日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神に栄光、地に平和、御心に適う人

2012-12-30 16:20:57 | メッセージ
宣教  マタイ3章13~17節 歳晩

先週はクリスマス・救い主イエスさまのご降誕をお祝いすることができて本当に感謝でありました。大いなる神さまのプレゼント。それは私たちの罪の滅びより救い出したもうイエス・キリスト、そのお方であります。今年もその御救いとお導きに与り、本日は2012年最後の歳晩さんび礼拝を主にお捧げしています。今回はワーシップソングの中から特に「喜び」「感謝」「恵み」に関する曲を選ばせて戴きました。又、S兄よりお証しを戴きました。主にあって生きることの幸いをこうして分かち合えることは、教会に与えられた大きな喜びの賜物です。ありがとうございました。

今年も本当に国内外においてと申しましょうか、様々なことが起こった一年でありました。皆さま方は如何でしたでしょうか。大阪教会においては、今年一年で3名もの兄姉が召天されたことは寂しく辛い出来事となりました。又、今この時も入院、療養中の方がたがおられます。どうぞ、引き続き皆さまの篤いお祈り、執り成しをよろしくお願いいたします。
一方で、この大阪教会の新会堂建築へ向けてのあゆみが着実に進められてきました事は、うれしい希望となりました。いよいよそれが来年早々、実現に向けて動き出すこととなります。さらなる祈りと信仰をもって進み、主の御業を期待してまいりましょう。

さて、今日は讃美礼拝ですのでショートメッセージとなりますが、マタイ3章14~17節より「神に栄光、地に平和、御心に適う人」と題し、御言葉を聞いていきます。

「イエスさまのバプテスマ」
本日の箇所は、イエスさまがバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになられた場面であります。まあ、どうして神の子であられるイエスさまが罪の悔改めを表明するバプテスマをお受けになる必要があったのでしょうか?
ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに云々」と言っています。ヨハネも当然そのように思ったのです。それに対してイエスさまは「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことです」と、お答えになります。 

この「正しいこと」とは「義」とも訳されます。神さまとの正しい関係の中でその御心に従って生きることこそ、私たちにふさわしいと言っておられるのですね。
人は何か立派な行いをすることで徳を立てようとする者です。また大きな事業をなし遂げた人は世間から称賛を受けるでしょう。けれども神にふさわしいあり方というのは、事の大小、その価値の有無に拘わらず、「ただ神の御心に従って生きる」、その一点にあります。ではイエスさまに対する神さまの御心とは何だったのでありましょうか。
イエスさまのバプテスマは、世のすべての人の罪を負い、贖いのためにほふられる小羊となられる、ということです。イエスさまが神の独り子でありながらも、御神に従順に生き、己の立場を捨ててすべての人の救いのために身を捧げて生きようとする決意表明そのものであったのです。

16節「イエスがバプテスマを受けると、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」
聖霊が鳩のように降るというのは、聖書学者の様々な説があり、これだという答えは分かりません。聖書から鳩ということで思い浮かぶのは、ノアの箱舟のエピソードでしょう。人間の罪の深さを嘆かれた神さまが、洪水によってそれを滅ぼされ、ただ救われたノアとその家族が箱舟から鳩を放つと、大地の再生のあかしであるオリーブの葉をくわえて戻ってきた。神さまは空に虹の契約を立て、もう二度と洪水によって地を滅ぼすことはしないとおっしゃるのです。そのように聖書は鳩を愛と平和の象徴として用いているのです。
そういうこともあってか、イエスさまの神に御心に従う決意表明のバプテスマによって、神さまの愛と平和の新しい契約の時代が訪れことになるのであります。このようにイエスさまの上に聖霊が鳩のようにお降りになることで、神さまの救いのみ業の始まりが告げられたのです。

さて、17節「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。これは「イエスさまが唯一神の御子、救い主である」との宣言であるのです。

キャンドルライトサービスの時に読まれますクリスマスの記事を綴ったルカ福音書2章に、天の軍勢が羊飼いたちに現れて神を讃美して、「いと高きところに栄光、神にあれ、地に平和、御心に適う人にあれ。」と言いました。
そこにも「御心に適う」という共通する言葉をみつけることができます。直訳は、「喜びの人」という意味です。本日の箇所の「わたしの心に適う者」という原文の直訳は、「神は彼を喜んだ」ということです。そうすると随分ニュアンスが違ってきますね。「神さまが喜ばれる人」。イエスさまはそのようなお方であったということです。
それは先程も申しましたように、イエスさまが御神に従順に従いバプテスマを受けられたからです。この事はやがて、すべての人の罪を背負い、贖いの業を成し遂げる十字架の受難と死へと続いていくのであります。イエスさまは神さまの全人類に与えられるこの偉大なご計画に聞き従い、まさにその御心のとおり自らを十字架に引き渡されたのです。
「神の心に適う人」は「神の喜びの人」であり、神さまのご計画に信頼して従う人のことなのです。神さまは、その愛する喜びのイエスさまを3日後、死よりよみがえらされたのであります。このように大いなる御救いの業がイエスさまのバプテスマに象徴的に表されていたのですね。
ヨハネは罪の悔改めを表す水のバプテスマを授けました。私たちのバプテスト教会でも、イエスさまを信じてバプテスマを受ける人は、水に全身をしずめられます。
しかし、そのバプテスマは自分の力や思いで得られるものではなく、イエスさまが私の罪を負い十字架にかかって死んで下さったその死に主と共に与り、水の中から起こされる時はイエスさまにあるよみがえりの新しい命・永遠の命を戴いて生きる者とされたということが表されているのです。

私たちは主の救いを得たとはいえ、己の罪深さや欠点や弱さをたくさんもっています。が、しかしイエスさまのあゆみに倣って、従うことはできます。信仰の実生活、体験を通して自分の弱さや罪深さの中に、主の恵みの豊かさやゆるし、支えや導きというものを知り、味わうことができます。
私たちも又、「あなたはわたしの喜び、愛する者」と御神さまにいわれるように、日々主の御心を尋ね、聞き従う者としてあゆんでいきたいものです。
そのために、私たちはイエスさまの御言葉に触れ、教会の霊的交わり、祈り、奉献を通して、私自身がまず聖霊に満たされ喜びに溢れて日々を送ることがとっても大事なことであります。

最後に、第一テサロニケ5章16節~18節をお読みします。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

神の御心に生きる人、その人のうえに世では得る事のない喜びが与えられるのです。
今日は2013年の最後の主日礼拝ですが、どんな時もそのような天の国の喜びを持つ人となれるよう願いつつ、新しい年に備えてまいりましょう。

皆さまにとりましても、神さまの祝福に満ちたよき一年をお迎えください。
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年末・新年の行事予定

2012-12-27 09:05:43 | 教会案内
いつも当ブログをご覧くださり、ありがとうございます。
2012年も残すところ5日となりました。
年末・年始の行事予定は以下の通りです。

12月30日(日) 歳晩主日礼拝(さんび&あかしの集い)10:30am-12:10


1月1日(火)   元旦礼拝 11::00am-11:45am

          2日(水)祈祷会は休会

1月6日(日)   新年主日礼拝・主の晩餐



よろしくお願いいたします。
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最初のクリスマス

2012-12-23 17:43:28 | メッセージ
宣教 マタイ2章1節~12節  降誕祝祭

「メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。」全世界に与えられた救いと希望、救い主イエス・キリストのご降誕をこうして皆さまと迎えることができましたことを、心より感謝申し上げます。

①「星と夢に導かれて」
教会といえばどこか堅苦しくて敷居が高いという印象をもたれる方も多いかも知れません。しかし実際に足を運ばれた方からは、「心休まる」「アットホ―ムな雰囲気でした」との感想が多く聞かれます。教会はイエス・キリストの救いにより、神の家族として招かれる場所であるからでしょう。又、教会は主に導かれて集う場所であります。

皆さんは、このクリスマスの礼拝に様々な思いを持っておいでになられたことでしょう。しかし、それは人の側の意志や決定以前に、「神さまの選びと助け」があってこの礼拝の場に導かれた、ということであります。
先程読まれました聖書の東方から来た占星術の学者たち。彼らがヘロデ王から、「メシヤはベツレヘムで生まれる」という預言書の言葉を聞いて出かけると、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」とあります。星が彼らを救い主・キリストのもとへ導いたのです。
さらに、「『ヘロデのところに帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とありますように、ここでは夢を通して彼らは滅びではなく、救いの道に導かれました。星や夢にちなんだ歌は大変多くありますよね。「星に願いを」「夢の中へ」などなど。よく唄われていますけれども。星も、又人の見る夢も神さまが創り、お与えになったものです。

聖書は人間が意識、無意識如何に拘わらず、自分という存在を超えた大きな存在によって守られ、人知では計り知れない天のご計画のうちにおかれている事を知るように促します。このクリスマスの時が、皆さまそれぞれにとって決して偶然ではなく、天の神さまのご計画のもと、「救い主・キリスト」との出会いへと導かれているのであります。

②「最初のクリスマス」
本日は「最初のクリスマス」と題し、御言葉を聞いていきたいと思いますが。
巷ではもう11月初め頃からデパートや商店などに華やかなクリスマスの飾り付けがなされ、教会より先にクリスマスが来ているようですが。街中のお店などにはサンタのような格好をした人たちがいらっしゃいませ、と声を張り上げ、もはやクリスマスはサンタとセールの看板に乗っ取られたような感がありますが。まあ私たちは一年に一度こうしてクリスマスの本来の意義をあらためて見出し、喜び祝うため集ったのであります。
ともあれそのような喜ばしいクリスマスでありますが、世界で最初のクリスマスは決して華やかさもにぎやかさもなく、何か楽しくうきうきするような中で来たのでもなかったのです。むしろ人々の不安と心の闇の中にその日が訪れたのであります。

3節に、「ユダヤの王がお生まれになったその方を拝みに来た」という学者らの言葉を聞いて、「ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」と述べられています。これは救い主・キリストの誕生が、ユダヤの王ヘロデやエルサレムの人々には決して喜ばしものではなかった、祝われるべき出来事ではなかった、ということを表しています。  ローマの支配下にあったとはいえ、エルサレムの住民は比較的裕福であり、ヘロデもその地位に満足していました。そこに神の民としての畏れや渇きはありません。
ヘロデ王は自分の地位や権力を揺るがしかねないような存在すべてが、不安の材料なのです。たとえそれが神からの救いの王であっても然りです。
神からの救いの王を喜び迎えたのは、神の救いを祈り求めるユダヤの貧しい羊飼いたちであったことは皆さまご存じのとおりであります。かくして、そのような不安と恐れの中で救い主・キリストはお生まれになられたのです。

先週はヨセフが主の天使から、いいなずけのマリアの胎に「救い主・キリスト」を聖霊によって宿した、とのお告げを聞く場面を読みました。ことの次第を聞かされたヨセフに驚きと恐れが生じ、彼は非常に戸惑いました。けれどもヨセフはヘロデやエルサレムの人々のようにただ不安を抱くのではなく、主の御言葉に聞き従うあゆみへ方向転換されたのです。それを受け入れた時、ヨセフの心は平安を得たのであります。そこに主のご計画のもと、キリストがお生まれになられた、救い主が来られたのです。
私たちは何を喜びとし、それを迎え入れて行くでしょうか?又、何を魂の平安としていくでしょうか? 今この場に集う私たちもまた、問われているのであります。

(1)「クリスマスの心」
さて本日の聖書では、救い主・キリストに初めてお会いできたのは、東方の学者たちであったと伝えます。それは王やエルサレムの住民でなく、ユダヤの国境を隔てた遠い東の国に住む異邦人たちでした。ユダヤ人からすれば外国人ということになります。
彼らは東方おそらくペルシャ方面から来たとも言われておりますが、何人いたのかは定かでありません。贈り物が3つだったことから3人だと推測されておりますが、その贈り物からみてかなりの地位があったようですから、多くの供を引き連れての旅であったのかも知れません。
いずれにしても、東方の学者一行は都エルサレムのヘロデ王のもとを訪れ、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちはその方を拝みに来たのです」と、真正面から尋ねたのです。ヘロデ王がどう受け取るかなどあまり考えていなかったのかも知れません。「神の約束であるユダヤの王、待望された王がお生まれになった。是非とも拝みたい」とただその一心で自分たちの見た星を頼りに、遠くから遥々国境を越え、時間も労力も費やしエルサレムにまで足を運び、ヘロデ王のいる王宮を訪ねたのです。

イエスさまは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。まさに、この東方の学者たちのあり様は、神とその救いを乳飲み子のように求める心のあらわれであったといえます。
対照的にヘロデ王やエルサレムの人々の心は、日常の様々な事どもに心ふさがれ、神の時が訪れても、それに気づくことも受け入れることもできませんでした。
この学者たちの心は、「神の示されるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待に満ちていました。彼らが抱いていた「礼拝したい」、それは又「神の救いに与りたい」という強い願いは、本来神さまが全世界のすべての人たちに等しく与えられたものなのであります。
ところが、多くの人は日常の事どもや思い煩いに心がふさがれて、あの王やルサレムの住民たちのように神の恵みを受け取ることができなくなっているのではないでしょうか。主を信じて生きる私たちも又、神から与えられている恵みに心が鈍くならないよう、この学者たちのように生涯求道心をもって救い主を拝していきたいものです。

(2)「クリスマスの原点」:ひれ伏して幼子を拝み
さあいよいよ、東方の学者たちは星に導かれ、遂に救い主・キリストと出会うのであります。ところがその救い主は、家畜小屋におられ、小さくか弱い幼子の姿であり、そこには王座も王冠もなく、世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。けれども彼らはこの幼子こそ救い主・キリストであると信じることができたのです。
それはまさに、「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」とⅡコリント4章18節にありますように、霊的な目を通して、幼子キリストを見ることができたのです。

東方の学者たちは、幼子にひれ伏して礼拝をささげます。
クリスマスとはキリストのミサ。つまり「祝祭」のことです。救い主であるキリストが受肉された、肉の体をとって私たちのところに来られたそのことを、心から祝い、礼拝を捧げる、これがクリスマスの原点であります。私たちもまた、霊の目を開かれ、この救い主、神の御子キリストを真に拝することができますよう、聖霊の助けと導きを切に祈ります。

(3)「宝の箱を開けて」
最後に、東方の学者たちが宝の箱を開けて、彼らの最も大切な宝を「ささげた」というメッセージを共に聞いていきたいと思います。
黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。乳香は、アラビア産の、芳香のある貴重な樹脂であり、礼拝の時にささげる香としてもちいられたようです。没薬も、香料の一種で高価なものでした。
ここに「宝の箱を開けて」とありますように、彼らは幼子キリストを拝んだだけでなく、自分たちにできる最もよいものをささげたのです。
 
喜びあふれる中で、最高のものを幼子イエスさまにプレゼントした東方の学者たち。
しかし、それよりも遥かに優るプレゼントを神さまは私たちに与えてくださいました。
それは神の独り子イエス・キリストです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3章16節。私たちがこうして喜びにあふれるため、神さまは御自分の最高の宝を私たちにお与えくださったのです。その独り子イエスさまは、十字架の受難と死にご自身を引き渡され、その命を与えてくださいました。この尊い捧げものによって私たちの救いが実現したのです。そのことによって私たちは今、その救いを見、世のものでは得ることのできない喜びに満たされているのであります。
私たちもまた、その祝福を受けて、東方の学者たちが自ら「宝の箱を開けた」ように、神さまに最高の感謝、最高の讃美、そして分ち合う喜び、又献身という名の最高のささげものを、それぞれお捧げしてまいりましょう。

明日24日も午後6時半よりクリスマス・キャンドルライトサービス;イブ燭火礼拝がもたれます。ぜひ皆さまのご来場をお待ちしています。
神さまの祝福が皆さまの上に豊かにありますよう、お祈りいたします。
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ヨセフの新しい道

2012-12-16 11:32:01 | メッセージ
宣教 マタイ1章18節~24節  待降節Ⅲ

全世界に与えられた救いの主イエス・キリストの先立ちと守りを戴き、アドヴェント第三週の礼拝に臨むことができました幸いを感謝します。本日は衆議院議員の選挙と最高裁判事の信任を決める投票日です。先週も申しあげましたとおり、日本は今、いのちと平和、経済や社会の問題など大きな曲がり角といいますか、分岐点に立っております。私どもはキリスト者として聖書が示す神の御言葉と戒めを基に、祈りをもって与えられている参政権を行使いたしましょう。
今年も早いもので残り半月となりました。特にこの師走と呼ばれる12月は一年で最も日照時間が短い月で、日の過ぎるのが大変早く感じられます。このような年末にさしかかり慌ただしい中、アドヴェント、そしてクリスマスが訪れるというのは、そういう時こそ静まり、心の耳を澄まして御言葉に聞き、祈って備えていくように、ということがあるのでしょう。このアドヴェントは「救い主を迎え入れる」という喜びの希望に与る時であります。それはヨセフが妻マリアを迎え入れることによって実現しました。そうして救い主イエスさまはお生まれくださった。クリスマスが来たのです。そのようにこのアドヴェントに求められていることは、神さまの御心に聞き、「迎え入れていく」ということです。そこには大いなる聖霊の力が働いてくださいます。

本日の箇所の冒頭に、「イエス・キリストの誕生の次第について」という記述がなされていますとおり、ここには神の御子イエス・キリストの誕生、すなわち神の救いの到来についてのエピソードが綴られています。神の御子、メシアの到来ですから、何か華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょうが。何とその「母マリアがヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」というのであります。自分のあずかり知らぬところで婚約者が身重になるという衝撃的な事態は、ヨセフをどんなにか失望させたことでしょう。
けれども驚くべき現実を前に、ヨセフは神を畏れ敬う正しい人でありました。そして思い悩んだ末、ヨセフは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」いたします。そこにはヨセフの正しさだけではなく計算も読み取れます。
彼は律法の規定に従いマリアを訴えることがきましたけれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになります。又公に、身重のマリアを妻に迎えることもできません。それは律法に反することでした。この二つの道の板挟みの中で彼が考えたのは、とりあえずマリアと胎の子の生命が守られ、さらに律法に反しないために、ひそかにマリアと縁を切るということでした。この方法がマリアと胎の子のいのちを守り、さらに律法に反することにならない賢明な道だと自分に言い聞かせるようにしてヨセフは心に決めたのでしょう。
ところが、であります。ヨセフが「このように考えていると、主の天使がヨセフに現れて言います。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」と言った、というのですね。
 
ここで天使は5つのことをヨセフに示します。
第一は、「ヨセフがまぎれもなくダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、彼がイエスの法的父親であるということです。
第二は、「恐れずマリアを妻に迎えよ」という奨めであります。このことは後で触れます。
第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」ということです。これはイエスが歴史的にダビデの家系に属する者であるだけでなく、イエスは聖霊によって生まれた神の子であるということです。
第四は、「その子にイエスと名付けよ」ということです。イエスという名は、この時代よく付けられたポピュラーな名前でありましたが。ヘブライ語で「イェシュア」、旧約聖書のヨシュアと同じで、それは「神は救い」という意味があるのです。私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、神の救いを求めることであり、それはあの「十字架の救いの御業」をとおしてもたらされたものであることを知っています。
第五は、まさしく「その子は自分の民を罪から救う」という約束であります。これはダビデの子であり、聖霊によって生まれる神の子、まことの人間にして神聖なる主イエスこそ、すべての人間を罪の縄目から解放し、救うお方であられる、という宣言であります。

これらの啓示によって、主の天使はヨセフに第三ともいえる新しい道を示します。
それはマリアを断罪するという律法的な道でも、又マリアとひそかに縁を切るという人間的善意の道でもありません。それは、主の御心とそのご計画を受け入れ、従っていく道であります。マリアを妻として迎え入れ、その出来事もろとも引き受けて生きる。重ねて申しますが、それは当時の常識には全くあてはまらない、社会的に受け入れられず、信用を全てなくしてしまうような事でした。
それにも拘らず、どうしてヨセフはそのような決断ができたのでしょうか。非常に厳しい現実を前にしたヨセフ。誰にも相談できずその苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。ほんとうに彼は孤独だったことでしょう。
けれども、そのような孤独なヨセフに、主は天使を遣わして、すべては主の御手のうちにあることを示されました。自分ではどうすることもできないような現実、理解に苦しむような重荷は、彼の肩にすべてかかっているのではなく、主の大きなご計画の中にあることだったのです。「そうだ、自分は独りじゃないんだ、主なる神さまが共におられ、導いてくださる。」インマヌエル、神がわたしたちと共におられる。その確信によってヨセフは、マリアとその子を迎え入れていくのであります。それは人の力ではありません。まさしく聖霊の力によって、彼はその生きるべき道をあゆみ出したのです。

私たちはみなそれぞれに人としての弱さ、悩みや葛藤があるものです。ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフの決心と同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考え方でのみ解決の道を探ろうといたします。人の計算や思考によって計ったり、よかれと思ったりします。そんな時にはえてして過ちを犯すことがあるかも知れません。又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくすることもあるかも知れません。何が主の御心であるか。「知る力と見抜く力を見につけなさい」と聖書にありますが。御心を知ってそれに従っていくことがほんとうに大切であります。けれども人にはそれがなかなか分からない。またその力もありません。だからこそ、聖霊の力、御霊の導きが必要なのです。主イエスは「それを求めなさい。願いなさい」と何度もお語りになりました。聖霊不在の教会に真の希望はありません。私たちはどこまでも、神の国と神の義を、聖霊の導きによって求めていかなければなりません。そこにこそ真の希望があるからです。そこから本物の、人を思いやる優しさも配慮も生まれてくるのであります。 
皆様はその信仰のあゆみにおいて、あるいは教会でも問題と感じること、課題と思えることがおありかも知れません。けれどもこのことを通して、やはり主への信仰が、自分のたち位置が問われ、正され、そしてまっすぐに主を見上げていくようにと導かれているのです。そういう気づきを与えられる。だから教会、兄弟姉妹の交わりは賜物なのですね。   
そして、何よりも私たちは、ローマ8章26節に記されていますように、「御霊が弱いわたしたちを助けてくださり、わたしたちがどのように祈るべきか知らない折にも、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」のです。
そのようなインマヌエルの主が共にいてくださるのです。この教会にも聖霊が豊かに働いてくださるように、心を合わせて、祈り支え合う私たちとされていきましょう。

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2012 クリスマスのご案内

2012-12-15 08:29:44 | イベント
あなたも クリスマス は教会で…

Christmas 2012 in Osaka Baptist Church


12月23日(日)10:30~12:20

クリスマス 礼拝

 ハンドベルクワイア・聖歌隊
 クリスマス・キャロル
クリスマス・メッセージ

           午後・祝会(食事)


12月24日(月)18:30~20:00

クリスマス・イブ 礼拝
キャンドル・ライト・サービス

 ハンドベルクワイア・聖歌隊
クリスマス・キャロル
クリスマス・メッセージ

席上自由献金送先(止揚学園、日本聖書協会点字聖書作成のため、釜ヶキリスト教協友会)

日本バプテスト大阪教会
〒543-0063  大阪市天王寺区茶臼山町1-17
電話 06-6771-3865 Fax 06-6771-3867
Email:obcs@nifty.com
http://blog/goo.ne.jp/bap-oosaka-ch


すべてのプログラムにご自由に参加できます入場無料です、ただし自由献金はあります



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世の終わりまで共におられる

2012-12-09 11:49:19 | メッセージ
宣教 マタイ28章16節~20節

①「主イエスの復活から生まれた教会」
この箇所は復活の主イエスが弟子たちを世にお遣わしになるに当りなされた「大宣教命令」として知られているところです。
主イエスの復活後、弟子たちは「ガリラヤへ行きなさい」との命令に従い、主イエスが指示された山に登りました。この山がどこの山か明記されていませんが、かつてイエスさまが弟子たちを集めて「山の上で説教」をなさった山とも言われております。その時弟子たちは「自分たちの師」・先生としてイエスさまのお話を聞きました。しかし今日のこの場面でイエスさまと再会した弟子たちは、御前に平伏して「主イエス」として礼拝したのです。
すなわちこの山は復活の主イエスが最初に礼拝された場所であり、又教会であったということもできるでしょう。
興味深いのは、その11弟子のなかに「疑う者もいた」と記されていることであります。
弟子たちはかつてイエスさまを見捨て逃げました。その十字架刑と死に対するあまりに深い失望感は、復活の主イエスを見た後も抜けないトゲのように、不信を引き起こさせていたのではないでしょうか。
 マルコ福音書の主の復活に関する記事では、弟子の「11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。彼らが復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と記されております。
しかし本日のマタイの福音書では、主イエスは疑う弟子たちのことを「ご存じのうえで」、その彼らに自ら近づき寄り添っておられるのです。弟子たちはそのあるがままの状態で受け入れられ、福音宣教の働きへと招かれるのであります。

②「教会の使命」
そして主イエスは次のように弟子たちにお命じになります。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。

ここにはまず、復活の主イエスが「天と地の一切の権能を授かっている」お方であることが宣言さています。それはイエスさまがこの地上のあゆみにおいて御父である神のご計画、それは十字架の死に至るまで完全に従われたことによってもたらされた権能であります。そしてイエスさまがこの権能を受けられたのはまさに復活を通してであります。このイエスさまの復活によって弟子たちは神の新しい民とされ、主の霊・聖霊を受ける者とされたのです。 

この神の新しい民とされた弟子たちに対し、復活の主イエスは3つのことを命じます。
第一は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」というものです。
それまではイスラエルこそが選びの神の民であり、イエスさまの救いと神の国の福音もそのユダヤの地において語られたのでした。
けれども復活の主イエスが、「天と地の一切の権能を授かった」と宣言された時から、救いはイスラエルを出て、あらゆる国々の人々のもとにもたらされることとなったのです。すなわち復活の主イエスのこの宣教命令によって、古いユダヤ時代の偏見や差別といった隔ての壁が突き崩されたのです。主イエスの弟子たちは、イエスさまの死と復活の福音をあらゆる国の人々に届けるよう立てられました。そうして今や私たちも又、その福音をあらゆる人々と分かち合うように祈り、働くキリストの弟子として招かれているのです。

第二の奨めは、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けなさい」ということです。
ユダヤの古い慣習では割礼という儀式があり、割礼を受けることによって「神の民」とされるという考えがあったわけです。しかし、イエスさまの復活によって「神の民」として生きる祝福が、もはやユダヤ人だけに限られたものではなくいなった。主イエスが言われたように、すべての人が父の神の愛、御子イエス・キリストの御恵み、ご聖霊の御交わりによって「神の民」とされるのです。その表明としるしが、「父と子と聖霊のバプテスマ」であります。共に神さまの祝福の業に与るため教会にバプテスマを授ける働きが託されたのです。

第三の奨めですが。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とのことです。ここで言われているイエスさまの教えとは、マタイ5章~7章にかけての「山上の説教」で語られたすべてのことを指しているのでしょう。そこには本当に具体的なことが様々語られていますが。凝縮しますとマタイ22章34節以降にもありますように、最も重要な掟として、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。又「隣人を自分のように愛しなさい」と、この二つの戒めに要約されるとイエスさまはおっしゃっています。
弟子たちはイエスを見捨て逃げ、又イエスの復活を疑う者もいたように、弱く、罪深い存在でありましたけれども。しかしこの復活の主イエスは、自らその弟子たちのもとに近寄って、あるがまま受け入れてくださったのです。弟子たちはこの復活の主を通して後々どれだけ自分たちが愛され、ゆるされているかを知らされたことでしょうか。
そのような主イエスの愛とゆるしをもって私たちも又、「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことの深さを分かち合うのです。

③「行って」の真意
さて、本日の主イエスの「あなたがたは行って、すべての民を」というお言葉。マルコ16章では「全世界に行って、すべての造られたものに」となっていますが。それを聞きますと、何だか今の場所を離れて遠い地に行かなければならないのか? 又、弟子として生きるとは宣教師や牧師となって直接的な伝道の働きをすることなのか?と、そう思われる方もいるかも知れません。
確かにそのような働き人を通して、神の御救いが全世界にまで伝えられてきたのは事実であります。しかしここで「あなたがたは行って、すべての民を」というその意味は必ずしもどこか遠い地や異国ということではありません。文字通りすべての民、すべての造られたものであります。それはたとえば、私たちが日常にあって様々な出会いや関わりにおけるすべての人々なのです。

先週の祈祷会の時に、S夫妻より香川県の丸亀城東教会の礼拝に出席されたその報告を伺いました。礼拝の約半分が南米ボリビアからの移住労働者だったそうです。この教会の牧師は外国人の移住労働者を教会に招き入れ、同じ「神の民」として共に礼拝を捧げておられるとの事です。牧師の説教は短いながらも実に豊かなメッセージで大変恵まれ、主にあってひた向きなその姿に感銘を受けられたということでありました。
 私はこの教会のことを伺いながら逆に励ましを戴いた思いです。
本日の箇所の「行って、すべての民」ということを実践され、共に主の福音を分かち合われている教会がここに確かにある、と。それは礼拝の人数や教会が大きいか小さいか如何によらず、主イエスのすべての民への福音宣教が具体的な形で実現されているということですよね。そこにキリストの救いを基とし、その教えに導かれながら歩まれる人々がまさに起こされていること。それがほんとうに大事なことなのですね。

④「世の終わりまで、いつも共にいる希望」
最後に、主イエスは弟子たち、教会が行なうべき使命を語った後、「わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されます。これは主イエスの弟子たち、又教会に与えられた特権であります。岩波訳聖書は「見よ、このわたしが、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、原語に忠実に訳されています。力強い主のお約束、いや宣言ともいえるでしょう。「見よ、このわたしが」。それは救いの業を成し遂げ復活なさったこのわたしが、ということです。このお方がいつも共にいてくださるのです。

ここで主イエスは「世の終わりまで」とおっしゃっていますが。「世の終わりまで」といえば、何か滅びや最後という希望のない響もあります。それは現代の社会が如何にも疲弊し、不安がつきないような混沌とした現状でありますことから、殊更そのように感じられるかも知れません。又、世の終わりまでというと、何か遠い将来の事や死後の事のように感じられるかも知れませんが、そうではないのです。聖書の「世の終わりまで」とは、私たちが今を生き、あゆんでいるこの時、この一瞬一瞬を含んでいる時のことであります。それは今この時を如何に生きているか、その現在進行形なのです。ですから、私たちは今与えられているこの命を、この時を神さまと向き合い、如何に生きるかということと、この「終わりの時まで」という御言葉は深く結びつき、関わってくるのです。復活の主が、世の終わりまで、どんな時も、どこにいようとも共にいてくださる。この主がともにおられるのなら、恐れることはありません。主が、再びお出でくださる再臨のその時まで私たちと共におられる。この約束は私たちにとってどんなに大きな慰め、何にも替え難い希望であります。その日、その時まで私たちも又、キリストの弟子として、各々立てられたその所、人々のもとへと遣わされてまいりましょう。
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あなたはメシア、生ける神の子

2012-12-02 20:34:40 | メッセージ
宣教(待降節) マタイ16章13節~23節

①「あなたはわたしを何者だと言うのか?」
イエスさまと弟子たち一行はフィリポ・カイザリア地方を訪れました。そこはユダヤの宗教家たちから異邦人との境とされており、ローマ皇帝をはじめ、バアルの神々、ギリシャ神話の神々などが祀られてきた多神教と偶像に満ちた地でありました。
そこでイエスさまは弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか?」とお尋ねになります。それに対して弟子たちは口々に「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言う人たちがいると答えます。それは人々が様々な奇跡の業を行ったイエスさまの力を旧約の預言者たちと重ねて見ていたということです。
けれどもそれは、イエスさまを預言者の一人だと言う者はいても、メシヤ(救い主)であると口にする人はいなかったということであります。民衆はローマの政治的支配による抑圧から解放してくれる勇ましい指導者をメシヤとして待望していました。柔和で権威的とは見えないイエスさまは民衆の持つメシヤのイメージとは違っていたのでしょう。
するとイエスさまは弟子たちに言われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか?」 今度は弟子たち自身がイエスさまを何者というのか、という大きな、それは弟子として主に従うことの根本的な意義を問われるのであります。

ところで皆さま方の中にご家族がクリスチャンであったという方もおられるでしょう。しかし大半は家が無宗教であるとか、仏教や神道とか別の信仰をもっていて、自分だけが教会に行きキリストを信じるようになった、という方が多いのではないでしょうか。日本のクリスチャン数は総人口の1パーセントと言われています。日本においてキリスト教と出会う場合、まあ殆どは異教的な環境の中でキリスト教と出会うのであります。
実に多くの人がキリスト教への関心や興味を少なからず持っていると思うのでありますが、本当にイエス・キリストを信仰の対象として信ずるに至るその道のりは、この日本の異教的で、かつ物質的繁栄と営利を求める文明社会においては厳しいものといえるのかも知れません。今も世界のベストセラーは聖書であり、それは世界中の人々が読み親しまれている書物であります。確かに聖書に対する世間の人たちの見方やキリスト教に対する見方も、悪い印象より良い印象をもたれる人が多いと思います。本屋に行けばキリスト教についての様々な入門書や注解書も手にできますし、結構よく売れているのですね。又、ミッションスクールなどでそれを学ぶ人も沢山おられます。ところがです。「じゃあ、あなたはイエス・キリストを何者だと言うのか」という、まさに聖書の中心的な問いかけに対して、答えを持ちあわせている人は実に少ない、極少数であるというのが現状ではないでしょうか。
本日の箇所はフィリポ・カイザリアに立つイエスさまと弟子たちの問答でありますが。それは世間がどうこう言っているキリスト教、本や参考書に書かれているような一般的な解説ではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか?」というイエスさまからの個人的な問いかけが、このフィリポ・カイザリアに象徴されます異教的な文化の中で暮らす一人ひとりに、投げかけられているのではないかと思うのであります。

②「ペトロの主告白と教会」
さて、イエスさまの問いに対しシモン・ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。彼は「あなたは救い主であり、生きておられる神の御子であられます」と、そう言い表したのです。
するとイエスさまはペトロに答えます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
イエスさまはペトロを幸いだと祝福しますが、しかしこのことを現わしたのはペトロの理解力や知性によるのではない、天の父によるものだと言うのです。天の父なる神が、「イエスこそ、生ける神の子・キリストである」という奥義、今まで覆い隠されていた事を明らかに示されたというのですね。そして史上初めて「イエスさまが主である」との信仰告白をなしたペトロでありました。
けれども、イエスさまが実際どのような形でメシアとしての御業を成し遂げられのか、それは知るよしもありませんでした。この時のペトロにとってのメシア像とは、権威を帯びてユダヤの民にあらゆる抑圧からの政治的解放をもたらすような存在であったからです。
ですから彼はイエスさまがご自身の受難とその死について語り始めた時、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスさまを自分の方に引きよせて、いさめ始めたのです。ペトロにとってそれは決してあってはならないことであり、自分にとっての理想的社会の実現を否定するものでした。
しかし、イエスさまは振り向いてそんなペテロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず。人間のことを思っている」と言い放たれます。ペトロにとってそれはどれ程衝撃的な事であったでしょう。

ペトロといえば確かにイエスさまの愛弟子であり、又筆頭格の弟子でありましたけれども。その彼のあゆみを福音書から辿って観ますと、彼の弱さや優柔不断さ、失敗や挫折が赤裸々に容赦なく書かれていますよね。にもかかわらず、主イエスの愛はどこまでもペテロに伴っていました。あのイエスさまを3度否んだ時、イエスさまの十字架を前にしてペトロはほんとうに自分の無力さ、優柔不断さ、弱さを痛感いたします。
しかしイエスさまは、彼が立ち直ったら他の弟子たちを力づけ福音のために力強く働く者となるように望み、信じ、祈られていました。そして復活の主イエスはこのペトロと出会い、「わたしの羊を飼いなさい」という御言葉をもってペトロを招かれました。ペトロはこの時になって初めて神のご計画による救い、イエスさまがメシアとして来られた本当の意義、その神の奥義を知ることになるのです。彼はその主の招きに応え、主の御言葉どおり信徒らを導き、その群を養う者とされていくのであります。
このペトロの新しいあゆみは、まさに主イエスの十字架上のゆるしと執り成しによる愛に支えられたものでありました。イエスさまは実にそのようなゆるしと執り成しと、自らを捧げる愛によって神の救いをもたらされたのであります。それこそが、私たちの救い主(メシア):キリストのお姿なのであります。

ペトロの話に戻しますが。イエスさまはペトロに「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。「ペトロ」はヘブライ語とアラム語で「ケパ」といい、岩という意味です。聖書教育の学びの解説に、「ペトロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と言い表した信仰告白こそが、教会を支える‶岩のように強くて頑丈な基礎″であることを意図したのでしょう」とありました。確かに彼の信仰告白は現代に至るまで教会の基であり、その信仰告白の上に今日まで教会が建てあげられ、形成されてきたのです。
けれどもペトロは先程申しましたように、救い主(メシア)がどのような形で成就されていくのか迄は分かりませんでした。だから、イエスさまの受難告知に躓いたのです。
そう考えますと、ペトロの信仰告白というのは頑丈であるというよりはむしろ不完全なものであった、と言えるのかも知れません。口でいくら立派な主告白をしても、人間の思いが優先し神さまの御心が受けとめられないで、とんちんかんな過ちを繰り返すようなペトロ、弟子たち。その延長線に私たちも立っているのではないでしょうか。
けれどもすごいのは、イエスさまはそのようなペトロをご存じの上で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃったのです。人としての不完全な信仰告白の上にキリスト(救い主)の教会を建てる」と、おっしゃったのですね。私たちも又、ゆるされて、不完全ながらもつたないその信仰告白によって、受け入れられ、何よりも愛されて建てあげられていくのであります。教会は主の恵みとゆるしに気づいた一人ひとりが、心から悔い改めて主に立ち帰って生きるその群であり、そこに人ではなく神の御業が起こされていくのです。そして教会はこの救いの恵みを人々に伝え、証ししていく群でもあるのです。

最後に、今日のこの個所からつくづく示されます事ですが。イエスさまがペトロをして「神のことを思わず、人間のことを思っている」と指摘している点であります。
人は誰しも「こうなったらいいのに」という願望や「そうなるべきだ」という理想を掲げ思い描くものです。ペトロもそうでありました。しかし、救い主イエスさまに従う弟子として招かれていることは、「神の御心、神の計画に聞き、信頼をもって従う」という事であります。24節でイエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われています。
今、私たちに与えられている救いの恵みと、そのために払われた主のご愛をおぼえつつ、感謝と賛美をもって主の導きに聞き従ってまいりましょう。
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