礼拝宣教 使徒言行録10章1-48節 聖霊降臨
7日の旅路を守り、導いてくださった主に感謝し、賛美します。
そして、今日は私たち主にあって新しくされた者にとって大いなる出来事であります、聖霊降臨・ペンテコステを記念する主日礼拝を迎えました。
この聖霊降臨の出来事によって、全世界に開かれた神の救いの福音は時代を超えて私たちのところに今日も受け継がれているのです。聖霊によって誕生した教会は幾多の迫害や危機に遭い、時に散らされながらもキリストの救いをあかしする信仰の先達によって福音が告げ知らされ、私たちも悔い改めへと導かれて、主の御救いによる新しい命に与る者とされたのです。
本日は使徒言行録10章より「聖霊による開放」と題し、御言葉に聞いていきます。
使徒言行録2章では、エルサレムにおいてユダヤをルーツとする人たちに聖霊が降りますが、今日の10章はユダヤ人以外の人々、いわゆる異邦人にもユダヤ人と同様に聖霊が降ったこと。彼らが福音を信じ受け入れ、悔い改めに導かれ、主の御救い与る者とされ、バプテスマを受けていった、そのエピソードが記されています。
① 幻を見るコルネリウス
ここに登場しますコルネリウスという人物は、ガリラヤ湖の海岸のカイサリアの町に駐留するイタリア隊の百人隊長(職業軍人)として家族や隊員たちと共に住んでおりました。
5節でパウロが在住していたヤッファの町はユダヤ人が多く住んでいましたが、それとは対照的に、このカイサリアの町にはローマ人やギリシャ人といったユダヤ人以外の異邦人が多く住んでいました。
コルネリウスは、ユダヤ人からしてみれば罪多き異邦人であります。しかも自分たちを統治するといううとましい存在でした。
しかし彼は2節に、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されています。たとえ異邦人であり、人からどう思われるような立場であったとしても、天地万物の創造主である神を畏れ敬う人、又祈りの人に神は目を留めておられるのです。
神はまず異邦人への福音伝道を開始なさるにあたり、このコルネリウスに働かれます。
「ある日の午後3時頃、コルネリウスは、神の天使が入って来て『コルネリウス』と呼びかけるのを、幻ではっきりと見る」のです。
この午後3時とはユダヤ人たちが会堂で祈りを捧げる時間でありまましたから、彼もユダヤ人たちが大切にしていた「祈り」に心を合せて、祈りを捧げていたのです。
まさにその時に、神の天使が入って来てコルネリウスと呼びかけられるのです。
彼は怖くなって「主よ、何でしょう」と答えると、神の天使は「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」と告げます。
コルネリウスはそのお言葉を聞くと、ペトロのもとに遣いを立て、送り出すのです。
神の天使は、ペトロを招くとどのような事が起こるかなど具体的なことは何も話していません。が、彼は天使の告げたことに従いました。そして「二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士を呼び、すべてのことを話してヤッファに送る」のです。
② 幻を見るペトロ
一方、主なる神はペトロにもお働きかけになります。
ペトロは、ヤッファの町の革なめしシモンの家の屋上で「祈っていた」時に幻を見ます。先にも申しましたが、このヤッファの町にはユダヤ人が多く住んでいました。
革なめし職人のシモンもユダヤ人でありました。前の9章終わりの部分で、タビタという婦人の弟子を生き返らせたペトロの記事がありますが、シモンはそのペトロを大切なお客として家に迎え入れ、歓待したのであります。
ただシモンは皮なめし、皮につやを出す仕事で清くないとされる動物を扱い、又加工のために臭いが強いものですから、ユダヤ社会からは忌み嫌われ、さげすまれていました。
実はペトロが彼と出会い、その家に滞在することになったのも、聖霊のお導きによるものであり、ペトロ自身がそれまで囚われていた固定観念から開放を受け、神の福音が拡げられていくためのものであったのです。
さて、ペトロは祈るためにそのシモンの家の屋上に上がってから昼の12時頃、空腹を覚え、何か食べたいと思った。そして人々が食事の用意をしているうちに、我を忘れる状態に陥ります。そこで彼は、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見るのです。
ユダヤ人は午前9時、正午、午後3時の決まった時間に祈りを捧げました。キリスト者となったペトロもユダヤの慣習に従い、その祈りの時間に家の屋上で祈っていたのです。当時のユダヤ人は通常、朝食を取らないことの方が多かったようで、朝の祈りをなしていたようですから、昼時ともなりますと、とてもお腹がすいたことでしょう。まあそういう中で彼は幻を示されるのでありますが。
さて、そのつるされて地上に下りて来た大きな袋の中には、「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」とあります。
それは旧約聖書レビ記11章に記されています、ユダヤの「清いものと汚れたものに関する食物規定」にあげられてるあらゆる動物が入り混じっていたのです。
まあ、この規定には清くないと言われている動物をみると、衛生管理等から考えて食用には向かず、確かに食べると健康を害するだろうと思ったりしますが。
ところが、「ペトロよ、身を起こし、ほふって食べなさい」と言う声が聞こえてくるのです。
まあいくら空腹だとはいえ、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えます。
ペトロはユダヤ人として幼い頃からその規定にある清いとされるものだけを食べてきたわけです。
そのペトロに対して「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がするんですね。
「こういうやりとりが3度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた」というのです。
3度というのは、それが確かに神さまからのものである、神さまがそのようにおっしゃっている、ということを意味しています。
「神が清めたものを、清くないなどと、言ってはならない」
自らを汚れから守ること、神の律法規定を守ることは、ペトロが神の民として生きることのいわば証しでありました。
だから「清くない」とされる食物も、「神が清めたのだから、清くないなどと、言ってはならない。食べなさい」と言われて、ペトロは大変困惑してしまったのであります。
しかし、実はこの幻は異邦人にも開かれた、主イエスによるきよめと救いを意味していたのです。ペトロがその意味を本当に知るに至るには、その後経験するコルネリウスら異邦人との出会いを導かれた「主のお働きによる聖霊の開放」が不可欠であったのです。
③ 聖霊の先立ちと開放
さて、17節「ペトロが、今見た幻はいったい何だろうか、ひとりで思案に暮れていると、(その時)、コルネリウスから差し向けられた人々が、声をかけて、『ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊っておられますか』と尋ねて来ます。
ペトロは自分が見た幻のことで、深く悩み、思案に暮れていました。
「その時」です。(原語では「その時」となっているのです。岩波訳は、すると「その時」ときちんと訳しています。まさにジャストタイミングといいますか。それは、すべて主が備えられた神のご計画によるものであることが読み取れます。
ペトロが幻で聞いたお言葉を思い巡らし、反芻していたまさに「その時」、コルネリウスの遣わした使者らがペトロのもとに到着します。それは主が先立って、主のお言葉を思い巡らすペトロのもとに異邦人たちを送り、彼らとの出会いをお導きになられたのであります。
コルネリウスの使者たちはユダヤ人のシモンの家の中に入らず、戸口からペトロが泊っているかどうかを確認しました。彼らはユダヤ人が異邦人に対して、律法も知らず清くないと考え、交わろうとはしないことを承知していました。彼らはそのことに配慮しながら戸口からペトロに呼びかけたのです。
しかし、それに気づかないペトロはなお幻について考え込んでいました。
すると、そこに「霊」が臨むのです。この霊は単なる霊ではなく、神格をもつ聖霊ご自身であられます。
聖霊はペトロに仰せになりました。
「3人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」
この「ためらわない」の原語;ディアクリノーは、「分離する」「区別する」「疑う」「ためらう」ことへの否定を意味します。
ここでは「ためらわない」というよりも、「分け隔てしない」と訳す方がより相応しいように思えます。
ペトロは、聖霊のその御声に直ちに従いました。「分け隔てせず」彼らを歓迎して泊まらせ、翌朝一緒に出発するのです。ヤッファからカイサリアへは直線距離にして60キロはあるでしょう。しかしそれはまさにユダヤ人と異邦人とつないでいく道のりであったといえましょう。
さて、親類や親しい友人を呼び集めて待っていたコルネリウスは、ペトロが到着すると、「出迎え、足もとにひれ伏して拝んだ」と記されています。
それは、ペトロに対して神の言を語る人として最大限の敬意を表したのです。
しかし、ペトロはそのコルネリウスに対して「わたしも同じ人間です」(岩波・口語訳)と言います。
ペテロのこの言葉は彼の人間性(ヒューマニズム)に基づいたものではありません。ペトロは人を見ているのではなく、神が異邦人もどのような人も分け隔てなく招かれている。だから「わたしも同じ人間です」とペトロは言ったのです。そこに神の変わることの愛と憐みのまなざしを見ているのです。
ペトロは見せられた幻についてずっと思い巡らし、何のことかわからなかった。
しかし、彼はようやくその幻の意味をさとり、カイサリアの多くの異邦人たちを前に次のように話すのです。
「あなたたちもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」
これこそ幻で見たその意味であることを、ペトロはさとり、悔い改め、大きな方向転換が与えられたのです。
こうして、ペトロはコルネリウスの家で福音を告げることになります。
「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」
まさに、聖霊による開放を通してペトロ自身も福音のゆたかな恵みに開かれていくのですね。
さらに、ペトロは神の御子イエス・キリストについて、さらに主の名による罪の赦しと救いについて語るのです。
そうして、ペトロが話し続けていると、御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降ったのです。
ペトロは「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水でバプテスマを受けるのを、いったいだれが妨げることができますか」と言って、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるようにと、その人たちに命じた、とあります。
ある人たちはキリスト教の教義は難しいと言います。けれども神の救の真理は、人の理解を遥かに超えてゆたかです。それは、聖霊のお働きによって、「イエスが主である」「イエスが救い主」であるとの真理をさとらせてくださるからです。
今日は「聖霊による開放」と題し、御言葉に聞いてきました。
このところから私が特に示されたことは、神のよき知らせ、「福音」はユダヤ人キリスト者が異邦人に一方的に教え、伝えたものではなかったということです。
否、まずペトロ自身が持っていた固定観念や囚われを聖霊が開放し、解き放つのです。
コルネリウスとその家族や近しい人たちも又、ペトロを通して働かれた神の救いと偉大な愛を知ってどんなにか喜びに満たされたことでしょう。
聖霊による開放によって、導かれ、心砕かれてキリストの和解のうちに一つとされる。これこそが伝道であり、福音に共に与るということです。
コルネリウスもペトロも祈りの人でありました。私たちも生きておられる主、聖霊の先立ちとお働きを祈り求め、益々主の御声に聞いていくものとされてまいりましょう。
祈ります。
主よ、今日の聖霊降臨・ペンテコステの礼拝を感謝します。
聖霊の開放によって、すべての人が神のよき知らせ、福音に招かれているとの御言葉を感謝します。
しかしこの地上には国や民族、肌の色などの違いによるいたましい差別や分断が起り続けています。どうか聖霊の開放を、愛と憐みの十字架の主に立ち返り、神との和解、人と人との和解、主の平和の御業が起こされますよう、切に祈ります。
又、私たちと教会とをあなたが清め、あなたの御救いの福音を共に分っていけますように、どうかこれからもお導きください。
主イエスの御名によって祈ります。