日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

わたしの居場所

2012-05-20 18:44:39 | メッセージ
宣教 士師記11章1~11節、29~35節 

先週の新聞に掲載してあったのですが。「親の育児放棄、経済苦、障害。生きる困難を抱えた子どもの最後のセーフティーネットになってきた、大阪市内に点在する「子どもの家」が、大阪市長の指示で廃止の危機にある、という記事に目が留まり、心痛みました。その中の一つである生野区の「じゃがいも子どもの家」には、T姉のご長男も通っておられます。そこは利用者の半数が障害のある中高生だそうです。先週T姉がもって来られた「大阪市議会に事業の存続を求める請願書」に私も署名させて戴きましたが。又、山王子どもセンターや子どもの里は、日雇い労働者の街、西成区にあります。実はその子どもの家ですありますが、ずっと路上生活者の方がたへの「子ども夜回り」活動を続けていることで以前から知っておりました。親の育児放棄、経済苦、障害などで生きる困難を抱えている子どもたちが、この子どもの里で生きる力を養われ、路上生活の人たちと接し、ともに元気づけられるという、ほんとうに素敵な出来事が起こされているのですね。そういうことで、しんどい家庭事情で「行き場がここしかない」という「子どもの家」の存続をと、心から願いますし、こうした一番弱く、小さくされている子どもたちの居場所が守られてこそ、大阪の豊かさではないかと思わされます。

本日は先ほど読んで戴きました士師記11章より「わたしの居場所」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。士師記からの礼拝宣教は来週特別伝道集会のため本日が最後となります。これまでデボラ、そしてギデオンと二人の士師の人となりとその働きについて聖書から聞いてきましたが、本日はエフタという士師の物語であります。

冒頭に、「ギレアドの人、エフタは遊女の子で、父親は土地の名前と同様ギレアドといった。ギレアドの妻も男の子を産んだ。その妻の産んだ子どもたちは成長すると、エフタに、『あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない』と言って、彼を追い出した」とあります。
エフタは兄弟から「ここに、おまえの居場所はない」と言われ、そこから逃れてトブの地に、身を落ち着けるのですが。彼のもとにはならずものが集まり、一緒に徒党を組んですさんだ生活をしていたようです。トブの地でエフタはならず者らと結託することで、孤独を紛らわしていたのかも知れません。ならず者らと行動をともにすることで理不尽な仕打ちに対するやり場のない感情のうさをはらしていたのかも知れません。皮肉なことに、ギレアドの居場所を奪われたエフタは、そのことのゆえにならず者の首領にまでのし上がったとも言われています。

さて、しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。アンモンの人々の勢いが強くなってきた時、ギレアドの長老たちはエフタをトブの地から連れ戻そうとします。トブの地でならず者の首領となったエフタの事を噂か何かで知っていたのでしょう。
彼らはエフタのもとにやって来て、「帰って来てください。わたしたちの指揮官になっていただければ、わたしたちもアンモンの人々と戦えます」と言いました。
これに対しエフタは答えます。「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか」。エフタは、今さら何て虫のよいことを言うのかと思ったことでしょう、彼がそう言うのもしごく当然です。
しかしなおもギレアドの長老たちは引き下がらず、エフタにある条件を出してきます。
「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるのなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます」。
エフタはその彼らの言葉に反応して答えます。「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭となるのですね」と、エフタはそのように念を押して聞き返します。
するとギレアドの長老たちは、「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と確約したので、エフタは彼らの言葉に応え、同行します。こうしてエフタはイスラエルの頭、指揮官(士師)として立てられていくのです。
11節に「エフタはミツバで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した」とありますが、それはまさにギレアドの長老たちに念押しした言葉、すなわち「アンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしが民の頭になるという、その言葉をことごとく主の前に、まあ幾度も幾度も繰り返したというのです。

今日のこの記事で、ギレアドの長老たちが「エフタをトブの地から呼び戻す」行為については、人間のご都合主義というか、身勝手さを感じます。人は自分にとってやっかいな人、異質と思える人を排除しようとし、逆に自分に益をもたらす人、役立つ人には近づき身近に置こうとするものです。自分の場所、ポジションを守るためにそうするのです。

一方、エフタについてでありますが。居場所を追い出された彼は、ギレアドの長老たちの申し出に何を今さらと思いつつも、本来あるべき場所であるはずのギデアドに首長として凱旋するという野心が湧いてきたのであります。幾度も繰り返し確約した言葉を口にするエフタ。どんなに強い人であっても、それほどまでに自分の居場所を求めたり、取り戻そうとする。それは人間生来に欲求といえるものなのでありましょう。すなわち、「自分は一体何者なのか」という人間の最も深い意識とつながっているからではないでしょうか。
ところで、エフタにはイスラエルの民としての認識と主への信仰がありました。ならず者と行動をともにし、すさんだ生活をしてはいても、自分のルーツについては、主によってエジプトから導き出された民であることを知っていたのです。アンモンの王に送った言葉にもそのことがよく表されています。彼は「主がそのようになしてくださるのなら」と、幾度も口にしますが。そこには彼の信仰も伺われます。主はこのエフタを士師として、ほんとうに不思議なかたちでイスラエルの解放の担い手としてお用いになられるのであります。
さて、聖書教育では1~11節迄となっていましたが、本日は後半の29~35節も読んで戴きました。前半だけだと、まあならず者となったエフタが更生してイスラエルを危機から救い出す指導者、士師として立てられていった、という如何にも美談で終わりそうです。が、やはりそこは後半部分のエフタの弱さと罪も知る必要があるでしょう。

エフタとアンモン人との話し合いによる和平交渉が決裂した後、主の霊がエフタに臨み、彼はアンモン人に向かって兵を進めます。
そこでエフタは、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と、主に誓いを立てるのです。
なぜ彼は主に対して「もしあなたが~してくださるなら」という条件つきの誓いを立てたのでしょうか?しかも、このような人を生けにえとするような誓いを。彼は自分の家の戸口から、娘が出てくることを想像できなかったのでしょうか?それは十分に予想できたことでありましょう。それなのになぜ彼はそのような誓いを主に立てたのでしょうか?

ギレアドの長老たちとの交渉の時もそうでした。彼は「主が敵をわたしに渡してくださるなら、(条件を提示し、そのあかつきには)このわたしがあなたたちの頭になる、というのですね」と、念を押し、またその言葉を聞いていますかとばかりに主に対してことごとく繰り返したのです。
彼は人に、それも親族の者に裏切られるという体験をもっていました。それはエフタの心に深い傷となり、より確かなもの、裏切られないための何か保証のようなものを求めていくような言動につながったのかも知れません。又、エフタが戦ったアンモン人は、彼らの神(モレク)に人身御供を行っていたようですから、エフタはアンモン人に勝つためには、主に対して同じか、あるいはそれ以上のことをしないといけない、と考えたのかもしれません。エフタは残念なことに、より確かな保証をこのようなかたちで求めたのでありましょう。彼は勢いこのような誓いを立ててしまったのです。

32節。「こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった」。確かに彼は誓いどおりのことを得たのです。
ところが、エフタが勝利してミツバにある「自分の家に帰ったとき、自分の唯一人の子、愛する娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た」というのです。エフタは娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いて(誓いを立てて)しまった。取り返しがつかない」。

エフタは確かに必死でした。でも、そのことで最愛の一人娘を失うことになるのです。
エフタにとって娘は自分の命と同じくらい大切な存在であったことでしょう。それを、自らがなした誓いによって失ってしまうのです。
新約聖書においてイエス・キリストは誓うことを一切、禁じられました。(マタイ5:33-37)。それは、神に依り頼んで信頼するのではなく、自分の忠誠心や力を頼みとして生きることを示しているからです。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)。
それが聖書の真理なのです。

今日のエフタの物語を読みながら、人間は光と闇の部分、長所もあれば短所もある。強い面もあれば弱い面もある。善悪ではかれない、ほんとうに多面性をもっているのが人間であるなあと思わされました。その中で、どんな人にも共通しているのは、人は居場所、本来あるべきところを切に求めて生きる存在であるということです。

今日は「わたしの居場所」ということを思いながらこの個所を準備しました。
エフタは確かにミツバの家に凱旋を果たしました。彼をしてモアブの危機からイスラエルの民が守られたというのは確かであります。しかし、そのために払った犠牲はとてつもなく大きなものでした。彼はほんとうに自分の居場所を見つけることができたのでしょうか?

人は家さえあれば居場所があると言えるでしょうか。住民票があれば、家庭があれば、地位があれば、お金があれば平安と言えるでしょうか。勇者、イスラエルの士師でありながら、切ないほどほんとうの居場所を切に求めて生きたエフタ。
聖書は私たちに、ほんとうの居場所は「神さまに信頼しながら歩み続ける」ところにある、と語っているのではないでしょうか。人間は恐れや不安がありますから、神さまでないものや力に頼り、それで事はうまくいくかも知れません。けれども、そこには真の平安といいますか、心安らげる「居場所はない」のです。

新しい週が始まりました。どのような時も、主に依り頼み、信頼してまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主に頼ることこそ力の源

2012-05-13 18:33:20 | 教会案内
宣教 士師記7章1~21節 

今日の物語の主人公は士師として神さまによって立てられたギデオンです。彼の人となり、又召命については前の6章に詳しく記されていますが。彼はミディアン人が襲って来た時、酒船の中に身を隠す程恐れていました。ところが神さまはそのようなギデオンを見つけ出し、「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけるのであります。しかし、ギデオンは「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたした
ちにふりかかったのですか」と答えます。
主はそれにお答えにならず彼の方を向いてただ「あなたはその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
なおも不安なギデオンは「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下のものです」「それならば、そのしるしを見せて下さい」と嘆願すると、それに対して主はギデオンと共におられるしるしを示して見せられた。そしてギデオンはそこに「平安の主」という名の祭壇を作った、というのですね。まあこの6章から、ギデオンという人のとても慎重な、又不安と弱さを抱えて悩む人間らしいその姿がよく読みとれます。

さて、ギデオンはある朝早くエン・ハロドのほとりに三万二千人の兵を率いて陣を敷きました。主はギデオンに言われます。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をそ
の手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分
の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」。
ギデオンはこの主の御言葉と共に「それゆえ、恐れおののいている者は皆帰りなさい」と呼びかけます。こうして二万二千人が帰り、一万人が残りました。ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ」そこで「犬のように舌で水をなめる者、膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい」とお命じになります。そして、主の言われたとおりにすると、すきのない者のように思慮深く注意深く手で水をすくって飲んだのが三百人いて、主は彼らをもってイスラエルを救う要員とされることを約束され、他の九千七百人は戦列から離れて帰るよう指示されたというのです。

そのような中でギデオン自身きっと不安と恐れを抱いていたのではないでしょうか。何しろ12節にあるように敵の「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いなごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなかった」。まあそのような大軍を前にして対するイスラエルは三百人をもって戦え、と主が言われたからです。
そんなギデオンの心を見抜かれたように主はその夜ギデオンに言われます。「起きて敵陣に下って行け。わたしは彼らをあなたの手に渡す。もし下って行くのが恐ろしいのなら、敵陣に下り、彼らが何を話し合っているかを聞け。そうすればあなたの手に力が加わり、敵人の中に下って行くことができる」。すると彼は主の言われるとおり、すぐに従者と共に敵陣の偵察に向かいます。前線にまで下るやいなや、一人の男が仲間に夢の話をしている声を聴くのですが、それはこんな話でした。
「大麦の丸いパンがミディアンの陣営にまで転がり込み、天幕にまで達して一撃を与え、これを倒し、ひっくり返した。こうして天幕は倒れてしまった」。その仲間の一人はそれを聞いて答えます。「それはギデオンの剣に違いない。イスラエルの神は、我々ミディアン人とその陣営を、すべて彼の手に渡されたのだ」。

ギデオンはその話を聞いて、主なる神さまこそ全てを支配し治めたもうお方であること。すなわち、「主に頼ることこそ力の源である」との確信をもち、その主の勇士たち三百人を率いて夜中に出陣するのであります。そうしてその大麦パンの夢のお告げどおりのことが起こるのです。このミディアン人たちが夢で見た大麦のパンは、日頃食べている普通の食物でした。同様にギデオンもいわば普通の人でした。彼に何か特別な能力があるわけでもなく、力もそんなに強かったわけではありません。むしろ少し臆病でもあった位なのです。
けれど主は、そのギデオンをして「勇者よ」と呼びかけ、お用いになられるのであります。

本日のお話は、初め三万二千人というイスラエルの兵を率いていたギデオンに、主なる神さまは次々とその兵士を減らし、最後には三百人にまでなっていく。まあその相手のミディアン軍は総勢十三万五千人もいたわけですから、そんなの常識で考えればイスラエルの敗北は戦わずとも目に見えているようなそんな状況の中で、主はギデオンとその三百人に力を与え、イスラエルの人々を苦しみから救うためにお用いになられます。
主は自らの栄光を現わされるため、又イスラエルが自分の力でそれをなしたのだと心おごることのないために、あえてそのようになさったのです。ギデオンもまた、人の作った武器や世の権力、又兵士や軍馬の数の力に頼るのではなく、「主に頼ることこそ力の源がある」と、信仰の行動をもってそれに応えました。又、それはただギデオンだけを通してなされるのではなく、イスラエルの勇者三百人が三つのチ―ム何とかに分かて、つまりチ-ムワークを発揮してギデオンと共に心一つになって、勝利のため向かって行ったのであります。「主に頼ることこそ力の源」。そのことをして主の采配による勝利へと導かれるのであります。

私ども大阪教会は、現在新会堂建築という主が与えられたビジョンの実現に向かって歩み出しておりますが。新会堂建築が主の福音宣教と主の御業を証ししていくためにまず、私たちが主にあって心を一つにして、祈り合い、捧げ合い、仕え合っていく、そういう信仰に根ざしたチームワークがほんとうに大切ではないでしょうか。もちろん数や数値の問題は気になるところです。しかしそれは大勢だからできた、力ある者がいたからできた、と私たちが心おごることのないよう、主の御業を求めるべく備えられた状況ともいえましょう。まず何よりも、「主に頼ることこそ力の源」だということを心に留め、共に新会堂建築の働きに関わらせて戴きましょう。

最後に、先週の8日~10日迄の3日間、連盟の公害問題委員会主催、震災被災地支援委員会共催による、福島フィールドワーク:現地研修に参加させて戴きました。その少し報告をさせて戴きます。
現在、連盟の震災被災地支援の働きは、北から「チ―ム岩手」「チ―ム宮城」「チーム福島」という三つの地区においてなされ、現在は避難所から仮設住宅で避難生活をされている被災者の方々に対する様々な支援が行われているそうです。
先週は、震災と津波に加えて原発事故の被災地でもある福島を3日間でしたがお訪ねし、部分参加も含め80数名の方々と現地研修に参加しました。その報告についは午後の信徒会の時にもお話させて戴きますが、いくつかの深く考えさせられたことについてお分かちしたいと思います。

①前福島県知事・佐藤栄佐久さん 講演より
「原発事故後、いくつかの町が合併はしたが、町が分断された。(数は力ではない。)
300のコミュニティーが崩壊。
原発は「世代間の共生さえ出来ない」。原発の一世代は道路、ビル建設いい思いする。
二世代は原発、使用済み燃料のみ残る。」

②飯館村の菅野典雄村長さん 講演より
「日本は世界一安全な国だったが、世界一危ない国に変わりつつある。
自分さえよければ他人はどうなってもいい。(アネハ事件)(福知山線脱線事故)を引き合いに出しながら、利己的で利益優先の考え方が日本に蔓延していると。
原発事故後、全村民避難(計画的避難)により町がゴ-ストタウン化。
「これはただの災害避難でない、放射能による災害は人の心を分断する。」

③福島市内にある福島旭町教会を訪ね、こひつじ幼稚園の礼拝に出席した。
教会と園の庭に、大きなドイツ製の放射線量計が設置されていた。子どもたちが賛美をもって歓迎してくれ大変励まされたが、歴史のある園だが原発事故以来園児の転居が増え、減少しているとのこと。子どもたちのおかれて状況の厳しさを思いしらされた。

④福島の飯館村役場、南相馬、長泥地区~川俣長~山木屋地区をバスの車窓から見学。
長泥地区のバス内の放射線量は放射線量測定器の10マイクロシーベルトを振り切りブザ―が鳴り続く。何でも16マイクロシーベルトはあるようで、バスの中であったが私も外部被ばくした。放射線量は目では見えないので、それを感じない恐ろしさを実感した。
津波の被害にもあった南相馬の津波の後地を歩いたが、まだ多くのがれきがいくつも積みあがっていた。一つ目が奪われたのは、その沼の川沿い咲かせていた黄色い花。近づくと2本のたんぽぽだった。ほんとうに美しいと思った。命の力に感動を覚えた。人も動物も植物も「生きたい」と切に願っている。それを阻む状況に憤りさえ感じる。

⑤最後の三日目は郡山市の緑が丘にある仮設住宅(富岡町の原発被災者避難者100人入所)を訪問させて戴いた。一輪のカ―ネションに研修参加者の思いを込めたメッセージカードを添えて一軒ずつお訪ねしました。
禁句;「がんばってください、信者になってください、きっといいことがあります、等。」また集会所で行われている歌声喫茶のお手伝いもさせて戴いた。郡山コスモス通り教会が、この仮設住宅に入所されている方々とずっと関わり続けておられるということ。

今回福島に初めて足を運び、ほんとうに山と海の自然に恵まれたその地の美しさを知りました。が、見えない放射性物質によって人、動物、自然の命が如何に脅かされ、危機に瀕しているという実情を知らされました。また、原発についての大阪と福島の温度差は確かにありますが、私のなかの温度差は少し縮まったし、このフィールドワークに参加できてよかったと思います。歩いてみて知らなかったことがこんなにもあるのか、それが実感です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主が、あなたに先立って行かれる

2012-05-06 15:05:26 | メッセージ
宣教 士師記4章1~16節 

今日から3週にわたり礼拝で「士師記」を読み、御言葉を聞いていきます。
私も実に15年前に礼拝で取り上げて以来ですので、久しぶりの士師記となります。まず、この「士師」という存在についてでありますが、まあ士師記にはデボラやギデオンなどよく知られる士師がいますけれども。その最初に士師として立てられたオトニエルについて、3章10節に「主の霊が彼の上に臨み、彼は士師としてイスラエルを裁いた」と、記されています。そのように士師として立てられた人たちは単なる善悪を裁く裁判官というより、主が立てたもうイスラエルの救助者であり、主の御心を行うように指導し、治める権利を有する力をもった存在であったといえます。

それでは、どうしてこのような士師たちが登場したかというその背景でありますが。それは2章10節以降に記されていますように、ヨシュアの死後イスラエルの中に「主を知らず、主がイスラエルに行なわれた御業も知らない別の世代が興り、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行って、主を捨て、他の神々に従い、それらにひれ伏すという状況に陥っていたということです。
 聖書にはそのことで主がイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せ、周囲の手に渡し、その約束の地において災いをくだされたと伝えています。彼らは苦境に立たされると、主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出されました。しかし、彼らは士師たちにも耳を傾けず、他の神々に従い、ひれ伏したのです。
「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、憐れに思われたからである。その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ絶たなかった」と記されています。

そのようなイスラエルに対して主は怒りに燃え次のように言われます。
2章20節「この民はわたしが先祖に命じたわたしの契約を破り、わたしの声に耳を傾けなかったので、ヨシュアが死んだときに残した諸国の民(異教の神々に仕える民)を、わたしはもうこれ以上一人も追い払わないことにする。彼らによってイスラエルを試し、先祖が歩み続けたように主の道を歩み続けるかどうか見るためである」。
このようにしてイスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住んで、なおも悔い改めることなく諸国の神々、偶像に仕えたのです。

本日の4章において士師デボラとバラクが登場いたしますが。それまでにもオトニエルやエフドといった士師たちが神によって立てられていきます。ところが一連のパタ-ンといいますか、その道筋はいつも同じなのですね。
「まずイスラエの人々が主の目に悪とされることを行う。主が怒られて異教の諸国の民にイスラエルを渡されてイスラエルは支配され苦境におかれる。そこでイスラエルの人々は主に助けを求めて叫ぶ。主は士師を立てて圧迫されたイスラエルを解放し、平穏な時代が訪れる」のです。
しかし、「その士師が死ぬと、イスラエルの人々はまたまた主の目に悪とされることを行
い、主の怒りを受け、偶像の神々に仕える諸国の民に渡され、その支配と圧迫の中で苦しむ」と、まあ性懲りもせずと言いますか毎度このパターンが繰り返されるわけです。
解放され、平穏を得ては士師が亡くなり世代が変わると、また神ならざる者に従い、ひれ伏すそういう罪を何度も繰り返すイスラエルの民。

この記事をとおして人の心の移ろいやすさ、優柔不断で脆弱な信仰があるがまま記され
いますが。その一方で、主なる神がそういったイスラエルの人々であるにも拘わらず、憐れみをもって変わることなく寄り添い続けておられることが分かります。それは何とかイスラエルの人々が真心をもって立ち返り、主の戒めと教えとを守り、生きていくことを、忍耐をもって見守り、願っておられたからではないでしょうか。神さまの厳しくも深い、あたかも父親のような愛を知らされる思いがいたします。
 ヘブライ人への手紙12章5節に「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」と旧約聖書伝来の御言葉が記されています。
 その父なる神の愛を知らされた者は、むしろ与えられた恵みを軽んじることなく、救いの道を逸れないように、主の御心に聴き従って生きることが日々必要なのではないでしょうか。

さて、今日の4章も、「士師のエフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、主はカナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された」とあります。「イスラエルの人々は二十年に亘りヤビンの支配下において力づくで押さえつけられていた」というのです。
そういう中イスラエルの人々は、主の救いを思い起こし、主に助けを求めて叫んでいました。「ラビドトの妻、女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁くようになったのはそのころである」と4節にありますが。そのデボラが士師となって指導力を発揮していたので、イスラエルの人々はデボラのいるエフライムに迄彼女に裁きを求めて上っていったというのです。まあこの時代に既婚の女性で士師というのは大変珍しかっでありましょうが。彼女はカナンの王による圧迫の支配からイスラエルの人々を救い出すために、イスラエルの兵隊長であったバラクを呼んで、神からの言葉を伝えます。
「行け、ナフタリ人とゼブルン人一万人を動員し、タボル山に集結させよ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車、軍勢をお前の前に対してキション川に集結させる。わたしは彼をお前の手に渡す」と。
このデボラから神の言葉を聞いたバラクは、デボラに答えました。「あなたが共に来て下さるのなら行きます。もし来てくださらないのなら、わたしは行きません」。デボラはその頼みを聞いて、直ちにバラクの率いる一万人の兵士と一緒にタボル山に向かいます。

一方、カナンの将軍シセラはイスラエルの兵隊長バラクがタボル山に上ってきたとの知らせを受けると、すべてのカナンの鉄の戦車900台に加えて自分に属するすべての軍隊を召集し、バラクたちのもとに向かってきます。鉄の戦車はこの時代のものとしては最新鋭の最強の武器でした。イスラエルはソロモンの時代まで鉄の戦車はなかったのです。又、これといって優る武器はありません。戦いのために特別な訓練をしているわけでもありません。バラクとイスラエルの兵士たちはきっと恐れと不安でいっぱいであったに違いありません。

そんなバラクに向かってデボラは神の言葉を伝え、励まします。
「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに
先立って出て行かれたではありませんか」。
バラクはこのデボラを介して語られた神の言葉に押し出されるように、一万の兵を従え、タボル山を下ります。すると主は、シセラとそのすべての戦車、すべての軍勢をバラクの前で混乱させられたのです。具体的にどういうことが起こったかはここに記されていませんが、この戦いの後に謳われた5章のデボラの歌の中に「キション川は彼らを押し流した」(21節)云々とありますことから、多分この戦いはタボル山の麓の地中海へ流れ込むキション川のほとりでなされたようで、そこは夏はささやかな流れですが、冬の雨季には凄まじい勢いで流れたようです。戦いは丁度川の水が氾濫した時に起こって、戦車もぬかるみ士気をくじかれ混乱を来たしたのではないか、というのが通説であります。
まあ、いずれにしましても、まさにこの雨を降らせたのはカナンの偶像の神々ではなく、生ける主なる神であり、その「主が先立ち行かれる」ことで、イスラエルの人々に解放の道が開かれていったということであります。

ここを読む時にデボラの働きの大きさを覚えます。
彼女は直接的に戦いをなした訳ではありませんが、バラクらと共に行って神の御言葉を伝え、励まし、力づけます。それはバラクをはじめ、イスラエルの民の心を神に信頼することへと導きました。民は戦車に象徴される軍事力によるのではなく、共におられる主の力に依り頼み、勝利を得たのです。又、デボラは感謝と賛美の歌(旧約時代最古の賛歌)によって主にその栄光を帰したのです。民は真に畏れるべきは主であること、共におられる生ける主の愛を再確認したことでありましょう。そのような主の器として用いられたのが、女性であり、既婚者でもあったことは当時の社会状況を考えますとセンセーショナル(衝撃的)な出来事であったでしょう。性別、あるいは立場や年齢に関わらず、主は自由な霊の選びによって、日々、主のご用を果たしていく者たちを起こされていくのです。私たちもそれぞれのおかれた状況は異なりますが、主の御心に聴き従い、御言葉と祈りと賛美による励ましをもって、それぞれの身近な隣人のもとへ遣わされていきたいと願います。

最後に、今日のこの箇所から強く思わされますことは、「主を畏れることの大切さです」。
それは、何度も神に背いて罪を犯し続けるイスラエルの人々に向けられていますが、しかし、これは今日の時代に生きる私たち人間すべてに向けられたメッセージでもあります。
時代や科学技術が発展しても万全なものはありません。絶対といえるものはありません。
カナンの鉄の戦車が今日のお話で登場しましたが、これなど当時としては最新鋭の武器・力を象徴するものでした。それが、平地では大きな力を発揮しても、山には上れません。そして洪水には流されてしまうしかなかったのです。日本にある50基の原発が昨夜からゼロ稼働となりましたが。また、カナンの将軍ヤエルの不面目で惨めな最期は、世の権力をまとった人の誉が、如何に卑小なものであるかを語っています。

礼拝の招の言として、エレミヤ書9章22~23節が読まれました。
「主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事。その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる」。

私たちは、何を畏れ、何を頼みとし、何を誇りにして生きているのか?
今日の聖書の箇所は、何よりもそのことを問いかけているように思えます。その答えを捜し、見出し、それることなく生きよ、と招いています。
この世の中には神ならざるものを神のように祭りあげ、神格化し、誇ろうとする勢力がいっぱい働いています。そのことに、私たち自身も取り込まれていかないように、ほんとうに畏れ敬うものは何か、何に依り頼み、何を誇りとしていくべきか。その確信を持って生きることがとても大事ではないでしょうか。

コヘレトの言葉12章13節
「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』これそこ、人間のすべて」。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春季特別伝道集会のご案内

2012-05-02 08:52:43 | イベント


講師:小櫻 俊治 先生 北大阪キリスト教会 元協力牧師

主題 : 救われるということ

クリスチャンになれるのはどのような人? 
真面目で清純な人格者。 
まして牧師になれる人は?
高潔で文才があり、頭が良くて、話が上手な人。 
いずれも私に遠い条件ですが、神は恵みによって牧師として働かせて下さいました。 
神の恵みとは、救われるとはどのようなことかをお伝えできればと思います。 
~講師のことばより~

日時:2012年5月27日(日)10:30 a.m.~12:10 p.m.
場所 :日本バプテスト大阪教会 大阪市天王寺区茶臼山町1-17

電話:06-6771-3865 http://blog/goo.ne.jp/bap-oosaka-ch/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする