
礼拝宣教 ガラテヤ5章1-15節
来月の6月は神学校週間を迎えますが、私は2つのタイプの神学校で学ぶ機会がありました。今ではそれはほんとうによかったと思えております。1つ目の神学校は、生活のあり方について1つ1つ指導があり、時にはプライベートな面にも干渉がありした。神学寮は元学長宅で、学内にある一軒家で、事細かな寮則が設けられていました。20歳過ぎても寮内は禁酒禁煙です。門限はなかったですが、毎日晩祷という夜の祈り会と朝6時前には早天祈祷会が行われ、入寮する3人が一緒に寝泊まりし、自炊の共同生活を2年間続けました。確かに指摘されないと気づけないこともあり、知らない間に人に迷惑をかけることもあったので、そういったことを教えて頂いたのは良かったとも思えます。が、一方で指導や指示を守り、従うことが重要であるかのようになって、それが「安全」「安心」「良いこと」というところにはまり込んで、自分で考えようとしないようになってしまう恐れもありました。もちろん学ぶ機会と教派を超えた交流、経済的にも支援を戴き、学生生活が守られた事には感謝が尽きません。
もう1つの神学校は、4年間学びと共同の生活の機会が与えられました。こちらは前者の神学校とは対照的でした。本学が神学部から離れた場所にあり、そちらで一般教養を学ぶ機会もあり、生活面でもわりと自由な校風で、こちらも独身寮でしたが、一人ひとりにお部屋があり、事細かな校則は何もありませんでした。ある意味、生活のすべては個々人の学生にゆだねられており、放任というと言いすぎかも知れませんが、それで痛い目に遭う体験をもしましたのも、自由な中でも自分が一体そこで何をどう今なしていくのか、それがいつも問わる毎日は、学びの連続でした。「自由」というと聞こえはいいですが、それは何をしてもいいというわけではなく、それをしないのも自由です。その中で自分はどうあるか、どう生きるかを選びとっていく事が大事だと気づきました。
たとえばレポートと筆記の試験どちらが楽かといえば、まあ人によるのかも知れませんが、暗記して憶えてその回答を書く方がある意味楽じゃないですか。レポートは、決められた答えというものがありませんから、本や人と出会い、体験から自分で考え、それを構築していかなければなりませんから大変です。けれどもそれを仕上げた時の喜びはひとしおです。
このタイプの違った2つの神学校での学びと生活の機会が与えられ事が、今でも私に様々な物の見方を教えてくれるのです。
さて、先週は読んだ箇所から、ガラテヤの信徒たちは福音の真理によって主の御救いに与ったにも拘らず、土着の風習に惑わされ偶像や日、月、時節や占いに振り回される生活を送る人たちがいたことを知りました。日本に住む私たちにとって、それは決して人ごとではありません。
すると今度は、ユダヤの割礼をはじめ、諸々の律法規定、祭儀や儀式、慣習の下で、~であらねば救われない。~割礼を受けなければ神の民ではないなどと、主張するユダヤ人の信徒たちがいて、異邦人のガラテヤの信徒たちはその教えに囚われ、縛られて、再び神ならざるものの奴隷として仕えていく虚しい生活に逆戻りようとしていたのです。
彼らの信仰の導き手であり霊の親であったパウロは、この事態を大いに憂いてそのガラテヤの信徒たちに、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と、渾身の思いをこめ、忍耐をもって切に訴えたのです。これが先週の箇所でした。
パウロは続く4章21節以降で、「肉によって生まれた子」と「約束によって生まれた子」の2通りのタイプを示します。「肉による子」とは律法主義の下で囚われ奴隷の状態の人たち。一方、「約束による子」とは主イエスの十字架の贖いを信じて救われ、自由を得、神さまとの新しい関係に生きる人たちを示します。
そこでパウロは本日の5章1節で、「この自由を得させるため、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。13節でも、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」と述べます。
本日は「キリストがわたしたちを自由の身にしてくださった」、その「キリストから与えられた自由」について、御言から聞いていきたいと思います。
このパウロ自身もキリストによって自由にされた、その一人でした。彼も以前は熱心なユダヤ教の律法主義者であり、唯信仰によって救われるというキリスト信徒に対して、激しい迫害を繰り返してきた人物でした。そういった彼の活動は、こうあらねばならない、こうしなければならないということを人に課し、力づく従わせようとしていたわけですが。それは実は自分自身も律法主義のくびきにかけられた奴隷のような状態であったのです。
そんな彼が決定的に変えられたのは、十字架と復活のキリストとの出会いによってでした。その出会いによって自分が如何にその慈愛と恵みをないがしろにしてきたかをさとり、そればかりか、その神の救い主、キリストを十字架につけて殺害したのは、ほかでもない自分であったことを知るのです。
パウロはイエスさまを肉眼で見たことはありませんでした。しかし、復活されたキリストがパウロと出会われたのです。キリストは唯、神の御憐みによってパウロの罪をゆるし、十字架の苦難と死を通しての罪の贖いによる自由と解放を与えられたのです。
だから、彼の「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」という言葉は、まさしく自身の救いの体験から発せられたものであったのです。
パウロは2節以降で、ガラテヤの信徒たちにさらにこう述べます。
「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたは、だれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」。
「割礼を受けよ」という言葉は「ユダヤ人化して神の民となれ」という事です。しかしパウロは、割礼を受けなければ救われないと考えていた人たちに、そのようなことをすれば「キリストの苦難と死」」「キリストの恵みによる御救い」は何の意味も無くなってしまう。それなら「律法のすべてを行う義務が生じる」と言うのです。
パウロがこれほどまでに訴えているこの「割礼」の問題は、キリストの福音の危機であると同時に、ガラテヤの信徒たちの割礼を受けた者と受けていない者との間に、激しい分断と分裂を教会において起こす問題となっていたのです。
割礼や律法主義を信奉し、それを宣伝していったユダヤの自称信徒たちは、「信仰も大事だけれど割礼も大切、本物になりたいだろうと、やんわり誘い」をかけ、うまくガラテヤの異邦人信徒たちを自分たちの側に取り込もうとしていたのです。甘い誘いで入って来た「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」(9節)ように、それがだんだんと膨らんで、キリストの愛によって結ばれていた群れが、分断と分裂を招く事態になりかねなかったのです。
かつてパウロは、律法を行うことに誰よりも熱心であり、自分の義、正しさを誇っては高ぶり、自分の考えと違う者を見下し、排斥していました。その高慢によって気づかぬままに神に敵対し、その行き着く先は滅びと死でしかありませんでした。
ガラテヤの信徒たちは、割礼を受ければ神の民として正式に認められるかのような話に影響を受けていました。その信仰の変質によって滅びの危機にあったのです。
そこでパウロはガラテヤの信徒たちに言います。
6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
行いによって救われようとする彼らにパウロは、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と述べたのです。
この言葉を私が初めて読んだときは、愛の実践に重きがあるように読み取っておりました。が、そうじゃないんですね。ここの主体は「信仰こそ」とあります。「信仰」なのです。このキリストの「信仰こそ」が愛となって働くのです。パウロは愛のある働きをしなさいと教えているのではありません。キリストの救いの感謝と喜び、その信仰こそが愛を呼び起こさせる、と言っているのです。この順序がとても大事であります。
そしてさらに使徒パウロがここで、「愛の実践を伴う信仰こそ大切」である、と述べた愛の原語は、ギリシャ語でアガペー。エロスの性愛でも、フィレオの友愛でもなく、アガペー、神の愛なのです。これは大きな意味をもっています。人間のもつ情愛、ヒューマニズムによる愛ではなく、「神の愛」によって働く信仰こそが大事だと言っているのです。
先に交読文として読まれたコリント一13章の一部を、週報の表に載せていますので、読んでみましょうか。
その4節-7節の「愛」のところにご自分の名前を入れて読んでみましょう。
どうでしょうか。「私はそのように生きている」と断言できるのなら、その方はすごいですね。けれど、自分はどれほど愛のない人間であるかを思い知らされるという方が多いでしょう。ではもう一度、今度は「愛」のところに「キリスト」ご自身のお名前を入れて読まれてみるとどうでしょうか。(間をおく)
神の愛の実践を伴う信仰とその生活。それは「私は愛がある」とか。「あの人は愛がない」とか。そういうところからは始まらないことがわかります。
私たちはキリストの救いが「神の愛」であることを覚え、その「神の愛」を受けることによって愛に生きる者とされているのです。それを毎日確認していくことが、神の愛の実践につながっていくのです。
パウロは今日の13-14節以降でこうも述べます。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉による機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです」。
この「愛によって仕えなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」の愛もアガペーの愛、神の愛、キリストの愛です。
では、その「神の愛」によって得ることのできる「自由」とは何でしょうか?
又、その自由を得るために召し出されたとは、どういうことでしょうか?
この手紙を書いたパウロはキリストを伝えるために、時に厳しく非難され、迫害され、投獄されることもありました。けれども彼自身の心はいつもキリストにあって自由であり、解放されていたのです。彼は敵対する者にもキリストを伝えたかった。それは彼自身がキリストの十字架の愛に救われ、満たされていたからです。その救いによって、彼は獄中から手紙を書いて人を励まし、力づけ続けました。その手紙は「喜びの手紙」と言われています。来週からそのフィリピの信徒への手紙を読んでいきますが。
真の自由とは、どのような環境や状況にも左右されるものではないものです。その自由は、自分だけではなく、他者をも解放し、自由にしていくものなのです。そしてそこには、キリストから与えられた真の自由、真の解放には喜びの伴う証が生まれていくのです。
主イエスは言われました。「御子があなたがたを自由にすれば、あなたがたは本当に自由になる」(ヨハネ福音書8章36節)。キリスト、神の愛に生きる自由に与って、私たちもこの与えられた自由、その神の愛の喜びを分かち合う日々を共にしてまいりましょう。
礼拝宣教 ガラテヤ4章8-20節
昨日の雨風で少し散ってしまいいましたが、教会の玄関前のバラ(アンジェラ)が満開となってからは、「おー」「かわいい」「きれい」と歓声をあげているのが教会内にも聞こえてきました。
そうした中先日は、中年の女性の方が「お話しを聞いてください」と訪ねて来られ伺うことになりました。細かい事情は話せませんが、その方は1年前に4年以上務めていた医療事務の会社のことでいろいろと悩みぬいた末に、感情的になって辞められたそうです。その後、次の職場に就くも職場関係が難しくすぐに辞められたということでした。この方は1年前に自分が取った行動にずっとさいなまれ、自分を責め続けておられたのです。お寺にも行かれて相談したけど、自業自得だ、と言われてへこんでしまったそうです。又、占い師のところにも行かれたそうですが、「今は悪い相が出ているが、それを乗り切るときっと開ける」とどうとでもとれるようなこと言われて、煙にまかれたようだったとおっしゃっていました。そんなこんなで時計を見ると2時間も経っていたのですが。私はこの方に、「自分を責め続けても自分を苦しめるばかりで、前に進めませんね。私たちの全てお見通しで、すべてを知っていてくださる神さまは今も生きておられます。その神さまはあなたの苦しみを知っておられます。あなたのことをお責めにはならないし、あなたの幸いを誰よりも願っておられる神さまです」と、お伝えました。すると、はじめはほんとうに暗い表情でうつむいていたこの方がお顔をあげられ、「気持ちが楽になり、また前に向かっていくことができそうです。ありがとうございます」とお答になり、教会を後にされました。救いは生きておられる神に気づくことから始まります。
本日もガラテヤ信徒への手紙4章より、御言に聞いてまいりましょう。
先週も申しましたが、割礼や律法の諸規定を行わなければ救われないとするユダヤ主義を信奉する人たちの教えに惑わされていたガラテヤの信徒たちは、「イエス・キリストを信じて義とされる」という救い、福音の真理に立ち返る必要がありました。
パウロは8-9節で、「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」と述べます。
異邦人であったガラテヤの信徒たちは生ける神を知りませんでした。しかし「今は神を知っている。いや、むしろ神から知られているのに」、神がお与えになったキリストの完全な救いに人の業を付け加えることはできないのです。
このキリストによって私たちは神に知られている。神ご自身がわたしたち一人ひとりを知っておられ、目を留め、心にかけ救いを与えてくださるのです。
人ではなく、神が主体。だから私たちは、「主よ」とお呼びするのです。そう呼ばせて下さるのは、私たちの内にお働き下さる聖霊です。
ガラテヤの信徒たちはその聖霊の導きから逸れてしまい、「無力で頼りにならない、いやそれどころか支配し、まどわし、引きずり回すような悪の諸霊のもとに逆戻りして、もう一度改めて奴隷として仕えようとしている。」とパウロは警告するのです。
これは人ごとではありません。日常の中で、私たちも自分の考えだけで突っ走ってしまい、後悔し、自分を責めて続けるようなこともあるかもしれません。様々な状況において、常に聖霊の導きを祈り求め続ける必要があります。祈り求めつつキリストによる救いの確信に与ってまいりましょう。
またパウロは、「今また、あなた方は、いろんな日、月、時節、年などを守っています。」と言っていますが。星や天体の巡りが何か人の運命や人生に影響を及ぼすものとして、それらを崇拝したり、呪術師から聞いたことに自分の行動や考え方が囚われて、人生が支配され、それらの奴隷となっている人たちがいたということです。
心が弱く折れそうになる時や誰も頼るものがないような時、人は何か目に見えるしるしのようなものにすがりたくなるものです。「この決まりごとを守り行っていれば大丈夫ですよ」とか。「これを身に着けたらよい事があります」とか。そういったことを何かいかにも霊感がありそうな人に指示されると、人間って簡単に流されてしまうことあります。
たとえば、1年で昼と夜が半々になる彼岸や、祖先を供養する日として重んじられているお盆など、その日に墓参りや供養をしなかったら、先祖がたたり、疫病神が取りつくということを聞いたことがあるでしょう。まさにそういった時節や日にまつわる言い伝えがいまだに人の心を縛っています。いくことになります。子孫がそのような目に遭うことを本当に先祖が願うでしょうか?いや、むしろ平安や幸いを願われているのではないかと思います。
畏れ敬うべきは人の命も魂も司っておられる主なる神であり、大切なのはその神の御心に従って家族や隣人を自分のように愛し生きる事だと聖書は語ります。
他にも厄年や仏滅、大安吉日、友引といった暦があり、断固それを守っている方もおられるでしょう。しかし、すべての時間と空間、歴史を支配しておられるお方は、天地万物をお造りになられ、万物を導かれる主なる神さまです。太陽も月も星も主なる神さまがお造りになられたものです。私たちはその神の御子、イエス・キリストの十字架によって、私たちはあらゆる世の束縛や囚われから解放され、救いの道が拓かれました。すべてを最善に成すことができになる神さまに祈ることが許されています。もはや言い伝えや慣習に縛られる事なく、生ける神に信頼する平安を頂いているのです。
ガラテヤの信徒たちは、信仰によってその御救いに与っていたにも拘わらず、人間の取り決めた日や祭りごとを守らなければ本当の救いにあずかれないというような惑わしによって、主への信仰を失いつつあったのです。それはキリストの尊い犠牲を台無しにしてしまうことでした。
パウロは言います。11節「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」。
彼はガラテヤの教会と信徒たちがちりぢりになってしまうことに強い危機感を持ったのです。教会も孤立しますと、どこか独善的になってしまい、福音の真理が失われかねません。そういった意味でも私たちは日本バプテスト連盟や関西地方教会連合につながり、相互に信仰を吟味し合い、互いに祈り合う関係を大切にしてきました。また教会のみならず、それは個々人の信仰観も同様です。教会につながることで、「何が神の御心であるかを知る力と見抜く力を身に着けて、本当に重要なことを見分けられるようになる。」(フィリピ書1:9-10)のです。
さて、パウロはガラテヤの人たちとの出会いを回想しながら12節以降で、次のように述べます。
「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。(療養のため立寄ったガラテヤでパウロは伝道することとなったのですが)そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスでもあるかのように、受け入れてくれました。(中略)あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」。
パウロの病は、伝道する相手が躓きを覚えるくらいのものであったようです。
古代の異教社会にあって病気は、悪霊の仕業によるものとされ、病気にかかった人は、悪霊に取りつかれた人間と見なされていたのです。まあそのような病を抱えていたパウロに対してガラテヤの人たちは、神に選ばれ使徒とされたのなら、なんでこんなことになっているんだと、「さげすんだり」「忌み嫌ったり」しなかったのです。
むしろ信徒たちは、その弱く見苦しいパウロにつまずくどころか、そのようなパウロとの関係性の中に十字架のキリストが共に生きておられることを感じていたのです。そういう中でパウロが伝えていったイエス・キリストの福音は、ガラテヤの人たちの心に浸透し、拡がりをもってキリストのからだなるガラテヤの諸教会が形作られていくことになったのです。
ところが、パウロがそのガラテヤの信徒たちと、その群れを後にしてから、ユダヤ人の律法主義的信徒たちがガラテヤの信徒の群れに入り込み、「イエス・キリストの十字架の御業による完全な救い」によってユダヤ人も異邦人も救われるという福音の真理とは異なる教えを説いたのです。その彼らの影響を受けたガラテヤの信徒たちは割礼やユダヤの教えと祭儀を守らなければ滅びる、救われないという教えにはまっていくのです。そうしてとうとうガラテヤの信徒たちは、自分たちの信仰の導き手であり、信仰の父であった使徒パウロに対して、「律法を守らないのはおかしい」とまで言うようになったのです。
あれほどイエス・キリストの十字架の福音による感謝と喜びと愛に満ちた日々は、いったいどこへ行ってしまったのか。それは、どんなにかパウロを嘆き悲しませたでしょう。
さて、ガラテヤの信徒たちを取り込んでいった、自分たちの行為や成果、目に見える自己達成によって救われるという考え方は、現代のキリスト教会においても気をつけなければならないことでしょう。これは案外生真面目で、熱心な人が陥りやすいものであるからです。
パウロもイエスさまと出会う前熱心な律法の子でありましたから、神のためにと意気込み、その熱心さをもって、人を見下し、裁き、攻撃していたのです。
まあここで誤解してもらっては困るのは、「熱心」になるということ自体悪いことではありません。むしろ素晴らしいことです。ただこの熱心さの中身とそれがどこに向いているかが大事なのです。
ここでは律法を守らねば、これこれの事をしなければ救われない、そういう「熱心」さは、自分にその方向性が向いていて、それは出来なければ自分を責め、出来ているように思えば高慢になってしまう。それは、自分だけでなく、人までも裁いていくことになってしまうのです。こうした類の熱心の出所は、往々にして自己中心から生じるものであって、それは嫉妬や妬みによるものです。
けれど、イエス・キリストの十字架を通して表わされた救い、その福音に満たされたパウロの熱心さの中身とその方向性は、まさに神さまの完全な愛に基づくものでありました。それは、神さまが造られたすべての人への愛に方向づけられていくのですね。
その熱心さは自己中心的なものではなく神への愛、隣人愛を伴い、真に人を生かす力となっていくのですね。
ガラテヤの信徒たちの信仰の父であったパウロは19節で、「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」と言います。
パウロがはじめに病に苦しみつつ愛を持ってキリストの福音を伝え、産みの苦しみを経て誕生したガラテヤの信徒たち。その損なわれつつある関係の中で、パウロは再び彼らの内に「キリストが形づくられるまで」と、その救いと恵みの回復を切に祈りながら訴えたのです。
今日のこの4章を読みながら、私たちもこのガラテヤの人たちのような文化や慣習に縛られた環境の中で、イエス・キリストの福音と出会い、唯、信じることによって救いにあずかる者とされている幸いを確認しました。
私たちもはじめの主の愛と喜びを今思い出してみましょう。その時から今に至るまで、私たちそれぞれが主の御救いに与っていくようにと、どれだけの方々の祈りと励ましがあったでしょう。教会生活が長くなると、何々をしなければクリスチャンではないとか。こうあらなければならないといった福音と異なったものを自らに強いていました。私たちもはじめの主の愛と喜びを今思い出してみましょう。その時から今に至るまで、私たちそれぞれが主の御救いに与っていくようにと、どれだけの方々の祈りと励ましがあったでしょう。けれども、信仰の歩み、教会生活が長くなっていきますと、ややともしますと、何々をしなければクリスチャンでないとか、あるいは、こうあらねばならない、といった主の福音と異なったものを人に課してしまいがちです。私たちは主にあって自らの信仰を吟味するために教会が与えられているのです。
私たちは弱く、つまずきやすいものであります。しかしこの自分の弱さや無力さの中で、十字架につけられたイエス・キリストのお姿が、私たちに何かを語りかけています。
どうか、このキリストの完全な救いと愛に生かされ形づくられ、キリストの御姿とされる歩みを共どもに歩んでまいりましょう。
礼拝宣教 ガラテヤ2章11―21節
今日もこうして主の救いのもと礼拝できますことは幸いであり、感謝です。しかし、もしこの恵みが、何かを行わなければ受けられないとか、こうあらねばならないというような、条件付きのものだとしたならどうでしょうか。
ある時、パウロはエルサレムの教会へ、クリスチャンとなった異邦人のテトスを伴って行きました。テトスは何の条件もつけられことなく、ユダヤ人の信徒たちから歓迎されました。パウロは、「割礼を受けていているユダヤ人も、受けていない異邦人も、神の恵みは等しく注がれており、人を分け隔てするものではない」と、エルサレム教会の姿勢を高く評価したのです。
しばらくして今度は、ケファ(ペトロ)が、異邦人への福音宣教の拠点であったアンティオキア教会を訪問し、異邦人と一緒に食事をして交流するのですが。
12節以降にありますように、律法を遵守し、人にもそれを強いるエルサレム教会の信徒たちがやって来ると、ケファは割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした。」とパウロは言うのです。
あのエルサレム教会で異邦人のテトスを受入れた出来事は一体何だったのでしょうか。
パウロはケファ(ペトロ)に向かって、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのか。」と指摘します。
パウロが大先輩とも言えるペトロにそこまで言うのは、ペトロが福音の真理に従って歩んでいなかったからです。「福音の真理」とは何でしょう。それが今日の個所の「信仰によって、すべての人は義とされる」ということであります。
この、エルサレム教会から来た一部のユダヤ人の信徒たちは、異邦人の信徒たちにユダヤの律法規定に基づいた割礼を受けることを強要しました。彼らは異邦人の信徒たちに対して、ユダヤ人同様、神の前に正しい者、神の民となるためにと、そのように教え込み、実際そうする人たちがいた一方では、つまずく人たちが出てきたのです。
これは決してガラテヤの教会だけに限ったことではありません。「これこれを行いなさい」と言われる方がわかりやすく、しかも行えば保証を得たように思えるからです。しかし多くのいわゆるキリスト教を名乗る異端は、そういった手法で教会に入り込み信徒を惑わし、「福音の真理」から引き離しているのです。
戻りますが、パウロは復活の主イエスと出会うまで、イエスさまの事を知りませんでした。だから、12弟子の一人であったケファ(ペトロ)から、イエスさまが行われたさまざまな話を聞かされる度に、それまで学んで来た律法や戒めの本質にきっと目を開かれていったことでしょう。
それは神の愛とゆるしであり、イエスさまが説いた神の国、福音は、年齢、性別、特性、民族、個々人の状態に囚われるものではありません。相手が罪人と言われる人であろうが、異邦人であろうが、イエスさまは出会い、食事を共にされ、交流を持たれ、神の国の福音を伝え、喜びを共になさったのです。
そのイエスさまがなさったことを伝え聞いた信仰の大先輩ケファ(ペトロ)が、律法を守ることや割礼を受けることを推奨する人たちの意見に押されて逃げている。そのようにパウロの目には映ったのです。
ケファ(ペトロ)もいろいろ考えた上でとった行動だったかも知れませんが。異邦人伝道のために召されたパウロには、「ただ、信仰による救い」によらなければ福音は拡がっていかないことがわかっていました。そして、神の知恵とご計画は、律法規定によらず、ただ、神の恵みによって、異邦人も救われることだったのです。もし、異邦人を律法によってユダヤ人化することになれば、それはまさに、「神の恵みを無駄」にするもの、「福音の真理」を歪めることになり、ガラテヤの諸教会は分裂を引き起こしていくだろうと、パウロは強い危機感をもっていたのです。
私たちも時に難しい問題や厳しい事態に直面することがあります。そうした時に、自分の感情や思いつきで行動してしまうと、主のご計画や祝福を損なうことになるかも知れません。万事を益とすることができる神の知恵を、まず求めつつ、心を静め、謙虚になる必要があるでしょう。
ところで、ヘブライ人、イスラエル、ユダヤの民は神に選ばれたとされていますが。その選びの基となることが旧約聖書の申命記7章に記されています。
そこをお読みします。「主が、心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたがたが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちが他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。
かの民が何か大きくて、立派だったとか。能力があって優れた働きをしていたとか。強い信仰があったのではなかったのです。ただ、その貧弱さ、貧しく、弱かったがゆえに、神が深く憐れまれ、いつくしむ他なかったのです。神の選びとは、まさにその恩寵、恵みによるものなのです。イスラエル、ユダヤの人には、そこに何ら誇るべきものは無く、唯、その神の恵みと愛を誇りとしていく民であるということですね。
さて、パウロは15節で「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。」と辛らつなことを言っていますが。これは当時のユダヤの律法学者や熱心なファリサイ派の人たちが主張していたことで、彼らは律法を知らず、それを守ること、行うこともない異邦人は皆、罪人だと、見なしていたのです。
それに対してパウロは16節、「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じた。」と言うのです。
私は高校生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受けてクリスチャンとなりまたが。社会人になってからは学生の頃とは違い、いろんな社会の厳しさ、人間関係の難しさ、又信仰生活を守ることの困難などを経験し、悩み苦しむことも多々起こっていきました。
そうした二十歳の時でしたが、会社の研修のために半年間ほど長岡京市にあった会社の寮に入って仕事をする機会がありました。当時は一番近かった日本基督教団の長岡京教会の礼拝と祈祷会に出席していました。又、当時南千里教会のF牧師にもかわいがっていただき、信仰や教会についてのお話を伺ったり、キリスト教良書をいろいろと紹介していただき、読んだりしていたのですが、そういう折に、私の心に改めて新鮮に響いてきたのが、ローマ3章20-24の御言でした。
私はこの箇所はそれまで何度も読んでいたはずでしたが、その時まるで初めて、福音のもっている大きな喜びに満たされる経験をしました。そして、未熟な独りよがりの信仰から解放され、心踊るような経験をしたのです。それがきっかけになって、もっと聖書を学びたいとの思いを与えられ、神学校、そして牧師としての働きの道が開かれていったのです。
この新鮮な御言と出会う前迄の私は、クリスチャンかくあるべしというような、どこか道徳的、律法主義的な思いに囚われ、どうしたってそう成れない自分との狭間で悶々としていたのです。なにがしかの罪責感や自己嫌悪を持ち、悩みが尽きませんでした。それは、ローマ書3章20節に、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」とあるとおりでした。自分の頑張りや熱心で生きようとすればするほど内面に葛藤が生じ、自分の不義に悩むばかりだったのです。けれどローマ書3章21節、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」改めてこのお言葉を聞いたとき、神の愛と神の救いに気づかされ、このゆたかな福音と出会うことができたのです。
今日の16節の「イエス・キリストへの信仰」。それは正確に言えば「イエス・キリストの信実」という意味です。私たちが主を信じて救われたのは、まずイエス・キリストの信実によって救いがもたらされました。しかしそれは、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、私の救いとなるのですね。
さて、パウロは19節以降でこう述べます。
「わたしは、神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。
ここで、パウロは過去の律法主義に根付いてキリスト教会とその信徒たちを迫害してきた行為こそ、イエス・キリストを十字架にはりつけにして殺害した、まさに自分の罪であったことを思い知るのです。それはどんなに時が経過しても、変わることのない事実です。パウロはクリスチャンとなってからのこの先も、自分がキリストを磔にした罪を忘れないために、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と言うのです。それはもう終ったものではなく、今もわたしは、キリストと共に十字架につけられたままであるという心で生きたのです。
私たちもそうではないでしょうか。キリストと出会う以前の自分の失敗とも思える過ちの数々を思い出したとき、「神よ、もう忘れてください。」と言いたくなります。しかしそれはもう戻ることができません。変えることのできない事実です。今日も、この今も、その私とキリストは十字架につけられたままでおられるのです。
キリスト教会のシンボルでありますキリストの十字架ですが。プロテスタント教会は、キリストは磔にされていません。まあ、キリストは死に勝利して復活された。そのことを表しているのでしょうか。一方、カトリック教会の十字架には、キリストが磔にされたままの状態です。私の罪を背負い、磔にされたままのキリストが。パウロの「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」と言った言葉が一層響いてくるようです。
キリストが自分の罪を負って死なれたことを忘れないように生きる。いつも、いつも罪に死んでゆるしに生きる。
それは20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内にいきておられるのです。」という新しいいのちの日々です。
バプテスマのヨハネは罪の悔い改めを解きましたが。それだけでは人は救われません。人はイエス・キリストの十字架を通して表わされた神の愛とゆるし、そのキリストの信実、確かさによって救われます。そして聖霊をとおして信仰が日々保たれる。「わが内にキリスト共に生き給う」のです。
今週も、この尊い恵みを無にすることがなく、神の御前に有意義な人生を歩んでまいりましょう。