主日礼拝宣教 民数記11章1-23節
本日も先週に引き続き民数記、その11章のところから御言葉に聞いていきたいと思います。シナイを出発してから荒野を旅する民は繰り返し、「主の耳に達するほど、激しく不満を言った」とあります。この「不満」「悪」「不平」等を意味します言葉は、民数記の一つのテーマになっていると言われています。民は奴隷の状態から解放され、救い出された感謝と賛美が消え去り、その同じ口から、不満や不平や悪口が出てくるのです。主はその民の「不満」を聞いて激しく憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、宿営の端を焼き尽くしたのです。そこで、民はモーセに助けを求めて叫びをあげ、モーセが主に祈ると火は鎮まりました。
次に、マナに対する「不満」が4-9節に記されています。それは「人の欲は飽き足りない」「人を本当に満たすものは何か」というテーマです。 不満は、まず民に加わっていた雑多な他国人から起こりました。彼らはエジプトの奴隷とされていましたが、イスラエル人に従って出てきたのですが、主なる神を知らない人たちでした。しかし神は人を分け隔てなさらず、イスラエルの人たちと同様にマナという食物をお与えになったのです。そのマナについてですが。その調理法などが7―8節にありますように、主は荒野という厳しい環境の中で、人々が飢えることなく、健康が保たれ、しかも噛むとちょっと甘味のある食物を民に備えてくださったのです。しかし他国の人々は、その主が与えてくださったものでは満たされません。「それでは足りない」と、飢えと渇きを訴えます。そのマナの単純な味に飽きてしまい、エジプトにいた時に新鮮な肉や魚、野菜や果物を食べていた事を思い起こして、不満を訴えたのです。すると、何とそこにいたイスラエルの人々もその他国人たちの不満につられるかのように泣き言をいった、というのです。 他国人のマナに対する不満は、私たちに「人の欲は飽き足りないこと」を教えています。ただ見落としてはならないのは、イスラエルの人々は、他国人たちと違い主なる神を知っていたことです。災いを過越させ、追手から守って紅海を渡らせ、さらに険しい荒野の中では水を湧き出でさせ、天から命の糧、マナを降らせ与えてくださるお方は、信仰の父祖らを守り導き、今や自分たちを導かれる主なる神であることをイスラエルの人たちは知っていました。ところが、その人々が他国人の不満や泣き言に同調し、同様の泣き言を言い出したのです。モーセは民のどの家族も家の入口で不満や泣き言を言っているのを聞き、主の怒りが激しく燃え上がるのを知って苦しむのです。彼は民と主なるお方の間に挟まれ大変苦悩するのです。
そこでモーセは主に、11節「あなたは、なぜ、僕を苦しめるのですか。なぜわたしはあなたの恵みを得ることなく、この民すべてを重荷として負わされねばならないのですか。」14節「わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。」と訴えます。そして15節「どうしてもこのようになさりたいのなら、どうかむしろ、殺してください」とまで言うのです。モーセの人間としての弱さがさらけ出されているのです。けれどそれは見方を変えるなら、彼は自分の限界を認め、主に全身全霊を賭けて、依り頼んでいるのです。あの大伝道者とされた使徒パウロも病を抱え、伝道も思うように実りを得ず、自らの無力さに打ちのめされる中で、3度、主に祈るのですが。そのとき、主はパウロにこう語りかけられました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(Ⅱコリント12章9節)。 パウロが自分の弱さのゆえに全面的に主に依り頼む時、そこに主の力はパーフェクト、完全に発揮される、という「主のお言葉」が与えられるのです。そうして福音伝道は実を結んでいくのです。それは、主の前にありのままの自分、その破れや弱さをすべてさらし、主にすべてをかけて訴え祈るとき、人ではない神の最善が実現されていくのです。 もう限界です。どう仕様もないです。お手上げです。というような時を私たちも経験することがあります。そこで問われていることは、訴えでも、祈りでも、嘆きでも、叫びでもいいのです。主に相対して、自分のありのままの弱さをさらすことができるのは、幸いなことなのです。
さて、そのモーセの訴えに対して、主は答えてくださいます。
一つは、16-17節にあるように、主はモーセの重荷に対して、それを分担し、共に担うにふさわしい70人の長老を選び出し、主がモーセに授けた霊の一部を取って、その彼らに授けて、民の重荷をモーセと共に担うようになさるのです。「もう、あなた一人で負うことはなくなる」と主は言われるのです。一人で負わねばならないと思い詰めていたモーセは、そのお言葉によってどれ程解放されたことでしょう。仕事も様々な人間関係も自分でやらなければと気負い過ぎると、やがて負担となり疲れ果ててしまうものです。「共に担う人」や「助け手」が与えられるように願うということは大切なことですね。
そしてもう一つは、荒野での民の食糧についてのお答えでした。主はそれを今度は「民全体に告げなさい」言われます。それは、「明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。それは、1ヶ月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。」というお言葉でした。 主が60万人以上いる民のすべてに「肉を1ヶ月の間食べさせよう」とのお言葉に疑念を抱くモーセに主は23節でこう言われます。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならなか、今、あなたに見せよう。」何という力強いお言葉でしょうか。信仰を目覚めさせお言葉であります。これらの主のお言葉を聞いたモーセは、その「主の言葉を民に告げ」「そのお言葉のとおり従いました」。モーセは主のお言葉をもはや自分のものとしてではなく、民全体のこととして受取りました。そして民も皆、主のお言葉を受取り、それをシェア-、共有したのです。
ところで、先の肉を民のすべての人に行き渡るために、まず「明日のために自分自身を聖別しなさい」と言われた聖別というのは、神の恵みに与るための心構え、備え、準備するということです。この礼拝もそうです。私たちが礼拝に臨むときに、それぞれに備え、準備、心構えをもって礼拝に臨むでしょう。その時は主なる神に思いも心に集中して向けていくようにします。主の恵みを知るものは、そのように心がけて礼拝に臨みます。そうして主の恵みをゆたかに受け取る準備が整えられるのです。
さて、モーセが一人で負っていた荷は、主のお言葉通り、民の中から選ばれた70人の長老たちがよって分担して担われるようになります。又、主は民に肉となる「うずら」の群れを送り続けるのです。こうして主の言葉はそのとおりになります。ところが、民に予期せぬことが起こります。民の中に毎日貪欲にうずらを集める者が主の怒りを招き、疫病にかかるという事態が起こるのです。貪欲とは、自らを聖別しなくなる状態を表します。ここを読みますと、人の欲は尽きないということです。欲を満たすと更に新しい欲が生じます。主イエスは「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(マタイ7章)と言われました。今与えてくださる神の恵みを享受し、不満や不平から解放されるにはどうしたらよいでしょう。
主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(同7章33節)と言われます。神の御心に適うことを求め、その実現に向けて生きる者に、その必要と共に充実に満たされた命の日々を主が備えて下さるのではないでしょうか。
最後に、今日の箇所を読みまして改めて注目しますのは、エジプトから脱した女性・子どもを別にしても60万人とも言われる民の中に、イスラエルの人びと以外にも種々雑多な人々(出エジプト12:38)、それは様々な事情を抱え苦役を課せられていた他国人も包含した荒野の旅路であったということであります。主はそれを良しとされました。あらゆる生きとし生ける人びとが世の罪の縄目から解き放たれ、解放されるようにと切望なさる、寛大な主のご愛と深い憐みをここに読み取ることができます。クリスチャンか、そうでないか。信仰があるか、ないかで分け隔てしない寛容なすべての人々の父なる神さまのお姿が浮かんでまいります。現代の世界において、国内外もそうですが「~ファースト」ということが流行り、主張されていますが。それはややともすれば、「自分たちが1番で、自分たちの考えは正しい。それを受入れず、認めないものは出て行け。」と排除し、締め出す独善的で排他的な世の中は何と殺伐とした世界でしょう。そういう中、出エジプトという神の解放と救いの旅路をなす民の中に、主はイスラエルの人びとだけでなく、他国の人たちをおき、共に導こうとなさるのです。主の解放と救いのメッセージに、私たちも応えて共に歩んでいく者とされてまいりましょう。祈ります。