宣教 士師記11章1~11節、29~35節
先週の新聞に掲載してあったのですが。「親の育児放棄、経済苦、障害。生きる困難を抱えた子どもの最後のセーフティーネットになってきた、大阪市内に点在する「子どもの家」が、大阪市長の指示で廃止の危機にある、という記事に目が留まり、心痛みました。その中の一つである生野区の「じゃがいも子どもの家」には、T姉のご長男も通っておられます。そこは利用者の半数が障害のある中高生だそうです。先週T姉がもって来られた「大阪市議会に事業の存続を求める請願書」に私も署名させて戴きましたが。又、山王子どもセンターや子どもの里は、日雇い労働者の街、西成区にあります。実はその子どもの家ですありますが、ずっと路上生活者の方がたへの「子ども夜回り」活動を続けていることで以前から知っておりました。親の育児放棄、経済苦、障害などで生きる困難を抱えている子どもたちが、この子どもの里で生きる力を養われ、路上生活の人たちと接し、ともに元気づけられるという、ほんとうに素敵な出来事が起こされているのですね。そういうことで、しんどい家庭事情で「行き場がここしかない」という「子どもの家」の存続をと、心から願いますし、こうした一番弱く、小さくされている子どもたちの居場所が守られてこそ、大阪の豊かさではないかと思わされます。
本日は先ほど読んで戴きました士師記11章より「わたしの居場所」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。士師記からの礼拝宣教は来週特別伝道集会のため本日が最後となります。これまでデボラ、そしてギデオンと二人の士師の人となりとその働きについて聖書から聞いてきましたが、本日はエフタという士師の物語であります。
冒頭に、「ギレアドの人、エフタは遊女の子で、父親は土地の名前と同様ギレアドといった。ギレアドの妻も男の子を産んだ。その妻の産んだ子どもたちは成長すると、エフタに、『あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない』と言って、彼を追い出した」とあります。
エフタは兄弟から「ここに、おまえの居場所はない」と言われ、そこから逃れてトブの地に、身を落ち着けるのですが。彼のもとにはならずものが集まり、一緒に徒党を組んですさんだ生活をしていたようです。トブの地でエフタはならず者らと結託することで、孤独を紛らわしていたのかも知れません。ならず者らと行動をともにすることで理不尽な仕打ちに対するやり場のない感情のうさをはらしていたのかも知れません。皮肉なことに、ギレアドの居場所を奪われたエフタは、そのことのゆえにならず者の首領にまでのし上がったとも言われています。
さて、しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。アンモンの人々の勢いが強くなってきた時、ギレアドの長老たちはエフタをトブの地から連れ戻そうとします。トブの地でならず者の首領となったエフタの事を噂か何かで知っていたのでしょう。
彼らはエフタのもとにやって来て、「帰って来てください。わたしたちの指揮官になっていただければ、わたしたちもアンモンの人々と戦えます」と言いました。
これに対しエフタは答えます。「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか」。エフタは、今さら何て虫のよいことを言うのかと思ったことでしょう、彼がそう言うのもしごく当然です。
しかしなおもギレアドの長老たちは引き下がらず、エフタにある条件を出してきます。
「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるのなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます」。
エフタはその彼らの言葉に反応して答えます。「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭となるのですね」と、エフタはそのように念を押して聞き返します。
するとギレアドの長老たちは、「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と確約したので、エフタは彼らの言葉に応え、同行します。こうしてエフタはイスラエルの頭、指揮官(士師)として立てられていくのです。
11節に「エフタはミツバで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した」とありますが、それはまさにギレアドの長老たちに念押しした言葉、すなわち「アンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしが民の頭になるという、その言葉をことごとく主の前に、まあ幾度も幾度も繰り返したというのです。
今日のこの記事で、ギレアドの長老たちが「エフタをトブの地から呼び戻す」行為については、人間のご都合主義というか、身勝手さを感じます。人は自分にとってやっかいな人、異質と思える人を排除しようとし、逆に自分に益をもたらす人、役立つ人には近づき身近に置こうとするものです。自分の場所、ポジションを守るためにそうするのです。
一方、エフタについてでありますが。居場所を追い出された彼は、ギレアドの長老たちの申し出に何を今さらと思いつつも、本来あるべき場所であるはずのギデアドに首長として凱旋するという野心が湧いてきたのであります。幾度も繰り返し確約した言葉を口にするエフタ。どんなに強い人であっても、それほどまでに自分の居場所を求めたり、取り戻そうとする。それは人間生来に欲求といえるものなのでありましょう。すなわち、「自分は一体何者なのか」という人間の最も深い意識とつながっているからではないでしょうか。
ところで、エフタにはイスラエルの民としての認識と主への信仰がありました。ならず者と行動をともにし、すさんだ生活をしてはいても、自分のルーツについては、主によってエジプトから導き出された民であることを知っていたのです。アンモンの王に送った言葉にもそのことがよく表されています。彼は「主がそのようになしてくださるのなら」と、幾度も口にしますが。そこには彼の信仰も伺われます。主はこのエフタを士師として、ほんとうに不思議なかたちでイスラエルの解放の担い手としてお用いになられるのであります。
さて、聖書教育では1~11節迄となっていましたが、本日は後半の29~35節も読んで戴きました。前半だけだと、まあならず者となったエフタが更生してイスラエルを危機から救い出す指導者、士師として立てられていった、という如何にも美談で終わりそうです。が、やはりそこは後半部分のエフタの弱さと罪も知る必要があるでしょう。
エフタとアンモン人との話し合いによる和平交渉が決裂した後、主の霊がエフタに臨み、彼はアンモン人に向かって兵を進めます。
そこでエフタは、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と、主に誓いを立てるのです。
なぜ彼は主に対して「もしあなたが~してくださるなら」という条件つきの誓いを立てたのでしょうか?しかも、このような人を生けにえとするような誓いを。彼は自分の家の戸口から、娘が出てくることを想像できなかったのでしょうか?それは十分に予想できたことでありましょう。それなのになぜ彼はそのような誓いを主に立てたのでしょうか?
ギレアドの長老たちとの交渉の時もそうでした。彼は「主が敵をわたしに渡してくださるなら、(条件を提示し、そのあかつきには)このわたしがあなたたちの頭になる、というのですね」と、念を押し、またその言葉を聞いていますかとばかりに主に対してことごとく繰り返したのです。
彼は人に、それも親族の者に裏切られるという体験をもっていました。それはエフタの心に深い傷となり、より確かなもの、裏切られないための何か保証のようなものを求めていくような言動につながったのかも知れません。又、エフタが戦ったアンモン人は、彼らの神(モレク)に人身御供を行っていたようですから、エフタはアンモン人に勝つためには、主に対して同じか、あるいはそれ以上のことをしないといけない、と考えたのかもしれません。エフタは残念なことに、より確かな保証をこのようなかたちで求めたのでありましょう。彼は勢いこのような誓いを立ててしまったのです。
32節。「こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった」。確かに彼は誓いどおりのことを得たのです。
ところが、エフタが勝利してミツバにある「自分の家に帰ったとき、自分の唯一人の子、愛する娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た」というのです。エフタは娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いて(誓いを立てて)しまった。取り返しがつかない」。
エフタは確かに必死でした。でも、そのことで最愛の一人娘を失うことになるのです。
エフタにとって娘は自分の命と同じくらい大切な存在であったことでしょう。それを、自らがなした誓いによって失ってしまうのです。
新約聖書においてイエス・キリストは誓うことを一切、禁じられました。(マタイ5:33-37)。それは、神に依り頼んで信頼するのではなく、自分の忠誠心や力を頼みとして生きることを示しているからです。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)。
それが聖書の真理なのです。
今日のエフタの物語を読みながら、人間は光と闇の部分、長所もあれば短所もある。強い面もあれば弱い面もある。善悪ではかれない、ほんとうに多面性をもっているのが人間であるなあと思わされました。その中で、どんな人にも共通しているのは、人は居場所、本来あるべきところを切に求めて生きる存在であるということです。
今日は「わたしの居場所」ということを思いながらこの個所を準備しました。
エフタは確かにミツバの家に凱旋を果たしました。彼をしてモアブの危機からイスラエルの民が守られたというのは確かであります。しかし、そのために払った犠牲はとてつもなく大きなものでした。彼はほんとうに自分の居場所を見つけることができたのでしょうか?
人は家さえあれば居場所があると言えるでしょうか。住民票があれば、家庭があれば、地位があれば、お金があれば平安と言えるでしょうか。勇者、イスラエルの士師でありながら、切ないほどほんとうの居場所を切に求めて生きたエフタ。
聖書は私たちに、ほんとうの居場所は「神さまに信頼しながら歩み続ける」ところにある、と語っているのではないでしょうか。人間は恐れや不安がありますから、神さまでないものや力に頼り、それで事はうまくいくかも知れません。けれども、そこには真の平安といいますか、心安らげる「居場所はない」のです。
新しい週が始まりました。どのような時も、主に依り頼み、信頼してまいりましょう。
先週の新聞に掲載してあったのですが。「親の育児放棄、経済苦、障害。生きる困難を抱えた子どもの最後のセーフティーネットになってきた、大阪市内に点在する「子どもの家」が、大阪市長の指示で廃止の危機にある、という記事に目が留まり、心痛みました。その中の一つである生野区の「じゃがいも子どもの家」には、T姉のご長男も通っておられます。そこは利用者の半数が障害のある中高生だそうです。先週T姉がもって来られた「大阪市議会に事業の存続を求める請願書」に私も署名させて戴きましたが。又、山王子どもセンターや子どもの里は、日雇い労働者の街、西成区にあります。実はその子どもの家ですありますが、ずっと路上生活者の方がたへの「子ども夜回り」活動を続けていることで以前から知っておりました。親の育児放棄、経済苦、障害などで生きる困難を抱えている子どもたちが、この子どもの里で生きる力を養われ、路上生活の人たちと接し、ともに元気づけられるという、ほんとうに素敵な出来事が起こされているのですね。そういうことで、しんどい家庭事情で「行き場がここしかない」という「子どもの家」の存続をと、心から願いますし、こうした一番弱く、小さくされている子どもたちの居場所が守られてこそ、大阪の豊かさではないかと思わされます。
本日は先ほど読んで戴きました士師記11章より「わたしの居場所」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。士師記からの礼拝宣教は来週特別伝道集会のため本日が最後となります。これまでデボラ、そしてギデオンと二人の士師の人となりとその働きについて聖書から聞いてきましたが、本日はエフタという士師の物語であります。
冒頭に、「ギレアドの人、エフタは遊女の子で、父親は土地の名前と同様ギレアドといった。ギレアドの妻も男の子を産んだ。その妻の産んだ子どもたちは成長すると、エフタに、『あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない』と言って、彼を追い出した」とあります。
エフタは兄弟から「ここに、おまえの居場所はない」と言われ、そこから逃れてトブの地に、身を落ち着けるのですが。彼のもとにはならずものが集まり、一緒に徒党を組んですさんだ生活をしていたようです。トブの地でエフタはならず者らと結託することで、孤独を紛らわしていたのかも知れません。ならず者らと行動をともにすることで理不尽な仕打ちに対するやり場のない感情のうさをはらしていたのかも知れません。皮肉なことに、ギレアドの居場所を奪われたエフタは、そのことのゆえにならず者の首領にまでのし上がったとも言われています。
さて、しばらくしてアンモンの人々が、イスラエルに戦争を仕掛けてきました。アンモンの人々の勢いが強くなってきた時、ギレアドの長老たちはエフタをトブの地から連れ戻そうとします。トブの地でならず者の首領となったエフタの事を噂か何かで知っていたのでしょう。
彼らはエフタのもとにやって来て、「帰って来てください。わたしたちの指揮官になっていただければ、わたしたちもアンモンの人々と戦えます」と言いました。
これに対しエフタは答えます。「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか」。エフタは、今さら何て虫のよいことを言うのかと思ったことでしょう、彼がそう言うのもしごく当然です。
しかしなおもギレアドの長老たちは引き下がらず、エフタにある条件を出してきます。
「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるのなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます」。
エフタはその彼らの言葉に反応して答えます。「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭となるのですね」と、エフタはそのように念を押して聞き返します。
するとギレアドの長老たちは、「主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします」と確約したので、エフタは彼らの言葉に応え、同行します。こうしてエフタはイスラエルの頭、指揮官(士師)として立てられていくのです。
11節に「エフタはミツバで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した」とありますが、それはまさにギレアドの長老たちに念押しした言葉、すなわち「アンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしが民の頭になるという、その言葉をことごとく主の前に、まあ幾度も幾度も繰り返したというのです。
今日のこの記事で、ギレアドの長老たちが「エフタをトブの地から呼び戻す」行為については、人間のご都合主義というか、身勝手さを感じます。人は自分にとってやっかいな人、異質と思える人を排除しようとし、逆に自分に益をもたらす人、役立つ人には近づき身近に置こうとするものです。自分の場所、ポジションを守るためにそうするのです。
一方、エフタについてでありますが。居場所を追い出された彼は、ギレアドの長老たちの申し出に何を今さらと思いつつも、本来あるべき場所であるはずのギデアドに首長として凱旋するという野心が湧いてきたのであります。幾度も繰り返し確約した言葉を口にするエフタ。どんなに強い人であっても、それほどまでに自分の居場所を求めたり、取り戻そうとする。それは人間生来に欲求といえるものなのでありましょう。すなわち、「自分は一体何者なのか」という人間の最も深い意識とつながっているからではないでしょうか。
ところで、エフタにはイスラエルの民としての認識と主への信仰がありました。ならず者と行動をともにし、すさんだ生活をしてはいても、自分のルーツについては、主によってエジプトから導き出された民であることを知っていたのです。アンモンの王に送った言葉にもそのことがよく表されています。彼は「主がそのようになしてくださるのなら」と、幾度も口にしますが。そこには彼の信仰も伺われます。主はこのエフタを士師として、ほんとうに不思議なかたちでイスラエルの解放の担い手としてお用いになられるのであります。
さて、聖書教育では1~11節迄となっていましたが、本日は後半の29~35節も読んで戴きました。前半だけだと、まあならず者となったエフタが更生してイスラエルを危機から救い出す指導者、士師として立てられていった、という如何にも美談で終わりそうです。が、やはりそこは後半部分のエフタの弱さと罪も知る必要があるでしょう。
エフタとアンモン人との話し合いによる和平交渉が決裂した後、主の霊がエフタに臨み、彼はアンモン人に向かって兵を進めます。
そこでエフタは、「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」と、主に誓いを立てるのです。
なぜ彼は主に対して「もしあなたが~してくださるなら」という条件つきの誓いを立てたのでしょうか?しかも、このような人を生けにえとするような誓いを。彼は自分の家の戸口から、娘が出てくることを想像できなかったのでしょうか?それは十分に予想できたことでありましょう。それなのになぜ彼はそのような誓いを主に立てたのでしょうか?
ギレアドの長老たちとの交渉の時もそうでした。彼は「主が敵をわたしに渡してくださるなら、(条件を提示し、そのあかつきには)このわたしがあなたたちの頭になる、というのですね」と、念を押し、またその言葉を聞いていますかとばかりに主に対してことごとく繰り返したのです。
彼は人に、それも親族の者に裏切られるという体験をもっていました。それはエフタの心に深い傷となり、より確かなもの、裏切られないための何か保証のようなものを求めていくような言動につながったのかも知れません。又、エフタが戦ったアンモン人は、彼らの神(モレク)に人身御供を行っていたようですから、エフタはアンモン人に勝つためには、主に対して同じか、あるいはそれ以上のことをしないといけない、と考えたのかもしれません。エフタは残念なことに、より確かな保証をこのようなかたちで求めたのでありましょう。彼は勢いこのような誓いを立ててしまったのです。
32節。「こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった」。確かに彼は誓いどおりのことを得たのです。
ところが、エフタが勝利してミツバにある「自分の家に帰ったとき、自分の唯一人の子、愛する娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た」というのです。エフタは娘を見ると、衣を引き裂いて言った。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いて(誓いを立てて)しまった。取り返しがつかない」。
エフタは確かに必死でした。でも、そのことで最愛の一人娘を失うことになるのです。
エフタにとって娘は自分の命と同じくらい大切な存在であったことでしょう。それを、自らがなした誓いによって失ってしまうのです。
新約聖書においてイエス・キリストは誓うことを一切、禁じられました。(マタイ5:33-37)。それは、神に依り頼んで信頼するのではなく、自分の忠誠心や力を頼みとして生きることを示しているからです。「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)。
それが聖書の真理なのです。
今日のエフタの物語を読みながら、人間は光と闇の部分、長所もあれば短所もある。強い面もあれば弱い面もある。善悪ではかれない、ほんとうに多面性をもっているのが人間であるなあと思わされました。その中で、どんな人にも共通しているのは、人は居場所、本来あるべきところを切に求めて生きる存在であるということです。
今日は「わたしの居場所」ということを思いながらこの個所を準備しました。
エフタは確かにミツバの家に凱旋を果たしました。彼をしてモアブの危機からイスラエルの民が守られたというのは確かであります。しかし、そのために払った犠牲はとてつもなく大きなものでした。彼はほんとうに自分の居場所を見つけることができたのでしょうか?
人は家さえあれば居場所があると言えるでしょうか。住民票があれば、家庭があれば、地位があれば、お金があれば平安と言えるでしょうか。勇者、イスラエルの士師でありながら、切ないほどほんとうの居場所を切に求めて生きたエフタ。
聖書は私たちに、ほんとうの居場所は「神さまに信頼しながら歩み続ける」ところにある、と語っているのではないでしょうか。人間は恐れや不安がありますから、神さまでないものや力に頼り、それで事はうまくいくかも知れません。けれども、そこには真の平安といいますか、心安らげる「居場所はない」のです。
新しい週が始まりました。どのような時も、主に依り頼み、信頼してまいりましょう。