奨励 エフェソ4章1節b~3節
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
①H姉召天の知らせを受けて
先週土曜日の朝、入院先の病院にてH姉が天に召されました。これまで姉妹のために主に執り成し、お祈りくださった兄弟姉妹、又お見舞い下さった兄弟姉妹に心より感謝申しあげます。
あまりに突然の訃報に、そしてさらにご家族のみで早々に日曜日に葬儀が執り行われたということを知り、そのことが残念でなりませんでした。せめて天に召されたというご家族からの連絡くらいは戴きたかったというのが正直な思いです。できることがもっとあったのではないのか。ご家族や病院とのコンタクトの取り方、H姉ご本人の思いをもっと知る方法があったのではなかったかなど、いろんな思いがこみ上げてきました。しかし、実際病院や家族との接触は親族でない立場の者には立ち入ることが許されないことも多くありました。
毎週訪問の際、教会の週報と宣教メッセージをお届けしていたので、郵便物やそれらの教会関係のものも整理されていたお姉さまが、入院中に教会のことや訪ねて来られた方があったことをご存じであったように思います。そういうかたちでこちらからの発信は許される限りしていたのですが、残念ながら反応はなく、最後まで何の連絡も頂くことはありませんでした。又、H姉ご本人も、様々なご事情がおありだったのかは分かりませんが、最期までご自分の病状やご家族について何も話されることはありませんでした。ほんとうに今となっては悔やまれますが、しかし、これはもう私のなす領域云々ということではなく、主がすべてをご存じであられる主の御手のうちに委ねていこう、という思いにされました。いろいろありますが、H姉との出会いと、共に過ごした時間は主が与えて下さった恵みであることに違いありません。姉が残してゆかれたぶどうやオリーブの木が今日も生き生きと緑の葉を茂らせております。その暖かな笑顔、見返りを求めない奉仕の姿は、これからも私たちの胸の中にあって忘れることはないでしょう。
②「招きにふさわしく歩む」
このことを通してもう一つ思わされたことですが。私たちは週に一度しかないこの礼拝の場に集い、それも二度と繰り返されない一度限りの時を共有していますが、それがどれほど尊いものであるかということであります。主イエスによって救われた私たち一人ひとりでありますが、こうして共に集うなか主の家族とされて、喜びも悲しみも分かち合い、祈り執り成し合う恵みを戴いている。人はひとりで信仰を守り通すことはできません。主イエスが「神の国は実にあなた方の間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われたとおり、それは私たちの出会いと関わりの中に築かれるからです。一期一会の主と兄弟姉妹との交わりを大切にしていきたいものであります。
先日発行された60周年記念誌の中に、座談会において話された記事を読み返しました。
その中で、「今後の大阪教会のあり方は、教会員同士の助け合い、自分が孤独でないことを意識させ支えていく。安心して来られる教会のあり方」という言葉に改めて心が留まりました。ほんとうにそうですね。信仰は神さまと私との個人的な関係であるものですけれども、しかしその神さまが私たちを招かれたのは、私たちがその神さまの招きにふさわしく歩んでいく点にあるのです。ただ神さまの恵みを受けるだけではなく、神さまの恵みを如何に用い、柔和と寛容の心をもって互いがつながり合い、豊かにされていく、それがやがて訪れる神の国の交わりの具体的備えとなるのです。
ヘブライ10章23節~25節にこのように書かれています。
「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望(信仰告白)を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
この御言葉の奨めに倣い、「主の招きにふさわしく歩む」者とされてまいりましょう。
③「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
さて、7月20日に宣教開始60周年記念誌が遂に出来あがり、教会員、客員、お祝いの言葉を寄せて下さった先生方、また関西連合諸教会に、贈呈させて戴きました。みなさまのうちにも親しい方へ贈呈された方、これから贈られるという方もおられるでしょう。すでに何人かの方がたから、お礼の言葉を戴きましたが。いよいよこれからが大事と申しますか、大阪教会が主にあって一つとされ、主の御からだなる教会として立てあげられていく、という主の事業が具体的に始まります。いやそのあゆみはすでに始まっているのですね。来年のクリスマスは新会堂でクリスマス礼拝が迎えられることを私は確信し、祈っていますけれども。
会堂建築についても、教会がキリストのからだとして立てあげられていくということについてもそうですが。その歩みにおいて求められていることは、まさに「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」という今日の御言葉にあります。
人間的な思いで一致を図ろうとするなら、真の会堂建築にはなりませんし、教会を立てあげられることはできません。私たちはそれぞれに性格や考え方も、物の見方も違います。人間の社会は、自分の考え方や思いが同じ相手となら心を開き、グループを作ります。反対に自分の考え方や思いと異なる相手とは、うまく心が打ち解け合えず、心閉ざしてしまいます。しかし教会は、そうであってはならないのです。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」群だからです。
聖書は私たちに、「霊による一致」は受け身で与えられるものではなく、主体的に「霊の一致を保つように努めなさい」と勧めています。この霊というのは、十字架のキリストを指しております。私ども人間の罪を贖うために、へりくだった者、仕える者」として来られ、血を流し、肉を裂く。その犠牲を払って和解の道を拓いてくださった愛なるキリストであります。そのキリストから溢れ出る平和のきずなに、私たち一人ひとりがしっかりと結ばれてこそ、霊の一致を保つよう努める事ができるのです。キリストの平和と平安が私たちの隅々に行き渡り、又世界に溢れ出ていくよう努めてまいりましょう。
神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
①H姉召天の知らせを受けて
先週土曜日の朝、入院先の病院にてH姉が天に召されました。これまで姉妹のために主に執り成し、お祈りくださった兄弟姉妹、又お見舞い下さった兄弟姉妹に心より感謝申しあげます。
あまりに突然の訃報に、そしてさらにご家族のみで早々に日曜日に葬儀が執り行われたということを知り、そのことが残念でなりませんでした。せめて天に召されたというご家族からの連絡くらいは戴きたかったというのが正直な思いです。できることがもっとあったのではないのか。ご家族や病院とのコンタクトの取り方、H姉ご本人の思いをもっと知る方法があったのではなかったかなど、いろんな思いがこみ上げてきました。しかし、実際病院や家族との接触は親族でない立場の者には立ち入ることが許されないことも多くありました。
毎週訪問の際、教会の週報と宣教メッセージをお届けしていたので、郵便物やそれらの教会関係のものも整理されていたお姉さまが、入院中に教会のことや訪ねて来られた方があったことをご存じであったように思います。そういうかたちでこちらからの発信は許される限りしていたのですが、残念ながら反応はなく、最後まで何の連絡も頂くことはありませんでした。又、H姉ご本人も、様々なご事情がおありだったのかは分かりませんが、最期までご自分の病状やご家族について何も話されることはありませんでした。ほんとうに今となっては悔やまれますが、しかし、これはもう私のなす領域云々ということではなく、主がすべてをご存じであられる主の御手のうちに委ねていこう、という思いにされました。いろいろありますが、H姉との出会いと、共に過ごした時間は主が与えて下さった恵みであることに違いありません。姉が残してゆかれたぶどうやオリーブの木が今日も生き生きと緑の葉を茂らせております。その暖かな笑顔、見返りを求めない奉仕の姿は、これからも私たちの胸の中にあって忘れることはないでしょう。
②「招きにふさわしく歩む」
このことを通してもう一つ思わされたことですが。私たちは週に一度しかないこの礼拝の場に集い、それも二度と繰り返されない一度限りの時を共有していますが、それがどれほど尊いものであるかということであります。主イエスによって救われた私たち一人ひとりでありますが、こうして共に集うなか主の家族とされて、喜びも悲しみも分かち合い、祈り執り成し合う恵みを戴いている。人はひとりで信仰を守り通すことはできません。主イエスが「神の国は実にあなた方の間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われたとおり、それは私たちの出会いと関わりの中に築かれるからです。一期一会の主と兄弟姉妹との交わりを大切にしていきたいものであります。
先日発行された60周年記念誌の中に、座談会において話された記事を読み返しました。
その中で、「今後の大阪教会のあり方は、教会員同士の助け合い、自分が孤独でないことを意識させ支えていく。安心して来られる教会のあり方」という言葉に改めて心が留まりました。ほんとうにそうですね。信仰は神さまと私との個人的な関係であるものですけれども、しかしその神さまが私たちを招かれたのは、私たちがその神さまの招きにふさわしく歩んでいく点にあるのです。ただ神さまの恵みを受けるだけではなく、神さまの恵みを如何に用い、柔和と寛容の心をもって互いがつながり合い、豊かにされていく、それがやがて訪れる神の国の交わりの具体的備えとなるのです。
ヘブライ10章23節~25節にこのように書かれています。
「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望(信仰告白)を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
この御言葉の奨めに倣い、「主の招きにふさわしく歩む」者とされてまいりましょう。
③「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
さて、7月20日に宣教開始60周年記念誌が遂に出来あがり、教会員、客員、お祝いの言葉を寄せて下さった先生方、また関西連合諸教会に、贈呈させて戴きました。みなさまのうちにも親しい方へ贈呈された方、これから贈られるという方もおられるでしょう。すでに何人かの方がたから、お礼の言葉を戴きましたが。いよいよこれからが大事と申しますか、大阪教会が主にあって一つとされ、主の御からだなる教会として立てあげられていく、という主の事業が具体的に始まります。いやそのあゆみはすでに始まっているのですね。来年のクリスマスは新会堂でクリスマス礼拝が迎えられることを私は確信し、祈っていますけれども。
会堂建築についても、教会がキリストのからだとして立てあげられていくということについてもそうですが。その歩みにおいて求められていることは、まさに「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」という今日の御言葉にあります。
人間的な思いで一致を図ろうとするなら、真の会堂建築にはなりませんし、教会を立てあげられることはできません。私たちはそれぞれに性格や考え方も、物の見方も違います。人間の社会は、自分の考え方や思いが同じ相手となら心を開き、グループを作ります。反対に自分の考え方や思いと異なる相手とは、うまく心が打ち解け合えず、心閉ざしてしまいます。しかし教会は、そうであってはならないのです。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めていく」群だからです。
聖書は私たちに、「霊による一致」は受け身で与えられるものではなく、主体的に「霊の一致を保つように努めなさい」と勧めています。この霊というのは、十字架のキリストを指しております。私ども人間の罪を贖うために、へりくだった者、仕える者」として来られ、血を流し、肉を裂く。その犠牲を払って和解の道を拓いてくださった愛なるキリストであります。そのキリストから溢れ出る平和のきずなに、私たち一人ひとりがしっかりと結ばれてこそ、霊の一致を保つよう努める事ができるのです。キリストの平和と平安が私たちの隅々に行き渡り、又世界に溢れ出ていくよう努めてまいりましょう。