日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ぶどう酒がなくなりました

2009-04-26 06:52:27 | メッセージ
ヨハネ2章1~11節より

ぶどう酒は「わたしたちを喜ばすもの」を象徴しています。
人間はこの世話役が言うように、何にも優先して自分たちを喜ばすものに世は関心を置いているのです。「カナの婚礼の記事」がよく結婚式の式辞で読まれるのには意味があります。新婚当時はお互いを意識し合い、相手の身振りそぶりに一喜一憂しながら、自分の良いものばかりを相手に見てもらうことに躍起になったり、又相手が何をしてもよく思えたり、それがみな長所に思えたりするものです。
けれどもそれが早ければ数ヶ月、一年とだんだんと時が経過すると、相手のよい面や素敵なところよりも、いやな面や幻滅してすまう面ばかりが目につくようになってきます。お断りしますが、これは一般的にそうであることが多いということですが。しかし、そういうときに至ったときこそ、互いが水を最高のぶどう酒に変えてくださる主に信頼をおき、主に従って共に生きていくときに、互いのあゆみが主にあって整えられ、祝されていく、というのが結婚生活の勧めの要といえましょう。
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主イエスとの出会い

2009-04-19 07:16:59 | メッセージ
ヨハネ1章43節~51節より

本日の箇所は、フィリポとナタナエルの召命について記されている箇所でありますが、その前のところを読みますと、ペトロとアンデレの2名の兄弟がイエスさまの弟子とされています。まず、洗礼者ヨハネの弟子であったペトロとアンデレの2人が「あの方こそ神の小羊」と言うヨハネの言葉を聞いて、イエスに従っていきます。2人が「イエスに従った」(37)のは、彼らの信仰的な決断にもよりますが、そこにまず師である洗礼者ヨハネによる導きがあったからこそ、主イエスにお会いし、従うことになったと言えましょう。
 また、この2人の弟子の一人であったアンデレは、まず自分の兄弟ペトロにイエスさまのことを語り伝え、彼をイエスさまのところへ連れていきます。そして43節以降には、フィリポとナタナエルが主イエスさまと出会う出来事が記されています。フィリポは、直接イエスさまの方から出会われて弟子とされたようです。このフィリポの出身地ベッサイダの町はアンデレやペトロの出身地でもありました。彼はこの2人から以前からイエスさまについての話を聞く機会があったのかも知れません。その結果45節、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」というイエスさまに対する確信が与えられたのでしょう。そしてフィリポは、その主イエスと出会ったその熱い思いを携え、今度は友人のナタナエルに、イエスさまのことを語り伝えていくのです。
 こうして洗礼者ヨハネから2人の弟子へ、彼らからフィリポへ、さらにナタナエルへといのちの水が流れるように、主イエスとの出会いが起こされていきました。
主イエスはその一人ひとりを召し出し、弟子として遣わされるのです。
このところを読みますと、主は一人ひとりの魂を見出され、一人ひとりと出会い、向き合われ、導きをなしてくださることを知らされます。
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イースター礼拝宣教

2009-04-12 20:16:04 | メッセージ
 「復活の主を信じて生きる」 ヨハネ20・24~29

イースターおめでとうございます。主イエスの受難と死を心に刻む受難節、受難週を経て、今日は主イエスが死から復活され、死に打ち勝たれた喜びと希望の日、イースターを記念する礼拝を共にささげています。主の御名を心から賛美いたします。

本日の聖書の箇所が読まれました。
すべての人に救いの道が開かれるために、十字架につけられ墓に葬られたイエス・キリスト。しかし、父なる神は3日の後、主のご復活をもってその栄光を顕されました。
その復活の主は、失望と恐れのうちに家に閉じこもる弟子たちにご自分の姿を顕されます。
ところが11弟子の中のトマスだけは、彼らと一緒にそこにいなかったために、よみがえられたイエスさまと出会うことができませんでした。たまたま何かの用事があったのか、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちとは別行動をとっていたのか、それは分かりませんが他の弟子たちの興奮さめやらぬ中、トマスはどのような思いでその報告を聞いたことでしょう。
彼は答えます。25節「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

トマスはかつて、イエスと一緒に死ぬ覚悟だと勇ましい発言をした人物でした。(11:16)
けれども、実際事が起こると恐れに逃げ出した自分に打ちひしがれていたことでしょう。

このトマスについてよく彼は疑い深い者、懐疑主義者とのレッテルが貼られますが、しかしトマスだけがそうだったのではなく、他の弟子たちもトマスと同様でありました。
他の福音書で、女性たちがイエスの復活の知らせを伝えた時、彼らも疑って取り合わなかったとあるとおりです。
 
トマスは疑い深いという一方で、正直な人間であったということもできるでしょう。
彼は自分を偽ることができなかったのです。他の者が「主にお会いした」という証言に納得できないものを引きずって皆に調子を合わせることは、トマスにはできませんでした。トマスは「信じたくても信じられない」。そういうところに立っていたのです。彼はイエスに従ってきた仲間の証言が信じられませんでした。たとえそれが1人とか2人とかでない、10人全員の証言であったとしても同じでした。
彼にとって、すでに復活の主と出会った他の仲間たちと一緒に過ごすのは、どんな気持ちであったことでしょう。
けれども、トマスは仲間の弟子たちを避けて出てゆくのではなく、彼らの中に踏みとどまったのです。
さて、それから8日後、イエスは再び御自分を弟子たちに顕されました。今度はトマスも一緒でした。姿を顕したイエスは、「平安があなたがたにあるように」と声をかけ、トマスに向かっていつくしむように言われます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(20:27)
 
イエスと3年間を共にして教えを聞き、不思議な業を見てきたにも拘わらず、イエスの復活が信じられないトマス。「そのトマスのためにイエスは来られました」。主イエスはトマスの不信仰や愚かさを叱責したりなさいません。トマスは復活の出来事を信じたくなかったのではなく、信じられなかった。信じたいが自分の目で見て、自分の手で触れるまでは信じられなかったのであります。主イエスはその彼の苦悩をご存じであり、汲み取っておられたのです。

復活の主と出会い、「信じる者になりなさい」という言葉を聞いたトマスは、「私の主。私の神」と驚きと喜びのうちに告白しました。彼はイエスが復活されたということが分かっただけでなく、もっと深いところで「復活されたイエスはわたしの主です、あなたはわたしの神です」と、自分の救いを見出したのです。ここに復活の主を信じて生きる者の希望があります。

主イエスは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いです。」(20:29)
聖書はトマスを通して、信仰に対して与えられる神さまの祝福を語るのです。
これは肉眼で見える姿のイエスさまに会うことがない者たちへの励ましであり、十字架のことばを聞いてイエスを信じる信仰へ導かれるように、との招きでもあるのです。

主はきのうも今日も生きておられます。そして今、ここにもご聖霊の働きのもと、ともにいてくださるのです。
トマスのように霊の目が開かれ、復活の主を見上げてまいりましょう。
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十字架を作った大工

2009-04-05 08:15:08 | メッセージ
過越の祭の週の木曜日でした。エルサレム郊外のこと大工の仕事場に、ローマ総督ピラトのもとから遣わされた使者が、大至急と言って三本の十字架を注文してゆきました。不吉な、人の嫌がる、それだけに金の儲かるこの仕事を喜んで、彼は沢山の十字架を作ってきたが、今までになかったことです。他人の刑罰と苦しみ、そして最後に死をもたらすこの十字架作りの仕事が、きょうばかりはひどくいまわしいことに思えて仕方がなかったのです。それに同じ大工仲間の親しい友人、今はなんでもラビになったとかいうイエスが前に語った言葉まで思い出されました。「自分の物指しで人をはかれば、同じようにはかりかえされるものだ」「だから人にして貰いたいように、人にもするべきだよ」(マタイ7:2,12)
 まさか自分が十字架につけられはすまい、がもし自分の親戚や親しい友人が自分の作った十字架で殺されたら― 遅くなりすぎないうちに止めなくてはと彼はつぶやいていました。
 そして翌日、なにか心にひっかかるような思いで彼はゴルゴタの丘に出かけました。ひとつには自分の作った最後の十字架に、だれがかけられるのかにも興味があったのです。しかし、何ということでしょう。まぎれもなく自分の作った十字架に、あの大工仲間の友、昨日も彼の言葉を思い出していたあのイエスがかけられているではありませんか。彼は余りの衝撃に放心したようになり、ダビデ王がその子の死を聞いて言った有名な嘆きの言葉をつぶやくだけでした、「ああ、わたしが代わって死ねばよかったのに」と。
 十字架の上に、友イエスが祈るように語っている『父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からずにいるのです』との言葉を背後に聞きながら、うつろな心で彼は丘をおりて行きました。その後、この十字架作りの大工の消息をだれも知らぬということです。
 しかしほんとうの悲劇は、キリストをつけた十字架を作ったのは彼ひとりではなかったということです。文字どおり無数の人が、今もなお、キリストをつける十字架をつくりつづけているのです。その罪のゆえに――――。 
(飯 清著「飼葉おけと十字架」・日本基督教団出版部・1967より)受難週にて。
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ハートフェルトコンサート イン OSAKA  ご案内

2009-04-02 09:28:39 | イベント
   Heartfelt Concert

    ハートフェルトコンサート イン OSAKA

             この川の流れる所では、すべてのものが生きている。

                       (エゼキエル47:9)

      心からの・・・心に触れるコンサート・・・         
      
       2009年は日本にとっても大変厳し年です。
      経済も政治も穏やかとは言えません。私たちの生活も困難が多く、
      その結果心まで蝕まれてしまいそうです。
      しかし、神様を信じ信仰を持つとき
      「外なるものは滅びても、内なるものは日々に新しくされて行く」
      (第2コリント4:16)と言えるのです。
      このコンサートは単に音楽を楽しむこと以上の深い喜びをもたらす
      ことでしょう。
      真夏の午後、心を癒す一滴の聖水となるでしょう・・・


 2009/8/22/(土)2:00pm 開演(開場 1:30pm) 
            
            チケット 1000円(全席自由席)
 
 
 出演者 小田彰(ゴスペルシンガー・独唱)
     
       田渕雅子(ピアノ・ショパンバラード)
     
       前田敦子(ピアノ・タンブリンダンス・あかし)

       ベル フィリア(ハンドベル クワイア)

       プレィジングリンク(ゴスペル クワイア)
     
         


 会 場  クレオ大阪中央
      
大阪市天王寺区上汐5-6-25 地図 http://www.creo-osaka.or.jp
*地下鉄谷町線「四天王寺夕陽ヶ丘」下車、一、二番出口から北東へ
                                 徒歩3分

 主 催 ハートフェルトコンサート実行委員会
  
 協 力 LIGHT HOUSE(ライトハウス)

 
チケット窓口・お問い合わせ 

日本バプテスト大阪教会 
電 話 06-6771-3865 FAX 06-6771-3867 メール obcs@nifty.com

 
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