日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

真に畏れるべきお方

2018-01-28 12:55:31 | 教会案内

礼拝宣教 マルコ4・35-41 

 

今日の箇所の「激しい突風」ではありませんが、先週は冷たい風雪が吹きすさびました。

東京都市圏では何と20センチ以上の積雪となり、交通がマヒして帰宅できなかった人たちが大勢いたようです。

又、群馬県の草津では火山が噴火しました。スキー場ではスキー客を乗せたゴンドラに噴石が当たり、窓ガラスが割れて複数のけが人が出たり、噴火のために停電となりスキー客の乗ったゴンドラが一時止まり、宙づりになってその中に閉じ込められたという事です。

こんなこと誰が予想しえたでしょう。気象庁もです。ゴンドラに乗っていた人たちはどんなに恐ろしかったかったでしょう。それはパニックになってもおかしくなかった状況であったと思います。こうした自然の猛威に対して人間は何て無力なんだろう、と思いますが。

 

本日は想像を絶する、まさに予想を超えた事が起こって恐れおののく弟子たちの姿から、「真に畏れるべきお方」と題してお話をさせて頂きます。

先週は安息日に手の萎えた人をおいやしになったイエスさまのお話でしたが、その後もイエスさまは多くの病気で悩む人をいやされたので、おびただしい群衆がイエスさまのもとに押し寄せるようになります。まあイエスさまお一人では対応することができないような状況になっていくのです。

そういう中ご自分のそばにいて仕えさせるため、又派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能をもたせるために、12人を任命なさるのです。

こうしてイエスさまはこの12人と共に神の国の教え、病気のいやし、悪霊の追い出しというお働きをなさっていくのであります。ところが、何しろあまりに多くの人々が押し寄せてくるので、イエスさまはガリラヤ湖に舟を出させて、その舟の上から人々に教えを説かれたのです。

連日、そういったことが続く中、今日の箇所は夕方になってイエスさまが弟子たちに「向こう岸へ渡ろう」とおっしゃるのです。言われるままに弟子たちも群衆を後に残し、イエスさまを舟に乗せたまま沖へと漕ぎ出します。

 

ある注解書には、「向こう岸へ渡ろうとのイエスさまの決心は、彼とその弟子たちとが群衆から離れることのできる唯一の道であった」と書かれていたのに目が留まりました。これまで私はイエスさまが向こう岸へ渡ろうとおっしゃったのは、さらに広い世界に出て言って宣教活動をなさるためのものであったからだと、そういうふうに読み込んでいたのですが。そう考えますと、まあイエスさまを含め弟子たちも連日働いて群衆に追われ続け、疲れ果てておられたでしょうから、その場を離れられるということは必要であったでしょう。そうしたイエスさまと弟子たちだけになった舟の上で、ある意味、ここは弟子たちの信仰が試され、訓練される時としてのガリラヤ湖の出来事であったのですね。それは、こうしてここを読む私たちにとりましても、「主の弟子として生きていくとはどういうことか」を知るための記述であると考えることができるでしょう。

 

さてこうして、弟子たちが舟を沖へ漕ぎ出してから暫くすると激しい突風が吹きます。先週、ものすごい突風で何か飛んできやしないかと心配になるほどでしたが。そのような風に、いやもっと強烈な突風だったのかも知れませんが、ガリラヤ湖は大荒れになり、その波をかぶって舟が水浸しになり転覆しそうになるという一大事が起こります。

そのような中、イエスさまは舟の艫:後ろの方で枕をして眠っておられます。イエスさまご自身、そうとうお疲れになっておられたんだということも自然に読み取れますが。

成し遂げてゆくべき業が成就するまでは「命が損なわれることはない」と確信しておられたのでありましょう。

 

私たち日常の生活に追われる忙しい者にとっても、その忙しさに埋没してしまうと、気づかないうちに体も心も疲れ切っていることがあります。そういう時に、一時的にその状況から離れるということって大事なことだと思うんです。

この週に一度の主日礼拝は、まさに先週安息についてのお話でしたが。神の前に一人のかけがえのない命として愛され、救われ、生かされている。その事を確認する日、安息する日としてあるということでございます。ここで、私たちは神さまと自分との信仰、信頼関係がもう一度問われ、整えられることによって、真の安息を頂くのです。それだけではなく、御言葉によって主イエスの弟子として整えられて、ここからまた新たな週のあゆみへと送り出されていくのですね。このような安息の日を頂いていることに本当に感謝でいっぱいですが。

 

話を戻します。

今日の聖書のお話を読みながら、この激しい突風によって、舟が波をかぶってもういつ沈んでもおかしくない状況になったとしたら、やっぱり私たちだったらパニックになって慌てふためくんじゃないかと思ったりします。

舟に乗っていた弟子たちのうち、シモン・ペトロとその兄弟のアンデレ、さらにゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの4人はみんな元漁師でした。

彼らはこれまでの漁師としての経験もあり、ガリラヤ湖の地形のことを十分周知していたでしょう。

ガリラヤ湖は海抜が大変低く、ヘルモンの山々の尾根から六甲おろしならぬ、ヘルモンおろしの突風が吹き突く怖さが分かっていたのです。いや、しかし彼らはその予想や経験値をも遙かに超えるような猛烈な突風だったから、慌てふためき怖れたのですね。

しかもそのような非常事態、危機的状況の折にも拘わらず、イエスさまはというと、舟の背で枕して寝ておられる。

弟子たちはこのような一大事のときに、眠っておられるイエスさまが理解できませんでした。そして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と訴えるのです。

 

ここで、「かまわないのですか」と言っているのは、「このような一大事に陥っている私たちのことが何も気にならないのですか」ということです。ストレートに「イエスさま起きて助けて下さい」と頼めばよいのに、、、こういう言い方をするのはどうかという気もしますが。しかし、こういう弟子たちの思いは私たちのうちにも起り得るのではないでしょうか。

私たちが日常の心揺さぶられる事どもや、突如起こる理解しがたい出来事を前にして、「神さまはこの私の問題を何とも思いにならないのか!!」と言ってしまう、思ってしまう。そんな事がないでしょうか。

注目すべきことには、ここで弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言っている言葉を、原語により近く訳した岩波訳聖書では、「先生、わたしたちが滅んでしまうというのに平気なのですか」と訳しているんですね。

ここには、この危機が単に「おぼれてしまう」ということにではなく、「滅んでしまう」こいう事だと言うのです。おぼれると滅んでしまうとでは随分そのニュアンスが違います。すべてを置いてまで主に従っていこうと決意しあゆみ出した彼らです。しかしそういう決意をも吹っ飛んでしまう命の危機を、「滅び」という言葉で表しているのです。

 

主イエスはそのような弟子たちのことに何も関心がなかったのでしょうか。

いいえ、39節「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と、言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」。

ちゃんと弟子たちの心境をご存じだったのです。いやもしかすると、最初から弟子たちの様子を伺っておられたのかも知れません。

ここでイエスさまは弟子たちに言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。

このなぜ怖がるのかは、何を怖がっているのか?ともとれます。

「何を怖がっているのか?」。予期せぬ出来事の中で私たちを襲う恐怖の正体とは何でしょうか。

激しい突風によって舟が波をかぶり、浸水してきた時、弟子たちの頭の中には、もうすぐ舟が転覆して荒れ狂う波に吞まれ苦しみもがきながらすべてが終ってしまう、滅んでしまうという恐れに支配されていました。いわゆるパニックですね。

そうなると人は正常な判断ができなくなって行動も混乱状態に陥ってしまいます。

まあそのように弟子たちも荒れ狂う波を見て恐れに取り憑かれるのです。しかし、イエスさまはその状況を引き起こしている風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われるのです。すると、「風はやみ、すっかり凪になった」ということであります。

人は目に見える現象にどうしても目が奪われ、慌てふためきます。

けれども、主イエスはそういった状況を作り出している力を見抜かれ、それを叱りつけて、平穏を回復されるのです。それは、どんな権力も凌駕する、如何なる世の力が猛威を奮っても滅ぼすことのできない神の権威、神の権能です。最終的権威は主のものなのです。

 

さて、この権威あるイエスさまを目の当たりにした弟子たちは、「非常に恐れた」とあります。この「非常」には、原語でメガンとなっており、それはとてつもないメガトン級の「恐れに包まれる」のです。

彼らは、最初は激しい突風から起こる目に見える現象に慌てふためき、恐れるのですが。ここで肝心なのは、その彼らの恐れが、風を叱りつけ、湖をも静めたまう主イエスとその権威に対する畏れに変わるのです。

天地万物をも従わせる権威。あらゆる恐れの根源をも制することがおできになる主イエスに弟子たちは、神の権能を見ます。もはや人を支配し滅ぼすものへの恐怖ではなく、滅びからの解放をもたらす神の権能。主イエスへの畏敬の念を彼らは抱くののですね。

ここが今日のメッセージであります。

それは私どもにとって耐え難いような出来事でさえ、主の権能のもとにすべてあり、私たちは決して滅びることはない。どのような世の力や企みによっても損なわれることはない、ということです。

 

聖書は「真に畏れるべきお方が誰であるのか」を弟子たちはじめ、初代教会の厳しい迫害のただ中にあった信徒たちに伝えます。そしてそれは今も、時として起こり得る激しい突風や荒波に翻弄される私たちにも同様であります。

「風も水をも従わせ、救いの御業によって死をも打ち破られたお方」、このお方が舟の中に共におられる。聖書はこの「真に畏れるべきお方」への信頼へと、今日も私たちを招いています。

 

ヨハネ1633節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っています」。

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夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)ご案内

2018-01-28 08:30:18 | 教会案内

1月28日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

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主イエスが大切にされる命

2018-01-21 15:38:17 | メッセージ

礼拝宣教 マルコ3章1-6節

先週は教会の総会資料の作成の際に、去年の出来事をふり返りながら特に気付かされましたのは、特に新来者の方が続けて礼拝にご出席なさっておられるということでした。主イエスの救いと出会われますようどうぞお祈りください。また、国内はもとより近隣のアジア諸国から学びやお仕事のために大阪に住んでおられる青年の方々が一緒に礼拝に与れているのは本当にうれしく、ゆたかなことです。

先日2件のお電話があり、その内容が共通していたのが驚きでした。それは、ミャンマーから日本に来られている方に関するお電話だったのです。大阪教会のブログを御覧になって「ミャンマーの人も一緒に礼拝を捧げている」ということを知って電話をしたということでした。私たちがどこへ行っても主は私たちを独りぼっちにはさせない。孤立させない。そういう素晴らしい恵みを覚え、心が熱くなり、うれしくされました。

 

さて、本日は「主イエスが大切にされる命」と題してマルコ3章1-6節より、御言葉を聞いていきたいと思います。

ここは前の頁の「安息日に麦の穂を摘む」という箇所と同じく、安息日に起こった出来事であります。ユダヤの1日は日没から始まります。私たちは夜が明けてから1日が始ると考えますが、そこがユダヤ教の人たちとちょっと違うんですね。それは聖書の神さまが天地創造のお働きをなさって6日目の夕べに「すべて良い」とされ、安息なさったということで、週の6日目の金曜日、日が沈んでから土曜日のまた日没までの時間を、神の前に聖別し、安息の日として労働も家事も休むのです。

その安息日に土曜日の朝頃でしょうか?イエスの弟子たちが空腹のため、歩きながら麦の穂を摘んで食べているのを知ったファリサイ派の人たちは、「安息日に麦の穂を摘む行為は、律法が禁じている。それは労働じゃないか」と、イエスさまを問いただしたというのですね。

それに対してイエスさまは、ダビデ王さまと、その家臣らが空腹であった時のことを引き合いに出され、「祭司以外だれも食べてはならい供えのパンをダビデ王も食べ、ともの者にも与えたではないか」とおっしゃいます。

そうしてイエスさまは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と、ファリサイ派の人々をいさめられた。そういうことがあって今日のこの場面にもちこされるかたちで、この出来事が記されているのです。

 

まずイエスさまが会堂に入られると、片手の萎えた人が会堂の隅にいました。そこにいた人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた、と記されています。「訴えようと思って」とはただならぬ状況であります。

ルカの福音書にはそれが律法学者たちやファリサイ派の人々であったと記されています。おそらくこの律法学者たちは先週読みました「中風の人をいやされたイエスさまの言動」に対して不満をもっていたのでしょう。又その後の、イエスさまが徴税人のレビの家で、罪人といわれる人たちと一緒に食事をされた事に対する嫌悪感や、さらに先のイエスの弟子が安息日に麦の穂を摘んで食べたことに対するやりとりなどで、まあそういう強い不満が溜まっていたのではないかと思われます。そういう中で、彼らは自分たちの不満をはらすべく、この片手の萎えた病の人を、イエスを訴えるための手段としたのです。

 

その人々の罠に対してイエスさまは逃げることはなさいません。むしろ毅然として片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられます。

もしかしたら、この人は人々から邪魔扱いされ隅に追いやられてきたのかも知れません。彼は周囲の目を気にしながら会堂の片隅に小さくなっているほかなかったようにも読取れます。律法学者たちやファリサイ派の人たちは、彼を一人の人間というより、イエスさまを訴えるためのただの道具としか考えていませんでした。

しかしイエスさまは、その片手の萎えた人を人々の真ん中に立たせられて、彼も又、神の前にひとりの命ある人間であると、その人のいわば尊厳をお示しになられたのだと思うんですね。

 

そして、イエスさまは周囲にいた人々にこう言われます。

「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」。

このようにイエスさまがおっしゃったのには、安息日の律法の精神を明らかにするためでした。安息日の律法の精神。

そもそも安息日とは、先にお話しましたように、天地創造のお働きを終えられた神さま

が安息なさった事から、その日を聖なる日として聖別し、安息の日として覚えるのです。

出エジプト記20章の十戒の中には「安息日を心に留め、これを聖別(特別なものとして取り分けるの意味)せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」とあります。

ですからこの安息日の本質は、すべての造り主なる神、救いと解放をお与え下さった神に感謝を捧げ、その真の安息にすべての人々、家畜までもが与っていくために定められたものなのです。それは神の御前に特別に取り分けられた日であるということです。

そこに聖書が語る安息日についての律法の精神があるのです。

 

ところが紀元1世紀頃になるとこの安息日に、してはならない仕事や労働についての規定が事細かに決められていきます。安息日に麦の穂を摘む行為も労働、仕事として禁じられ、さらには、安息日に生命の危機が及ばないような医療行為や治療をすることも労働、仕事にあたるということで禁じられてしまうのです。

それは神の前により正しく生きていこうする熱意であったり、どこまで、どんな形で守ればよいのかを議論やトラブルを防ぐため明確にする必要があったのでしょうが。しかしそういった安息日の禁止項目が文字として事細かに規定されていきますと、ただ安息日の規定を守れば正しいんだ、守りさえすればいいんだというおごった考えにだんだんと陥ってしまい、先程申しました安息日のそもそもの精神が見失われてしまう事も起こっていったのでしょう。そうしてその安息日に禁止された規定や規約を文字通り守れる人は正しく、逆に守らない、守れない人は悪人と見なし、選別化されていくのです。

 

イエスさまはこの後7章で、食事の前に手を洗わなかった弟子のことでファリサイ派と律法学者たちに指摘された時、預言者イザヤの言葉を引用して、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしを崇めている」と言われ、「あなたたちは神の掟を棄てて人間の言い伝えを固く守っている。神の言葉を無にしている」と、彼らにズバリと指摘なさるのであります。

 

今日のところで、ファリサイ派の人々はこの片手の萎えた人への関心など、実のところみじんもなく、ただイエスがこの人をどう扱うか。安息日規定をどうするか。そんなことばかりを考えていました。

確かにこの手の萎えた人の状況は、即命に関わるものではないと表面上見えます。しかし実際その彼の存在は物のように人々に見なされ、交わりから断たれ、見殺しにされていたような状態であった。実は命の危機に関わるものであったのです。その極めて冷酷な事態をイエスさまは敏感に見通しておられたのですね。

そういった事態が事もあろうに「安息日の聖なる日」に、しかも「神を礼拝する会堂」で行なわれていた。実はそこにイエスさまが「怒って人々を見回し、そのかたくなな心を悲しまれた」理由があったのです。

 

イエスさまはここで「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行なうことか。命を救うことか、殺すことか」と人々に問われましたが。並行記事のマタイ12章では、「安息日に良いことをするのは許されている」と大変明瞭におっしゃっています。安息日は神の前で「善を行って生きる」。又「命の救いの原点を思い起こし、その命の救いの恵みを分かち合っていく」。そういう日であります。

規定や規則はそうした安息日の精神を活かすためにあるに過ぎないという事を、イエスさまはお示しになられたんですね。これこそが、前の27節でイエスさまが言われる「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」ということの意味なのです。

 

イエスさまはその人をおいやしになりました。それは人の決め事に反していたかも知れません。しかしそれは、安息日が大事にしている本物の安息と解放を与えるものでした。

私はそのことを思う時、使徒パウロがコリント第二3章6節で述べている「文字は殺しますが、霊は生かします」という言葉を思い起こしました。

 

主イエスはまず彼を会堂の片隅から真ん中に立たせるということからはじめられます。その人が神に忘れられていないことを思い起こさせるために。人々の間でその人の尊厳が回復されるために主イエスは彼を人々の真ん中に立たせるのです。

 

そしてイエスさまはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われます。

私も左の肩がこの頃年齢のせいか思うように動かせなくて、少し無理して伸ばしたり、ちょっとひねったりするとズキンと痛みが走るようになってきていて、それを少しは動かした方がいいと分かっていても、痛みもあってなかなか動かすにも勇気がいります。比べようもありまえんが、多分この人にとってこれまでずっと萎えていた手を伸ばすということは考えてもいなかったことでしょうし、大変恐く、不安もあったのではないでしょうか。ましてや人々の冷たい視線の中でどんなにか勇気のいることだったんではないかと思います。

それでも彼はイエスさまの、「手を伸ばしなさい」とのお声に、そのとおり応えて伸ばしたのです。すると、「手は元どおりになった」。

それは単なるいやしではありません。肉体のいやしにとどまらない。全人的な命の回復、それは「安息」です。

 

イエスさまは、本来人のためにある安息日の本質をこのように表されました。

それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちのこだわる、世の言い伝えや知識、人の決め事による権威とは全く異なるものです。

イエスさまの権威には神の真理に基づく自由があり、あらゆる囚われからの解放といやしをもたらすものなのです。

 

今日の箇所で、イエスさまは会堂にいた、かたくなな人々にも、立ち返ってその自由と解放を受け取っていくようにと招いておられたのに違いありません。しかし非常に残念なことに彼らの心はさらにかたくなになって、ヘロデ派の人々(当時の政治的勢力の一団)と結託してまでイエスさまを殺そうと相談し始めます。イエスさまの「命を救うことか、殺すことか」との問いと招きに対して、この安息日に「命を殺すこと」を決意するのです。人の罪の深さがここに露呈されるわけでありますが。

 

今日は、神がお与え下さった安息日の真の意味を聖書から聞いてきました。

今や私たちは主イエスの尊い贖いの血が流された、その十字架の苦難と死によって、罪の赦しと、神の御前における命の回復というこのうえない「安息」に与っています。

私たちはこの礼拝において、主イエスがその命をもって回復してくださった安息を様々な人たちと分かち合っています。この素晴らしい安息によって私たちも又、すべての人の解放の日、真の平安のもたらされる日につながってゆけますように、心から願うものです。

今日もこの安息のもとからそれぞれの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。

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福音を共に生きる

2018-01-14 17:29:22 | メッセージ

礼拝宣教 マルコによる福音書2章1節ー12節 

 

新年を迎えてもう二週間が経ちますが一日一日がとても早く感じます。

私はなぜか今年はお正月気分がほとんどありませんでした。歳のせいかも知れませんが。次々と起こる災害や被災地のことがどこか心にあるからでしょうか。今年も1月17日、23年目となる阪神淡路大震災の日がめぐってまいります。今も言葉に言い表わすことができない思いを抱えておられる方々に、祈りを寄せつつ主の御前でしばし黙祷しましょう。

先週は寒い日が続き、体調を崩された方もおられるようで、快復をお祈りいたします。

水曜日の夕方の祈祷会に冷たい雨の中来られた方が、祈祷会の帰りに「今日はほんとうに来れて良かったです」と、来られた時は重たい表情でしたが、帰りにはとっても素敵な笑顔になられていたのが印象的だったのですが。

聖書をきちんと学ぼうと自分で努力をされていたようですが、それがしんどくなられたということで、礼拝に集うのも重たくなっていき、それでも何とかその日の夕べの祈祷会に足を運ばれたということでした。

そうして共に聖書を読み、祈り合っていく中で、聖霊がお働きくださったんですね。重たかった思いが解放されいかれたようです。

 

一つ思いましたのは、一人で聖書を読み黙想し祈りの時を持つことは大事ですけれども、

イエスさまがおっしゃった通り、23人が主イエスの御名によって集まるところに、主が共にいて下さるんですね。特に教会は常に祈りが捧げられている場でありますから、なおさらのことです。礼拝を捧げ、聖書を読み、祈り合っている場に、身をおいていくことをとおして、魂に霊の息吹が吹きかけられ、平安といやしに浸るということが確かに起こっていることを幾度も知らされるものであります。

「ああ今日は教会にいきたくない。体が重たい、しんどい」という時もあります。又、「天気が悪いので行きたくない」と思う時もあるかも知れません。しかし、そういうときにこそ、礼拝や祈祷会に足を運んでみると、教会を出るとき、「ああ今日は来てよかった!元気を頂いた」という体験をなさった方が、ここに多くおられるのではないでしょうか。私のために祈ってくださる姉妹兄弟がいる。祈ってください、祈っています、という関係の中に、主の御言葉によってとりなし合い、ゆるし合い、仕え合う私たちの間に天の国は開かれているんですね。それが、共に礼拝し、共に祈るところに主の霊、ご聖霊がゆたかにお働きになっておられる証でありましょう。

 

さて、今日の聖書はそういう事とも関係のある記事であります。

それは「あなたは誰と、どのように、具体的に主イエスの福音を共にしていますか」という問いかけであります。

そのことを示すために、聖書は2つのグループを対比させています。1つのグループは「中風の人を運んでイエスさまのところに連れて来る4人の人たち」。もう1つのグループは、当時のエリートである律法学者たちです。

 

当時ユダヤでは、体に障害をもつ人や心の病をもつ人は、何かその人に罪があるからそのようになったのだという社会通念がありました。まあいわゆる因果応報律が幅を利かせていたのです。

この中風の人は、そういった社会通念によって、自分や親、先祖に何か諸々の罪があったのか?それだからこうなったのか?という責めを人々からも、何より自分自身の中にもって苦しみ悩み続けてきたのではないでしょうか。そんな中イエスさまの噂を耳にしたのでしょう。

人を分け隔てせず、神の愛と人を活かす教えと共にいやしをなさるお方だと。その方に私も何とかお会いしたい。そういう願いをもったのだと思います。けれど、身体も一人で動かすこともできない。

諸々の罪のゆえに病んでいると言われる自分のような者に、イエスさまは会ってくださるのだろうか、というような引け目をこの人は感じていたのではないかと想像します。身も魂も解放されたいという切なる思いをイエスさまに寄せながら、自分一人では動けない、踏み出せない。そういう中、しかし幸いだったのは、彼には心強い信仰の友がいたのです。彼の周囲には彼のことを普段から気にかけ日々祈りに覚え、彼のために神にとりなしていた人たちがいたのです。この4人の人たちもそうでした。彼らはイエスさまのもとに彼を運んで連れてくるのです。

 

多くの人びともまたイエスに会うために押し寄せていました。家の中と外はいっぱいに埋められた人びとによって、身動きもとれない状況でした。

とても担架に乗せたまま入れそうにありません。この4人は考えに考え抜き、最終的にとった方法は、屋根をはがして、彼の寝ている担架をイエスさまのところに吊り降ろすことでした。

 

パレスチナ・ガリラヤ地方の家の屋根は、梁に小枝をかぶせその上に泥を塗って造られていたので、比較的簡単にはがすことができたようです。屋根にも登れる階段があったようですね。

この4人は何とか中風のこの人の思いを叶えてあげたいという一心で、それを実行するんですね。それは実に突拍子もなく、無鉄砲ともいえるような仕方であります。けれども、彼らは一人の魂が救われるために、そこまでやるんですね。それはやはり、イエスさまの御前にこの人を連れて行きさえすれば、何かしてくださるに違いないという強い期待、確信をもっていたからだと思うんですね。そのイエスさまへの信仰のゆえに、彼らは屋根をはがす労苦やその代償をもいとわず、批判も恐れず、そうしたのではないでしょうか。

そこには、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」との旧約聖書の神の教えを生きる、彼らの証が現れているように私は思います。それはとても具体的で、他者の痛みや苦しみを自分のことのように思いやる彼らであったということです。彼らは主なる神さまの愛と慈しみを知って生きていたから、そのようにできたのではないでしょうか。

さて、そうして4人の男が中風の人をイエスさまのもとに吊り降ろした時に、イエスさまは「その人たち(それはこの中風の人と4人)の信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたということであります。

 

その人たちの信仰を見て。それは中風の人を中心にとういうか、媒介として彼らの間に起こされた信仰です。病のいやしを共に祈り、こうして主イエスのもとに共にやって来た。その彼らの信仰を、主は御覧になって「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃったということであります。

しかしこの「赦される」という訳は不十分です。原語に正確に訳せばここは、「あなたの罪は赦されている」とイエスさまは言われているのです。

「罪が赦される」というのと「罪が赦されている」というのとは随分ニュアンスが違ってきます。赦されるは「今から赦されますよ」というふうに聞こえますが、「赦されている」というのなら、「もうすでに赦されていますよ」という宣言に聞こえます。それはたとえば、お医者さんにかかって「あなたは治りますよ」と言われているのと、「あなたはもぅ治っていますよ」と言われるのとは全く違います。

イエスさまは彼らの間に働く信仰、祈り、とりなしと共に、神に向かうその信仰を御覧になって、「あなたの罪は赦されている」と宣言なさっているのですね。

 

さて、イエスさまが中風の人にこの「罪の赦し」を宣言すると、そこに座っていた律法学者たちが動揺し始めました。

彼らの心には、イエスのこの言葉は神を冒涜するものと映ったのです。罪を赦すことが出来るのは「神」しかいないというのが、律法学者たちの考えです。それは確かにそうでしょう。けれどイエスさまはご自分が赦すと言われたのではなく、唯「神は赦されている」とおっしゃったのです。とにかく残念なことに、律法学者たちは本当に大切なことを見失っていたんですね。それは先程申しましたように、この中風の人が、これまでこのようになったのは罪のせいではないのか。神は赦しては下さらないのか、と苦しみ悩み続け、周りに対しても肩身の狭い思いをせざるを得なかった。その事が律法学者たちには見えていなかったということです。

又、彼を担いできた4人の、「何とか彼を救いたい」という切なる思いをも知ることができなかったということです。

この律法学者たちは律法について豊富な知識をもち、それをよく知っていました。

正論は語ります。でも神さまの愛と憐れみ。そして「隣人を自分のように愛しなさい」とおっしゃる神の律法の本質に生きているかどうかが、問われることになるのです。

大切なのは、神の慈愛をどこで、だれと、共にあずかっていくのかということであります。それは裁きではなく恵みの共有であります。

 

4人の男が中風の人を担架に載せてイエスさまのもとへ何とかして連れていこうとする。それもその具体的な行動でした。

私たちは年齢や体力や、そのおかれている状況も様々ですから、だれもが担架に乗せて

運んで来れる体力をもっている訳ではありません。おそらく今日の箇所の場面には、4人の彼らの他に、イエスさまの居場所を調べたり知らせたりした人、家で担架を準備したり、ひたすら祈って帰りを待っていた人たちがいたでしょう。そのように私たちも、

福音に生かされている者として、福音を共に生きるゆたかさを、私にできる具体的な何かで分かち合えるとよいと思います。

たとえば、お誕生日のカードを書いて送られる方もいらっしゃいます。毎日教会のお一人おひとりの名前をあげて主に執り成し祈っておられる方も、礼拝の奉仕や教会の役員を担っておられる方も、食事を作ってくださっている方もおられます。病気の人を訪ねて下さる方もおられます。中には「私は何もできなくて申し訳ないです」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、礼拝に集われること、祈祷会や夕礼拝に集われることもまた、福音を共に生きる具体的な証であると思います。

又、それは教会の中だけに限ったことではなく、家族や友人、近隣の方、出会った方との関係の中で、福音を共に生きる幸いへと、主は私たちを日々招いておられます。

 

さて、最後にイエスさまは律法学者たちにこのような質問をなさいます。

「中風の人に「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。」みなさんはどのように思われるでしょうか。

 

4人の男と中風の人がイエスさまの御前に来た理由は、身体のいやしのためでした。

つまり「起きて床を担いで歩く」という目に見えるいやしであったのです。

にも拘わらずイエスさまは、罪の赦しを宣言なさいます。なぜならイエスさまはその人にとって最も回復されるべきもの、それが何かを見抜いておられたからです。

 

人の存在にとって最も重要な問題。それは人としての尊厳です。その人の存在そのものが大事にされる、ということですね。それは神から造られ、神の霊の息吹を吹き込まれ生きるに価する者とされている。そうして自分自身も、又人からもかけがえのない大切な存在、一人の人として認められている。

イエスさまは、今日の箇所で「あなたの罪は赦されている」という事と「起きて床を担いで歩け」という事を両方、示されますが。この中風の人にとって先行するべき救いは、神との和解であり、その人の尊厳が取り戻される事でした。そこからしか真のいやしはあり得なかったからです。

 

私たちはこの地上を生きていますと、こうして週に一度でも共に神に立ち返る日を作らなければ、食べること、労働など生活に追われ、自分が神に造られ、生かされている霊的な存在であるという、その魂の生き死にについてはあまり考えることはありません。

生活も身体の病や心の病が癒やされることも大事ですが。何より大切なのは、命の根源である人が人であることの尊厳が取り戻されること。それは神さまとの関係の回復と、かけがえのない存在とされていることを喜べること。それこそが聖書が語る福音なのです。

イエスさまは、罪の赦しの宣言をお与え下さるために来られました。それは十字架の苦難と死をとおして成し遂げられた神の権威による福音です。

 

今日の箇所の終わりにこう記されています。

「『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」

 

この「福音を共に生きる」私たちとされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

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2018年最初の夕べの礼拝(主の食卓を囲んで)

2018-01-12 09:39:22 | 教会案内

1月14日(日)午後6時ー7時半  


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865
メール obcs@nifty.com

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イエス・キリストから湧き出 福音

2018-01-07 19:53:36 | メッセージ

新年礼拝宣教   マルコによる福音書1・1-15 

                            

新年を迎えて7日が経ちました。みなさまの中にはお正月に今年の目標やビジョンを掲げて祈ったという方もいらっしゃるでしょう。 

さて、1月から3月のイースターまで、礼拝ではマルコによる福音書から御言葉を少々丁寧に読んで御言葉に聞いていきます。

このマルコ福音書の記者マルコについては諸説ありますが。その一説として、このマルという人物は使徒パウロと共に伝道旅行に同行し、途中何があったわかりませんけれど、心疲れ帰ってしまう(使徒行伝13章)のですが。まあそれから再度働き人として立ち上がり、パウロの殉教後はローマでこの福音書を書いたとも言われています。そこでマルコはどんな点でイエスが救い主メシアで神の子であるのかをこの福音書に書き記したのでした。

12月のクリスマス礼拝とキャンドルライトサービスで読みましたルカ福音書とマタイ福音書には神の御子イエス・キリストの生誕物語があったのですが、このマルコ福音書にはその記事はありません。

ただ、最初の11節の表題に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き記されています。この「はじめ」とは原語でアルケー、その原意は、起源、開始、出発点、基礎という意味の言葉だそうです。

 

ここには、イエス・キリストが神の子であり、旧約聖書が預言したメシア(王、救世主)の福音(よき知らせ)は、このお方、神の子イエス・キリストを起源とし、このキリストから湧き出ものであることがここで言い表わされているんですね。

福音といえばみなさんは何を思い浮かべるでしょうか。お正月だったら「福袋」「福餅でしょうかね。まあとにかく「福」となるような幸いなものとかでしょうか。

お正月JRのホームで、紫色のうなぎのような新幹線が留まっていて人だかりが出来ており驚いたのですが。なんでもアニメのエバンゲリオンというのをモチーフにして造られた新幹線だそうで、直接関係があるか知りませんが。

この福音(よき知らせ)という原語:正しくはギリシャ語のユーアンゲリオンは、1世紀のローマ帝国の時代、新しい王が即位し新しい国のはじまりを告げられる時にも使用された用語であったそうです。

つまりこの世の皇帝の即位と統治を福音といったのですね。

しかしマルコは、その本物の福音(よき知らせ)とは、神の子イエス・キリストによる統治、神の国のはじまりを告げるものだ、と明言いたします。

このことは、まあ当時はローマの支配と権力が圧倒的であったわけですから、衝撃的なことだったでしょう。

マルコは、まず旧約のイザヤやマラキといった預言者の言葉を引用しながら、主が御自分に先立つ使いを遣わされると語ります。マルコはそれがバプテスマのヨハネであると伝えます。

彼は、荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。この荒れ野とは、草木も生き物もいない砂漠ではなくて、放置された、ほったらかしになった荒れ地や荒れ放題の牧草地だったようです。

マタイ9章でイエスさまが、「ガリラヤの町や村を回われたとき、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれいるのを見て、深く憐れまれた」とありますが。飼い主のいない、野放しにされたままの羊のように神の祝福と恵みが届かない人々がいる荒れ地。

文明科学がどんなに進み、物質的に物がいくらあったとしても、そういった人々の荒れ地、荒れ野が私たちの社会のいたるところにございます。そういう意味で、私たち先に主の救いに与った者は、その喜びの知らせを伝えていくことが主に期待されているわけでありますが。

 

さて、そのような地に現れたのがバプテスマのヨハネでした。

多くの人々が彼に共鳴し、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていたというのです。

それ程多くの人々がどうしてそんなにもヨハネに共鳴したのでしょうか。

それはヨハネが人々に施した「悔い改めのバプテスマ」にありました。

悔い改めは原語でメタノイア、単に悔いるということだけでなく、悔いたその上で神に立ち返る、ということを表します。単なる後悔ではないのです。罪を告白した後に神に向き直って生きる。そしてそれにふさわしい実りのある生き方をなす。それがメタノイア、悔い改めです。

そのヨハネが授けたバプテスマですが。まあこれも諸説あるようですが、有力なのは、彼が神の終末的な最後の裁きへの備えとして、自分の罪を告白して、象徴的に水で体を清める(バプテスマですね)という儀式を行なっていたということのようです。

そういうヨハネのバプテスマが、先程人間の荒れ野ということを申しましたが。

いわゆる見た目問題もなく日々を過ごしていたような一般のユダヤの人々や都エルサレムの住民たちの魂に強く訴えかけるものであったということですね。

むろんエルサレムには神殿もシナゴーグもあったわけですが。日本人が正月になればとりあえず神社に行っておみくじを引くような宗教儀礼になっていたのかも知れませんし、律法や戒律もその本質が損なわれ、人を活かすものではなかったのか。その魂の飢え渇きが人々を荒れ野にいたヨハネのもとへ向かわせたのかも知れません。

このヨハネのバプテスマによって、人々は魂のうちから揺さぶられ、悔い改めの思いを起こされる体験をし、それにふさわしい実を結んでいこうとする、そのような大きな覚醒運動(ムーブメント)となっていったようであります。

 

しかしヨハネはそうした大衆の心理をつかんで有名になる世のヒーローには決してならなかったのです。なぜなら「主の道を整え、準備させる」という自分の役割を自覚していたからです。

マルコは、このバプテスマのヨハネの言葉をこう伝えます。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたがたにバプテスマを授けたが、その方は聖霊でバプテスマをお授けになる。」(7s)

 

ヨハネは何て謙遜なんでしょうかね。しかしそれは、彼が自分の後から来るお方の存在を知っていたからではないでしょうか。

ここで重要なのは、ヨハネが「自分は水で悔い改めのバプテスマを授けるが、このお方は、聖霊でバプテスマをお授けになる」と言っていることです。

悔い改めは、神の子、メシアが来られるための準備、道備えにはなりますが、それは神の子、メシアによるよき知らせ、福音とは違うものなのです。それはよくよく考えてみますと、自分が悔い改めて神に向き直って生きていこうとする、人間の側からの意志や決意です。それだと、たとえが悪いかも知れませんが、滝に打たれて心を入れ替えて生きていこうみたいな考えと近いのかも知れません。ともかく人の側からの行為であることには違いありません。

 

一方、神の子イエスさまの聖霊のバプテスマは、人間の決意や行為によるものでは一切ありません。それは神さまからの一方的な大いなる愛の贈り物なのです。

12月にバプテスマを受けられたNさん。バプテスマを受けたばかりの時はお感じにならなかったかも知れませんが。その後は御自分が主イエスの福音に与ることができたことは、自分の決意や行為によってではなく、唯、聖霊のお導き以外ないということを今ひしひしと実感なさって主への感謝を送っておられます。

私たちは何か自分で修行のような事をした、徳を積んだ、あるいは儀式を行なったから救われるのではありません。それは福音ではございません。唯、神の子イエス・キリストの御血汐によって罪赦される中で、神に受け入れられて生かされているのです。日々お働きくださるご聖霊がそのことを証明してくださっています。

 

さて、マルコはイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられた時の事をこう記します。

「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」。すると『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(10-11s

 

罪のないお方がわざわざなんでヨハネからバプテスマを受ける必要があったでしょうか。けれどもそれこそが、神の子であるお方が、徹頭徹尾低みにへりくだり、人間のお姿となってくださったことの表われです。それは又、罪のないイエスさまが人間の罪の身代わりとなって十字架におかかりになったこととも重なります。

 

さらにここで大事なのは、イエスさまにご聖霊が降り、留まられたという事であります。

そして、イエスさまは父なる神さまによって「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の子として認証されるのです。

イエスさまの神の子、メシアとしてのそこからのご生涯は、すべてこの神の霊の先立ちと導きによってなされていくのであります。

聖書はその後、この「神の霊」がイエスさまを荒れ野へ送り出したと記しています。

送り出したという原語エックバローは「追いやった」というもっと強い意味をもちます。荒れ野へイエスさまを霊が追いやったのです。

この荒れ野は、先程申しましたように荒れ放題、殺伐とした処であり、野獣もいたのですが、それは主イエスに危害を加えることはありません。又、そこに天使たちが仕えていたとあるように、その荒れ野は神の支配と守りがあるのです。

 

マタイ福音書の荒れ野の試みの場面ではイエスさまがサタンの誘惑にすべて勝利なさったようになっていますが。このマルコの場合はその霊的闘いがそこで終るということは何も記されていません。その荒れ野の試みのような状況は、イエスさまがガリラヤの地から福音伝道に出かけられてからも変わることなく、イエスさまの十字架にいたるまでずっと続いていくのであります。

これは、現在私たち主の御救いに与っている者にとりましても同様ではないでしょうか。この地上の生活は私たちとってある意味、荒れ野の旅路ということができるでしょう。

喜び楽しみも束の間。悲しみや苦しみ惑わしの中で、激しい葛藤や闘い、深い苦悩や孤独感、不安や恐れも経験いたします。

けれど主イエスがお受けになったように、私たちが受ける数多くの苦しみの時も又、すべて神の前での鍛錬、訓練の過程であります。苦しみの長いトンネルにも必ず出口はあります。この荒れ野を支配するのはサタンではありません。主イエス・キリストにあって神の霊とともに私たちはおかれているということを忘れてはならないのです。

 

さて、マルコは、バプテスマのヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたと記します。

イエスさまはガリラヤから福音宣教を開始されます。それはエルサエムから見れば片田舎のガリラヤ、「ガリラヤから何のよいものがでようか」と見下されていた地です。

そういった神の国から遠いと思われている辺境の地に住む人たちのもとに、「時は満ち、神の国は近づいた。人の側から近づくのではなく、神の国の方から近づいて来た。だから悔い改めて福音を信じなさい」と説かれたのです。

 

それは始めに申しました、神の子イエス・キリストから湧き出 福音です。旧約のゼカリヤ書46節にあるとおり、「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」もたらされた福音です。

神の子イエスは、人間のお姿となりへりくだってバプテスマを受けられました。あの海抜のもっとも低いヨルダン川の底の底の低みにまで降られた。そうして神の子の霊をお受けになったお方であります。その霊に導かれるままに従いとおされ、最期には私たちの罪を背負い十字架にかかられるという死の低みにまで降られた主。

処刑の指揮をとっていたローマの百人隊長はそのイエスの最期を見てこう言いました。「本当に、この人は神の子だった。」

 

私たちは今日からマルコ福音書を3ヶ月に亘って読んでいきますが。このように低みに降られた「主イエス・キリストから湧き出でる福音」を味わい、それを体験していく者とされていきたいと願います。

イエス・キリストが福音をどこで、だれと、どのように分かち合われたのかを読みとっていく。そのことを大事にしながら、今も変わることなくお働きになっておられる聖霊によって、私たちの日常の中に神の一方的な恵み、福音の力を体験するものとならせて頂きたいと切に願います。今年も私たちの主イエス・キリストから湧き出るゆたかな福音の力、そして聖霊のお働きに全身全霊(バプテスマ)浸されながら、あゆんでまいりたいと心からお祈りいたします。今日もここから遣わされてまいりましょう。

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喜び・祈り・感謝して今を生きる

2018-01-01 16:03:01 | 教会案内

元旦礼拝宣教 テサロニケ一5章16-18節 2018/1/1

                            

主の御名を讃美して、新年明けましておめでとうございます。

2018年の元旦を迎え、こうしてその初めの日に皆さまと共に、主に礼拝をお捧げできます幸いを感謝します。主にあって本年もよろしくお願いいたします。

日本ではお正月を前に大掃除、門松やしめ飾りをしたり、家内安全、商売繁盛と人の名や牛などの偶像が祀られた神社を廻ったりいたしますが。

私たちにとってこのお正月、元旦という年の初めは、天地万物をお造りになり、すべてを統め、導いておられる生ける神、救い主を讃える礼拝から始めます。

どうかこの1年主にあって心と体、そして魂が健やかで平安のうちにありますように。又、一切が主のもとにあり、御心にふさわしいあゆみができる祝福が与えらますように、お祈り申しあげます。この元旦にそのような祝福が整えられますよう、今日も御言葉に聞いていきたいと願います。

 

「昨年の出来事」

さて、昨年の国内外の情勢は益々将来の先行きが見通せない混迷に満ちた年となりました。それだけではありません。人間による自然破壊や大気汚染に加え、自然の脅威も相俟って、地球環境が益々悪化しているように思います。

昨年7月には九州北部地方にとてつもない集中豪雨があり、甚大な被害が生じましたが。その被災者に対して、感謝なことにバプテストの群である大名クロスガーデンの森牧師をはじめ、有志の教会の方々がボランティア活動を継続的になさっておられます。

先日、私たち大阪教会の有志で募った献金を送らせて頂いたのですが。ボランティアの風景を写した報告とこのようなお手紙が届きました。「丁度25日のクリスマスを朝倉の仮設住宅のみなさんと祝おうと準備中でした。そのような中で、励ましのメッセージにどれほど勇気を与えられたことでしょうか。闇の中に光宿るクリスマスを、共に祝いましょう」。これを読んで、逆にこちらが励まされ、こころ温まる思いにされました。

現在も東日本、熊本、九州北部などでは大切な家族や家を失い、今なお仮設住宅で新年をお迎えになっている方々がおられることを忘れてはならない、と思わされました。

主イエスの語られた終末のしるしを彷彿とさせる世相の中で、主イエスにある灯火を共に掲げ続ける希望を見せていただき、感謝であります。

 

また大阪教会の昨年のあゆみからは、特にアジア諸国、ミャンマー、インドネシア、台湾、タイ、中国、韓国などから日本語を学ぶために来日しておられる姉妹兄弟と礼拝や愛さん会をともにすることができて、私たちは本当にこころ豊かにされています。

言葉の違いや文化の違いをものともせず、同じ一つの救いを仰がせてくださる主の救いの恵み。本当に素晴らしいですよね。

そうした出会いをとおして、私たちも多くのことを彼らから学ぶ機会が与えられていることにも感謝します。今年、さらなる出会いを主に期待しています。

 

「喜び・祈り・感謝」

さて、先に2018年の年初の御言葉としてⅠテサロニケ5章16-18節が導かれました。「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」「どんなことにも感謝しなさい」。

これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。

 

私たちの人生には実に様々な事どもが起こってまいります。平々凡々とした日常にも感情が揺れ動くような時があります。又、時には自分の思いを超えるような出来事も起こってまいります。それが良いことならいいのですが。どうしたって喜びようのない事、

何と祈ったらよいのかさえ分からなくなるような出来事やとうてい感謝できないような事があるでしょう。

けれども聖書は、そのような時も、イエス・キリストにおいて「いつも喜んでいなさい」というのです。

喜びって何でしょうか?調べますと「うれしい気持ち、満足な思い」とあります。

なるほどそうでしょうが。問題はその気持ちや思いがどこから来るか?です。単に欲求を満たすことに留まるなら、それは一時的ですから「いつも喜ぶ」ことはできません。実はこの「喜ぶ」の漢字の「喜」の成り立ちは、「楽器を鳴らして神に祈り、神を楽しませる」という意味をもつそうです。

 

先に交読文で詩編98編を読みましたが。そこに歌われている「琴に合せてほめ歌え、琴に合せて、楽の音に合わせて。ラッパを吹き、角笛を響かせて、王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」との賛歌がまさにそうですよね。

 

それは、たとえ苦難の中におかれた時も主の救いを信じて祈る時、私たちを滅びから贖い出してくださる共におられる神を賛美する時。それは神の楽しみとなり、私たちの喜びとなるんですね。旧約聖書の詩編はまさにそのような祈りの宝庫であります。

旧約の時代に生きた神の民は、苦難の中でなお祈り、賛美し、喜びをもって神を讃えています。

ましてや新約の時代に生きる私たちです。十字架にかけられてまでも私たち人間を愛しとおしてくださるイエス・キリストにあって「いつも喜んでいなさい、それこそ神があなたに望んでいることだ」と聖書は語るのです。

 

次の「絶えず祈りなさい」ということについてですが。

私たちが祈るときというのは何か問題が起こったときとか。願いごとがある場合は祈ります。けれどもこの「絶えず」というのは、途切れずに祈りなさいということなんです。

順調なときは祈りを忘れることがないでしょうか。絶え間ない祈り、不断の祈り、日常生活の3度3度の食事をするように日毎に祈り続ける。そこに日々の生活、日常の中に主の霊、主の臨在を身近に感じ取っていくことができるでしょう。

そしてさらに、この「祈りなさい」は、原意から、互いのために祈る、執り成しの祈りを示します。

それは心地よい人間関係の間、仲間内で祈ることに留まらず、愛せないような人、忘れられているような人、あるいは社会全体のためにも執り成し祈る。

人間的な思いや感情では祈れなくても、十字架で血を流し、体を裂いて私たちの罪を贖い、神さまとの関係を回復してくださった主イエスの御名によって、互いのため、執り成し祈るように私たちは招かれているんですね。

 

最後に、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めについてですが。

この「どんなことにも」というのは、私が遭遇する具体的な出来事を意味します。

主は今、私に起きている事。具体的な今のことを、感謝しなさい、と言うのです。

「感謝しなさい」と言われても。感謝できないような出来事を前にしたら、どうして感謝できるのかと思われるでしょう。

それも先の「いつも喜んでいなさい」ということと同様。イエス・キリストにあって「どんなことにも感謝しなさい。それこそ神が望んでおられることです」というんですね。

神の愛と救い、イエス・キリストによる恵みを魂いっぱいに受け取る時、本物の解放と平安が与えられるでしょう。

 

今年の2018年は、さらにこのイエス・キリストにあって「喜び・祈り・感謝して、今を生きる」ものでありたいと願います。なぜなら、「これこそ、神が私たち一人ひとりに望んでおられること」だからです。

 

祈ります。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロにケ一523節)

主なる神さま。今日は2018年の最初の元旦を、このようにまず主に礼拝を捧げることから新しい年をスタートすることができました。本当に感謝であります。ここに集うことが許されたお一人お一人、そしてご家族のうえに神さまからの祝福と平安が、この1年豊かに臨みますように、お祈り申しあげます。

また、今ご家族のもとに帰省されているお一人おひとりに祝福を。そして、今病気、療養中の方々のうえに、御手が触れてくださり、いやしと平安が与えられますよう、切にお祈り申しあげます。

すべてのことに感謝して、救い主イエス・キリストの御名をよってお祈り致します

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主の年2018

2018-01-01 09:03:23 | お知らせ

新年明けましておめでとうございます。

昨年はこの日本バプテスト大阪教会のブログをご訪問くださったみなさま、

ありがとうございました。

今年一年、いつもご訪問くださる方、

新しい方ともこのブログをとおして出会えるのを楽しみにしております。

今年も聖書からのメッセージを中心に、さらに少しでもお役に立てるよう、

励んでまいります。

今年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

2018年元旦

日本バプテスト大阪教会

 

 

 

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