日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主は必要をすべて満たしてくださる

2013-06-30 12:44:37 | メッセージ
宣教 フィリピ4章19節

本日は神学校週間を覚えて礼拝をお捧げしています。日本バプテスト連盟の諸教会・伝道所の教派神学校として、西南学院大学神学部をはじめ、九州、東京の各バプテスト神学校が立てられ、伝道者育成と神学教育が日夜なされております。どうか、それぞれの神学校の働きと献身者のことを覚え、お祈りとご支援をお願いいたします。

私は22歳の時でしたが、大阪教会から推薦を戴いて4年間西南学院大神学部での学びの道が開かれました。その間奉仕神学生として久留米教会、シオン山教会、糟屋教会の3つの教会に在籍して実践的な学びをさせて戴きました。
その際、推薦教会であった大阪教会から他の教会に出席する場合、教会籍を移すか否かという議論がありました。移すことに否定的な考え方として、推薦教会との関係が切れてしまうかも知れないという事がありました。連盟の奨学金を推薦教会の名前で借り受けしていましたので、卒業迄は大阪教会に籍をおいておいた方がよいとの考え方であります。 しかし大阪教会の当時中島牧師からは、その行くところ行くところでの教会生活が始まったら、たとえ1年でもあっても、教会生活の実体のある教会にきちんと籍を移す方が、お客さんでなく教会員として奉仕や交わりができる、という明快な助言を戴いたのであります。私は祈りながら、たとえ1年であってもその行くところの教会に籍を移し、奉仕やお交わりを共にさせて戴くことが相応しいという選択をいたしました。そうして久留米、シオン山、糟屋と、それぞれの教会に籍を置き、主にある豊かな交わりと学び、奉仕の時が与えられました。
私にとって神学部での聖書神学の研鑽は人生の宝となりました。それは自分勝手な観念で読んでいた聖書の読み方が変えられ、自由にされていくことでもあり、学べば学ぶほど、自分は如何に多くのことをわかっていたような顔をしていたかに気づかされました。神学寮での4年間は志を同じくする学友たちと寝食をともになし、寮の早朝の礼拝にも参加し霊性が保たれていきましたが、時に信仰観や教会観について夜通し熱く語り合い、激論になりぶつかり合うこともありましたね。そこで学生たちは自分の持っていた信仰観や教会観を揺り動かされたり、ぐらぐらにされたりと、突き動かされていく経験を一度はいたします。私はその中で「信仰とは何か」「教会とは何か」ということを再度問われ、見つめ直す時が与えられました。それは牧師として働く今も、その問いかけに耳を傾け続けていくことを怠らず、主と向き合って歩んでいく者でありたいと思っています。

私は大阪キリスト教短大神学科、さらに西南学院大学神学部をあわせると6年間の神学の学びと共同生活をさせて頂きました。神学校での出会いと学び、又3つの教会に籍を移しての教会生活は、その後牧師となるための豊かな肥やしになっていきました。
大阪キリスト教短大神学科での2年間は、この大阪教会とのお交わりが与えられ、お祈りとお支えがあったことは大きかったですね。当時大阪に来るにも元手や学費や生活費が必要でした。会社を退職し車を売ったお金が少しありましたのと、大阪キリ短神学生には当時授業料全額支援という真にありがたい奨学金制度がありそれを利用させて戴きましたのと、あとは日本育英会からの奨学金、そして大阪教会のひかり駐車場でのアルバイトによって、2年会の学費や生活を賄うことができました。
又、西南大神学部での専攻科を含む4年間の学費と生活についても、連盟の奨学金をはじめ、大阪教会やシオン教会からのご支援、奉仕教会からのご支援、又幼稚園での聖話のアルバイトや神学部校庭の草刈りのアルバイトなどによって、必要なものすべてが備えられていきました。ほんとうに感謝なことでありました。

先程、フィリピ4章19節の使徒パウロの言葉が読まれましたが、もう一度お読みしたいと思います。「わたしの神は、御自身の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」
このみ言葉のとおり、神学校時代において、神さまは私に必要なものをすべて備えてくださいました。それは経済的な面だけではありません。自分の信仰や教会観が突き動かされ揺さぶられるような経験をする中、しかし主はわたしに必要な信仰を残してくださったのです。
使徒パウロはフィリピの信徒たちに向けて、「神はキリスト・イエスにあって必要なものをすべて満たしてくださいます」と書き記しましたが。この「神が必要なものをすべて満たしてくださる」という言葉は、真に含蓄があります。まあ私たちは、「必要なものをすべて満たしてくださる」と言われれば、すごく心地よいもの、すべてよいものばかりを想像いたしますけれども。そうとは限りません。時として私たちにとって嫌な出来事や来てほしくない出来事も起こることがあります。そういう時に、なお神さまに信頼をして歩むことができるか、という信仰の真価が問われるのです。
しかし信仰の真価といっても、それは人の頑張りとか精神力でどうにかしろということではありません。使徒パウロはそこに重要なキーワードを記しました。それは「キリスト・イエスによって」という事なのです。つまり「十字架と復活のキリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて神さまが満たしてくださる」、そこに信頼していく、かけていく、ゆだねていく、ことなのです。十字架と復活の主を順調な折も、不調な折にも、時が良くとも悪くとも仰ぎ見ながら、その信仰をにぎりしめて歩んでいく時、主は「あなたに必要なものをすべて満たしてくださる」。その御業をきっと体験するでしょう。
使徒パウロは次のようにも書いています。「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(1:29)。
主イエスが世に計りがたい祝福をもたらすために払われた犠牲の愛を思い起こしつつ、主の御跡を踏みしめてまいりましょう。
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新しい契約(回復の約束)

2013-06-23 13:28:06 | メッセージ
宣教 エレミヤ31章27節-34節  

この箇所は旧約の時代でありながら新約聖書的な救いや信仰をまさに先取りした福音のメッセージであるといえます。聖書は大きく新約聖書と旧約聖書からなっておりますが。
その新約の「約」、旧約の「約」というのは契約のことを表しています。それは神と人の間の約束という意味であります。
わたしたちの世の中は「契約」社会とも言えます。物を買ったり、保険に加入するにも、家を建てたり住宅を借りるにも、又就職するにも、何でも相手と契約を交わします。大阪教会も新会堂建築のために、この度建築業者との間で建築請負契約を互いに取り交わすことができ、具体的な建築工事が始まったわけですが。これら契約は互いの信頼関係によって成り立ちますが、それだからこそ、約束を守ることにおいて忠実であることが求められます。契約した約束事にもし違反するようなことが起これば、法的責任に問われ契約は破棄されてしまうでしょう。
神さまはイスラエルの民と契約を交わされました。律法と戒めを守るところに祝福が与えられ、それを軽んじるなら祝福は離れ去る。

今日の聖書は、イスラエルの民がその神さまとの契約に背き続け、祝福がまさに取り去られたともいえるような状態にあった時、エレミヤに示された「新しい契約」の預言であります。
31節~32節、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはわたしの契約を破った、と主は言われる」。

この最初の「見よ」というのは、主なる神による新しい時の到来を告知する感嘆符なのであります。まさに、来るべきその日、その時、「見よ」。御神による新しい契約が与えられる大転換が起こされていく、ということであります。
この新しい契約、すなわち新約の時代を生きる私たちは、「見よ」という呼びかけのうちに十字架にかけられた贖いの主イエスを仰ぎ見るのでありますが。その救いの新たな契約が、このような旧約の時代の罪と滅びの中で語られているのであります。
主は出エジプトしたイスラエルの民に対し、シナイでモーセの十戒の律法をお授けになりました。しかし、イスラエルとユダの家はこの律法と契約に対しどこまでも不誠実でありました。この契約について出エジプト19章5節~6節にこう記されています。
「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」。
イスラエルとユダの家が主に信頼をし、忠実に従うのなら「神の宝の民」として祝福されるのです。しかし、これに反して律法を軽んじ背信の罪のうちに生きるなら、主の審判を受けることとなるという契約がなされたのです。
イスラエルの民は、その主との契約を軽んじ主に逆らい続けます。そしてエレミヤら預言者たちが再三にわたり、「悔い改めよ、主に立ち返れ」と警告したにも拘わらず、聞く耳を持たず罪を犯し続けたのです。そして遂にその審判の時が間近に迫っていました。やがてユダの国は崩壊し、捕囚の民となってしまうのであります。旧約すなわち律法において民は命の道を歩み通すことができなかったのです。それは反って人の罪があらわにされ、審きと滅びを招くことになっていったのです。

33節「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
主はこのように「新しい契約」をイスラエルの民に授ける、と約束なさいました。新しいと言いましても、それはシナイの契約(旧い契約)の価値を否定するものではありません。人が律法に示される命の道を歩み、神の民として生きることの本質は何らか変わってはいません。では何が新しくなったのでしょうか? 
ここで主は石の板に律法を記し契約を結ばれた時とは異なり、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と語っておられます。新しい契約はそこが大きく違うのです。人は決まり事を守らねば、行わねば、という時にはかえってそれを行えない自分に気づかされます。そうでなければ、それを守らない他者を裁き高慢になります。そうしてかたくなになり、散漫になり、決まりごとから命の本質が見えなくなっていきます。 
しかし、新しい契約に与る人たちはそうではありません。彼らは神とその命の道の本質を心の内に知る、体験するのです。ではどうやって知り、体験するのでしょう。それこそ新約、新しい契約の主であるイエス・キリストの救いの御業によってであります。主の霊、聖霊のお働きと力によってであります。エゼキエル書36章26節に次のような主の言葉がございます。「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。」
このように主は聖霊によってかたくなな人の心を変え、しなやかでやわらかな心に変える、と言われました。こうして主の御救いに与った人は御神と深く結ばれ、その愛を知るがゆえに御心に聞き、感謝の喜びと応答をもって命の道を生きる者となるのです。

34節「そのとき、人々は隣人どうし。兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」

人間の努力、知恵や力や行いによってたとえ律法と戒めを守り抜いたとしても、本質的神への愛とその命の道を見出すことが出来なければ、主を知ることにはなりません。主との命の交わり、生きた関係が築かれていかなければ意味はないのです。この「主を知る」というのは、単に知識や頭で理解するということとは全く違います。主はご自身をお示しになるため肉をとった人となられ、その愛のゆえに十字架にかかられ、贖いの業を成し遂げられました。そして今もご聖霊としてお働きくださり、私たちに「主は生きておられる」「主は私たちと共におられる」「主は私たちの神である」という「主を知る」体験の賜物を与えてくださっているのです。

ところで先週の夜の祈祷会でしたが、Hさんのバプテスマに向けた学びの準備もあり、「罪」ということについて学びました。その時に「教会に来られている方は、みな御自分が罪人であると気づいて来られているんです。自分は正しく罪がないなどと思っている人は、教会には来られないです」と申しあげたのですが。それを受けてHさんが、「イエスさまがおっしゃった『わたしが来たのは、正しい人を招くためでなく、罪人を招くためである』という言葉が今はとてもわかる」と言われました。そして「ああきっと以前の自分だったなら教会に来ることはなかっただろう」と、いろんな出来事が起こる中で教会に導かれたご自身のことを話してくださいました。

本日は、主の「新しい契約」について御言葉を聞いてきましたが。最後の34節で、主は「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われています。
この言葉はすっと読み過ごしてしまいそうですが、実はとてもすごいことが書かれているのですね。
そもそも、イスラエルの民はシナイの旧い契約を自ら破ってしまい、神の審判を受け滅ぶしかなかったのであります。にも拘わらず主は、その民が滅びることが耐え難かったため、その罪深い民と今度は新しい契約を結ばれる、と言われたのです。それはもはや人の側、民の側ではなく、神の側が実に方向転換してくださった、ということです。これは神さまが人の罪も咎もあるままゆるし、引き受けてくださる、ということであります。ここには想像し難い神さまの側の痛みと苦悩があったのです。
今、新約の時代に生きる私たちはそれが十字架のイエス・キリストの血によって立てられた新しい契約であることを知っています。このお方によって全世界は救いの福音に招かれることとなりました。
「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。
この赦しと救いの御言葉が実現されるために、神さまが如何なる犠牲と痛みを払われ、それをご自身に負われたかを、私たちは忘れてはなりません。日々主の痛みと犠牲を心に留めて福音の恵みを感謝して生きる。ここに「新しい契約」に与った私たちに示された道があります。今日心新たに、この主の救いの御恵みを、心に刻み、主の愛と福音を伝え、分かち合うために歩み出しましょう。心から主に感謝し、賛美します。
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命を保つ道

2013-06-17 09:55:05 | メッセージ
宣教 エレミヤ28章1-17節  

本日はエレミヤ書28章1-17節よりみ言葉を聞いていきます。
この箇所は前の27章とのつながりがありますので、そこをまず少しずつ読んでいきたいと思います。
2節で、主は、エレミヤに軛を作って自分の首にはめるようにお命じになります。軛というのは2頭の牛や馬、あるいやロバなどの家畜をその横木でつなぎ畑仕事などをさせる道具であります。エレミヤはその軛を作り、自ら首にはめて、エドムの王、モアブの王、アンモンの王、ティルスの王らの使者たちのもとに行きます。彼らはバビロンに対抗すべくユダと軍事同盟を結ぶためにエルサレムに集まっていたのでした。エレミヤは彼ら諸王への伝言として主の言葉を伝えます。
少し長いですが。5節~11節、「わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。今や主は、これらの国を、すべてわたしの僕バビロンの王ネブカドネツェルの手に与え、野の獣までも彼に与えて仕えさせる。諸国民はすべて彼とその子と、その孫に仕える。しかし、彼の国にも終わりの時が来れば、多くの国々と大王たちが彼を奴隷にする。バビロンの王ネブカドネツェルに仕えず、バビロンの王の軛を首に負おうとしない国や王国があれば、わたしは剣、飢饉、疫病をもってその国を罰する。(中略)あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。彼らは、バビロンの王に仕えるべきでないと言っているが、それは偽りの預言である。彼らに従えば、あなたたちは国土を遠く離れることになる。わたしはあなたたちを追い払い、滅ぼす。しかし、首を差し出してバビロンの王の軛を負い、彼に仕えるならば、わたしはその国民を国土に残す」。
ここには、主が天地万物の造り主であり、あらゆる世界の王や権力を統治されるお方であることが示されています。そして主はそのような大国となったバビロンでさえ、やがては主の御手のうちに終わりの時が来ることを告げます。

エレミヤは又、ユダの王ゼデキヤにも同じような主の言葉を伝えます。
12節~15節、「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうして、あなたもあなたの民も、剣、飢饉、疫病などで死んでよいであろうか。主がバビロンの王に仕えるな、と言っている預言者たちの言葉に聞き従ってはならない。彼らはあなたたちに偽りの預言をしているのだ。主は言われる。わたしは彼らを派遣していないのに、彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしている。彼らに従うならば、わたしはあなたたちを追い払い、あなたたちとあなたたちに預言している預言者を滅ぼす」。
 これを読むと、主がユダの国を愛しておられ、「どうして滅びてよかろうか」と苦悩しておられるようなその思いが伝わってきます。それはユダの国と王が御声に聞き従って命を保つように、という警告であったのですね。

さらに、エレミヤはユダの祭司たちと、民のすべてにも次のように主の言葉を語ります。16節~17節、「彼らは偽りの預言をしているのだ。彼らに聞き従うな。バビロンの王に仕えよ。そうすれば命を保つことができる。どうしてこの都を廃虚と化してよいだろうか」。
ここにも、愛するユダの民らに向けた主の思いが語られています。主は「わたしが顧みる日まで」と言われるように、決してユダの民をあきらめず、見捨てるようなことはなさらないのです。民が主に立ち帰って生きることこそ、主の御心であり願いなのです。

このような「バビロン王の軛を負い、仕えなさい」というエレミヤの言動に対して、ユダの多くの指導者から民までも、「自国が負けることを語るなど、お前は売国人か」というような激しいののしりや排斥があったことでしょう。実際エレミヤと同じように主によって預言していたウリヤは、エレミヤの言葉と同じ預言をしたために王に惨殺されてしまいました。エレミヤも身の危険や殉教を覚悟で主の言葉をまっすぐに伝えていったのです。
ユダの国と民を心から愛していたからです。

さて、本日の28章でありますが。以上のようなエレミヤのなしたことが預言者ハナンヤのもとにも届きます。そうしてその同じ年、ハナンヤは主の神殿において祭司とすべての民の前でエレミヤと対決することとなるのです。ある注解者によれば、このハナンヤは国家主義派の預言者であったとも言われています。エルサレムとその神殿は永遠に不滅であるという不滅神話のもと、いかなるものからも侵されるべきものではないというかたくなな信念を彼はもち、さらにユダのゼデキヤ王の政策にも影響を与えるような従軍預言者であったとも言われています。
ハナンヤは、エレミヤとは真逆に、「主はバビロン王のくびきを打ち砕く」とエレサレム中に触れまわって語ります。すなわちそれは、ユダが近隣諸国と軍事同盟を組んでバビロンと交戦することを推奨し、バビロンを打ち砕くことが平和の道だ、と説いたのです。

エレミヤはそのハナンヤに対して答えます。
「アーメン、主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように」。それはある面ハナンヤの預言を受け入れ肯定しているかのようです。実際エレミヤは遠い将来バビロン王の軛もいずれは打ち砕かれる時が来ること。やがて民はバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰還できることを主から聞かされていたからです。              
エレミヤはハナンヤの預言の誤っている点について次のように指摘するのであります。
8節~9節、「あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、巨大な大国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる」。
それはつまり、「あなたは口先だけの耳触りのよい言葉でユダの祭司やすべての民に繁栄を語っているが。それが本当に主から遣わされた者の言葉かどうかは、実際事が起こった時に明らかになる。歴史が証明する」のです。真の主の預言者たちは、これまでも主に逆らい罪を犯し続ける国と民に向け、主の審きである戦いと災い、飢饉や疫病を預言し続けてきました。しかし民がその預言を受け入れ、悔い改めることなく、いつの時代も真の預言者は排斥と迫害に遭い、審きは現実のものとなったのです。もしハナンヤも主の教えと御心から離れ罪を犯し続けるユダの王や民の現状を直視し、真実に主に執り成し、悔い改めをもって立ち帰る道を説く者であったなら、そんな簡単に「主がバビロンの軛を打ち砕く」などと軽々しく言えはしなかったでしょう。
私たちは安心を与えてくれる言葉や存在を求め、何とか肯定的に生きていこうとします。それは生きる力にもなるでしょう。一方で、自分に都合のよい言葉を聞きたがり、手軽で有利な解決策を提示してくれる人を好み、支持し、真実な声、真に愛情や配慮をもってなされる忠告がわからない、聞くことができない、ということはないでしょうか。              

エレミヤの言葉を聞いたハナンヤは、「エレミヤの首から軛をはずして、打ち砕き」、次のように言います。
11節、「主は言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王の軛を打ち砕く」。ようするに、「何を言うか、ユダの国はバビロンなど、この軛のように打ち破ることできる。ユダは神の国なのだから決して負けない、滅びることなどない」と、豪語して見せたんですね。

これはまさにハナンヤの劇場型パフォーマンス、一人舞台ともいえる光景ですが。それは主からの預言ではありません。ハナンヤはユダの民の耳に心地よく、人々から人気を博するような口先だけの回復の預言をなしました。それは又、暴力的なものでもありました。周りにいたユダの民たちは、「バビロンの王の軛が打ち砕かれた、ああすっきりした。自分たちのうっぷんをハナンヤは晴らしてくれた」と、きっとハナンヤを称賛し、ハナンヤはヒーローさながらの好評を得たことでしょう。しかしそれは平和と共存を訴えるエレミヤの預言とは真逆なものであり、暴力を肯定し、大衆に戦闘的意識を持たせていくような方向へといざなう行為であったといえます。

あのナチス・ドイツのヒトラーはその独裁性ゆえに人びとからただ恐れられたように思いがちですが、実は大衆はおおむねヒトラーに好意を持っていたということです。彼はマスメディアを巧みに利用し、あのパフォーマンスともいえる独特の話術スタイルでインパクトを与え、民衆を国粋主義者に、狂気の集団殺戮へと煽動していったのです。このようなことは過去のことでしょうか。否、いつでも、どの国においても、あるいは身近にも起こり得ることです。目を覚まして、祈り続けなければなりません。

さて、エレミヤはこのハナンヤの言葉を聞き「立ち去った」とあります。彼はどのような思いで、立ち去ったのでしょうか。その事について何も記されていませんので想像の域を超えませんが。エレミヤは敢えて売り言葉に買い言葉というような議論をしませんでした。
それは感情的になってハナンヤと対決すれば、相手の思う壺にはまる危険性があったという事かも知れません。エレミヤの周囲にはハナンヤを称賛し、その言葉とパフォーマンスに陶酔していた大衆がいました。エレミヤも言い返したい事の一つや二つはあった事でしょう。けれども彼はそんな自分の考えや感情より優先させるべき事柄があったのです。
この「立ち去る」という言葉は、ヘブライ語の原語で「自分の道を行く(帰る)」という意味があるそうです。エレミヤの行くべき道、使命は「主の言葉と御心を伝える」、その一事にあったのです。エレミヤは一旦その場所から離れることによって、もう一度霊性に基づいて事態を見つめ直し、主に祈ってハナンヤと再度向き合う時に備えたのではないでしょうか。

その後、エレミヤに主の言葉が次のように臨みました。
13節~14節、「行ってハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツェルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた」。
ここには、御心を尋ね求めることなく語り行う事への厳格な審きが語られます。それは単なる罰というのではなく、主が命を得させようとなさったのに、国と民が自ら選び取った審きの道でありました。

エレミヤは続けて次のように言います。
15節~16節、「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ主はこう言われる。『わたしはお前をこの地から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったのだから」。
そして事実そのエレミヤの預言の言葉どおりの事が起こるのであります。偽りの預言をなす者、又それに従う者に、主の審きと滅びが返って来るのです。これは又、現代に生きる私たちに対する警告であり、教訓です。

本日の箇所でエレミヤが首にはめた軛には、バビロンと軛を共にするように、バビロンの王に仕えるように、という意味あいが込められていました。しかしその本来の主の御心は、ユダの王や民が罪を悔い改め、主ご自身と共に軛を負う者となることにあったのです。
主イエスは、マタイ11章28節~30節にあるように、「真の平安、真の安息は主と軛を共にする」ことだと語られています。主の教えに学び、信頼をもって従うことによってそれを得ることができるのです。

本日は、預言者エレミヤとハナンヤの対決の場面から御言葉を聞きました。私たちも又、様々な情報が飛び交う中で、何を信じ従うべきか。そう言う時に真の神のみ声を聞き分け、従うことが出来るか否か。その判断と選びとりは、日毎の主との交わり、対話、御言葉に聞き、祈ること、愛を持って執り成すことによって養われます。そういった判断と見分ける目を、信仰と御言葉の学び、共なる祈りを通して培ってまいりましょう。
最後にフィリピ1章9節~11節をお読みします。
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神の作品として

2013-06-09 14:38:06 | メッセージ
宣教 エレミヤ18章1-10  バプテスト病院デ-

本日は、京都にございます日本バプテスト医療団のバプテスト病院と看護専門学校のことを祈りに覚える日、病院デ-であります。イエスさまは地上の歩みにおいて体と心、そして魂(霊的)の救いに尽力なさいました。そのキリストの愛を引き続き、全人的医療を理念として掲げ務めるバプテスト病院と看護専門学校の今後のあゆみのために祈り覚えていきたいと思います。
さて本日もエレミヤ書の18章から「神の作品として生きる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。                                                        
ある日主の言葉がエレミヤに臨みます。「立って、陶工の家に下って行け。そこでわたしの言葉をあなたに聞かせよう」。エレミヤは主の言葉どおりに陶工の家に出て行くのでありますが、そこで彼が目にしたのは「陶工が粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを何度も作り直す」光景でありました。            
そのとき主の言葉がエレミヤに臨みます。「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか」。主はご自身とイスラエルとの関係を陶工とその作品にたとえ、「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある」とお語りになります。               皆さまの中で陶器を作るところを見学されたり、実際に作ってみたという方はいらっしゃいいますか?感想はどうでしたか?私も糸島にある自然(じねん)釜という釜を見学したことがありますが、ただのお皿とかカップというより一つの芸術作品ですね。陶工の良いものを作りたいという思いが伝わってきましたけれども。                 陶工はろくろを使って仕事をするとき、まず粘土から砂や石などの不純物を取り除きます。そして何度も粘土は練られ、こねられながらろくろの上におかれるのであります。陶工の思いのままに、その手の中で粘土は形作られていくのでありますが。けれども、たとえどんなに気合を入れて作った物でも、もしそれが気に入らなければ陶工はそれを自分の手で壊し、今度こそはと良いものに仕上がるようにと再びそれをこね、作り直すのです。   
そのように主は、イスラエルに対して陶工が良いものを作ろうと心を込めてそれを形作るように彼らを忍耐強く導かれました。しかし彼らは罪深く、悔い改めへの招きを拒みかたくなに主に立ち返ろうとしません。このような中でこの預言が語られたのであります。  彼らの罪の根底にイスラエルの選民思想があったということは押さえておく必要があるでしょう。イスラエルの家は神に特別に選ばれた民なのだから、自分たちは何をしても神はお見捨てにならない。神の選びと祝福は決して変わらず我々は奪われることはない。彼らはそのようにたがを括っていたのです。主はそのイスラエルの家に対して主は気づきと立ち返りを求められ、イスラエルの民がその御心に反する態度を取り続けるのなら、もはや断罪する、と言われるのです。                           
これはイエス・キリストの御救いに与る私たちにとりましても教訓となることです。私どもは主の御救いにより罪赦された者となりましたが、では罪が赦されるのだからということで自分の欲望のままに振る舞い、御心に沿わない生活を続けるのなら、いずれは主から与えられた祝福を失うことになってしまうでしょう。
9節~10節で主は、「わたしの目に悪とされることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、彼らに幸いを与えようとしたことを思い直す」とはっきりと言っておられます。  
ここで主が幸いを与えようという約束を「思い直される」ということが語られています。身の正される思いがいたしますが。しかし忘れてならないのは、陶工にたとえられる神さまは、ただ罪深き者を断罪し、滅ぼすことが目的なのではなく、立ち帰って神さまの御心に適う神の民・神の作品として形作られることを切に願っておられるということです。  そのために陶工が粘土を自らの手で何度もこね、自分の手で壊し、作り直すように、神さまは主の救いに与るクリスチャンに対しても、同様に扱われるということであります。  
私たちは主を信じて生きていく中にも、時に「打ち砕かれる」という経験をいたします。もう、ぐうの音も出ない。言葉では言い表せない辛さ、苦しさを経験する時。それはもう神さまの前で降参するしかない時であります。「ああ、私の何がいけなかったのか」。   多くの人は考え込み、一層悩みを深くします。けれども考えてもわからない場合が多いのです。ただそこに「打ち砕かれる」という経験だけが確かに存在するのです。けれどもなお主に捕らわれた人は、そこから主の御手によって練り直され、新しい人に造り変えられるのです。                                   どんな時も主は断罪し、滅ぼすのが目的なのではなく、主の御心に聞き、心から主に立ち返って生きる者を新しく造り変えてくださるお方なのです。                           
今日のこの箇所からの陶工にたとえられる主は、御自分の御心に沿って愛する器、神の作品として生きる神の民が、立てられていくことを切に願っているということです。そこに練り直し、打ち砕き、作り直すことの目的があります。その過程に起されていくのは、「愛と恵みの主に気づき、その御心に聞き、心から悔改め、立ち返って生きる」。そこに主の豊かでくすしき御業が起こされていくのであります。
今日、エレミヤが見た陶工の姿と聞いた主のお言葉から、神さまが私たちをその御手で触れ、何度も練って、愛する器に作り直そうとされている御姿を示されました。それは又、神さまが人間を見捨てず、あきらめず、忍耐強く関わり続けるお姿であります。すべは神の御手のうちにおかれていると、心から信頼できる人は真に幸いです。                   
先々週の水曜日夜の祈祷会に出席されているHさんから、「私はイエス・キリストを私の救い主として信じ、バプテスマを受ける決心ができました」と、ほんとうにうれしい言葉を戴きました。初めて仮会堂にお電話くださってから、それからほぼ毎週の祈祷会、主の日の礼拝に出席なさっておられますが。御自分や周囲に様々な出来事が起こっていく中で、不思議なかたちで幾度も「主が生きておられる」ということに驚き、気づかされたと、お証しくださいました。さらに病気で苦しんでおられる知人にも近くにキリスト教会があればお勧めしたいので、推薦できる教会を教えてくださいという御依頼を受けました。その方も福音に触れ、御救に与ることができるといいですね、とそういうお話もできました。                               今仮会堂ですので、すぐに「バプテスマ」式は難しいので、12月の新会堂が出来あがった時にバプテスマができればと御本人ともお話をしながら、約半年かけて祈り、学びの準備を進めていくことにいたしました。私どもにとりましても、主にある兄弟が加えられるということはほんとうにうれしい、主のプレゼントであります。
このHさんからお話しを伺った後で、私は今日の礼拝の始めに招詞として読まれましたⅡコリント5章17~18節が思い起こされました。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」
本日はエレミヤ18章から、陶工と粘土のたとえを通して「主が愛する器を作るために私たちを練り、こね、良いものをと願いつつ、作り直される」という記事を読みました。    陶工にたとえられる主の愛と忍耐によって私たちは神の作品として日々御手の中で造られているのです。さらに、新しい契約の時代に生きる私たちにとっては、「神の比類なき愛」「御独り子イエス・キリストの尊い恵み」「聖霊の豊かな交わり」のもと、人は新しく作られるのです。そうして、新しく作られた者は、神と人の「和解のために奉仕する」器として主がお用いになられるということであります。                   
 本日宣教題を「神の作品として」とつけましたが。クリスチャンの世にあって託されている務めは、神と人の和解のために奉えることであります。私たちはそれぞれに性格や好みは違いますけれど、主イエスと出会い、そのご愛によって御救い与ることがゆるされた者であるという点ではみな同じであります。それぞれのかたち、ありかた、持ち味を持って、神の作品としてキリストに倣って生き、神と人の和解のために仕えていくことを主は喜びとしてくださいます。何事も義務感や強いられるかたちではなく、神のご愛、十字架の主イエスの御恵みと感謝に押し出され、受けた恵みによって仕えてゆけばよいのです。陶器師主は、あなたのすべてを知っておられ、神の民として取り扱っておられます。主の御声に聞き従い、その御手の業に信頼して今週も歩んでまいりましょう。
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預言者エレミヤの召命

2013-06-03 11:42:37 | メッセージ
宣教 エレミヤ1章1~10節 

預言者エレミヤの召命について、いくつか特徴的な面を見ることができます。
それはまず4節に「主の言葉がわたしに臨んだ」と記されていますように、エレミヤの預言者としての使命観や召命観というのは、彼が自分からやりたくって求めたものではなく、又人から与えられたり、勧められたりしたものでもなく、まさに主ご自身が彼を召し出されたということです。
しかもそれは、昨日今日決まったというものではなく、5節に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」とありますように、エレミヤが預言者として立てられることは、生れる前から主がむしろその事のためにエレミヤは生れて来たとも言えるでしょう。
現代、この日本では実に多くの人が自分の存在意義を見出すことができず苦しんでいます。お金があるかないか。仕事や学問の成績が良いか悪いか。周囲の見た目や、地位や肩書きによって計り計られてきた現代人は、それらがあたかも存在の意義であるかのように錯覚してしまっていることが、往々にあるのではないでしょうか。
けれども本日の箇所にありますように、母の胎内に人をかたち造るお方は、実に私たちをかたち造られる前からずっと私のことを知っておられ、母の胎から生れる前かにその人にしかできない役割、存在の意義をもって命を与えておられるのです。
私たちクリスチャンは、それぞれのタイミングで主イエスと出会い、御救い与り、新しい命に生きる者とされたのでありますが。このことも聖書には各々が、「神のご計画に従って召された」と書かれています。私たち一人ひとりも、神に知られそのご計画の中にあって万事相働きて益となるように、存在の意義をもつ者とされているのであります。

主はエレミヤに「わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」と語られます。「聖別する」というのは、ある特別な目的のために取りわけておくということです。エレミヤが清いとか、聖なる者であったからというのではなく、主がエレミヤを諸国民の預言者としてお立てになるために、主自らエレミヤをその使命のために聖別されたのです。

その主の言葉に対してエレミヤはどう応えたか言いますと、6節「ああ、わが主なる神よ
わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」と、ためらい自分には相応しくありませんと、何とか逃れようとするのですね。ちなみにエレミヤは「若者に過ぎないので、語る言葉を知りません」と言っていますが。彼は当時少なくとも20歳にはなっていただろうということですから、単に年齢的に若いということではなく、自分のような若輩者にはあまりに重く大きすぎる使命で到底なしうるものではない、ということでありましょう。前回の預言者イザヤもその召命にあたり、「災いだ、わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇」といっています。又、出エジプトのためにモーセを主が立てられた時も、モーセは「ああ、主よ、わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕に言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌が重い者なのです」と答えています。
共通するのは、彼らが聖なる主への畏れをもち、自分の力や能力により頼むことによって主の働きを担うことができない弱い存在であることを知っていた、自ら知っていたということであります。私の力でそれができるという人は、すべてを自分の栄光のためになし、高慢になり、滅びを招くことになるので、主がお用いになることができないのです。

使徒パウロはⅠコリントの信徒への手紙1章のところで、「あなた方が召された時のことを思い起してみなさい。人間的に見て知恵あるものは多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。それは誰一人神の前で誇ることがないためである」と書いています。働きのうちに、又事が成し遂げられていく時に、「これは私ではなく、主がなしてくださったこと」と、主に栄光を帰していくものでありたいです。
新会堂建築の業も、主が小さな私たちを通して必ずその栄光を顕される出来事を起してくださる、と期待するものであります。

さて、エレミヤは次のような主の言葉を聴きます。
「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」。
大切なのはこの「主が共におられる」ということです。「主が共におられる」ことを頼みとし、杖として立ち上がる人を主は大きくお用いになられるのです。エレミヤはイスラエルだけでなく、諸国民の預言者として立つよう任命されました。エレミヤにとってそれは恐れと不安でしかなかったでしょう。けれども主はエレミヤに、「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」とおっしゃるのです。私たちはすぐに計算を始めてしまいます。これだけあるから大丈夫、逆にこれだけしかないから無理だろうと、しかし計算することよりも主の御心を尋ね求めて決断することが大切なのです。
主はエレミヤに「手を伸ばして、その口に触れ、『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける』と約束してくださいました。主自らそのことをなそうとされ、そのために必要な力と守りを与えてくださるのです。それは信仰者を勇敢にします。
このエレミヤの召命に並べる事などできませんが、昨年の関西地方教会連合の役員改選総会で、思いもかけず私が次期会長に選出されてしまって、何よりも自分が驚き一体どうしたものか、という不安を抱えなが大阪に帰ってきたのですが。それから、ちょっと荷が重すぎる。何も会堂建築という大きな事業が始まったばかりのこんな時に、と何度も考えました。そして役員会や教会にそのことを報告しますと、「どうか会長の役を担ってください。私たちも精一杯祈って支え、サポートいたしますよ」といって下さったのです。それは他ならぬ主ご自身が「わたしがあなたと共にいるから」と言われているように思えました。私は皆さまの励ましと主のお言葉に押し出されて御役目をお引き受けする決心ができたのです。自分の力や状況を思えば難しいことではありましても、主が導き共におられますなら、人の能力を超えて主の栄光が顕されるため用いられることができると信じます。
それは私のように教会関係の働きに限ったことではありません。神さまはすべてのクリスチャンに、それぞれ役割を与えておられます。御救いに与った光の子としてそれぞれ遣わされた場、その人間関係の中で、「ここに御国が来ますように、御心がなりますように」と信仰をもってチャレンジしていく時、不思議と力が与えられ、助け手が現われ、後々振り返った時、証しとなっていくような出来事が起されていくのです。

さて、さらに主はエレミヤに言われます。
「見よ、今日、あなたに諸国民、諸国王に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」
主はエレミヤに諸国民、さらに諸国王に対する権威をもゆだねられたのです。それは、世のいう権力や軍事力ではありません。御言葉にある権威、御言葉の力による神の国の再建のためのものであります。
23章29節には、「わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか」と主は言われています。このように御言葉は神の御心に沿わないものを焼き尽くす火であったのです。
新約聖書ヘブライ4章12節にも、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」とあります。御言葉はすべてのものを明らかにし、正しい審きと再建をもたらすのです。

エレミヤの使命は「御言葉による神の国とその民の再建」でありました。
「抜き、壊し、滅ぼし、破壊する」というのは、これから起こるであろうエルサレムの崩壊と捕囚を示しています。それは避けられなかったのでしょうか?主はエレミヤ以前にも幾度も預言者を遣わし、立ち返るようにと忍耐強くさとし、促されたのです。
けれども民と王たちは主に逆らい、主に罪を犯し続け、その心は実にかたくなであったのです。そのままでは神の民としての都も人々の信仰も腐り朽ち果てるしかなかったのです。
神の国とその民の再建、「建て」「植える」ためには地を焼き払い、荒地を耕して、そこに将来の種子を蒔く必要があったのです。

大阪教会の新会堂建築に先立ち、旧会堂は完全に解体されました。旧会堂が粉々になっていくのは少し寂しく心が痛みましたが。「古いものは過ぎ去り、見よ、新しいものが生じた」という実体が今の大阪教会には必要なのだ、と思いました。
又、その基礎地盤となる地中からあらゆるガレキや障害物もほぼ取り除かれました。
それは新しい大阪教会のあゆみを始めるため取り除かれるべき過去の遺物を象徴しているようにも思えました。そこに今、基礎地盤が据えられています。私たちは唯キリストとその御言葉を土台にしていくことを、心新たに確認し、神の国とその民としての再建を共に志してまいりたいと切に願います。
最後に、今日は「預言者エレミヤの召命」の箇所を読みましたが。エレミヤは「悲しみの預言者」とも言われています。神の審判を告げ、悔い改めるよう語り続けますが、民らは一向に耳を貸そうとしないばかりか排斥し、迫害します。エレミヤはそんな民のために深く嘆き悲しみとりなし続けるのです。エレミヤは主とその言葉に従うがゆえに多くの苦難と悲しみ、さらに危機に遭遇いたしますが。その度に何度も、何十回、いやもしかすると何百回以上も、主の召命の言葉を思い起こしたことではないでしょうか。その預言者として主に立てられた時の「召命の言葉」を幾度も反芻する中で、慰めと力を得、その働きを担い続けることができたのでありましょう。主なる神さまは、エレミヤ(神が立てられるの意)というその名の通り、神の国とその民の再建のために彼を建て、用いられました。
主の御救に与っている私たちも又、主の福音を伝え、証しするためにそれぞれが主に立てられ、用いられます。小さなことを忠実に、心を込めて主に従ってまいりましょう。主は共におられます。
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