日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスは真の羊飼い

2016-01-31 14:48:33 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ9・35~10・6

ある新聞コラムの記事に目に留まりました。「教会に通う人と通わない人を比べると通う人のほうが平均寿命が長いという米国の研究報告がある。教会に通うこと自体が生活習慣を改善する効果もあるだろうが、祈りや信仰は、自己治癒力にプラスのようだ。」これは先日の牧師会の講師としてお話を頂いた京都府立医科大学名誉教授で神経外科医の中島健二先生も同様のことをおっしゃっていましたが。今回の記事は順天堂大学医学部の免疫学ご専門の奥村康教授です。教会、ギリシャ語でエクレシアは、召し集められた群という意味がございます。それは単なる集まりや団体とは異なります。何より大きな違いは、群を養い導く真の羊飼い主イエスが共におられるということです。主は今日も人を活き活きとさせる神さまのお力、聖霊をもってゆたかに私たちを養っていてくださるんですね。本当に恵みであり、感謝です。

本日はヨハネ9章35節から10章18節より、「主イエスは真の羊飼い」と題し、み言葉に聞いておりますが。通常は9章と10章は別の事柄として分けて読まれることが多いのですが、今日は分けずに一つの分脈・流れの中で読んでいくことにいたします。

9章の始めに「生まれつき盲人の人について」、イエスの弟子たちとイエスさまの問答がなされています。弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねます。
弟子たちは、「生まれつき何がしかの不自由がある人は本人か両親が罪深いからだ。だから神の祝福に与かれなかったのだ」と決めつけていました。それは当時のユダヤ社会において多くの人がもっていた考え方でした。しかしそれは今日の文明社会の中でもまことしやかにささやかれ、多くの人がいわれなき差別と偏見にあい、又、自らを責め、騙されて高額なお払いをされたり、因縁を絶ち切るために高額な壺や印鑑を買わされて被害に遭うという悲劇が繰り返されていますが。イエスさまはきっぱりと「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現わされるためである。」
この「神の業がこの人に現わされる」というみ言葉を心のうちに留めておいてください。

さて、この盲人はイエスさまによって目をいやされるのですが、そのイエスさまの業は単にその人の肉眼が見えるようになる、ということにとどまりません。

33節に、事態に驚いたユダヤ教徒のファリサイ人たちの前で彼は「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と証言しているように、彼はこの目がいやされ見えるようになるというしるしを通して、神のもとから来られた方を見出したのです。それは、彼の霊の目が開かれていったということであります。彼は神の人イエス・キリストをまさに見出すのであります。
ところが彼は目が見えるようになったため、せっかく入ることができたユダヤ会堂、それも多くのユダヤ人たちの前で、「イエスさまは神のもとから来られたお方です」と言い表したために、会堂から追い出されてしまうのですね。自分は見えている、分かっていると思い込み、「おまえは全く罪の中に生まれたのに、我々を教えようというのか」そんな人の高慢と見下しによって彼はまたもつまはじきにされてしまうのです。ここで彼がユダヤ会堂から外に追い出されるということは、その町全体のコミュニティ-からしめ出されてしまうのと同じことでした。

本日の35節以降は、そんなひどい扱いを受け、又も寂しく孤独にあった彼のことを聞いたイエスさまが、彼のところに行かれ、再び出会われるその場面が記されています。
イエスさまは「あなたは人の子を信じるか」と問いかけ、彼は「主よ、信じます」とイエスさまを救い主として受け入れるのです。10章には「良い羊飼いと羊」のたとえ話が語られていますが、彼はユダヤの会堂や社会から追い出され、群からはぐれた羊のように孤独で辛いめに遭ったその中でイエスさまと再び出会って、神の救いへと導く「真の羊飼」である救い主を知ったのです。
実はこれこそが先程の9章始めの「神の業がこの人に現わされるためである」ということなのです。まさに神の奥義であります。「神の業」と言いますと、どんなことを思い浮かべるでしょう。何か特別な事をするとか、立派に生きるとか考えがちです。しかしイエスさまは6章29節でこのようにおっしゃっています。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
それは先行きの見えないような中で打ちひしがれ、苦しむ人、孤独や寂しさの中におかれている人、いわば飼う者のいない羊のようにまどう者と出会われ、良き羊飼いとして11節、又15節にあるように、その命さえなげうって救いたもう主イエスを知り、信じて生きることに他なりません。

ある「証し」に目が留まりましたのでそのまま引用してご紹介します。
「ハンセン氏病を患い失明した方が、かつて一つの大きな矛盾に苦しんでいた。なぜ自分がハンセン氏病にかからねばならないのか。私がどんな悪事を働いたと言うのか。自分より悪い人間は世の中にいくらでもいるではないか。そう思って苦しむ毎日であった。そんな、ある時、療養所で開かれたキリスト教の集会に誘われて、その方は初めてキリスト教にふれ、イエスの十字架の話を聞いた。病める者や弱者のため自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、その方はこの十字架にまさる矛盾はないと感じたそうである。その方は新たな悩みを抱く、それは盲目の自分に見えたものは、自分が罪のある、心の汚れた人間であるという、ぬぐいきれない事実であった。イエスと向かい合っていると、自分の醜さや罪深さが見えてくる。高ぶった思いや、自分の無知からくる盲目を知らされたこの方は、イエスさまのもとに来て救われた。神の愛と恵み深さが見えるようになったのである。」
この証しは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とのみ言葉をして、まさに神の業がこの方の上に現わされたことを知らされるわけですが。「病める者や弱者のために自分自身をささげて生きた愛の人イエスが十字架につけられて殺された事実を知った時、、、、この十字架にまさる矛盾はないと感じた」というこの方の言葉。それは、こんな不条理なことがあっていいのか?ということがあまりにも多いこの世の中にあって、神の子自ら世の不条理をその身に負い、十字架にはりつけにされた。そこに神の愛を見たということであるのでしょう。主イエスを信じて生きる者はそこに神の愛を見、救いと希望を見出すのですね。

最後に、2月1日はフリージャーナリスト後藤健二さんの一周忌となります。戦場ジャーナリストとして誰かが伝えなければ世界から忘れ去られ、闇に葬られる世界の現実。とりわけ弱い立場におかれた人たちに身をおいて取材と報道を続けてこられた後藤さん。一年前でしたが、彼がクリスチャンであることを知らされ、礼拝でもその救出をご一緒に祈ったことを記憶しておられる方もおられると思いますが。その方がなぜ殺害されなければならなかったのかいまだに心が痛みます。
昨日その後藤健二さんを追悼する1周忌公演(桜人企画主催)が大阪市中央区でありましたので行ってまいりました。内容は2部構成からなっており、1部は音楽劇「イマジナリ-ライン(越えてはならない一線)」(馬場さくら演出)。2部はフリージャ-ナリストの西谷文和さんのトークショ-でした。公演からは後藤さんのフリージャーナリストとしてのその姿を垣間見ることができました。又、西谷さんからは、今シリアで、また世界で何が起こっているのか。如何に正しい情報を知ることが大切かということを改めて思わされました。同時にその問題の根源は何かを、それはどこか遠い世界のこととしてではなく、自分の事柄として考えさせられる、内容となっていました。
イエスさまはおっしゃいました。39節「わたしが世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
真理を見出した人と、見えると言いながらその実命と救いに無関心であった人の違いは何でしょうか。今日の「真の羊飼い主イエス」の導きの中で探し求めていきたいと思います。

10章3-4節を読んで終わります。
「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
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命のパンを分け与える

2016-01-24 16:54:56 | 教会案内
礼拝宣教  ヨハネ6・1~15

本日はヨハネ6章より「命のパンを分け与える」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。実は2年前の1月にこの全く同じ所から「命のパン」という題で宣教がなされております。もうその時にお話を聞かれた方は「ああまたあの話か」とお思いになるかも知れませんが。けれども聖書の言葉は生きていますから、同じ個所でもその時その時に響いてくるメッセージがあるのですね。
今回ヨハネによる福音書を始めから読んできまして知らされるのは、イエスさまが世に示された「しるし」の数々です。ヨハネ福音書の著者は21章の最後のところで「イエスさまのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(21章25節)と締めくくっています。まあ、このイエスさまのなさったこととは「しるし」なんですよね。それほどイエスさまのなさった「しるし」にある意味ヨハネの著者はこだわりをもっていたと言えます。本日は5000人に食べ物を分け与えられたイエスさまの「しるし」からヨハネのメッセージに聞いていきたいと思います。

まず6章の1節冒頭に「その後」とありますが、それは先週読みましたイエスさまが「役人の息子をいやされた」というしるしや、前の5章の「ベッサイダの池で病人をいやされた」そのしるしの後、2節にあるように「大勢の群衆がイエスの後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と続いているのです。
つまり群衆は、イエスさまが病人をいやされたそのしるしを見て、イエスさまを向こう岸まで追ってきたということが強調されているのです。群衆がいかにそのしるしに心ひかれ期待を寄せていたかということが分かります。その中には病気を抱えていたり、身近な病人を何といやして欲しいと乞い願っていた人たちも多くいたことでしょう。
イエスさまはこのような人々の必要にもお答えくださるお方でありましたけれども、ここでは病人のいやしはなさらず、ある一つの「しるし」を行われるのです。それが5000人もの人たちに食べ物を分け与えられるという「しるし」であったのです。

先週「奇跡としるし」の違いについて申しました。奇跡は文字通り不思議な業や超常現象というべきものです。まあそれ自体が目的ともいえるものです。一方、イエスさまがなさったしるしは、英語でサイン、独語でツァイヘンと訳されるように、証明、合図や目印、兆候や前兆のようなものだというのです。つまりしるしとは、ある目的のために示されるものだということですね。ですから今日の「5000人の食べ物」のしるしも、本当に大きなある目的のためのサイン、合図や前兆として行われたのですね。ではそれはどういう目的のためのしるし、サインかということでありますが。6章6節に、イエスさまは「何をしようとしているか知っておられたのである」と記されています。それは「5つのパンと2匹の魚」によって5000人もの人々が満たされるというそのしるしを通して、イエスさまが成し遂げようとしているその目的が明らかにされる。そのことを知っておられたということです。その目的については後ほど詳しくお話するとしまして。

さて、イエスさまはフィリポを試みられて、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」とお尋ねになります。フィリポはその質問に対して、「めいめいが少しずつ食べるためにも、2百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」とまともに答えます。1デナリオンは当時の1日分の賃金に価するそうで、それが5千円だとしたら、100万円以上ということになります。まあそのようなお金を弟子たちが持っていようはずはありませんし、それだけの分の食糧を販売し調達できるような所などむろんなかったでしょう。何とも答えようがないというのがフィリポの反応であったのですね。又、その隣にいたのか、弟子のアンデレがイエスさまに、「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役に立つでしょう」と口を挟みます。しかしこのアンデレの答えも、さほどフィリポと変わるものではありませんでした。けれども、ここでイエスさまは、5千人もの人々の食物として5つのパンと2匹の魚が、少なすぎるとは一切おっしゃらなかったのです。「足りない」とか「少なすぎます」と言ったのは弟子たちでした。
そこで「イエスさまは、そのパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」とあります。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々は満腹した」と記されています。何とそこにいるすべての人が欲しいだけ分け与えられ、そうしてみな満たされたというのです。

このエピソードはマタイ、マルコ、ルカの福音書にもそろって記されていますが、このヨハネ福音書に見られる特徴がいくつかございます。
それはたとえば、イエスさまご自身がパンと魚を座っていた人たちに直接分け与えられたという点であります。他の3つの福音書では5000人をグループにして、お弟子たちがそれを分け与えたことになっています。けれどもここでは、その感謝の祈りを唱えて祝福されたパンと魚をイエスさまご自身が飢え渇きをおぼえていた群衆の一人ひとりの必要に応えるかのようにそれを分け与えていかれる、という光景が目に浮かんでまいります。
 イエスさまが私たち個人個人の具体的な飢え渇きを知り、応じてくださっているということは本当にうれしく読まされます。私たちが生きるための必要について主はご存じまんですね。けれどもそれはしるしに過ぎません。始めにお話したイエスさまの本来の目的、そこに今日の物語の最も豊なメッセージがあるのです。それこそは、イエスさまご自身が「命のパン」としてこの世界においで下さった、というそのことであります。
イエスさまは飢え渇いていた多くの人々を青草の上に座らせ、その一人ひとりにパンを分け与えられました。それは確かに肉の必要を満たすパンでありました。しかしそれらは一時的なものであり、どんなにお腹いっぱい食べても空腹はまたやってきます。申命記8章には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と記されていますが。イエスさまご自身がその生ける神の言であり、世の人を贖い生かすために十字架上で裂かれた「命のパン」であるのです。
4節には、このしるしを顕わされたのが「ユダヤ人の祭りである過ぎ越祭が近づいていた時である」と記されていますが。過越祭とは、先祖のイスラエルの民が出エジプト、エジプトの奴隷状態から解放するために主が行われた救いの御業をいつまでも忘れることなく記念としておぼえる祭です。その折に、小羊をほふりその血をイスラエルの人々は各々の家のかもいに塗ることで、災いと滅びから免れ、出エジプトする事ができたんですね。意味じくもその事を記念しておぼえる過越祭の前にイエスさまはこの5000人に食べ物を与える「しるし」を行われ、そのことを通してご自分こそ「命のパンである」という本来の目的を明らかになさるのですね。私たち人間が罪に滅びることのないように、イエスさまは肉を裂かれ、その命さえ与え尽くしてくださった人を根底から生かす「命のパン」なのです。その霊的食物に与る事によって私たちは滅びを過ぎ越し、神さまとの真の平安、魂の救い、永遠の命に与る事がゆるされているのであります。

さて話は変りますが、イエスさまがフィリポを試したのは、彼が世の論理や計算を頼みとするのか、それとも主イエスを頼みとするのか、ということにありました。実際私たちには持っているもの持っていないものがあり、能力にも限度があります。「ありもしないものを求められても」というのが私たちの現実でしょう。けれどもここで主が期待しておられることは何でしょうか。主イエスは私たちが何かを持っている、持っていない。できる、できない、ということを重要視しておられるのではなく、主ご自身がなさろうとしていることに、私たちが如何に信頼をし、どう応えていくかをご覧になられているということです。それこそが「5つのパンと2匹の魚」の信仰であります。フィリポをして、私たちも又、弱さや足りなさをも抱えながら、なお主イエスさまに信頼をおいているか。主の御声に如何に応えていこうとしているのか、その信仰が試されているのではないでしょうか。そのように主に信頼し期待して行く人に、主は遥かに思いを超えたみ業を顕わしてくださるのです。

さらに12節では、「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』」と言われた、とあります。これもまたヨハネ福音書だけに記されているのですが。ここでイエスさまは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパン屑を集めなさい」と、そのなすべき働き、務めを指示されるのです。
「少しも無駄にならないように」というのは、主イエスが命のパンを分け与えられるためにご自分のみ体を裂かれ、命を差し出された貴い犠牲と恵みが少しも無駄にならないよう、活かされるように、との強い願いが込められているように思えるんですね。
残りのパン屑というと残り物、残飯という感じがしますが、そうではありません。そのパン屑が尊い主イエスの裂かれたみ体であると考えたとき、それは全き命のパンであります。主はその命のパンの恵みがまだ行き亘っていないあらゆる人たち、主の福音がまだ届いていないところに迄も届けられていくための宣教や伝道を願っておられたのですね。ですから弟子たちに、残りのパン屑を集めるという働きを通してそのことを象徴的に示し、託されたのです
弟子たちがそのパン屑を集めると、それが12の籠いっぱいになった、と記されています。この12の籠というのは、12弟子たちが旅のために携えていた物入れのようなものであったらしいのですが。そこには彼らの物だけでなく、彼らがイエスさまと共に宣教の旅において、弟子として経験した主の御業と教えがいっぱい詰められていたんではないでしょうか。12はイスラエルの12部族の数ですから、まさにその枠を超えるる世界の至るところにまで、主イエスの命の糧が分かち合われていくようにと、主は弟子たちにお示しになられたのです。そうして命のパンは膨らみ、味合われ、今や世界中の人たち、そして私たちもこうしてその命の糧に与らせて戴いているわけでございます。

最後に、イエスさまがこの5000人の人々に自らパンを分け与えられたしるしは、御自身のみ体を裂き、すべての人々の命を贖う本来の目的をお示しになるためであったこと。又、そのイエスさまを主、キリストと信じることが、命のパンを頂くということである、ということを確認したいと思います。

日毎に命のパンを頂き、この命のパンに与る人々が起こされていくためには、イエスの弟子、主の働き人が必要です。同じヨハネ6章27節でイエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」といわれています。
そのようにイエスさまの弟子となるよう、主の御救いに与かった私たち一人ひとりもも又、招かれているのではないでしょうか。
主イエスの命のパンに日毎に与りつつ、主の弟子としてそれぞれが遣わされた場所で、それをどう隣人と分ち合って生きるか。それが今日私たちに示される主のメッセージではないでしょうか。

6章35節のみ言葉を本日の宣教を閉じるにあたりお読みします。
「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない』。」
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み言葉を信じて生きる

2016-01-17 16:09:12 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ4章46節-54節 

本日阪神淡路大震災から21年目を迎えました。先程はそのことを覚える「1・17の祈り」を共にささげました。震災の恐ろしさと同時に、私たちは多くの教訓を学びました。それを今後どのように活かしていくかが問われ続けています。又、その年は日本のボランティア元年だと言われています。私たち関西地方教会連合、又、日本バプテスト連盟でも主イエスのみ言葉に押し出され、夜回りや越冬支援活動が拡がってきました。そうして気づかされていったのは、それが単に被災地だけではく私の住んでいる身近な地域の問題でもあるということです。そういう気づきと支援とは後の東日本大震災の対応や働きにつながりました。主イエスの招きに応え被災地を覚えて祈り続け、地道な支援や働きによってつながっていくことを改めて今日のこの日、確認したいと願います。
先週は又、関西地方教会連合の牧師研修会が大阪教会で開かれ、「牧師のための認知症入門」というテーマのもと、神経内科医でクリスチャンの中島健二先生の貴重なお話を聞く機会があたえられました。ご講演の中で一番印象に残ったのは、「高齢化が進む中で認知症は増加しているけれども、そういう現実の中で教会には希望がある。認知症を受容しながらいやす最先端の場ではないか。その果たす役割は本当に大きいのではないか」というような問いかけ、チャレンジを牧師たちに投げかけてくださったことでした。教会の礼拝や祈祷会や諸集会の場、様々な人との出会いや交流によって元気づけられ、活き活きとされるという経験を私たちはしていると思うのです。又、教会に初めて来られた方などから、その時折に、何で教会に来られている方って若々しく、活き活きしているんでしょう、と聞かれたこともございます。主イエスの教会を介する場に、人を活き活きとさせていく力がほんとうにあるのではないでしょうか。

本日は先程読んで頂いたヨハネ4章46‐54節より「み言葉を信じて生きる」と題し、聖書から聴いていきたいと思います。
この箇所は最後のところにも記されていますように、イエスさまがガリラヤのカナでなされた「2回目のしるし」をあらわにされた記事です。1度目は招待された婚礼の席で水をぶどう酒に変えられるというものでしたが。今日の箇所では、その同じカナで瀕死の状態であった役人の息子をいやされたというしるしであります。

今回、奇跡としるしとはどう違うのですか?と質問を受けました。奇跡というのはいわゆるミラクルですね。常識では考えにくいような現象をさします。KJV欽定訳(キングジェームスバージョン)は今日の第2の「しるし」をミラクルと訳していますけれども、原文ギリシャ語はセメイオン:「しるし」又は「前兆」とも訳されます。いわゆるミラクル:奇跡に対して「しるし」とはあるサイン、証明のようなものですね。何かの目的のための「印」、又は何かが成されるための「証明」という意味が一番適切であります。今日のところはその違いを踏まえて読みますとさらに深いメッセージになると思います。

では、今日の箇所をもう少し丁寧に読んでいくことにいたします。
ここに登場するカファルナウムの役人は、ヘロデ・アンティパス王の役人でかなり地位のある高官で、彼は又、異邦人であったようです。地位も権力もあったこの人の息子が大病を患い瀕死の状態となりました。彼はイエスさまが顕わされた、婚礼での最初の「しるしや不思議な業」についての噂を伝え聞いていたのでしょう。そのイエスさまがユダヤからガリラヤのカナに再びお出でになっていることを知ったこの人は、我が子を救って頂きたいという一心で、なりふり構わずカファリナウムからイエスさまのおられたガリラヤのカナにまで訪ね、イエスさまに「息子をいやしてくださるように頼んだ」というのです。

しかし、彼に対するイエスさまのお言葉は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、ある意味予想に反するものでした。ただし、このイエスさまの言葉は、「あなたがた」という複数形になっていますので、単にこの役人だけを対象としているのではなく、ガリラヤ、広くはユダヤの人たち全体にいえることとしてそうおっしゃった事が分かります。
本日の箇所の前の44節に、「イエスさまは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。イエスさまがガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」と記されています。
ガリラヤの人たちはイエスさまのしるしや不思議な業を見てイエスさまを歓迎したのですが、それはイエスさまご自身を信じるという次元とは別ものであったことを、イエスさまは見抜き、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったのですね。

まあイエスさまは彼らの不信に対してこのように言われたのですが、この役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」とイエスさまになおも訴えます。
この役人は親としてまさに藁をもつかむ心境であったのでしょう。噂に聞いた不思議な業が自分の息子に万が一でも起こりはしないか。「ああ、何とかして子供を救って頂きたい」「もうイエスさまにただすがるほかない」「ほかにはもう望むところがない」。それはまさに崖っぷちの信仰です。

この人にイエスさまの言葉が臨みます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
イエスさまはただその一言を発せられます。
「息子が死なないうちに、カファルナウムに来て下さい」と役人は言うのですが、イエスさまは直接足をお運びにならないんですね。彼はイエスさまに直接お出で頂いて直に息子に手をおいて御業を顕わして欲しい、とそう期待していました。けれども与えられたのはただこの一言だったのです。
ところがどうでしょうか。ここにあるとおり彼は「イエスさまのお言葉を信じて帰っていった」というのです。彼は「あなたの息子は生きる」とのイエスさまのお言葉を握にぎりしめて帰って行くのですね。彼はその「息子は生きる」とのみ言葉の事実をまだ目にしていませんでしたが、ただイエスさまのお言葉をにぎりしめるようにして帰って行くのです。そしてこの人がイエスさまの言葉通りに家に帰っていく途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた、と聖書は伝えるのです。ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。彼はまさにそのようにイエスさまのお言葉を聞き行動したのですね。

イエスさまがここで何よりもお示しになられたことは、しるしや不思議な業によらず、「み言葉を信じて生きる」者の幸いについてであります。人がしるしや不思議な業に魅せられて一時的に信じたとしても、何か自分の思い通りにならなければもう信じないという自分本位の考えしかできなければ、それは信仰ではありません。それでは業は信じても主に信頼することにはなりませんね。人はみな目に見えるところを確かなものとして生活しています。確かに私たちの生活は目に見えるもので成り立っているでしょう。けれども、それらは本質的なものではありません。よくよく考えてみますと私たちの目に見える世界の根底には信頼や愛情という見えないものが生き、働いているからこそ、人が人として生き、生かされる世界が成り立っているのですね。いくら物に満たされ、ゆたかに暮らすことが出来たとしても、根底のところで人を生かし支えているもの、生きた神さまご自身の存在とその愛のお働きに目を向けることがないとしたなら、それはほんとうに虚しいことです。人の存在はその人の命を生じさせる方、造り主なる神さまによって確かなものとされるからです。

さて、この役人は、イエスさまが「あなたの息子は生きる」とおっしゃった時刻と自分の僕たちから息子の熱が下ったという時刻とが同じであったことを知ったのです。彼がこの驚くべき恵みの出来事を知ったのは、まさに彼がイエスさまのお言葉を聞き、そのお言葉を信じて受け取ったその時でした。この役人はしるしや不思議な業によってではなく、イエスさまとそのお言葉に信頼することによって、具体的にはみ言葉に自分の存在をかけて一歩を踏み出して行くことによって、神さまが生きてお働きになられる大いなる経験をすることになったんですね。そうして彼はより深い信仰へ導かれていくのです。それは結果として証しとなり、聖書は彼もその家族もこぞって信じたというさらにゆたかな救いの出来事が起こされていくのであります。

最後になりますが、先々週の2章のガリラヤのカナの婚礼でイエスさまが「水をよいぶどう酒に変えられた」という最初のしるしから始まり、先週の渇くことのない命の水についてのサマリアの女との問答、そして今日の、何とか息子を救いたい異邦人の父親のエピソードと続きましたが、これらのことを通して示されますのは、「救い主イエス・キリストは、私たちの日常生活における問題や悩み、必要をご存じであられる」ということです。私たちはみなそれぞれ異なります。起こってくる問題も様々です。主はそのような私たち一人ひとりにふさわしいあり方ご自身と、その救いのしるしを顕わしてくださるのです。今日も主はお一人おひとりに必要な命の言を与えておられます。ゆたかな信仰の恵みは、そのように主イエスのお言葉を信じて生きるときに体験することができるのです。

私たちは今イエス・キリストご自身の姿を目で見る事はできませんが、み言葉を信じて生きることを通して、イエスさまの御心を知り、その御業を知ることができます。又、私たちが幸いなのは、この役人のように主に直接訴えることができる、祈ることができる、ということです。私たちの神は石や木で刻まれた像ではなく、生きておられます。主はみ言葉は生きて働き、私たちに命を与えます。聖霊の助けとお導きによって主の臨在を我が身に感じ、この地上においても主イエスが共にいてくださり、共にお働きくださることを、体験できるのであります。

今日の箇所は、世のしるしや不思議な業に信じる基盤を置くのではなく、主イエスのみ言葉を信じ、信仰に立って生きるように、と私たちを招いています。それはヨハネ20章末尾に、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とおりです。先に奇跡としるしについて申しあげましたが、まさに主イエスの十字架の苦難と死による罪の贖いこそが、神の救いの最大のしるし、証明なのであります。この大いなる恵みを喜び感謝しつつ、み言葉を信じて生きる私たちとされてまいりましょう。
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渇くことのない命の水

2016-01-10 19:28:07 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ4章1節-30節  

先週も「水がめに水をいっぱい入れなさい」という水のお話でしが、本日の箇所も水に関係するヨハネ4章の「イエスさまとサマリアの女」の物語から「渇くことのない命の水」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

聖書はイエスさまがユダヤ(エルサレム)の地から北のガリラヤヘに行かれる折、4節にあるように「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記しています。この「しかし」というのは、通常多くのユダヤ人はガリラヤへの最短コースはである今回のサマリアを避けて、わざわざヨルダン川を渡り、険しい遠回りのコースを選んでいました。それは、9節にあるように「ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかった」からです。
しかし、イエスさまはその「サマリアを通らねばならない」と、つまり必然的にサマリアを通る道を選ばれた、ということです。元々はサマリア人もイスラエルの民であったわけですけれども、そのユダヤ人とサマリア人との対立の由来は古く紀元前722年、北王国イスラエルとその首都サマリアが滅亡した時に遡ります。北王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、占領政策として北イスラエルに5つの異民族を移植し、異教の神々が持ち込まれることになったのです。そのため、血統性を重んじる(血統的に純粋な)ユダヤ人はサマリア人をイスラエル人としての血と真の神への純粋性が失われ、汚れた者として蔑視し、エルサレムの神殿に受け入れなかったのです。サマリア人はその地に自分たちの神殿を独自に建て、ユダヤ人はこれを認めない、という対立が延々と続いていたのです。ユダヤ人がサマリア人と交際しなかったというのはそういう背景があったのです。

さて、イエスさまがユダヤを去り、サマリアのシカルの井戸に着いたのは一日で一番暑い正午頃でありました。その時ひとりのサマリアの女が水をくみに来ました。水汲みは通常涼しくなる夕暮れに行われていたようですが。この人は真昼に、しかもひとりで水を汲みに来たのです。それは実に奇妙なことでした。そんな真昼の焼き尽くような暑い正午頃に彼女がわざわざ井戸に水を汲みに来た理由。それは他の女性たちがやってくる時間帯を避けるためであったようです。
イエスさまはこの人に「水を飲ませてください」とお頼みになります。井戸はあっても汲む物を持っておられなかったのです。
すると彼女はとても驚きました。まあ当時は男の人が見知らぬ女性に声をかけるなど普通なかったことでしたし、ましてや自分の前にいるのは、その服装や様相からユダヤ人であります。何で汚れた者とみなしているであろうサマリア人の自分にそのように頼むのか。彼女は理解できなかったのです。
そうしてイエスさまとサマリアの女の「喉の渇きをいやす水」と「決して渇くことのない命の水」の問答が始まります。
10節「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるのか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
「神の賜物」とか「自分を誰手あるのか知っていたのなら」などと言う言葉を聞いたサマリアの女は、「いったいこの人はどういう人なのだろうか」と考えたことでしょう。
そこで、彼女はこのシカルの井戸を与えてくれたイスラエルの父祖ヤコブよりもあなたは偉いのですか、とイエスさまに尋ねます。
するとイエスさまこう答えられます。13節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
この井戸の水は一時的に渇きをいやすかもしれないけれどもまた渇く。けれどもイエスさまが与える水を飲む人は決して渇かない。それどころかその人の内で泉となって、永遠の命に至るまで湧き出る、と言われるのですね。
 けれども、彼女は「生きた水」と言われたイエスさまの言葉を誤解します。普通の湧水を思ったのです。そこで「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とイエスさまに願うのですね
井戸の水汲みは重労働です。もう水を汲みに来なくてもよいならどれだけ助かることでしょう。けれどもその言葉の裏には彼女の魂を真に満たしてくれる「何か」に対する渇きがにじんでいるように思えます。イエスさまはそのことをご存じだったのですね。
井戸に水を汲みに来ていたこのサマリアの女が一番欲していたのは、まさにこの「渇くことのない命の水」であったのですね。
それがこの後の、イエスさまとこの女とのさらなる対話によって明らかになります。
彼女が5度の結婚と離婚を繰り返してきたこと。現在も夫でない人と同棲していること。彼女は自分が寄りかかれる相手をずっと求め続けてきたのですが、その心の渇きは満たされることなく、ことごとく失敗して同じことが繰り返されていったようです。ほんとうに心の渇きを満たしてくれるものを彼女は切実に求めて来たけれど、それを得る事はなかったのです。欲しいという思いを持っていたのであります。
すべてを言い当てられたこのサマリアの女は、自分の過去も今も見通すことのできたイエスさまに驚き、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。
その時、彼女は自分が如何に神から遠く離れたところにさまよっている者であるか。
そして自分の魂が本当に必要としているのは何かを見出しかけていました。
20節「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにある」と言っています。
彼女がイエスさまにこう問いかけたのは、自分自身が神に立ち返るべき者であることを意識したからでしょう。だからこそ彼女はほんとうに礼拝すべき場所を尋ねたのでしょう。けれどもこれは彼女の個人的問題のみにとどまるものではありません。先程ユダヤ人とサマリア人の歴史について触れましたが、民族的な純粋性を損ない、独自な礼拝の場を作った、とユダヤ人から蔑視されてきたサマリア人の積年に及ぶ神の民としてのアイデンティテ―に関わるそれは問いかけだったのです。この女性にかつて5人の夫がいて今も本来の夫でないというのは、かつての入植政策により異教の神々が入り混じるサマリアそのものであり、今連れ添っているのも本当の夫とは言えないというのも、彼らが独自に建てた神殿がユダヤから認められないそのことを表していたのです。つまり、彼女の渇きは、サマリア人の神の民としての「真の礼拝」への切望に外ならなかたのです。そのことに対して目の前の預言者は何がしかの回答を与えてくださるに違いない、という期待を彼女はもったのです。

そんな彼女にイエスさまは、「わたしを信じなさい」と言われます。
その上で、礼拝の場所はサマリア人の主張するこの山やユダヤ人の主張するエルサレム、これらの特定の場所に限定されないところで「父(神)を礼拝する時が来る」とおっしゃるのです。それは画期的なことでした。ユダヤ人もサマリア人も神の神殿にこそ神は臨在されると信じていたからです。神殿こそが礼拝の場でありました。それが、神の御子イエス・キリストが救い主としてこの世界に来られた。今や、一切の場所的な制限が取り除かれ、あらゆる場所、至るところにおいて人種や立場を越え、あらゆる人たちが神を礼拝することができるようになったということです。救い主イエス・キリストの到来によって真の礼拝が捧げられる時が訪れたその恵みの中に私たちも又、この地にあって礼拝を捧げる恵みに与かっています。

もう一つ大事なことは、イエスさまは、真の礼拝をする者たちが、「霊と真理をもって礼拝する時が来る」とおっしゃっていることです。これまでサマリアの山でもエルサレムの神殿においても不正や偶像礼拝が行われ、エルサレムの神殿の境内は商売の家となり、人々の心は神から遠く離れていました。それに対してイエスさまは、霊ご自身であられる神さまに見いだされ、救われた一人ひとりとの生きたつながりをもった霊的な礼拝がささげられることこそが「真の礼拝だ」、と言われるんですね。

彼女はイエスさまにこう言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
ここで確かにキリストと呼ばれるメシアが来られ、一切のことを知らせてくださる、と彼女は知ってはいるのですが、それはまだ、先のこと、自分自身のことになっていませんでした。つまり、今、目の前におられるイエスさまがそのお方であるということに気づいていなかったのです。
そこでイエスさまは彼女にこう言われます。
「それは、あなたと話しているこのわたしである。」

彼女はそのイエスさまの言葉を聞くや、水を汲む当初の用事も忘れ、水がめをそこに置いたまま一目散に町に行き、人々に「わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。この方がメシアかも知れません。さあ、見に来てください」と伝えます。人々はそれを伝えたのが日頃人目をはばかり関わりをもとうとしなかった女性であることに多分驚き、怪しみつつ町を出て、イエスさまのもとへやって来た、というんですね。
イエスさまの言葉がいかに彼女のうちに変化をもたらしたかということを読み取ることができます。身の上の事で人目を避けてきた女がイエスさまとの出会いを通して、その心が開かれ、期待に胸躍らせてそのことを人々に伝えていく人とされるのです。
39節以降には、このサマリアの女の証言が、人々をイエスさまのもとに導いたことが記されています。それは異教の民と蔑まされてきた彼らの上に神の時、救いがもたらされた瞬間でした。

最後に、今日のこの箇所から何よりも教えられますことは、イエスさまとの一対一の関係が築かれていくことの大事さです。
イエスさまは一人の魂が見いだされ、救われるために、出会われるお方なのです。私と出会い、私と対話し、私の求めと本当の必要を知っていて下さるお方だということです。このサマリアの女を大きく変えたのは、イエスさまの「それが、あなたと話をしているこのわたしである」との決定的なお言葉でした。それはイエスさま自身が渇きを覚えられ、渇きを持つ人の痛みや傷を感受されるお方であり、最後はゴルゴダの十字架の上で「渇く」と叫ばれて、罪の贖いを果たされた「救い主」であられたということです。

その救い主、主イエスのお言葉を聞いたとき、彼女のうちに決して渇くことのない命の水が注がれた、とそう思えるのであります。このイエスさまとの出会いとお言葉によって彼女の心は神の救いを見、世では得る事のできないほんとうの喜びと平安が満ち溢れていくのです。まさにイエスさまが、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃったことが、サマリアの女のうちに起こっていったのです。彼女は「真の礼拝」を心から願っていた一人でした。主はそれをご存じでした。こうして彼女は神の霊によって新しく生まれた者とされ、真の礼拝を捧げる恵みと喜びに与っていくのです。同時にそれは、主イエスの御救いを証しする存在、伝えるために世に遣わされる者、救いの喜びを分かち合う者とされていくのです。
今日は読みませんでしたが42節に、イエスさまの言葉を聞いて信じた人々がサマリアの女に次のように言っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であることが分かったからです。」
 彼らも又、メシア、救い主イエス・キリストとの出会いを個人的に、一対一の関係できっと与えられたのですね。今、イエスさまの存在は私たちの目には見えませんけれども、確かに神の霊であるイエスさまの聖霊が一人ひとりの魂に語りかけ、御心を示し、それに従って生きるようにと促しておられるのですね。真の礼拝を捧げていく者であるように、今日も主イエスがお与えてくださる決して渇くことのない命の水を新鮮な思いで戴き、その喜びと恵みを証し、分かち合う者とされたいと願います。

最後にイエスさまのお言葉をお読みして本日の宣教を閉じます。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37‐38節)
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2016年・新年に寄せて

2016-01-08 10:00:27 | 巻頭言

主の年2016年おめでとうございます。

旧年はみなさまには大阪教会ブログにご訪問いただき、ありがとうございました。

今年も聖書からの宣教を中心に発信させて頂きますので、よろしくお願い申し上げます。

今年はとくに、「平和」の真価が試される1年になりそうです。

日常の中にある平和の尊さに目を向けつつ、み言葉に立ち続けていけたらと願っております。

「平和を実現する人々は、幸いである。」マタイ5章9節

みなさまにとって良き1年でありますよう、お祈り申し上げます。

                2016年 初春  主にありて感謝



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2016年新年礼拝宣教

2016-01-03 14:28:07 | 教会案内
「水がめに水をいっぱい入れなさい」ヨハネ2章1節-12節

「主は招きたもう」
新年最初の主日礼拝をともに捧げることができます恵みを感謝します。
大阪教会ではクリスマスから始まって30日の歳晩祈祷会、その2日後には元旦礼拝、さらにその2日後の新年主日礼拝と集会が続き、あっという間の年末年始であったいうのが実感でありますけれども、その時ごとに与えられる大きな恵みがあり、喜びと元気をほんとうに戴いていることに心から感謝しています。
元旦礼拝でも申しましたが、今年も益々主の栄光が証しされ、御救いが起こされていく1年となりますよう、願うものです。2016年の皆さまお一人おひとりの歩み、ご健康とお働きが主に守られ祝され、すべての必要が満たされていきますように、お祈りいたします。
2016年が始まってまだ3日目ですので、お正月のただ中でありますが。私たちは期待をもってこの場に集まっているわけですけれども。それは又、私たちそれぞれが主からの「招きを受けて」ここに集められているということでもございます。
先程今日の聖書の箇所が読まれました。それは、ガリラヤのカナの町で婚礼があって、そこにイエスさまをはじめ、その弟子たちも招かれたということからこのエピソードが始まっていきます。この「招き」は、原語のギリシャ語でエックレーセー;「呼ばれた」、神から召しを受けた、という意味があり、それはまさにキリストの教会に招かれた人たちを指す、エクレシアを表しています。2016年の新年最初の主日礼拝に私たち一人一人も、主から招待されてここに集っている、という喜びと祝福をまず共々にかみしめ、その恵みを心に留めたいと思います。

「カナの婚礼」
さて、本日の新年礼拝に与えられた箇所は、イエスさまの仕事初めともいえる「カナの婚礼においてイエスさまが水を良いぶどう酒に変えられた」お話です。そのあらすじは読んでお分かりのとおりだと思いますが、もう一度簡単に整理してみますと。
イエスとその弟子たちが招かれた婚礼という祝いの席でぶどう酒がなくなります。晴れやかな婚礼の祝いの席でお酒が足りなくなってしまえば客人はがっかりして、それは新郎新婦の資質が問われるような事になりかねなかったのです。
イエスより先に婚礼の場にいて、何らかの準備に関わっていたであろうイエスの母は、新郎新婦の面目がまるつぶれになるのを心配したのでしょう。息子であるイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うのです。イエスの母がどのような考えをもってイエスにそう言ったのかはここに書かれていませんが、何とか調達してくれるのではないかという期待の思いがそこにあったようです。しかしそんな期待とは裏腹に、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」とそうお答えになるのです。それでも彼女は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とことづけます。そうした後、イエスさまが召使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使たちはイエスの母から言われたことを思い出して、その言われたとおりに「6つのかめの縁まで水を満たした」のです。そして召使たちがイエスの「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」とのお言葉通りにすると、かめの水が大変質の良いぶどう酒に変っていた、というのですね。そのことで婚礼は祝福され、世話役から花婿は誉められる、というお話です。

今回このエピソード読んでまず気づかされたのは、イエスの母の存在です。もちろん水を良いぶどう酒に変えられたイエスさまにその話の中心があるのですが。その母がイエスさまに何らかの期待を持たなかったなら、この水がぶどう酒に変る祝福は起こらなかったのですね。仮にイエスの母が、ぶどう酒が無くなっても所詮人ごとだと何ら働きかけなかったなら、又、執り成さなかったなら、それは起こりませんでした。あるいはイエスのそっけないように思える返事に失望し、「もうあんたには頼まん」と投げ出していたらどうなっていたでしょう。
けれども、彼女は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。とても即答を得たようには思えませんでしたが、なおイエスさまに信頼してその意志に聞いていこうとする母の姿がそこにあったのです。
執り成し、主に信頼し、決して失望せず、なおも主に期待していく人を通して主はその栄光を現わされたのですね。

さらに、婚礼の準備をしていた召使いたちがいなければ、やはりこの水が大変質の良いぶどう酒に変るイエスさまの祝福の業は起こらなかったということです。イエスの母のいうとおりに、イエスの指示に従った彼らの存在は欠かせません。

このエピソードのようにイエスさまが「水を良いぶどう酒」に変えられるそんな祝福が備えられるためには、イエスの母のように、主に信頼をおいて、決して失望せずなおも期待していく人、又、召使たちのように、力を合わせて主のお言葉どおりに行動を起こしていく人が、不可欠である、ということであります。力を合わせてと申しましたのは、1つの水がめに水を満たすには80リットルから120リットルもの水を入れなければならなかったわけで、それが6つもあったのですからこれは水を入れるにしても、さらに6つの水がめを運ぶにしても大変な労力がいったということですね。いずれにしましても、そのような人たちを通して、主の教会も、一人ひとりの信仰生活も祝され、なおかつイエスの母や召使たちが体験したように、主なるイエスさまの御業を拝する光栄にあずかることができるのですね。
さて、ヨハネの福音書は、この「カナの婚礼」での出来事を「イエスさまの最初のしるしとして、その栄光を現わされた」と伝えます。
このカナでの奇跡はイエスさまの福音の一部分なのですね。その主の御救い、福音が完全に実現されるのは、イエスさまが世の罪を贖うために十字架につけられる、その苦難と死によって全人類に神の救いがもたらされるという大いなる御業を成し遂げられたその時であります。ヨハネ福音書1章に、バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと記されているとおりです。

そういう事を思いますと、イエスさまはどのようなお気持ちで「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃったのでしょう。イエスさまは十字架の受難と死による贖いという使命を負うという「御自分の時」を前途に控えておられていたにも拘わらず、人々の喜びや悲しみ、心配や必要といった日常のいわば悲喜こもごもにさえ、心を配り、関わりをもってくださるということを、このカナの婚礼のしるしを通して、新鮮な気持ちで想う事ができます。そのことが何ともうれしく、新年早々から励まされるわけであります。

私は2016年の教会の年間標語と聖書をこの箇所から頂こうと考え、年間標語案を「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたイエスさまのお言葉から聞いていきたいとそう導かれました。

その水がめとは、私たち自身のことを指しています。それは、私の水がめの中に主の尽きぬ命の水である御言葉をいっぱい汲み入れる、というメッセージです。そこでもし私という水がめが、自分の願望や不平不満、世の様々のことどもでいっぱいになっていたのなら、主の御言葉がそこに入る余地はありません。まずは生活や生き方そのものをシンプルにして、救い主であるイエスさまの御前に出で、御言葉に聞いたり、祈りの対話をもつことが大事です。そうしていく時に、主は私に必要な生きた御言葉を与えてくださいます。そのことによって、私たちのうちにイエスさまの愛と恵みが満ち溢れ、隣人とそれを分ち合う喜びと楽しみが与えられてまいります。その喜びとは、良いぶどう酒である主の救いの杯を様々な人たちと酌み交す喜びであり、イエスの母や召使たちが体験したように、主の栄光を目の当たりする喜びであります。

最後になりますが、この水がめは本来清めのために用いる石の水がめで、先程も申しましたように水がめ一つに80リットルから120リットルの水がはいるくらい大変大きなもので、それが6つもあったのです。それを舌のこえた世話役も驚くほど最上のぶどう酒に変えられたのです。ほんとうにイエスさまのなさることはスケールが違います。まさに福音の大盤振る舞いですね。
今年の私たちそれぞれのあゆみが始まりました。
「水がめに水をいっぱい入れなさい」との御声に従って、主の生ける水、命の言葉に満たされ、この一年用意されている様々な出会い、又気づきや発見すべてが、味わい深い体験に変えられていきますように。主の福音が、この最上のぶどう酒がふるまわれたカナの婚礼のように、尽きることなく、主イエスの御言葉のダイナミックな力によって分かち合われることを、期待していきましょう。

年初のお祈りをいたします。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」
天の神さま、こうして新しい年2016年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することできますことを感謝いたします。
神さま、今年も福音を伝え、証しする私たちを病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。私たちの家族や家庭のうえに、又、仕事や生活の上に平安と祝福をお与えください。
また、私たちが生きる世界や社会のいたるところにおいて、いまだいのちと平和を脅かすような紛争や収奪が繰り返されています。そしてさらに軍事力や武力よって安全が築かれるという事で戦争を犯したかつての過った道に逆戻りしている状況に歯止めがかかりますように祈ります。世界には貧困や経済や政治的な事情で住み場を失い、難民生活を余儀なくされている人たちがあふれております。又、厳寒のもと身近なところにも野宿生活を余儀なくされている孤独な人たちがおります。神さま、その一人ひとりの命をお守りください。私たちの平和の福音を告げ、証する者としてどうかお用い下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
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