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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あなた一人で負うことはない

2025-07-13 16:45:02 | メッセージ
主日礼拝宣教   民数記11章1-23節
 
本日も先週に引き続き民数記、その11章のところから御言葉に聞いていきたいと思います。シナイを出発してから荒野を旅する民は繰り返し、「主の耳に達するほど、激しく不満を言った」とあります。この「不満」「悪」「不平」等を意味します言葉は、民数記の一つのテーマになっていると言われています。民は奴隷の状態から解放され、救い出された感謝と賛美が消え去り、その同じ口から、不満や不平や悪口が出てくるのです。主はその民の「不満」を聞いて激しく憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営の端を焼き尽くしたのです。そこで、民はモーセに助けを求めて叫びをあげ、モーセが主に祈ると火は鎮まりました。

次に、マナに対する「不満」が4-9節に記されています。それは「人の欲は飽き足りない」「人を本当に満たすものは何か」というテーマです。                      不満は、まず民に加わっていた雑多な他国人から起こりました。彼らはエジプトの奴隷とされていましたが、イスラエル人に従って出てきたのですが、主なる神を知らない人たちでした。しかし神は人を分け隔てなさらず、イスラエルの人たちと同様にマナという食物をお与えになったのです。そのマナについてですが。その調理法などが7―8節にありますように、主は荒野という厳しい環境の中で、人々が飢えることなく、健康が保たれ、しかも噛むとちょっと甘味のある食物を民に備えてくださったのです。しかし他国の人々は、その主が与えてくださったものでは満たされません。「それでは足りない」と、飢えと渇きを訴えます。そのマナの単純な味に飽きてしまい、エジプトにいた時に新鮮な肉や魚、野菜や果物を食べていた事を思い起こして、不満を訴えたのです。すると、何とそこにいたイスラエルの人々もその他国人たちの不満につられるかのように泣き言をいった、というのです。                                 他国人のマナに対する不満は、私たちに「人の欲は飽き足りないこと」を教えています。ただ見落としてはならないのは、イスラエルの人々は、他国人たちと違い主なる神を知っていたことです。災いを過越させ、追手から守って紅海を渡らせ、さらに険しい荒野の中では水を湧き出でさせ、天から命の糧、マナを降らせ与えてくださるお方は、信仰の父祖らを守り導き、今や自分たちを導かれる主なる神であることをイスラエルの人たちは知っていました。ところが、その人々が他国人の不満や泣き言に同調し、同様の泣き言を言い出したのです。モーセは民のどの家族も家の入口で不満や泣き言を言っているのを聞き、主の怒りが激しく燃え上がるのを知って苦しむのです。彼は民と主なるお方の間に挟まれ大変苦悩するのです。

そこでモーセは主に、11節「あなたは、なぜ、僕を苦しめるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。」14節「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。」と訴えます。そして15節「どうしてもこのようになさりたいのなら、どうかむしろ、殺してください」とまで言うのです。モーセの人間としての弱さがさらけ出されているのです。けれどそれは見方を変えるなら、彼は自分の限界を認め、主に全身全霊を賭けて、依り頼んでいるのです。あの大伝道者とされた使徒パウロも病を抱え、伝道も思うように実りを得ず、自らの無力さに打ちのめされる中で、3度、主に祈るのですが。そのとき、主はパウロにこう語りかけられました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(Ⅱコリント12章9節)。 パウロが自分の弱さのゆえに全面的に主に依り頼む時、そこに主の力はパーフェクト、完全に発揮される、という「主のお言葉」が与えられるのです。そうして福音伝道は実を結んでいくのです。それは、主の前にありのままの自分、その破れや弱さをすべてさらし、主にすべてをかけて訴え祈るとき、人ではない神の最善が実現されていくのです。                                    もう限界です。どう仕様もないです。お手上げです。というような時を私たちも経験することがあります。そこで問われていることは、訴えでも、祈りでも、嘆きでも、叫びでもいいのです。主に相対して、自分のありのままの弱さをさらすことができるのは、幸いなことなのです。              
さて、そのモーセの訴えに対して、主は答えてくださいます。  

一つは、16-17節にあるように、主はモーセの重荷に対して、それを分担し、共に担うにふさわしい70人の長老を選び出し、主がモーセに授けた霊の一部を取って、その彼らに授けて、民の重荷をモーセと共に担うようになさるのです。「もう、あなた一人で負うことはなくなる」と主は言われるのです。一人で負わねばならないと思い詰めていたモーセは、そのお言葉によってどれ程解放されたことでしょう。仕事も様々な人間関係も自分でやらなければと気負い過ぎると、やがて負担となり疲れ果ててしまうものです。「共に担う人」や「助け手」が与えられるように願うということは大切なことですね。

そしてもう一つは、荒野での民の食糧についてのお答えでした。主はそれを今度は「民全体に告げなさい」言われます。それは、「明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。それは、1ヶ月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。」というお言葉でした。                                     主が60万人以上いる民のすべてに「肉を1ヶ月の間食べさせよう」とのお言葉に疑念を抱くモーセに主は23節でこう言われます。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならなか、今、あなたに見せよう。」何という力強いお言葉でしょうか。信仰を目覚めさせお言葉であります。これらの主のお言葉を聞いたモーセは、その「主の言葉を民に告げ」「そのお言葉のとおり従いました」。モーセは主のお言葉をもはや自分のものとしてではなく、民全体のこととして受取りました。そして民も皆、主のお言葉を受取り、それをシェア-、共有したのです。

ところで、先の肉を民のすべての人に行き渡るために、まず「明日のために自分自身を聖別しなさい」と言われた聖別というのは、神の恵みに与るための心構え、備え、準備するということです。この礼拝もそうです。私たちが礼拝に臨むときに、それぞれに備え、準備、心構えをもって礼拝に臨むでしょう。その時は主なる神に思いも心に集中して向けていくようにします。主の恵みを知るものは、そのように心がけて礼拝に臨みます。そうして主の恵みをゆたかに受け取る準備が整えられるのです。

さて、モーセが一人で負っていた荷は、主のお言葉通り、民の中から選ばれた70人の長老たちがよって分担して担われるようになります。又、主は民に肉となる「うずら」の群れを送り続けるのです。こうして主の言葉はそのとおりになります。ところが、民に予期せぬことが起こります。民の中に毎日貪欲にうずらを集める者が主の怒りを招き、疫病にかかるという事態が起こるのです。貪欲とは、自らを聖別しなくなる状態を表します。ここを読みますと、人の欲は尽きないということです。欲を満たすと更に新しい欲が生じます。主イエスは「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ7章)と言われました。今与えてくださる神の恵みを享受し、不満や不平から解放されるにはどうしたらよいでしょう。 
主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(同7章33節)と言われます。神の御心に適うことを求め、その実現に向けて生きる者に、その必要と共に充実に満たされた命の日々を主が備えて下さるのではないでしょうか。

最後に、今日の箇所を読みまして改めて注目しますのは、エジプトから脱した女性・子どもを別にしても60万人とも言われる民の中に、イスラエルの人びと以外にも種々雑多な人々(出エジプト12:38)、それは様々な事情を抱え苦役を課せられていた他国人も包含した荒野の旅路であったということであります。主はそれを良しとされました。あらゆる生きとし生ける人びとが世の罪の縄目から解き放たれ、解放されるようにと切望なさる、寛大な主のご愛と深い憐みをここに読み取ることができます。クリスチャンか、そうでないか。信仰があるか、ないかで分け隔てしない寛容なすべての人々の父なる神さまのお姿が浮かんでまいります。現代の世界において、国内外もそうですが「~ファースト」ということが流行り、主張されていますが。それはややともすれば、「自分たちが1番で、自分たちの考えは正しい。それを受入れず、認めないものは出て行け。」と排除し、締め出す独善的で排他的な世の中は何と殺伐とした世界でしょう。そういう中、出エジプトという神の解放と救いの旅路をなす民の中に、主はイスラエルの人びとだけでなく、他国の人たちをおき、共に導こうとなさるのです。主の解放と救いのメッセージに、私たちも応えて共に歩んでいく者とされてまいりましょう。祈ります。
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2025/7/13 主日礼拝式

2025-07-09 17:48:40 | 教会案内

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7/26 みんなでさんび&コンサート ご案内

2025-07-07 17:24:19 | イベント

YouTube「おうちでさんび」が大阪教会にやってきます!

南敦子さんの歌声と野田常喜さんのアレンジした素敵なピアノ伴奏で

皆様とリアルにお会いして

ご一緒に楽しく歌いましょう。(^▽^)
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世の荒野を旅する私たち

2025-07-06 18:58:05 | メッセージ
主日礼拝宣教    民数記9章15-23節 

短い梅雨が明け6月末より体温に匹敵するような猛暑が続いております。そういう荒れ野のような中を、いつものように集われた方、また久しぶりにやっと集うことができたという方、又初めての方とご一緒に、主に礼拝をおささげできる恵み、喜び、その尊さに感謝します。                  

今月の礼拝から4週に亘り、旧約聖書の民数記を読み、御言に聞いていきます。民数記はイスラエルの人々がエジプトの国を出て解放された翌年、シナイの荒れ野にいたときに主なる神の命を受けて、指導者モーセがイスラエルの共同体全体の人口調査をしたことから、民数記と呼ばれていますが。そこには、シナイから約束の地に向かうイスラエルの人々を導かれる主なる神さまとの関係性が、焼けつくような暑さと険しい「荒れ野で」の生活や営みを通して、記述されています。イスラエルの人々は出エジプトして荒れ野からシナイへと向う道中、「昼は雲の柱、夜は火の柱」に導かれて進むことができました。シナイから約束の地に向かう荒れ野の旅において、主なる神さまはモーセに「わたしのために聖なる所を彼らに作らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。」と「幕屋の建設」(出エジプト25章)を指示なさるのです。こうして建てられた幕屋を荒野の険しい旅路において、主がどのように守られ、導かれていかれるのか。またそこに集う人びとがゆたかに生きるためにどのように養われていく必要があるのかを、聖書から聞いていきます。

本日の民数記9章15-16節以降にこうあります。「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。」                          ここで、まず主なる神さまの臨在が雲にたとえられております。その雲が掟の天幕である幕屋、つまり十戒を納めた箱が置かれた特別な神の幕屋にとどまるのです。そしてその雲は、灼熱の荒れ野において突き刺すような日の光から人びとを守ります。また「雲が夕方になると幕屋を包む火のように見え、朝まで続いた」とあります。夕方から夜明け迄の荒れ野は野獣や毒をもつ生き物など様々な危険が潜んでいますが、雲が火のように幕屋を照らし続けて、様々の危険から守られたのです。
                                           この今日の短い箇所に、「雲」が何と12回も記されています。その「雲」は約束の地を目指して荒れ野で旅する人たちに守りといつくしみを思わせる、人々の主への信頼は強められていったのでしょう。

17-18節「この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲は一つの場所にとどまると、そこへ宿営した。イスラエルの人々は主の命令によって旅立ち、主の命令によって宿営した。」とあります。 
                               
今日のこの箇所は又、「旅立ち」とか「旅立つ」という言葉も多くて9回出てきます。かの人々は雲の動向をたえず注目しながら天幕にとどまり、また旅立つのです。天幕を張り宿営する時、また天幕をたたんで旅立つ時がある。しかし「その時」を決めるのは人ではなく、主なる神さまなのです。人々は何よりも雲がとどまるところに天幕を張り、雲が天幕を離れるとき天幕をたたみ、雲を追いながら旅をするのです。私たちの人生の旅路も同様でしょう。
「聖書教育」に、「この旅立つという言葉の直訳は『杭を抜く』というものです。民は杭を用い、地面にさして天幕を張り(中略)その天幕を解体する第一の作業として杭を抜き、旅立ちます。」と解説がされていました。もう随分昔ですが、私が教会学校の小学科の生徒の時、北九州の諸教会が集まる聖書夏季学校が山口県の秋吉台にある宿泊所で行われ参加しました。その草原でテントを張って遅くまでワイワイガヤガヤしたり、寝泊りした時のことが忘れられません。夜になり横たわって夜空を見上げると何と満天に星が輝きわたり、あまりの壮大な光景に大変感動しました。そのキャンプでテントを張るとき始めにしたことは、地面に杭を打ち込むことでした。そして最終日の山を下りるときには、テントの杭を抜いてからたたみ、そのところから出発したのです。そのように、主にある民、イスラエルの人々は、雲が天幕を離れて昇ると、「杭を抜き」旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そのところに杭を打って幕屋を張り、宿営して荒れ野の旅を続けたのであります。 
                                        さて今日はもう一つ大きなキーワードを見つけることができます。それは本日の箇所に7回出てくる「主の命令によって」という言葉です。「命令によって」と聞きますと何か堅苦しい気がするかも知れませんが。そのもとの言葉について「聖書教育」の筆者は、「『主の口に基づいて』という表現です。上から下への命令というよりは、顔と顔、口と口とをあわせる、神と民との対話を想定したいところです。」と斬新な解釈もなされておりますが。                 この「主の口に基づいて」ということで思い起こしますのは、申命記8章の「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」との聖句です。

私たちの人生の旅路、それは世の荒野を旅する日常です。そのひと時ひと時をゆるぎない平安とゆたかに生きる術は世の処世術にあるのではなく、天地万物を造り、すべてを御手に治め、導かれる主なる神さまのご指示を仰ぎ、「主の口から出る1つ1つの言葉を基づいて」事を計り、実践的に生きていくところにあります。そのような日々日常の連続が人生に本質的価値と喜びをもたらしてくれることを私たちは体験的に知っています。れは私たちも与えられている幸いな道なのです。

19-23節を読みますと、雲が長い日数幕屋の上にとどまり続ける時も、人びとは主の言いつけを守り、そこにとどまり続けます。逆に雲がわずかな日数しかとどまらなくても、「昼であれ、夜であれ、雲が昇れば、彼らは旅立った。二日でも、一ヶ月でも、何日でも、雲が幕屋の上にとどまり続ける間、イスラエルの人々そこにとどまり、旅立つことをしなかった」とあります。         先にも申しましたが、荒野の真昼はどれだけ熱くて危険でしょう。この大阪の暑さは高温多湿でしんどいですが。そういう先の見通しもつかない状況の中で、かの人々はひたすら「主の口に基づいて」言いつけを守ったのです。」(23節)それは又、「主の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」旅路であり、忍耐や試練を経験しつつも荒れ野の旅路を続けることができたのです。  彼らがそのようにできたのは、「雲」をもって臨在を顕される主を絶えず見上げていたからでしょう。そこには主への信頼と期待があったからです。反抗的思いや不平不満の思いに支配されていたら主から目を逸らしていたでしょう。私たちはどうでしょうか。                                              今日の個所の前には、過越しの祭りについて記述がありますが。イスラエルの人々はエジプトの奴隷の状態であった時、災いと滅びを過ぎ越させてくださる主の御業によって、囚われの中にあった状態から解放され、救い出されたことを思い起こす記念として行われます。私たちも主イエスが記念としてこれを行いなさいと教えてくださった主の晩餐式を今日も守りますが。主が十字架を通して顕してくださった救いと解放を思い起こし、心新たにされて主と共に生きる道を見出していくために持たれます。荒れ野を旅したイスラエルの民は40年という長い荒野の旅路において神の救いの御業を忘れ、雲を見上げることができなくなり、主への信頼と感謝が消えうせ、我が道を突き進んでいく民の姿が、これから読んでいく民数記の記事に描かれています。

最後に、主なる神さまは新約の時代にあってはユダヤ人だけでなく、世界のすべての人間があらゆる囚われと滅びから解放され、救いに与るために、神の御子、イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。このイエス・キリストについて、ヨハネ福音書には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1章14節)と記されています。この「わたしたちの間に宿られた」の原意は、本日の箇所にあります「わたしたちの間に天幕である幕屋(テント)を張ってくださった」という意味です。わたしたちと同じ人間の姿となって地上に生まれ、地上に生き、その死に至るまで主なる神さまの御心を行い、十字架において、滅びゆく外ないわたしたちの罪もろとも引き受けて死なれた神の言、主イエス。父なる神はそのイエスを死より甦らせ、神の御心に身をゆだね完全に従い通して勝利した主イエスに神の権能をお与えになったのです。すべての人に救の道を開かれたキリストは、今日もご自分の口から出る1つ1つの言葉によって私たちを守り導き、荒野に思える日々の中にあっても、天幕である幕屋となって共にいて守り下さるのです。                          

本日は民数記9章より、「世の荒野を旅する私たち」という題をつけさせていただきました。この世にあって荒野というような道を旅する折も、この雲となってくださる神さまが、インマヌエルなる主と共にいて、守り、導いていてくださっています。そのことを私たちに教え、証しているのは、主の口から出る一つ一つの言葉であります。この地上の限られた人生を歩みゆくものすべてに、この神の生きたみ言葉である主が共にいて守り導いくださると確信して生きる幸いな道に生きるようにと、神の御言である聖書をとおして、主は今日もすべての人を招いているのです。その真理に触れていくには、主の口から出る一つひとつの言葉に触れる機会を絶えず持ち、一人で聖書を読むことは大事ですが、礼拝や祈祷会で聖書を共に読んでいくいくことも大切です。そういう機会が教会で起こされていくよう祈りつつ、さらに御言によって養われていきたいと願います。
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2025年7月6日 主日礼拝式

2025-07-02 15:02:31 | 教会案内

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希望を基にした喜び

2025-06-29 13:15:07 | メッセージ
主日礼拝宣教 フィリピ4章2-20節 

先週の23日は沖縄「命(ぬち)どぅ宝の日」として覚えましたが。その翌日には沖縄県主催「シンポジウム戦後80周年の沖縄から国際平和を考える」集会をがユーチューブから視聴させていただきました。この集会では、国連事務次長、国連の軍縮部門のお働きをなさっておられる中満さん、2024年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会の田中さんからの基調講演がなされ、その後、パネラーとして玉城デニー沖縄県知事、さらに、沖縄県出身で東京の大学生で、沖縄戦の基地問題等を発信しながら、日米地位協定改正を求める活動をされている崎浜さんの発題がありました。そのパネルデイスカッションの中で印象に残ったことは、パネラーの崎浜さんの曾おじいちゃんやおじいちゃんがいずれも沖縄戦で命を奪われ、自分で書いた家系図を示しながら、曾おじいちゃんもおじいちゃんにもその歴史があったことを具体的に証言されながら、「命どぅ宝」と訴えられたことでした。それだけではありません。崎浜さんの訴えを受けた日団協の田中さん、国連の中満さんからは「戦争や原爆で亡くなられた犠牲者が数字で出る、統計として出されるが。そこで見過ごしてはならないのはその一人ひとりには名前があり、人としての物語(ヒューマンストーリ)があること。確かに今の世界の情勢は軍拡へと向かっている行きの見えない状況でありますが。そういう中で、崎浜さんのようにご自身のご家族のことを語り伝えながら、一人ひとりの命こそ宝であることを切実に訴え続け、活動しておられる若者がおられることに、大きな希望を持つことができました」と、応答の言葉がありました。                      
このシンポジウムは、私にとっても沖縄の人たちの平和への切実な訴えや願いを身近に感じる時となり、米軍基地、日米地位協定、辺野古の海埋め立てと様々な問題についても注視し、祈りつつ覚えていくことの大事さを知らされました。それは又、世界中の平和への願いとつながっており、聖書が「主は多くの民の争いを裁き、はるかに遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4:8)と示す御心を祈り求め続けていきましょう。
さて、本日の4章ではパウロとフィリピの教会の信徒たちが、如何に深く豊かな関係にあったかを読み取ることができます。それはイエス・キリストの神の愛による具体的実践を伴う交流でした。
パウロは14節で「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」
と述べます。
2章でパウロは、「わたちの協力者、窮乏のとき奉仕者」と呼ぶエパフロディトを通してフィリピの信徒たちから献金を受け取り、福音伝道の働きを助けられたのです。パウロにとってフィリピの信徒たちは、福音を伝える時も、投獄の時も、法廷で弁明する時も、又苦しみの時も、良き協力者でしたし、パウロの財政的支援をも共に担ったのです。それは彼自身がフィリピの教会、その信徒たちと主の福音の豊かさ、その拡がりを共にすることを「喜びとした」からです。パウロは、フィリピの信徒たちが自分の患難をも共にしてくれたことで信徒たちを信頼し、主が築いて下さったその良き関係性を喜んでいるのです。
本日は、神学校週間の最終日となりましたが。当教会で実習しておられる東京バプテスト神学校の掘端洋一神学生が、本日は神奈川県川崎市にある百合丘キリスト教会で礼拝宣教のご奉仕に立たれておられます。又、午後3時半から関西地方教会連合壮年会主催の「神学校週間を覚える集い」が当教会を会場に開かれます。諸神学校で学んでおられる方がたと諸教会との主にある関係性が豊かなものとなっていくようにと願います。どうか、諸神学校と神学生のことを私たちも覚え、祈りと献げ物をもってお支えできたらと願います。それは神学生のためのみならず、福音の拡がりとその実りに共に私たちも与る者となるためです。
そういうことで、本日はフィリピの信徒への手紙の4章から「希望を基にした喜び」と題し、聖書から聞いていきたいと思います。
この手紙は、迫害を受けたパウロが牢獄の中から書き送ったものです。そのおかれた状況にも拘わらず、ここには「喜び」という言葉が大変多く出てまいります。
本日の4章4節を見ますと、「主において常に喜びなさい。重ねて言いますが。喜びなさい」と記されてあります。
続く6-7節では、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めるものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と、述べます。
獄中の劣悪な、それもいつどうなるかわからない状況の中で、パウロは喜びと平和を呼びかけるのです。主イエスの福音にはそれほどの力があるのです。
テサロニケの教会の信徒へ書き送ったパウロの手紙にも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と記していますが。パウロは、たとえ困難な中であっても希望を見出し、喜びと平安に与って生きることを願っていたのです。

パウロは又、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」と述べています。
私たちの日々日常hどうでしょうか。こまったなあ、ああなんとかしなければ、ということであふれています。それで、あれやこれやと考え、がんばっては疲れたり、これという良い解決策もなく途方に暮れるようなこともあります。いろんな情報で頭がパンクしそうになり、そこからくる不安や怖れが心を支配するようになってくると、これは思い煩いの重度の状態です。
そこでリフレッシュしようと何かをする。食事や運動や散策もよいでしょうが。けれどもそれは「どんなことでも、思い煩うのをやめる」根本の解決とはならないでしょう。自分の感情や観念に支配される限り、いつもなにがしか思い煩うことになるのです。
しかし5節にありますように、私たちには「主が近くにおられます」。その「主において常に喜びなさい、重ねて言います。喜びなさい」とパウロが言うように、この「主において」ということがとても重要なのです。
この「主において」とか「主にあって」という言葉は、フィリピの信徒への手紙に8回も出てきますが。「主において」「主にあって」とは、「キリストに結ばれた者として」という意味なのです。
それは、どんなときも、いつも救いの主、キリストと結ばれた者として生きる。それは又、キリストに結ばれた関係性によって生かされる。楽しみだけでなく、苦しみや悩みも共にして、祈り合い、励まし合い、助け合うといった中で、パウロの示す「喜び」の本質に益々気付かされてゆくのです。キリストに結ばれた本物の「喜びを常に持ちなさい」。それには互いを覚えて「絶えず祈りなさい」。キリストのお姿を思い起こして、「どんなことにも感謝しなさい」と、パウロは呼びかけているのです。
ですから、パウロは主に結ばれた「喜び」は決して尽きることがないことを自らの状況下において証明しました。彼は数多くの迫害に遭い、幾度も投獄され、むち打たれながらも、それでも「主にあって、常に喜び、どんなことでも思い煩うことなく、何事につけ、感謝を込め、祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」続ける日々を生きて、このフィリピの信徒たちと交信し続けたのです。
彼は13節で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授っています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言います。夜の祈祷会で中国語を話す方が、それは中国の諺で「知足常楽」だと言われました。その意味を調べてみますと、「満足することを知れば気持ちが楽になり、楽しい人生を歩むことができる」という意味で、「満足することを知らない人は、欲が満たされても次々に新たな欲が生まれてくるため不満を抱えストレスも蓄積される」という補足が付いていました。なるほどと思いました。しかし、ここでパウロが語っている「いついかなる場合にも対処する秘訣」とは、わたしを強めて下さる方が共におられる、という確信でした。キリストに結ばれていることによって、自分には無理だ、嫌だと思えることもできる、可能だ、と彼は言うのです。それは自分の考えや見方を変えようとしても難しいでしょう。私たちの日々日常において、思い煩うようなこと、喜べないようなこと、祈れないようなこと、感謝できないようなことが起こっても、キリストに結ばれて生きている、生かされている変ることのない喜びを回復することが大事です。そういう時にキリストがその私たちの傍らにいて私を強めて下さる。そればかりか、その私たちが痛みや苦しみといった重荷までも共に担う者として下さるのです。
主にあって喜び、絶えず祈り、何事につけ感謝する心をもって歩んでいくことができるのなら、私たちも「キリストに結ばれた者たち」なのです。

私は今日の箇所から宣教の準備をしていくうえで、「常に喜びなさい」という言葉のベースにあるものがなんなのかということを、祈りながら、考えてきました。
復活のキリストとの出会いを経験したパウロはキリスト者となり、キリストの十字架と復活の救いの福音を伝える使徒となり、小アジア(現トルコ)やギリシャやローマにも足を運ぶ伝道旅行を3回も続け、キリストの福音を宣べ伝える生涯を全うされました。
そのパウロは聖霊の力と復活のキリストにあって強められ、そのようにいついかなる場合にも対処する秘訣を授りながら、福音を語り伝えることができたのです。
ローマの信徒への手紙5章1-5節にこう彼は書き記しています。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。
「キリストのその苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(3:10-11)との希望をパウロは抱いていました。
今の世界、今日の時代の状況下にありましても、十字架と復活のキリストの愛、その大いなる希望を基にした喜びを生き抜いてゆきましょう。お祈りします。
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2025/6/29 主日礼拝式

2025-06-25 12:49:54 | 教会案内

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自己完結しない道

2025-06-22 15:09:54 | メッセージ
礼拝宣教    フィリピ3章10-4章1節 

この手紙は使徒パウロが迫害のため牢獄に入れられた、そのところからフィリピの教会の信徒たちに書き送ったとされています。その手紙の冒頭でパウロは、「キリスト・イエスの僕であるパウロから」と挨拶しています。僕というのは奴隷を表す用語ですが。彼は自分が、神に敵対する勢力に囚われているというのではなく、「キリストに捕らえられている」、「キリストの僕」であるというのです。
キリストの十字架と復活の福音を伝えていたパウロは、何度も激しい迫害を受け、投獄されることがありました。けれどもそういう中で絶望することなく、なおも信徒たちを励まし続けるのです。それは彼がキリストとそのたぐいなき福音に捕らえられていたからです。

今日もこうして時間を主に取り分けて礼拝のために集われた皆さんもキリストに捕らえられたお一人お一人でありましょう。私たちにも多少なりとも困難や憂いの時がありましょう。けれど、願わくばそんな時にも、キリストが私たちを捕え、引き寄せてくださり、福音に生き続けることができますようにと祈ります。それは、キリストにある命が永久(とこしえ)であるからです。

パウロは10-11節で次のように述べます。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
キリストは死よりよみがえられ、40日間弟子たちに現れた後、天に昇られました。神の御心を成し遂げられ、天と地のいっさいの権能をお受けになり、その力ある言(ことば)によって万物を支えておられます。そして来るべき日には地を正しく裁くお方として再び世に現れ、全世界を統治なさることが約束されています。
ここで、パウロは「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」というのですが。それは単によみがえりたい、又永遠に生きていたいということではないでしょう。
キリストが正しく地を裁き、世を治めるその「天の国」にパウロは何とかして与かりたからです。
私たちも、愛する主のみもとに与る日が地上の歩みの先に用意されている事を希望として生きています。
復活は、単に死んだ後の世界のことではないのです。現に今、この時も、十字架とよみがえりのキリストが私たちと共にいてくださる、キリストのご支配のうちにある、このIn Christ、キリストにあって私たちが生かされていること自体、キリストの復活の命に生かされているのです。
そこで大事なことは、今を生きる私たちが、あの十字架につけられたキリスト、それも今なお、この私、すべての人、この世界のために傷つき、痛み、血を流され、とりなされる主を見上げて如何に生きるか、ということであります。
パウロは「その姿にあやかりながら」と言いました。それは、キリストに「自分を重ねながら」ということです。

パウロは12節-14節でこう述べます。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標をめざしてひたすら走ることです。」
彼は、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言うのです。先回礼拝で読みましたガラテヤの教会にはパウロに敵対するような人たちが入り込んでいました。このフィリピでも同様に、自分たちが如何に立派で優れた信仰者であるかと自任し、誇り高ぶって、指導力を得ようとしていた人たちがいました。彼らは言わば「自己完結していた」者たちでした。愛の動機から福音を宣べ伝えていた人たちがいる一方で、そういう虚栄心とおごりから行動していた人たちもいたのです。

実はそれはキリスト者となる前のパウロ自身もそうでした。彼はかつて神のために大変熱心に働いていると自任し、自分の能力や正しさを誇り、その意に反する者をさげすみ、迫害しました。そんな彼が復活の主、キリストとの出会いを経験するのです。
そこで彼はそれまでの自己完結していたその愚かさを思い知らされ、打ちのめされてしまうのです。そうして心砕かれたパウロは、自分の力や能力は塵あくたに等しく、今自分がこのように救われているのは、唯、キリストの恵みに以外にないと自覚する事ができたのです。

パウロが「後ろの者を忘れ」と述べたのは、過去の才能や能力、地位や立場、世の基準に価値をおき、それら頼みとしていたものを忘れ捨て去り、「前のもの」すなわちキリスト、十字架に自らを差し出されるほどの神の愛とその救いを追い求め続けて生きる道に、全身を向けてひたすら進む、ということです。
彼はそのように自分のありさまを陸上競技に参加する走者、ランナーにたとえます。
そのスタートはイエス・キリストを救いの主として信じた時点、ヨーイドーン!で走り出します。走り出してからは様々出来事が起こります。時に進めなく滞ったり、コースを見失いそうになったりと。
「天路歴程」というジョン・バニヤンの有名な書物がありますが。様々な出会いや出来事に遭遇しながら、皆さんそれぞれの道を今走り続けておられるのです。まあ、走っているのでなく、歩いているという方もおられるかもしれませんが。大事なのはひたすら目標を目指して走り、歩み続けることです。私たちの今現在は、確かに主にあって新しい命の道の途上にあるのです。
そして「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えくださる賞を得るために、目標を目指して」人生の嵐の日も雨の日も日照りの日もひたすら走り、歩み続けることが大事なのです。

さて、パウロは17節で「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と勧めます。
すでに読んできましたように、パウロは自信家、うぬぼれが強かったのではなく、又自分はこんなにも立派なのだから「私に倣え」と言っているのではないのです。それは「後ろのもの、自分の才能や能力、地位や立場、世の中の基準に価値をおき、それを頼みとする事から解放され、前のもの、キリスト、その神の愛と救いを追い求め続けて生きることを示すのです。
自分の知識や業を誇り高ぶり、自己完結してしまっていたいわば卒業クリスチャン。そういう人は十字架の救いを必要としません。パウロはこうした人たちの教えに惑わされないよう、注意を呼びかけながら、「まだ目標に達していない私の姿を見てください」「私の弱さを見てください」「途上にいながら夢中で走っているのを見てください」「唯キリストの十字架を誇りとする姿に倣いなさい」と、訴えかけます。
主イエスを信じる人、キリスト者とは、自分が救って戴くほかないことを知っており、キリストの十字架の救いを必要とする人です。
自己完結した人は自分の世界に生きるのみですが、キリストを主、救い主としている人は20節、「わたしたちの本国は天にあります。」(20節)と言い表すことができます。
そのわたしたちの本国は天にあると言い表すことができる人たちの「目標」こそ、21節にありますように「主が御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。」その様なキリストの似姿とされてゆくということであります。
ヨハネ福音書14章6節で主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と、おっしゃいました。主イエスが父の神のもとに行く道であるというのです。
主は初めと終り、スタートとゴールにいらっしゃるだけでなく、その途上におられることは何よりも私たちにとって大きな恵み、支えであります。そうすれば「既にゴールに達した、完成した」とは到底言えません。しかしその不十分な弱い私に、私たちに主は生ける御言をもって伴走してくださるのです。
何とありがたいことでしょうか。
そう考えますと、「今ここ」「今この時」が大切なのです。
私たちも、自己完結の道ではなく、真理であり、命であるキリストの道を歩み通す者とされてまいりたいと願います。お祈りします。
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2025・6・22 主日礼拝式

2025-06-19 08:57:17 | 教会案内

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律法を守る方法は2つ、あなたはどちらを選びますか

2025-06-16 11:02:16 | メッセージ
聖書 フィリピ3章1-9節  堀端洋一(教会実習神学生)

 先週はペンテコステ礼拝でしたので、下川先生は使徒言行録から宣教されましたが、今日からまた、パウロがフィリピの信徒たちに送った「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙に戻りましょう。今日は3章の1節から11節の御言葉に深く耳を傾けていきましょう。
パウロがこの手紙を書いた当時、いや、そのもっと昔から、ユダヤの人々は律法を厳格に守ることが「神さまから恵みをいただく」唯一の方法だと信じていました。モーセを通して与えられた律法は、実に613もの戒めから成り立っていました。これは、私たちには想像もつかないほど細かく、生活のあらゆる側面を規定するものでした。食事、食べていいものといけないもの、安息日を守る事、休めるのは良い事だと思いますが、その日は麦の穂を一つ摘んでしまっても、律法違反、ということになってしまいます。他にも祭りや清めの儀式、礼拝の方法、隣人との関係に至るまで、一つ一つ、生活に関係することが決められており、この戒めを完璧に守ることによって「義」と認められると信じられていたのです。

この「義」という言葉は聖書によく出て来ますが、難しい言葉ですね、色々な意味がありますが、この場面では、簡単にいうと「人間が、神の前に正しいと認められること」を指します。実はパウロ自身も、この律法を完全に守るという方法で神様に認めてもらおうとしていた人物でした。しかもかなりの「優等生」だったのです。

さて、1節から見て行きましょう。喜びの書と言われるだけあって、最初から「喜びなさい」から始まっています。この言葉は何度も繰り返されますが、パウロにとってもまったく負担にならない、と言っています。よほどフィリピの人たちを深く愛していたのでしょう。そして「あなた方にとっては安全なことなのです。」と続けますが、ここが重要です。この頃のフィリピの教会には律法的な教え、つまり613もある律法を完全に守ることだけが、救いに至る道である、という考え方が入って来ようとしていました。ですから正しい教えを何度も聴くのは大変良いことだったのです。2節は、「あの犬どもに気をつけなさい」と大変厳しい言葉で始まっています。私は犬が好きなので悲しいのですが、ここでは野良犬、どんな肉でも噛み裂いてしまうものの象徴として使われているのでしょう。と申しますのも次にユダヤ教の「割礼」のことが書かれているからです。3節では「神の霊による礼拝」と「肉を頼みにしない」という言葉が出て来ますが「神の霊」または「霊的」という言葉は天から、神様から来るもの、「肉」というのは「人間的なあるいは自分勝手な思いや考え」という感じに区別すると良いでしょう。

4節以降はパウロの「証」になります。自分がどれだけ律法に従って歩んで来たか、ということが書かれています。彼は生まれて8日目に「割礼」を受けたイスラエルの民、つまりユダヤ教でいうと「神に選ばれた民」であると言い、信仰に関しては、ユダヤ教の中でも最も律法を守ることに厳しい「ファリサイ派」であったと言っています。そして、「ユダヤ教が正しい」という熱心さのあまり、キリストの教会を迫害していた、と告白しています。そして、「律法による義」つまり「行いについてよって神の前に正しい」と認められるならば、非難されるところのない者でした」であったと断言しています。これは当時のユダヤ教社会の基準から見れば、かなり高度なユダヤ教の信仰、また行動をしていたと思われますし、誰からも尊敬されるような存在だったと想定されます。
しかし、皆さん、少し考えてみてください。律法というのは「あれをしてはいけない、これはこうしなければならない」という戒めが613もあるのです。それもかなり細かいことまで書かれています。果たしてそんなものを完璧に守り切ることができる人がいるのでしょうか?例えば、安息日にちょっと仕事をしてしまった、とか、熱が出て起きれないので礼拝を休んだ、というようなことで、もうアウトなのです。律法を「完全に守った」とは言えないのです。
ですからどれほど熱心に努力しても、私たちの内には、罪の性質、傲慢な心や妬み、また怒り、楽をしたいと思う心など、律法を破る性質がたくさんあり、どれだけ努力しても、「完全に」というのは無理なのです。パウロは自分が「優等生」であったために、律法を完全に守り切ることは人間には不可能なことだ、と気づいたのではないでしょうか。
律法は、私たちの罪を明らかにしますが、その罪を根本から取り除く力は持っていません。むしろ、律法は私たちに、人間の努力だけでは決して「神の義」に達することができない、という絶望的な現実を突きつけるものです。いい子になろう、と思えば思うほど、自分はいい子じゃない、と思ってしまい、自分は本当に神様に認めてもらえるのだろうか?と不安になります。また律法を守っていない人を裁いてしまう、つまり非難する原因にもなっていたのではないでしょうか。
このような律法主義の重荷の中で、イエス様は画期的な教えを説かれました。マタイによる福音書22章37-40節の所ですが、ある律法の専門家が、「律法の中で、どの掟が最も重要ですか」とイエス様に尋ねたのです。それに対してイエス様はこのように答えられました。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な、第一の掟である。第二もこれと同様である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者の書は、この二つの掟に基づいている。」
イエス様は、613もの律法を、この二つの「愛の戒め」に要約されたのです。つまり、律法の真の目的は、詳細な規則を守ることそのものではなく、神様への愛と隣人への愛という、本当に大切な関係性の中にあるのですよ、ということですね。
またイエス様は、聖書の別の箇所で「律法を廃止するために来たのではなく、それを完成させるために来られた」と教えられました。律法が指し示していた真の義は、「人間の努力」によって達成されるものではなく、「神の愛」によって実現されるものでした。そして、その「神の愛」を最も顕著に示したのが、イエス様ご自身の十字架と復活だったのです。
ですから7節以降ではパウロは自分が正しいと思ってして来たことが、イエス様と出会うことによって、その考え方が180度変わり、自分にとって利益だった、と思っていたことが、実は「神の愛」という観点から見ると、「損失」であり、「屑」、ゴミですね。であったと告白しています。9節では、パウロは、自らの輝かしい律法遵守の経歴を振り返りながら、こう述べています。
「律法による自分の義ではなく、キリストが真実である、ということを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つためです。」
パウロは、かつて自分が誇りとしていた律法による「義」を、すべて「損」であり、「塵あくた」であるとまで言い切りました。なぜなら、必死で律法を守り続けてきたことは「主であるキリスト・イエスを知ることの絶大な価値」「恵み」に比べれば、全く意味をなさないものだったからです。
私たちが神の前に「義」と認められるのは、もはや私たちの努力や行いによるのではありません。613の律法を完璧に守ろうと努力しても、私たちは神の完璧な基準には到底達することができません。しかし、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架にかかり、律法の要求を完全に満たし、その身をもって罪の償いをしてくださいました。
そして私たちは、そんなイエス・キリストを「信じる」ことによって、「義」とされます。これは、私たちが何かを「行う」から与えられるものではなく、神が私たちに無償で「与えてくださる」贈り物です。「信仰義認」、信じることによって正しいと認められるということは、私たちからの努力ではなく、神様からの一方的な恵みによるものです。私たちがどれほど不完全であっても、キリストを信じる信仰によって、神様は私たちを「正しい者」と認め、「罪を赦し」、「御自分の子ども」としてくださるのです。これは「律法を守らなければならない」という重荷から私たちを解放する、まさに「福音」の核心ではないでしょうか。
では、律法主義から解放され、信仰によって義とされた私たちは、もう何をしても良いのでしょうか?いえ、決してそうではありません。
信仰義認は、私たちを律法の束縛から解放しますが、それは私たちを愛の完成へと導きます。
イエス様が律法を「神への愛と隣人への愛」に要約されたのは、私たちがキリストを信じて義とされたとき、私たちの心の中には、この二つの愛が宿ると信じていたからです。
1つ目の神への愛では私たちが、自分の努力では決して得られなかった救いを、ただキリストを信じる信仰によって得られたことを悟るとき、私たちの心には神への限りない感謝と愛が湧き上がってきます。この感謝は、律法を守ること以上の自発的な神への応答となります。私たちは、神の戒めを重荷として守るのではなく、神様への愛ゆえに、喜んで神の御心に従おうとするのです。
次に隣人への愛では、神様が私のような罪人を無償で愛し、義としてくださったならば、その愛を「私たちは隣人へと流し出さずにはいられない」はずです。私たちの義が、自分の力によるものではなく、神様の一方的な恵みによるものであることを深く理解する時、私たちは傲慢になることなく、むしろ謙遜な心で他者に仕え、赦し、愛することができるようになるのではないでしょうか。隣人を「自分自身のように愛する」ことは、もはや義務的な戒めではなく、神の愛に溢れた心からの自然な行いとなるのです。
信仰によって義とされた私たちは、もはや自分の救いのために「善行」、善い行いをする必要がありません。その代わりに、神様への感謝と、隣人への純粋な愛から、自然に善い行いを行うことができるのです。私たちは、律法によって縛られるのではなく、愛によって自由になった者として生きる道を与えられています。子どもが大人にあれしちゃだめ、こうしなさい、と命令されて生きる生き方ではなく、大人が自分の意志でこうしよう、と思えるようになるのです。これが、「律法の本当の目的がイエス・キリストによって成就された」ということの証しではないでしょうか。
ですから私たちは、この御言葉を通して、私たちの信仰の土台がどこにあるのかを改めて確認しなければならないのではないでしょうか。私たちの義は、果たして自分の努力や行い、あるいは血筋や地位にあるのでしょうか?それとも、ただイエス・キリストを信じる信仰にあるのでしょうか?
パウロのように、私たちもまた、この世的な価値観や、自分の力で積み上げたものを「屑」と見なし、イエス・キリストを得ることの絶大な価値を第一に置くべきではないでしょうか。そして、キリストによって与えられたこの無償の義を喜び、感謝に満たされ、その愛を具体的な行動として、神と隣人へと向けていこうではありませんか。
私たちは、律法を厳格に守る重荷から解放された者です。しかし、それは無秩序な生き方、何をしてもいいという生き方へと導くものではありません。むしろ、キリストの愛によって満たされ、神様を愛し、隣人を愛するという、最も美しい律法の完成へと導かれるものではないでしょうか。
また、今、世界では多くの戦争や紛争があります。最初の方で、「律法は人を裁く」守っていない人を非難するものであるので、そこには争いが起き、ひどくなれば戦争になります。しかし、イエス様が提案して下さった「神を愛すること」「人を愛すること」の二つであれば、例え完全に出来なくても争いにはならないのではないでしょうか。
イエス様がおっしゃった「私は律法を成就するために来た」というお言葉に、私たちはどちらの方法で答えますか?必死になって律法を守りますか?愛の力でそれを成し遂げようとしますか?私は、私たちの信仰生活が、神の恵みと愛に満たされ、真の義と隣人愛の実を結ぶものとなりますように願います。

お祈りいたします。
恵み深い父なる神様、
今日の御言葉を通して、私たちの目を再び主イエス・キリストに向けさせてくださったことを感謝いたします。私たちが自分の努力や行いによって義とされようとすることではなく、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる恵みを深く悟ることができますように。
613もの律法の重荷から私たちを解放し、神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという、二つの重要な戒めに律法を要約してくださったイエス様の御心を感謝いたします。
この無償の愛と恵みに応え、神への感謝と隣人への純粋な愛から、日々を生きていくことができますように。私たちの人生が、キリストの愛の証しとして輝くことができますように。
私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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