礼拝宣教 ヨハネ9・35~10・6
ある新聞コラムの記事に目に留まりました。「教会に通う人と通わない人を比べると通う人のほうが平均寿命が長いという米国の研究報告がある。教会に通うこと自体が生活習慣を改善する効果もあるだろうが、祈りや信仰は、自己治癒力にプラスのようだ。」これは先日の牧師会の講師としてお話を頂いた京都府立医科大学名誉教授で神経外科医の中島健二先生も同様のことをおっしゃっていましたが。今回の記事は順天堂大学医学部の免疫学ご専門の奥村康教授です。教会、ギリシャ語でエクレシアは、召し集められた群という意味がございます。それは単なる集まりや団体とは異なります。何より大きな違いは、群を養い導く真の羊飼い主イエスが共におられるということです。主は今日も人を活き活きとさせる神さまのお力、聖霊をもってゆたかに私たちを養っていてくださるんですね。本当に恵みであり、感謝です。
本日はヨハネ9章35節から10章18節より、「主イエスは真の羊飼い」と題し、み言葉に聞いておりますが。通常は9章と10章は別の事柄として分けて読まれることが多いのですが、今日は分けずに一つの分脈・流れの中で読んでいくことにいたします。
9章の始めに「生まれつき盲人の人について」、イエスの弟子たちとイエスさまの問答がなされています。弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねます。
弟子たちは、「生まれつき何がしかの不自由がある人は本人か両親が罪深いからだ。だから神の祝福に与かれなかったのだ」と決めつけていました。それは当時のユダヤ社会において多くの人がもっていた考え方でした。しかしそれは今日の文明社会の中でもまことしやかにささやかれ、多くの人がいわれなき差別と偏見にあい、又、自らを責め、騙されて高額なお払いをされたり、因縁を絶ち切るために高額な壺や印鑑を買わされて被害に遭うという悲劇が繰り返されていますが。イエスさまはきっぱりと「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現わされるためである。」
この「神の業がこの人に現わされる」というみ言葉を心のうちに留めておいてください。
さて、この盲人はイエスさまによって目をいやされるのですが、そのイエスさまの業は単にその人の肉眼が見えるようになる、ということにとどまりません。
33節に、事態に驚いたユダヤ教徒のファリサイ人たちの前で彼は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と証言しているように、彼はこの目がいやされ見えるようになるというしるしを通して、神のもとから来られた方を見出したのです。それは、彼の霊の目が開かれていったということであります。彼は神の人イエス・キリストをまさに見出すのであります。
ところが彼は目が見えるようになったため、せっかく入ることができたユダヤ会堂、それも多くのユダヤ人たちの前で、「イエスさまは神のもとから来られたお方です」と言い表したために、会堂から追い出されてしまうのですね。自分は見えている、分かっていると思い込み、「おまえは全く罪の中に生まれたのに、我々を教えようというのか」そんな人の高慢と見下しによって彼はまたもつまはじきにされてしまうのです。ここで彼がユダヤ会堂から外に追い出されるということは、その町全体のコミュニティ-からしめ出されてしまうのと同じことでした。
本日の35節以降は、そんなひどい扱いを受け、又も寂しく孤独にあった彼のことを聞いたイエスさまが、彼のところに行かれ、再び出会われるその場面が記されています。
イエスさまは「あなたは人の子を信じるか」と問いかけ、彼は「主よ、信じます」とイエスさまを救い主として受け入れるのです。10章には「良い羊飼いと羊」のたとえ話が語られていますが、彼はユダヤの会堂や社会から追い出され、群からはぐれた羊のように孤独で辛いめに遭ったその中でイエスさまと再び出会って、神の救いへと導く「真の羊飼」である救い主を知ったのです。
実はこれこそが先程の9章始めの「神の業がこの人に現わされるためである」ということなのです。まさに神の奥義であります。「神の業」と言いますと、どんなことを思い浮かべるでしょう。何か特別な事をするとか、立派に生きるとか考えがちです。しかしイエスさまは6章29節でこのようにおっしゃっています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
それは先行きの見えないような中で打ちひしがれ、苦しむ人、孤独や寂しさの中におかれている人、いわば飼う者のいない羊のようにまどう者と出会われ、良き羊飼いとして11節、又15節にあるように、その命さえなげうって救いたもう主イエスを知り、信じて生きることに他なりません。
ある「証し」に目が留まりましたのでそのまま引用してご紹介します。
「ハンセン氏病を患い失明した方が、かつて一つの大きな矛盾に苦しんでいた。なぜ自分がハンセン氏病にかからねばならないのか。私がどんな悪事を働いたと言うのか。自分より悪い人間は世の中にいくらでもいるではないか。そう思って苦しむ毎日であった。そんな、ある時、療養所で開かれたキリスト教の集会に誘われて、その方は初めてキリスト教にふれ、イエスの十字架の話を聞いた。病める者や弱者のため自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、その方はこの十字架にまさる矛盾はないと感じたそうである。その方は新たな悩みを抱く、それは盲目の自分に見えたものは、自分が罪のある、心の汚れた人間であるという、ぬぐいきれない事実であった。イエスと向かい合っていると、自分の醜さや罪深さが見えてくる。高ぶった思いや、自分の無知からくる盲目を知らされたこの方は、イエスさまのもとに来て救われた。神の愛と恵み深さが見えるようになったのである。」
この証しは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とのみ言葉をして、まさに神の業がこの方の上に現わされたことを知らされるわけですが。「病める者や弱者のために自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、、、、この十字架にまさる矛盾はないと感じた」というこの方の言葉。それは、こんな不条理なことがあっていいのか?ということがあまりにも多いこの世の中にあって、神の子自ら世の不条理をその身に負い、十字架にはりつけにされた。そこに神の愛を見たということであるのでしょう。主イエスを信じて生きる者はそこに神の愛を見、救いと希望を見出すのですね。
最後に、2月1日はフリージャーナリスト後藤健二さんの一周忌となります。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる世界の現実。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいて取材と報道を続けてこられた後藤さん。一年前でしたが、彼がクリスチャンであることを知らされ、礼拝でもその救出をご一緒に祈ったことを記憶しておられる方もおられると思いますが。その方がなぜ殺害されなければならなかったのかいまだに心が痛みます。
昨日その後藤健二さんを追悼する1周忌公演(桜人企画主催)が大阪市中央区でありましたので行ってまいりました。内容は2部構成からなっており、1部は音楽劇「イマジナリ-ライン(越えてはならない一線)」(馬場さくら演出)。2部はフリージャ-ナリストの西谷文和さんのトークショ-でした。公演からは後藤さんのフリージャーナリストとしてのその姿を垣間見ることができました。又、西谷さんからは、今シリアで、また世界で何が起こっているのか。如何に正しい情報を知ることが大切かということを改めて思わされました。同時にその問題の根源は何かを、それはどこか遠い世界のこととしてではなく、自分の事柄として考えさせられる、内容となっていました。
イエスさまはおっしゃいました。39節「わたしが世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
真理を見出した人と、見えると言いながらその実命と救いに無関心であった人の違いは何でしょうか。今日の「真の羊飼い主イエス」の導きの中で探し求めていきたいと思います。
10章3-4節を読んで終わります。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
ある新聞コラムの記事に目に留まりました。「教会に通う人と通わない人を比べると通う人のほうが平均寿命が長いという米国の研究報告がある。教会に通うこと自体が生活習慣を改善する効果もあるだろうが、祈りや信仰は、自己治癒力にプラスのようだ。」これは先日の牧師会の講師としてお話を頂いた京都府立医科大学名誉教授で神経外科医の中島健二先生も同様のことをおっしゃっていましたが。今回の記事は順天堂大学医学部の免疫学ご専門の奥村康教授です。教会、ギリシャ語でエクレシアは、召し集められた群という意味がございます。それは単なる集まりや団体とは異なります。何より大きな違いは、群を養い導く真の羊飼い主イエスが共におられるということです。主は今日も人を活き活きとさせる神さまのお力、聖霊をもってゆたかに私たちを養っていてくださるんですね。本当に恵みであり、感謝です。
本日はヨハネ9章35節から10章18節より、「主イエスは真の羊飼い」と題し、み言葉に聞いておりますが。通常は9章と10章は別の事柄として分けて読まれることが多いのですが、今日は分けずに一つの分脈・流れの中で読んでいくことにいたします。
9章の始めに「生まれつき盲人の人について」、イエスの弟子たちとイエスさまの問答がなされています。弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねます。
弟子たちは、「生まれつき何がしかの不自由がある人は本人か両親が罪深いからだ。だから神の祝福に与かれなかったのだ」と決めつけていました。それは当時のユダヤ社会において多くの人がもっていた考え方でした。しかしそれは今日の文明社会の中でもまことしやかにささやかれ、多くの人がいわれなき差別と偏見にあい、又、自らを責め、騙されて高額なお払いをされたり、因縁を絶ち切るために高額な壺や印鑑を買わされて被害に遭うという悲劇が繰り返されていますが。イエスさまはきっぱりと「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現わされるためである。」
この「神の業がこの人に現わされる」というみ言葉を心のうちに留めておいてください。
さて、この盲人はイエスさまによって目をいやされるのですが、そのイエスさまの業は単にその人の肉眼が見えるようになる、ということにとどまりません。
33節に、事態に驚いたユダヤ教徒のファリサイ人たちの前で彼は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と証言しているように、彼はこの目がいやされ見えるようになるというしるしを通して、神のもとから来られた方を見出したのです。それは、彼の霊の目が開かれていったということであります。彼は神の人イエス・キリストをまさに見出すのであります。
ところが彼は目が見えるようになったため、せっかく入ることができたユダヤ会堂、それも多くのユダヤ人たちの前で、「イエスさまは神のもとから来られたお方です」と言い表したために、会堂から追い出されてしまうのですね。自分は見えている、分かっていると思い込み、「おまえは全く罪の中に生まれたのに、我々を教えようというのか」そんな人の高慢と見下しによって彼はまたもつまはじきにされてしまうのです。ここで彼がユダヤ会堂から外に追い出されるということは、その町全体のコミュニティ-からしめ出されてしまうのと同じことでした。
本日の35節以降は、そんなひどい扱いを受け、又も寂しく孤独にあった彼のことを聞いたイエスさまが、彼のところに行かれ、再び出会われるその場面が記されています。
イエスさまは「あなたは人の子を信じるか」と問いかけ、彼は「主よ、信じます」とイエスさまを救い主として受け入れるのです。10章には「良い羊飼いと羊」のたとえ話が語られていますが、彼はユダヤの会堂や社会から追い出され、群からはぐれた羊のように孤独で辛いめに遭ったその中でイエスさまと再び出会って、神の救いへと導く「真の羊飼」である救い主を知ったのです。
実はこれこそが先程の9章始めの「神の業がこの人に現わされるためである」ということなのです。まさに神の奥義であります。「神の業」と言いますと、どんなことを思い浮かべるでしょう。何か特別な事をするとか、立派に生きるとか考えがちです。しかしイエスさまは6章29節でこのようにおっしゃっています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
それは先行きの見えないような中で打ちひしがれ、苦しむ人、孤独や寂しさの中におかれている人、いわば飼う者のいない羊のようにまどう者と出会われ、良き羊飼いとして11節、又15節にあるように、その命さえなげうって救いたもう主イエスを知り、信じて生きることに他なりません。
ある「証し」に目が留まりましたのでそのまま引用してご紹介します。
「ハンセン氏病を患い失明した方が、かつて一つの大きな矛盾に苦しんでいた。なぜ自分がハンセン氏病にかからねばならないのか。私がどんな悪事を働いたと言うのか。自分より悪い人間は世の中にいくらでもいるではないか。そう思って苦しむ毎日であった。そんな、ある時、療養所で開かれたキリスト教の集会に誘われて、その方は初めてキリスト教にふれ、イエスの十字架の話を聞いた。病める者や弱者のため自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、その方はこの十字架にまさる矛盾はないと感じたそうである。その方は新たな悩みを抱く、それは盲目の自分に見えたものは、自分が罪のある、心の汚れた人間であるという、ぬぐいきれない事実であった。イエスと向かい合っていると、自分の醜さや罪深さが見えてくる。高ぶった思いや、自分の無知からくる盲目を知らされたこの方は、イエスさまのもとに来て救われた。神の愛と恵み深さが見えるようになったのである。」
この証しは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とのみ言葉をして、まさに神の業がこの方の上に現わされたことを知らされるわけですが。「病める者や弱者のために自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、、、、この十字架にまさる矛盾はないと感じた」というこの方の言葉。それは、こんな不条理なことがあっていいのか?ということがあまりにも多いこの世の中にあって、神の子自ら世の不条理をその身に負い、十字架にはりつけにされた。そこに神の愛を見たということであるのでしょう。主イエスを信じて生きる者はそこに神の愛を見、救いと希望を見出すのですね。
最後に、2月1日はフリージャーナリスト後藤健二さんの一周忌となります。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる世界の現実。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいて取材と報道を続けてこられた後藤さん。一年前でしたが、彼がクリスチャンであることを知らされ、礼拝でもその救出をご一緒に祈ったことを記憶しておられる方もおられると思いますが。その方がなぜ殺害されなければならなかったのかいまだに心が痛みます。
昨日その後藤健二さんを追悼する1周忌公演(桜人企画主催)が大阪市中央区でありましたので行ってまいりました。内容は2部構成からなっており、1部は音楽劇「イマジナリ-ライン(越えてはならない一線)」(馬場さくら演出)。2部はフリージャ-ナリストの西谷文和さんのトークショ-でした。公演からは後藤さんのフリージャーナリストとしてのその姿を垣間見ることができました。又、西谷さんからは、今シリアで、また世界で何が起こっているのか。如何に正しい情報を知ることが大切かということを改めて思わされました。同時にその問題の根源は何かを、それはどこか遠い世界のこととしてではなく、自分の事柄として考えさせられる、内容となっていました。
イエスさまはおっしゃいました。39節「わたしが世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
真理を見出した人と、見えると言いながらその実命と救いに無関心であった人の違いは何でしょうか。今日の「真の羊飼い主イエス」の導きの中で探し求めていきたいと思います。
10章3-4節を読んで終わります。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」