日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祈りの力

2021-07-25 17:41:51 | メッセージ

礼拝宣教 ヤコブの手紙5章7~18節 


 7月はヤコブの手紙から御言葉を聞いてまいりましたが、本日で終わりとなります。主の憐みと慈しみによって新しい命を頂いた信仰者は、「御言葉を行う人「御言葉を生きる人」として招かれています。主は日々の生活の中でこそ御言葉に聴きき、応えて生きる人に、救いの祝福とほんものの恵み深さを体験として与えてくださるのです。

本日は先ほど読まれました5章7-20節より、御言葉に聞いていきたいと思います。ここには、主の来臨を待ち望みつつ、如何に生きるかということが私たちに語られています。その柱は「忍耐」と「祈り」です。

まず、前の段落の1-6節のところを読みますと、ヤコブは富んでいる人たちに対して次のように警告します。「あなたがたはこの終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは地上で贅沢に暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。」主を待ち望んで生きる事を忘れた人たちに警告します。

その上でヤコブは、「だから、兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と語ります。つまり、この兄弟たちとは、当時教会の多数派を占めていた比較的貧しい労働者たちであったのです。その彼らに対して7-11節までに「忍耐」という言葉が実に6回も語られます。それは、ただひたすら我慢するといった消極的なものではなく、主が来られるという希望の中で忍耐が語られているのですね。
彼らは収穫を得るまでには大変な忍耐がいることをその経験で知っています。パレスチナはあまり雨が降らず水は貴重です。だから「秋の雨」と「春の雨」を忍耐しながら待ちます。農夫は収穫まで作物の手入れを怠らず、自然の力をじっと忍耐して待つ必要があるのです。主に従い生きる信仰者においても、その実りと収穫の日に向け希望をもって「忍耐しなさい。心を固く保ちなさい」とヤコブは励ましているのですね。
ヤコブが手紙を宛てた人びとは様々な困難や問題を抱えていたことが伺えます。ストレスもかなりあったのでしょうか。「互いに不平」を言い、裁き合うような残念なことが起こっていたのです。それに対してヤコブは、「裁く方が戸口に立っておられます」と兄弟たちを厳しく戒め、「心を固く保ちなさい」と命じます。

ヤコブは「主の名によって語った預言者たち」を引き合いに出し、その「辛抱と忍耐」を模範としなさい、とさとします。それは民の悔い改めと救いを願いつつ、神の言葉をまっすぐに語ったために、多くの苦難と迫害を受けた預言者たちの忍耐です。彼ら預言者は権力者からの弾圧だけでなく、同胞の民からも酷いバッシング、ののしり、非難中傷を受けました。しかしその忍耐は後の世になって民を悔い改めへと導き、やがて実を結びました。

さらに、ヤコブは「ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」と語ります。
ヨブは激しい苦難と試みの中で信仰が問われますが、主がそのヨブの忍耐を顧みてくださったのです。神は「慈しみ深く、憐れみに満ちたお方である」との信頼を、ヤコブは呼びかけているのです。私たちも又、これらの預言者やヨブに倣い、忍耐強く信仰の歩みを続けてまいりましょう

さて、次にヤコブは「誓いを立ててはなりません」と命じます。
大言壮語という言葉があります。口では大きなことを言っても実行が伴わないなら虚しいことです。
ヤコブはむしろ「裁きを受けないようにするために、あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」と言います。
御言葉に誠実に生きる。神の前に人生を然りは然り、否は否とまっすぐに生きていく。主の来臨を待ち望む者として、そのように歩んでいくように努めたいと願います。

ヤコブは手紙の締めくくりとして、主の来臨を待ち望む者にとって大きな力となる「祈り」について、聞いていきたいと思います。
まず、ヤコブは「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)と語ります。

ここで大事なのは、苦しみの時も喜びの時も、変わらずに主に依り頼み、主に感謝する、その主との関わりがいつも絶えないようにという事です。苦しい時の神頼みというのは日本の風習にもなじみ深いものですが。

苦しみには様々あります。生活に関わるもの。身体的なもの。あるいは精神的なもの。病の苦しみ。又不安や恐れといった悩みから来る苦しみ。更に外的な抑圧、非難中傷、いわれのない偏見や差別による苦しみと様々です。そのように苦しんでいる時は、ただ耐え、我慢し、自らの内に苦しみを抱え込みがちになります。そのような時に私たちは祈ります。主により頼み祈る。祈りにも忍耐が必要です。主イエスはあきらめず忍耐強く祈り続けることがどれ程大切かを何度もお教えになりました。

ヤコブはまた、喜びの時は「賛美の歌をうたいなさい」と勧めます。すべての喜びの源は主から来ることを忘れないためです。
苦しみの時や喜びの時というのは、自分のことに囚われてしまいやすいものです。苦しみの時に囚われますと、孤独が高まり益々苦しくなります。だからこそ、主に祈りと賛美を捧げ、聖霊のお働きを求めていくことが大事なのです。主が共にいてくださる平安、主が助けの道を備えてくださる信頼と確信はこの地上の何ものにも代え難い宝であります。

又ヤコブは、病気になった人がいたら「教会の長老を招いて主の名によって祈ってもらいなさい」と勧めます。この長老とは「年をとった者」という原語そのままでありますが。しかしそれは、単に教会の役員や牧師、年を取った信仰経験の長い人ということではありません。救いの感謝に日毎新しくされ、主の言葉を生き、努めて祈る。神と人とに誠実な聖徒を指しているのです。
そうした人の「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と言うのです。
「長老」や「オリーブ油」は信仰の助けではありますが、大切なのは「主」が病人を起き上がらせてくださる。「主」が罪を犯した人をゆるしてくださるということです。
ここに病人と罪ということが出てきますが、病の原因が罪にあると言うことを言っているのではありません。しかし病気を抱えますと、これは私が何か悪いことをしたからだとか。あのことに対する責めだろうかと、悩み、心まで沈んでしまうことがないでしょうか。主イエスは体の不自由な人に治れとはおっしゃらず、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言なさいました。その解放の喜びと神への信仰が相俟って彼は全人的にいやされたのです。たとえ肉体はもとのように治らなかったとしても、罪のゆるしの宣言は神との関係性の回復であり、その確信と喜びは全人的な魂の救いに違いありません。
16節で「主にいやしていただくために、罪の告白をし合い、互いのために祈りなさい」というのも罪の告白をし合い、互いのため祈り合うことが、全人的癒しをもたらすということです。
主イエス・キリストにある救いが実現された時から、キリストを信じる者の互いの告白と証言によって、信仰による救いを確信し合うこととなったのです。          ヤコブが「罪を告白し合い、互いのために祈り合いなさい」と言うように、その証言ととりなしの祈りはキリストにあって神に聞き入れられるのです。


ヤコブは「正しい人の祈りは大きな力があり、効果をもたらします」と勧めた後、17-18節でエリヤの祈りをあげています。彼は北イスラエルの預言者でした。彼も私たちと同じく人としての弱さと悩みを知る人でありましたが、神を愛し主の民を思うとりなしの祈りの人でした。彼は、民が救いの神を忘れ異教の神ならざるものを拝むことを大変憂いていました。そのエリヤが告げたとおりイスラエルには3年半もの間雨が降らなかったということです。そののちエリヤは今度は雨が降るように祈ります。ところが1度2度祈ったところで雨は降りません、3度、4度と祈っても、一つの雲も見えません。それでもエリヤは7度(たび)祈りきったところ、空に手のひらほどの雲が現れ、風が起こり、やがて大雨が降り出し、地は実らせたというのです。主は彼の祈りを聞かれたと、列王記上18章に記されています。エリヤは一人で主に祈りました。もちろん一人で主に祈ることは基本ですが。ヤコブがここで勧めているのは「互いのために祈り合う」ということです。それが大きな力なのですね。ヤコブは効果をもたらしますとも言っていますが。エリヤが民のために祈りとりなしたように、神の愛によってとりなし祈る。

私たちの教会でもひとり一人のことを覚えて祈り合うため「祈りの輪」という暦が作成されています。毎日、教会の友を覚えて祈る、毎日、誰かのために祈り、又誰かに祈られて、日々を過ごせることはどんなに確かで感謝なことでしょう。それはあてにならない占いを見て惑わされるのとは全く違います。主にあって互いに祈り合う生ける神の共同体とされてまいりましょう。
又、現在は毎週火曜日、木曜日ですが、朝6時半から1時間ですが。有志による早天祈祷会を開始しました。お仕事のある方、遠方の方は参加は難しいかも知れませんが。どうぞ、そのところで祈りを合わせてくださればと思います。
今日は、主の来臨のときまでの積極的な「忍耐」、そして「祈りの力」について御言葉を頂きました。
コロナ禍、猛暑の中で大変ですけれども、主につながり、主にある交わりを堅く保ちながら、今週も主の祝福と平安を共に与ってまいりましょう。

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天来の知恵

2021-07-19 09:23:13 | メッセージ

礼拝宣教 ヤコブの手紙3章13~18節 

 

インターネットの普及で某サイトに「知恵袋」というものがあります。何か困ったな、と思った時、この知恵袋に尋ねてみると、いろんな人からの知恵が寄せられてくるというものです。私も時々利用させて頂いていますが、皆さんの中にも「知恵袋」を使った方もおられるかも知れません。その知恵袋について、これも知恵袋からですが次のようにありました。「『おばあちゃんの知恵袋』という本が出版されました。内容は、おばあちゃんが知っている衣食住の様々な経験上のノウハウを披露するというものでした。 昔は何世代もの世帯が同居しその間に様々なノウハウを伝授されていましたが、現在のような核家族では教えてもらう相手さえおりません。それらのニードにこの本がマッチし、大変好評を博しました。おばあちゃん的存在としてインターネットで気軽に教えてもらえる仕組みを『知恵袋』と名付けたようです」とありました。

専門知識ばかりでなく、先人の知恵や人の体験や経験から出てくる知恵ってとてもゆたかですよね。そうして得た知恵を自分のためだけだけでなく困っている人やどうしたらよいのかわからない人と共有し、生活に活かしていけるとしたら素晴しいですよね。

 

さて、本日は聖書が示す知恵についてのお話であります。

先ほど読まれました3章の箇所には「上から出た知恵」と言うことが書かれていますが。他の聖書、柳生直行さんという方が訳されたのは「天から下ってきたほんものの知恵」という言葉です。「天から下ってきたほんものの知恵」。ヤコブはこのいわば「天来の知恵」について次のようにいっています。

13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。」

聖書のほんものの知恵はそれにふさわしい柔和な行いと立派な生き方によって証明されるということです。この「柔和な行い」というのはどういうものでしょうか。それは態度や性格が優しく穏やかであるということだけでなく、「謙遜」や「謙虚」なあり方を表わします。自分に知恵があり分別があると思っている者がいるなら、クリスチャンのそのような柔和な行いや言動、また立派な生き方によってこそ、それがほんものであることを示しなさいと、ヤコブは言っているのです。ヤコブがわざわざそのように言ったのは、教師や指導者、又そのような立場を志そうとする人たちに、そのあり方を今一度自己吟味してほしいと願ったからです。それは3章の始めのところに「あなたがたのうち多くの人が教師となってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることなると、あなたがたは知っています」と記しているとおりです。主イエスも公の場で先生と呼ばれることを好む人たち、又人に教えてもその行動が不正と偽りに満ちている人たちを非難され、弟子たちには「あなた方は先生と呼ばれてはならない」と注意を促されました。

ヤコブはここで、続けて「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです」と言っています。「わたしたちは皆」というのですから、ヤコブほどの人であっても言葉による過ちを犯し、又どんな立派に思える人も過ちを犯すことを見てきたのでしょう。だから「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分を全身で制御できる完全な人です」とまでいうのでしょう。いや耳が痛いです。私自身も幾度となく「言葉による誤りを犯してきた者である」ことを深く悔い改めないわけにはいきません。日々御言葉の教えによって気づかせて頂く以外ない者であります。クリスチャンとされたのだから過ちを犯さない、というのは高慢なことです。日々、主のみ救いがなければ、如何に救い難い者であるかということを覚え、謙遜な者とされたいと願います。

さて、ヤコブは教会の中で、自分は知恵があって賢いと誇り、高ぶっていた人たちに対して、次のように指摘します。

14-16節「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的あるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。」

人を見て人と比べ、良く思われたい、認められたいと思うと、ねたみや利己心から人は罪を犯します。「それは正しくないよ」という良心の声に逆らい自己正当化して、自分と他者をおとしめてていくことにもなります。

ヤコブは「そのような知恵は上から出たものでない」、正確に原語に沿えば「上から下って来るのではない」と訳されます。(口語訳、岩波訳、岩隈直訳)

その知恵は第一に「地上的もの」、第二に「この世的もの」、正確にはサルクスという原語に沿えば「肉的もの」です。第三に「悪魔的もの」だとヤコブは言います。特に三つ目の「悪魔的な知恵」とは、偽りと欺き、そして自分と相いれない人を排除するための謀略に満ちた知恵のことを示しています。排除や分断を招く利己的知恵は天からのものではなく悪魔的な知恵だと、厳しい言葉ですが、ヤコブは強く戒めます。

それでは、この「上からの知恵」とはどういうものかを具体的に見てみましょう。

第一は「純真」。それは不純や邪念、私欲がなく、きよらかなものということですが。クリスチャンはもとより自分の中に罪を認め、主の信仰に与ったものであります。その信仰に生きており、きよさが上より与えられます。命があります。主は全ききよさをもって私たちに臨み、日々主とつながって生きる続けるように招いておられるのです。そこに純真という上からの知恵が与えられているのです。

第二は「温和」。原語に沿えば「平和的」とも訳せます。それは神と人間の正しい関係。又人間と人間の正しい関係であります。党派心や分断は世から出たもの、肉から出る知恵ですが、ほんものの知恵は私たちを神に近づけ、人間同士を互いに近づけるものです。平和を造り出す者は神の子と呼ばれる。そのような「温和」という上からの知恵が与えられています。

第三は「優しさ」、それは「寛容」とも訳せます。自分がそうして欲しいと願うことを、他の人にも配慮をもって行うことです。主がゆるしてくださるからゆるす心が生まれます。主が愛してくださるから愛す心が生まれます。福音の喜びが私たちをおおらかにしてくれます。このような「寛容」という上からの知恵が与えられています。

第四は「従順」。これは「温順」とも訳せます。喜んで聞き、それに懸命に応じる態度です。しなければならない、ではなく恵みに対して喜びをもって応えて生きる。いうことを聞くではなく、最善をなしてくださる主に信頼して従う。温順の温かいは、そういった信頼や安心のもとに従うということを言っているのです。温順という上からの知恵が私たちに与えられています。

第五は「憐みと良い実」。主の御憐みによって救われていると知っている者は、苦しみ、悩んでいる人の思いに共感し、寄り添う者とされていくのです。

第六は「偏見がない」こと。主が人を分け隔てなさらず、人を愛されたことを知り、体験して、人を偏り見、人を差別することの愚かさに気づきます。

第七は「偽善的でない」。主イエスの教えはいつも心の根までも問われます。表面的な取り繕い、偽善は神の前には明らかです。

このように、上からの知恵は単に知識をもっているということではなく、文字通り主から与えられた知恵なのです。

「上からの知恵」とそうでない「地上的な知恵」「肉的な知恵」「悪魔的な知恵」の業とその実に明白な違いがあることがわかりますね。

だれでも賢く生きていきたい。立派な人生を送りたいと願うものです。確かに人間の倫理としてそのように努めて生きることは尊いことです。しかし先に見ました「この上からの知恵」は倫理ではありません。倫理は人が判断し、良かれと思う者であるがゆえに、時代や社会の状況によって変化するため、時に自分と人を失望させます。それに対して上からの知恵は使徒パウロが記したコリント一13章の愛の賛歌と重なるところが多いように思います。そのコリント13章の「愛」のところにキリストの御名を入れてちょと読んでみますね。「キリストは忍耐強い」「キリストは情け深い、妬まない」「キリストは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず」、真実を喜ぶ。キリストは全てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

今日のこの「上からの知恵」も「知恵」のところに、キリストの御名を入れて読みますと、「上から出たキリストは、純真で、更に、キリストは温和で、優しく、従順なもので、憐みと良い実に満ちています。キリストは偏見はなく、偽善的でもありません。このキリストこそ、天から下ってきたほんものの知恵なるお方であることがよくわかります。先に「上からの知恵」の7つの特性について触れましたが。主イエス・キリストこそ、この知恵を体現なさった方であり、私たちはこのキリストへの信仰、すなわち主を信じ、仰ぎつつ倣い、従うことによってそのご性質に与る者とされるのです。

最後に、18節にありますように「義の実は、平和を実現する人たちによって平和のうちに蒔かれるのです。」

この平和は先ほども申しました神と人との正しい関係、又人間と人間との正しい関係であります。その関係性を造り出そうとする人、この地上に実現しようと努める人によって、義の実は蒔かれ続けるのです。その尊い務めのために、私たちも又「上からの知恵」、「天来の知恵」を賜っているのですね。ヤコブの時代も、そして今も、様々な世の力が働き地上的な知恵、肉的な知恵、悪魔的な知恵が神との関係、人と人の関係を激しく揺り動かしています。天来の知恵である主イエス・キリストにあって義の実を結ばせる種を蒔く者としてクリスチャンは立てられているのです。主は平和のうちに義の実を実らせる種を蒔き続ける者として心新たに、御言葉の招きに応えて今週もここから遣わされてまいりましょう。

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人を分け隔てする罪

2021-07-11 17:58:46 | メッセージ

礼拝宣教  ヤコブの手紙2章1~13節 

 

先週は残念なことに、スペインの有名サッカークラブチームのメンバーがアジア人に対して蔑視する動画をSNSで投稿していたというニュースが報じられました。多様性が尊重されてきたはずの現代にあっても一向に差別はなくなりません。差別は創造主なる神の御手をもって造られた人の尊厳を侵し、貶める行為です。それは差別する側自身の尊厳をも貶めているのです。

本日は先ほど読まれました2章の箇所から「人を分け隔てする罪」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

ヤコブは1節で「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」と命じます。

イエス・キリストを救い主として信じる者は、この地上にあって主の栄光をいつも仰ぎ見つつ、歩む者とされています。その主ご自身は人を分け隔てなさらないお方でした。

ヤコブは2節で「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」と、このようにただします。「誤った考え」というのは、見た目や肩書きだけで人を判断するということですね。この当時のヤコブが手紙を宛てた教会には、貧しい人々が多かったようですが。一方で、金の指輪をはめた立派な身なりの富んだ人も礼拝の場に訪れていたのです。

ヤコブは「あなたがたは、自分たちの中で差別をし」と言っていますが。ほかならぬキリストの教会の神の栄光を信じ望むものたちが、この世の栄光を重視して人を分け隔てしている光景を彼は礼拝の場で目にしていたのです。

ヤコブは差別することが「誤った考えに基づいて判断を下した」ことになると語ります。

この「判断を下した」の原語の本意は、裁判官になった、判決を下した、ということです。それが誤っているのですから、誤った考えに基づいた判決を下している、ということです。

当時ローマが管轄していた裁判所・裁判官の大方は、富む者、裕福な者に有利な判決を下していたと言われています。そこには利権がからんでいました。そして世に富む者、裕福な者は社会的に自分より貧しい者を賄賂で都合のいいように裁判所に訴えることができたのです。しかし貧しい者は裕福な者の不正を訴えることができなかったのです。

ヤコブは「あなたがたは、貧しい人を不当に辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所に引っ張って行くではありませんか」と語ります。つまり貧しい人を分け隔てしたこと、見た目や肩書で偏り見たことは、富める者が不当な告発をして裁判所へ引っ張って行くのと同じことだ、と指摘しているのです。

そうですね。不当に訴えられて裁判所に連れていかれて有罪判決を受けるとは理不尽です。同じように、差別というのは全く不当で人に苦痛を与えるものです。

ヤコブはさらに7節「また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか」と言います。「あなたがたに与えられたあの尊い名」とは、主イエス・キリストの御名のことです。

主イエスは、どんな立場の、どんな状況にある人にも手を置いていやし、罪のゆるしの宣言をもって神のみもとに招かれました。今もそうです。人を分け隔てすることは、とりもなおさず主イエス・キリストの御名を汚すことになる。ヤコブは教会の「あなたたち」も又、人を分け隔てするのであれば、彼ら不当に人を貶めようとする者らと、同様というのです。

ヤコブは5節で次のように語りかけています。「わたしたちの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者とされたではありませんか。」

ここには「神の選び」の計画と祝福の約束が説かれています。それは貧しい者の救いと祝福によって神の恵みの業が証しされるというご計画です。

ヤコブが手紙を宛てた教会では、ユダヤ人も異邦人も共に礼拝を捧げていましたが。ユダヤ人には神の選民という誇りがありました。信仰の父祖アブラハムの祝福の約束を受け継ぐユダヤの民、その一つの基となる申命記7章6—8節にはこう記されています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに。」この主の愛は、憐みといつくしみの愛です。

主がユダヤ人たちを宝の民として選ばれたのは、彼らが誰よりも優れて立派だったからではありません。彼らはむしろ貧弱で憐みを受けるほかない存在でした。ただその彼らを主は愛しご自身の宝の民とされたのです。そして今や主イエス・キリストによって異邦人である私たちもその祝福に接ぎ木されたのであります。いずれにしましても、ユダヤ人キリスト者も異邦人キリスト者も又、主の前に何も誇れるべきものがない。罪と世の力に滅ぶほかないような者であった。

しかし、神はその憐みのゆえに御子イエス・キリストを罪を贖う供えものとして十字架に送り、その血潮をもって滅びから免れさせ、ご自身の宝の民としてくださったのです。

もはやそこには分け隔てはなく、どんな人も、神の祝福のうちに招き入れられているのです。この神の救いは、人の血筋、人の能力、人の地位、人の業績といった人が誇りとするようなものによるのではありません。逆に、如何に自分が主イエスの救いがなければ神の御前に到底立つことのできない者であるかを知る者に与えられた神の一方的恵みなのです。この神の憐みによる選びは今も変わることはありません。

8-9節で、ヤコブは次のように語ります。「もしあなたがたが、聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行するなら、それは尊いことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます。」

この「隣人愛」は最高峰の律法の一つでありますレビ記19章18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を基としたものであります。律法の根本精神であります。主イエスご自身「律法と預言者はすべてこれにかかっている」と言われました。また、使徒パウロはローマ13章10節で「愛は律法を全うするのです」と語っています。

ヤコブは、どんなに努力して「律法全体を守ったとしても、一つの点におちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。『姦淫するな』と言われた方は、『殺すな』とも言われました。そこで、姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となるのです」と、極端とも言える例を出しますが。それ程差別というのは人殺しと同じぐらい人を不当に痛めつけることと言いいたかたのかもしれません。いずれにしましても、ここで「隣人愛」が問われているわけです。

祈祷会の聖書の学びの時にも出ましたが。福音書に律法学者やファリサイ派の人々が主イエスを試し、訴える口実を得るために姦通の場で捕らえられた女性を引っ張ってくる場面があります。その時に主イエスは「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われるのです。すると、それを聞いた者は年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきます。長く生きてきた者ほど自分の胸のうち、罪深さをさぐられたのです。

主イエスはこの女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたとあります。

このゆるしと憐みにあって罪に打ち勝って生きるようにと、主イエスはお奨めになられたのですね。ここが主イエスのすごいところです。神の正しさを担われつつ、神の憐みによって人を生かす。主イエスはまさにここで、隣人愛無き律法の虚しさと、神の愛、憐みによる救いこそ人を生かす律法の本質であることをお示しになられるのです。その集大成こそが、神の義と愛による救いの宣言、贖いの十字架であったのです。

12節「自由をもたらす律法によっていずれ裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。」この自由をもたらす律法こそ、主イエス・キリストなのです。

十字架の愛の主のみまえに立ち得るか、主の救いに与った私たちは問われています。

ヤコブは最後に言います。13節「人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます。憐みは裁きに打ち勝つのです。」

キリスト者となって信仰生活が長くなりますと、自分が主の憐みによってのみ救われたということを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。改めてその主の憐みと救いとを思い起こすとき、人の立場や弱さまでも思いやることのできる者とされるでしょう。                  「憐みは裁きに打ち勝つ」。私たちに与えられた信仰の恵みの賜物は、ただ主の愛、憐みによって与えられたという原点に立ち返って、喜びと感謝をもって主に仕え、あらゆる人たちとその恵みを分かち合っていくべく、主イエスにある信仰の真の勝利をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。

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命の御言葉を生きる

2021-07-04 12:28:44 | メッセージ

礼拝宣教 ヤコブの手紙1章19~25節 

 

本日より礼拝では4週に亘ってヤコブの手紙から御言葉に聞いていきます。

この手紙の著者はイエスさまの実の兄弟であり、エルサレム教会の働きのために仕えていた長老のヤコブだろうと言われてきました。しかし研究が進む中で、その長老ヤコブの死後、ヤコブの影響を強く受ける者が書いたのではないかとも言われています。又、この手紙の書かれた年代についても、使徒パウロや長老ヤコブが迫害の中で殉教の死を遂げた後に書かれたというのが有力です。

いずれにしてもこの手紙は1章の冒頭にありますように、激しい迫害よってユダヤから「離散せざるを得なかった主の民であるキリスト者」に向けて書かれたものであります。彼らが散って行った先々のそのおかれたところでしっかりと信仰に踏みとどまり、信仰の養いと実りを得て、キリスト者として生き抜いていくことをこの手紙を通してこの著者は強く訴えているのです。

ある注解者は「ヤコブの手紙全体が108節ある中で、その半分の54節が命令形で書かれている」と指摘しています。著者にとってそれだけ強く訴えなければならないような危機感があったからなのでしょう。

 

本日はその1章から御言葉を聞いていますが。ここでは、離散し移住した地、その異邦の地において、信仰が試されているキリスト者に向け、試練を耐え忍ぶ人の幸いと誘惑に打ち克つ勧めとが説かれています。

私共も、心ならずも礼拝に集い参加することの困難な状況が繰り返されています。それぞれの生活の中で霊的な飢え渇きとともに、神の愛から引き離そうとするような世の力や働きにの吞まれてしまいそうになることがあるかもしれません。今を生きる私たちに向けた神からのメッセージとして真摯に受け取っていきたいと願います。

 

それでは先ほど読まれました箇所から御言葉に聞いていきましょう。

ヤコブはまず19節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と命じています。

まあ、ここを読みますと、これは自分自身のこととして心に刺さります。自分の予定や考えが先にきて相手の言葉を落ち着いて聞けなかったり、何気なくつい口走ってしまったことに後で後悔したりします。

特に怒りの感情がぼおーと燃え上がりますと、理性をコントロールすることは大変難しいことです。

「話すのに遅く」に対しては、旧約聖書の知恵の書である箴言に「口数を制する人は

知識をわきまえた人」(17:27)「秘密をばらす者、中傷し歩く者、軽々しく唇を開く者とは、交わるな」(20:19)とあります。さらに「怒るのに遅いように」については、コヘレトの言葉に「気短に怒るな。怒りは愚者の胸に宿るもの」(7:9)と耳が痛くなるような指摘の言葉があります。

そしてヤコブは、「人の怒りは神の義を実現しないからです」と述べます。

 

ユダヤの人々が「神の義」と聞くと、まず頭に浮かぶのは「神の律法と戒め」です。そして律法は「神への愛と隣人を自分のように愛することに要約される」と教えられています。「人の怒りはその神の義を実現しない」(20節)、ということです。

一方で「義憤」いう言葉があります。正義の義に憤りと書きますが。それは真の正しさ、正義が脅かされ、侵害されることに対する憤りです。

あの柔和なイエスさまが「憤られた」場面がいくつかあります。その中でも特に思い浮かんできますのは、「主イエスの宮清め」と言われる箇所です。神に捧げる犠牲の献げものに法外な値段をつけて貧しい人たちからお金を騙し取っていた神殿の商人たちをイエスさまは追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒され、次のように言われました。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである、ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」と。それは彼らが貧しい人たちの信心を食い物にしていることへの義憤を露わにされたのです。

イエスさまご自身はその祈りの家において、目の見えない人や足の不自由な人々を深く憐れんで、おいやしになり、罪に悩む人にゆるしと解放の宣言をなさったのですね。神の正しさにおける憤りは、人を真に生かし救うのです。

このヤコブの手紙のいう「怒り」は、利己主義や身勝手さから起こる感情であることを押さえておく必要があります。

 

ヤコブはさらに21-22節で、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と命じます。

ここに「心に植え付けられた御言葉」とありますが。それは言うまでもなく主の福音を私たちが聞き続け、心にとめ、反芻してきた、その神の言葉です。

よく知られているイエスさまの種まきのたとえ(マタイ13章)があります。

種は神の言葉であり、土地は私たち人間の心です。このたとえでイエスさまは4種類の人間の心を描写しています。御言葉を聞いても、素直に受け入れない道端の心。御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、深く根をおろせないためすぐに枯れてしまう石地の心。御言葉を聞くが、世の中の心遣いと富の惑わしにふさがれて実を結ぶことのないいばらの心。そして、御言葉を聞いて耕され、柔らかくされた心で素直に受け入れ、光と水を日ごと注がれて実を結ばす良い地の心であります。

ヤコブは御言葉を受け入れる人として、「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去りなさい」と言っています。これは自分の力や業で除き去るということはなかなか出来るものではありません。「素直」にとあるのは、日ごと主の御前にあって自分の罪深さ、至らなさに気づかされ、悔い改めと主の十字架の救いを確認して与り、感謝と決意をもって御言葉に聞き従っていくことであります。心かたくなに自分を正当化するなら、それはもはや主の愛も救いも御言葉も締め出しているのです。

ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはいけません」と指摘します。

「御言葉を聞いて行うこと」については、イエスさまが「家の土台」のたとえ(マタイ7章)で次のようにおっしゃっています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台にしていたからである。」

信仰とは降って湧いてそれで終わりではありません。信仰とその証しの人生は建て上げられていくものなのです。私たちは何を土台として自分を、その人生を建て上げていくのでしょう。御言葉です。そして、「御言葉を聞くだけでなく、御言葉を行う人」、それを実践して生きていく人は、人生に必ず起こって来る雨の日、風の日、嵐の日にも倒れないと、主はおっしゃるのです。

 

23-24節「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に

映して眺めるのに似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのような顔であったのか、すぐに忘れてしまいます。」

当時の最も良い鏡は青銅で作られていていたようです。それでも銅製ですので自分の姿ははっきりと映らなかったようです。

ヤコブは御言葉を聞いて行わない者について、青銅の鏡の前での自分の姿のように、どんなに素晴らしい聖書の御言葉を聞いても、実生活で一つも思い出さず自分のこととして心にとめないのなら何になるのか。せっかく御言葉を聞いても、実際の生活に活かされていないのなら、いろんな試練や誘惑の雨風に押し流されてしまう。神の救いを必要としているその自分の姿さえを見失い、罪の働きのもとでさまようことになる、と指摘しているのです。

 

25節「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です」とあります。

「自由をもたらす完全な律法」。マタイ福音書5章でイエスさまは、律法について「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とおっしゃっています。先にも申しましたが、その律法の柱は「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことにあると、おっしゃいました。イエスさまはそれを聞くだけでなく、又おっしゃるだけでもなく、その神の愛と隣人愛を行われました。まさに十字架の上でその御言葉を体現なさったのです。私たち人間にご自身を献げるまでに愛しぬかれる生ける御言葉、主イエス・キリスト。このお方こそ、「自由をもたらす完全な律法」です。このイエス・キリストを一心に見つめ、これに聞き従う者は「その行いによって幸せになります」とヤコブは言うのです。

主イエス・キリストと出会い、主を信じ従って生きる決意を表明した私たちキリスト者は、世にあって罪の力や働き、いざないがあっても、罪の滅びに打ち克つ信仰を頂いています。それはまさにどんな時も、どのような事があっても主に聞き、主に従う証しの日々、「命の御言葉を生きる」ところに私たちの幸い、祝福がある。それは御言葉の真理であります。

最後に、本日は「命の御言葉に生きる」と題し、聖書に聞いてきました。ヤコブは「御言葉を行う者になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と命じています。地上でのご生涯、その歩みを全うなさり、自由をもたらす律法の完成者となられたイエス・キリストを一心に見つめつつ、今週もその命の御言葉を生きるものとされてまいりましょう。

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