礼拝宣教 ヤコブの手紙5章7~18節
7月はヤコブの手紙から御言葉を聞いてまいりましたが、本日で終わりとなります。主の憐みと慈しみによって新しい命を頂いた信仰者は、「御言葉を行う人「御言葉を生きる人」として招かれています。主は日々の生活の中でこそ御言葉に聴きき、応えて生きる人に、救いの祝福とほんものの恵み深さを体験として与えてくださるのです。
本日は先ほど読まれました5章7-20節より、御言葉に聞いていきたいと思います。ここには、主の来臨を待ち望みつつ、如何に生きるかということが私たちに語られています。その柱は「忍耐」と「祈り」です。
まず、前の段落の1-6節のところを読みますと、ヤコブは富んでいる人たちに対して次のように警告します。「あなたがたはこの終わりの時のために宝を蓄えたのでした。御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは地上で贅沢に暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。」主を待ち望んで生きる事を忘れた人たちに警告します。
その上でヤコブは、「だから、兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」と語ります。つまり、この兄弟たちとは、当時教会の多数派を占めていた比較的貧しい労働者たちであったのです。その彼らに対して7-11節までに「忍耐」という言葉が実に6回も語られます。それは、ただひたすら我慢するといった消極的なものではなく、主が来られるという希望の中で忍耐が語られているのですね。
彼らは収穫を得るまでには大変な忍耐がいることをその経験で知っています。パレスチナはあまり雨が降らず水は貴重です。だから「秋の雨」と「春の雨」を忍耐しながら待ちます。農夫は収穫まで作物の手入れを怠らず、自然の力をじっと忍耐して待つ必要があるのです。主に従い生きる信仰者においても、その実りと収穫の日に向け希望をもって「忍耐しなさい。心を固く保ちなさい」とヤコブは励ましているのですね。
ヤコブが手紙を宛てた人びとは様々な困難や問題を抱えていたことが伺えます。ストレスもかなりあったのでしょうか。「互いに不平」を言い、裁き合うような残念なことが起こっていたのです。それに対してヤコブは、「裁く方が戸口に立っておられます」と兄弟たちを厳しく戒め、「心を固く保ちなさい」と命じます。
ヤコブは「主の名によって語った預言者たち」を引き合いに出し、その「辛抱と忍耐」を模範としなさい、とさとします。それは民の悔い改めと救いを願いつつ、神の言葉をまっすぐに語ったために、多くの苦難と迫害を受けた預言者たちの忍耐です。彼ら預言者は権力者からの弾圧だけでなく、同胞の民からも酷いバッシング、ののしり、非難中傷を受けました。しかしその忍耐は後の世になって民を悔い改めへと導き、やがて実を結びました。
さらに、ヤコブは「ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」と語ります。
ヨブは激しい苦難と試みの中で信仰が問われますが、主がそのヨブの忍耐を顧みてくださったのです。神は「慈しみ深く、憐れみに満ちたお方である」との信頼を、ヤコブは呼びかけているのです。私たちも又、これらの預言者やヨブに倣い、忍耐強く信仰の歩みを続けてまいりましょう
さて、次にヤコブは「誓いを立ててはなりません」と命じます。
大言壮語という言葉があります。口では大きなことを言っても実行が伴わないなら虚しいことです。
ヤコブはむしろ「裁きを受けないようにするために、あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」と言います。
御言葉に誠実に生きる。神の前に人生を然りは然り、否は否とまっすぐに生きていく。主の来臨を待ち望む者として、そのように歩んでいくように努めたいと願います。
ヤコブは手紙の締めくくりとして、主の来臨を待ち望む者にとって大きな力となる「祈り」について、聞いていきたいと思います。
まず、ヤコブは「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)と語ります。
ここで大事なのは、苦しみの時も喜びの時も、変わらずに主に依り頼み、主に感謝する、その主との関わりがいつも絶えないようにという事です。苦しい時の神頼みというのは日本の風習にもなじみ深いものですが。
苦しみには様々あります。生活に関わるもの。身体的なもの。あるいは精神的なもの。病の苦しみ。又不安や恐れといった悩みから来る苦しみ。更に外的な抑圧、非難中傷、いわれのない偏見や差別による苦しみと様々です。そのように苦しんでいる時は、ただ耐え、我慢し、自らの内に苦しみを抱え込みがちになります。そのような時に私たちは祈ります。主により頼み祈る。祈りにも忍耐が必要です。主イエスはあきらめず忍耐強く祈り続けることがどれ程大切かを何度もお教えになりました。
ヤコブはまた、喜びの時は「賛美の歌をうたいなさい」と勧めます。すべての喜びの源は主から来ることを忘れないためです。
苦しみの時や喜びの時というのは、自分のことに囚われてしまいやすいものです。苦しみの時に囚われますと、孤独が高まり益々苦しくなります。だからこそ、主に祈りと賛美を捧げ、聖霊のお働きを求めていくことが大事なのです。主が共にいてくださる平安、主が助けの道を備えてくださる信頼と確信はこの地上の何ものにも代え難い宝であります。
又ヤコブは、病気になった人がいたら「教会の長老を招いて主の名によって祈ってもらいなさい」と勧めます。この長老とは「年をとった者」という原語そのままでありますが。しかしそれは、単に教会の役員や牧師、年を取った信仰経験の長い人ということではありません。救いの感謝に日毎新しくされ、主の言葉を生き、努めて祈る。神と人とに誠実な聖徒を指しているのです。
そうした人の「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と言うのです。
「長老」や「オリーブ油」は信仰の助けではありますが、大切なのは「主」が病人を起き上がらせてくださる。「主」が罪を犯した人をゆるしてくださるということです。
ここに病人と罪ということが出てきますが、病の原因が罪にあると言うことを言っているのではありません。しかし病気を抱えますと、これは私が何か悪いことをしたからだとか。あのことに対する責めだろうかと、悩み、心まで沈んでしまうことがないでしょうか。主イエスは体の不自由な人に治れとはおっしゃらず、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と宣言なさいました。その解放の喜びと神への信仰が相俟って彼は全人的にいやされたのです。たとえ肉体はもとのように治らなかったとしても、罪のゆるしの宣言は神との関係性の回復であり、その確信と喜びは全人的な魂の救いに違いありません。
16節で「主にいやしていただくために、罪の告白をし合い、互いのために祈りなさい」というのも罪の告白をし合い、互いのため祈り合うことが、全人的癒しをもたらすということです。
主イエス・キリストにある救いが実現された時から、キリストを信じる者の互いの告白と証言によって、信仰による救いを確信し合うこととなったのです。 ヤコブが「罪を告白し合い、互いのために祈り合いなさい」と言うように、その証言ととりなしの祈りはキリストにあって神に聞き入れられるのです。
ヤコブは「正しい人の祈りは大きな力があり、効果をもたらします」と勧めた後、17-18節でエリヤの祈りをあげています。彼は北イスラエルの預言者でした。彼も私たちと同じく人としての弱さと悩みを知る人でありましたが、神を愛し主の民を思うとりなしの祈りの人でした。彼は、民が救いの神を忘れ異教の神ならざるものを拝むことを大変憂いていました。そのエリヤが告げたとおりイスラエルには3年半もの間雨が降らなかったということです。そののちエリヤは今度は雨が降るように祈ります。ところが1度2度祈ったところで雨は降りません、3度、4度と祈っても、一つの雲も見えません。それでもエリヤは7度(たび)祈りきったところ、空に手のひらほどの雲が現れ、風が起こり、やがて大雨が降り出し、地は実らせたというのです。主は彼の祈りを聞かれたと、列王記上18章に記されています。エリヤは一人で主に祈りました。もちろん一人で主に祈ることは基本ですが。ヤコブがここで勧めているのは「互いのために祈り合う」ということです。それが大きな力なのですね。ヤコブは効果をもたらしますとも言っていますが。エリヤが民のために祈りとりなしたように、神の愛によってとりなし祈る。
私たちの教会でもひとり一人のことを覚えて祈り合うため「祈りの輪」という暦が作成されています。毎日、教会の友を覚えて祈る、毎日、誰かのために祈り、又誰かに祈られて、日々を過ごせることはどんなに確かで感謝なことでしょう。それはあてにならない占いを見て惑わされるのとは全く違います。主にあって互いに祈り合う生ける神の共同体とされてまいりましょう。
又、現在は毎週火曜日、木曜日ですが、朝6時半から1時間ですが。有志による早天祈祷会を開始しました。お仕事のある方、遠方の方は参加は難しいかも知れませんが。どうぞ、そのところで祈りを合わせてくださればと思います。
今日は、主の来臨のときまでの積極的な「忍耐」、そして「祈りの力」について御言葉を頂きました。
コロナ禍、猛暑の中で大変ですけれども、主につながり、主にある交わりを堅く保ちながら、今週も主の祝福と平安を共に与ってまいりましょう。