日本バプテスト大阪教会へようこそ!

大阪市の天王寺駅近くにある創立67年目のキリスト教会です。吹き抜けの新会堂。ぜひお立ち寄りください!

先立つ神さまのご計画

2018-09-16 16:50:43 | メッセージ

礼拝宣教 士師記13章 敬老感謝

 

この士師記の時代は、イスラエルの民が罪を犯し、神はお怒りになり、諸外国からの圧政が起こって民が叫び求めると、神が士師を立て、民を守られる。しかし又イスラエルの民が神の恵みを忘れて再び罪を犯して堕落し、諸外国からの圧政に苦しみ、その叫びに神は士師をおこされる。そういうことが繰り返されているということを先週申しました。

 

今日の131節で「イスラエルの人々は、また主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを40年間、ペリシテ人の手に渡された」とございます。

それにしても40年というのは長い年月といえるでしょう。言ってみれば先の見通しがつかない状況で罪が蔓延した暗黒の時代がずっと続いていった中、士師としてのサムソン誕生の予告が主の御使いによってなされるのであります。

今日はそこから聖書が語りかけるメッセージを聞き取っていくことができたらと願います。

 

このサムソン誕生についての主の御使いの顕現とお告げは、イスラエル12部族のダンの氏族に属する夫マノアではなく、名もない妻に臨みました。

彼女は、あのアブラハムの妻サラや新約のエリサベトと同様、不妊で子を産んだことがなかったのであります。それは人間的には不妊という状態であきらめざるを得ないものでしたが、神さまのご計画がまさにそこに起こされていくのです。それはまだ先の見えない中で、主の御使いによる告知でありましたが。

その彼女に臨んだ主の御使いの言葉を詳しく見ますと、この女性に対する2つの命令、それは「今後、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないように気をつけよ」というものでした。まあ一般的にも妊婦さんがアルコールや刺激の強いものを飲みますと胎児にも悪影響を及ぼしかねないですが。

又、主の御使は、生まれる男の子に関してもう1つ、「その子の頭にかみそりを当ててはならない」とも命じています。

それはマノアの妻に宿る「その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられている」からだと、その主の御使いが命じたことの理由が語られます。

このナジル人についての詳細は民数記6章にありますが。神にささげられたものとして特別な誓願をある一定の期間立てた者のことで、ぶどう酒も濃い酒も飲まない。頭にかみそりを当てない。又死体に触れない等が挙げられています。

サムソンの場合は、母親の胎内にいる時から死ぬ日までナジル人としてささげられていると、その期間については、その子の命ある限りと、マノアの妻の言葉から読み取れます。

 

このサムソンは生まれる前から、主が「ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者として」聖別されたということでありますが。母親の胎内にあるときから、どんなに胎児は小さくとも尊いいのちであり、それは人間が好き勝手に扱うことは許されない、神さまの領域のものであるということを知らされる思いです。現代にあってもそういった小さな命が大人の身勝手と欲望によって失われています。それ天地創造の神さまが何より悲しまれている事であります。

 

さて、サムソン誕生と召しについて妻から聞かされた夫マノアは、主に向かって祈りました。

その祈りの内容は、「妻に現れた神の人をもう一度私たちのところに来させ、生まれる子をどうすればよいのか教えてください」というものでした。

おそらく彼は、その子に対しての自分の役割が何かないのか、自分としても生まれる子に何かお役立つことがしたいという願いが、彼の言葉に込められているようですが。

 

神はそんなマノアの声を聞き入れられますが、しかしそれは彼の祈りのとおりではありませんでした。主の御使いは再び現れますが、そこには妻だけがおり夫マノアはいませんでした。

彼女は夫の祈りを聞いて知っていたのでしょうか。急いで夫に主の御使いが来たことを知らせに走って行き、マノアは主の御使いと会うことができたのです。

しかしマノアが一番聞きたかった、「わたしがその子のためになすべき決まりは何でしょうか」と主の御使いに尋ねますと、主の御使いは「わたしがこの女に言ったことをすべて守りなさい」と述べるのみでした。

マノアは子どものために「自分が何すればよいか」を知りたかったのですが、主の御使いは、妻に告げたことを繰り返して語るだけでした。生まれる子のために妻が守るべきことだけが語られるのです。

ここを読んで、どうして主の御使いはマノアに対して愛想のない答え方しかなさらなかったんだろうか。子のために役立ちたいというマノアの思いにも答えられてもいいのではないかと思えたりしますが。

まあ俗に「天使のようにやさしい」と言ったりされますが。天使は神の使いでありますから、その務めは神の御心のみ忠実に遂行し、守り行うことにあります。

このマノアの、生まれる子のため、それはひいては神の業のために役立ちたいという願いは、神さまの喜ばれるものに違いないでしょう。けれど、士師となるサムソンの出産という一大事を成し遂げることができるのは妻であって、夫ではありません。

この事において神はダン族のマノアを通してではなく、名もない一人の女性をイスラエルの救いのご計画のためにお用いになられるのです。妻の出産に対して、ただ見守り、祈り支えるのみでしたが。それこそが神さまがマノアに期待されていることだったんですね。

神さまへの感謝と愛から「私も何かできれば」という願いが起こされるのは聖霊のお働きですし、それ自体は尊いものです。ただ、このマノアのように自分の思う形とは異なることもあります。主のみ業は聖霊のゆたかなお働きと介入によってほんとうに様々なかたちで起こされていきます。それは人が思うようなあり方、理想的な形とは異なります。「あの人なら」「あの人なんて」などという世間の評価はあてはまりません。主のお働きは実にゆたかです。人の思いを超えて主は御業を起こされます。主はそうしてご自身の栄光を顕され、そこに驚きと賛美が起こります。

 

今日は敬老感謝の礼拝を共に捧げていますが。高齢化が進んでいく社会を何か暗いかのように思わせる風潮がありますが、それはおかしいことです。

私たちの教会もご高齢の方が多くなってきていますが。80代、90代でこの礼拝に来られている方お一人を通してどんなに大きな神さまの恵みが証されていることでしょうか。又、私たちはご高齢の方々のその姿に、10年後20年後の自分の姿を重ねながら、かくありたいと励ましを頂いております。

何か直接的な奉仕をするのが難しくなったとしても、それにも勝る、「神さまが大好き」という思いが、愛がいっぱいに溢れているということを感じ、主はどれほどいつくしみ深い方であられることかと本当に感謝です。お健やかで福音の証人としてお用いなされますようお祈り申しあげます。

 

さて、聖書に戻りますが。

15節以降で、主の御使の答えが自分の願ったとおりではなかったので、彼は別のことをしようと試みます。

彼は、主の御使いのために、子山羊をごちそうしてもてなしたい、と申しでます。

すると主の御使いはマノアのこの申し出を断ります。その理由については16節の「マノアがその人を主の御使いであることを知らなかった」ということでした。

6節のところで、妻がマノアに「その姿は神の御使いのようで」といっていたのです。そのことをマノアは聞いていても、まあ預言者ぐらいだと思っていたのでしょう。

ですから、彼はこの畏れ多い主の御使いに対して、「お食事でもしていってください」「お名前は何とおっしゃいますか」と尋ねているんですね。

そのマノアと対照的だったのは名も記されない妻でした。彼女は「主の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず」とその心境を吐露しました。

 

主の御使いに対するこのマノアの的外れな「お名前は」の問いかけに、主の御使いは「不思議と言う」と答えます。それは主の御使いの名前が「不思議」という意味ではありません。それは、マノアあなたの「理解を超えること」だと答えているのです。

この世にあって、私たち人間の見えるところはほんの一部分でしかありません。それで神さまのなさることが理解できず、不安になったり、不満をもったりいたします。しかし主なる神さまは人の思いを遥かに超えた仕方で御心を実現に至らせるお方なのです。

 

さて、主の御使いの言葉に従って、マノアは子山羊と穀物の献げ物を取り、岩の上で主にささげます。マノアと妻は祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇から共に上って行くのを目の当たりにするのです。二人はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけ、本当にこの方は神であったと畏れをもって礼拝を捧げるのです。

そうしてマノアは自分に現れ、そして天に上っていかれたのが主の御使いであることをようやく知り、「私たちは神を見てしまったから、死なねばなるまい」と言って非常に恐れをもつのですね。

その夫マノアの言葉を聞いて妻はこう言います。

「もし主がわたしたちを死なせようとお望みなら、わたしたちの手から焼き尽くす献げものをお受け取りにならなかったはずです。このようなことを一切お見せにならず、今こうした事をお告げにもならなかったはずです。」

動転する夫マノアに対してこの名もないマノアの妻の霊的洞察に富んだ言葉は、普段の生ける主、神さまとの対話、日常の中での祈りから出てきたものであったのでしょう。

 

彼女は知っていました。

神は罪深い者に対しても、裁きと滅びを決してお望みになっておられるのではなく、神に立ち返って悪から離れ、御心に従って生きていこうとする者にゆるしと幸いを用意していて下さるお方である。彼女はこの「主の救い」を確信していたからこそ、マノアに「大丈夫ですよ、主は恵み深いお方です。信頼しましょう」と言いえたのですね。

 

人は自分の中に罪や咎をもつとき、神さまの御前に出ていくことを恐れます。自分の中に神さまに従えない、従いたくない思いがある時、祈ることも聖書を開くことも、教会さえいやになることもあるかも知れません。

しかし神さまはそれでもなお私たちが御前に出てくることを願っておられます。そこに必要なのはマノアの妻に見られるような「主の救いに対する期待と信頼」であります。

私たちにとりまして、それは主イエス・キリストの贖いの業にある救いです。私のこの罪の性質、数えきれない咎、これらの責めと負い目から解放するために、神の御子イエス・キリストがその身代わりとなって十字架に磔にされた。この神の御子にある救い、主イエス・キリストの十字架の御業によって罪ある私たちは義とされ、その尊い一方的恩寵の恵みによって神さまの御前に立つことができるようにされている。これが私たちの礼拝であります。

この先立つ神さまの御恵みによって、私たちは主の御前に出でる礼拝からいつでも新しい出発を切ることがゆるされているのです。

 

2425節、この女は男の子を産み、その名をサムソンと名付けた。子は成長し、主はその子を祝福された。そして「主の霊が彼を奮い立たせ始めた」とあります。

今日私たちも主イエスの救いとお約束によってご聖霊が臨み続けて下さいます。そこに平安がございます。

マノアの妻のように名もなきような者と世はみなそうとも、神さまの御心とそのお導きに従って生きる者をご聖霊の証印をもって神の子として召していてくださるのです。言い方を変えればご聖霊は救われた者であることの証印であられます。それは同時に神さまの御心を実現する力の源であられます。

 

使徒パウロは御霊の実は「愛」と言っていますが。ご聖霊のお働きは、神と隣人への愛のゆたかな実りをもたらそうとなさるものです。

そのようなご聖霊のお導きとお計らいに期待し、共に与りつつ歩むことができるというのは、何よりも大きな恵みであります。

 

今日の宣教題を「先立つ神さまのご計画」とつけました。神さまの御救いのご計画は実は今も、私たちひとり一人の存在を通して日常的に起こされ続けています。

私たちひとり一人は、主の救いの福音の生ける証であります。

今日もここから、喜びと感謝と祈りを携えて生きるものとして遣わされてまいりましょう。

 

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教会堂2階ルーム

2018-09-14 07:52:44 | 教会案内

教会堂2階ルーム

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第6回「おいでやこども食堂」報告

2018-09-13 10:01:57 | イベント

 

9月12日(水)午後4時~7時

今回は、親子連れのみなさんが12名が来られ、

ボランティアさん10名を含め、22名の会となった。

メニューは、台湾風・水餃子(餃子の皮から手作り)とスープ

たいへんジューシーなおいしさにみな舌鼓。

「いただきます」の感謝の祈りから会食、自己紹介、歌、

その後、こどもたちは、畳のお部屋で、おもちゃ遊び等々、楽しんでいた。


今回2回目となる親子で参加されたお母さんは、夫が毎日お仕事で帰りが遅くなり、

「私とこどもたちで一日中過ごしていると、煮詰まってしまっている状態、

 こうしたこども食堂の集まりがあるとほんとに助かる」とおっしゃっていました。

今回、お友達親子2組を誘って来られました。「前々回のメニュー『にら饅頭』が美味しかった」とのことでした。


まあ、こうして地域の方々に、このこども食堂が開かれている意義はあったということを知らされ、

また元気をいただいた。

次回10月10日(水)午後4時~7時、次回もスタッフ一同、希望をもってがんばろうと思います。

みなさん「おいでや」


感謝しつつ。

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神さまを信じきれずに・・・

2018-09-09 15:17:48 | メッセージ

礼拝宣教 士師記11章29-40節

台風21号、北海道地震と想像を超えた災害が続きましたが、私も初めて経験した瞬間最大風速47メートルの突風とそのすさまじさにさすがに怖い思いをしました。私は教会の皆さんも心配ですし、この教会堂と駐車場を管理する責任もありますので、その間何事もなく暴風が早く過ぎ去りますようにと祈りつつ屋内から見守るばかりでありました。テレビをつけると住之江区の駐車場に駐車していた車が突風でおもちゃのように転がりぐちゃぐちゃになった有様が報道されているのを観て唖然としました。又、天王寺の道路沿いや公園の樹木が次々と根こそぎなぎ倒されていたりと、屋外は酷い状態でありました。

駐車場は、大きな物置が倒れ、ごみ箱や板が吹き飛んではいきましたが。幸い、お預りしているお客さんの車に当たることもなく、こちらも被害なく、主の守りに感謝でした。遠くは九州の友人や教会の方々からお見舞いのお電話を頂いたことも、ありがたかったです。

その2日後北海道で震度7というとてつもない地震が起こりました。多くの死傷者と行方不明者が出ており、家屋や病院、商業施設の倒壊や道路の陥没、交通のマヒが生じ、大変な悲しみと不安の中にいらっしゃる方々がおられます。

札幌の教会や帯広の教会からは、停電していた電気や断水していた水が復旧し、地震の被害に遭われた方々に教会のトイレや会堂やお部屋を提供されているという、報告も伝えられています。一日も早い負傷者の方々の快復と生活の復旧がなされますよう、お祈りします。

 

さて、本日より今月30日までは旧約聖書の士師記から御言葉を聞いていきます。

イスラエルの民は奴隷であったエジプトから導き出され、40年の荒野の旅路を経て約束のカナンの地に入ります。カナンの地での指導者ヨシュアのその死後、この士師記の時代のイスラエルの特徴について、聖書は「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師記17:6,21:25)と記しています。

イスラエルの民は、導きたもう生ける神さまが真の王、すべてを統治したもうお方であることを認めようとせず、約束の地カナンに定住せずに、神ならざるものを崇拝する偶像礼拝を繰り返すのです。

神さまは、そのような罪深い民であるにも拘わらず、その民を宝の民として憐まれ、神さまの救いの恵みがどのように民に臨むのかを、士師たちをお用いになって示されるのです。

 

士師というのは、その都度神に選ばれ立てられた者たちであったわけですが。

イスラエルの民が罪を犯すと・・・神はお怒りになり・・・異邦諸国による攻撃と圧制に苦しみ・・・イスラエルの民が助けを叫び求めると・・・神がその士師をもちいて救われる。そしてすぐにまた、イスラエルの民はその救いの恵みを忘れ、罪を繰り返し、異邦諸国からの攻撃と圧制、民の祈り、士師による救い、そして性懲りもなく背神の罪と、この一連のパターンが士師記には終始繰り返されているのです。

「真の神である主を認めず、それぞれが自分の目に正しいことを行って」いる限り、イスラエルの民だけでなく、私たち人間の世には何度も何度も罪が繰り返されていく、ということをそれは示しているんですね。

その神の救いの御用に用いられた士師たちは、その当時のイスラエルの民を先導していた指導者、救助者とも言われますが。

士師といえば、女性の士師デボラやギデオンの名が思い浮かんでくるという方もおられるでしょう。ギデオンや今日登場するエフタなどは、神さまから選ばれたのだから、さぞかし立派な人格者、完全無欠の聖人かと思いきや。否むしろ人間としての弱さや欠けたる点をもっていた人たちであったようです。

 

先に、エフタの記事が読まれましたが。

11章のはじめには、父ギレアドと遊女との間に産まれたエフタが、本妻の子である兄弟たちから、「あなたは、よその女の産んだ子だから、わたしたちの父の家にはあなたが受け継ぐものはない」と追い出されてしまったということが記されています。

彼が追い出された理由には、単に彼の出自だけの問題ではなく、兄弟たちが1節にあるように、エフタの勇者ぶりを妬んでいたということでもあったのか、と想像もできます。

まあそういう形でエフタは一度同胞から町を追い出されるのですが。

しばらく経ってから、アンモン人らがイスラエルの民に戦争を仕掛けることになると、町の人々そして長老たちはエフタの勇者ぶりに期待をかけ、彼を連れ戻そうとやって来て、「アンモン人と戦ってくれるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます」と、エフタに懇願するのですね。懇願する方もどういう顔をしてエフタに頼んだのでしょう。しかしエフタはこの約束の条件を受け入れます。

 

まあ、ここを読みますと、ギレアドの町の人々や長老の心の変り様というものが見えますね。自分たちにとって都合が良くないときはエフタを町から追い出したのに、今度は自分たちに身の危険が及ぶと、もうエフタにかつてなした事はまるでなかったように、一切わびもなく、ただ戻ってきてアンモン人と戦ってくれたら町全体の頭になっていただきます、と申し出るのです。

それが人間の弱さというものだなあと思うわけですが。

でも、ここでのエフタと長老たちのやりとりは、両者ともに主を中心において、主の御前でなされたものであった。いわば主なる神さまがご介在される中でこの事が始められていくのです。こうして勇者エフタはアンモン人の王とも交渉をしていくことになるのです。           エフタはアンモンの王に対して、「イスラエルの民に戦争を仕掛ける理由などないではないか」と、その根拠を懇切丁寧に説明しますが、アンモン人の王の態度は頑なで、その交渉は破綻してしまい、アンモン人の軍勢はいよいよ近くまで攻め上ってくることになるのです。

ここまでが今日の箇所に至るまでの前段であります。

 

さて、こうして29節にあるように、主の霊がエフタに臨み、彼はアンモン人に向かって兵を進めるのであります。彼には確かに主の霊が先立っていたのであります。

ここで、エフタは主に誓いを立てます。それは「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモン人との戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」との誓いでした。

主の霊の先立ちのもと、エフタは主のお導きを信じていたはずなのに、彼にどういう心境の変化があったのかはわかりませんが、彼は神が勝利をもたらされることをより強く欲し、極端な誓願を立てるのですね。

その背後には、神を信じて従っていくこととは別に、ここで自分がうまくことを進められるかどうか。民の頭、指導者としての地位や権力を掌握することができるかどうかという思いが先走って起こり、心が2つに割れてしまっていたのではないでしょうか。そのことのために、「もし神さまあなたがこのようになしてくださるなら、わたしはこれを献げます」というような条件をつけ、神さまを試みることとなってしまったように思えます。

 

29節で「主の霊がエフタに臨んだ」とあるように、主は御自らイスラエルの民を救うためにエフタを立てられたのですから、3031節のエフタが誓願などしなくても、救いの御業をエフタを通してお導きになられたのだと思います。

ここが今日の一番の重要点だと思います。主なる神さまがすべてを統治なさっておられるのです。その神さまをエフタは信じきれなかったのです。

主の霊が臨んでいたにも拘わらず彼は神さまに交換条件をつけて誓いを立て、主を試みたのですね。

エフタが神さまを信じて歩み通していたら、彼はこの勝利を神さまの賜物として感謝して受け取ることができたはずです。神さまは勝利の代償など決して求められるお方ではありません。

サムエル記上1522節には「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と記されているとおりです。

 

しかし神の霊に逆らうかのようにささげた誓願のために、エフタのその勝利は神さまの恵みの賜物ではなく、代償を払って得たものとなったのです。

エフタが家に帰ったときに彼を出迎えたのは、彼の一人娘でした。

エフタはその娘を見て、衣を引き裂いて言います。

「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは」。

まあエフタはそれが自分の娘であったことを嘆いているわけですが。

しかしそれはまた、「わたしを苦しめる者」の「「苦しめる」はヘブル語でアハルという言葉ですが。それは「家を滅ぼす」行為を表す動詞であることから、彼は娘のことよりも、むしろ娘の死後に自分の家系が途絶えてしまうことを嘆いた。彼にとってはそのことが娘より重要な事柄であったとも読めます。

9節にあるように、その勝利によって民の頭となることにこだわったエフタでした。神さまとそのお働きを信じきれない不信仰と、自らの願望とその執着のために誓願を立てたことが、このような事態を招く事になったということをエフタ自身気づいていなかったのではないでしょうか。

エフタがその自分の不信仰のためにこのことが生じたと知ったなら、本当に深く主なる神さまに悔い改めの祈りをささげ、一人娘に対しては、ちゃんと向き合って、本当に取り返しのつかないことをしてしまったという思いを告げたのではないだろうか。そのように思えます。

 

その一方で、エフタの娘は事を察し、神への畏れの思いをもって行動します。まるで自分のことだけを考える父エフタとは正反対です。

彼女は、「父上。あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、その口でおっしゃったとおりにしてください。主はあなたに、あなたの敵アンモン人に対して復讐させてくださったのですから」と気丈に言うのでありますが。死への恐怖心と深い嘆き悲しみがきっとあったでしょう。まだまだ彼女には将来があるはずでした。

しかし、彼女は2か月の自由を与えられた間に逃げることなく、父エフタとの約束どおり父のもとに帰ってきます。そしてエフタは立てた誓いどおり娘をささげたのです。

 

何という結末かと思いますが。

イスラエルでは年に4日間このギレアドの人エフタの娘の死を悼むために、家を出るというしきたりができて代々守られている、ということです。

それはエフタの娘の行為とその死を美化するのではなく、イスラエルの民が神さまにいつも立ち返って生きていくということを忘れないという意思表示であります。

新約の時代に至って主イエスはこのようにおっしゃいました。

マタイ533-37節。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。」

 

今や私たちの罪のため贖いのささげものとなられた主イエス・キリストによって、旧約の時代よりはるかに勝って、私たちはもはや自分の力や思いに頼って誓いを立てたり、願をかけたりする必要はありません。唯救いの主に、信頼することこそ、私の命の力、と主を賛美し、宣言することが恵みとして与えられているのです。救いの主、神さまを信じて。

 

今日のエフタの誓願は、神さまの御心に対する無知から生じたものです。

何をするにも、いつも主なる神さまに信頼し、御言葉と祈りの中で、主の御心が何であるのかを求め続けていくそのことが、主を信じて生きる者の最も大切なことです。主は生きておられます。必ず先立ち導いてくださいます。

 

ローマ122節をお読みして、今日の宣教を閉じます。

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる

ようになりなさい。」今週もここからそれぞれの生活の場へと遣わされてまいりましょう。祈り。

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神さまとの約束の関係

2018-09-02 22:02:51 | メッセージ

召天者記念礼拝 宣教 創世記23章1-2節、19節、25章7-9節前半、へブライ11章1-2節、8-12節  

本日の召天者記念礼拝にご列席くださいましたご遺族の皆様のうちには、故人は会でクリスチャンであられても、ご自身はクリスチャンでない方、あるいは他の宗教をもっておられる方もおいででしょう。私は特に今日、故人の信仰を寛容に尊重してくださったそのような皆さまが、この場に集って頂けたことに心から感謝と敬意を表したいと思います。
本日の礼拝の中で献花がございます。又、丘の上にある「希望の家」へもご遺族の皆さまご自由にお入りくださり、お祈りの時をおもちいただければ幸いです。

ヘブライ人への手紙11章1-2節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」と、信仰の定義がなされております。

その後に続く4節以降には、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラという5人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」の紹介がなされています。それは「信仰の先達のリスト」であるといえます。
先ほど私たちも大阪教会の召天会員会友の名簿に従って、そのお一人おひとりのお名前を読みあげさせていただきました。

お一人お一人の地上でのあゆみとご生涯はみなそれぞれ異なるものであったことでしょうが。
ただ、天地万物を創造し、生と死を司り治めたもう主なる神さま、救い主イエス・キリストによってつながるものとされた。そこに天の国の確かさがございます。

今年6月29日にYさんが主の御もとに旅立って行かれ、大阪教会の召天会員会友者の名簿に加えられました。

ご遺族、そして教会にとりましては寂しい別れとなりましたけれども、今は天の神の御手に抱かれその魂は憩いを得ておられることと、信じ、復活の主の御名を心から賛美いたします。

本日はその信仰の先達のリスト、信仰の父祖とよばれたアブラハムとその妻サラの死と埋葬の記事から、「神さまとの約束の関係」と題し、ご一緒に御言葉に聞いていきたいと思います。

これまで礼拝では創世記よりアブラハムの生涯と死に至るまでの記事を読んできました。

アブラハムは12章にありますように、主なる神さまからの「あなたは生まれ故郷を 父の家をはなれてわたしが示す地に行きなさい」とのお言葉に聞き従って旅立ったのです。

このアブラハムの召命と移住の記事を読んでみますと、彼が土地や財産を受けるために出ていったなどとは書かれていません。むしろ彼は「父の家とのこの世の保証を離れて」旅立ったのです。目に見える父の家の財産や土地をおいて神に従っていったのです。
 聖書のイザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。

人が財をなし、享受し、束の間花開いたように見えても、やがてはしぼみ朽ち果ててゆきます。

しかし、朽ちることのない神の約束。

アブラハムは、ただ「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」との神の約束の言葉に聞き従ったがゆえに、神さまはアブラハムのその信仰を彼の義と認められたのですね。

クリスチャンも又、イエス・キリストによる救いの約束に聞き従って生きる者であります。そうして神の御前に歩む幸いの人生を得るものとされているのです。

 

さて、先にサラとアブラハムの死と埋葬の記事が読まれました。

サラが127歳(アブラハム137歳の時)で死ぬと、アブラハムは「サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。

アブラハムの生涯にとってサラは大切な存在でありました。彼らは夫婦であり、互いが神さまによって祝福を受けた、よきパートナーであったのです。一つの同じ主を見上げ、仰ぎ見て共に人生を歩んできた彼らでした。

それだけにアブラハムにとってサラを失った悲しみと嘆きは尽きなかったことでしょう。そういう大きな喪失感を抱えながら、「アブラハムはヘト人から買い取ったマクペラの洞窟に妻サラを葬った」と記されています。

 

それから38年程後でありますが、アブラハムも遂にその最期を迎え時がくるのです。

25章7-8節には、「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」と記されていますが。別の訳である口語訳聖書には次のように訳されています。

「アブラハムは高齢に達し、老人となり、年が満ちて息絶え、死んでその民に加えられた」。

なんだかこっちはドライといいますか、人のいのちのはかなさを感じませんか。

私は新共同訳の「長寿を全うし、満ち足りて」という言葉に信仰者の救いを見る思いがいたしますが。

まあどう思うかはさておき、ただ主の御言葉に聞き従っていったその生涯において、神さまの祝福は見える形でアブラハムに与えられていきます。約束のカナンの地に住み、約束の子であり、神の祝福を受け継ぐこととなるイサクが与えられます。一つの大きな国民となるイシュマエルもアブラハムの子であり、さらに後妻ケトラの間に6人の子や子孫を与えられます。彼はまた財をなし、族長として多くの人を率いて、はたから見ても祝福され、当時としてまさに「満ち足りた人生」のように思えますが。その一方で、相続者・後継者について問題は尽きず、アブラハムは心を痛める日々を送ります。

又、二度の大きな飢饉を経験し、さらに神からの耐え難いような試みにあうなど、一人の人間として多くの苦悩や悲しみをもその身に受けます。

そうして、口語訳にあるように「アブラハムは老人となり、息絶え、死ぬ」のです。

創世記3章19節には、「お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取り去られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と記されています。又、ヨブ記10章9節でヨブは「心に留めてください/土くれとしてわたしを造り/塵に戻されるのだということを」と言い。さらにヨブは14章14-15節で「もし神が御自分にのみ、御心を留め/その霊と息吹を御自分に集められるなら/生きとし生けるものは直ちに息絶え/人間も塵に返る」と人の人生のはかなさを物語ります。

この地上において、いかに人が繁栄を究めようとも。また、どんなに人がうらやむような幸運な人生に思われたとしても。それは永続するものではありません。なぜなら人には必ずこの地上の歩みを終える日が訪れるからです。

その限りある人生、生涯であるからこそ、アブラハムがそうであったように、すべてのいのちの源となるお方が、すべての時を司り、人の人生を真に価値あるものとして導くことのできる大いなる存在を信じて歩み続けるその先に、「満ち足りて死ぬ」ということが与えられるのだと思います。

 

さて、地上の歩みを終えたアブラハムは、妻のサラと同じ墓に埋葬されることとなります。ここで心に留まるのは、それが二人の息子たちがいる中でなされたということであります。

生前アブラハムは母の異なる息子イサクとイシュマエルのことについて相当な心を遣い、悩みながら、それぞれ離れた場所に生きることが彼らにとってよいと苦慮をしたうえで、イサクからイシュマエルを引き離しました。

しかし、アブラハムは、まさにその2人の息子によって葬られることとなるのです。なんとそれは主の祝福を感じさせる出来事ではないでしょうか。それこそまさに主の御もとにある者に与えられた幸いではないでしょうか。

 

今日も毎年9月のこの第一主日において、先に天に召され、神さまの御もとに凱旋された信仰の先達、主にある兄弟姉妹を偲びつつ、記念礼拝を主にお捧げしておりますが。

今年も、その故人のご家族と共々主の御前を会して、その記念の礼拝を捧げられる幸いを得ております。このことは故人にとりましても、神に祝された生涯の証しでありましょう。

 

Yさんが今年6月29日に天に召されました。今もこの教会の厨房やどこかで彼女の声が響き、掃除や食事の奉仕をなさっている姿が目に浮かんでくるようです。彼女が病気であることが分かったのは昨年の初秋でしたから、それからまだ1年もたたないうちに逝ってしまいました。あまりに早すぎとしか思えません。身近におられた幸恵さんがそのことを一番お感じになられたのではないでしょうか。闘病生活のしんどさをご長女にもできるかぎり人に見せずに、牧師にもそうでしたが、ご家族であってもそうであられたようです。けれどそれがYさんの生き方であられたんだと、今はそのように思わされていますが。そういう厳しくしんどいお体の状態であったにも拘わらず、Yさんのうちにはいつも、主を愛し、大阪教会のことを愛してやまない信仰とその思いがあったのです。自分が主イエスの家族の一員としてなすべきことが何かを祈り、考えながら最期まで歩み通された、ということを私どもは教えられました。

自分の生涯を何を信じて生き、何をもって幸いとするか。

最期まで神の御前にあって歩み通した人を、聖書は、「満ち足りた」者であった、と言うのですね。

 

主イエス・キリストはこのように約束されています。
ヨハネ14章1-3節。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。

ハレルヤ。感謝すべきかな。今やすべての人に、十字架と復活の救い主イエス・キリストによって、主の用意された約束の地に至る道が開かれています。

本日は特に、先に天に召された私たちの信仰の先達を偲びつつ、主イエス・キリストにある「希望」を、確認させて頂いておりますが。 
信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラは、その人生の歩みを通して神の祝福の中を生きる生涯とはどういうものかを指し示します。

私どもも又、小さい者ながら十字架と復活の主イエス・キリストを見上げながら、救いの道を歩み続けることができるのは、何と幸いで確かな希望でしょうか。

 

本日の宣教題を、「神さまとの約束の関係」といたしましたが。

信仰によって神に認められたアブラハムが祝福された者としてこの地上の生涯を歩みぬいたごとく、私たちも又、救い主イエス・キリストを信じ抜き、神に認められ、祝福された者として希望の人生を歩みとおしてまいりたい、と願うものです。

たとえからし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる者に、神さまは「天の故郷」に通じる人生の道を整え導いて下さいます。そこに虚しき人生に終らない私どもの希望がございます。

最後に、ヘブライ12章1~2節をお読みして宣教を閉じます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

永久に変わることのないいのちの御言葉、神さまとの約束の関係に生きるべく、今日もここから遣わされてまいりましょう。

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主にある兄弟

2018-08-26 16:58:41 | 教会案内

礼拝宣教 創世記25章1-11節 平和月間

                     

7月末の台風12号が関西地方を直撃してから約1か月。すでに8つの台風が起こり、今回の20号は先週末、四国・関西地方を横断しました。私ども家族は帰阪を一日早め23日木曜朝に無事帰って来ることができました。19号と2つの台風に挟まれながらも筑紫野南教会の礼拝奉仕、久山療育園のワークキャンプと守られ祝されたことを心より感謝します。又、大阪教会の礼拝が滞りなく守られましたことも感謝であります。

 

この8月は特に平和月間の礼拝として、神がお造りになられた被造世界、いのちと平和の尊さをおぼえ主に祈りつつこれまで主に祈りつつ過してまいりました。

創世記で、神さまはお造りになられたものすべてをご覧になって「見よ、すべては極めて良かった」とおっしゃったとあります。

しかし、人の世に罪が生じてから現在に至るまで争いが絶えません。又、経済力をもった裕福な国や指導者があらゆる世界の資源を独占し、格差がますます広がっています。さらに経済至上主義のもとで地球環境の崩壊、地球温暖化、海水温上昇が生じ、これまでにないような様々な異常気象を引き起こしています。集中豪雨や大型台風が次々と世界中に巻き起こり、一方で高温、乾燥地では大規模な山火事も起っており、世界各地において甚大な被害が及んでいるのです。

このような世界がうめき、痛み、悲鳴をあげるこの事態。それに対して、聖書のローマの信徒への手紙8章にあるとおり「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」「被造物は、神のきつつ、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます」と伝えています。今一度、私たち人間は、その被造世界を守り、治める責任が天地万物の主より託されているということを思い起こし、すべての造り主なる神、いのちの源であられる神を畏れ、神に立ち返って生きることが求められています。

 

さて、本日は創世記25章より「主にある兄弟」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

一族の長として信仰に生きたアブラハムは175年の生涯を終えました。

かつてアブラハムは神から「あなたの生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」(創12:1-2)と召命を受け、主の言葉に従い、行き先も知らないまま旅立ち、約束の地カナンに入るのです。

主はかつてアブラハムに臨まれこのようにもお語りになりました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」。この主のお言葉に対して、「アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義とお認めになった」と創世記15章に記されています。このようにアブラハムは神の祝福を受けるのであります。

その一方で、その一族、家族の中には不和や争いの種が尽きなかったのです。

これまでも読みましたが、妻であるサラは高齢で子がなく将来の先行きの見えない中で、アブラハムに「女奴隷ハガルのところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」と頼み、アブラハムはサラの願いを聞き入れて、ハガルはイシュマエルをみごもるのでありますが。しかしハガルは自分がみごもったのを知ると、女主人サラを軽んじるようになります。サラはそのハガルを憎むようになり、アブラハムに訴えるとアブラハムは、「あなたの女奴隷はあなたのものだから好きにするがいい」と許可を経て、サラはハガルにつらくあたり、身重のハガルは荒れ野へと逃げていきます。

しかし主はそんなハガルを顧みて、アブラハムのもとに帰るように促され、彼女はアブラハムのもとでその子イシュマエルを出産するのです。

その後、サラはアブラハムの子イサクが与えられ、イサクは神の約束の子でありますから当然アブラハムの跡継ぎとして扱われる中、イシュマエルとその母ハガルの立場は大変難しいものになります。そしてとうとうサラとのいざこざによって、イシュマエルとハガルの母子はアブラハムのもとから、険しい荒れ野へ再び追い出されてしまうことになります。

まあ、このように神の祝福と約束のうちにあっても、人の生活はすべて順調に行くわけではなく、むしろ叫ぶように祈るほかない状況も起って来るわけです。しかしそれは、神の憐れみと慈しみが顕わされされるためであります。炎天下で水もつき、もはや死を待つほかないハガルとイシュマエル。

その母子が大声で共に泣いていた時、神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて、「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と約束されるのですね。(創21:17-18

するとハガルの目が開け、井戸を見つけ、水を得て、彼らは生きる力を取りもどし、その信仰の井戸によってイシュマエルに対する約束は実現されていくのであります。

 

さて、本日の箇所に戻りますが。

アブラハムはそういう出来事の後、妻サラは死に、つらい別れを経験します。そうした後には、後妻にケトラをアブラハムは迎えるのですね。まあそれはありうるでしょうが。驚きは何とそのケトラとの間に6人の子が生まれたというのです。

跡継ぎのイサクが生まれたときアブラハムは100歳で、サラが亡くなったのは137歳の時でしたから、それ以後から175歳迄の間に6人の子が生まれるとなると、ちょっと想像を超えますが。

ただ間違いなく、跡継ぎや相続の問題で悩むことになったことでしょう。結局アブラハムは跡継ぎのイサクのもとに他の子どもたちをおくと、争いやねたみが生じるという考えから、その6人の子らに贈り物を与えて、東方の地に移住させるのです。

このように聖書は、人間の確執や跡継ぎ、相続権をめぐるなんともこてこての事態について包み隠さず露わに記しているのですね。

神の祝福に生かされている者であっても、いやむしろそうであるからこそ、悩みや苦しみの中で祈り、苦闘し、神に信頼し、従って生きる道があり、その中にあってもがきながら模索していく、それが信仰者の姿であります。

 

さて、聖書はそのように信仰の父祖としての生涯を全うしたアブラハムが死んだ時、9節「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」と伝えます。

疑問に思いますのは、どうしてイシュマエルは父アブラハムの死を知ったのでしょう?人々を介して知ったのでしょうか?異母兄弟であったイサクの何らかの働きかけによってその訃報を知ることになったのか?それはわかりません。

 

ただ確かなのはその葬りの場であるマクペラの洞窟の前で、二人の息子が並んで父アブラハムを葬ったという事実です。

イサクにしてみればイシュマエルと再会することは恐れと不安もあったのではないでしょうか。

イシュマエルにとっても、イサクに会うことでかつて自分が受けた苦しみがフラッシュバックするという恐れもあったのではないでしょうか。

又、父アブラハムが埋葬される洞穴は、かつて母ハガルと自分を荒れ野へ追い出したサラが死後先に埋葬されていた洞穴でした。

そこへ向かうことはイシュマエルの感情として大変複雑な思いがあったのではと想像します。が、しかしイシュマエルは父アブラハムの埋葬のために、サラが先に埋葬された洞穴に向かい、イサクと並んで父アブラハムを葬るのであります。

このアブラハムの二人の子、イサクとイシュマエルの心の内は知りようもありません。ただ、これまでずっと読んできましたように、アブラハム、サラ、ハガル、イシュマエル、そしてイサクの背後にあって、主がいろんなかたちで、そのすべてを守り、導いておられたということは確かなのです。

 

アブラハムやサラが人間的な思いによって、跡継ぎ、相続について、子孫のことについて解決の手立てを講じてきました。そこでは、人と人の思いのすれ違い、対立のようなことが引き起こされてきました。しかし、神さまは、その度にアブラハムの想いを超えた業を起こし、よき方向へと導いてくださっていたのです。

箴言19章21節に「人の心には多くの計らいがある。しかしただ主の御旨のみが実現する」とあるとおりです。

 

イサクはアブラハムの祝福を受け継ぎます。一方のイシュマルも「大きな国民とする」との主のみ約束は着実にその実現へと向かっていきます。その証しが、12節以降に記されているイシュマエルの系図です。それは又、後妻ケトラの6人の子孫をも東方の国民とし主は繁栄をお与えになるのですね。

祝福の源アブラハムの子らは、それぞれの地にあって、文化や慣習、民族性や国民性をもって生きることになるわけですが、もとはアブラハムの子、主の祝福の源から始まったということであります。

 

そして、今日の箇所の最大の主のみ業は、あらゆる人間の確執や思いを超えて、そのアブラハムの子らが並んで父アブラハムを葬ったということです。イサクもイシュマエルも「主にある兄弟」。これこそが主のお計らいなのです。

 

イザヤ書5589節にこういう御言葉がございます。私が大阪教会へ導かれた時の聖句でもありますが。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

 

まあ人間的に見たアブラハムやサラ、ハガルもいろいろな長所もあり短所も、それは人間ですから当然持っていたし、生身の人間として苦悩し、間違いも犯し得る弱さも抱えていたといえます。

しかし、それでもアブラハムはそのあるがまま主とそのみ約束に信頼し続けて生き抜いた生涯であった。

その信仰をして、主はアブラハムの想いを超えて、その御業を示し、ゆたかにお導きになられたのだと私は信じます。

私どもにとりまして、その主のみ約束の基はいうまでもなく、救い主イエス、このお方にございます。何をもってしても、このお方と救いのみ約束に信頼する人生を歩み通したいと願うものです。

 

最後に、平和を願う8月、異なる道を歩んだイサクとイシュマエルが、天寿を全うした父アブラハムのもとで、再会し、共父を埋葬したという場面を黙想する中で、バプテスト誌8月号の今月のことば・Messageに日本キリスト教協議会総幹事である金性済(キム ソンジェ)師が寄せられたその思いを、ご紹介したいと思います。

 

金さんは、日本国憲法への片思い、という段落で、『在日コリアンは458月まで大日本帝国臣民として日本に暮らしていましたが、日本の敗戦後は祖国に帰還する道を失った在日コリアンや台湾人は、新しく制定された日本国憲法の基本的人権の対象はすべて「国民」という枠づけがされたため、在日コリアンは「国民」の枠から、排除されたということです。

当初GHQのマッカーサー憲法草案が、日本政府に手渡された際、「人民(people)の権利と義務」と訳され、その草案13条には「自然人の法の前での平等」、16条では「外国人は法の平等な保護を受ける」と謳われていた。ところがその後日本政府からGHQに返された改訂版では、peopleがすべて「国民」と訳し変えられた。

194753日に日本国憲法が施行される前日、昭和天皇が天皇の最後の勅令として「外国人登録令」が発令され、それによって在日コリアンや台湾人は、日本国籍を保有したまま「外国人」とみなされることになる。』

金さんはここに、『基本的人権の普遍性と「国民」の排他性の矛盾の問題を、日本国憲法は抱えるようになった』といいます。

金さんはさらに「憲法9条との再会」との段落でこう記します。『日本国民でもなく、選挙権もない私が、日本国憲法の改憲に反対する人々とともに、戦争の永久放棄、戦力の交戦権を否定する憲法9条を守る運動に加わっていることに私ははじめ不思議さを感じました。しかしながら、憲法9条を守るたたかいの隊列に並ぶ中で、憲法9条の理念には、単に国家間の問題にとどまらず、人間の内面にある「我と汝」の問題にまで深く問いかける問いを秘めている。自分の心に潜んでいながら、気づくことができなかった差別という心の武装に気づかされ、それを打ち砕かれて、遂に武装解除に至る道筋を暗示している。国民という枠の中に憲法の人権条項は閉じ込められることはあっても、恐れと敵意を友愛と歓待の関係に変革することを願う憲法9条は、他者「かれら」を排除しては成立しないのです。』

 

日本国憲法は素晴らしい、守るべき日本の宝、世界の宝だと思いっていた者にとっては、それが唯日本人の側から見た権利主張であるということを知らされた思いです。基本的人権条項の対象から除外されている存在がある。日本が犯した戦争に翻弄された人々、戦後もその子孫たちまでも、日本に住みながら「国民」という枠から除外され、基本的な人権を保障されないまま今も翻弄され続けています。

これはまさに日本人の私たちの側からは見落としていた視点であります。その排他性と違和感について私も知らされた者として、ほんとうに地道ではありますが、外国人住民基本法制定を求める国会請願書への署名へのご理解とご協力を毎年この大阪教会のみなさんにも祈りつつ、呼びかけているわけです。

 

今日のところで、アブラハムの子である、イサク、イシュマエル、そしてケトラの6人の子どもたちのおかれた場所はそれぞれ異なるわけですけれども。それぞれの祝福の源は父アブラハムであり、その祝福をお与えになったのは、天地創造の父なる神であられます。

アブラハムの子、主にある兄弟として世界中にその子孫は拡がり、ひとり一人が主にあって大切な愛されるべき存在として生かされている、ということを今日のところから心に留め、身近なところから平和を造り出す私たちでありたいと願うものです。

今日もここから遣わされてまいりましょう。

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夕べの礼拝:主の食卓を囲んで ご案内

2018-08-24 11:10:29 | 教会案内

8月26日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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巻頭言

2018-08-13 08:52:55 | 巻頭言

本日の宣教から 「平和があるように」マタイ福音書10章5-10節

弟子たちは、初めての町や村に入ってふさわしい人を探し出し、立ち去るまでその人のところに留まっていなければならないのです。ふさわしい人というのは、神様をおそれる人のことでしょう。時の流れに身を委ねたり、悪に妥協したりしない人が必ずいるはずです。そういう人を探し出しなさいと言われているのです。弟子たちが初めて足を踏み入れる新しい町や村、そこに知人がいるはずがありません。しかし、弟子たちの語るところに耳を傾ける人が必ずいるはずです。それが「ふさわしい家」なのです。

「その家に入ったなら、まず、平和があるように祈ってあげなさい」。堅苦しくない言葉で。そこから、会話が始まり、信仰の話へと進展してゆくのです。弟子たちはキリストに命じられて宣教に赴きますが、行く先々で、挨拶することから始めなければなりませんでした。イエス様は、あなたの家に平和がありますように、と祈ることから始めるようにと言われたのです。

 「平和があるように」とは、ユダヤ人の日常的な挨拶の言葉です。出会った時も別れる時も、一言、「シャローム!」と言lいます。この「シャローム」は、ヘブライ語で、おはよう、こんにちは、こんばんは、といった挨拶のすべてに使われており、旧約聖書に200回以上も出てきます。

 聖書にとって「平和を造り出す者」とは、平等より、より自由な。公平よりも、惜しみなく与え合う。喜び踊るような相互の関係を構築しようとする者のことです。神様の平和が臨む時、私たちの自己中心的な物差しを手放さない頑なさ、高ぶりは暴露され、砕かれるのです。それは不自由さから真の自由へと招く神様の愛ある行為なのです。神様の平和は、激しい葛藤、衝突、相互対話の中で構築されていくのです。(K神学生)

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夕べの礼拝「主の食卓を囲んで」のご案内

2018-08-11 12:49:46 | 教会案内

夏休みもお盆も関係なくやっていますよ。

8月12日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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「おいでや」こども食堂(第6回)ご案内

2018-08-07 07:45:30 | イベント

9月12日(水)午後4時~7時

親もこどもも赤ちゃんも

中・高校生も みなおいでや

教会の2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:水餃子(台湾秘伝)

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円

みんなで食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや

赤ちゃん連れのママ・パパもおいでや。

ボランティアさん、ほぼ10人でまっています。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフがおります)

場所 日本バプテスト大阪教会 (検索)

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