日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主イエスの道

2019-03-31 12:54:55 | メッセージ

メッセージ ルカ24章13~35節 受難節4 

受難節の只中にあって、今日は「エマオへの道」の記事より、「主イエスの道」と題し、み言葉に聞いていきます。

イエスさまの十字架の出来事を目撃した弟子たち二人はそのいまわしさから一刻も早く逃れようと、エルサレムの町からエマオの村に向かいます。その距離は60スタディオン。

1スタディオンが185mですから、約11㎞、まあ徒歩で6時間はかかるでしょうか、エマオの村へ向かう途上にありました。

ちなみにこのエマオとはヘブライ語で「温泉」「温かい井戸」という意味があります。深読みをすれば、温泉が湧き出、人々がいやしと回復のために湯治足を運んだ地であったのかもしれません。

 

この弟子の一人はクレオパという人でしたが、もう一人の弟子の名は何も記されていません。二人とも12弟子とは異なる弟子であったようです。

その道すがら二人は、自分たちがメシアだと期待していたイエスさまが、こともあろうに十字架刑に処されて悲惨な死を遂げたことについて論じ合っていたのです。おそらく彼らはこのイエスさまの死にメシア待望の期待が絶望と変わり、暗い喪失感に襲われていたのでしょう。

 

そのような時、主イエスご自身がその彼らの傍らに近づいて来て、一緒に歩き始められるのです。

「しかし、彼らの目は遮られていて、イエスさまだと分からなかった」というのです。

主イエスは、彼らと歩きながら「やりとりをしているその話は何のことですか」とお尋ねになります。

一人の弟子クレオパが、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と返すと、主イエスは「それは、どんなことですか」と彼らの心の奥底に持っている思いを引き出すようにお尋ねになります。
クレオパは、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長や議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」
彼らにとってイエスさまはこの時すでに過去の人でしかなかったのです。

 

人は思いがけない出来事に遭って失望感や喪失感を経験することがあります。そんな時、目の前が真っ暗になるような経験をいたします。まあ、彼らも又、そのために復活された主イエスに気づくことが出来なかったのです。

私どもも時として、過去の出来事、それがよい事であれ、悪い事であれ、過ぎ去ったことに捕われて「今、目の前にあるもの、目の前にある人」、そして「今、与えられている幸いや恵みが遮られて見えなくなる」ということがないでしょうか?

しかし、主イエスはまさにその「今」、私たちと共にいてくださるのです。私たちの過去がたとえどのようなものであったとしても、どんな挫折、失望、不安や悲しみがあったとしても、主は、そのあなたと歩みを共にしていてくださるのです。
さて、主イエスはそのような彼らに、「ああ、もの分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」とあります。
弟子たちにとって忌むべき呪いの十字架の出来事。

けれどもそれは人類の救いの道が開かれるために成し遂げられねばならない出来事であったのです。その十字架の出来事があったからこそ、私どもはこのように神のみ前に罪赦され、新しい命、神の民とされて生きる救いの恵みに与ることがゆるされているのです。イエスさまはその救いが真実であることを示されるためにご復活なさったのです。
その復活の主イエスは二人の弟子たちに対して、聖書(律法・預言書)全体は救い主メシア、イエス・キリストご自身について書かれたものであることを説明されます。その時、この二人の弟子たちの心が燃やされるのです。

私どもにとって聖書は活ける主の言葉であります。私どもは聖書を介していつも復活のキリストと出会うことができるのであります。

確かに聖書を読んでいて理解しにくい点や分からない点もあるでしょう。私もそうです。しかし、主イエスが二人の弟子たちに忍耐強く、み言葉の解き明かしをなさったように、実に今も聖霊が私たちの信仰生活の生の全領域にある生活の中で、その魂のうちに語りかけ、聖書の言葉を解き明かしてくださるのです。

皆様もみ言葉が真実だという体験、又み言葉が実体となって心に迫ってくるというご経験がきっとおありではないでしょうか。
聖書は一人で読むことは大事ですが、主にある仲間との交わりの中に、又様々な出会いの中に、聖霊がゆたかに働いてくださるのです。そのことによって、活ける復活の主が共におられることに気づき、心熱くされる感動が与えられるのです。
しかしこの二人の弟子たちですが、この時点で心は熱くされても、目の前にいるお方が復活の主イエスだとまだ知ることはなかったのです。

さて、二人の弟子たちは、主イエスと共に歩き、語り合っているうちに、いよいよエマオの村に近づきます。

主イエスがそこからなおも先に行こうとされたので、この2人の弟子たちは、「一緒にお泊まりください」と「無理に引きとめた」とあります。えらい強引だと思いますが。それだけ彼らの心は目の前にいるお方に惹きつけられていたということです。

あの喪失感にさいなまれていた二人が、心燃やされ「ちょっと待ってください。もっと話をお聞きしたい。どうか一緒にお泊まりください」と、強引に引きとめる様子を想像すると何だか嬉しくなります。

黙示録3章20節に、主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」と記されていますが。この時まさに彼らは目の前におられるお方がまだ復活なさった主イエスとは知らなくとも、お迎えしたいという思いでいっぱいになり、迎えいれるのです。

おそらく彼らが「一緒にお泊まりくださいと、無理に引き止め」ていなければ、この後の目の前にいるお方が、復活の主イエスだと知るよしもなかったでしょう。

そして彼らは「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」その主イエスのお姿を見るや、その目が開け、イエスだと分かったというんですね。

それはまさにイエスさまが十字架につけられる前夜、弟子たちと共に持たれた最後の晩餐のときの光景でありました。イエスさまが「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂いて、これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(ルカ22:19)と、おっしゃったその場面が、よみがえってきたのです。

すると聖書は、「彼らの心の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と伝えます。彼らはイエスさまが死より復活されて共にいてくださることを霊の目で見たのです。

エルサレムからエマオに向かい始めた時、「彼ら二人の心の目はさえぎられていて、イエスだと分からなかった」のでありますが。エマオの道を主イエスに伴われながら歩んでいく中、さらにイエスさまの聖書の解き明かし、またパンを裂きと賛美と祈りの時をもつことによって、「二人の目が開け、イエスだと分かった」というのであります。聖霊によるお働きとお導きによって、主が共におられることを霊の目で確信することとなるのです。

このことから、私たちにとって「礼拝」や「主の晩餐」は真に重要なときであることが読み取れます。毎日曜日の教会の「礼拝」、また「主の晩餐」を通して、私たち一人ひとりの傍らに復活の主が共におられることを確認し、主の霊、聖霊に導かれていきたいものです。

 

復活の主イエスの姿がなぜ見えなくなったかについては分かりませんが。ここで大切なのは、彼らの「心の目が開け、イエスだと分かった」ということです。それは私たちの普段の心の目は、目に見える世界だけに囚われて生きているということです。私たちが目で見ていることが本当にすべてなのかというと、そうでしょうか。目に見えないものの中に、それは信頼、愛、執りなしなど、私たちはそれらの目に見えないものによってどれだけ支えられ、生かされているでしょうか。

いずれにしろ、主イエスのお姿が見えなくなった、ということの意味は、聖霊という存在として、私たちはどんな時も、どこにいようと復活の主のご臨在を経験することができるようになったということではないでしょうか。

33節、彼らは「時を移さず出発し、エルサレムにいた他の弟子たちにも、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」というのです。

今度はその彼ら自身が復活の主イエスの証人となっていくのです。

どうでしょうか。クリスチャンとなった私どもはこのように、日々日常の生活において主の復活の証人となっているでしょうか。教会生活と現実の生活とは別個のものではなく、ひとつながりです。サンデークリスチャンで終っていないでしょうか。その鍵となるのは私共が日々、聖霊に満たされて歩んでいるかということです。

主の証し人は、自家製のがんばりや義務感で決してなれるものではありません。聖霊によるお働きとお導きによる主の恵み、感謝と喜びが原動力となるからです。これは奉仕も献金もそうです。義務や責任からではなく、あふれる主の恵み、感謝、喜びから起こされていくのですね。


最後に、今日の聖書個所から「主イエスの道」という題をつけました。

今日の礼拝で最初に読まれた招詞のヨハネ14章6節をもう一度お読みします。「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」

主に救い出されたクリスチャンは、みな今日のエマオの道、すなわち主イエスの道が備えられているということであります。

今日の聖書の箇所はルカ24章の「エマオへ向かう道」ですが。先にも申したように、その「エマオ」とはヘブライ語で「温泉」や「温かい井戸」という意味があります。又その「道」とは、心の目が遮られていた二人の弟子たちの傍らに主イエスが近づき寄り添って、共に歩いてくださる道のことなのです。

そうしてエマオへの道において、霊の目、心の目がさえぎられていた二人の弟子たちの目が、主イエスが伴われる道において、聖書の解き明かしがなされ、さらにパン裂きと賛美と祈りの晩餐をとおして、彼らの霊の目、心の目が開かれていったのであります。心冷めきっていた彼らの心が熱くされたのです。まさにそれが起ったのは、温泉、いやしと回復の地を意味するエマオの道においてでありました。

私たちも、絶望や喪失感にさいなまれ、先の見えないような状況に至ることもあるかも知れません。まさに地上に生きる私たちはみな、このエマオの途上にあるのです。しかし、実はそのようなときに主イエスがその私たちの傍らに寄り添い、歩みを共にして下さっておられる。これが今日のメッセージであります。

そのことを私たちは教会での礼拝、祈祷会、信徒の交わりを通して、そして日々の日常生活の中でも体験することができるのです。アーメン。ここに地上では得難い希望を私たちは主より頂いているのであります。

 

今週も、今日のみ言葉をもってそれぞれの場へ主の復活の証し人として遣わされてまいりましょう。

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神の国はあなたがたの間に

2019-03-24 17:00:14 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ17章11-21節 受難節・レントⅢ

 

本日はルカ1711節からの「重い皮膚病を患っている十人をイエスさまがおいやしになられた」記事から、御言葉に聞いていきたいと思います。

まず、この十人は身体的病に苦しんでいただけでなく、社会的にも人々から汚れた者として排除される中で精神的な苦しみを負っていた人たちでありました。さらには、この十人の中にサマリア人がいたということです。

この当時、ユダヤの社会ではサマリア人を宗教的に汚れた者、異邦人と同様とみなしていました。一般的にユダヤ人はサマリア人とは交流することはなかったのです。

けれどもこの十人の人は、皆重い皮膚病ということで社会からの冷たい風に曝され、排除されながら苦しみを負っていたのです。そのことのゆえに、互いに肩を寄せ合いながら連帯せざるを得なかったのでしょう。

その十人の人は、イエスさまが自分たちの村に入ると、出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま。先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と訴えるのです。

いやしの業をなさるイエスさまが自分たちの村に来られるという情報がどこからか伝え聞いていたんでしょうか。重い皮膚病のゆえに、人に近づくことが彼らは、何とかイエスさまに自分たちの思いが届いて、神の憐れみに与りたいという一心だったことでしょう。

 

すると、14節「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われます。

たとえ世の人々が排除し、無視し続けようとも、イエスさまはその叫びをお聞きになり、応えて下さるお方なのです。

実は、ルカ513節のところでも「重い皮膚病を患っている人」をイエスさまはおいやしになられるのですが。この時は、イエスさまご自身がその人に手を差し伸べ、その人の手に直接触れて、おいやしになっています。

イエスさまは本当に人を愛され、慈しまれるお方です。手に触れおいやしになった人はとても孤独であったかも知れません。主が触れて下さることで神が共にいて下さるという、このうえない喜びといやしを受けることになったのかと想像します。

 

けれど今日のこのところでは、イエスさまは彼ら10人に触れることなく、ただ「祭司のとこに行って、体を見せなさい」とおっしゃるんですね。この違いは何なんでしょう?

それは、この10人の人が主イエスの御言葉に信頼して、今はまだ見てはいないが、主が必ずや実現するという信仰が、ここで求められているのでしょう。

口語訳聖書へブル人への111節に、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とありますが。そのとおりです。

そうして「彼らはそこへ行く途中で清くされた」のです。そうです。この10人はイエスさまの御言葉の命ずるままに、行動したのです。そうしてその中で彼らは皆いやされたのです。

 

ところでイエスさまはなぜ「祭司のとこへ行って体を見せなさい」と彼らにおっしゃったのかと申しますと。

旧約聖書の律法の書に、皮膚病の人が祭司に患部を見せ、祭司が治ったと判断したなら、清めの儀式と8日目の奉納とを経て、社会復帰することが出来る。家族のもとに戻れるということであったからです。そこで彼らはイエスさまのお言葉に期待をもって祭司のもとへ向かったのですね。

まあユダヤ人であれば、「祭司たちところへ体を見せに行く」ということについてもちろん何の抵抗もなったでしょうが。しかし、その中にいたサマリア人にとって、このイエスさまのお言葉はそんなに簡単にできるようなことではなかったのあります。

始めにお話したように、サマリア人はユダヤ人に差別されていました。誰よりも彼がサマリア人であるということが大きな障壁になっていたのです。その彼がユダヤの祭司のところに行くとなれば、どんな目に遭うか分りません。そのイエスさまのお言葉に対して、当然不安や恐れのなかで拒否反応が出てもおかしくなかったかと思われます。

けれども、このサマリア人はイエスさまのお言葉にいわば自分の全存在をかけて、祭司のもとへ向かうのですね。そうして彼も他の9人同様いやしに与るのです。

 

そして15節を見ますと、「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」とあります。この人は、単に自分の体がいやされことで喜んで終わる人ではありませんでした。

だれでも自分にとって有難いこと、良いことが起こった時、皆喜びますが、それでこの人は終わらなかったんですね。

それは、この人が自分をいやしてくださったのはイエスさまだ、ということを本当に知ったからです。この知ったというのは、目の当たりにするとか、体験するとか、経験するという意味をもつ言葉なのです。それは頭の知識によるものではなく、体験をしたということです。

 

彼にとって体がいやされたという喜びというものは当然大きいことではありましたが、彼はここで何にも代えることのできない比類なき「喜び」を得ます。主イエスが私にとって本当に救い主であるという体験です。彼は重い皮膚病を患った人として排除され、またサマリア人としてユダヤ社会において汚れた神に呪われた存在として忌み嫌われていましたが、主イエスの救いの体験によって、自分はもはや神に呪われ見捨てられた存在ではない。神は憐みをもって共にいつもいてくださる、ということを本当に心から知ったのです。

だから、彼は、もう、大声で賛美せずにいられなくなり、まっしぐら主イエスのもとに戻って来て、礼拝と感謝をささげたのです。イエスさまは本当に人を分け隔てせず、御神の愛と救いを実現してくださるお方なのです。

さて、一方の他の9人たちですが。

イエスさまはおっしゃいます。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

なぜ他のものたちは主イエスのもとに戻ってこなかったのでしょうか。

他の9人は途中でいやされたこと知った時、それこそユダヤの祭司のところに跳んでいったんじゃないでしょうか。そうして彼らの祭司から癒された証明をもらい、ユダヤ社会や宗教的な共同体と家族のいるもとに戻ることができたのです。

彼らの救いは神殿の中に、又清めの儀式の中、さらに同胞の中にありました。

この9人は主イエスの清めに与りながらも、その思いはいやしと同胞の交わりへの復帰に向いますが、真の救い主に自分たちが与ったことを知ることはなかったといえます。

 

しかしサマリア人は、その9人とは違い、祭司のところに行って癒された証明書をもらう道が閉ざされていました。けれどそのことのゆえにこの人は、イエスさまのもとへ戻ってくる道が開かれた、ともいえます。

他の道、人生の保証がないからこそ、本当の救い主を知った。これは又、多くのクリスチャンの方々の体験でもあるでしょう。

 

さて、イエスさまは、そのように神を賛美し、ひれ伏して感謝するサマリア人に向けて言われます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

この清くされたサマリア人のこれからは、依然とユダヤにあってはこれまでと変わらず偏見と蔑み、敵意と隔ての壁が立ちふさぐ、孤独で先行きが見えない険しい道筋に変わりなかったのです。

その彼に対してイエスさまは、「立ち上がって、行きなさい」と言われるのです。「行きなさい。」それは文字通りそこへ、つまりあなたの場所へと行きなさいということです。まあ、礼拝でも毎回「ここから遣わされてまいりましょう」と、それぞれの場へ主が遣わしてくださることを覚えて、宣教メッセージを閉じていますが。

この「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉は、ともすればこのサマリア人の行動や態度が彼を救ったというふうに読みがちですが。それは違います。救いをなしてくださったのは主イエスご自身です。救いの主体は主にあります。唯彼は主に信頼する信仰によって救いが与えられるのです。

このサマリア人の彼が信仰を通して経験した救いは、とてもはっきりしていました。それは体と心と魂の、いわば全人的救いです。

イエスさまはその彼に向って、だから、あなたにはわたしがいる、孤独ではないから、これから「立ち上がって、行きなさい」と励まし、送り出されるのです。

 

本日の箇所を、私たちはここで終わらずファリサイ派の人々が神の国についてイエスさまにお尋ねになった21節までを一つながりとして読んでいます。

彼らファリサイ派の人々は常に聖書研究と議論を怠らない人たちですから、神の国がいつ来るのかというのは、まあ、ある意味彼らの素朴な疑問であったとも言えるでしょう。

 

それに対してイエスさまは、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とお答えになります。

そこを原文に近く訳された岩波訳聖書では、「神の王国は、観察しうるようなさまで到来することはない。人々が『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』などと言うことでもない。なぜならば、見よ、神の王国はあなたたちの現実の只中にあるのだ。」と訳しています。

あなたがたの「間」という本来の意味は、あなたがたの「現実の只中」なのです。

ここでイエスさまは、神の国というものが、場所や現象、また時間などに支配され、限定されるようなものでないことを示されます。「神の国はわたしたちの現実の只中にある。」

 

彼らファリサイ派の人々にとって、重い皮膚病を患った9人のユダヤ人がいやされるのは理解できても、神に呪われた者とみなすサマリア人までがいやされたというのは納得いかないものであったようです。

イエスさまは、そのような人と人とを分け隔て、壁を作る彼らに対して、神の国は「あなたがたが目の当たりにした、ユダヤ人もサマリア人も隔てない共に救いの恵みに与る現実の只中に、神の国はある、と言われるんですね。

 

今日の箇所はイエスさまがゴルゴダの丘のあるエルサレムに向かう中での出来事でありました。このエルサレムに向かう途上とは、まさに神の国が、主イエスの十字架の苦難と死によってすべての人を隔てる敵意の壁が崩されていくそのために、イエスさまが「サマリアとガリラヤの間を通られた」ということであります。この間という言葉も、只中とか真ん中と訳せるのです。(岩波訳)

神の国、神の支配とは、サマリアもガリラヤも区別なく、主の御救いが及んでいる出来事そのものを指しているのです。

イエスさまは、「ほかの9人はどこにいるのか」と残念がられました。ユダヤ人、ガリラヤの人たちが祭司のもとではなく、真の救いの神に立ち返り、主にあってサマリアもガリラヤもない、神の国、そのメシア、王で主に立ち返って生きることを、何よりも願われていたイエスさま。

私たちも又、このイエスさまが、「見よ、神の国はあなたがたの現実の只中にあるのだ」とおっしゃっている御言葉を今週も思いめぐらしながら、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりま

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助け主(ぬし)に立ち返れ

2019-03-17 14:05:25 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ16章19-31節 レントⅡ

 

先週はルカ13章の「実のならないいちじくの木」の譬えから、神さまに立ち返って生きる、とのメッセージを聞きましたが。

本日はルカ16章の主イエスがお語りになった「金持ちとラザロ」の物語であります。

ここは話としては単純かもしれません。

金持ちは、生きている間、富を得、上等な服を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた人でした。一方ラザロは、体中できものだらけで苦しみ、貧しかった。その金持ちの門前で、横たわり、その食卓からこぼれ落ちてくるもので腹を満たしたいものだ、と日々願っているような人でした。

ところが、二人が死んだ後、立場が逆転します。ラザロは天使たちによって宴席に連れて行かれました。いわば天国に行ったのです。

一方の金持ちは、地獄ともいえる陰府(よみ)に行くことになりました。簡単に言ってしまえば、そんな話であります。どこにでもあるような話かもしれません。聖書を読まなくても、同じような話には出くわすものです。

善いことをしないと死後、地獄に堕ちるだとか、たとえ貧しかったとしても、善いことをして堪えれば報いがあって、死後、天国に行けるだとか、そのような話です。


けれどもイエスさまはここで、そのような教訓めいたことを話されているのではないことが、このお話を読んでいくとわかってきます。


この金持ちについては、19節に「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」とあります。

彼はそういう贅沢三昧をしていました。その暮らしぶりが陰府に行く原因になったのでしょうか。

確かに「子よ、思い出してみるがよい。おまえは生きている間によいものをもらっていたが云々」とありますが。その金持ちが何か特別な罪を犯したとか、そういうことは一切言われていません。

また彼は、黄泉の苦しみから抜け出せないとわかると、必死になって5人の自分の兄弟たちの執り成しをします。「ラザロを遣わして、兄弟たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように言い聞かせてください」。まあ兄弟に今警告したらこんなところには来なくてすむだろうと考えたのでしょう。それは陰府に行って当然というような悪人の姿ではありません。
これまで私はどこかこの金持は無情な人だというような思い込みで読んでいたのですが。まあ身内に対してはこういう思いやりがあったんですね。まあ、そのように金持ちが贅沢をしたとか何か悪いことをしたので、さいなまれる黄泉に落ちたということをおっしゃっているのではなさそうです。

 

一方のラザロはどうでしたでしょうか。

ラザロは天国に連れて行かれました。ラザロが天国に行けるような優れたところがあったからでしょうか。ラザロが貧しいながらも神を見上げて生きたとか、清い心をもって忍耐して人生を送ったとか、しかしそのようなことは一切語られていません。

実に、ラザロも天国に行くことができるような理由については、何も言われていないのです。
イエスさまのこのお話は世の一般的な教訓話と明らかに違いがあります。

人間的な世界の教訓話なら、善いことをすれば天国に行ける、悪いことをすれば地獄に堕ちる。だから悪いことをせずに、善いことをしましょう、という話で終わるかと思います。けれどもイエスさまはそのようなことをお語りになっておられないのです。

では、このイエスさまのお話で問題になっていることとは何でしょうか。

その一つは、富の問題、金の問題であります。

この少し前の13節でイエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われたのですが。その言葉に対し、14節で「金に執着するファリサイ派の人々が…イエスをあざ笑った」のです。

この流れの中で、イエスさまは今日のお話をなさったのでありますが。

イエスさまは金や富そのものが悪いと言われているのではありません。ここで問題となっているのは、それに囚われることから生じる魂の危機的状況です

金に執着する人が、神にではなく富に仕えるようになり、神さまから遠く隔たり、遂には苦しみと孤独にさいなまれようになる。滅びでしょう。そのことへの警鐘です。

また、その金や富に囚われことによって、他者に対して無関心となり、それが結果として他者のいのちと生活を脅かし、危険にさらす事態となっている。そこが問題となっているのです。

先日新聞で、地球温暖化に対する100カ国以上の一斉デモが15日に行われたということを知りました。北欧のダレタ・トゥンベリさんという16歳の学生の方が、地球温暖化で将来が危ぶまれることを訴えるため一人で学校ストライキを行ったことに始まったそうです。

「大人は2050年より先何て考えない。でも私は、その時人生の半分しか生きていない。」

そういう危機感に賛同する若い人たちがそこに加わっていたということです。

グレタさんは「人々は成功を語りたがります。でも、彼らの経済的な成功は、気候変動について考えられないほどの代償を伴いました。私たちは失敗したことを認めなければなりません」と言っています。

富や経済を最優先してきた今の社会が若い人たちの将来を脅かしているということを忘れてはならないと、つくづく思わされました。

 

話を戻しますが。

1613節以下で、イエスさまは、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」、と言われました。

このお言葉を胸に刻みたいと思います。

 

さて、この今日のイエスさまのお話では、どうしたことか、貧しい人にだけ「ラザロ」という名前がつけられていますが。

なぜ金持ちには名前がなく、貧しい人は名前つきで登場するのでしょうか。この世界、世の中の常識では逆ですよね。

名をあげる、有名になる。多くの人に名を知られるのは祝福だというのが世の見方でしょう。24節で、金持ちは死後葬られますが。おそらく名が知れたがゆえに壮大な葬儀がなされたんだろうと想像できますが。それに対してラザロは単に死の報告しかありません。

 

しかし、この世にあって、人の目から見て、無きに等しいように扱われ、価値無き者のように見なされているその人を、天地万物をお造りになられた命の源であられる神さまは名前のある尊い存在として認めてくださっている実はそれがこのラザロという名に表されているのです。

ラザロという名前は「神は助ける」という意味をもっているのです。まさに神はラザロをその名のとおりお助けになられた。

このことをイエスさまは伝えたかったのだと思うんですね。

ラザロが天の国の食卓に共に与ることができたのはなぜか。それは、ラザロの名前が表しているように、「ただ神が助けて」下さる他ない者であったからです。

私たちも、そういう存在ではないでしょうか。何か自分が正しい者だから救われたのではなく、清い者だからふさわしいと思ってクリスチャンになったわけではありません。否、むしろ「神さまの助け」に与るほかない者であったからです。

天国に帰ったラザロは「今、ここで慰められ」ると、ありますが。イこの「慰め」とラザロの「神は助け」の「助け」はもともとは同じ語源から派生した言葉です。それはまた「聖霊」パラクレイトスと同様の言葉であります。聖霊は「助け主」であり「慰め主」であると聖書に記されているとおりです。私たちもこの聖霊の助けと慰めによって、日々天国の食卓に与る者とされているんですね。

同じルカ1824節以下のところで、イエスさまは『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』と言われますが。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言ったとあります。多くの富を持っている、そんな祝福された人が天国に入るには難しいのなら一体誰が天国に入れるのだろう。

それに対してイエスさまは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた、とございます。人の力や業ではなく、ただ神のみが人を救うことがおできになるのです。

聖霊の助けと慰め、その御力を求め、与りつつ、神の御救いを仰ぎ見る者でありたいと切に願うものです。

 

最後に、今日のお話には、ラザロの他にもう一人アブラハムの名が出てまいります。

アブラハムはイスラエル民族の出発点となった人です。アブラハムはその信仰によって神から義人と認められます。そして神さまはアブラハムに「あなたは祝福の源となるように」と言われるのです。

「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたイエスさまを嘲笑ったファリサイ派の人たちは物心ついた頃から、自分はアブラハムの子孫であるということを教えられ、意識して育ちました。アブラハムの継承者、祝福を受け継ぐ者として誇り高く律法を遵守し、安息日や断食や施しを実践して、自らを清く保とうと努めていたのです。

彼らにとって祝福は満ち足りた生活であり、豊かさは祝福の表れでした。ですから、ファリサイ派の人々の中にも、社会的に貧しい人、弱い立場にある人、病をもつ人などは、祝福に与っているとはいえないという考えをもっていたのです。

ファリサイという名は「分離」を意味しています。つまり律法を守らない、守れない世俗の人たちと自分分離して生活していたのです。

ところがイエスさまのなさったお話では、祝福されているはずの金持ちが死後アブラハムから遥かかなた遠く離れた場所で苛まれ、炎の中でもだえ苦しむのです。

何とも彼らにとっては痛烈な話であったでしょう。

アブラハムが言うには、天国と陰府との間には「大きな淵」(26節)があるということです。

淵を辞書で見ると「流れの水がよどんで深くなった所」とありましたが。富に心奪われ命の水かよどんで大きな淵となり、そのまま地上の生活を終えてしまうのなら、彼の父祖アブラハムでさえどうすることもできない。金持ちはもはや黄泉において、自分のことは断念し、自分の5人の兄弟の救いを求め、ラザロを遣わして警告してくださいと言います。

けれどもアブラハムはその訴えを退け、彼らには「モーセと預言者がいるではないか」との言葉」、神の言、聖書がすでに与えられているじゃないかと言われるのです。

すると、彼はなおも食い下がって「もし、だれかが死者の中から彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう」と言うのですが。

アブラハムは「もし、彼らがモーセと預言者、すなわち聖書に聞かないのなら、たとえだれか使者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と答えているのです。

どうでしょう。

確かに、驚くようなしるしが現わされ、それが信仰のきっかけになることもあります。

しかしそこに、御言葉による悔い改め、神さまに立ち返って生きることが無いのなら、意味はありません。

今日のイエスさまが語られたお話は、助け主であられる主が、世にあって名もなき者、小さく弱い立場におかれた人をも、この上なく尊い存在として認め、顧み、いつくしんでおられことが示されます。その究極の愛こそ、主イエスさまの十字架の贖いにおいて実現したのです。主はまさに死人の中からよみがえられ、今や聖霊を通して私たちを助け、慰めていてくださるのです。

金や富に囚われている私たちが救われ解放されるべき道は、この生ける主と出会い、神さまに立ち返って生きるところにございます。

私たちもまた、今日の御言葉を受入れ、聖霊の助けと慰めをのうちに世に遣わされてまいりましょう。

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こども食堂「おいでや」のご案内

2019-03-11 09:43:27 | イベント

日時 3月13日(水)午後3時~7時

 

会場:大阪教会2階ホールへおいでください。

メニューは、台湾お手製「水餃子」でございます。

小学生50円 中学・高校生100円 おとな200円


みんなでいっしょにたべて、うたい、あそぼうー。

宿題ももっておいでや~。

赤ちゃん連れのママ・パパも歓迎いたします。

ボランティアさん、ほぼ10人おります。

食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフが常駐

 

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問いの中で生きる私たち

2019-03-10 15:49:59 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ13章1-9節 (3・11を覚えて)

 

本日は受難節(レント)に入り最初の主日礼拝となります。主イエスの十字架の苦難と死を覚えつつ、イースターに向かって日々歩んでまいりたいと願います。

 

今日のお話は「ちょうどそのとき」、という言葉から始まっていますが。それはこの前の箇所と密接につながっているからです。

「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人(あなたを訴える人)と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官は獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言っておく、最後の一レプトンを返すまでは、決してそこから出てくることはできない。」

そこには、群衆の一人ひとりが罪を認め、悔い改めて神さまとの和解を得ることの重要性が語られています。今日はこのことを念頭におきながら御言葉に聞いていきたいと思います。

さてちょうどこの話を聞いていた群衆の何人かがイエスさまに、「ピラトがガリラヤ人の血を混ぜたこと」を告げたというのです。

このピラトはローマ帝国の傀儡政権としてユダヤの人たちを統治していた人物で、後にイエスさまはこのピラトのもとで、十字架につけられ処刑されてしまうですけれども。

このピラトは、ガリラヤのユダヤ人たちのことを、現政権に反駁し、何をしでかすかわからない存在とみなし敵視していました。そのガリラヤに住むユダヤの人たちがエルサレムの神殿に行き動物のいけにえをささげて礼拝をしようとしていた時、ピラトの兵卒らに惨殺されてしまった。神を礼拝しようとしていた場で無惨に殺されてしまったのです。神の前に正しいことをしていた人々がなぜその最中に殺されてしまわねばならなかったのか?

まあ因果応報と言うような、「何か悪い行いがあったから、神の裁きを受けたのか」といった考えに彼らは囚われていたのかも知れません。けれども、それは裏を返せば、「今こうして守りの中にある自分は正しい人間で神に認められているのだ」という考え方と同じです。結局人と自分を比較し、裁いているのです。

 

このような人たちに対してイエスさまは言われます。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人より罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

イエスさまは「ほかのどのガリラヤ人たちより、あの人たちは罪深かった、だからそうなった」という考え方に対して、「決してそうではない」と断言なさるのです。

むしろ、人の罪深さを計るあなたがた自身が、悔い改めて神に返る生き方をするのでなければ、だれであろうと同じように滅びるとおっしゃるんですね。

さらに、イエスさまは「シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ」事故のことを引き合いに出してこうおっしゃいます。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいるほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

他の箇所でも「シロアムの池」で目の見えなかった人が癒される記事がありますが。そのエルサレムの水源であったシロアムに塔が建てられていたのですが、それが何らかの原因で倒壊してしまい、エルサレムに住んでいた18人が死んでしまうというような事が起こったようです。

ここでもイエスさまは、先ほどの「ガリラヤ人たちがエルサレムの神殿で礼拝していた時に、ピラトの兵士らに惨殺されたことに対してお語りになったことと同様、「彼らがほかのどの人々よりも、罪深い者だったからと思うのか。決してそうではない、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われるのですね。

 

私たち人間は、悲惨な事件や事故が起こった時、必ず「なぜ」という問いを発します。明日は3月11日、あの未曾有の東日本大震災から8年目となります。長い時間続く大きな揺れと信じられないような津波が東北地方の方範囲の町や襲いました。経験したことのない原発事故が発生しました。8年たった今もこの震災によってわかっているだけで54288人もの方が避難生活を余儀なくされているというのです。日本中、いや世界の人たちもこの出来事に対して「なぜ」「どうして」と言わずにはおれなかったあの日。そして今日も、その問いの中に生きる人たちが大勢おられます。その後にも、幾多の大きな地震や又甚大被害が及んだ豪雨災害等も起こっています。災害にせよ、事故にせよ、たとえ原因がわかったとしても「なぜ」という問いは尽きないでしょう。あの悲惨な出来事がなぜ起こったのか。なぜ多くの人の命が奪われねばならなかったのか。その問いに対して、イエスさまは何もお答えにはなりません。

唯、イエスさまははっきりと、「彼らがほかのだれよりも罪深かったと思うのか。決してそうではない」と断言なさるのです。

 

さて、ここが今日の重要なところですが。イエスさまはこの2つの出来事を知った人たちの「なぜ」の問いに対して、「あなたが悔い改めなさい」と命じておられるということです。

二度繰り返されている「悔い改め」。これこそイエスさまがここで語ろうとされる重要なメッセージなのです。

ギリシャ語で「メタノイア」。向きを転換して神さまに立ち返る。罪をあらわすハマルティアが、神さまに対して背を向けて的外れの状態にあることを指すとするなら、悔い改めは、その罪の状態から180度方向転換して神さまに向き直っていくことを指します。

「悔い改めなさい」と言われると、日本語的は反省することのように聞こえますが、決してそうではありません。

反省は自分の後ろを振り向き省みることです。確かにそれが良くないというのではなく内省というのは意味あるでしょうが。多くの場合その反省も日が経てば忘れてしまっていたり、逆に同じ事を繰り返し反省する度に落ち込んでしまう、ということもあるでしょう。反省は自己完結で終る場合が多いのではないでしょうか。

 

一方、悔い改め:メタノイアというのは、真理であり命の源であられる神さまの存在を認め、そのお方へ向きを変え、向き直っていきていくことです。

旧約聖書では「立ち返る」という言葉がたくさん用いられていますが。神さまに立ち返る。その時、人は単なる反省では得られない「平安」とともに「新しく造られた者」として生きていくことができるのです。まさに新生、ニューライフです。そこに神さまがおられるからこそ、立ち返ることができる。これが悔い改めなのです。

「新しく造られた私たち」というのが、今年の大阪教会が掲げたテーマでありますが。それはまさに神さまに立ち返って生きることの中で起こされてくるのですね。

 

イエスさまは、あるいは聖書全体と言ってもよいのですが、苦しみの理由や原因を示そうとはしません。よくカルトの宗教がこうこうこういう理由であなたは不幸になったなんぞと教え込むわけですが。そして、その話を聞いて不安や恐れをおぼえて縁起物やお清めものを買ったからといって、本当にそれが苦しみの解決や救いになるわけではありません。

イエスさまが、そして聖書が私たちに教え示しているのは、原因や理由ではなくて、その苦しみの中で私たちが歩むべき道、目指すべき方向です。それこそ本当に人に命を得させる道であり、それは「悔い改める」、真理であり命の源であられる神さまに立ち返って生きるということです。

旧約聖書のヨブ記においてヨブはある日突然苦しみのどん底につき落とされてしまいます。それはヨブが何か罪を犯したからではありません。しかしそこに友人たちが現れ、「お前がこのような苦しみに遭っているのは何か罪を犯したからだ。その罪を認めて悔い改めよ。そうすればまた幸せになれる」と言います。つまり、因果応報思想に基づく悔い改めを勧めるのです。

しかしヨブはそれに激しく反発します。この苦しみの原因は自分の罪にあるのではない、神が何の理由もなく自分を苦しめているのだ、と言って、神さまに抗議し、神さまを断罪していくのです。そうしてヨブは最後に悔い改めます。

それは、この苦しみが罪の報いだったというものではありません。主なる神さまご自身が彼の前に現れ、語りかけて下さったので、彼はすべてを司っておられる神さまに立ち返り、和解することができたのです。聖書はすべての苦しみは罪の結果だから反省しなさいとは言われません。今日のところでイエスさまがおっしゃるように、悔い改め、メタノイア、すなわち神に立ち返り、和解のうちに新しい人として生きていくように招かれるのです。

 

さて、イエスさまはここで「ぶどう園のいちじくのたとえ話」をお話になられます。

それはぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。実はこのいちじくの木は、植えられてからもうおそらく9年が経過していたと考えられます。このユダヤの律法規定によれば、植えて3年目やっと実がなり始めますが。次の3年間は実をつけてもまだ食べることのできない時期だそうです。そうして通常6年目から実をつけたいちじくは食べることができるそうです。が、この園の主人はさらに3年間待てども実をつけない状態にほとほとあきれて、園庭に「このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない」と言うのであります。

この主人は、いちじくの木の実りを本当に期待していたんですね。ぶどう園の目的はぶどうを栽培してぶどう酒を得ることですが、この主人はそこにいちじくの木をも植え、それが実を結ぶことを願っているのです。このいちじくの木の実り、それはイエスさまが人々に求めておられる悔い改めにふさわしい実を結んでいくことを象徴しています。

しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない。言い換えれば、本心から神に立ち返って生きていこうとしない頑な私たち人間の姿です。

まあそのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。

ここに、悔い改めようとしない者に対する神の怒りと裁きが語られているわけですが。それは冒頭申しました今日の箇所の前の12章57節以降の「訴える人と仲直りする話」、つまり神さまとの和解;悔い改めの勧めになかなか応じようとしない人間の頑なさが重ねられているのです。

そこに「園丁」が登場します。土地を無駄にふさいでいるこのいちじくを切り倒せと言う主人に対してこの園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。

主人の、つまり神さまの怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木、私たち罪ある人間のために執り成しをする園丁、主イエスご自身です

この園丁、主イエスの執り成しのおかげで、私たちはなお切り倒されずに、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。

ここで、園丁は「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、善きものによって一生懸命世話をされるのです。

主イエスが私たちのためにして下さったことはそれ以上です。癒し、解放、隣人となり、最後は私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。

つまりご自分の命を、私たちのための肥やしにして下さったのです。そのようにしてまでも、私たちが実を実らせる者となり、神の前に悔い改めて立ち返ることを乞い願っておられるからです。そしてそのために今日も、今も、執り成し続けていて下さっておられるのです。

このたとえ話には、私たちが悔い改めるのを、忍耐して待っていて下さる神さまのお姿があります。主イエス・キリストによる救いのみ業の根本には、この父なる神さまの忍耐があるのです。
しかし同時にこのたとえ話は、待つことには限りがあることをも語られています。そこを見逃してはいけません。もう三年待ったのです。来年もなお実を実らせないなら、その時は切り倒される。いよいよその期限が迫ってきているのです。それが、何度も申します12章の終わりの箇所で、「あなたがたは今、自分の罪が裁かれる裁きの場へと向かっているのだ」という教えとリンクしているのですね。

神さまの裁きの座の前にいつか立たなければならないことを思い起こし、今のうちにしっかりと時を見分けて備えをしておきなさい、とイエスさまは教えておられるのです。

その備えとは「悔い改めること」です。それは神不在の単なる反省や後悔というようなことではありません。神さまこそ自分の主人であることを認め、向き直る、立ち返って生きることです。それは簡単なことではありません。なぜなら私たちは、神さまと向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめているからです。自分の苦しみや悲しみ、憂いや嘆きにのみ目を向けていると、自分と他の人を比べて、自分を誇り、人を蔑んでみたり、逆に劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂し、感情に振り廻されるよういなっていきます。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。

私たちのこの自分のことばかりに向かう心は、神さまの方に向き直ることがなかなかできません。まことに頑なな自分を正当化しないではいられない、それが私たち人間なのです。しかしそのような私たちのために、神の独り子であられるイエス・キリストが究極のとりなし手として自らを投げうって十字架にかかって死んで下さいました。

この主イエスによって、私たちが悔い改めて神さまと向き合って生きる者となるための道がすでに開かれているのです。

「今は恵みのとき、見よ、今は救いの日である。」(Ⅱコリント6章2節)

今の時を見分け、今日という日に、神さまとの和解を頂いて、真の平安と、新しくされた人生に与ってまいりましょう。

今日もここから、それぞれの場へ遣わされていきましょう。

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夕べの礼拝のご案内

2019-03-09 09:32:52 | お知らせ

3月10日(日)午後6時-7時半  

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。


みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております!



日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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祈り求める者に

2019-03-03 15:37:56 | メッセージ

礼拝宣教  ルカ11113節 

この個所は、イエスさまが祈っておられるお姿から始まります。祈り終えたイエスさまに、弟子の一人が「わたしたちにも祈りを教えてください」と尋ね、そうしてイエスさまが「祈るときにはこう言いなさい」とお教えになられるのです。

同様にマタイ福音書6章にも、イエスさまがお教えになられた祈りが出てまいりますが、若干違っています。けれど、いずれにしろ私たちが毎週礼拝の時に祈る「主の祈り」がこの祈りの原型になっております。

重要なのはその祈りの最初の呼びかけです。

イエスさまは「父よ」:ギリシャ語で「パテル」、元来はアラム語の「アッバ」という呼びかけですが。このアッバという用語はユダヤの過程で幼児が父に向って呼びかける時の言葉だそうで、日本では「父ちゃん」、今時だと「パパ」というようにその親密な関係性を表す用語であります。

しかしマタイの主イエスの祈りでは、神に向かってこういう「父ちゃん」というような呼びかけはおこがましいということもあったのか、「天におられる私たちの父よ」になっています。まあ大方の教会の礼拝も、このマタイの主の祈りの呼びかけを取り入れています。

イエスさまは今日のところ以外でも「父よ」と呼びかけ祈っておられますが。それは神の子としての親密な関係性の中で、日ごとに絶えず祈っておられたということです。

 

イエスさまはあの十字架の苦難と死の前夜も、ゲツセマネの園において「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。

もう究極的な信頼関係における祈りであるかと思いますが。本来天と地を創造された神さまは、すべての人間にとりましても父なるお方であられたのです。しかし私たち人間は、その罪の性質のためにその父なるお方に背を向け、思うままに生き、関係を損ね、滅びへと向かう者でありました。

が、しかし今や、主イエスの贖いの業によって罪赦され、み前に立ち帰り、聖霊のお働きに与る中、再び「天の父よ」とお呼びできる関係性が取り戻されたのです。

ローマ814節-15節に「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです』」と、あるとおりです。

このように主イエスの救いのもと祈る人は、主イエスさまと共に神をアッバ、父と呼びかける親密な関係に入ることがゆるされているのです。まさに、それは聖霊の賜物・贈り物に他なりません。

 

さて、その「主の祈り」ですが。

まず「御名があがめられますように」。そして「み国が来ますように」と、「神について」の祈りが捧げられ、続いて日ごとに必要な糧、ゆるしと和解、守りといった「人について」の祈りが捧げられています。それは、あの旧約聖書の「十戒」との大きな共通点であると言えます。

神が神とされることによって、人が人として生きていく幸い」が、ここには示されているのです。

 

まず神が神とされていく、「御名が崇められますように」ですが。

御名が崇められるとは、「あなたの名が聖とされますように」という意味です。世には神でもないものを神のように崇めさせていく力が強く働いています。十戒では「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と命じられていますが。お金やモノや地位や権力等に心奪われ、それらを神のように追い求め、ひれ伏し仕えても、それらはすぐにすたれていくものであり、人を本来の命の力に満たすものとはなりません。それらがまつりあげられていく社会は、人が消耗品のように扱われる殺伐とした世界です。

すべてのいのち源であられる父なる神さまの御名こそがあがめられ、聖とされるとき、そこには天の御国が興されていきます。それこそが、ほんとうに人が人として生きることを願い求める人々、共同体、社会です。

まずイエスさまは、私たちが「神を神としてあがめ、その父なる神さまとの関係性が取り戻されるように祈ることを、お示しになるのです。

 

続けてイエスさまは、私たちの実生活の中での3つの祈りをお示しになられました。

先にも申しましたように、それは「日ごとの必要な糧」「ゆるしと和解」「守り」を願うものです。イエスさまはそれらの祈りを、私個人のことにとどまらず、「わたしたちに」という共同体、あるいはもっと広い社会全体のこととして祈るように導かれます。

 

イエスさまが「わたしたちに」の祈りとして最初にあげたのが、「日ごとの糧」の問題であったというのは興味深いことです。

イエスさまはもちろん旧約聖書の「人はパンだけで生きるものではない、神の口から出る一つひとつんことばによって生きる」、そのことによって人はほんとうに生きることになるのだという教えを尊ばれました。しかしここでは、「日ごとの糧」のことを最初に配慮なさっておられるのです。それは人として生きるうえでだれもがそれを必要としていることをご存じであられたからでしょう。

出エジプト記のマナのお話にもあるとおり、神さまは人に、日々の糧をその日その日にお与えくださるのでありますが。欲張って集めたり、次の日の分を隠して持っていても、無駄になったり、腐ったりするんですね。

話は変わりますが。国際NGO「オックスファム」というところが出した統計によりますと、これは1年前のものですが。世界の富の82%が、一体何%の富裕層に集中しているかというと、皆さんはどれくらいとお思いになられるでしょうか?私は5%くらいかなと思ったのですが。何と、世界のたった1%の人が世界中の富の82%を握っているとい結果だそうです。

まさにグローバル化の下でお金やモノ、力を持つ限られた人たちが世界の日ごとの糧を買い占め、独占することによって、多くの人が必要としている日ごとの糧が奪われ、あえぎ苦しんでいる現状があります。

けれどもそれは裕福な人が良いか悪いかという問題じゃなく、拝金主義、経済最優先社会が神さまの本来の祝福を損なうものでしかないことが、こういう形で露わになっているのです。

「神が神としてあがめられ」、神さまの主権が取り戻され、だれもが日々の糧に与ることができる世界となりますようと切に祈ります。

 

次の「罪のゆるし」の祈りですが。

自らの罪の赦しを祈ることは、他者の罪をゆるすことと切り離すことができません。

主イエスは、神の前ではあなたの計る計りであなたも計られると言われました。「ゆるす」ことは難しいことです。けれど、憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖は社会に滅びを招きます。神さまはすべてを御存じです。神さまにゆだね、憎しみを手ばなすことによって自他共に罪の縄目からの解放を頂けるのです。

 

そして最後は「誘惑」からの守りについての祈りですが。

それは、何が誘惑で、何が試練かは、その時々で異なるでしょう。知るべきは「神の愛から引き離そうとする力」があるということです。あらゆる時代や状況にあっても、父なる神さまへの信頼と関係背が損なわれることがないように、いつもみ前に立ちうるようにと、この祈りはその私たち自身が如何に弱い者であるのかを知りつつも、だからこそ主により頼んでいくための祈りなのです。ですから、この祈りは非常に積極的な祈りであるかと思います。

 

はじめに「神を神として崇める」とき、「人が人とされる」と申しました。

イエスさまの教えてくださったこの「主の祈り」は、私と、私の生きるこの世界のすべての人々を、神に立ち帰って生きる祝福へ導く祈りであるのです。

 

さて、今日の箇所でイエスさまはさらに、「祈り求める者」についての譬えを話されています。それは、弟子たちに友人がいたとして、真夜中にその友達のところに行って、こういうのです。「友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。」旅行中の別の友達が来て、もてなしたいけど何もないからパンを3つ貸して欲しいと頼むんですね。いくら友人でも真夜中のことですからなかなか彼は出てきません。そのように「面倒かけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」との返答があります。

パン3つとは、日ごとの糧、その日一日分に相当するものです。

この深夜に尋ねた家にはパン3つはあったんでしょうね。でも、パンを出していたら灯を点けたり、ドアを開けたりと家じゅうがバタバタとしてしまい、せっかく寝静まった子供たちを起こすことになるし、面倒だということで断られるのです。

そうしてイエスさまはこう言われます。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」

実は、この「しつよう」という訳のギリシャ語原語は、「恥知らずな、厚かましく、図々しい」というように訳せるそうです。まあそれだけ、なりふりかまわず、その日の糧に困っている旅行中の友のために訴え求めるのであれば、友人も戸を開けて必要なものを何でも与えてくれるだろう、というのです。

イエスさまは続けて次のように言われます。9節。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうしれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

そこまで恥知らずで厚かましく図々しいまでの熱意とその祈り、またそこから生まれる行動に、神さまは必要なものを何でも与えて応えてくださる、というのです。

 

さらにイエスさまは言われます。

「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」とイエスさまは約束して下さいます。

この聖霊とは、まさに、このように求め祈る者、また祈られる者を「神の子としてくださる」霊であります。

 

私の、また私たちの祈りの友、隣人となる人たちを覚える恥知らずで、厚かましく、図々しいまで訴えを、父なる神さまは聞いていてくださり、それにふさわしい答えを与えてくださる。だから、どこまでも私たちはその父の神に、アッバ、父よ、と信頼し、大胆に祈り求めてまいりましょう。

今週のこの御言葉をもって、ここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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