礼拝宣教 マルコ4・35-41
今日の箇所の「激しい突風」ではありませんが、先週は冷たい風雪が吹きすさびました。
東京都市圏では何と20センチ以上の積雪となり、交通がマヒして帰宅できなかった人たちが大勢いたようです。
又、群馬県の草津では火山が噴火しました。スキー場ではスキー客を乗せたゴンドラに噴石が当たり、窓ガラスが割れて複数のけが人が出たり、噴火のために停電となりスキー客の乗ったゴンドラが一時止まり、宙づりになってその中に閉じ込められたという事です。
こんなこと誰が予想しえたでしょう。気象庁もです。ゴンドラに乗っていた人たちはどんなに恐ろしかったかったでしょう。それはパニックになってもおかしくなかった状況であったと思います。こうした自然の猛威に対して人間は何て無力なんだろう、と思いますが。
本日は想像を絶する、まさに予想を超えた事が起こって恐れおののく弟子たちの姿から、「真に畏れるべきお方」と題してお話をさせて頂きます。
先週は安息日に手の萎えた人をおいやしになったイエスさまのお話でしたが、その後もイエスさまは多くの病気で悩む人をいやされたので、おびただしい群衆がイエスさまのもとに押し寄せるようになります。まあイエスさまお一人では対応することができないような状況になっていくのです。
そういう中ご自分のそばにいて仕えさせるため、又派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるために、12人を任命なさるのです。
こうしてイエスさまはこの12人と共に神の国の教え、病気のいやし、悪霊の追い出しというお働きをなさっていくのであります。ところが、何しろあまりに多くの人々が押し寄せてくるので、イエスさまはガリラヤ湖に舟を出させて、その舟の上から人々に教えを説かれたのです。
連日、そういったことが続く中、今日の箇所は夕方になってイエスさまが弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃるのです。言われるままに弟子たちも群衆を後に残し、イエスさまを舟に乗せたまま沖へと漕ぎ出します。
ある注解書には、「向こう岸へ渡ろうとのイエスさまの決心は、彼とその弟子たちとが群衆から離れることのできる唯一の道であった」と書かれていたのに目が留まりました。これまで私はイエスさまが向こう岸へ渡ろうとおっしゃったのは、さらに広い世界に出て言って宣教活動をなさるためのものであったからだと、そういうふうに読み込んでいたのですが。そう考えますと、まあイエスさまを含め弟子たちも連日働いて群衆に追われ続け、疲れ果てておられたでしょうから、その場を離れられるということは必要であったでしょう。そうしたイエスさまと弟子たちだけになった舟の上で、ある意味、ここは弟子たちの信仰が試され、訓練される時としてのガリラヤ湖の出来事であったのですね。それは、こうしてここを読む私たちにとりましても、「主の弟子として生きていくとはどういうことか」を知るための記述であると考えることができるでしょう。
さてこうして、弟子たちが舟を沖へ漕ぎ出してから暫くすると激しい突風が吹きます。先週、ものすごい突風で何か飛んできやしないかと心配になるほどでしたが。そのような風に、いやもっと強烈な突風だったのかも知れませんが、ガリラヤ湖は大荒れになり、その波をかぶって舟が水浸しになり転覆しそうになるという一大事が起こります。
そのような中、イエスさまは舟の艫:後ろの方で枕をして眠っておられます。イエスさまご自身、そうとうお疲れになっておられたんだということも自然に読み取れますが。
成し遂げてゆくべき業が成就するまでは「命が損なわれることはない」と確信しておられたのでありましょう。
私たち日常の生活に追われる忙しい者にとっても、その忙しさに埋没してしまうと、気づかないうちに体も心も疲れ切っていることがあります。そういう時に、一時的にその状況から離れるということって大事なことだと思うんです。
この週に一度の主日礼拝は、まさに先週安息についてのお話でしたが。神の前に一人のかけがえのない命として愛され、救われ、生かされている。その事を確認する日、安息する日としてあるということでございます。ここで、私たちは神さまと自分との信仰、信頼関係がもう一度問われ、整えられることによって、真の安息を頂くのです。それだけではなく、御言葉によって主イエスの弟子として整えられて、ここからまた新たな週のあゆみへと送り出されていくのですね。このような安息の日を頂いていることに本当に感謝でいっぱいですが。
話を戻します。
今日の聖書のお話を読みながら、この激しい突風によって、舟が波をかぶってもういつ沈んでもおかしくない状況になったとしたら、やっぱり私たちだったらパニックになって慌てふためくんじゃないかと思ったりします。
舟に乗っていた弟子たちのうち、シモン・ペトロとその兄弟のアンデレ、さらにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの4人はみんな元漁師でした。
彼らはこれまでの漁師としての経験もあり、ガリラヤ湖の地形のことを十分周知していたでしょう。
ガリラヤ湖は海抜が大変低く、ヘルモンの山々の尾根から六甲おろしならぬ、ヘルモンおろしの突風が吹き突く怖さが分かっていたのです。いや、しかし彼らはその予想や経験値をも遙かに超えるような猛烈な突風だったから、慌てふためき怖れたのですね。
しかもそのような非常事態、危機的状況の折にも拘わらず、イエスさまはというと、舟の背で枕して寝ておられる。
弟子たちはこのような一大事のときに、眠っておられるイエスさまが理解できませんでした。そして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。
ここで、「かまわないのですか」と言っているのは、「このような一大事に陥っている私たちのことが何も気にならないのですか」ということです。ストレートに「イエスさま起きて助けて下さい」と頼めばよいのに、、、こういう言い方をするのはどうかという気もしますが。しかし、こういう弟子たちの思いは私たちのうちにも起り得るのではないでしょうか。
私たちが日常の心揺さぶられる事どもや、突如起こる理解しがたい出来事を前にして、「神さまはこの私の問題を何とも思いにならないのか!!」と言ってしまう、思ってしまう。そんな事がないでしょうか。
注目すべきことには、ここで弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言っている言葉を、原語により近く訳した岩波訳聖書では、「先生、わたしたちが滅んでしまうというのに平気なのですか」と訳しているんですね。
ここには、この危機が単に「おぼれてしまう」ということにではなく、「滅んでしまう」こいう事だと言うのです。おぼれると滅んでしまうとでは随分そのニュアンスが違います。すべてを置いてまで主に従っていこうと決意しあゆみ出した彼らです。しかしそういう決意をも吹っ飛んでしまう命の危機を、「滅び」という言葉で表しているのです。
主イエスはそのような弟子たちのことに何も関心がなかったのでしょうか。
いいえ、39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と、言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。
ちゃんと弟子たちの心境をご存じだったのです。いやもしかすると、最初から弟子たちの様子を伺っておられたのかも知れません。
ここでイエスさまは弟子たちに言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
このなぜ怖がるのかは、何を怖がっているのか?ともとれます。
「何を怖がっているのか?」。予期せぬ出来事の中で私たちを襲う恐怖の正体とは何でしょうか。
激しい突風によって舟が波をかぶり、浸水してきた時、弟子たちの頭の中には、もうすぐ舟が転覆して荒れ狂う波に吞まれ苦しみもがきながらすべてが終ってしまう、滅んでしまうという恐れに支配されていました。いわゆるパニックですね。
そうなると人は正常な判断ができなくなって行動も混乱状態に陥ってしまいます。
まあそのように弟子たちも荒れ狂う波を見て恐れに取り憑かれるのです。しかし、イエスさまはその状況を引き起こしている風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われるのです。すると、「風はやみ、すっかり凪になった」ということであります。
人は目に見える現象にどうしても目が奪われ、慌てふためきます。
けれども、主イエスはそういった状況を作り出している力を見抜かれ、それを叱りつけて、平穏を回復されるのです。それは、どんな権力も凌駕する、如何なる世の力が猛威を奮っても滅ぼすことのできない神の権威、神の権能です。最終的権威は主のものなのです。
さて、この権威あるイエスさまを目の当たりにした弟子たちは、「非常に恐れた」とあります。この「非常」には、原語でメガンとなっており、それはとてつもないメガトン級の「恐れに包まれる」のです。
彼らは、最初は激しい突風から起こる目に見える現象に慌てふためき、恐れるのですが。ここで肝心なのは、その彼らの恐れが、風を叱りつけ、湖をも静めたまう主イエスとその権威に対する畏れに変わるのです。
天地万物をも従わせる権威。あらゆる恐れの根源をも制することがおできになる主イエスに弟子たちは、神の権能を見ます。もはや人を支配し滅ぼすものへの恐怖ではなく、滅びからの解放をもたらす神の権能。主イエスへの畏敬の念を彼らは抱くののですね。
ここが今日のメッセージであります。
それは私どもにとって耐え難いような出来事でさえ、主の権能のもとにすべてあり、私たちは決して滅びることはない。どのような世の力や企みによっても損なわれることはない、ということです。
聖書は「真に畏れるべきお方が誰であるのか」を弟子たちはじめ、初代教会の厳しい迫害のただ中にあった信徒たちに伝えます。そしてそれは今も、時として起こり得る激しい突風や荒波に翻弄される私たちにも同様であります。
「風も水をも従わせ、救いの御業によって死をも打ち破られたお方」、このお方が舟の中に共におられる。聖書はこの「真に畏れるべきお方」への信頼へと、今日も私たちを招いています。
ヨハネ16章33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っています」。