられてしまうのであります。ダビデはウリヤの死後、彼の妻を王宮に引き取り、妻とし、第一子の男の子を与えられるのでありますが、「生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」とのナタンの預言どおり、その妻の産んだダビデの子は主に打たれ、死んでしまうのです。
 ここには、ダビデの犯した罪に対しては、それに応じた厳粛な神の裁きが行なわれたということが示されています。しかし当の本人であるダビデは死の罰を免れているのですね。
祈祷会の聖書の学びの時に数人の方から、ダビデの罪と全くといって関係のない、彼の子どもの命がダビデの罪のために死んでしまわなければならなかった。「これは理不尽であり、不条理そのものだ」という率直なご意見が出されました。あまりにダビデにえこひいきしすぎで、虫のよい話じゃないか、とですね。エゼキエル書には、「親のなした罪の罰は子孫にまで及ぶことはない。罪を犯した罰はその個々人が負っていかなければならない」と記されてあります。そう考えますと、ダビデの犯した罪の裁きがダビデではなく、子孫に及び、殊にその子どもが死ななければならなかったという事については、人間の心情としては疑問といいますか、不可解というほかない問いであります。
しかし実は、ここに本日の聖書の聖書たる神の言葉なるメッセージが啓示されているのであります。

ここで視点を少し変えて見たいと思うのですが。
このダビデとは何ものでしょうか。確かに、彼はたぐいまれな人物であったでしょう。また地位や権力をもち、あらゆるものを所有した王でありました。が、彼もまた一人の人間でありました。ダビデも人の子でした。
彼は自分の子どもが弱り、亡くなっていくその傍らで、親としてどれほど自分の犯した罪の重たさに打ちひしがれたことでしょう。妻の苦しむ姿も彼には忍びなかったに違いありません。この子は自分の犯した罪のために苦しんで死ななければならないというその罪責にあえぎながら、何とか助かって欲しいと必死に願い、祈り、断食し引きこもりずっと地面に横たわったまま夜を過ごしたというのですね。しかしその思いは叶わず、弱った息子は7日間で亡くなるのです。7日間は、ダビデが自分の底知れないその罪の重みをひしひしと感じる時であったのではないでしょうか。ダビデ自身が死ぬわけではなかったけれども、彼は生きながらにしてその自分の犯した罪の重さを痛切に思い知らされていったのではないでしょうか。
ところが、であります。
ダビデは「息子が亡くなった」との知らせを家臣から聞くと、「地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした」というのです。
家臣たちはこのダビデがひきこもり、断食して地面に横たわっていた時との変わりように驚いて、「どうしてこのようにふるまわれるのですか」とダビデに尋ねたといいます。
まあ、ダビデの様子を身近にしていた家臣たちにしてみれば、このダビデの変わりようは驚きであり、不思議でならなかったのでしょう。
それに対してダビデはこう答えています。23節「子が生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。」しかし今は死んだので、わたしはどうして断食しなければならないでしょうか。」

このダビデの言葉は、何だかとても合理的で薄情に聞こえます。けれども一方で私は何ともいさぎよいと申しますか、現実を受け止め、前に向かって歩み出そうとする姿にも映るのであります。私にはダビデにとって7日間という期間の断食と祈りの日々は、主との関係を立てなおし、回復されていくプロセスであったと、そのように思えるのです。自分の弱さ、ふがいなさ、そして罪深さをまざまざと思い知らされ、それに向き合わねばならない時というのは、本当に辛く苦しいものです。しかし、そのプロセスを経たからこそ、主との関係が立てなおされ、起き上がり、顔を上げて一歩を踏み出せる。そこに信仰者の真の強さがあるのではないでしょうか。

⑤「キリストの十字架」
最後に、私は今日12章15節以降の後半に記されてありますダビデの息子の死をして、聖書の重要なメッセージがあると、今回宣教の準備をしている中でそう示されました。
このダビデの罪を担うかたちで死んでいった息子のことについて、先にも申しましたように、それは人間的な心情としてはあまりに理不尽であり、不条理としかいえません。それが私たちの感情であり、率直な思いであります。

しかし、その理不尽さや不条理というものすべてを抱え込んで死なれたお方がおられます。それは今から2000年前、ゴルゴダの丘の上において十字架刑に処せられて死なれたイエス・キリストであります。
ダビデの罪の為に生れたばかりの罪もない子が死ななければならなかった。キリストは計り知れない人類の罪、私たちすべての人間の罪のために苦しまれ、十字架におかかりになり、罪の贖いを成し遂げられたのです。13節、その「主があなたの罪を取り除かれた。」それはどんなに尊い救いの御言葉でしょうか。この御言葉は、ダビデだけでなく、キリストを通して今やすべての人々に対して語られているのであります。
ダビデが苦悩した7日の後、地面から起きて、神の前にある自らの人生を再び力強く歩み出したように、私たちもまた、主と顔と顔とを合わせ、相見えるその日まで、神の憐れみによって贖われた者としての歩みをなしてまいりましょう。
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ヨナタンとの約束

2012-07-15 16:25:39 | メッセージ
宣教 サムエル記下9章1節~13節 

①「ヨナタンとの約束」
本日はサムエル記下9章より「ヨナタンとの約束」と題し、御言葉を聞いていきます。
サウル王の死後、その息子イシュボシェトがその後を継ぐべく北イスラエル王として頭角を現わします。一方ダビデも南ユダの王となり、イシュボシェトとダビデの両者は戦いを交えることとなります。結果、ダビデがその勝利を収め、北イスラエルと南ユダの全部族を統一し統治する王となるのであります。
この当時は、前王朝の血族を皆殺しにして完全に一族の家系を絶ってしまうという慣習があったそうです。ダビデが王位につくと恐らくサウル家についてもほぼ断絶の状態になっていたのでしょう。
そこで本日の箇所でありますが。「サウル家の者がまだ生き残っているならば、ヨナタンのために、その者に忠実を尽くしたい」「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたい」と口にします。まあどうしてもうほぼサウル家が断絶の状態になってから、そんなことを言い出したのかとも思いますが。王位をめぐる争いの中でも、おそらくダビデの胸中にはかつて主に誓ったヨナタンと約束が絶えずひっかかっていたのでありましょう。ダビデにとってそれは、主の前に必ず果たさねばならない約束であったのです。
かつてダビデはサウル王から命を狙われていた時、王の息子ヨナタンによって命拾いをしたのでした。その時ヨナタンは、「わたしにまだ命があっても、死んでいても、あなたは主に誓ったようにわたしに慈しみを示し、また、主がダビデの敵をことごとく地の面から絶たれたときにも、あなたの慈しみをわたしの家からとこしえに絶たないでほしい」(サムエル記上20:14-15)という約束をダビデと取り交わしたのでした。つまりそれは、ダビデが如何に力を持った時にも、ヨナタンの家の親族のものに慈しみを示してほしい、ということでした。
ダビデは遅まきながらではあったかも知れませんが、このヨナタンとの約束、すなわち「主への誓いを忠実に果たそう」と願ったのであります。

②「神の愛と恵み」
さて、ダビデ王はサウル家に仕えていた執事ツィバから「ヨナタンの息子メフィボシュトという両足が不自由な者がいる」こと聞きます。このメフィボシェトについては、サムエル記下4章4節以下に、「その父ヨナタンが戦死した時5歳で、乳母が抱いて逃げる途中、慌てた際過って彼を落として両足が不自由になった」と記されてあります。それから数年は経った今は、「ヨルダンの東の地に住むマキルという富裕な地主の家にいる」ことを聞いたダビデ王は、人を遣わしてマキルの家から彼を連れて来させます。

ダビデ王は彼に会うや、「恐れることはない。あなたの父ヨナタンのために、わたしはあなたに忠実を尽くそう。父祖サウルの地所はすべて返す。あなたはいつもわたしの食卓で食事をするように」と言います。

メフィボシェトには、サウルの家の子孫として生き残った自分をダビデ王は殺そうとしているのか、という恐怖心が当然あったことでしょう。ところが、ダビデ王の口から出て来た言葉は、彼の予想もしなかったものでありました。
それはダビデ王にとっては、神への、そして親友ヨナタンへの忠実であり、メッシュボシェトにとっては、神の慈愛と救いでありました。かつて約束を交わしたヨナタン。「わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも主がとこしえにおられる」と誓ったヨナタンは、いつかこの日が訪れることを予見していたのでしょうか。ダビデはその主への誓いとして交わされたヨナタンとの約束を忘れることなく、その子らに果たしたのです。
神はいにしえの昔より、人は罪深く、その罪のゆえに滅ぶほかない者であることを知っておられました。そして人間が滅んでしまうことのないように救いのご計画を立てられ、預言者らを通して必ずや救いの日が訪れることをお約束なさったのであります。神の慈愛と恵みによるそのお約束は今から2000年前、神の独り子なるイエス・キリストが十字架におかかりになるという、人類の罪のあがなう御業を通して果たされました。いや、今も果たされ続けているのであります。

③「見出された魂」
滅びを免れたメフィボシェトはダビデ王に礼をしてこう言います。
「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然のわたしを顧みてくださるとは」。
自分は命が取られてもおかしくないような立場の者。そのような私を顧みてくださるとは。

敵は反逆を恐れ、すべて殲滅されるような時代であります。ダビデの計らいに対する彼の言葉は決して大袈裟なものではないでしょう。
聖歌の229番「アメージング・グレース」は次のように訳され、歌われています。
1番「.驚くばかりのめぐみなりき、この身のこがれをも知れるわれに」
私たち人間の罪は、全き義であられる神の御目からすれば、まさに滅びるほかないようなものであります。罪の大きい小さいはありません。神の御心すなわち、真理に背くすべての罪は死に価するものであります。その罪の身代わりとなって神の子が罰せられ、死に引き渡されねばならなかった。私たちはそのイエス・キリストの死によって神の御前に義とされ、今や新しい命に活かされているのであります。

先ほどの賛美歌の2番には、
「めぐみはわが身の恐れを消し、まかする心をおこさせたり」と歌われておりますが。
そこには、私たちに与えられたこの大きな救いと解放の業を受けとる時、私たちの中から、滅びの恐れは消え失せ、人生を主に委ねてゆくことの確かさを、それは又世にはない大きな平安を与えられるのであります。

④「神の国の食卓を目指して」
さて、ダビデ王はツィバに「サウルとその家の所有であったものはすべてお前の主人の子息に与えることにした。お前は主人の子息のために生計を立てよ。お前の主人の息子メフィボシェトは、いつもわたしの食卓で食事をすることになる」と命じ、ツィバは王の言うとおりにしたとあります。
クリスチャンとされた私どもも、その恵みに応答していく者、主の恵みに養われたり、養い合っていく者として招かれています。又、「メフィボシェトは王子の一人のように、ダビデの食卓で食事をした」とあります。今や、神の愛と御子イエスさまの十字架のみ業、聖霊の豊かなお導きによって、救われるに価しないような私どもの罪は赦され、救いに与る者とされました。そればかりか、私どもは神の国を受け継ぐ子とされ、来るべき時に王なるキリストと相見えるその時、主と共なる食卓に与る希望が与えられているのであります。それが主の約束の御言葉であります。今、地上にあって主の教会は、この私どもの大阪教会は、その神の国の到来と主と共なる食卓の交わりの時に備えての準備を、日々の歩みの中において忠実になしていくことが本当に大切なのであります。

私ども神さまの変わることのない慈しみと御救い、無限の愛を受けた者は、その恵みに応え、御言葉に従っていくことが求められております。教会に、又私どもと関わるすべての人びとに、主の愛と恵みが満ち溢れていくように、共に祈り、支え合っていくそういったキリストの群れとされていきたいと、心から願うものであります。世にはない神の国の交わりと平安が、ほんとうにこの教会の基として築かれていくように、努めてまいりたいものであります。

ダビデ王は、「その者に神に誓った忠実を尽くしたい」と言いました。ダビデの場合それはメフィボシェトでありました。わたしどもはこの礼拝をだれと共に捧げ、神さまから戴いた愛と恵みをだれと分かち合おうとしているでしょうか。神の国の食卓に、だれと共にあずかろうとしているでしょうか。会堂建築に向けた具体的な歩みが始まりました、それはまた神の国がこの大阪教会に反映されていくためのものであります。喜びと希望をもって、共に祈り、歩んでまいりましょう。
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主への正しい行いと忠実さ

2012-07-08 11:39:54 | メッセージ
宣教 サムエル記上26章

先週はダビデとヨナタンの関係性を通して、主が人の間に立ってくださるという「主にある」私たち人間の関係の大切さとその恵みを聞きました。
本日はサムエル記上26章より、ダビデとサウル王の関係を通して「主への正しい行いと忠実さ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

ダビデは主君サウルから命を狙われ逃亡者となります。
実はこの出来事以前の24章にも、本日の箇所と同じようにダビデはサウル王を討つ機会に遭遇します。洞窟に潜んでいたダビデと従者たちのもとに、サウル王が一人で用を足すために入ってくるのです。サウル王はダビデらに気がつきません。その時、ダビデはサウル王を討つことができたにも拘わらず、そっとその上着の端を切り取るだけで、王に手をかけることは致しません。ダビデは「わたしの主君であり、主が油注がれた方に、わたしが手をかけるのを主は決して許されない。彼は主が油注がれた方なのだ」と、兵を説得し、サウルを襲う事を許さなかった、とあります。サウル王はそのようなダビデの態度を通して、主への畏れをもってダビデに悔いる言葉を口にするのです。
しかし、すぐにサウル王は性懲りもなく、再びダビデの命を狙うのであります。そこでダビデら一行は荒野に逃げるのですが、サウル王がダビデを追って荒野に来た時、ダビデは宿営を偵察しに行き、幕営の中で深い眠りに落ちているサウル王を見つけるのです。
ダビデの部下アビシャイは、今こそサウルを討つ時とばかりに「槍の一突きでサウルを殺させてください」とダビデに言います。しかしここでもダビデは、「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」とアビシャイを制し、ダビデはただサウルの間近にまで来ていた証拠として、その枕元から「槍と水差し」を取って立ち去ったというのです。その後ダビデは、サウルの軍の長アブネルと会い、彼に「護衛を怠ったことを責め」ます。そのやり取りを聞いていたサウル王は、「自分の命を尊んでくれたダビデの思いを知り、自分の犯した過ちを認めた」というのです。

①「主が油注がれたもの」
今日の箇所で(24章もですが)心にとまりますのは、ダビデがサウル王に対して、「主が油注がれた方に手をかけるわけにはいかない」という一連の言葉であります。
ダビデは自分に危害を加え、命を奪おうとするようなサウル王に対して、「主が油注がれ方である、命を奪ってはならない」と、自らに、又その従者たちに繰り返し言い聞かせたのであります。ダビデは先にサウル王の命を奪うという機会があったのです。けれどもダビデは主への畏れから、自分をねたみ憎悪をもって命を狙うサウル王に対して、同様の憎しみや殺意でもって刃向い、対抗するようなことはしません。その行為を放棄し、主の裁きに任せるのであります。ダビデは、サウル王が油注がれた者として主に立ち返ることを願ったのであります。
ののしられても、ののしり返さず。自分に危害を及ぼすような者であるのに、寛大な心と態度で接し、すべてを主に委ねていく。私はその主の僕の姿を黙想する時、あの主イエスが十字架につけられ、処刑されていった聖書の場面が思い起こされました。福音書には主イエスと共に二人の犯罪人が十字架にかけられていたことが記されていますが。彼らは「イエスをののしった」と記されています。ルカ福音書には、その一人の犯罪人は主イエスをののしりますが、もう一人の犯罪人は、自分の犯した過ちを認め、主イエスの無罪性を訴えました。そして主イエスはそのように主張した犯罪人に向け、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、言われています。
ダビデはサウル王が主に油注がれた方であるがゆえに王を寛大に扱いました。イエスさまもここで自分の過ちを認めた犯罪人を祝福していますが、何よりも心に留めなければならないのは、イエスさまの十字架は、主に悔い改めた犯罪人だけでなく、「イエスさまをののしった者のためでもあった」ということであります。自分をののしり、嘲笑うような者のために、「父よ、彼らは何をしているかわからないのです、彼らをお許しください」と、とりなされた。それが主イエスの十字架であります。
主イエスは自ら立ち帰ることができない人間の罪さえもその身に負われ、十字架の苦難と死を引き受けられたのであります。主の、このただ一方的な介在によって、人は誰でも、如何なる罪人でも、神との交わりが回復される機会を得ているのであります。

ダビデはサウロに対して、「殺してはならない。主が油を注がれた方」だと、執り成しました。油注がれた者、選ばれた者こそが神の前に尊いとされた時代でありました。
しかし新約の時代に時至り、主イエスは十字架の犠牲の血でもって、贖われた尊いすべての命が、価値ある存在であることを自らお示になられました。
ヨハネ3章16節、「神はその御独り子をたもうほどに、世を愛された」。私ども一人ひとりの命は神の尊い犠牲によって保たれているのです。そういう視点からみれば、私たち一人ひとりの命が、十字架の御業を通して神の油注ぎを受けた存在といっても過言でないでしょう。そして先ほど申しましたように、その救いの道は万人に開かれているのであります。すべての人が、神の寛大な愛のうちに尊い命とされているのです。

話がちょと逸れますが、聖書教育7,8,9月号の本日の箇所についてのコラムに次のようなことが記されていました。
「命どう宝」は沖縄の言葉で、何をおいても命こそが大切である、という意味です。
2002年、101歳で召された阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんは、伊江島に反戦平和祈念館「ヌチドゥタカラの家」を建てられました。その資料館の正面の壁には「平和とは人間の生命を尊ぶことです」「すべて剣をとる者は剣にて滅ぶ(聖書)」「基地を持つ国は基地で亡び、核を持つ国は核で滅ぶ(歴史)」と書かれています。

ほんとうにそのとおりであると思います。この地上のすべての命は主なる神さまから受けたものであり、罪の滅びから贖いとられた尊い存在であります。その命を殺め、脅かすことは誰もゆるされていません。

先日、被災者補償を刑務所に拘留された者にも行う取り決めがなされたそうです。
ところがそれに対して一般市民から「税金で彼らは支えられているのに、そのうえ補償までもらうのはおかしい」という、反対の声が噴出したという記事を読みました。
たとえ拘留中の者であったとしても、その人も又、神の前にひとりの尊い命を保たれている存在であり、命に優劣がつけられたり、蔑ろにされる命などないと、主の十字架は私たちに訴えているのであります。

②「主への正しい行いと忠実さ」に従う道。
本日の箇所でもう一つ心に留まりましたのは、ダビデが「主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます」と言った言葉であります。

人はそれぞれ人生の経験の中で様々な判断基準をもち、それに従って行動しますが。しかし何が本当に正しい行いなのか、何に対して忠実であるかは、いつも問われることではないでしょうか。
今日のサウル王も、後に王となるダビデも主に油注がれた特別な存在でした。けれども、サウル王は自分を抜きんじていたダビデがねたましく思い、殺意を抱きます。彼は権力への執着から猜疑心が強く、自尊心やプライドが高く、心の狭い者となってしまい、遂に王位を退けられます。二代目の王となったダビデについては、立派で信仰心がある面はありますが、しかしダビデも自分の思いを満たすために、その地位と権力を行使し、深い罪を幾度も犯すのであります。
すなわち、主が油注がれた者も又、罪深い者であり、時として暴走したり、又神の道から逸れるよう罪を犯すこともあり得るということです。

箴言3章5-6節に、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにしてくださる」と記されています。
どんな権威も主によらぬものはなし、と聖書にありますが。私たちは、主のご用のために立てられた指導者たち、教役者にしても、従うということは大事なことであります。しかし。唯闇雲に、盲目的にその指導者に従うということではなく、何よりも肝心なのは、その指導者らを立てたもう主に聞き従うということではないでしょうか。それは私たちにとりまして、そこで十字架の主イエスが何を考え、どう生きられたかということを知ることから始まります。十字架の主イエスが今あなたと、そしてこの世界や社会とどう向き合い、どう関わることを願っておられるかを、心澄ませて聴き、受け取って生きるということであります。
そのような「主への正しい行いと忠実さ」に従う人に、主は必ずや道を拓き、報いてくださるでありましょう。

最後に、フィリピ1章9節の使徒パウロのお言葉を読んで宣教を閉じます。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」

日常の些細なことに振り回されがちな私たちですが、本当に大切なことはそう多くはあり
ません。否、唯ひとつだけだと、イエスさまはおっしゃっています。この真理の御声に今
週も聞きつつ、まっすぐに従ってまいりましょう。
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ふたりの友の間に

2012-07-02 08:52:29 | メッセージ
宣教 サムエル記上20章24b節~42節  

本日はサムエル記上20章より、ダビデとヨナタンの間に織なされた「二人の友情」に焦点をあてつつ、御言葉を聞いていきたいと思いますが。皆さんには、様々な友人と呼べる方がおられるでしょうが。主にある友、主にある兄弟姉妹が与えられているということは、それはどんなにか人生を歩むうえで大きな支えとなるでしょうか。

①「これまでの流れ」
先々週はイスラエルの民が王を求め、若者サウルが初代王として立てられていくところまで読まれましたが。そのサウル王は戦いに勝利し、権力と財とを想うがまま手にしてゆく中で、いつしか高慢になってゆき、遂に主に対して大きな過ちを犯してしまいます。主はそれを深く嘆かれ、秘かに羊飼いの少年を次の王として立てるべく油を注がれます。それが後のダビデ王となるわけでありますが。
少年ダビデはペリシテ人の大男ゴリアトを倒し、サウル王に気に入られて、その家来となります。ダビデはサウル王が派遣するたびに出陣して勝利を収め、戦士の長に任命されるのです。サウル王にはヨナタンという息子(王子)がいたのですが。この「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(18・1)。それは「自分の着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまでダビデに与えた」(18・4)と記されていますように、サウル王の王子ヨナタンもまた、ダビデを自分のように大切な友として家族同様に迎えたのであります。
まあ、ここまではサウル王はダビデを喜んで迎え入れていたのですが。次第にイスラエルの民がサウル王よりもダビデの方を称賛するようになると、サウルはそのことに激怒し、悔しがり、ダビデをねたみの目で見るようになっていくのです。手にしたものを奪われはしないか、との不安や猜疑心は激しいねたみの炎となってサウルの心をむしばんでゆきます。そうしてサウロ王のうえに神からの悪霊が降り、ダビデを幾度も殺害しようするという、まあ肉の業、人間の業と申しましょうか、神を畏れ敬うことを忘れると、人はかくも恐ろしく変貌してしまうということであります。

②「ダビデとヨナタンの間に」
そして本日の20章へと続いているのでありますが。
ダビデはヨナタンのもとを訪れ次のように自分の身の上について吐露します。
「わたしがあなたの父上に何をしたのでしょう?どうして命を狙われなければならないのでしょうか?」。ヨナタンはこのダビデの言葉を聞き、本当に苦悶したことでしょう。彼はダビデにこう答えます。「決してあなたを殺させはしない。父は何かするときは必ずわたしの耳に入れてくれるから、そんなことにはならない」。するとダビデは「あなたの父上は、わたしとあなたの友情関係を知っているから、「あなたに気づかれてはいけない」「あなたを苦しませたくない」と、考えて何も言わないに違い得ない。「死とわたしの間はただの一歩です」とまあ、そのように訴えるのですね。
この二人の心情は複雑でありました。ヨナタンは、父サウルがダビデに対して善くない思いをもっていることで心を痛め、父とダビデの思いの板挟みとなり、悩み苦しんでいたことでしょう。ダビデも又、サウル王への不信感と、いつ殺されるか分からないというような不安と恐れの中、その息子であるヨナタンに助けを求めざるを得ない状況であります。

そこで、ヨナタンとダビデは、サウル王の思いを探り知るための策を講ずるのであります。それは新月祭の時にダビデが欠席し、その欠席理由をヨナタンがサウル王に伝えた時に、王がそれを「受け入れた」なら、まあひとまず大丈夫だろうと。しかしもし王がそれを「受け入れず立腹し厳しい言動となった」なら、ヨナタンはその危険をダビデに知らせる、ということでした。又、それを知らせるための手はず(合図)を取り決めた上で、最後にヨナタンは言います。「このわたしとあなたが取り決めた事については、主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」。
この約束の言葉はダビデとヨナタンを結ぶ最も大事なキーワードでした。主なる神を仲立ちとして信頼関係と友情は成り立っていたのです。二人の思いとその背景は先ほど申しましたように複雑でありました。人の関係や友情は利害を及ぼす問題が生じて来ますと、もろく崩れやすいものであります。そしてひとたび崩れるなら、それを修復するのは困難なことでもあります。しかしヨナタンが言ったように「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」、お互いが、すべては主がご存じであるという信頼関係の中に身を置き続けてゆくなら、たとえ不完全な人の関係であったとしても、それは時と共に導かれ、育まれてゆくでありましょう。

さて、新月祭が来ました。サウル王はダビデが欠席であったことに全く触れることはありませんでしたが、二日目もダビデが欠席していたので、その事について息子ヨナタンに尋ねました。ヨナタンは「ダビデが家族で祭りごとを守るように兄から呼びつけられているのでと言って、家に帰っております」と王に伝えます。それを聞いたサウル王はヨナタンに対して激怒してなじり、「ダビデは死なねばならない」と言い放ちます。サウル王は「エッサイの子(ダビデ)が生きている限り息子ヨナタンの代の王権は不確か」だと言います。そのサウル王の言葉に対してヨナタンは、「なぜ、彼はしななければならないのですか。何をしたのですか」と抗議し、言い返しました。サウル王は自分が憎むダビデに好意を持つ息子に対して、激しく怒り、槍を投げつけます。ヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心していること知り、ダビデのために心を痛めるのです。

翌朝、二人が取り決めをした時刻がやって来ます。ヨナタンは年若い従者を連れて野原に出ました。ダビデは野原の岩かげに隠れています。ヨナタンは従者に「矢を射るから走って行って見つけ出して来い」と言いつけます。放たれた矢はダビデのいた場所を越えて落ちました。それはかねてより打ち合わせていたように、「サウル王のダビデへの殺意」を知らせる合図でありました。岩かげにいたダビデは南の方角向かって地にひれ伏して三度礼をします。
ダビデは王に命を狙われている以上、もはや国にいることはできません。一方、ヨナタンは王子という今ある立場に留まっていなければなりません。国を離れることなどできないのです。友情を育んできた二人は厳しい現実の前に引き離されるのです。別れねばならないという現実の前で彼らは互いに泣いたというのです。そしてダビデはいっそう激しく泣いた、と書かれています。
詩編に書かれたダビデの数々の言葉が示すように、彼は油注がれた王であり、預言者でもありました。そのダビデが激しく泣いたのには、単にその立場を追われることや、ヨナタンと会えなくなるということだけではないわけがあったのでしょう。ダビデの涙、それは神への背信ゆえにイスラエルの王座からやがて斥けられてしまうサウルの罪に対する憤りと、イスラエルの行く末を案じて憂う、涙であったのではないでしょうか。
イエスさまはエルサレムへと入城され、神の都エルサレムを眼にされた時、神の「都エルサレムのために泣かれた」(ルカ19:41)と記されております。イエスさまはエルサレムの人々の不信仰ゆえに、やがてこの都は崩壊していくことを深く嘆いて泣かれたのであります。

さて、ヨナタンはダビデとの別れ際、次のように言います。
「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」(42節)

二人はそのように約束を交わして、それぞれの道を歩んで行くことになります。二人の人生はそれぞれ異なったものとなりましたが、「二人の間にも、その子らの間にも、主がとこしえにおられる」との契約の言葉は、二人にとってきっと平安と希望となったことでしょう。
イエスさまは「神の国はいつ来るのか」と尋ねられた時、次のようにお答えになりました。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」。わたしとあなたの間に主がいつも共におられる。「あなたがたの間」、ここに神の国があるのです。それはどのようなこの世の力や権力をも介入することのできない、天の領域であります。地にあってその交わりの場は、キリストのからだなる教会を基に、おかれているのであります。

最後に、本日のこの個所を読む中で「神と人を隔てる罪の力」「人と人の交わりを断ち切るサタン(悪霊)の働き」というものを見るわけです。
しかし新約の時代に時至り、主は十字架の愛によってその隔ての壁を打ち壊し、互いに結び合わされる聖霊を与えて下さると約束してくださいました。この後主の晩餐が持たれますが。それは主が十字架に架けられて流された尊い血が、あらゆる人間の罪を清めてくださることをあかしします。そのように主は、御子によって神と人、人と人の間の関係を癒してくださり、平安を与えてくださるのです。そのことを私どもはいつも思い起こし、確認して生きていかなければなりません。それは次の御言葉によってそのことがあかしされています。ヨハネ福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

今日私たちは、ダビデとヨナタンをして、「あなたとわたしの間に主がとこしえにおられる」という力強いメッセージを戴きました。ヨナタンは、父サウルと友人ダビデの間に立って、執り成し役、仲介役をなしていきました。彼はそのことから逃げないで、向き合いました。その事ゆえに彼自身、心傷めることや苦しみ悩みを身に負わなければなりませんでした。ヨナタンがただ人間的な思いで仲介役をなしていたとしたら、きっと彼は押しつぶれてしまっていたでしょう。ヨナタンが厳しい状況におかれても、又親友のダビデと別れなければならなくなっても、彼は最後まで可能な限り、父サウルと友人ダビデの間に立って執り成し役を続けることができたのはどうしてでしょうか。それは、ヨナタンが確かにダビデやサウルの間に立って仲介役をしたわけですですが、その間に、いつも主が共におられ、この主がヨナタンを支え、励ましたからこそ、その働きをなし続けることができたという事ではないでしょうか。

最後にコヘレト4章9~12節の言葉をお読みします。
この「三つよりの糸は切れにくい」。十字架の主が人と人の間に立たれて、そのきずなを強くしてくださるのです。。私たちは聖霊によってそのことを本当に体験していくことができるのです。悩み多き世にあっても、ますます主の愛に生き、生かされつつ、神の国を切に祈り求めてまいりたいものであります。
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