日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

新しい生き方への招き

2019-01-27 19:57:21 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ5・27―32 

 

私は学生の時代、小高い丘の上にある北九州市小倉のバプテストシオン山教会の礼拝に出席しておりましたが。毎週行くのに長い坂道が続いていて、雪の日や道が凍結していた時などは、のぼっていくのが結構しんどいこともありましたそんな坂道をのぼって礼拝に向かっていたある日、シオン山教会の宣教師であったV.キャンベル先生とお会いした折のことですが。

私が「I am go to Church」と覚えた英語で得意げにいいますと、キャンベル先生は「No. You are Come back church!」と返ってきました。「教会は行くところではなく、帰るところですよ!」とおっしゃったのですね。登り坂道であっても「教会は帰るところ、神の家」なんだということを新鮮な気持ちで知らされました。

このことは、その後の私の教会観や信仰生活に影響を与えるものとなりました。

まあこれが牧師となって礼拝宣教し始めた28年前から、礼拝宣教の最初に「おかえりなさい」とご挨拶する言葉の原点になっています。

又、近年は礼拝宣教の最後に私はまあ決まり文句のように、「またここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう」と、派遣の言葉を語ることにいたしておりますが。この主の日の礼拝から、主の恵みと力を給油してもらい、それを日々の生活の場で霊の糧とし、又それをもって主イエスの弟子として生きていくことが大事なのであります。

 

さて、先週はイエスさまがシモンをはじめとする漁師たちを、最初の弟子として選ばれたその召命の記事でありました。

一晩中漁をして何もとれなかったシモンが、イエスさまの「深みに漕ぎ出しなさい」との勧めに、自分の経験や知識、プライドはさておき、「お言葉ですから」と深みに漕ぎ出して行った。そのことによって彼は大漁の恵みの御業を見せられることになります。

シモンはその圧倒的神の力と恵みの、その深さを知った時、「私は罪深いものです、私から離れて下さい」と、今度は自分の罪深さを思い知るのです。まさに驚くべき恵み、アメージング・グレースであります。神の恵みに人間はただおそれおののくばかりです。しかし主イエスは「恐れることはない」と平安を約束し、弟子としてシモンら漁師たちをお招きになったというエピソードでありました。

今日は、イエスさまが徴税人のレビを「わたしに従いなさい」と招き、弟子とされる箇所から、御言葉を聞いていきます。

 

「ルカ福音書が強調する点」

まず、徴税人レビがイエスさまの招きに応えて弟子となっていった記事は、マタイやマルコの両福音書にも記されております。その多くはこのルカ福音書の記事と共通していますが、しかしルカ福音書にのみ記されていることが3つあります。

その1つは、イエスさまがレビを「わたしに従って来なさい」とお招きになったとき、マタイやマルコによれば「彼は立ち上がってイエスに従った」と記されているのに対して、ルカは「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と記している点であります。「何もかも捨てて」ということが強調されているのです。

徴税人は当時ユダヤの地を統治してたローマのための税金を徴収する人たちでした。ユダヤの人たちからすれば自分たちを圧政するローマの手先であるということで随分嫌われていました。そのうえ余計に取り立て私服を肥やしている者も多かったので、結構な財産を所有していたようです。

その徴税人のレビが「何もかも捨てて」と記されているのは興味深いところですが。

ただ、この「捨てて」というのは直訳では「残して」と訳せます。そうなると捨てると残すとは大違い、正反対じゃないかと思うのでありますが。ここではっきりしていることは、これまで徴税人レビがあくどい仕方で私服を肥してため込んでいたであろう彼の一切の財産を、ポイっと捨ててしまったのではなくて、「ひとまず置いて」、まあ残したまま、イエスさまに従ったということであります。

又、彼はこの後、自分の家で「イエスさまのために盛大な宴会を催した」と、あります。これが2つ目のルカが強調していることなのです。マタイやマルコの福音書には、レビが催した盛大な宴会のことは何も記されていませんが、なぜルカはこのことを記したんでしょう。

それは、レビが「ひとまず置いたその富を何に用いたかを示すためです。徴税人であったレビが「自我のための生き方」から「主のために生きる生き方」へ具体的にチェンジした、方向転換したということがここに示されているということです。

「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席についた」とあるように、レビ自らこの宴会のホスト役となって、イエスさまのために盛大な宴会を開き、そこに先にイエスの弟子となったシモンらも招かれ、又同業者の徴税人や又罪人と呼ばれていた人たちがいた。まあ、そんな罪人と言われる人たちの大宴会がもたれる、とのうわさを聞いて集まってきた人たちもいたのでしょう。そこに、いつも徴税人のレビたちを罪人と非難していたファリサイ派の人々や、その律法学者たちもいたということです。

とにもかくにも、徴税人のレビにとって、神の人と噂される主イエスに目を留められたということが、どんなにか大きな驚きと喜びであったかが、このイエスさまのために催した盛大な宴会から伝わってきます

 

この記事を読みながら思い出したのは、レビと同様徴税人のその頭であったザアカイのエピソードがマタイやマルコに無く、やはりルカの福音書19章にのみ記されていることです。

思いもかけずイエスさまに目をとめられて、「今日は、ぜひあなとの家に泊まりたい」と呼びかけられたザアカイは、喜んでイエスさまを迎え入れます。

そしてザアカイは「立ち上がって『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』とイエスさまに約束するのですね。

ザアカイの大きな喜びが言葉に表れています。彼は主の愛の深みに触れた時、自分の罪深さを思い知らされ、メタノイア、悔い改めたのです。これは先週のシモンと同様です。

救いの主、喜びと恵みのイエス・キリストに立ち帰ったザアカイ。

このルカ福音書が伝える「悔い改め」は、単に口で罪を告白しただけで終わるものではなく、メタノイア・方向転換をした者の生き方そのものが変わる。そこにその「実」、「証」が伴うものなのです。

すでにお伝えしていますように、今年の年間テーマは「新しく造られた私たち」です。そのコリント二5章17節をお読みします。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、(見よ、すべて)新しいものが生じた。」このところから、新しい人としての歩み、新しい人生を生きていくことをテーマとして掲げています。

このルカの福音書はまさにその具体的出来事の一つをここに紹介しているのです。

 

今日の箇所の5章32節で、ルカはイエスさまのお言葉を次のように記します。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため

である」と。他のマタイやマルコの同じ記事には「罪人を招くためである」とのみ記されていますが。

このルカでは「罪人を悔い改めさせる」、すなわち神に立ち帰って生きる者となるという目的が強調されているのです。この「悔い改め」・メタノイアという言葉はルカ福音書には14回も記されているのですが、これが3つ目のルカのポイント、重要点です。

 

真の救いの主、イエス・キリストによって神に立ち帰る、メタノイアした者は新しい人生を歩み出します。先ほどのコリント二5章17節の後の18節を見て頂きますと、そのキリストに結ばれることによって与えられた新しい人生が、和解のために奉仕する任務だと記されています。

主イエスによって神と和解したレビは、隣人を招いてイエスさまのための大宴会を開きます。

自分を愛し、自分を大事にするように隣人を愛する、隣人を大事にする生き方。これが徴税人であったレビ、又徴税人の頭であったザアカイの新しい生き方でした。

まあ、自分の財産については困ったことはなく裕福であったのでしょうが。ローマとユダヤ同胞の人たちの軋轢と狭間で、内心は安らげる場もなく、礼拝堂にも大ぴらに行けないそんな居場所もなく、寂しい日々を彼らは送っていたのではないでしょうか。

いくら物質的には有り余るような資産を所有していても、その心の真の慰め助にはならなかったのでしょう。これは現代においても同様ではないでしょうか。

その彼らが、真の救いの主、イエス・キリストと出会い、神に受け入れられた喜びに満たされたとき、「自我のための生き方」から「主と隣人を自分のように愛し、大事にする生き方」へと、メタノイア・方向転換をするのです。それは決して強いられてではなく、もう喜びと感謝があふれてそうなっていくのです。レビやザアカイはきっとそうすることで、これまでの生き方とは全く異なる生き方、本当の自分の居場所を見つけることができたのではないでしょうか。

 

「罪人の仲間とされても」

ここまで、ルカ福音書にのみ記された3つの御言葉に注目し、その強調されているメッセージをレビに焦点を当てながら読み説いてきましたけれども。

次に、ルカの福音書のこの個所から、イエスさまは何を語られているのかを読み取っていきたいと思います。

30節「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子に

イエスさまの弟子たちに『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」と言った」とありますが。

徴税人の仕事はユダヤ以外の外国の人々が持ち込む物品類に通行税を掛けて徴税することで、その品々にはユダヤの宗教上けがれたものも少なくありませんでした。それで徴税人も罪ある職業としてユダヤの人々からは疎んじられたり、見下されていたのです。

そういった徴税人に声をかけたり、その彼らと一緒に飲食することは、イエスさま自身も、周囲の人々から「罪人の仲間」と言われることをよく承知しておいででした。

 

ここでファリサイ派の人々が直接イエスさまにではなく、その弟子たちに「罪人と一緒に飲食するイエスは罪人の仲間なのか」と尋ねます。さすがに主賓のイエスさまには言いにくかったのか、弟子たちには何であんな人に従うのかという嫌味を言ったのかわかりません。

ここに居合わせそのようにつぶやいたファリサイ派の人々やその派の律法学者たちは、自分たちは神の律法に照らして正しい道を歩むように努めていたその気高さに敬意は払いますが。その一方で、彼らは律法を守ることのできない人たちを罪人、けがれた者と見下し、疎んじ、自分たち正しさを自認していたのです。「ファリサイ」とは分離するという意味がありますが。イエスが徴税人や罪人などと飲食を共にする行為が、理解できず、もっといえば許すことができず、反感や敵意まで抱いたのです。

 

31節で、そのイエスさまはその彼らに向かってこうお答えになります。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」

このイエスさまのお言葉の背後にはユダヤ教の礼拝観があったようです。

ユダヤ教においては、健康であることが神からの祝福のしるし、反対に病気は何らかの罪に対する報いといった考え方が存在していました。

旧約のヨブ記のヨブもそうした因果応報の宗教観をもった友人らからさんざん悔い改めを迫られるわけですが。そういった考え方が根強くある中で、義人・正しい人や健康な人による礼拝こそが神に喜ばれるもの、神の前にふさわしいものとされ、病人や罪人は礼拝所の外で祈ることが当然のようになされていたのです。

こうした宗教家たちのように、人と人を分離し、分け隔てることが、罪人と呼ばれる人たちの神さまに立ち帰って生きる機会を奪ってきたのではないでしょうか。

 

レビが催した祝宴でイエスさまが、徴税人や罪人と呼ばれた人たちと飲食を共にされたことについては32節にありますように、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と、そうイエスさまは明確におっしゃいます。

 

神の愛とゆるしを知るとき、人は新しくされる。人生も新たにされる。その可能性をイエスさまはむしろ罪人の中に見ておられたのです。

イエスさまの見ておられることってすごい、と思いますけれども。その一方で、ではこれって、正しい人は招かれていないということでしょうか。

いいえ、そうではありません。ここで問題にしているのは、「自分こそ神の前に正しく、ふさわしい」と自認し、罪人たちと自分は質の違う人間だと思い上がっている「正しい人」の態度です。「罪人」イコール「ダメな人」とレッテルを貼り、自分との間に線引きし、罪人の立ち帰りと救いの門を閉ざし、その道から追い出そうとしているその高慢です。

しかし、主イエスはどこまでもその外に追い出された人々へ向かうのですね。

イエスさまは、この自分は正しい者であると自認する人々がそれらのことに気づき、彼らも又主のゆるしと救いを必要とするものであることを知って、主に立ち帰ること。救われ喜び者らと共々に主の食卓を囲んでいくようにと、招いておられるのです。

 

私たちも又、異邦人であり、この罪人を招く主の愛の招きに与った者として、喜びをもって主の御跡に従う者とされてまいりましょう。

 

今日の御言葉をもって今週もここからそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夕べの礼拝へのご案内!

2019-01-23 17:15:50 | 教会案内

2月24日(日)午後6時ー7時半  

 

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金の時はあります。
 

 お車でお越しの方は、ご一報ください。

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております!



日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖に漕ぎ出して!

2019-01-20 14:37:09 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ5・1―11 

 

本日はイエスさまがシモンをはじめとする漁師たちを、最初の弟子として選ばれたその召命の記事であります。

ここを読みますと、奇跡的な出来事ばかりに目を惹かれるかも知れませんが。このルカ福音書が一番伝えようとしているのは何でしょうか。今日はそのことを聴き取って私たちの信仰の糧としたいと思います。

 

水曜午前の祈祷会では、次の日曜日の礼拝箇所をともに読んで学んでいるのですが。

今日のこの個所はよく知られた物語でありますが、これまでの読んでいて気づかなかった視点や発見が多くあり、聖書は深いなぁといった感想がありました。

 

 今日のはじめのところで、「イエスさまがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た」とあります。

魂が飢え渇き神の国の福音を求めてイエスさまのもとに続々と人が集まって来た。そしてイエスさまは押し寄せる人々で湖のほとりのそのお語りになる場所もないほどとなり、何とかしようとお考えになった視線の先に、漁師たちの二そうの舟があったのです。

その舟の持ち主であった漁師たちは、一晩中労したにも拘わらず、魚が一匹も獲れず、疲れ切った中、網を洗っていました。

私も魚釣りが好きで九州にいた時はよく海釣りに行きました。大阪に来てからは年に数回に、しかも海上釣り堀なんぞに行ったりもしています。釣れると本当にうれしいですね。写真に撮ったり多い時は知り合いに配ったりと。けれど釣れない時は本当に寂しく、残念です。空っぽのクーラーBOXを下げて帰ると、そのクーラーBOXにはエサも入れていたので臭いがついていて洗わないといけないのですが。洗う気持ちにもなれない虚しさ。ちょっと漁師の彼らの心境がわかる気もしますが。

 

まあそうした彼らにイエスさまは目をお留めになり、「そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り込まれ、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった」ということであります。

シモンはイエスさまが神の国の福音を語られ、人々にいやしを行われ尊敬されていたことをよく知っていました。4章のところには、イエスさまがシモンの家にお入りになったとあります。それは彼の兄弟アンデレが引き合わせたのではないかと思われますが。その時にシモンは姑の病気を癒して戴くのです。そういったシモンには恩義もあったので、舟を出すことを断るわけにはいかなかったのでしょう。

 

そうしてイエスさまが舟の上から群衆に語り終えた時、イエスさまはさらにシモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。

ここでは「沖に」となっていますが。本来は「深みに」という言葉です。

ですから、ここでイエスさまはシモンに「深みに漕ぎ出しなさい!」と、招かれているんですね。

沖へというと「もっと遠くへ」とイメージしがちですが。「深みに」というと大分ニュアンスが違ってきます。釣りをする者としてはまたちょっと感じるところがありますが。

釣りをする時、魚がいるポイントというのがあるんですね。ただ沖に出ればいいというもんでもありません。その日の天候、波と潮の状態、又海中の地形や棚をはかってみて、「これくらいの深さにハリスを落とせば魚のいる棚と合い、かかるな。エサは何にしようと考えます。ポイントや棚の深さはとても大事なんです。

 

さておき、シモンはイエスさまの言葉に反感をもったようです。なにせ彼は漁師であり、経験や実績、そのことに関する知識は素人のイエスさまにわかるものかと、自信があったからです。

夜中じゅう漁をして1匹すら魚が獲れなかったという現実、しかもこんな魚があがってこない真昼頃に漁をするなど非常識も甚だしいと思ったことでしょう。何のつもりがあってそんなことを命じられるのか。ほんとうに気まぐれとしか思えない。疲れているのにもうこれ以上無駄な労力を使いたくない。これがシモンの正直な思いだったのではないでしょうか。

私たちもどうでしょう。自分の知識や経験など自信のあることに対して、違う方法や方向に行くように言われると戸惑い、ムカッとくることがあるのではないでしょうか。

そこには自分の考えや経験や知識がベストだ、一番の方法だという考えがあるからです。

違った方法や方向に行くように言われると素直に従うことはなかなかできるものではありません。

しかしシモンはイエスさまの「沖に漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」とのお言葉に対して、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答え、そのとおりにします。

ここでのシモンの「お言葉ですから」という答えは、そこまで言われるのなら「まあ、やってみましょう」といったどちらかといえばあまり載る気でない思いからであったのでしょう。

そうして、「言われたとおり深みに漕ぎ出し、漁師たちが、網を投げ打つ」と、何と驚くことに、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」というのであります。

そこで、もう一そうの舟にいる仲間の助けを得て何とか網を引き揚げ、「二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」というんですね。

この素晴らしい主の御業が顕されるのに、シモンは一人ではなく共に労する仲間がいた。共に主の栄光を仰ぐ仲間がいた。そこに今も主が一緒に乗り込まれている舟、教会の姿を見る思いがします。

 

さて、この光景を目の当たりにしたシモンは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものです」と、イエスさまの足もとにひれ伏します。

それまでシモンはイエスさまを「先生」と呼び、立派なお方だと尊敬していました。だからこそ舟を出し、さらに言われるまま深みに漕ぎ出して網を降ろしてみたのです。

けれども、もう肝がつぶれるほどの衝撃的なこの出来事によって、シモンの中に「主へのおそれが生じたと同時に、自分の信仰の至らなさ、罪の深さを思い知るのですね。

イエスさまを始め「先生」と呼んでいたシモンは、ここで「主よ!」とその呼びかけが変化しています。

 

シモンが自分の網の中に見たのは、網がはち切れんばかり溢れる神の恵みだったのではないでしょうか。

その時彼は、イエスさまが主なるお方そのものであられることに気づき、恐れをもってひれ伏すんですね。

この世界に聖書に興味をもって読む人は大勢います。なんかむずかしい。むずかしいがええことがかいあるのだろう。世界のベストセラーだし、教養としてと、読むのですが、わからない。

それは、このシモンのように岸を離れ、深みへと漕ぎ出していないからかも知れません。主のおっしゃる言葉に、御言葉の深みに「お言葉ですから」と漕ぎ出すとき。その私という小さな網を投げうってみるとき。自分がどれほど神を知らなかったか、と恐れおののくほどの主との出会いと、溢れんばかりの恵みを体験するものとされるのですね。

それはすでに主を信じている私たちも又、このシモンのような体験を通して、主の恵みを再確認させて頂く者なのです。

さて、シモンは「主よ、私は罪深い者です。私から離れて下さい」と言います。

自分が神の御前にいかほどの者であるか。その不信仰を思い知らされたシモンに向けて、

イエスさまは言われます。

「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる。」

原文では「人間を生け捕りにする」ということであります。

人間をとる漁師。それは「この世界」という大湖で、「イエスさまが乗り込まれた神の国の舟」に、神のものとして生きたまま獲得される、そういう働きをなす者となるということです。肝心なのはイエスさまが一緒に乗り込まれた舟がそこにあり、イエスさまが共におられる中で、その神の国に漁られる働きがなされる、ということです。

 

それを聞いた彼らはそこで、シモンをはじめ、ゼベタイの子ヤコブもヨセフも「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」と記されています。

 

このすべてを捨ててという意味は、何もかも一切を捨ててとも読めますが。このルカ福音書5章全体から見れば、自分の正しさや自信によって生きていた生き方から、主イエスと出会い、主を信じて、従う生き方へ、舵を180度きる。その方向転換、メタノイア(悔い改め)によって従っていったということであります。彼らはこうして主イエスの弟子とされたのです。

このシモンは、後にイエスさまによって「あなたは岩、ペトロだ。わたしはこの岩の上に教会を立てる」と言われたペトロであります。今日の「自分の罪深さ、畏れおののきながら信仰の足りなさを告白して、全き方向転換、悔い改めたペトロ」。この信仰告白こそ、私ども主を信じる者にとっても、大きな救いであり、恵みであります。

 

今日は「沖へ漕ぎ出して;深みに漕ぎ出して!」という題のもと、御言葉を聞いてまいりました。

始めに、このルカ福音書はこの今日の箇所から一番伝えたかったことは何か、ということを申しました。みなさんはその答を得られましたか。

このルカ福音書は、奇跡の事象そのものではなく、イエスさまお言葉どおりに「深みに漕ぎ出して」従ったシモンが、主との出会いと大いなる恵みを経験し、畏れをもってひれ伏す中で、慰めと平安が臨み、イエスさまに従う弟子となったことにございます。

 

私たちも、もしかしたら日毎浅瀬で深みに漕ぎ出すことなく、まあこんなもんだろうと落胆することに慣れっこになっているような者かも知れません。そのような私たちを主は、深みへ漕ぎ出しなさい!と御言葉をもって招かれます。

 

今週も私たちもここから主の御言葉をもってそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主の恵みの年

2019-01-13 19:47:11 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ4・14-30 

 

今週の17日は未曾有の阪神淡路大震災から24年目となります。17日木曜午前十時半から今回は豊中バプテスト教会にて「1・17記念礼拝」が捧げられます。ご都合がつかれる方はどうかご出席ください。

 

本日はルカ41430節より「主の恵みの年」と題し、御言葉に聞いていきます。

イエスさまは先週読みましたバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになると、聖霊がイエスさまに降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者という声が天から聞こえた、とございます。

イエスさまは神の御心を成し遂げるその使命を果たす者として召されるのでありますが。そのためにまず、試みをお受けになることとなります。神の霊がイエスさまを荒れ野へと導かれ、悪魔の3度の誘惑によって神への従順が試されるのです。

イエスさまはこの荒れ野での悪魔の誘惑に対して、「主なる神のいのちの御言葉によって人が生きる」こと。又「神である主を拝み、ただ主に仕える」こと。さらに「主である神を試してはならない」とお答えになり、その試みに打ち勝たれました。

こうして、霊の力に満ちたイエスさまはガリラヤ(おそらくカファルナウムの町だったようですが)に帰ってこられ、諸会堂で教えて、皆からの尊敬を受け、その評判が周りの地方一帯に広まった、とあります。

 

本日の箇所は、そのイエスさまの故郷ナザレの町の会堂で起こった出来事についてであります。

粗筋は、イエスさまがその会堂で預言者イザヤの書を朗読し、「この御言葉は今日、実現した」と宣言なさるのですが。人々は、「あの人は大工ヨセフの子ではないか」とあしらいます。そこでイエスさまは、旧約の預言者エリヤと預言者エリシャのときも主の恵みを受けたのはイスラエル・ユダヤの人々ではなく異邦人であったことを指摘されるのですが、それを聞いた人々は、皆憤慨してイエスさまを殺そうとまでするのです。

イエスさまはユダヤ人として、幼い頃から安息日はいつもユダヤ会堂(シナゴグ)で神に礼拝をお捧げになっておられました。

この当時の会堂は、礼拝のための場所だけでなく、学校、いわば寺子屋のような場所ででもあり、地域のコミュニティセンターでもあり、時に法廷にもなったそうであります。まあそこにはそれだけの働き人もいたんだと考えられますが。ユダヤの会堂がそれだけ人々の日常のコミュニティや生活と深くむすびついていたんですね。

私たちの教会はアメリカ南部バプテスト教会の厚い祈りと尊い支援を受けつつ福音宣教が始められましたが。その当初からミッションボードが力を入れていたのは、「サンデースクール(教会学校」でした。他にも「バイブルクラス」(宣教師から聖書を英語で読みとき学ぶ)、あるいは多くの絵本や良書などがそろった「文庫・図書室」などをもつ教会があったりと、まあ地域の子供たちや学生が来られ、そこから主の福音を信じて、クリスチャンとなった方々も多くおられました。

吉田さんはバイブルクラスからだとお聞きしています。私は教会学校からです。こうしたかたちで、地域の人たちに教会へ足を運んでいただけるためには、現実に受け入れる人員やスタッフも確かに必要なことでしょう。今私たちの教会では「子供食堂」を月に1度ですが持っておりますが。また連盟や連合の諸集会、ハンドベルや絵画教室、様々な集会や会場提供をさせて頂いております。これらは福音を伝え広める術であり、聖書の「恵みの業を大河のようにあふれさせよ」との、主の御心に沿った福音の働きの具体的場でもあるでしょう。このようにして、主の教会がまず用いられているということを感謝したいと思います。

 

聖書に戻りますが。

この当時のユダヤ会堂でもたれていた安息日の礼拝では、まず旧約聖書から申命記、民数記のうちから「信仰告白」が読まれていたということです。その一つ申命記64節以降を読んでみますと。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい・・云々」とございます。

次世代に信仰を語り継いでいく、幼児期の聖書教育が重んじられていた、ということがわかります。私たちの教会も次世代を育む働きを主から託されていることを覚え、そのための「こどもの教会学校」「こどもメッセージ」の在り方についても、具体化していきたいですね。

さて、ユダヤ会堂での礼拝は先の「信仰告白」に続いて、「賛美の祈り「願いの祈り」「感謝の祈り」などが捧げられたようであります。

その後、その安息日の「聖書の朗読」が行われたようです。それはその後に行われた説教よりも、朗読の御言葉そのものの方が重要だったということです。

私たちの礼拝でも、宣教やこどもメッセージの前に「聖書朗読」を行うことを大事にしています。これは旧約時代を受け継ぐ新約のキリスト教会でありますから、礼拝においてまず、「神の生きた御言葉」そのものが重要と考えられているからなのです。

ユダヤ教でも聖書朗読と説教の後は、「祝祷」が祭司によって唱えられ、会衆はアーメンをもって応えます。そうして、最後に神の恵みを分かち合うための金銭や物資が集められたということです。特に貧しい人に向けて、必要に応じてなされたということです。礼拝の内容や形式はだいたい、キリスト教会の礼拝とそう変わらないように思います。それはキリスト教会の主であるイエスさまご自身、ユダヤ人としてその伝統、安息日や旧約聖書、会堂とその礼拝を重んじておられたということから、私たちはその主によって旧約聖書に約束された神の祝福を受け継ぐ者とされているからです。

 

さて、聖書に話を戻りますが。そのナザレの会堂での安息日礼拝において、大事件というべきことが起こります。

通常通り聖書朗読の折、会堂司の僕から「預言者イザヤの書」の箇所を読むように巻物がイエスさまに手渡されます。するとイエスさまはその目に留まった箇所を次のように読まれました。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

この、主の霊がわたしの上におられる、、、、主がわたしに油を注がれた」と言うのは、イエスさまが先のバプテスマをお受けになった時、聖霊が鳩のようにお降りになったことや、イエスさまが荒れ野の試みの後、霊の力に満ちてお働きを始められたことを思い起させます。イエスさまはこのイザヤ書の預言の顕れであり、油注がれたメシア(救いの主)なのです。

その救いの主としてのお働きについて、「貧しい人に福音を告げ知らせるため」と、ございます。

この貧しいとはどういう人のことでしょうか。それは実質的な貧しさばかりでなく、ここにはその具体的なこととして、「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」とあります。

これは、福音書がイエスさまの公生涯において、霊の飢え渇きにある貧しい人、世の力

に捕らわれ人、目の見えない人、圧迫されている人の友となり、病をいやし、解放をなし、その救いのみ業を具体的になさったことを示しています。このイエスさまによって告げ知らされせた「福音」は、具体的なかたちで実を結んでいくものなのです。私たち一人ひとりも、その恵みによって救われている者であります。

 

「主の恵みの年」とは、旧約聖書レビ記25章にあるように、50年ごとに民のすべてが自由になる年を表します。しかし実際にユダヤ、イスラエルにおいてこのことは未だ実践されてはいないそうですが。それはさておき、ここで言う「すべての者の解放と自由、主の恵みの年とは、主イエス・キリストの十字架と復活をとおして完成される神の救いの実現。すなわちイエス・キリストがお出でになった。その恵みの年の始まりの記念すべき年であります。

 

そのように宣言なさったイエスさまが「巻物を係りのものに返して席に座られると、会堂にいたすべての人の目がイエスさまに注がれた」とあります。

「イエスさまが席に座られた」とは聖書朗読で立っていた状態から単に座ったのではなく、イエスさまが今度は神の言葉を取りつぐ者としての席に座られた、ということなのですね。そりゃあ、皆はこのイエスさまの態度に注目したことでしょう。

そういう中で21節、イエスさまは言われます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。

「今日」とは、あなたがたが耳にしたときです。福音を聞いたときから実現しているということです。ですからそれは2000年前のことではなく、今、私たちが主イエスの

福音を耳にした時。それが「神の恵みの時」なのです。まさにそれは、御救いの現在性を示す言葉なんですね。

 

さて、そのイエスさまの言葉を聞いた人々は「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉を驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』と言った」とあります。

ナザレの人々のイエスさまに対する反応は、2つありました。

彼らはまずイエスさまをほめ、その口から出る恵みの言葉に驚きます。それが次第に「イエスは近所の大工ヨセフの子にすぎないじゃないか」という、どちらかといえば懐疑と否定的な反応に変化するのです。

幼い頃から知ってる大工のヨセフの子。そういった偏見が彼らの目を曇らせるのです。そこには、「自分はイエスをよく知っている」という思い込みがありました。

こういった思い込みというのは案外私たちの内にもあるのかも知れません。「あの人はこういう人だ」と言う、あたかもそのすべてをわかっているのかのような思い込みや偏見、一方的な決めつけや差別。そういったうわさ話といったもの。それは人の目を曇らせます。せっかくのよい出会いや関わりを台無しにしてしまったり、何よりそこに働かれる主の導きや祝福まで損なわせてしまいます。この時のユダヤ会堂にいたナザレの人々がまさにそうでした。

 

ここで、イエスさまはそのナザレのユダヤの人たちに「カファルナウムの町でしたいろいろなことを、わたしたちにもしてくれとあなたたちは言うに違いない」と、おっしゃっていますが。

このルカ福音書では、この後にカファルナウムでのエピソードが載っていますが。他の

福音書ではナザレの前にカファルナウムで、イエスさまは「権威と力」をもってお働きになったそのことが記されています。ナザレの人たちは、それを耳にしていたのです。

このカファルナウムという町にはユダヤ人以外の異邦人が多く住む町で、ナザレの人たちは、そのような町の人たちに御業がなされたことに対して、激しい妬みと言いますか、「私たちこそ正当な神の民なのに」というような強い思いがあったのだと考えられます。

 

イエスさまはそんなナザレの人たちに対して、ユダヤ人のだれもが知っている旧約聖書の預言者エリヤと預言者エリシャのエピソードを取りあげて、異邦人にも与えられている「神の恵み」を説かれます。

エリヤの時代、神に逆らいバアルの神殿を建てアシュラ像を造ったイスラエルのアハブ王に対して、預言者エリヤは神からの厳しい警告をするのですが、命を狙われケリトの川のほとりに身を隠すことになります。すると、朝夕ごとにカラスがパンと肉をエリヤに運んできましたが、飢饉で川の水も枯れますと、イスラエルにも大勢のやもめ、夫を亡くした女性がいたはずなのに、エリヤは北の異教の地、フィニキアの町サレプタのやもめのもとに遣わされました。

神の人エリヤが、そのやもめに「パンを一切れ、手にもってきてください」と言うと、彼女は「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。まずそれでわたしのために小さいパン菓子を造って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。「主が地の面まで雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」やもめは行って、エリヤの言葉通りにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べる物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくなることはなかった。」

聖書は、なぜやもめ、それも異邦人のところに行けと神さまが仰せになったかの理由は書かれていませんが。恐らく預言者エリヤを神の人と、その目で曇りなく見抜き、神のお言葉に自分をかけて行動に移すことのできる人であったのでしょう。まさに貧しき者、霊の飢え渇いている人は幸いなるかな、です。又、預言者エリシャを通していやしに与ったナアマン将軍は、時にイスラエルに敵対する異教の地の軍人であり、高い地位であったのですが、彼を支える部下とそのナアマンの主への信頼が、最後はその彼のプライドや偏見を捨て去らせ、すべてを主にゆだねて切って、御言葉通り、川の水に3度身を浸して、いやされた人物でありました。彼も又、異邦人でありながらも、その信仰によって神の恵みに与って、いやされたのでした。

 

このように、イエスさまがナザレの人々に対して異邦人への神の恵みを示されたのは、ユダヤ人であった彼らの心が神に対して重く閉ざされていたからです。

エリヤそしてエリシャの時代もそうだった、だからイエスさまも、ユダヤの民の間で歓迎はされないだろう、とおっしゃったんですね。

又、マタイ、マルコ福音書の、ここと同じエピソードの箇所を見ますと。イエスさまはナザレではごくわずかな人をいやされただけで、その他は何も奇跡を行うことができなかった。そして人々の「不信仰」に驚かれた、とあります。

何とイエスさまが奇跡を行うことができなかった!その理由は、神の恵みを拒み、受け入れない不信仰にあったから、というのです。

イエスさまは今日のところで、ナザレのユダヤの人々が神の恵みを拒むなら、その恵みは異邦人に与えられることをはっきりと示されました。

 

「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」。

こういうことが、あのカルバリの十字架のときまで続いていくのです。

待ち望んでいたはずの神の恵みの時が、すでに目の前に現れている。

けれども、ナザレのユダヤの人々は、メシアであるイエスさまと神の恵みの時を受け入れることができなかった。イエスさまの福音、神の恵みを信じ受け入れるのに大きな妨げとなったのは、神の恵みのうえにあぐらをかき、自分たちはわかっている、というおごりと高ぶりだったといえるのではないでしょうか。

しかし、私たち異邦人が主の恵みによって救いに与っているように、ユダヤ、イスラエの人たちへの主の愛は変わることはないでしょう。

彼らが救いの主、メシアなるイエス・キリストを受け入れ、救いに与る(メシアニックジュウ)には、本当に多くの迫害や攻撃、分断といった困難を彼らに伴うのであります。

聖書はイスラエルの平和のために祈れ、とありますが。それは主の救いの完成の日を意味するからです。

イスラエル、ユダヤの人たちが、生ける主、メシアなるイエス・キリストを信じて、共

に主の恵みと祝福に与る喜びの日に向けて、祈り続けていくことは主の御心であり、私たち異邦人にとっても大切なことなんではないでしょうか。

 

かくして、主イエスの地上での生涯、十字架と復活をとおして主なる神さまは世界のすべての人々に、主の恵みの年は到来したということを、今日の聖書の御言葉から受け取りました。

今年の私たちの一年が主の恵みの年を歩むものとして、主の恵みを忘れることなく、喜びと感謝をもって、主の恵みの証を携え、日々主のみ業に励んでまいりましょう。

さあ、今週もここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おいでや!

2019-01-12 18:02:09 | 教会案内

新年会

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神の国の始まり

2019-01-06 13:12:17 | メッセージ

新年礼拝宣教 ルカ3・1-20

 

新年最初の主日礼拝をお捧げできます幸いを感謝します。

12月はアドベントからクリスマスを迎え、天の使いが夢でヨセフに現れた個所を何度も読みましたが。みなさんは新年の初夢を見られたでしょうか。私はまだ見ていませんが。

まず新年礼拝の招きの詞として、旧約聖書イザヤ書40章3-5節の預言者の言葉が読まれました。もう一度預言者イザヤの言葉をお読みします。

「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」

 

今日の箇所と照らし合わせて読んでみますと、旧約の預言者イザヤの「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者はともに見る」との言葉が、ルカでは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と訳されています。これは新約聖書の時代に至って、救い主イエス・キリストのご降誕、十字架と復活をとおして、あらゆる人が神の栄光である御救いを見るようになる」ということですね。このイザヤの預言どおり今や全世界中に主イエスの福音、神の国が宣べ伝えられ続けているのです。

この2019年、さらにその神の国の広がりを期待し、祈り求めながら、主の福音に生き、証し人とされていく私たちでありたいと願っております。

 

「悔い改めの実」

さて、福音の先駆けとなったバプテスマのヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」とございます。

そして、ヨハネの悔い改めの促しに多くの群衆が応え、自分もバプテスマを授けてもらおうとヨハネのもとに続々と押し寄せてくるのです。

ところがヨハネはその群衆に向けて大変厳しいことを言われます。

「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』「などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧が既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

ヨハネがどうしてこのような厳しい言葉を発したかと申しますと、自分たちは、イスラエルの神から祝福の約束を頂いたアブラハムの子孫なのだからと誇り高ぶり、罪を犯しても宗教儀式や形式的に悔い改めれば許される、とまあ考えていた人たちもいたという事です。

それを見抜いていたヨハネは、「悔い改めの実を結べ」と厳しく勧告します。

この「悔い改め」は、メタノイア;方向転換という意味です。これは単なる後悔や自責の念にかられて後ろ向きになることではありません。的を外した生き方から真の神に立ち返って、生きていくことを、決意することです。ヨハネはそのようにメタノイアしたのなら、具体的に悔い改めの実を結ぶような生き方をしなさいと勧めます。

 

そこで群衆はヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいですか」と質問します。

するとヨハネはその群衆に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」とお答えになります。

悔い改めにふさわしい実の一つ目は、貧しい者たちを顧み、分かち合うことです。

 

また、徴税人も、群衆と同様の質問をしますと、ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と勧めます。

決められた以上のものを取り立てて富を蓄えることを、当時の徴税人は普通にしていたようです。ユダヤの社会ではそういった徴税人たちは罪人と同様に扱われ、法廷の証人にもなれませんでした。

レビやザアカイも徴税人でしたね。レビはイエスさまの招きを受け弟子となります。ザアカイはイエスさまの救いに与り、これまでの自分の悪事を悔い改めて、全財産の半分を貧しい人々に与えます、と主に約束します。彼はそうやって悔い改めの実を具体的に表したのですね。

 

さらに、兵士たちも「どうすればよいのか」とヨハネに尋ねます。

この兵士たちとはローマの兵士ではなく、ヘロデ王の管轄下にあったユダヤ人の兵士、あるいはユダヤで警察のような任務についていたユダヤ人の用兵であったようです。

そういう彼らの中には、袖の下からお金を儲けたり、徴税人とグルになってその立場を利用して金をゆすりとったりすることがあったようです。

ヨハネは「もうだれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりしないで、自分の給料で満足しなさい」と彼らに進めるのです。

そんな風にヨハネは神の恵みを受けている者として、悔い改めにふさわしい生き方を、それぞれ具体的に示されました。

私たちもこの新年に、それぞれの生活の場において、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生き方を捧げていく決心をしたいと思います。

 

「わたしではなくキリストを指し示す」

さて、このヨハネのカリスマ性を目の当りにし、メシア;自分たちを救い王となるお方を待ち望んでいた人たちは、「もしかしたら彼がメシアではないか」と、皆心の中で考えていた、とあります。民衆のそういった思惑をも感じ取っていたヨハネは、次のように言いました。

「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりすぐれた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」

 

まあ普通の人だったなら、自信を強めて鼻を高くし、自分の思うまま民衆を先導して大きなことをなそうとするものです。これほど民衆の心をぐっとつかんでいたのですから、実際それは可能だったでしょう。しかし、ヨハネは来るべきメシアはわたしではない、他におられるというのです。そして自分はその方の履物のひもを解く値打ちさえもないとまで言います。

彼は自分の存在、又自分の役割をしっかりと踏まえていたのです。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため。」自分の栄誉ではなくキリストをどこまでも指し示し、人々を整え、キリストへと橋渡しすることが自分の使命であると、彼は徹頭徹尾とことんまで神さまの御心に生きるのです。

 

ルカ福音書1章には、父ザカリヤが天使を通してヨハネの誕生予告を受けた記事がこうあります。

「彼は主の前に偉大な人になり・・・・イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:15-17)

バプテスマのヨハネはこのみ言葉を幼い頃から聞かされて心にとめ、神の御心に従っていったのでしょう。旧約聖書の時代から新たなキリストの救いの時代の橋渡し役として生きたヨハネ。

どうでしょう。みなさまおひとりお一人にも、主イエス・キリストへと橋渡しして下さった方、このバプテスマのヨハネのような存在がおられたのではないでしょうか。

私たちも又、私ではなく救いの主、キリストの栄光を掲げて生き、隣人をキリストへと橋渡ししていく使命をそれぞれに託されているのです。そのように歩んでまいりましょう。

 

「聖霊と火のバプテスマ」

ところで今年度の大阪教会の標語として掲げましたのは、「新しく造られた私たち」です。バプテスマのヨハネのもとに来た人たちもそうでしたが、私たちも又、滅びるほかない古い自分から新しい人として生きていきたい、との思いをもってバプテスマに与ったことだと思います。

ヨハネは、「わたしはあなたがたに水でバプテスマを授けるが・・・・その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々にきれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と、告げています。

 

自分の意志で神に立ち帰り、回心した者にふさわしい生き方を心がけていくよう努めていく。それは素晴らしく、又尊いことです。

けれども人が新たに生まれ変わることは、単なる人の努力ではなし得ません。人がどんなに努力しても、その救いを完成させることなどできはしないのです。何度服を洗っても着れば汚れがつくように、何度悔い改めても、何度水で清めても罪のシミは浮いてきます。しかしキリストは、聖霊と火でバプテスマをお授けになるお方として来られました。

人の力によるのでなく、神による一方的な救いの恵みです。イエスさまは、罪に滅ぶほかないすべての人が救われるために、火に象徴される神の審き自ら受けてくださったのです。どうしようもない罪のもみ殻を完全に焼き払うことのおできになるお方。それが、メシア(キリスト)であり、箕をもって脱穀場を聖(きよ)める、お方であるということです。

まあここを読んで、この麦と殻を救われる人と滅びる人、天国に入る人、地獄に入る人と二分化するような解釈をする人もいるわけですが。そういう読み方をするよりも、むしろまずは自分自身のことに引きつけて読み、罪の殻を身に覆っているような私たち、火で焼かれる以外ないようなその罪を、キリストが負って下さった。これこそ神の恵みのバプテスマであります。

同時に、十字架で罪の審きと贖いを果たされたキリストによって、神さまはゆたかにご聖霊を私たちの間に注いで下さるようになったのです。

 

さて、そのようにキリストが聖霊と火のバプテスマによって、新しい人とされた私たちです。神の選びの民ではなかった異邦人の、罪深い私たちのためにまでも、罪のない神の御独り子が十字架にかけられ、死んで審きを負って下さり、もはや私たちの罪の殻は焼き払われたのです。唯々、日々ご聖霊の助けを頂きながら、神の愛の内に生きる幸いを思うとき、私たちは自ら悔い改めの実を結んでいく者となります。もう、不正をするな、と言われなくても、そうしない。餓え渇いている人がいたら、放っておけない感情が芽生えてくるのではないでしょうか。それが本物の福音力であると信じるものです。

そのような福音の力に与る人たちの間に、神の国の始まりが起こされてくるのです。

そのことを今日最もお伝えしたいことであります。

今年一年、福音を伝え証していくなかで、神の国のゆたかさ、拡がりが聖霊によって導かれていきますよう、祈るものです。

今日の御言葉をもって、またここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。

祈ります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖暦2019年元旦ご挨拶

2019-01-01 13:37:10 | 巻頭言

謹賀新年

みなさま

昨年はこのブログへご訪問くださり、ありがとうございました。

今年も礼拝メッセージやイベント案内等をアップいたしますので、

どうぞよろしくお願いいたします。

2019年のみなさまのあゆみが神さまの祝福と恵みに満ちたものと、

なりますようお祈りいたします。

在主・平安

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする