日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

わたしはこの岩の上に教会を建てる

2010-05-30 07:18:57 | メッセージ
宣 教 マタイ16章13-20節より

①「異教の地での主告白」
本日のこの記事はイエス一行がフィリポ・カイザリア地方に行かれた時のことであります。かの異教の地にはローマ皇帝、バアルの神々、ギリシャの神話の神々など、実に様々な像が祀られていました。
ある意味、仏教をはじめ、神道、また様々の新興宗教、さらに八百万の神々がいると言われる日本の精神土壌や状況とも重なるようです。
イエスは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何ものだと言っているか」とお尋ねになります。それに対して弟子たちはそれぞれ「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人もいますと答えました。
皆さまの中には、ご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか、又別の信仰をもっていて、わたしだけが教会に行きキリストを信じるようになったという方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、まあ殆どは異教的な文化の中でキリスト教と出会うのであります。
そういう中で、日本人はキリスト教への関心や興味を少なからず持っていると思うのでありますが、本当にイエス・キリストを信仰の対象として信じるに至るその道のりはまことに厳しいものといえましょう。「狭い門から入りなさい」というみ言葉が思い浮かびますが。
日本の社会において、或いは学校の教科書などに多く見られるイエス・キリストについての解説や認識は「預言者」「博愛主義者」「賢人」などとそれこそいろいろなことが言われているわけですが。まあキリスト教といえば悪い印象より良い印象をもたれる方が多いと思います。世間や人々はイエス・キリストについていろんなことを言いますが、では、「あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という問いには答えていないというのが、未だクリスチャンが1パーセントという日本の現状といえるのでしょう。
いずれにしろ、そのような異教的な社会において、キリスト者となった私たちは、この「あなたがた(ひとり一人)は、わたしを何者だと言うのか」という主イエスと私という関係を明確にする「信仰告白」が重要であるのです。「わたしがイエスを何者と言うのか」。それが問われています。世間がどうこう言っているキリスト教。教科書や参考書に記されているような一般的な解説ではなく、「わたしの救い主、わたしにとって生ける神の子」とイエス・キリストを信じ、信仰の告白をする。それが、異教的な社会や文化の中で暮らす者にとって重要なことなのです。それは私が何に属する者であるかとの認識でもあり、異教の地にあってキリストをあかしすることになります。信仰告白の告白とは、公に言い表すということです。イエスさまは「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。

②「わたしはこの岩の上に教会を建てる」
シモン・ペトロは、このイエスの問いに対し、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。とても短く、シンプルな信仰告白ですが、彼は「イエスが自分の真の救い主、生ける神の子」と告白するのです。
バプテスト教会の精神的な起源は、中世のローマカトリック教会が行なっていた幼児洗礼を否定し、真にイエスを救い主、キリストと信じる者(公に言い表す者)に洗礼(バプテスマ)を施すことを聖書の教えとして大切に守り抜いてきたそのような信徒たちから起こりました。信仰はローマ帝国やローマカトリック教会によって自動的に与えられるようなものではなく、たとえ小さな子どもであっても、「イエスはわたしの救い主、わたしは主を信じます」という、主との一対一の関係が尊重されなければならないことを大事にしてきたのです。その信仰というものは決して国や教会であったとしても強要することはできないものです。「あなたはわたしを何者かと言うのか」との信仰がほんとうに主の前にささげられていくことが尊いのであります。
イエスは信仰の告白を言い表したペトロに対し答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」。ここでイエスもまたペトロのことをフルネーム・詳細な言い方で(シモンにはアルパヨの子シモンもおりましたから)個人的に呼びかけ、祝福されます。イエスをわたしの救い主、キリストと告白する一人ひとりの名前を呼び、あなたは幸いだと、私たちの主は祝福してくださるのです。

日本というある意味異教の地に住む私たちにとって、主イエスを告白していく道のりはなかなか険しいといえるかも知れません。家の宗教や様々な仏事など、あたかもそれらのものに縛られているように感じ、信仰告白に踏み出せない方も多いのです。又クリスチャンになってからも家長であるがゆえの問題等はつきないでありましょう。
しかし、そのような世のしがらみのただ中で、主は「では、あなたはわたしを何者だと言うのか」と個人的に、それは何々家の誰それでなく、直接、あなたという固有の名を呼ばれ、その信仰の告白を祝福してくださるのです。

イエスは主告白をしたぺトロに続けてこう言われます。「あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの父なのだ」。実にこの信仰告白を導いたのは、ペトロの人間的な知恵や知識ではなく、天の父である神さまなのです。
ペトロといえば、確かにイエスの愛弟子であり、又弟子たちの筆頭格の存在でありました。
けれども、その彼のあゆみを福音書から辿って観ますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく記されていますよね。にもかかわらず、主の愛はどこまでもぺテロに伴っていました。あのイエスを3度否んだ時、十字架の前にペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感したことでしょう。しかし、主イエスは彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるように望み、信じ、祈られました。復活の主はこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」というみ言葉をもってペトロを招き、彼はその主の招きに応え、主のみ言葉どおり信徒らを導き、養う者となっていくのです。
ペトロの新しいあゆみは、主イエスの十字架上の執り成しとそのご愛から来る悔い改めと新生から始まりました。
イエスはこのペトロにこう言われます。
「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。
これはペトロに言ったから、個人的なペトロの上に教会を建てるという意味ではありません。カトリック教会ではペトロは特別な聖人とされていますが。しかし、この岩の上にとイエスが言われた「この」とは、「あなたこそまことの救い主メシヤ、生ける神の子です」
という信仰と、その信仰告白のことであります。主イエスはこの信仰と、告白の上に「わたしの教会を建てる」と宣言されます。
私どもの教会、又すべてのキリスト者は、「あなたはメシヤ、生ける神の子です」と告白するペトロの信仰告白に続く者であります。
この主ご自身が教会を建てると言われたのであります。その信仰の告白をなさせたもうご聖霊が私たちの教会のうちに今も満ち溢れ、充満している。それが「キリスト教会」のあかしです。

さらにすごいことに、イエスさまはそのようなご聖霊に満ち溢れる主の教会は「陰府の力もこれに対抗できない」と宣言されます。死の力さえ対抗できない。それは主自らその死とよみがえりによって永遠のいのちを勝ち取ってくださったのです。そこに私たち主を信じ、主に従いゆく者の希望があります。

最後に、私たちのこの大阪教会は、これからの教会のビジョンをしっかりと持ち、様々な働きや役割をこの地にあって果たしていきたいと願っています。先日の信徒研修会で、教会堂は単なる建物ではなく、福音宣教のビジョンや教会が目指すこと(使命)とリンクさせながら、その機能が十分に果たされるために教会堂は建てられなければならないという話がありました。礼拝、教会教育、信仰の継承、祈り、伝道、連盟や連合のニーズ、地域のニーズなどを祈り合い、共同作業で模索しながら、希望と期待をもって、主の業に共にあずかり、恵みを分かち合っていけるとうれしいです。

最後に、教会は「祈りの家」であるということを恵みとして覚え、ますます祈り合い、互いにとりなし合う場とされていくようにと願うものです。
今日のみ言葉でいえば、19節「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」とあるとおりです。
「二三人、わが名によって集まるところに私もそこにいる」と約束してくださった主イエス。その主イエスの約束のもと、心を合わせ祈り合いながら、世に遣わされ共に主のみ業を仰ぎ見ていくものとされてまいりましょう。
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信徒研修会から

2010-05-23 07:51:15 | イベント
   
準備し祈ってまいりましたM教会牧師であられるC・T先生をお迎えしての信徒研修大会が開かれました。ご講演は「教会学校:互いに育ち合うために・・・教会の使命の中で」という題で、ご経験を踏まえての貴重なお話を伺うことができました。
まず、ご自分のM教会の新会堂建築について、教会の目指すところ&ミッション(この地にたてられた教会として、為すべき働き)を教会堂の「形」から考えられたということです。
教会のミッションは、マタイ4:23以下より、主イエスが「教え」「御国の福音を宣べ伝え」「病気や患いをいやされた」(礼拝、教育・交わり、伝道、世への奉仕)ということです。その働きの中で「礼拝」がすべての原点にあるということです。
次に、M教会の教会学校について大変参考になるお話を聞きました。
その中で特に心に留まりましたのは、「分級の目的は、聞き合う訓練、言葉化する訓練。教会学校奉仕者は、発題者というより「司会者」であることが第一。ともに聖書を聞く(発言を引き出し、深めていく役割。言葉のキャッチボールを目指して)」「分級奉仕者は、細かな聖書研究ではなく、心に残った言葉の分かち合い、発言をつなぐ役割」という点です。これは現在大阪教会で行なっています「応答のとき」や「祈祷会での聖書の学び」に共通することです。司会者とクラスのメンバー相互にこういった理解を持つことは成長につながることでしょう。「新しい人をどう招くか。言葉化することが苦手な人、負担な人は・・・」との課題は残りますが。それでも「祈り、おぼえている」ということを姿勢で示し続けていくことで、リーダーだけでなくクラス相互の信頼関係が築かれていくように、ともに祈り合い、前進することできたらいいなと、新たな思いをいただきました。
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み言葉を聞いて行う者

2010-05-16 08:18:58 | メッセージ
宣 教 マタイ7:21~29

この個所は山上の説教の最後の締めくくりの部分にあたります。
イエスさまは弟子たちに、当時、神のみ心から遠く離れてしまっていたファリサイ派の人々や律法の専門家たちを憂いつつ、あなたがたは「天の父のみ心を行う者」になりなさい。又「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者」になりなさいと勧めをされます。
ファリサイ派の人々はとても熱心に律法を厳守し、行動していたのでありますが、その思いは「天の父のみ心」とはかけ離れたところにありました。彼らは自らを聖い者、正しい者として思いあがり、人を裁いていました。
一方、律法の専門家たちは、律法についてよく聞き、学び、知識を豊富に持ってはいましたが、実際に「実行していない」、つまり知識ばかりで律法の精神に生きていないこと、又単なる自己満足でしかないことをイエスさまは見抜いておられました。
しかし、こういう事はキリストの弟子である者たちにも陥りやすいものであることを、イエスさまはご存じでした。私どもは、主のため、教会のためにと言って行なう奉仕や働きも「天の父のみ心を行うものであるかどうか」を吟味し、見極める必要があります。
又、例えば礼拝や集会でみ言葉が与えられても、その場だけで「ああよかった」「恵まれた」で終ってしまうのならそれは残念なことです。豊かな恵みは、聞いたみ言葉を自分の事として実践して行ってこそその意義が生じてきます。この宣教の後に、大阪教会では「応答のとき」を持っていますが、イエスさまのお言葉を互いに確認し合う、み言葉が生活や生き方に反映されていくため有意義な事と思っています。

イエスさまの教えそれは、「み言葉を如何に聴き、如何に行なうか」ということであります。それがすべての土台、基盤となるというのです。
では、私どもはそのみ言葉を如何に聴いていけばよいのでしょうか。

24節を見ますと「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は」とあります。「これらの」というのは5章からの山上の教えです。これらを聞いてまっすぐに従うことが大切です。
その一方で、聖書に書いてあるとおりのことを、ただ嫡子定規に行えばそれでよいかというと、そうとは言い切れないでしょう。ファリサイ派の人々は律法の文言を過ちなくそのとおりに行なうことが正しいと信じていました。熱心にそのことを基準に行動していた人たちであったのです。が、彼らは律法を守らない人や守れない人たちを、神から裁かれた者、愚か者、穢れている者だと見下し、自分たちの清さや身分を誇り、そういう人たちと一切交わりを絶ってしまったのです。
しかしイエスさまは逆にそういう社会からドロップアウトしたような人、穢れていると見なされた人、罪人だとレッテルを貼られたような人たちと出会われ、神の赦しと解放を告げて、彼らの人生に回復をもたらされたのです。イエスさまはそのため、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちからは神を冒涜する者、律法違反者とみなされ、憎悪と非難にさらされるのでありますが。そのようにファリサイ派の人や律法学者たちが律法の精神を見失ってしまったように、私どもはイエスさまのお言葉の精神を見失わないようにしなければなりません。
イエスさまはこのところで、「天の父の御心を行う者だけが天の国に入る」とおっしゃいました。イエスさまご自身、父なる神の御心を行う生涯を全うされたのです。
そうであれば、私どもはこのイエスさまをいつも仰ぎ見て、従っていくそのところに「天の父の御心」があるのです。

さて、イエスさまは「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」とおっしゃいました。
家を建てる場合土台がしっかりとしているなら、災害にも強いでしょう。そのようにみ言葉を聞いて、日々行なっていくなら、それはその人の人生を形づくっていく堅固な土台となるということです。
逆にイエスさまは、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行なわない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」ともおっしゃっていますよね。もし聞くだけで終ってしまう薄っぺらな信仰であるなら、人生の嵐の日に大きく揺さぶられ、押し流されてしまうことになりかねないということです。

余談ですが、水曜日の祈祷会の時、そこで3匹の子ブタのお話を思い浮かんだという方がたがいました。なるほどと思わず吹きだしてしまいましたが。
ちょっと調べてみますと、これは英国の昔話が原作らしいですね。ストーリーにいろんなバージョンがあり様々のようですが。おおよそこんなお話です。3匹の兄弟は仲がよいというわけではなく、長男の子ブタは喧嘩が強くて頑固者。二男の子ブタは頭がよく自己中心的。三男の子ブタは何も取り柄がなく、そのためよくのけ者にされていました。長男は「わらで家を作り」、二男は「木で家を作り」ます。三男は、狼が来たら大変だと思い、来る日も来る日も「レンガで家を作り」続けました。そこへ狼が現れました。長男のわらの家は狼にあっという間にふっ飛ばされて壊れてしまい、二男の木の家に逃げ込むのですが、その家も狼に壊されてしまいます。二匹の兄は3男の弟に声をかけられレンガの家に入れてもらうのです。さすがの狼もこのレンガの家に壊すことができず、煙突から入ってくるも暖炉で沸かされた鍋の中に落ち、あちちと、いちもくさんに逃げ去っていきます。こうして3匹の子ブタは仲がよくなり楽しく暮らしたというお話です。

まあ、この3匹の子ブタのお話は、いざという時のために努力をおしまない、備えあれば憂いなし。兄弟仲良くなど教訓や訓話としては読めますけれども、「何を土台にして生きるのか」という問題について何も触れられていません。わらの家でも、木の家でも、レンガの家であっても、それはいずれ壊れ、朽ちるものであります。しかし壊れ、朽ちてもなくならないもの、それこそ、堅固な家の土台です。様々な人生の歩みがあります。そしてやがてはこの肉体は朽ちるものでありましょう。しかし地上にあって私たちがイエス・キリストとそのみ言葉を土台にして生きたことは、神の前で朽ちることなく残るのであります。

話は変わりますが。
以前、バプテスト誌にこのイエスさまのお話のところからタイのH派遣宣教師がメッセージを寄せておられ、とても新鮮な思いにされました。
ちょっとご紹介したいと思います。「作業に困難が伴うとしても岩という堅い地盤に土台を据える人は、いざという時には困らないのに対し、安易さにかまけて砂の上に土台を据えると、後に大雨が降ってきた時、大変な目に遭う」という説教の原稿を用意して、タイ語やタイの文化に詳しいタイバプテスト神学校の図書館司書の女性に助言を頼んだそうです。するとそのコメントは「タイ人はそのように考えないです」と。続けて「一般のタイ人は、いつ起こるか分からないようなリスクを恐れて、そんな準備はしない。また、仮に洪水が起こって家を失い困る人がいたとしても、それを「愚か者」とは呼ばない。困った時はお互いに助け合う、それがタイ人の生き方だ。また、タイ人は必ずしも洪水を悪いものとは考えない。私自身も近くの川が氾濫して泥水が家の中まで押し寄せて来た。するといろいろな川魚が家の中に入ってきたので、皆きゃあきゃあ言いながら手で捕まえたものだ」と話してくれたそうです。所変われば、ですね。H師は、最初、この女性の意見をどう受け止めてよいのかわからず、「この人たちはわけのわからない、聖書をよく理解できない人々だ。仕方ない」と無視を決めることもできたけれども。「しかし自分はその人たちと一緒に暮らし、彼らと聖書を読み、そしてそれを共に糧として生きていかなければならない。だとすれば、このアドバイスを通してもう一度この御言葉に向き直り、読み直さなければならないと思った」そうです。

私は、H師がそれまで持っていたご自分の先入観によらず、タイの人々と出会い、共に住み、その人たちと向き合うなかで、イエスさまのみ言葉の本質を今一度見つめ直してゆこうとされるその姿に感銘を受けました。それは、私の内側からでなく、向こう側から来る、いわば出会いによってみ言葉がひも解かれるわけです。生きること、生活すること、その人との関係性においてみ言葉が行なわれ、生きてこなければこれは虚しいことです。

さて、この個所の終わりのところに、「イエスさまがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(28-29)と書かれてあります。
イエスさまのお言葉が権威をもっていたのは、ご自分が「天の父の御心を行って」おられたからであります。
私どもはイエスさまのご生涯とその行いに照らしながら、み言葉を聞いて行なうとはどういう事か、いつも見出し、従う者でありたいと願うものです。
イエスさまはどこに向かわれ、如何になさったかということを思い描きながら、そのイエスさまの心を自分の心として生きる。そのようにみ言葉を聞いて行なう。人生の土台は堅固なものとされていくでしょう。
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わたしたちの祈り

2010-05-09 08:11:40 | メッセージ
宣 教 マタイ6:13

イエスさまが弟子たちに祈りについて教えられた、いわゆる「主の祈り」の中の「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」との一節から聞いていきたいと思います。

①「誘惑」
この「誘惑に遭わせず」でありますが。
私たちが祈ります「主の祈り」、又口語訳聖書では「試みに遭わせず」となっています。
誘惑と試みではだいぶ意味が違ってきます。誘惑とは、「相手を、本来の意図に反する方向に誘い込む」ということです。一方試みは、「どんな結果になるか試してみる」ことであります。「信仰が試される」などと言いますが。試みは誘惑よりどちらかといえば肯定的な意味を持っています。
この主の祈りの「誘惑」という言葉は、同じマタイ福音書(26章41節)のイエスさまがゲッセマネにおいて、ペトロのために「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃった場面で使われています。「陥らないように祈っておれ」と言うのですから、そういう誘惑があるというのが前提であります。誘惑は起こるのです。でもそれに「陥らないように祈れ」というのです。同様に主の祈りの「誘惑に遭わせず」も、誘惑がまったくないようにという意味ではなく、「誘惑に遭って、罪を犯すことがないように」との祈りなのであります。そのように読みますと、後に続く「悪い者から救ってください」につながってきます。

イエスさまは荒野にて悪魔の誘惑に遭われました。
イエスさまが何で誘惑に遭われる必要があるのかと何だか不思議に思えるかもしれません。しかしそこでは「霊の導き」(神の先立ち)がはっきりとしていました。
だからその霊の導きから引き離そうとする誘惑がそこに強く働いてきたのであります。

私たちも又、真剣に心に決めて主に仕え、従って生きようとする時、様々な誘惑や試練に遭うのであります。それは、神の意図から引き離そうとする力が働くからです。
神の御心を真に求めて生きてゆこうとする時、それまでの生き方との間に葛藤が生じてきます。自分中心のあり方から、神のみ心に従わせる生き方に向かう時、そこに内的闘いが生じるのです。そのような私たちに主イエスは、「誘惑に陥って、それに捕われて罪を犯すことがないように、父なる神さまに願い求めなさい」とおっしゃるのです。

②「悪い者から救ってください」
人間はどんなに尊く立派な使命や理想をもってそれを実現しようとしても、誘惑は入り込んできます。それは志が高ければ高いほど、そうでありましょう。闘いが伴うのです。
たとえ、正しいこと、善いことのために打ちこんでいようとも、いつの間にか自分自身の心のうちに、それ相当に称賛されてあたりまえだ、当然だという傲慢な思いや、いつの間にかそういった自分の行為が自尊心を満たす目的にすり替わってしまうようなことが起こり得るのです。
この主の祈りの、「悪い者から救ってください」の「悪い者」は確かに理由もわからず起こるそんな不可抗力的な出来事も指しますが。もっと恐ろしいのは、自分うちに悪い思いが入り込んで、自ら罪のとりことなり、悪い者となって神の前に罪を犯すということです。悪魔は巧妙に人の心のうちに入り込み、そそのかして罪を犯させます。妬む心、中傷する心、他者を、又時に自分を裁く心、悪魔は特に、自分を神のように高く誇ろうとする者のうちに入り込んできます。
私たちは、ただ主に「誘惑に陥って罪を犯す事がないように、悪い者から救ってください」と日ごとに祈り続けていく必要があるのです。

荒れ野の誘惑においてイエスをいざなう悪魔の誘いは、「神になりかわり人間を支配し、自分を高くするために何でもうまく利用せよ」というものです。しかしイエスさまの生き方、そのご生涯はそれとはまったく逆のものでした。己を明け渡してどこまでもみ神のみ旨に聞き従わせる道でありました。巧妙な悪魔の誘惑に対し、十字架の苦難と命をかけてご自分の使命を全うされたのです。
私たちはこのイエスさまを抜きにして、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈ることはできないのです。

最後に、この主の祈りは「わたしの祈り」ではなく「わたしたちの祈り」になっています。これはとっても大事なことを示しています。主は私たちという祈り合う者の真ん中にいまし、働かれます。日々私が「主の祈り」を祈る時、実は私も又、祈られています。それは主の教会、主にある兄姉、又心ある人々の平安と守りを願う祈りであり、主にあってともに支え、支えられている祈りであることを覚えたいと思います。
主の祈りが「わたしたちの祈り」となっていく喜びや豊かさを経験していきたいと願うものです。
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大いなる愛を全うされるお方

2010-05-02 07:38:20 | メッセージ
宣 教 マタイ5:43-48

「敵を愛しなさい」との戒めでありますが。イエスさまは『隣人を愛し、敵を憎め』との皆が当然とみなしているような当時の格言を引き合いに出されます。
隣人、同胞、同信の者、身近な家族や友人知人を愛し、敵は憎めというのは非常に分かりやすい言葉であります。人間の世界は不安や恐れを解消するために、仮想の敵や悪を作って安心を得ようと画策します。実はそういう試みは、日常の私どもの心のうちにも起こってまいります。

そのような私たちにイエスさまは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるために」と言われます。敵を愛するなどと思わず反発したくなる私たちにおっしゃいます。「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。さらに、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟だけに挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」とさとされます。イエスさまは十字架にかかられたその姿で、敵対するような人々のために、「神よ、彼らの罪をどうかお赦しください」とりなし祈られました。

イエスさまはいわば人の常識を打ち破るこれらの「新しい教え」「新しい義」について語られた最後に、しめくくるようにこうおっしゃいます。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。このみ言葉の意味を知ることこそ、今日のメッセージをひも解いていく鍵なのです。
この完全という言葉ですが、普通は完全無欠、一点のミスも無い(パーフェクト)、完璧(コンプリート)ですね。そういう意味でありますけど。しかし、もともとの原語は、「終わりまで全うする」「目的を果たす」という実はそういう意味があります。

文語訳聖書は「さらば汝らの天の父の全きがごとく、汝らも全かれ」。現代語で言えば「だからあなたがたの天の父が全うされるように、あなたがたも全うするようありまさい」ということです。だいぶんニュアンスが違ってきますよね。
ですから、神に見習ってというのは、神のように完全無欠、一点のミスや誤りのないようにしなさいということではないのです。

神は、ご自身に対し背を向け、敵対するような私ども人間を、最後まで見捨てず、愛し抜くことを、「あきらめないお方だ。これに倣いなさい」と言われているのです。
イエスさまはその言葉が真実であることを示されるように、あのゴルゴダの丘で、十字架におかかりになり、死の最期まで、罪深い者たちのためにとりなし、祈られました。

父の神はこの御子イエスさまを通して、「どんなに罪深い者をも最後まであきらめない」「愛することをあきらめず全うなさる」お方であることを啓示なさったのです。
大いなる愛を全うされるこのお方に倣って生きる。これこそ、完全な者となりなさいという本来の意味であります。イエスさまはいのちを賭けて、私たちにこれらの「新しい教え」「新しい義」、つまり律法でなく福音を与えてくださいました。
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