礼拝宣教 創世記50章15節~26節
9月は創世記からヨセフ物語の記事を読んできましたが、本日はその最終回となります。
先ほど朗読された50章の箇所から、聖書のメッセージを聞いていきたいと思います。
その前におさらいですが。イスラエル12部族の父となったヤコブは、その子ヨセフを溺愛します。ヨセフは兄弟とその父母までもが、自分にひれ伏し拝する夢を見て兄弟に話したために、兄弟からひどくねたまれ、穴に投げ込まれエジプトに売り渡されてしまいます。
奴隷となり、濡れ衣を着せられて囚人となるヨセフでしたが、どんなときも主が共におられることをヨセフは知っていました。
同じく囚人となっている王の料理役と給仕役の夢を解き明かしたことから、エジプトの王ファラオの前に出ることとなり、王の夢を解き明かして神の啓示を示し、為すべき備えを助言したことから、
ヨセフは王の任命によりエジプトの大臣となるのです。後に飢饉が起こりカナンの地から兄弟が糧を求めて下ってきます。様々ないきさつはありましたがヨセフは身を明かし兄弟を許し、父や家族を呼び寄せてエジプト近郊に住むところを与えるのです。
17年ほど経った後ヤコブは子らを呼び寄せそれぞれを祝福し天に召されます。
「ゆるしの再確認」
父ヤコブが亡くなると、ヨセフはカナンの地に葬られることを願っていた父の遺言を実行します。エジプトのファラオの許可を得て、エジプトの主だった重臣たちすべてとヨセフ家族全員、そして彼の兄弟たち、さらに戦車も騎兵も共にカナンの地に上っていくのです。そして一行はヨルダン川の東側のゴレン・アタドの地に着くと、エジプト流の非常に荘厳な葬儀、七日間にわたる盛大な追悼式が行われました。
こうしてヤコブの息子たちは、父のなきがらをカナンの土地に運び、父が生前に命じていたとおりマクベラの畑の洞窟の洞穴に葬るのです。ヨセフは父を葬った後、カナンの地にのぼった兄弟たちはじめ、すべての人たちと共にエジプトに戻りました。
父が死ぬとヨセフの兄たちは、ヨセフが自分たちに報復するかも知れないと恐れます。若き日に弟ヨセフを亡き者にしようとしたおぞましい仕業を、はたして本当にゆるしているのだろうか、そう考え恐ろしくなったのでしょう。確かに先週の45章で、ヨセフは兄たちに身を明かし、すべては神の救いのご計画であったと言って彼らを抱いて泣き、兄弟たちに口づけをし、ともに語り合ったとあります。まあ兄たちにとっては、ヨセフに対してそれだけの事をしたのですから、やはり罪責感があったでしょうし、それに加え、父の葬儀の時にはエジプトをバックに絶大な権力を持つヨセフを目の当たりにし、今後何をされるか分からないと不安が生じたのでしょう。
そこで、兄たちはヨセフが報復しないよう策を講じます。彼らは「父がヨセフに兄たちの罪をゆるしてやるように願っていた」と、人を介してヨセフに伝えさせるのです。
しかし父が兄たちの罪を知っていたかははっきりしていませんし、口にすることなどできなかっただろうと思えます。ヨセフもおそらくそれを見抜いていたのではないでしょうか。ただ、これを聞いたヨセフは涙を流します。いまだに兄たちが自分への恐れを抱いていることを知って、悲しく寂しい思いになったのです。
やがて、兄たちがやって来ます。彼らはヨセフの前にひれ伏し、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と、ゆるしを乞うのです。
すると、ヨセフは兄たちに言います。
「恐れることはありません。わたしが神に代わることができるでしょうか。」
「わたしが神に代わることができるでしょうか。」兄たちと再会した時、ヨセフは「あなたたちを生き永えさせ、大いなる救いに至らせるため神がわたしをここへ遣わされた。わたしを遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」そう言って、もはや「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」とゆるしの言葉をかけ、兄弟たちと抱擁しました。
ヨセフは神に代わって裁くことはできないとの思いに至っていたのです。
私たちの日常の生活においても、又この社会の出来事においても、時に憤り、それは一体どういうことだと怒り、人を裁くことがあります。けれど、すべてを知っているのは唯神のみ、神だけが全く正しい裁きをなすことがおできになるのです。
ヨセフの「わたしが神に代わることができるでしょうか。」この言葉は、神の前において人は真に謙虚にされ、柔和な者に創り変えられていくことを示しているのです。
兄たちはヨセフがエジプトの絶大な権威と力を保持する大臣であることにも脅威を感じましたが、
ヨセフは兄たちに「どうか恐れないでください」と、等身で語りかけています。上から目線ではなく自分も兄たちと同じ人間に過ぎないことをはっきり伝えるのです。
ヨセフはまた、兄たちにこう言います。20節「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」
隠れた神の救いのご計画が、それらの出来事を通して実現されて来たのだと言うのです。
ヨセフは自分の見た夢を兄たちに話したことで、恨みと憎しみを兄たちから受け、その悪巧みによってエジプトに売られてしまい、本当に様々な労苦と辛い経験をしました。もしそうした事がなく彼が父のもとにいたなら、彼の若き日は平穏であったかも知れません。しかし彼は外に投げ出され幾多の試練とも言える出来事に翻弄されながらも、遂には神の救いの業が父ヤコブと兄弟、その家族らのうえに実現されていく経験をするのです。
ヨセフはこれまでの人生を振返るとき、それが決して偶然ではなく、悪しきことをも良きものに変えてくださる、まさに万事を益と変えてくださる神のご計画があることを知ります。その救の計画が成るためにどんなときもヨセフと共に神がお働きくださったことを、ヨセフは確認することができたのです。まさにすべては神が、多くの滅びゆく民の命を救われるためのものであったのです。
ヨセフの時代からずっと後の時代のこと、エジプトを出て神の民とされ国を築いたヤコブの子孫は繁栄のおごりから、バビロンに滅ぼされ捕囚の民となってしまいます。絶望する彼らに神は預言者エレミヤをお遣わしになります。
「主はこう言われる。バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(29:10-11)
彼らはこの約束を握りしめ生きていくのです。主が共におられる。これが私たちの希望です。時に過酷とも思える状況に直面することがあるかも知れません。しかし「わたしはあなたたちのために立てた計画をよく心にとめている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」この主の壮大な救いのご計画に信頼してまいりましょう。
さて、本日のもう一つの記事は、「ヨセフの死」についてです。
その後、ヨセフは父の家族と共にエジプトに住み、110歳まで生きます。110歳はエジプト人の理想的な寿命であったようで、彼は3代の子孫を見ることができ、長寿を全うしました。その後ミイラにされてエジプトの地で埋葬されたようです。
ヨセフは死を前にして、まず、彼の兄弟たちに「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」という希望の言葉を伝えます。
さらに、ヨセフは兄弟の息子たちにこう言って誓わせました。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」
そこは先にヤコブが葬られたカナン地方のマクベラの畑にある洞穴の墓地でした。ヨセフとその兄弟たちの子孫らはそのヨセフの遺言通り、後にヨセフの骨を携えてエジプトからカナンの嗣業の地へと上り(出エジプト記13:19)、かの墓地に埋骨するのです。(ヨシュア記24:32)
父ヤコブがそうであったように、ヨセフにとっても真の休息の場、魂の居場所はエジプトにではなく、神の嗣業の地、神の約束の地であったのです。言わば、エジプトの総理大臣にまで上りつめたヨセフでしたが、その人生の集大成として兄弟たちと共に、自分たちは何者であるのかを再確認するのです。「神は必ず、あなたたちを顧みてくださり、導き上られる。」
神のご計画はこれで終わりではなく、続いていくのです。それは確かなる祝福のメッセージであります。
その神のご計画の祝福は彼らの子孫を通して持ち運ばれ、遂にそこから神の救い、イエス・キリストがおいでになったのです。この主イエス・キリストの十字架の苦難とあがないの死によって、今やすべての人に罪のゆるしと神との和解という救いの道が開かれているのです。それだけではありません。主イエス・キリストが3日目に死人の中からよみがえられた、その復活によって、主を信じる人、それは又、先ほどの交読文において「慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。主は主を畏れる人を憐れんでくださる」とありましたように、主を畏れて生きる人に永久(とこしえ)までも共におられる永遠の命の福音、朽ちることのない天の故郷を備えていてくださるのであります。
ヨセフが兄弟たち、又兄弟たちの子孫に伝えた「神は必ずあなたたちを顧みてくださる。」神は必ず導き昇ってくださるというメッセージは、主イエス・キリストを通して時空を超えて今や世界の果てにまで告げ広められ、今日の私たちのもとにも届き実現されているのです。この朽ちることのない希望に感謝しつつ、私たちも受け継いだ福音を伝え、分かち合っていく者とされてまいりましょう。
礼拝宣教 創世記44章18節~45章8節
先週の41章はイスラエルの族長ヤコブの11番目の子ヨセフが兄たちに棄てられ、行き着いたエジプトの地でエジプトの王、ファラオの夢を解いた箇所でしたが。それは7年の大豊作後、7年の大飢饉が起こるという神の託宣であり、そのための対応まで王に助言します。そしてヨセフはエジプトの第二の地位である大臣に任命され、務めることになります。大飢饉はエジプトだけでなくカナン地方にも及びます。エジプトに穀物を買い求めに出かけた兄たちは、穀物を管理販売する監督、総理であったヨセフにお目通りが叶うのです。
彼らはヨセフにひれ伏しました。ヨセフは一目でそれが自分の兄たちであることに気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフはその時、かつて兄たちについて見た夢、「兄たちの束が集まって来て、わたしの束にひれふした」(37:7)ことを思い起こし、それが目の前で現実となっているのです。その時から20年もの年月が経過していました。
ところが、ヨセフはその兄たちに対して「他国のスパイだ」言って責め立てます。あせった兄たちは「自分たちが12人の兄弟で、カナン地方に父ヤコブの息子たちであり、末の弟は、今、父のもとにおります。スパイなどではありません」とヨセフに懸命に説明します。しかしヨセフはその兄たちを3日間監禁し、一人シメオンだけを人質にして、穀物を持たせて末の弟を連れて来るように命じます。それはヨセフにとって同じ母の子、弟ベニヤミンでありました。
さて、兄たちは食糧をもってカナンの地に戻り、父ヤコブに事の次第を伝えるのですが。ヤコブはベニヤミンをエジプトに連れて行くことを許しません。しかし、その後も飢饉は続いて兄たちは再び一家食糧をエジプトに求めるほかなくなり、ベニヤミンをエジプトに連れて行かなければならない事情を父ヤコブに話します。すると父ヤコブは「では、弟を連れて、早速その人のところへ戻りなさい。どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐みを施し、もう一人の兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子供を失わなければならないのなら、失ってもよい」と、断腸の思いで答えます。こうして息子たちは贈り物と二倍の銀を用意し、ベニヤミンを連れてエジプトに旅立ちます。
彼らがエジプトに着くと、大臣ヨセフの前で地にひれ伏し、拝しました。ヨセフは以前ユダが話していた彼らの父について安否を尋ねてから、ベニヤミンをじっと見つめ、「わたしの子よ、神の恵みがお前にあるように」と言うと、弟懐かしさに胸が熱くなり、涙がこぼれそうになったので、奥の部屋に入って泣きます。そして一同はぶどう酒を飲み、ヨセフとともに祝宴を楽しみました。
ところが、そのヨセフが兄たち一行に思いもよらない過酷な難題を仕掛けるのです。それが44章の「銀の杯」事件です。ヨセフは執事に「あの人たちの袋を、運べる限り多くの食糧でいっぱいにし、めいめいの銀をそれぞれの袋にもどしておけ、それから、わたしの銀の杯を、いちばん年下の者の袋の口に、食糧と一緒に入れておきなさい」と命じます。兄弟一行が発った後、ヨセフはその執事に、すぐに彼らの後を追いかけさせ、なぜ主人の銀の杯を盗んだのか、と言わせます。
兄たちは「どうしてご主人様の御厚意を戴いたわたしたちがそのようなことができるでしょうか。僕どもの中のだれからでも杯が見つかれば、その者は死罪に、ほかのわたしどもも皆、ご主人様の奴隷になります。」と言うのですが、ベニヤミンの袋の中からその銀の杯が見つかります。彼らは衣を引き裂き、悲嘆に暮れながら町へ引き返し、ヨセフの前で地にひれ伏します。
ヨセフが「お前たちの仕業は何事か」と問いただすと、ユダが答えます。「何と申し開きできましょう。今さらどう言えば、わたしどもの身の証しを立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」
それに対してヨセフは「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」と言うのです。
そこからが本日読まれた44章18節以降の箇所であります。
これまでヨセフの物語を読んでまいりましたが、その展開のすべては、今日のこの「ユダの嘆願」と、それに呼応する「ヨセフの言葉」に向けられるためにあったと言っても過言ではないでしょう。
ユダがここでヨセフの前に進み出て、18節「僕の申し上げますことに耳を傾けてください」の「申し上げます」はヘブライ語で「ダバール」という原語で、「宣言する」という意味をもちます。
創世記の天地創造の折、神が光あれ、~あれと「宣言」されると、そのとおりになった。それと同じ意味です。
ユダは私がこの様なことを行った、それゆえにこの様なことになっているのだ、と言うのですが。ただそれだけなら原因と結果という因果応報です。けれど聖書は、これらすべてが神の宣言のもと成っているのだ、と示しているのです。はじめにヨセフが夢で示されたように兄弟がヨセフにひれ伏している様子も、そこから起こされていく救いの出来事も、この神の宣言のもと、そのとおりに成っている、と聖書は伝えているのです。
ところで、ここでユダの置かれている状況は、20年前と全く同じです。当時17歳のヨセフが兄たちからあの荒れ野の深い穴へ落とされ、ヨセフの人生は大きく変えられてしまいました。それはヨセフを溺愛する父ヤコブの人生もそうでした。
それから20年後、今度はヨセフと同じ母から生まれた弟ベニヤミンの人生が、ユダら兄たちの手に握られているのです。ユダらはあの時のヨセフ同様、ベニヤミンを見捨てて父のいるカナン地方に帰ることも出来ました。20年前に自分たちが犯したことと同じように、帰って父に「弟はやむを得ない事情で失われました」と言うこともできたのです。このようにユダら兄たちは、20年前と同じ立場に再び立たされるのです。
しかしユダは以前とは違っていました。彼はヨセフに言います。30節「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところに帰れば、父の魂はこの子と堅く結ばれていますから、この子のいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府(よみ)に下らせることになるのです。」
ユダは、父ヤコブが以前愛するヨセフを失ない、その嘆き悲しむ様子を目の当たりにして大変心責められたことでしょう。父ヤコブは今、末息子ベニヤミンを慰めとしており、そのベニヤミンまで失うとなればどうなることか。「二度と父を悲しませてはならない」と苦悩します。そして彼は「ベニヤミンの代わりに自分が奴隷になります」とまでヨセフに申し出るのです。あの20年前、ヨセフを奴隷に売ろうと最初に言い出したのは、このユダ本人でした。その彼が今、ベニヤミンの身代わりになって自分が奴隷になると決意するのです。何が彼をそこまで変えたのでしょうか?
それは「悔い改め」です。ユダは20年前に弟ヨセフに対して犯した罪、その重荷を背負い続けてきました。彼は心から神さまの前で悔い改めていたのです。
このユダの変化は単なる状況の変化とか自然に起ったことではありません。年をとって少しは分別がついた、などということでもありません。人間の本質はそんなに簡単に変わるものではありません。罪ある人間が、それまでとは違う言葉を語り、それまでとは違う人間性、又人間関係を築いていくことができるとするなら、それは神の前に立ち返る、そのことによってなのです。それは単なる後悔ではありません。神に向き直り、本心から神に立ち返って新しく歩み始めることです。
本日の礼拝の招詞として先にコリント二7章10節が読まれました。
「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」
ユダはまさに、この「神の御心に適った悲しみ、救いに通じる悔い改め、回心を経験するのです。
さて、このユダの言葉を聞いたヨセフは、父の家のことを思い出したことでしょう。兄弟、又父母らが自分にひれ伏す夢を見たこと。それを口にしたため兄たちに棄てられたこと。そして兄たちの神の前における悔い改めの思い。ヨセフは神の摂理ともいえる出来事に「心が震える思いでもはや平静を装っていることができなくなり」、兄たちに2節「自分の身を明かし、声をあげて泣いた」とあります。
ヨセフは兄たちがかつて犯した罪の負い目、その痛みと苦しみから解放されずにそれを負い続けていること。又、父や弟をもう二度と悲しませ、辛い思いをさせるようなことはできないというユダの願いに心打たれたのでしょう。そして遂に、ヨセフは兄たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」と、自分の身を明かにしました。彼は単に「弟のヨセフです」というのではなく、「あなたたちがエジプトへ売ったヨセフです」と名乗りました。そのうえで自分の身に起こったことを口にします。
これはヨセフにとっては動かしようのない事実でした。ヨセフもまた20年前に受けた事実を忘れることはありませんでした。両者にとってそれは決してうやむやにできることではなかったのです。
新約聖書には、イエスさまが「あなたの敵を愛しなさい」とおっしゃっていますが。私たちはたとえ血のつながった家族や、又兄弟同士であっても、こんなことをされた、あんなことを言われたなどと、なかなか許すことができないことがあります。また些細なことに目くじらを立て、そのことに振り回されることの方が多い者でもあります。人のもつ憎しみや恨みとは恐いもので、10年経っても、20年経っても忘れないで、とうとう墓場までもっていくということもあるわけです。ヨセフにとっても、無かったことになどできやしなかったのです。
しかし、ヨセフは兄たちに対して、5節「今は、わたしをここへ売ったことを悔んだり、責め合ったりする必要はありません。」と、救い、ゆるしの言葉を語るのです。
ヨセフは自分がエジプトに売り飛ばされたことを「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになった」「神が大いなる救いに至らせるためであった」「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と、自分の苦労や身に起こった試練は、すべて「神」からの出来事だと、確信をもって語るのです。
あの兄たちに穴に投げ入れられ、エジプトに売り飛ばされ、濡れ衣を着せられ、牢屋に入れられたことで不思議にもファラオの夢を解き明かしてエジプトの大臣になったこと。さらに、このようなかたちで20年も遠く離れて生活していた兄たちと再会して、その悔い改めの思いを聞いたこと。
それらすべては「神のご計画」であったというのです。そしてこの神のご計画の目的は、ヨセフの言葉によれば、5節「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先に遣わされた。」7節「この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるため」であった、と言うのです。これこそヨセフの口を通して語られた宣言、ダバール。神が夢をもって示されていたことが、このような出来事となったという宣言です。
このヨセフの言葉は、兄たちへの単なるゆるしや労わりの言葉ではありません。それはまさに、「神」がヨセフを通して「兄たちの命が救われ、兄たちに神との和解をもたらされ、後の世代に神の祝福、大いなる救いを得させるようになさる」、神のご計画とそのお働きを物語るものだったのです。
私たちもまた、あらゆる出来事や人間関係の中に、これは神さまとしか言いようのないご計画やお働きに気づかされることがあるのではないでしょうか。それを今日のヨセフの物語から聞くことが出来ます。命を救う神は、ヨセフを通してその父母、兄弟たちに、生きるための糧をお与えになりました。又、エジプトの周辺諸国もその糧に与ることになります。人間は食糧によって生きます。けれども、申命記には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主(神)の口から出るすべての言葉によって生きるのである。」(申命記8:4)とあります。神の口から出る命のパン、神の言葉によって人は真に生きることができるのです。
その命の糧、生ける御言葉は人となって世に現れ、私たちのもとにお出でくださいました。すべての人の救い、主イエス・キリストです。主は地上において苦難を受けられましたが、死に勝利されてよみがえられ、全世界のメシヤ、救い主となられたのです。
神は罪や恨み憎しみに滅びゆくわたしたち人間を、二コリント5章19節「キリストによって御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられているのです。」
本日は宣教題を「救いに通じる悔い改めと和解の言葉」とつけました。神のご計画の中で、兄ユダの救いに通じる悔い改めとヨセフの和解の言葉によりもたらされた救いと平和、シャローム。それは今や、主イエス・キリストを通して、私たち、この世界にダバール、宣言されています。
私たちもまた、主なる神さまの呼びかけに聞き、応えて生きる、救いと平和の道を主と共に歩みゆく者とされてまいりましょう。
礼拝宣教 創世記41章1-57節
先週の37章後、ヨセフはエジプトの地でファラオの宮廷の侍従長であったポティファルの奴隷となります。ヨセフはその家と主人に忠実に仕えました。ポティファルはヨセフに目をかけ、身近に仕えさせるだけでなく、家の管理やすべての財産をヨセフに任せました。それはヨセフに能力があったからだと書かれていません。ポティファルは「主がヨセフと共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計られるのを見たからだ」と書かれています。
そんなヨセフにまた大きな試練が訪れます。39章ですが。「顔も美しく、体つきも優れていた」ヨセフをポティファルの妻が自分の意のままにしようと執拗に誘惑するのです。ヨセフは「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」と、拒否しました。
ポティファルの妻のゆがんだ愛は恨みとなり、彼女は家の者たちを呼び寄せて「わたしはあのヘブライ人からいたずらをされた。わたしが大声で叫んだのを聞いて、着物をわたしの傍らに残したまま、外へ逃げて行きました」と、ヨセフに濡れ衣を着せるのです。それを聞いたポティファルは妻の言葉を鵜呑みに信じ、ヨセフは収監される事態になるのです。
その後ヨセフが収監されていた牢獄に、エジプトの王ファラオに対して過ちを犯したとされる給仕役と料理役が入ってきます。40章ですが。給仕役と料理役は牢獄で同じ夜に不思議な夢を見て、何のことかと悩むのです。そこでヨセフが解き明かすことになります。それは給仕役には解放の知らせ、料理役には厳しい裁きの知らせでした。
ヨセフは解放されるであろうことを知らせた給仕役に、「あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取りはからってください」と約束を取りつけます。その3日後、給仕役はヨセフの解き明かしたとおり無罪放免となり、元の職務に復帰が叶います。ところが給仕役はヨセフのことをすっかり忘れてしまうのです。
それから2年経ったある日、エジプトの王「ファラオは夢を見た」のです。それが41章です。
ファラオはこの夢のことでひどく心が騒ぎました。彼はエジプト中の魔術師と賢者をすべて呼び集めて自分の夢を話しますが、だれも解き明かすことができません。
そうした時、ファラオの夢のことを知ったあの給仕役がすっかり忘れていたヨセフのことを思い出します。
彼はファラオに、自分の夢を解き明かしてくれたヨセフのことを話しました。こうしてヨセフはエジプトの王、ファラオの前に出ることになります。
ファラオはヨセフに、「わたしは夢を見たが、それを解き明かす者がいない。聞くところによれば、お前は夢の話を聞いて、解き明かすことができるそうだが」と尋ねると、ヨセフは41章16節「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と、そう答えます。
投獄された奴隷のヨセフはエジプト最高の権力者ファラオに向け、絶対的権威者の「神がファラオの幸いについて告げる」と、臆することなく告げるのです。
ちなみに、この「幸い」と訳されている原語はヘブライ語で「シャローム」(平安・平和)であります。それはファラオ自身が抱えていた大きな不安や恐れ、激しい苦痛の解決が「神」によって明らかにされる、神がファラオの平安について告げられる、ということです。
ヨセフがこのようにファラオを前に堂々と言うことができたのは、彼自身が幾多の苦境を経験しても、なお共におられる神を待ち望み、共におられる神に依り頼んでいく人であったからでありましょう。どんなときにも神がヨセフのシャローム、平和・平安であったからです。だから、たとえ王であるファラオに対しても、神の幸い、シャロームを大胆に告げることが出来たのでありましょう。
さて、そうしてヨセフはファラオの見た2つの夢について、それは間もなく神がそれを実行されようとしておられる事をファラオに伝えます。
「7頭のよく育った雌牛と7つのよく実った穂は、7年の大豊作を意味し、7頭のやせた、醜い雌牛と東風で干からびた7つの穂は、7年間の飢饉を意味します。その後の7年続くその飢饉はひどいものであるため、最初の7年の大豊作のことを思い出せないほど、全く忘れてしまうものだ」と、解き明かします。ちなみに、エジプト南部で発見された文献には、BC2600年頃に数年間の豊作があった後、7年間の飢饉が訪れたという記録が実際に残っているとのことです。
けれど、ヨセフの夢解きは、それだけで終わりません。
ヨセフはファラオに、「これらすべては神がすでに決定しておられること」「神がこれからなさろうとしている」事であると、実に3度に亘って告げています。
それはつまり、神が必ずなさるのだから、ファラオもなすべきことをなさなければならない、ということを言わんとしているのです。具体的には41章34節以降にあるとおり、「豊作の7年の間、エジプトの国の産物の5分の1を徴収し、備蓄として保管すること」でした。それがやがて訪れる7年の飢饉によって国が滅びることがない手立てになるというのです。
ヨセフは王であるファラオにその夢の解釈だけでなく、エジプトの国の危機的な状況を前にして、知らせておられるシャローム、平安を語ったのです。たとえ大飢饉が訪れたとしても、それに対応した生き方、備えによって、国難を救うことができる道が用意されている。そのような幸いの道、シャロームの道を、神はヨセフを通して示されているのです。さらに、この事がエジプト周辺諸国の人たちにとっても食糧の備蓄拠点となり、エジプトだけでなくその周辺諸国に住む人々をも飢餓から救うことになっていくのです。
さて、ここからが先ほど読んでいただいた箇所ですが。これらのヨセフの言葉に、「ファラオの家来たちは皆、感心した」とあります。そしてファラオはヨセフを「神の霊が宿っている人」と呼びます。その霊とは、天地万物の創造をなさった「神」の霊であります。さらにフェラオは家来たちに、「このように神の霊が宿っている人がほかにあるだろうか」「神がそういうことをみな示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は、ほかにいないであろう」と言っています。
それは実に当時のすべてのエジプト人がひっくり返るような発言なのです。なぜならエジプトは太陽神や月を崇拝しているのに、ここでファラオが口にした「神」は、聖書の天地万物の創造主の神です。ファラオはヨセフのうちにお働きになる万物を統べおさめたもう神の霊を見たのでありましょう。
新約聖書のヨハネ福音書19章には、イエスさまが十字架に磔にされるにあたり、ローマの総督ポンテオピラトから尋問を受ける記事がありますが。
そこでピラトはイエスさまに、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言います。それに対してイエスさまは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」と、堂々とお答えになられるのです。
ピラトは「自分が権限をもっているのだぞ」と言うわけですが、イエスさまは「その権限は神がお与えになったものであって、そうじゃなかったなら、このことに対して何の権限もない」とおっしゃっているのです。ピラトにせよファラオにせよ、地上の王や統治者は、すべての権威は天地創造の万物を統べ治めたもう主なる神にあるということを知らなければならないのです。地上のすべての国々の為政者、指導者がこの天地万物の創造したもう神を知り、神への畏れをもってその職務にあたることができますようにと、祈ります。
さて、ファラオはそのヨセフの提案に基づき、聡明で知恵あるヨセフをエジプト全土を治める指導者として立て、彼に自分の指輪をはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の首飾りをかけます。そして、自分の第2の車に乗せて、民を彼の前で敬礼させるのです。
ファラオはさらに、ヨセフにツァフェナト・パネアというエジプト名を与え、オンの祭司ポティ・ファラの娘アセナトを妻として与えた、とあります。
この時、ヨセフは30歳であったといいますから、つまりエジプトに売られてから13年もの歳月が流れていたのです。彼はその間、奴隷として、囚人として辛く過酷な時をずっと過ごしてきました。しかし遂には、エジプト全土を治めるいわばエジプトの王に次ぐ総理大臣(首相)という地位に就くのであります。一方で、ヨセフはエジプトの名に改名され、エジプト人として生きていくことになるのです。イスラエル(ヤコブ)の子であったヨセフの心にはきっと複雑な思いが交差していたことでしょう。
まず、エジプトの総理大臣の高位に就いたヨセフが最初になしたことは、エジプト中の町々を自ら足を運んで廻ることでした。そうして豊作の7年の間、エジプトの国中の食糧をできるかぎり町々に蓄えさせます。
49節「ヨセフは、海辺の砂ほども多くの穀物を蓄え、ついに量りきれなくなったので、量るのをやめた」と書かれています。そのように、ヨセフがファラオに提案したとおりのことが7年にも及ぶ政策実践に移した中で整えられていくのです。
私たちもまた、人生、その生活の中でビジョンを与えられることがあるでしょう。又、それが夢であれ、困難に対する克服であれ、祈りのリストを作って、祈り求めながら、主に望みをおきながら日々生活していくことは大事です。そのように神のシャロームに与る者とされたいですね。
ところで、聖書は「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」と記しています。
長男の名はマナセで、ヘブライ語で「忘れさせる」という意味をもつ名です。「神がわたしの苦労と父の家でのことをすべて忘れさせてくださった」ということを表わす名です。
これは、ヨセフが兄たちの恨みと憎しみを買って苦しんだ事、それが元でエジプトに売られて奴隷の身となった事、ぬれ衣を着せられ囚人の身とされた事、その13年にも及ぶすべての苦しみや辛さを「神は忘れ去らせてくださった」と、万感の思いを込めて最初の子を「マナセ」と名付けたのですね。
ヨセフは次男の名はエフライムと名付けます。ヘブライ語で「増やす」という意味があります。
「神はこの異教の地、苦しみの地において子孫を増し加えて下さった」と、神をほめたたえているのです。
注目すべきは、ヨセフが二人の息子の名前をエジプト名ではなく、ヘブライ語名にしたということです。それは信仰の父祖アブラハム、そしてイサク、さらに父ヤコブ、すなわちイスラエルの神の祝福を受け継ぐ者としての信仰をエジプトにおいてしっかり保っていたことを表わしています。
それは決して忘れるわけにはいかないヨセフのアイデンティティー、存在意義といえるものだからです。辛い過去を忘れさせてくれる新しい人生。しかしその一方で、決して忘れてはいけない主なる神の祝福を受けている者としてのアイデンティティー。それを2人の子の名に読みとることがで
きます。
興味深いのは、そのマナセとエフライムの母親はエジプト人であり、それもエジプトの太陽神の祭司オンの家系であったということです。異邦の国の神々は、天地万物の創造主のご支配の下にあります。異教の国と民も又、この主なる神のものであり、御手のうちにおかれているのです。
さて、ヨセフが解き明かした通り、7年の豊作が終ると7年の飢饉が起りました。それはエジプトの国はもとより、周辺のすべての国にまで及ぶ非常に大規模で深刻なものとなり、ヨセフの故郷であるヤコブの家族たちが住むカナンの地にまで、その飢饉は及びます。
豊作時に蓄えられていた食糧庫は開放されてエジプトの人々はひどい飢饉から守られます。それだけではなく、エジプト周辺諸国、中東諸国からも人々が穀物を買いにエジプトにやって来るようになるのです。
神さまからの夢による啓示と解き明かし、聡明さと知恵による働きによって、豊作の7年の間に計画的に食糧を豊かに備蓄していたことが、こうした大規模な災害といえる飢饉の時に、ゆたかに活かされることになるのです。しかしこれらすべては、38節、ファラオ自ら語っているように「神の霊」のなせる業なのです。
ひるがえって、わが国の穀物自給率について5年前に発表されたデータによりますと、過去最低の37%ということでした。最低の自給率でした。残り63%は輸入に依存することでまかなうことができているということであります。現在(38%)もほぼ変らない状況であります
世界各地で温暖化、気候変動による集中豪雨、山火事、巨大台風などの様々な災害が多発しています。日本においても、計画的に農業を保護していかなければ、農産物を育てる土壌もやせ細り、後継者も育たず、日本の食糧の生産量もその倉もやがて朽ちていき、貿易さえできなくなるような事態が生じたら、私たちの食生活に大きな支障をきたし、ひいては死活問題となり得ます。漁業や畜産業においても同様でありましょう。自然災害が頻繁に起っている今日の時代において、神がお造りになった自然、いのち、人としての営みが、平安で、平和であり続けるために必要な対策と計画的実行が、急務であるといえます。
「神の霊」なるお方の計らいと働きを祈り、神を畏れ、共に生きる道を進んでいくようにと、聖書は私たちに語りかけています。
本日は「神を待ち望む人に備えられた計画」と題をつけました。
ヨセフは政治的指導者としてたけていたことが読み取れます。しかしヨセフがそのように行動できたのは、彼のうちに「神の霊」が宿っていたからです。それは彼がいつもどのような時も、神を待ち望む人として、神を畏れ、信頼と望みをもって生きていたからです。そこに備えられた神のご計画が実現されていくのです。
私たちも又、すべてを司っておられる神のご計画の中で、神に望みをおき、神に用いられ、生かされていく人生を歩んでまいりたいものです。
礼拝宣教 創世記37章1-36節
今月はヨセフ物語を読んでいく予定です。このヨセフ物語は創世記の37章~50章迄を占め文学的にも大変優れております。本日の1章には「ヤコブの家族」にまつわる出来事が記されています。
ヤコブにはレアとラケルの2人の妻がおりました。レアとの間に、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルンの5人の息子が与えられました。一方のラケルは子どもができなくて召使いであったジルバをヤコブに与えて、ガドとナフタリの2人の息子を得ます。レアも負けん気が強かったのか、召使いのビルハをヤコブに与えて、ダンとナフタリをさらに得ます。そして、子どもができなかったラケルはヤコブの間に待望の男の子ヨセフが生まれ、さらに高齢になったラケルはベニヤミンを産むのです。
ヤコブは年寄り子でラケルの初めての子ヨセフを溺愛します。上の兄たちとヨセフとの年齢はずいぶん離れていたかが想像できます。よほど可愛かったのでしょう。ヨセフにだけ「袖の長い晴れ着を作ってやった」のです。
兄たちにしてみれば、「自分たちはお父さんの羊の世話をするためにぼろ着しかつけていないのに、なんでまだ働きもしないこの弟だけはこんな立派な着物なんだ」と不満をいいたくなるのもわかる気がします。その根底には家庭環境の中で、兄たちそれぞれが「もっと自分を認めてほしい。私のこともちゃんと見てほしい」という父の愛情への渇きがあったのでありましょう。不満を持ち苦悩する兄たちは素直になれず、弟を強く妬んだのです。信仰の祖である家族でさえそうだったのです。
私たちも人の好き嫌いはあるでしょう。又、力関係が働くこともあるでしょう。相性が良い悪いもあるでしょう。ただそういう時、感情に流されるまま悪く言ったり、それがどういう影響を与えるかお構いなしの言動をしてしまうと、関係は崩れてしまいます。やはりそこに相手の気持ちを思いやる想像力ってほんとうに大切です。家庭であれ職場であれ、教会でありましても、互いのことを思いやり、互いを尊重し、足を洗い合う気持ちで接していくようにと招かれています。
さて、ヨセフの兄たちは不満を直接父に向けるのではなく、ヨセフに向かいうらみしました。父に訴える勇気がなかったのか分かりませんが。そういった兄たちのもやもやとした気持ちをさらに炎上させたのは、ヨセフ自身でもありました。
それはヨセフが兄たちに天真爛漫に語った2つの夢です。
7節「畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」
それを聞いた兄たちはヨセフに、「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するのか」と言って、夢とその言葉のためにヨセフを激しく憎むのです。兄たちのねたみと憎しみは、遂に殺意にまでエスカレートします。「ねたみ」は、人をうらやむ、うらやましく思うことから生じます。それがエスカレートすると殺意にまで及ぶのです。恐ろしい事です。
ヨセフは又、別の夢を見て、9節「太陽と月と11の星がわたしにひれ伏した」と言います。
それは、ヨセフの父ヤコブと母ラケルまでもがヨセフを拝むというものでした。これには父ヤコブも「一体どういうことだ、お前が見た夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか」と、ヨセフをいさめます。いくら溺愛の息子でも自分を拝まれる対象にするなど許されることではなかったからです。
その上で、聖書は「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた」(11節)と、伝えるのです。
この「心に留める」と同様のことが新約聖書にも出てまいります。クリスマスのキリスト誕生の折、天使のお告げを受けた羊飼いたちがベツレヘムの家畜小屋を訪れますが。(ルカ2章)羊飼いたちはそれを人々に知らせると、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。この「心に納めて、思い巡らした」が、ヤコブがヨセフの言葉を「心に留めた」という事と同じ意味なのです。
それは、今すべてそのまま受けとめる事ができなくても、何度も繰り返し重ねて思う。牛が一度口に入れた牧草を胃袋に入れてはまた口に戻して、それを何度も繰り返し反芻(はんすう)して体内に摂り入れていくように。ヤコブもまたマリア同様、神のご計画とお働きと思われる出来事やその言葉を心に留め、反芻していくのであります。
この事は私たちの信仰にも大事なことです。週ごとの礼拝の宣教の言葉や祈祷会でみ言葉に聴き、学び、又、一日一日の聖書日課のみ言葉と黙想、祈りを通して、主が語りかけて下さいます。それを何度も反芻するように心に留め、思い巡らしていく。その時にはわからなくとも、やがてそのみ言葉を体験的に知って、主が生きておられることが確信できるように導かれます。
ヘブライ書11章1節以降に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められたのです」とありますように、今を生きる私たちも、信仰におけるこうした確信と確信を得、日々を保っていきましょう。
さて、その父ヤコブですが。ヨセフに「シケムで羊の群を飼っている兄たちのところへお前を遣わしたいのだが」ともちかけます。まあヘブロンの谷からシケムまでは北に77キロもあり、山や坂、谷などあり、険しく危険な道でもあったようですが。ヨセフは「はい、わかりました」とすぐに承知します。ヨセフにとっては親子関係、兄弟関係は何のわだかまりもなかったようです。
次いでヤコブも、「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」と言うのですが。その言葉からも、ヤコブが他の兄息子たちのことを心にかけ、大切に思っていた様子が伝わってきます。ヤコブは確かにヨセフを可愛がっていましたが、どの子も大切なこどもに違いなかったのです。
ちなみにこの「無事かどうかを見届けて」の「無事」は、シャローム(平和・平安)という言葉が用いられています。普通なら安全か、何事もないかを尋ねるでしょうが。ヤコブは「兄弟たちが平和であるか。お互い平安であるか。」それを心にかけ、見とどけて様子を知らせてほしいと言うのです。
先にも申しましたように、ヤコブの家族関係は2人の妻とそれぞれのそばめ2人、そしてその子どもたちというのでありますから、彼らが成長してからことさら父ヤコブは家族の平和、兄弟間のシャロームを心から願っていたということでしょう。
ヨセフは父の思いをくみ、自らも兄たちとの平和・平安を願いつつ出かけて行きます。こうしてヨセフは長く険しい道のりを経て、兄たちがいるシケムに辿り着きます。しかし、ヨセフは兄たちがドタンに行こうといっていた事を人から聞くと、さらに北に25キロも先のドタンの地に向います。
一方、「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めます。」(18節)
彼らは父やヨセフの思いも知らず、近づいて来るヨセフを何と、殺してしまおうとたくらみ相談するのです。いや、恐ろしいですね。妬みがうらみ、さらに憎悪となり、のけ者扱いが遂に殺意にまで及んでしまうのです。
しかし、長男のルベンだけはヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったようです。彼は「命まで取るのはよそう」(21節)「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない」(22節)と弟たちに訴え、ヨセフは殺されることはなく、命だけは守られるのです。けれども、兄たちはヨセフが着ていた裾の長い晴れ着をはぎ取り、捕えてヨセフを荒れ野の穴に投げ込みました。
そこへ荒れ野を通りかかったミディアン人がヨセフを穴から引き上げると、そこを通りかかったイシュマエル人に銀20枚で売り、ヨセフはイシュマエル人にエジプトへ連れていかれてしまうのです。
この空の穴の第1発見者は長男のルベンでした。早くヨセフを穴から助け出して父のもとへ帰そうと考えて走って行ったのでしょうか。しかしそこにヨセフはいません。相当なショックを受けた彼は「自分の衣を引き裂く」ほど嘆くのです。
そうして途方に暮れたルベンが他の兄弟たちにこのことを伝えるのですが、他の兄弟の反応は冷ややかでルベンとは違いました。彼らはその時にもヨセフが自分たちの目の前からもはやいなくなり、父からも切り離されてしまえばよいと思っていたのです。
人はだれしも自分の存在を肯定してくれる人を必要としています。その始まりは親的な存在であるでしょう。私は少年期に両親の離婚を経験し、母親の手によって育てられました。その頃の自分の心はどこか空洞のようになり、荒れ果てていました。近所の悪がきグループに入り万引きを繰返したりもしました。そんな時でした。ある一人の同級生と草野球のかけをして負けてしまい、連れていかれたのが近所の教会の日曜学校でした。小学校4年の時でした。その後中高生時代は少年少女会に参加するようになり教会の友だち、親友もできました。又、教会の方々もそんな私を温かく迎えてくださいました。いつの間にかキリストの教会が空しい私の心を満たしてくれる居場所・家族になっていったのです。そして高校1年の時に主イエスを信じ、バプテスマを受け、喜びと平安に与かりました。もしあの少年時代の出会がなかったなら、ほんとうに自分はどうなっていたのだろうと思います。
聖書に戻りますが。
31節「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これをみつけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた。」
その間長男のルベンは責任を感じて茫然自失になっていたのでしょうか。どうしてイシマエル人の商人の一団を追跡してヨセフを取り戻す行動がとれなかったのか。また、何とか他の兄弟たちの行為を思いとどまらせ、正直に父ヤコブにヨセフが売られていったことを話すことができなかったのか、とも思いますが。ルベンは自分たちがヨセフになしたことを、洗いざらい父に明らかにしなければならないと思うと、恐れが先立ってしまったのでしょうか。他の9人の弟たちの行為を黙認する外なかったのです。
彼は結局、父ヤコブのもとに雄山羊の血のついたヨセフの晴れ着を届けさせた責めを、ずっと負っていくことになるのです。
33節「父は、それを調べて言った。『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。』ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。』父はこう言って、ヨセフのために泣いた。」
息子ヨセフを亡くしたヤコブの落胆と嘆きは、あまりにも深く誰の慰めも寄せつけません。兄息子たちは、ヨセフを排除することで父の愛を自分たちに引き寄せようと結託しました。「ヨセフは野獣に殺された。もういないんだ。」そのように見せかけたのも、父の愛をヨセフから自分たちに向けさせるためでした。彼らは「今こそ悲しみ心痛める父ヤコブを自分たちが慰めて、父からの愛を得よう。」そう考えたのではないでしょうか。が、しかし兄息子たちの偽りの慰めは何ら父の心には届かず、そのもくろみは完全に失敗します。それは、ただ父ヤコブを絶望と悲しみのどん底へ突き落とす結果にしかならなかったのです。
ヨセフの兄たちは確かにヨセフに直接手をかけて殺害したわけではありません。けれどそれはヨセフを見殺しにしたも同然でした。父に対して正直に「ヨセフが商人の一団に連れていかれた」と一言打ち明けていたなら、父が悲しむことはあっても、まだ父は希望がもてたはずです。しかし、兄息子たちは「ヨセフが死んだ」と思いこませ、父の心まで死ぬほどに苦しませたのです。
先に申しましたように、父ヤコブがヨセフを兄たちのもとに送ったのは、家族のシャローム、平和、そして和解のためでした。ヨセフもまた、その父の思いを受けて兄たちのもとを自ら進んで訪ねて行ったのです。けれど兄たちはそれを理解できず、反ってヨセフを憎しみ、亡き者にしようとしたのです。
注目すべきことに13節には、父ヤコブの名が「イスラエル」の名で記されています。それは神から受けた祝福の名です。その子らもイスラエルの12部族の祖となっていくのです。ヤコブはその家族のシャローム、平和、平安だけでなく、後々受け継がれてゆくであろう12部族のシャローム、平和、平安の願いでもあることをここで伺い知ることができます。
そして新約の時代に時至って、神は12部族を超え、地上のすべての人々の平和と和解、シャロームを実現するために、独り子イエス・キリストを救い主としてこの世界にお遣わしになりました。
そのイエス・キリストは、罪を認めようとせず、うそ偽りで塗り固め、自己正当化する人間の罪によって妬みを受け、殺されてしまうのです。けれど不思議にも、そのイエス・キリストの十字架を通してすべての人の罪はあがなわれ、神さまとの和解と平和、救い、シャロームの道が拓かれていったのです。
ヨセフの兄たちもまた不思議にも、ヨセフの受難を通して最後には罪の滅びから救われ、ヨセフ、そして父ヤコブとの真の和解と平和に与ることになります。ヨセフ物語は全世界に向けた神の偉大なシャローム、平和と和解のご計画の先取りであり、それは今やイエス・キリストによって実現されているのです。
今日私たちはこのヨセフの受難と父ヤコブの深い嘆きの中に、キリストの受難と父なる神の深い愛を思い起こしながら、心新たにその恵みを覚えつつ、神さまの愛に立ち返って生きる者とされたいと願います。