日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

まことの羊飼い

2021-08-29 17:40:41 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル34:1~16 23~25 (平和月間最終) 

8月平和月間最終の礼拝を迎えました。

先週より緊迫したアフガニスタンの状況が刻々と伝えられていますが。イスラム主義組織タリバンの一方的な軍事制圧によってたちまち国土の殆どが実行支配されました。命の危険を感じ国外脱出を試みようと空港周辺に多くの市民たちが押し寄せている状況、またその悲痛な表情に胸が痛みます。大規模な爆破テロで血も流されています。

先日の新聞に藤原辰史さんという人間・環境学専門家の方が、中村哲医師の辿って来られた足跡を辿りながら次のように書かれていました。

「中村哲医師は、国会の参考人招致で戦争に前のめりな政権を狂気の沙汰だと批判、自衛隊派遣は「百害あって一利なし」と断じた。(中略)中村医師は自分の考えはタリバンと一線を画している、と述べつつ、現地でアフガンの人びとと共に暮らし、用水路を掘る中で刻まれた感覚からすれば、タリバンは一枚岩ではないと述べている。タリバンの構成員は、ソ連のアフガン侵攻時に難民となった孤児出身者が多い。米国とパキスタンはトルクメ二スタンからの石油のパイプライン沿いの治安維持にタリバンを利用し、その後敵対した。(中村さんの)用水路を手伝うタリバンもいたという。米国の戦争後に過激化し、度重なる「誤爆」で家族を失った人間がタリバンに加わったり、賛同するようになった。タリバンの残虐は大国の「国益」追及の落とし子とも言えるのである。(中略)もちろん、過激化したタリバンの行為は痛ましく、許しがたい。だが、そんなタリバンの復活と人々の支持を許したのも、欧米諸国の大国意識と傲慢さではなかったか。(中略)大国に演出された聞き心地のよい物語だけを消費することはやめ、歴史を学び、事件の背景を一つ一つ考えることが求められている」と、そういった事が記されていました。今後もこの状況を注視していきたいと思います。

 

本日は「まことの羊飼い」と題し、御言葉を聞いていきます。

前回は18章から、エゼキエルが「立ち帰って、生きよ」と神の御言葉を語った記事を読みましたが。その後もエゼキエルの語る神の情熱とその招きは、南ユダの人々に届かず、彼らは悔い改めることはありませんでした。そうして、エルサレムに残っていた人たちのうちで、武力行使を強硬に押し進める人たちがバビロンに武力で反乱を起こすのです。その結果、33章にありますように南ユダとエルサレムの都は完全に陥落してしまうのです。こうして南ユダはバビロンに併合され国は亡くなります。神殿も焼き払われて指導者たちはみな捕らえられ捕囚とされる、そういう絶望的状況となります。この時期からエゼキエルが取り継ぐメッセージは「将来に向けた回復の希望」へと変わっていきます。

 

本日34章は、そうした南ユダの人々が頼みとしていたエルサレム神殿の完全な崩壊という人々が神を全く見失ってしまう中で語られているのです。このエゼキエルとほぼ同時期の預言者エレミヤも又、その23章において同じような主の御言葉を聞き、取り継いでいます。

そこを読みますと三つの事が語られているのですが。

第一は「イスラエルの牧者にたとえられる王や指導者の腐敗と審き」

第二は「主である神ご自身がイスラエルを養う牧者となられるとの宣言」

第三は「まことの羊飼いなる牧者、「油注がれた王、メシア到来の預言」であります。

 

「牧者とは」

その三番目の「羊飼いなる牧者」の牧者という言葉の動詞が「放牧する」「家畜の番をする」というところから「世話をする」「治める」という意味合が強くなり、人間を治める「支配者」「統治者」を指すものとなりました。

聖書は一貫して究極の「牧者」は神ご自身である、と語っています。

すでに創世記49章24節に「イスラエルの岩なる牧者」とありますように、「神ご自身」が揺るぎなき牧者、すなわちすべての「統治者」であるということであります。

一方で世の政治的な「王」や「指導者」たちも又、そのように牧者とたとえられたわけでありますが。詩編の中に登場するダビデ王は、まさにイスラエルを統治した王であり、牧者でありました。

けれどもそのダビデは、「主は、わたしの牧者」と、まことの牧者は「主なる神ご自身である」と詩編23編で讃美しています。そのようにイスラエルの王や指導者たちは、真の牧者である神ご自身の意向を受けて、民の群れを世話する役目を託されたのです。

 

このダビデは王となる前は実際羊飼いとして働いていたわけですが。その仕事は乾燥した暑さの厳しいパレスチナにおいて、毎日群れを湧水がある所へ導いて水を与え、水がないところでは地に穴を掘り雨水(あまみず)を溜めて羊に与えました。牧草もそうですが、特に水は即命に直結しますから、それを与えるために苦労が尽きなかったのです。又、夕方には羊を囲いに入れます。羊飼いは囲いの入り口に立って杖の下を一頭ずつくぐらせ、群れの一頭一頭を確認しました。良い羊飼いは数でかぞえるのでなく一匹一匹の名を呼び、点呼するように確認したと聞いたことがあります。そうやって囲いに入れたら、囲いの入り口の場所に寝泊まりして外敵から守る「群れの番」をしたということです。一般的に一人の羊飼いが羊と山羊の群れを放牧し管理する能力は100~150頭が限界だそうであります。現代はオートメーションで管理され、沢山の羊が飼われているところも多いでしょうが、羊にとっては一頭一頭とその群れ全体のことを心に留めてくれる羊飼いの方が良いに違いありません。

まあ、そんな羊飼いのような牧者を神はイスラエルの王、政治的指導者として立て、その職務を託されたのであります。しかし、イスラエル歴代の王たちの大半は、職務を正しく果たすことなく、神に逆らい罪を犯し、私腹を肥やしたあげく、民は放置され、国は滅び、民はちりぢりに散っていくことになってしまうのです。

 

本日の箇所の1節冒頭でエゼキエルに臨んだ主の言葉それは、「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たち。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物をほふるが、群れを養おうとはしない」というイスラエルの指導者たちに対する告発でした。

4-6節「お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力づくで、過酷に群れを支配した。彼らは飼うものがいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の前面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」

 

主なる神が期待されたのは、「弱いものを強め、病めるものをいやし、傷ついたものを包む」、そんな額に汗して群れの一頭一頭のことを思いやり、労する羊飼いのような王や指導者たちの姿でした。しかし彼らはその期待に反し、かえって権力を笠に群れを過酷に支配したのです。その結果は周辺諸国に侵略され、遂に散り散りにされ流浪の民となってしまうのです。

 

このような為政者の姿と民衆に降りかかる災難は何も遠い昔のイスラエルだけのことではありません。文明が発達した現代社会においても世界の国々でこういった事態が起こっています。世界の大国と言われる主要国はグローバリゼーションの下、経済一辺倒な施策ばかりを推進し、弱い立場におかれた国の人々が利用され、搾取されているのが現状です。日本でも、今や子どもの貧困は6人に1人と言われ、教育を受ける機会さえも損なわれています。又、これまで日本の社会を支え担ってこられた高齢者の医療費負担が益々増えていますけれども、生きるために医療が必要なのに受けることが困難な人が日増しに増加しています。

より良い未来はこれからの社会を生きていく子どもたちが守られること、又歴史の「良しと悪しき」を体験した人たちの証言によって築かれていくはずです。

 

さて、10節で主は遂に次のように宣言なさいます。

「見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。」

主は王・為政者の、牧者としての権限を奪うというのです。

しかし、その主は、23節のところで次のように仰せになられます。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデある。彼は彼らを養い、その牧者となる。」

ここにダビデの名が出てきますが、確かにイスラエルの牧者としてのダビデ王の働きは大きかったということはできるでしょう。しかし、彼も人の子(人間)でありました。殊に王という権力、力の行使による罪と過ちを犯したのです。その罪を隠すために更に罪を重ねていったダビデ。その自分の姿に、彼は神に遣わされた預言者に指摘されるまで気づきませんでした。その時初めてダビデは主の前にあって如何に自分はおごり高ぶっていたか、又、なんというおぞましいまでの罪の性質があるのかを思い知らされて、深い悔い改めとともに主に立ち帰っていくのです。

先にダビデの詩編23編について触れました。偉大なダビデ王であっても「主なるまことの羊飼い」がいなければ、救われない者であるということです。

 

11節、主なる神は腐敗したイスラエルの王に代わって、「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と宣言なさいます。

さらに12節、「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と蜜雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」とおっしゃるのです。

それは、イスラエルの王たちが怠った「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」牧者としての働きを、正に主なる神ご自身が実行なさるということであります。

 

さらに16節、「肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」と言われます。主なる神は、牧者として群れを養うと共に正しく公平に審かれるお方であられるのです。

神が、打ちひしがれ、さ迷う群れに向けて幾度も、「わたしがそのようになす」と繰り返しお語りになりますのは、ご自分の民を打たれても、なお変わることのない憐みのゆえです。

マタイによる福音書9章を読みますと、主イエスが町や村を残らず回っておられたとき、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)という記事がございますが。それは先ほどのエゼキエル書の神が起こされる牧者を彷彿とさせます。

 

主ご自身が、失われた者のその悲しみを自らのものとしてくださる。主御自身が傷いついた者のその痛みを自らのものとしてくださる。主御自身が弱った者のその弱さを自らのものとしてくださるのです。私たちはその預言が主イエス・キリストのうちに働かれ実現されたことを見るのです。エゼキエルの預言から幾歳月(いくさいげつ)もの時を経、この地上にお出でくださった大牧者なる主イエス・キリスト。

30節で、「そのとき、彼らはわたしが共にいる主なる神であり、彼らはわが民、イスラエルの家であることを知るようになる」とありますが。

実に、私たちも主イエス・キリストによる「信仰の義」によって、アブラハムの子、神の民とされるという、この預言の成就に与っているのです。

私どもにとりまして、主イエスが、そのために成し遂げて下さった十字架の苦難と死は、「失われていた私たちが見い出され、慰めを受け、傷ついたものがいやされ、弱ったものが強められる」という、生きる命の源であります。飼う者のない羊のようなものであった私たちは、この主の尊い救いの恵みを戴いて生かされていることにいくら感謝しても足りない者であります。この、まことの羊飼いであられる「主の深い憐れみ」に与り、私たちもその生かされている場所において、主のお姿とそのお言葉に養われ、導きに従いつつ、歩んでまいりたいと願います。

そこに、25節「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ」と主が確約して下さった「主の平和」が建て上げられていきます。それはまた、全世界の福音としてすべての人、すべての国々に向けられたメッセージ、呼びかけでありましょう。

 

冒頭ご紹介したアフガンの記事を読んで、今のアフガンの事態は対岸の火事とは決して言えないと思わされました。大国に寄りかかっても自国第一主義の時代です。又、武力によっては憎しみの連鎖が続くだけです。経済が回れば人の命は本当に生かされるのでしょうか。

中村哲医師が自らいのちをかけて現地でなしてきたお働きは、1人の医師として、人間として、人が生きるため、また武器を持たなくても生活できるようになるためには「水と大地の実り」が重要という信念からであったと思います。事実、そこで「もう戦わなくてもよい」と胸をなでおろす人たちがいた。武器を鎌や鋤に打ちかえて働く人たちがいたということです。本当にすべてのしかるべき立場の人たちが生ける神への畏れとその御心を知り、「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」働きを実現していけるように、祈り願います。

神がイエス・キリストをこの世界にお送り下さって、平和の契約を地球上のすべての人類と結んでくださったことに、私たちも応えて生きる者とされてまいりましょう。

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おしらせ

2021-08-25 09:18:16 | お知らせ

4度目の緊急事態宣言発出となりましたが。

主日礼拝と祈祷会は、引き続き感染対策(検温、手指先消毒、マスク着用、礼拝堂換気・オゾン消毒、礼拝席半減、時間短縮)をしたかたちで行われます。

諸事情のある方、体調に不安を抱えておられる方の出席については、どうか無理は決してなさらないでください。

なお諸集会や昼食会等は当面休止となります。

神の平安を祈りつつ

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立ち帰って、生きよ

2021-08-23 12:19:06 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル書:18章1-4節、21-32節

前回はエゼキエルが神の幻によって、捕囚の地バビロンから千キロも遠く離れた荒廃したエルサレムに運ばれ、そのエルサレム神殿内でユダの長老や祭司といった指導者たちはじめ都の人たちが、主なる神に背を向け続けて、偶像崇拝に明け暮れている光景を見せられたという個所で、偶像崇拝は単に木や石の像を拝むというだけではなく、生ける神に背を向け神ならざるものを拝し、仕えることで、それは今を生きる私たちも問われる聖書からのメッセージでした。

本日は、そのエゼキエルに再び主なる神の言葉が臨みます。

18章1-3節「イスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』と。わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。」
南ユダの国と都エルサレムの崩壊後、バビロンの捕囚とされた人々の間には如何ともし難い失望感が漂っていました。「自分たちがこうなったのは先祖が犯した罪のせいだ」「自分たちは先祖が犯した罪の罰を受けているのだ」と嘆きつぶやく者たちがいたのです。それは裏をかえせば、「このようになったのは自分たちのせいでない」と責任転嫁するような高慢な思いであったのです。

『先祖が酸いぶどうを食べれば子孫の歯が浮く』ということわざについては、少し説明が必要かも知れません。それは、たとえば十戒の出エジプト記20章には「父祖の罪を子孫に三代、四代まで問う」という神の言葉や、又哀歌5章の「父祖は罪を犯したが・・・その咎をわたしたちが負わされている」というような言葉から、先祖が犯した罪を子孫が被るという先のことわざが出てきたのです。

けれども、そもそも聖書の神がおっしゃっているのは、罪から遠ざかって生きなさいということであって、因果応報の呪いや罰則ではないのです。

確かに、人を真に生かす神の言葉と戒めを守らないため、その不義である生き方子や孫まで巻き込んでしまうことはありますし、その結果起きてきたことの代償を子孫が負ったり、払わなければならなくなることは実際あるわけです。しかし、聖書の神の言葉には、そうならないように各人が神の戒めを守り、義に生きていきなさいとの強い愛がこもった奨めなのです。

人を不安にさせ縛っているものはいたるところにあって、日本にも「たたり信仰」というものがあります。病や苦しんでいる人に「あなたが病気になったのは何代目の先祖が悪いことをしたせい」とか、「あなたが不幸なのは先祖のたたり」とか巧みに因縁トークで説得し、そこでお祓いや除霊のための高額料を払わされたり、又高価な印鑑や壺などを買わされるというような事件が数多く起こっています。先祖というのは子孫の幸いや繁栄を願いこそすれ、供養の仕方がよろしくないとたたったりするでしょか?まあそういった人の弱みにつけこんでいく宗教カルトや商業カルトの持つ最も忌まわしさは、その被害者たちが今度は加害者となって家族はじめ他者に偽善をもって負の連鎖を起こしていくことであります。

「罪とは」
そもそも「罪」とは何でしょうか。
聖書は、原罪というものを説いています。それは創世記のアダムとエバが神の愛と戒めに背いて食べてはならない果実をとって食べた物語に象徴されていますように、人が神とその教えに背いて生きようとする、その性質を「罪」というのであります。私は犯罪など犯したことはない。何も人様に迷惑を掛けていないという人もいますが。
使徒パウロが「義人はいない一人もいない」と言っていますように、聖書はアダムとエバが犯した罪の性質を人類はみな例外なくもつ存在である語っています。

しかしそれは、「アダムとエバが罪を犯したから人間は堕落したのだ」というようなことではないのです。私たち人間一人ひとりの中にアダムとエバと同じような神の御心、戒めに従いえず、エゴ、自我の思うままに生きようとする性質があるということです。そして、その性質に振り回されるように生きるなら、その結果は自らが負い、引き受けることとなるでしょう。

罪はギリシャ語でハマルティア;直訳しますと「的外れ」ということですが。それは神に対して「的外れ」な生き方を表しているのです。人は自分を基準とした判断しか出来ないために、良かれと思っていても実は「的外れ」だったということがあります。神と向き合って生きる。日々御言葉に聞き、祈りをもって生きる中で的を得た人生を歩んでいきたいと願うものです。

さて、主なる神の言葉は次のように臨みます。4節「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」。

申命記24章16節にも同様の御言葉があります。「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」。

先ほど、十戒の出エジプト記20章の「父祖の罪を子孫に三代、四代まで問う」という御言葉に触れましたが、そのすぐ後にこう続けて語られているのです。「(しかし、)わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。

ここには、すべての命の源であられる天の父なる神が、人の魂を愛してやまず、ご自身から離れないで義を行って生きる祝福に与り続けるように、との切なる願いが語られているのです。この、罪に滅ぶことが断じてあってはならないという神の御心はまさに、今日の個所の32節「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」とおっしゃる御父の愛です。
「死とは」
罪について申しあげましたが、それと対になって語られているのが「死」であります。私たち人間は例外なくこの地上のあゆみを終える時がやってまいります。それが生物学的にいえば寿命というものです。が、聖書はそれとは異なる「死」を語ります。それは先ほども申しました、自分と神との一対一の関係が罪によって絶たれてしまう「死」であります。たとえ私たちが生理学的に肉体をもって生きていたとしても、罪の力に支配され、造り主なる神との関係性が断たれてしまっている状態であるとしたなら、それは神の前にその魂が失われているのであり、「死」だと、語るのです。

「立ち帰って、生きよ」
今日の5節以降を読みますと、神に選ばれたイスラエルの人々が犯してきた罪が数えあげられています。元来イスラエルの民は神の憐みと救いによって生かされたゆえに、感謝をもって仕え、祝福に与るべき共同体でした。ところが、その神の憐みと救いの恵みを忘れ、神に背き、罪を繰り返していくのです。ここで具体的に偶像礼拝、神ならざるものにより頼み、繁栄を求めてむさぼり、抑圧と略奪、貧しい者からの搾取、不正などなど神が最も忌むべき罪の数々が社会全体に蔓延していたのです。しかし、彼ら自身にはそれが見えていなかった。自覚もなく麻痺していたのです。まさに聖書のいうところの「死」、神との関係が絶たれた状態、神の前から失われて滅ぶほかない危機的な状況であったのです。

そこで主なる神は、エゼキエルを通して人々に「父祖が犯した罪のせいにしてはならない」「自分たちの現状を見て、目を覚ませ」と強く呼びかけておられるのです。

私たちも、主イエスの憐みと赦し、尊い死の犠牲によって罪贖われ、御救いと新しい命に与った者であります。それはただ、主なる神の御憐み以外のものでしかありません。初めの喜びの日々、救いの神への信仰、希望、愛。しかし、いつの間にかその心が鈍くなり、人や周りにばかり目がいってつまずいたり、困難の中で神を見失うとしたなら、ほんとうに残念なことです。又、この地上の自分を安心させ、願望を満たすような神ならざるものに心を奪われていくようになっていきますと、せっかく神がキリストによって与えてくださっている尊い恵みを忘れ、見失いかねません。世のどのようなものも、やがては過ぎ去るものなのです。そのようなものに心奪われていくとしたなら、主はその人をどんなにか惜しまれるでしょう。

 

30‐31節「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」。

今や主イエス・キリストによって、新しい心と新しい霊を造り出す招きが、日毎に与えられていることは大きな恵みであり、感謝なことでしょうか。そのことを日々忘れることなく、主である神に立ち帰って、生きる者とされてまいりましょう。

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平和祈祷 8月15日

2021-08-15 15:37:38 | 巻頭言

「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と主イエスは仰せになりました。

本日は76回目の敗戦記念日を迎えました。歴史上において人類が過去の咎や過ちを忘れずに、それを教訓として、二度と同じ過ちを繰り返さない不断の努力を続けてきたとしたのなら、世界に恒久平和が着実に建てあげられ、より良い平和な社会は築かれてきたでしょう。

しかし今の世界に目を向けますと、残念ながらそれに反し、核兵器の製造、ハイテク無人爆撃機や生物化学兵器などの非人道的な殺戮の武器の製造に歯止めがきかない現状です。又、国と国、民族と民族の間には、傷ましい紛争や戦闘が繰り返され、同じ国内において独裁的権力、軍事的力による冷酷ともいえる民衆の支配が繰り返されています。その一番の犠牲となっているのは弱い立場にある人々、とりわけ女性や子どもたち、又貧しい人たち、意図せず巻き込まれるほかない市民であります。これはまさに、天地万物、人類をお造りになられた主なる神に対する暴虐、御心を損なう反逆行為です。

悪しきこのような力と働きが打ち砕かれて、すべての人が神に立ち返って生きる世界が来ます日を切に祈り求めます。

平和の実現たる「神の国と神の義」を求め、祈りつつ平和を造り出す人々との連帯に努めていきます。

平和の主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

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まことの神を遠ざける偶像崇拝

2021-08-08 13:22:34 | メッセージ

礼拝宣教 エゼキエル書8章

先週は神からエゼキエルが預言者としての働きを命じられた記事(1,2章)を読みました。その後エゼキエルは主のお言葉どおりに聞き従って、同胞のユダの人々に神の言葉を伝えるために用いられます。

エゼキエルは彼らの罪の重大さを伝えるため長期に亘って横たわり、寝返りをうつことのないように命じられ実行します。又、裁きの厳しさを表わすため捕囚の人がされるように髪の毛とひげをそり落とす屈辱的な姿になるように命じられ、それを行います。その姿は多くの人の目に留まり、知られたはずです。そうして何とかユダの人々が神のお言葉に聞き、罪を悔い改めて、神に立ち返るようにと、人としては耐え難い思いであっても神の仰せのままに同胞に示し続けるのです。

そうしたある日、エゼキエルは家でユダの長老たちと話をしていたとき、神の御手が臨み、神の幻のうちに遠く離れた故郷エルサレムへと運ばれるのです。都エルサレムはバビロンの侵攻によって荒廃していましたが、エルサレムの神殿は外観をとどめていました。

そして、その神殿には先週の、エゼキエルが預言者の働きを命じられたときに見た、あの「神の栄光」(1章)があったのです。ところが、その聖なる神殿では神を激怒させる様々な偶像と、それらにひれ伏し拝む偶像崇拝が行われていたのです。

 

最初にエゼキエルが目にした像はカナンの地の土着神、豊穣の女神(めがみ)アシェラでした。その偶像はなんと主なる神の配偶者であるという方便で拝まれていたということです。

日本においてキリスト教の土着化、日本化ということが言われてきましたが、そこにまことの神でないものが混交し、偶像化する危うさが潜んでいます。福音が土着していくより、日本の精神風土や慣習化に順応した福音になってしまうのなら、それは福音の骨抜きになっていくことでしょう。神学的基盤を持たず霊的体験やご利益を強調するなら危ういことです。又、道徳的であることが強調されるのもまた危険です。キリスト教の基は神の御言葉にあるからです。聖書の正しい理解と実践によって神の愛を体験的に生きるものとされることこそ大事です。

 

次にエゼキエルが目にしたのは、神殿内の壁一面に彫り描かれていたエジプトの偶像でした。その隠れたところで、こともあろうにイスラエルの長老70人が香を焚いてそれらの偶像を拝んでいたのです。以前は熱心に生ける神に仕えていたはずの長老、指導者たち。しかし彼らはバビロンの制圧による苦しみの中で、自分たちの神は負けたのだと、主なる神への信頼を失い、暗い所で、民衆から隠れてこっそりと軍事力を誇る大国エジプトの神々を拝んでいたのです。これは幻ですから、実際に彼らがそうしていたかわかりませんが。いずれにせよユダの長老、指導者たちの頭の中は、このエジプトの国と同盟を結び頼れば、エジプトがバビロンを倒し、バビロンの圧政から自分たちも解放されると考えていたのです。

ここを読むとき、私たち自身も自分の思い通りにことが進まない時、又苦しい時、しんどい時に、ほかの神通力のありそうなものを求め、それを拝むような誘惑に駆られることはないでしょうか。なぜこのような目に遭い、祈っても献金しても聞かれないのか。キリスト教の信仰は効かんのか、と祈ることをあきらめ、聖書も開かなくなる人もいます。もっとはっきり、素早く答えを出してくれそうな人や手だてを求めて自分の救いの神を忘れてしまう人もいます。なんと残念なことでしょう。

しかし人の命も、この地上のいっさいも、実に天地の源なる神がお造りになった一部に過ぎません。他の何ものもこの神になり替わることなどできないのです。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、必要なものはすべて添えて与えられる」。それこそが生きた神の言、聖書のメッセージです。

この生ける神の御言葉に立ち続け、「我が主よ」と生きる者に、主は必ず報いてくださいます。「まだ見ていない事実を確認する」(ヘブライ11章)に信仰の本質があります。

 

さて、さらにエゼキエルは、聖なる神殿において「女たちがタンムズ神のために泣きながら座っている」有様を見ます。これはバビロンの植物の神でした。草木も枯れるようなエルサレムの都の荒廃を彼女たちは悲しんでいたのかも知れません。しかし都の繁栄を崇拝しても、それはやがて朽ちるものに過ぎません。

 

最後にエゼキエルは、聖なる神殿内において「25人ほどの人たち(神殿に仕えていた人たち)が主の聖所を背にし、顔を東に向けて太陽を拝んでいる」有様を見ます。

これも古来エジプトの人々が豊作の神として依り頼み、拝んできた姿と同様です。この25人は聖なる神殿において主なる神に仕えていたにも拘わらず、豊作、つまり糧を得ることにおいて神に背を向け、無節操な行為を繰り返していたのです。

日本でも八百万の神々といって自然の中に海の神、山の神、森の神、天や太陽を拝むなどといった自然崇拝があり、五穀豊穣を願う対象となってきました。けれども聖書にあるように、木も石も金もそれらすべて神がお造りになられたのです。天地万物をお造りになられすべての被造物に命をお与えになられる生ける神を私たちは信じています。その天の父なる神と人とが和解し、私たちが救いへ導かれるために、神は御独り子主イエス・キリストをお与えくださいました。偶像に救う力はありません。主なるキリストは命の糧なる生けるお方であり、全世界の救い主として真に礼拝されるのです。

 

さて、今日は宣教題として「まことの神を遠ざける偶像崇拝」とつけましたが。この題は、数々の背信行為といえる偶像崇拝に対して、神が6節「これはわたしを聖所から遠ざけるものである」(口語訳)と深い激怒をもって語られたところから、取らせていただきました。「聖所」というのは単に建物や場所を指すのではありません。それは主の栄光が臨むところなのです。その聖所であるべき神殿が偶像で満ち、神を遠ざけようとしていたのです。

 

このエゼキエルが見た神の幻は、エルサレムの神殿においてでありました。それは神に選ばれた民、ユダの人びとの心のうちに働き、巣くっていった偶像崇拝、神ならざるものへの依存心であったのです。これはキリスト者である私たち自身も問われる問題です。

まことの神であり、わたしの主となってくださったお方よりも優先するものがありはしないか。神ならざる偶像を心のうちにたくさん持ち込み、それに仕えていないか。もしそういうことがあるなら、それは救いの主である「まことの神を遠ざけている」のだ、と言われているのです。

聖なる神殿において、偶像に浸っていたユダの長老や指導者たちは「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」とつぶやいていた、とあります。

今日の個所の4節に、神がエゼキエルを運んでいったエルサレムの神殿には「イスラエルの神の栄光があった」(4節)と確かに語られています。

神はそのようないたたまれないような状況の中にあっても、その彼らとともにおられたのです。ただ彼らにはその神を信じられなかった。霊の目が不信によって閉ざされてしまっていたのです。

自分たちの主なる神さまを遠ざけるような偶像崇拝に走るその彼らに、神は「わたしも憤って行い、慈しみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない」(18節)とまで語られます。しかし、それはユダの人々を簡単に切り捨てたのではありません。神はご自分の民が立ち返って生きることを決してあきらめてはおられないのです。

 

私たちもコロナ禍にあってこの町も、そして教会もかつてのような賑わいや活気が損なわれたように感じられるかも知れません。しかし「神の栄光」は何ら変わることなく輝いています。どのような中にあっても主なる神を第一とし、主イエス・キリストの尊いあがないとゆるしによって神に愛され、生かされている者とされていることを忘れず、主に信頼して歩んでまいりましょう。「何よりもまず、神の国と神の義とを求めて生きる」信仰の道を歩み通してまいりましょう。互いに祈り励まし合う主の聖所で、神の栄光を仰ぎ見る幸いに与りつつ、今週も今日の御言葉をもってそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

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恐れてはならない

2021-08-01 18:17:40 | 教会案内

礼拝宣教 エゼキエル書1章1-3節、2章1節~10節、3章1-3節

 

8月は平和月間として覚えつつ、礼拝を捧げてまいります。今も世界各地において民族紛争、人権侵害、人種差別が後を絶ちません。非暴力によって平和を訴える民衆に対して銃口が向けられ、暴力と弾圧が繰り返されています。ミャンマーではコロナ感染によって命の危険に直面している人たちが多い中、軍事政権が酸素ボンベを業者から買い占め、民衆に渡らないようにしているというむごい行状を報道で知り、唖然としました。

私たちの国においては、6月「沖縄ぬちどぅ宝の日」を覚えましたが。2年前米軍基地から飛び発ったオスプレイの機体の一部が沖縄バプテスト連盟の教会付属保育園に落下し、米軍が毎日住民のいる上空に爆音を轟かせ低空飛行している現状の改善を、沖縄の方々とともに嘆願署名を通して日本政府に訴えました。ところが改善されるどころか、今も米軍機の低空飛行による恐怖と騒音に、園児たちはじめ、先生方、親御さんも日々悩まされている実状が、園長を兼任される牧師から映像とともに報告がなされ、その深刻さを痛感しました。「沖縄から宣教を考える会」が諸教会有志によって立ち上げられており、ニュースレターが届いています。

教会がこうして関心をもち平和を願うのは、神に造られた同じ人として、又、人類の罪を憂い、嘆かれる神の愛と憐みを知らされた人として、無関心ではいられないからです。

本日より礼拝では旧約聖書のエゼキエル書より、神との交わり、又神の平和が損なわれていった状況の中で、主なる神はどのように預言者をお遣わしになられたかを、御言葉から聞いていきます。

エゼキエルは、南ユダ王国の崩壊を目の当りに経験した後、バビロンに捕囚として連れていかれます。民族としての基盤が大きく揺らぎ、失われそうな状況にあって、預言者として立てられました。エゼキエルという名前は原語で、「神力づけ給う」という意味があります。それは預言者エゼキエルとしての活動のすべてが、彼の内に注がれた神の霊に力づけられ、成し得たことをその名が物語っています。

今日本の状況もコロナ禍が長引き、先行きの見えないような状況が続いておりますが。そのような時だからこそ、私たちは主である神を第一とし、御言葉に聞き、神に信頼し、従っていくことが求められています。そこに、どのような状況下にあっても「力づけ給う神」の助けが来るからです。

さて、先ほど1章の始めと、2章1-13節までの「エゼキエルの召命」の記事が読まれました。今日はそこから「恐れてはならない」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

祭司の子であったエゼキエルは多くのユダの人々とともにバビロンの国に捕囚民として強制移住させられます。ただ捕囚とはいえ、ある程度の自由があり、仕事や物の売り買いも許され、日常の生活はできたようです。とはいっても、エゼキエルは祭司の家系でありましたから、深い心の内には「異教の地でもはや神は民をお見捨てなったのか。もう神殿で礼拝することも叶わないのかと」、将来に望みをもつことができなかったのかも知れません。

しかし、そのような彼に神のお言葉が臨み、彼の上に神の御手が臨みます。エルサレム神殿から遠く離れたバビロンのケバル川河畔で、彼は懐かしくも畏れるべき神の顕現とその栄光を見るのです。圧倒されひれ伏すエゼキエルに、1節「『人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。』彼がわ語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」とあります。

神の召命によって預言者とされるエゼキエルですが、彼もまた人にすぎず、唯神の霊によってのみ、その務めを果たすことができるのです。

神ならざるものを拝する異教社会に同化され、吞み込まれようとしている同胞に警告を発しようにも、人の言葉ではできません。しかし、神の臨在の中で神の御手が臨み、神の語りかけを聞く中で、エゼキエルのうちに神の霊が入って、彼をその足で立たせたというのです。神のお言葉と神の霊こそが、人の子にすぎないエゼキエルを立ち上がらせるのです。

先週まで礼拝で読んだヤコブの手紙に「御言葉を聞くだけで終わるのではなく、行う者になりなさい」とありましたが。御言葉には、それに聞き従おうとする者に、神の御心を行って生きるよう立ち上がらせる力があります。そのような御言葉の実践こそ、神の御心にかなう私たちの信仰の証しとされていくのです。人間的な自我の思いや感情に捕らわれ、振り回される生き方でなく、御言葉に聞いて「自分の足で立つ」信仰者は、しっかりした土台に建てられた家のようです。嵐が来ても倒れません。御言葉と神の霊に立ち上がらせて頂く信仰者の歩みを、この嵐のような時代にあっても日ごとに努めていきたいと願うものです。

さて、神はエゼキエルに使命をお与えになり、3節「わたしは、あなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす」と仰せになります。

何度も「反逆の民」という言葉が繰り返されていますが。それは、主が愛し、選び、導かれたイスラエルの民のことです。神への背きの罪は先祖の時代から続き、遂に南ユダ王国とエルサレム神殿の崩壊を招くことになります。さらにバビロンの捕囚となって、なお神に立ち返ることに心鈍く、神に反逆の民とまでいわしめる彼ら。罪に滅ぶほかないようなその民を、神は嘆き、憐み、「わたしは逆らった反逆の民に遣わす」とエゼキエルをお送りになるのです。深い神の愛と忍耐がここに示されているように思います。

神はエゼキエルに6—7節「あなたはあざみと茨に押しつけられて、蠍の上に座らせられても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」とお命じになります。

エゼキエルの使命は、「彼らが聞き入れようとも、拒もうとも」、神のお言葉をまっすぐに語ることでした。相手は神に背を向ける人たち、自分に都合の良い道に向かおうとする人たちです。相対すれば「あざみと茨」に押しつけられるというような痛手、又「蠍の上に座らせられる」というような危険が待ち受けているかも知れません。それでも人を恐れることなく、御言葉をまっすぐに語れ、と神はお命じになるのです。

このところのメッセージを読むとき、それは司祭、牧師といった教役者に限られたことのように受け取られるかも知れませんが、そうではありません。この社会で神のお言葉にまっすぐに聞き従っていこうとするなら、大なり小なり様々な葛藤と霊的戦いが内に外に起こります。そう申しますと、ちょっとたじろぐような思いが起こるかも知れません。しかし聖書は、そのたじろぎ、気の引けるようになるエゼキエルの前に神の御手が差し伸べられ、そこに巻物があったと記します。そして神がエゼキエルの前にそれを開くと、その表も裏も「哀歌」や「呻き」と「嘆き」の言葉がびっしりと書かれていました。それは愛する民の背信と反逆に対する神ご自身の哀歌、悲しみの歌であり、7章以降に示される「神の怒りの日」に向けた呻きと嘆きであるように思います。神は神ではないものを拝し、それらにより頼む民をねたむほどに愛し、嘆かれるのです。

神は「この巻物を食べ、行ってイスラエルに語りなさい」と言われ、エゼキエルが口を開くと、神はこの巻物を彼の口に入れ、食べさせて「腹を満たせ」といわれました。「それは、蜜のように口に甘かった」とあります。どんなに厳しいお言葉も、その根底には密のように甘いというような神の愛が流れているということです。

エゼキエルが神から聞いて伝えた言葉は、エルサレムから遠い地に捕囚として連れて来られたイスラエルの民にとって大変厳しいものでありました。けれどもそれは愛する民のひとり一人が、罪と決別し、深く悔い改め、今一度立ち返ってほしいという、神の慈愛から出たものなのです。まさに、巻物にびっしりと書かれた「悲しみ」と「嘆き」と「呻き」の言葉こそ、神の愛の賛歌なのです。

本日は「恐れてはならない」との題で、御言葉に聞いてきました。真に恐るべきお方は、すべてを創造し統治される神、今も生きておられる主なるお方です。今のこの時代も不安と恐れが渦巻いています。しかし、最も恐るべき罪による死と裁きから私たちを救うために、十字架であがないの業をなし遂げてくださった生ける神の御言葉、主イエス・キリストこそ神の愛であられます。「愛には恐れはない。完全な愛は恐れを締め出す」とはヨハネ第一の手紙の4章の言葉ですが。その愛によって恐れや不安から解放され、神が与え給う救いの道、その人生を歩み通してまいりたいと願うものです。

最後にローマの信徒への手紙8章の「神の愛」の御言葉を読んで今日の宣教を閉じます。

「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか・・・わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。アーメン。

今週もコロナ禍や猛暑の中に如何にありましても、真の救いと希望の神のお言葉にまっすぐに立って歩んでまいりましょう。

 

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