日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

無償で義とされる

2017-04-30 19:54:19 | メッセージ
宣教  ローマ3・21-31

今日は青年主催のさんび&あかしの礼拝を捧げています。バプテスト教会は神の前に上下の身分はなく、先週のローマ書にもありましたように、「互いの持っている信仰によって励まし合う」関係性を大切にしてきました。
今日は青年の方々を通して福音の恵みを分かち合えますことを心より感謝しています。

先月のあかしでもお話しましたが。私は高校1年生の時に、主イエスを信じてバプテスマを受けてクリスチャンとなったんですが。社会人になってからは学生の頃とは違いいろんな社会の厳しさ、人間関係の難しさ、又信仰生活を守ることの困難などを経験し、悩み苦しむことが多々ありました。

そうして20歳の時だったかと思いますが、京都にある同じ系列の会社の研修のために半年間ほど長岡京市にあった会社の寮に入って仕事の研修をしながら生活する機会がありました。当時は一番近かった日本基督教団の長岡京教会の礼拝と祈祷会に出席していました。そこの村上牧師、京都洛西教会の杉野牧師のお友達で、しかもお二人とも北九州の戸畑バプテスト教会出身ということで近しい思いをいただきました。又、たまに京都の北山教会の青年たちと交流したり、や南千里教会の当時福島牧師にもかわいがっていただいたりして、個人的に信仰や教会についてのお話を伺ったり、良書をいろいろと紹介していただき、読んだりしていたのですが。
そういう折に、改めて新鮮に響いてきたのが今日のこのローマ3章の特に21節-24節の御言葉だったのです。この箇所はそれまで何度も読んでいたはずでしたが、その時まるで初めて福音と出会ったような衝撃を受けました。そして、未熟な独りよがりのキリスト教信仰の概念から解放され、心踊るような経験をしたのです。それがきっかけになって、もっと聖書を学びたいとの思いを与えられ、神学校、そして牧師としての働きの道が開かれていったんですが。

それまでの私は、クリスチャンかくあるべしというような、どこか道徳的、律法主義的な捉え方をしたように思います。けれど、どうしたってそう成りきれない自分との狭間で何か悶々としていたんですね。
クリスチャンになったにも拘わらず、いろいろな悩みが尽きず、罪を犯し続ける自分に対して嫌悪感さえ持ち続けていたのです。
今日のローマ書のところの一つ前の3章20節に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」とあるとおり、自分の頑張りと熱心ですればするほど自分の内面には不義しか思い出せなかったのです。
けれど21節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」

改めてこのお言葉を聞いたとき、神の愛と救いに気づかされた。初めて福音と出会ったんですね。本当の悔い改めって、ああ自分は悪い者だ、どうしようもない者だと自分を責めたり、良い行いで補う、償おうと内向きになることじゃないんですね。
聖書で悔い改めは、メタノイア。それは全身を神の方へ向きを変える。方向転換するということです。罪とは神に対して的外れな状態を現しますが。まさに的外れな生き方から神の方へ方向転換する。向き直る。キリストに望みをおいているのがクリスチャンです。そこに十字架の贖いのゆるしが与えられているのですから、そのゆるしを日々頂きつつ、主の恵みに喜びと感謝をもって生きていくことに意義があるんですね。

聖書に戻りますが。
21節「ところが今や。」
その「今や」、という原語の時制は、ただ一回限りのときを指すものです。イエスさまが十字架で私の罪を贖うために死なれた、そのとき、それはただ一度です。しかし、その今やというのは、それが単なる過去の出来事で終わるものではなく、今もその救いの業は変わることなく、続いているという意味であります。その主イエスのゴルゴダの十字架の出来事、救いは2000年以上を経た、このユダヤからすれば異邦人ともいえるこの私にも、「今や」与えられているのです。まさに恵みだということを改めて知るとき、何ともいえない感謝がわきあがってきたんですね。

22節「そこには何の差別もありません」とありますように、主の救いを求めておられるお一人おひとりにもれなく与えられている、文字通りそれは福音なのであります。

さて、今日の箇所には、「義」(ディカイオスシュネイ)という原語が9回、そして「信じる」(ピィステェオウ)「信仰」ピィスティスという原語がやはり9回記されていますように、この「義」と「信」がこの部分の鍵語;キーワードなのです。

ここを読み解くには、まず、聖書の「義」とは何かを知らなければなりません。
聖書の示す「義」は普通の倫理的な意味における「正義」や「善」、人の良い行いといった人間の属性にあるものとは違います。それは唯一の主である神に属するものであります。
旧約聖書では神の義は神の行為として現れ,ユダヤ民族は示された神の意志に従い,律法を尊んでそれを守り行なう時に救われると考えています。
そのため律法を守ることができなくて罪を犯したなら、その罪の身代わりとして牛や羊などの動物をほふって贖いのささげものとしたのです。しかしそれでは、福音を知る以前の私がそうであったように、何度悔いても、たとえ犠牲をささげても、自分の義に生きようとすると、益々罪の自覚が生じるばかりです。

しかし、神は十字架の主イエスを通して、罪を犯すすべての者に救いと解放をもたらしてくださったのです。その神の独り子、主イエスの十字架の死にあらわされた神の義
を心から信じ受入れる者を、神は義とされるのです。これが新約聖書の福音、救い、神の義なのですね。

一方、「神は愛である。」それが聖書のメッセージでありますが。それなら何も神の子イエスさまが十字架にかかったりなさらないで、罪を犯した人をそのご権威によってゆるし、帳消しすることもできたのでは、と思う人もいるかも知れません。
しかし、神さまは全き聖なるお方であります。ご自分を偽ることなどあり得ません。すべての人は偽りなき神の前ではすべてが明らかであり、その犯した罪もまた必ず清算され、審かれなければならないのです。けれどもそれでは、罪を犯した人間すべては罪の審きを受けて滅びるしかありません。

しかし、神は義であられるとともに、すべての創造主、愛なるお方であります。人が心から立ち返って生きることを願ってやまない義であり愛なる神がお選びになった唯一つの救いの道、それがご自身の独り子イエス・キリストの十字架による罪の贖いであったのです。神さまはこのことをしてご自身が義であり、愛であることをお示しになられたのです。神の義と愛とが交差する、それがまさに主イエスの十字架であり、それだからこそ、信じる私たち罪ある人間を根底から救う力がここにございます。
だから、24節「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」救いの確かさがここにあります。

ところが、罪を犯した人間が義と認められる。それも「無償で」。関西弁でしたら、「タダやでえタダ」ということでしょうか。そんなまたとない恵みを、自分のこととしていただくという人は、日本ではごくわずかです。「タダほどあやしいものはない。」疑いと勘ぐり、あるいは遠慮して、「ありがとう」と感謝し、ただ受けることが難しいんですね。そんな虫のいい話とばかりに、せっかくの神さまの尊い愛をもって支払われたプレゼントを受け取れない。そんなもったいないことはありません。
私たちに求められていることは、何か功徳を積まねばとか、修行を積まねばとか、知識を得なければということではなく、ただ神さまが私の罪のゆるしと和解のために御独り子イエスさまを与えてくださった。その義と愛の十字架を仰いで救いを得る、ということであります。そうしていくときに、私たちは自ずと湧き上がる感謝とともに、主の恵みに応えていきたいという願いが自ずと起こってくるでしょう。神の義と愛。主イエス・キリストの救いの業を信じ仰ぎ救いに入れられて、新たないのちに生かされていく。これこそが、27節の「信仰の法則」ですね。主の御名を心から賛美します。
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青年主催さんび&あかしの礼拝

2017-04-24 19:49:50 | お知らせ
4月30日(日)午前10:30-12:00

さんび、あかし、聖書メッセージなど、青年たちが中心にプログラムを構成しています。

教会が初めてという方、大歓迎です。

入場は無料です。自由献金はございます。

                   どなたでもお越し下さい。

新しい礼拝が始まります!


4月30日(日)夕方午後6時ー7時半

5月から隔週(第2、第4日曜日夕方)に行なわれます。

4月30日はそのプレ夕べの礼拝として行なわれます。


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。

*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居た短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。

※無料ですが、自由献金はあります。




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神の福音

2017-04-23 17:10:55 | メッセージ
主日礼拝宣教 ローマ1章1~17節  

神の御子イエス・キリストが私たちすべての人間の救いのために罪の贖いとして十字架に死なれ、3日後に復活なさった。先週はそのイースターの喜びを共に分かち合いました。イエスさまは、又その復活のお姿を度々弟子に現され、「全世界に出て行ってこの救いのよき知らせである福音をすべての造られた者に宣べ伝えなさい」と、その働きを弟子たちに託されの後、天にあげられた、と伝えられています。そして弟子たちはその主イエスのお言葉を握りながら、祈りのうちに聖霊に満たされ、福音を伝え続けることで多くの人が主を信じ、教会が誕生していったのです。しかし同時に迫害も激しく起こり、今日のこの「ローマの信徒への手紙」を記したパウロも、初めはキリスト教会とその信徒たちを激しく迫害する人でありました。しかしそのパウロは復活されたイエスさまと出会うことで、主イエスの御救いを信じクリスチャンとなり、主に小アジア、ヨーロッパの異邦人に福音を伝える働き人とされるのです。

さて、本日の礼拝からそのパウロがローマの信徒に宛てた手紙を読んでいきますが。
ちょっと理屈ぽく、とっつきにくいと感じるところもあるかも知れませんが。この書を読んでいけば、私たちに開かれた神の救い、福音のゆたかさと深さをさらに知ることができますので、そこは少し腰を据えてその言葉に耳を傾けてまいりましょう。

先ほど読まれました1章は、はじめの1-7節が「使徒パウロのあいさつ・自己紹介」。そして8-15節が、「この手紙を書いた目的」。さらに16-17節は、「この手紙の全体的な主題、テーマ」が述べられています。

まずこのローマの信徒への手紙が書かれた目的についてですが。
8節以降に小見出しとしてあるとおり、パウロはまだ訪ねたことがない、ローマの教会への訪問を強く願っていたのです。
新約聖書の中で使徒パウロが書いた手紙は、このローマの信徒への手紙の他にもコリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、テサロ二ケの信徒への手紙等があります。
これらコリント、フィリピ、テサロニケの3つの教会はパウロが伝道旅行で実際にその地に赴いて福音を伝え、教会の基礎を築いたのですが。
しかしこのローマの教会はそれらの3つの教会の事情とは異なり、パウロの伝道する前からすでに福音が伝えられ、クリスチャンとなった信徒たちを通して、家の教会が複数形成されていたようですね。
ちなみにローマでキリストの福音を伝えたのはバルナバとかペトロとか、あるいは聖霊降臨の日にエルサレムに旅に来て、ペトロの説教を聞いて信じてクリスチャンになり、ローマに戻っていった人たちとかいわれていますが、はっきりとしたことは分かっていません。

そのローマの信徒とパウロをつないだのは、コリントの町で出会ったアクラとプリスキラの夫妻でした。彼らはローマにおいてクリスチャンであるために、激しい迫害に遭い、コリントに逃れてきたのです。そこで彼らからローマの信徒たちや教会の事情や情勢についてパウロは詳しく話を聞く機会があったようです。

当時ローマはすべての世界に通じる中心地でした。パウロはそのローマの地を訪れることによってそこが伝道の拠点とされ、さらにイスパニア(スペイン)まで福音が伝えられていくという幻・ビジョンが与えられていたのです。
ユダヤ以外の人たちにもキリストの救いを伝える。それはまさに冒頭の1節でパウロ自身が「神の福音」のために選び出され、召されて使徒とされた、神さまのご計画がここにあるということですね。
先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、ギリシャ人、ローマ人、あらゆる人々に、それこそ神さまがお造りになった全世界に、この「神の福音」が伝えられていく。その目的のためにこのローマの信徒への手紙は書かれたといえます。

パウロは、ローマの信徒たちと互いに協力し合うことで、そのビジョンが成し遂げられていくことを強く願っていたのですね。
ここでパウロは、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャン、信徒の人たちに向けて、「あなたがたの信仰が全世界(この当時のユダヤ人の世界観ははパレスチナ周辺の小アジア(トルコ)、そしてコリント(ギリシャ)まで射程にあったようですが。)に言い伝えられていることを神に感謝している」と述べます。そして「わたしは、祈るときはいつでもあなたがたのことを思い起こし、何とかいつかは神の御心によってあなたがたのところに行ける機会があるように、願っています」。「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」。と彼らに対する熱い思いを語ります。
それは、パウロが一方的に何か与える側に立つというのではなく12節にあるように、ローマの信徒たちと対等の立場で「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」、と願っていたということですね。これはパウロの単なるリップサービス、方便ではありません。
パウロは様々な知識もあり弁のたつ人で、又いろいろなしるしを伴う伝道活動もなしていました。しかし同時に、彼ほどの人でも、自分の力ではどうしようもないという無力さも経験している人であったのです。そういう時に犠牲を払ってまでも祈り、働きを共にしてくれる教会の信徒のつながりというものは、どんなにか彼の支えと励ましになっただろうかと思います。

信仰は神と私という一対一の関係ではありますけれども、独りだけで信仰を保つことは困難であります。それほど人は強くはありません。どんなに強い信仰の確信を与えられても、主にある兄弟姉妹、神の家族として祈り合い、共に御言に望みをおいて支え合う共なる礼拝の場やつながりがなくなってしまえば、個人の霊性はなえてしまうのです。

反対に互いに持っている信仰によって励まし合い、共に霊の賜物によって神の国を求め務めるなら、そこにはさらにゆたかな恵みの体験が起こされていきます。福音のゆたかな拡がりがもたらされていくんですね。それは2000年を経た今も同様であります。

パウロは「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵ある人もない人にも、果たすべき責任があります」とビジョンを語っていますが。その働きはパウロ一人では到底出来うることではなかったのです。

ローマの信徒たちのうちには、ユダヤ人もいたでしょうし、ギリシャ人、ローマ人など様々な地域の人たちがいたようですが。ユダヤ人ばかりのエルサレム教会よりもアンテオケアの教会のように、実に様々な国、民族、立場を越えた方々が招かれている主の共同体に、福音を世界に伝えるための可能性をパウロは見い出していたんでしょうね。
私たちのこの大阪教会も、このところ世界の様々な地域から主イエスにある兄弟姉妹がおいでになり、地域や国を超えてゆたかな福音の分かち合いがなされているその中に、神の国を見せられる思いで感謝であります。それぞれの国にお帰りになった折には、あかしとして伝えられていると思いますと、うれしい限りです。

さて、今日はこの冒頭の使徒パウロの挨拶、自己紹介のところから「神の福音」という題をつけました。これが今日の箇所のテーマだと思ったからです。
パウロは、自らをキリスト・イエスの僕、「神の福音」のために選び出され、召されて使徒となったと述べます。
イエス・キリストの僕、この僕とはギリシャ語でデューロス、奴隷という意味です。
フィリピの信徒への手紙3章のところに彼はかつての自分についてこう述べています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」

彼はいわゆるユダヤ社会とその教義においてエリートであった。彼は神のために熱心に働き仕えてきて、神を冒涜していると考えていたキリスト教会とその信徒たちを迫害し、弾圧を繰り返していたんですね。
そのある日、パウロは神の声を聞くのです、それは「なぜ、わたしを迫害するのか」という衝撃的な復活されたイエス・キリストの御声だったんですね。パウロが熱心に神のため神のためと迫害し、弾圧したのはまさに愛してやまなかった神さまご自身であったのです。
パウロはあまりに強いショックと後悔から目が見えなくなってしまうのですが。主がパウロのもとに信仰の人アナニアを送り、聖霊に満たされると、目からうろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになり、その場でバプテスマを受け、すぐに、あちこちのユダヤ会堂で、イエスのことを「この人こそ神の子である」とあかしして回ったということです(使徒言行録9章・サウロの回心の記事)。
彼はイエス・キリストこそあの旧約聖書で預言された救い主であり、苦難の僕となって人の、それもこの自分のこの罪を担い、審かれて死なれたお方であることを知るのです。パウロは自分こそが救い主イエス・キリストを十字架につけて殺したのだと思い至り、深い回心へと導かれるのです。主イエスはどこまでも神と人に仕え愛し、デューロス:僕となられた。
そのパウロが書いたフィリピの信徒への手紙2章6節以降には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べています。
パウロはそのイエス・キリストにならい、自らを「キリスト・イエスの僕」とされた者、「神の福音」に捕えられ奴隷となったパウロ、と言っているんですね。主の救いに与っておられるみなさまも又、大なり小なりそのようにキリストに捕えられた者、そのお一人おひとりではないでしょうか。捕えられて生きるというのは何か不自由なマイナスイメージがあるかも知れませんが。世の巷の「何とかの奴隷」ではなく、本物、神さまから捕えられて生きるのなら、こんな光栄はありません。そのように尊い「神の福音」、それをパウロは9節「御子の福音」と述べているように、御子イエス・キリストの十字架を通して現された福音なのでありますが。

今日の16節―17節は、ローマの信徒への手紙の全体の主題・テーマといっても過言ではないでしょう。
パウロは述べます。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」

パウロはコリント信徒への第一の手紙にも次のように述べております。
1章18節「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
1章22節-24節「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられた(いる)キリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であるが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」

先ほども触れましたが、使徒パウロも熱心なユダヤ教徒であった時は、十字架のキリストに敵対し、それを福音として伝えていたキリスト教会とその信徒を徹底的に迫害しました。
しかし彼は復活の主イエスと出会い、これまで誇りとしてきた血統、学歴、知識、業績などのあらゆる能力やステータスが、イエス・キリストを知ることの価値の偉大さに比べれば、如何に塵あくたのようなものであるかを思い知らされたのでした。まさに、人の目には愚かと見える主イエスの十字架こそが、信じる者すべてに救いを得させる「神の力」であるということを実体験したのです。

自らの正しさと行いによって自分を正当化して人を裁いて生きていたパウロは、十字架と復活の主イエスとの出会いによって、自らの罪を知り、打ち砕かれました。そんな自分を滅びから救う「御子の福音」。そんなパウロだから「福音を恥としない」と宣言するんですね。
私たちの日本の社会や文化の中で、自分はクリスチャンだと言うことは多少言いづらい、あえて言うことはないという方も多いでしょう。けれど私を生かす神の力、神の愛に生きる時に、溢れてくる思いや言葉、行動は大切にしていきたいですね。

十字架のキリストを信じ受け入れるということは、自分の弱さをさらけだし、無力であることを告白するということでもあります。それはある意味確かに勇気がいることです。
自分を主にすべて明け渡していくということだからです。けれど「そこに」神の力がゆたかに働くのです。まさパウロがここで述べていますように、福音の力、神の力によって神の栄光が現わされていくのです。
すべて信じる者に救いを得させる神の愛と神の力、御子イエスの十字架の福音に心から神に感謝します。さあここから、また御子の福音に生かされて、それぞれの馳せ場へ、遣わされてまいりましょう。
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主イエスの復活の知らせ

2017-04-16 13:57:23 | メッセージ
イースター宣教 マタイ28:1-10

イースターおめでとうございます。
受難節の約一ヶ月を経て、先週は特に主イエスの十字架の死を偲ぶ受難週を過ごしました。金曜日、十字架で死なれ墓に葬られた主イエスは、3日目のこの日曜日の朝、死よりよみがえり、封印された墓を打ち破られた。その朝に主イエスの復活を記念するイースターを心からお祝いし、その御恵みに私たちも共に与りたいと願っております。

キリスト教の信仰は、神の御独り子であるお方が人としてお生まれになった事。そして、そのお方が救い主として苦難と死による贖いの業を成し遂げられた事。さらに、死と滅びから復活された事。この受肉、十字架の苦難と死、復活の三本柱にございます。

イエスさまがもしこの地上においでくださらなかったなら、そして私たちの罪のために死なれなかったなら、人間は自らの責めを負い、滅びるほかありませんでした。
主イエスがすべての人の罪の裁きを自ら受け、罪の清算を完全になして下さった。ここに救いの道が開かれたのです。神さまは罪に滅ぶ人間、私たちを惜しまれました。そのいつくしみの愛のゆえに御独り子イエスさまをこの地上に救い主としてお遣し下さったのです。私たちがその主イエスの愛のうちにあるなら、十字架で流された御子の血によって罪を赦されています。
けれどもどうでしょうか。もしイエスさまが十字架で処刑されて死んでしまった、ということで終わっていたら、どうなっていたでしょうか?もしイエスさまの復活がなかったなら。どうでしょうか?

私たちがたとえこの一度限りの人生を罪赦されて生きたとしても、死という破壊的力を前にしては、なすすべもなく、唯絶望するほかありません。諦め、観念し、悟ったように死んだとしても、その先がうつろであるなら、旧約聖書のコヘレト(伝道の書)が「なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」と言っているように、人は草のように枯れ、花のようにしぼんでいく存在でしかありません。
しかし、イエスさまは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)とおっしゃいました。
神の言葉と約束は変わることがございません。主イエスが死の滅びを打ち破って、よみがえってくださったことによって、今まさに私たちに永遠のいのちの希望が開かれているのです。

使徒パウロはコリント第一の手紙15章17節以降で次のように述べています。
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中あることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

こうしてイエス・キリストが死から復活されたという出来事が起こったからこそ、現に聖霊があらゆる世界や時代を超えて働かれ、実に2000年以上もの間生きた信仰の体験が証しとなって語り伝えられ、分かち合われてきたんですね。

本日はマタイ28章1~10節より「主イエスの復活の知らせ」と題し、御言葉に聞いていますが。こどもメッセージにもありましたが「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。

安息日が金曜夕方から始まり土曜夕方に終わりますので、その安息日の規定のため動くことができなかったこの二人の女性たちは、日曜日の夜明け頃、墓に置かれたイエスさまを見にいきます。
それまでずっとイエスさまに同行して来た二人のマリア。彼女たちはイエスさまが十字架で処刑される折も、ずっとその最期まで見守っていた人たちでした。
弟子たちは逃げ去ってエルサレム周辺の場所に身を隠していたようでありますが。彼女たちは心からイエスさまを慕っていたのです。それは女性であるために低くされ、神への礼拝までも規制されてきた彼女らに、イエスさまは一人のかけがえのない人として分け隔てなく、神の愛と救いの招きをもって接していらしたからではないでしょうか。それだけに彼女たちのイエスさまを失った悲しみや嘆きはいかばかりであったでしょう。
そうして彼女たちがやって来たお墓ですが。これは横穴式の洞窟のような岩をくりぬいた造りになっていて、その入り口には大きな丸くひらぺったい石がずっしりと置かれて封印されていたのです。ところが彼女たちがお墓に着くや「大きな地震が起こり、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」というのです。

先週の箇所で、イエスさまが十字架上で息を引き取られた後に、「地震が起こった」という記事がありました。神の子によって完全な贖いの御業が成し遂げられたという全世界における重大な出来事の折に「地震」が起こります。そして、今日のイエスさまが死より復活される折にも、「大きな地震」が起こっているのです。
さて、そこに現れた主の天使は、「その姿が稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とあります。他の福音書などによりますと、長い衣を着た若者とか、二人の天使とか、それぞれの表現がありますけれども。共通しているのは、それは、神のご意志を伝えるために遣わされた存在であるということです。

番兵たちはこの光景をみると、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになってしまいます。大事なことは、神の言葉は、それが実現した時、信じる人、受入れる人には喜びと希望であり、それを拒む人、信じない人にとっては恐れ、絶望なのです。

この番兵たちは、前の62節以降に記されているように、イエスが生前「三日後に復活する」と言っているのを聞いたユダヤの祭司長や律法学者たちが、弟子たちによって遺体が盗み出され、復活したなどと言いふらされるなら、人びとが惑わされることになりかねないとピラトに願い出て、そこに配置された番兵たちでした。墓にはさらに封印をしていたのですが。神の御業とご計画に対する不信や反逆は、必ず打ち砕かれるのです。

一方、女性たちは主の天使から「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と告げられます。

そうして、空っぽの墓を見ることになるのです。
この女性たちも、大きな地震とともに起こっている目の前の出来事にやはり恐れを抱くのであります。しかし、番兵たちと違っていたのは、彼女たちがイエスが前もって告げていた死の後「三日目に復活する」という言葉を聴いていた。そして主の天使があの方は「復活なさったのだ」との言葉を受取った、ということです。同じ出来事に遭遇して片や不信の中で死人のようになった番兵たち。片や天から希望を受け取った女性たち。

私たちの生活においても、どうでしょうか。同じようなことが起こっていないでしょうか。不信が起これば不安や恐れに取りつかれ、自分を見失ってしまいかねない。けれども主イエスの言葉を聞き、心に留め、それを拠所としていく者は、恐れや不安の中にあってもなお光を見出し得るんですね。

先週も多くの方々と祈りを共にしました。様々な問題、状況の中で、希望を見出すのは本当に困難なことです。けれども、それは私自身も経験することですが。ともに祈る人がいる時、その祈りのうちに主が共におられることを覚えて、大変勇気づけられたり、不思議に平安が与えられます。もしクリスチャンでなかったら、どうしていただろうか。おそらくあの番兵たちのように震えあがって死人のように身動きがとれなくなることが度々あったんじゃないかと思います。ほんとうに主の救いに唯感謝であります。

話を聖書の方に戻しますけれど。
主の天使は彼女たちに、「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」と語りかけます。

すると、それを聞いた女性たちは、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とありますね。
「恐れながらも大いに喜んだ。」一見相反するようなその様子。それは主イエスの無残な死に直面し、大きな地震、主の天使の思いがけない言葉、想像もつかなかった非日常が次々に起こったのですから、恐れが生じるのも当然と言えば当然です。
けれども、天使から「ガリラヤ」という言葉を聞いた時、また「そこで、主にお目にかかれる」と聞いた時、言葉では言い表せない大きな喜びが湧き起こってきたんですね。 
「ガリラヤ。」それはかつてイエスさまに仕え、ともに従って歩んだ日常があった場所です。そこで復活なさったイエスさまにまたお会いできるという希望の知らせ。
彼女たちはまだ復活の主イエスをその目で見たわけじゃない。その復活の主イエスと顔と顔とを合わせたわけじゃない。けれどもガリラヤという主と共にあった場所、日常の場に復活の主イエスが待っておられる。

私たちも時に非日常的な出来事に遭遇する時があります。不安になったり恐れをもったりする時。教会の兄弟姉妹の声を聞いてホッとしたり、先ほども言いましたように祈りを共にする中で、主が共におられるというクリスチャンとしての日常の平安を取り戻したりといった経験はないでしょうか。

Ⅰペトロの手紙1章8節に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」
とございます。
それは何事もない中で語られたのではなく、むしろいろいろな試練に悩み苦闘する人たちの間で語られた言葉なのです。主イエスを慕い、拠所とする者は、墓という場所に象徴される絶望や悲しみの中に封印されるのではなく、たとえそのような状況の中でさえ、主にある希望と喜びを見出し得る。これが聖書の福音のメッセージであります。

さて、こうして恐れながらも大いに喜びつつ、彼女たちは急いで墓を立ち去り、このよき知らせを一刻も早く弟子たちにもたらしたい、伝えなければならないという思いで走り出します。
このマタイ福音書は他の福音書には見られない場面を記しています。
9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われた」というのですね。この「おはよう」はギリシャ語の原語では、日常で交わす挨拶のようなものだということであります。
何と復活の主イエスさまが直接この二人の行く手に立っておられ、本当に常日頃おっしゃたように「おはよう」とお声をかけられるのです。
「女たちはイエスに近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とありますが。彼女たちの喜びがいかばかりであったか伝わってくるようですよね

私もいつの日かこうしてイエスさまにお会いできる日が来る、と想像しますと何ともいえない喜びというかうれしさ、安心感が湧いてきますが。

さあこうして、今日の最後のところで大きなポイントとなることを、復活の主イエスはこの女性たちに伝えます。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

復活のイエスさまは、ここで弟子たちのことを「わたしの兄弟」と呼んでおられます。大事な時に、イエスさまを見捨てて逃げ去っていった弟子たちを、イエスさまは「わたしの兄弟」とお呼びになるんです。

そこに私はイエスさまのゆるしと愛を見る思いがいたします。あの人たちでも、彼らでも、弟子たちでもなく、「わたしの兄弟。」なんとあたたかなまねきの言葉でしょうか。
人の弱さのゆえにつまずき、大きな取り返しのつかないような失態をさらした彼らを、復活の主イエスは「わたしの兄弟」と呼び、彼らの日常のフィールドで「わたしに会うことになる」と約束されるのですね。

今日は「主イエスの復活の知らせ」と題し御言葉に聞いてきましたが。私たちの死と滅びの墓穴を打ち破る新しいいのちの始まり。それは主エスの日常におけるいつもの「おはよう」の挨拶。又「わたしの兄弟」というゆるしと愛の呼びかけによってもたらされました。復活の主イエスにお会いする私たちのガリラヤ。私たちの日常へと、今日の御言葉をもって今週もここから遣わされてまいりましょう。祈ります。
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本当に、この人は神の子だった

2017-04-09 14:29:14 | メッセージ
宣教 マタイ27章45-56節 受難週

今日から受難週に入りました。全世界に主の御救いがもたらされるため、神の御子であるイエスさまが捕えられて十字架へ引き渡される、苦難の7日間。それはエルサレムへの入城に始まり、弟子たちの足を洗われる洗足、そして最後の晩餐。先週はゲッセマネの園における祈り共に与りました。そうして弟子の一人ユダの裏切りによって捕えられたイエスさまは、ユダヤの法廷、次いでローマ総督の前に引き出され、鞭打たれ、嘲りを受け、自ら十字架を負われて、遂に十字架に釘打たれるのであります。

聖書は、イエスさまが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と記しています。日が高い真っ昼間というのに全地が暗闇に覆われた。このマタイ福音書の全地という「ゲー」という言葉は、単にユダヤの地だけを指すのではでなく、全世界を意味しています。そのとき暗闇が全世界を包んだという意味なのです。
旧約聖書で預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」(8章9節)と預言しました。それは、終末に際してやがて来たるべき、救い主の到来を前に、人類が経験するであろう闇でありますが。今日のところでは、終末の預言を彷彿とさせるような闇が全世界を覆うのです。

そして3時頃、イエスさまは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれました。

絶望的といえるこの叫びは、今日に至るまで多くの人の信仰の躓きともなってきたのは事実です。イエスは十字架で敗北者の叫びをあげ無残に死んだ。救いの業は失敗に終わったのだという人たちも多いのです。
ユダヤ教でもそうですが。イスラム教もイエスを預言者の一人とは認めても、メシアだとは認めていません。ではどうして私たちはそのようなボロボロになぶり殺しにされた十字架のイエスに救いを見出すのでしょうか?それはまさに神の子であるこのお方が、人間の救いがたいような闇の奥底にまでくだられた。人の深い苦しみ悩みを知られ、耐え難い痛みをその身に負われた。そこに「共におられる」インマヌエルを見るからです。

先日、シリアのアサド政権が反体政派への空爆に毒ガス、枯れ葉剤などの極めて残虐な化学兵器を使用し、その多くの被害者は一般の市民であり子供たちであることがとても直視することのできないような映像とともに報道されました。それから間をおかずして、アメリカ軍がこのシリアのアサド政権の軍事基地に向けて大量の空爆攻撃をしました。人道に反する化学兵器を使用したことへの制裁処置と、その正当性を主張し、日本の安部首相もそのトランプ大統領を支持するとコメントしておられますが。ほんとうにそれでいいのでしょうか。アメリカの空爆によってもシリア市民や幼い子供たちが巻き込まれ貴い命が奪われたことがすでに伝わっています。さらに憎しみが憎しみを生む連鎖が生じ、この機にISの温床となり、テロが増幅していく脅威となっていくことを、ほんとうに恐れ、何とかその闇の方向へ向かわないための道筋が立てられていくようにと祈るばかりですが。遠い国の小さな出来事などではなく、権力や体制の下で、ものの数にしか数えられない、すべて私たちの叫びにつながっています。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたイエスさまの叫び。それは、蔑ろにされ、踏みにじられ、排斥されるすべての人々。置き去りにされ、小さくされるすべての人々。そして罪深く肉体的限界を生きざるを得ない人間。それは私たち一人ひとりへの神の共鳴です。ここに私たちは救いを見出すのです。

次いで、前の32節以降のイエスさまが十字架につけられる場面では、そのイエスさまに向けて、人々が代わる代わる「神の子なら、自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。そうすれば、信じてやろう」などと罵倒する者たちがいたことが書かれていますが。
それは厳しい現実世界を見るにつけ、人が「神の救いはどこにあるのか」「神なんかいないじゃないか」という憤りであり、神に反駁するような人の罪でありますけえども。そのような不信の中で、イエスさまは「エリ、エリ」(わが神、わが神)という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それはイエスの痛みを和らげるという同情からではなく、イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。

物見高に何がおこるか伺う、そうして神を試みるような人もいたわけです。けれどもイエスさまはエリヤを呼ばれたのではなく、酸いぶどう酒も一切受け取られませんでした。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。
「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。
イエスさまはとことん人間のもっとも深い苦悩と痛みを身に負われたということであります。実はここに私たち主イエスを信じている者にとっての救いと平安の根拠がございます。預言者イザヤの書53章5節「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
「神の子であられるイエスさまがわたしの最も深い苦悩と痛みをその身に共に負われ、死なれた」。「わたしの痛み、わたしの傷が神の子イエス・キリストの痛み、苦しみとつながっている」。この共におられる神だからこそ、わたしたちキリスト者は救いの希望を見出し得るのであります。

さて、イエスさまがそのように息を引き取られた後、聖書は、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されています。

「神殿の垂れ幕」は、聖所と至聖所、つまり神殿の聖なる所と神が臨在なさる最も神聖な所とを仕切るもので、年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、民のために罪のための犠牲をささげました。ところが、イエスさまの壮絶な十字架の死によって、この仕切りの垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。ご存じのように聖書はイエスさま以前の旧約とイエスさま以後の新約に分かれているのですが。旧約の時代には人は罪を犯す毎に牛や羊といったいけにえを捧げ、その罪が贖われることを願っていました。これが古い契約です。しかしそれでは罪深い私たち人間の根本的救いにはなりませんでした。しかしそういった旧約の時代が終わり、イエス・キリストの贖いの血による犠牲によって赦しと救いがもたらされた。すなわち新しい契約の時代が到来した。神殿の垂れ幕が真っ二つに避けた出来事はそのことを象徴的に表しているのです。

そのことについてヘブライ人への手紙9章11節にこう語られています。
「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
さらに10章19節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」
「新しい生きた道」。それはキリストによる新しい命の道です。今日のところに地震が起こり、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り、主イエスの復活の後には、都に入って多くの人々に現れた、とございます。
イエス・キリストの贖いの業によって新しい時代、救いの恵みによって新しい命に生きるときが始まったのです。私たちはその新しい契約の救いの時代に生かされているということですね。それは何と幸いなことでしょうか。

さて、イエスの十字架刑を実際に執行した責任者であったローマの百人隊長と兵士たちがここに登場していますが。彼らはこれらの出来事を見て、非情に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と言うのであります。無残にも神に見捨てられたように死なれたイエスさまを、罵り嘲っていた者たちが、「本当に、この人は神のであった」と告白するのです。
それまではユダヤ人、それも大祭司といった人しか神のおられる至聖所に入ることができなかったわけですが。それが十字架の主イエスの血と死を通して、ユダヤ人以外の
異邦人、すべての人が、主の深い御憐れみによって神のおられる至聖所にキリストを通して入れるようになったという大いなる恵みを、このマタイ福音書は私たちに示しているんですね。十字架の受難と死をもって主イエスが私たちに代わりその罪の裁きを受けて死なれた。そのことによって私にも新しい生きた道が、新しい命の道が開かれていることを唯々感謝するばかりであります。

最後になりますが。55節には「また、そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」と記されています。
十字架の主イエスのその最期まで見守り続けていた大勢の女性たち。「彼女たちはガリラヤからずっとイエスさまに従って来て世話をしていた人々である」とあります。
主イエスと弟子たちとともに神の国の到来を待ち望んで仕えてきたこの女性たちは、主イエスと共に、十字架にかかるほど心を痛め、苦しい思いをしたでありましょう。
次週の話になりますが、復活された主イエスは打ち砕かれた彼女らに、その復活の栄光、神の御救いを顕わされるのです。
旧約の時代には決して聖所に入ることの許されなかった女性もまた、この主イエスによって隔ての幕が取り除かれ、神の至聖所に招き入れられる幸いな人とされたことがここに表明されているんですね。

今日、主イエスの十字架上での御言葉を私たちは頂きました。
使徒パウロは次のように述べています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
この主イエスのお姿に神の義(ただ)しさと、血を流されるまでの慈愛を仰ぎ見つつ、私たちもまた、来たるべき主が来臨なさる日まで、新しい命の道を歩み続けたいと切に願います。今週もここからそれぞれの馳せ場へ遣わされてまいりましょう。

祈ります。
主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならえたのですか」と絶叫されるまでに苦悩し、痛んで、血を流して死なれたことによって、私たちが神さまと和解し、新しい命に生きる道をあゆむことができます。神さま感謝します。
一方で、未だに私たち人間の現実の世界では、暴虐、殺意、憎悪、略奪、搾取、蹂躙が繰り返され、イエスさまを十字架にはりつけにした事と同様の罪が絶えません。わたし
たちも決して無関係とは言えません。主よ、私たちの罪をおゆるしください。
あなたが、一番のお望みなっておられることは、すべての人たちが神さまあなたと和解し、新しいに命に与って、主の救いと平和の福音がこの地に満たされていくことと信じます。
どうか、主よ、私たち一人ひとりがあなたの御心を知り、祈り、御心を行なう者となるとができますように、導きお守りください。
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SOUND CLOSER  コンサート vol.8 ~陽ののあたるところに温かな音楽を~

2017-04-05 10:02:53 | お知らせ

2017.4.9(日)

1st:16:00-
  (open15:45-お子様連れ歓迎)

2st:18:00-
  (open17:45-)

ticet:前売り ¥1,800/当日¥2,000

会場:日本バプテスト大阪教会
   各線天王寺駅より徒歩5分(大阪市天王寺区茶臼山町1-17)

  
   出演

ゆかり☆ゴスペル
YOSHI BLESSED
野田常喜(piano)/住吉健太郎(uitar)/酒匂賛行(drum)/MC YUSHI(rap)

主催
info)http://yoshiblessed.com
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ゲッセマネの祈り

2017-04-02 15:06:55 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ26章36-46節 受難節Ⅴ

4月に入り大阪のサクラ開花宣言は?駐車場のサクラは5%咲きくらいでしょうか。今年は例年とは異なり関東が先に開花宣言し、名古屋・福岡の開花となりましたが大阪はもう数日後でしょうかね。次週の礼拝後にはゆかり☆ゴスペルさん、YOSHI BLESSEDさん他のコンサートが予定されております。ぜひお時間を作ってご参加くださると大変恵まれるかと存じます。

さて、レントの時、主イエスのお言葉に聞き、祈りつつ過ごしてきましたが。本日は「ゲッセマネの祈り」の箇所から、御言葉に聞いていきたいと思います。
先週の聖書教育のところでしたが。イエスさまはこのゲッセマネの祈りの前に、12人の弟子たちと一緒に食卓につかれ、ご自身の流される血と裂かれる肉による救いを示す主の晩餐を行なわれました。宣教後に主に晩餐が行なわれますが。
その際イエスさまは、「弟子の一人がわたしを裏切ろうとしている」と指摘されたのですが。不安になった弟子たちは、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と記録されています。そのひとりとはイスカリオテのユダのことでしたが。その後イエスさまは弟子たちが「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われます。それは弟子たちが一人残らず皆イエスさまを見捨てて逃げ去る、という予告でした。

このイエスさまの言葉に対してシモン・ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と宣言します。するとイエスさまはペトロに「はっきり言っておく。あなたは今夜鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言われるのです。ペトロはむきになって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と答えると、弟子たちも皆、同じように言った、とここに記されています。

そういうことがあって、今日の箇所のゲッセマネの出来事、遂にイエスさまが捕えられ十字架の道を歩んで行かれることになっていくのであります。

「祈りが変えられる時」
イエスさまは弟子たちと一緒にゲッセマネといわれる所に来られます。
それはご自分が捕えられて裁きの場へ引き渡され、十字架につけられる受難と死を前に、父の神に祈るためでありました。
ゲッセマネとは「油をしぼる所」という意味があるそうですが。ここでイエスさまは、
いわば身をよじるように苦悶しつつ、血の涙と汗をしぼり出すような祈りをなさったのであります。
ここでイエスさまは3度父の神に祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。それがイエスさまの正直な思いでした。
杯は、すべての人間の罪の裁きを一身に負う苦難を象徴するものです。
イエスさまができることなら、そのような十字架にかけられる苦難の道ではなく、他の救いの方法はないのでしょうかと、率直に自分の願いを訴え祈られます。けれそも、その直後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とおっしゃるのです。さらに2度目、3度目には「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、祈られています。

「あなたの御心が行なわれますように」。
イエスさまはこのゲッセマネのしぼり出すような祈りの中で、父の神の御心に従いゆく道、すなわち十字架のご受難と死による救いの業を成し遂げるその杯を受け取っていかれるのであります。
私たちの救いは、それは又、このような父なる神の断腸の思いともいえる御心によって成し遂げられたことを忘れてはならないと思います。

大阪教会では今年度「祈り」をテーマに掲げていますが。そもそも祈りとは何でしょうか?いろんな祈りがあるでしょう。それはとても一言で言い表わせないですね。むしろ言葉に言い表せない思いだからこそ祈りなのかもしれません。どんな人も、たとえ特別に信仰をもたない人であっても、祈る気持ち、実際に祈らずにいれない思いというのはあります。その折に触れて湧いてくるでしょう。困ったことが起ったり、強い願いを持った時などもそうです。春の高校野球の昨日大阪の高校同士の決勝戦が行なわれ優勝校が決まりましたが。そのテレビ中継で応援席で祈っている学生の姿が映しだされましたが。まあそれも祈りに違いありません。ただ、祈りというものが、神に自分の願いを要求するばかりになっているなら、それは一方通行であり、そこに神との生きた関係性は築かれていきません。願望が満たされなければ神はいるのかと不満に思い、叶えば神を忘れてしまうでしょう。

イエスさまは率直に「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と願われました。けれどもあえて「わたしの願いとおりではなく、御心のままに」「あなたの御心が行なわれますように」と祈られたんですね。それはこの世界を創造し、すべ治められる父の神へんの全幅の信頼と確信が、まさに祈りによって揺るぎなく築かれていたからでしょう。

イエスさまはかつて弟子たちからどのように祈ったらいいのですかと尋ねられた折、「父なる神さまの御心が天におけるように地の上にも行なわれますように」と、祈るようにおっしゃいました。父の神の御心がどこにあるのかということを尋ね求める時、信頼と確信、すなわち信仰が与えられていくのだと思います。

私たちは主に祈るとき、「わたしの願い」と「天の父の御心」が占める割合はどうでしょうか?それはきっと混在しているでしょう。けれども、祈りの対話を通して、生きた神さまとの関係が深められ、おのずと祈りは変えられ、御心に生きる恵みの御業を体験する者とされていくのではないでしょうか。

「わたしと共に目をさましていなさい」
次に、先にも触れましたが、イエスさまは弟子たちと一緒にゲッセマネに来られます。
その弟子たちとは、「わたしは決してつまずきません」「あなたのことを知らないなどと決して申しません」と豪語した、ペトロをはじめ弟子たちすべてのことです。
イエスさまはこの弟子たちが皆、ご自分を置き去りにして逃げることを重々ご承知のうえで一緒に行かれたのです。

さらにイエスさまは、弟子のペトロ及びゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人の弟子たちを伴い祈り場へと向かわれました。その時イエスさまは悲しみもだえ始められ、この3人の弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われて、一人祈るために少し進んで行って、うつ伏せになって祈られました。イエスさまは神のひとり子としての権能をお持ちのお方であられます。それが弟子たちの前で悲しみもだえ「死ぬばかりに悲しい」と口になさるのです。

祈祷会の時に、ある方が以前、大変大きな問題を抱えておられた教会のある牧師さんが、数名だけの祈りの場で「わたしは死にそう」とご自分の弱さを吐露された時、「その牧師に対してがっかりした」という経験をお話されました。「牧師は教会で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。けれど、その後この方が今日の箇所のところを読まれて、イエスさまでさえも「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたということを知った時、牧師であっても一人の人間として苦悩し、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁと考え直したそうです。

イエスさまはこの聖書に記されたとおり、人の弱さを身におびた方でした。けれどそれはヘブライ人への手紙4章15節(口語訳)に「この大祭司(イエスさま)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについてわたしたちと同じように試練に遭われたのである」と記されていますが。そのとおりイエスさまはご自身のその苦しみによって私たちの抱えている弱さや苦悩をも知っておられるお方なのです。ここに私たちの救いと平安がございます。
一方、「自分たちは決してつまずきません」と豪語した3人の弟子たちは、イエスさまが戻ってくると「眠っていた」とございます。さらにイエスさまが2度祈りに行かれて戻ってくると、その2度とも眠っていた。つまり弟子たちはイエスさまが3度祈っている間終始ずっと、「眠っていた」ということですね。確かに霊は燃えていても肉体は弱いのです。人の決意や表明は何ともろく、弱いものなんでしょうか。

このゲッセマネの祈りは、マルコ福音書にも同様に記されているのでありますが。そのマルコ福音書では、イエスさまは弟子たちに単に「目を覚ましていなさい」とおっしゃっているのです。ところがこのマタイ福音書では「わたしと共に目をさましていなさい」と、「共に」ということが強調されているのですね。

イエスさまが「わたしと共に」とおっしゃっているのは、まさに十字架の苦難と死を前に「人としての弱さを身にまとい、もだえ悲しみ祈る。そのわたしと共に」ということです。弟子たちは、自分の頑張りや使命感によってイエスさまに従うことができると思い込んでいました。しかし、そういった熱意だけでは人は燃え尽き、つまずき、神の前に目を覚ましていることができなくなってしまうのです。
そうならないために出来ることは唯一つ。弱さや欠けももろともに、すべてを知っておられる主イエスと共にある、ことです。

私たち人間の抱える弱さやもろさ。イエスさまはそれらを自らゲッセマネの祈りにおいて、その身に担われたのです。共に負われたのです。
そうして十字架の苦難と歩んでいかれました。その弱さの先に私たちの救いの道が開かれているのです。そのイエスさまと共に生きる、共に目を覚まし祈り続ける。その主イエスと共に神の御心に生きる私たちでありたいと切に願います。今日もここからそれぞれの祈りの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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