礼拝宣教 創世記28章10~22節
先週は夏季休暇を戴き、家族で福岡・北九州の郷里に帰省しました。火曜日には久山療育園ワークキャンプに部分参加し、街頭募金やワーク、入所者の方々とのふれあいの時を持ちましたが。入所者の方々もわりあいご高齢の方が多く、実に今日に至るまでご家族をはじめ多くの方々の善意と献身があり、主イエスの「共に生きる福音」がこの活動を支え続けているということを思わされました。又、24日の日曜日には新会堂が完成したばかりの東八幡バプテスト教会で第一回目目の最初の礼拝に与ることができました。ホームレス状態にある方々の支援を長年に亘り取り組んでこられた教会ですが。ここも又、連盟諸教会のつながりや支援が共に生きて働き、主の福音に基づいた尊い働きがこうして実を結んでいるのだな、と思いました。
さて、本日は創世記28章の「ヤコブの見た夢」の箇所から、「帰るべき家あり」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
アブラハムに与えられた祝福はその子イサクに受け継がれ、イサクはその双子の子どもの兄であるエサウに継承しようといたします。しかしその祝福を弟のヤコブが母リベカの言うままになし、奪い取ってしまうのです。
兄エサウから祝福をだまし取ったヤコブは、兄エサウに憎まれ命を狙われるようになり、故郷カナンの地から700キロはゆうに離れた遥か遠いハランの地、そこは母リベカの兄弟のいる地でしたが、そこに逃亡せざるを得なくなるのです。もとはといえば、それは父イサクがエサウを祝福しようとした時に、ヤコブが兄エサウになりすまして、兄から祝福を奪ったことから生じた結果でありました。
兄からの復讐を避けるために旅立ったヤコブの身なりは、杖一本だけであったということですから(32:10)、彼はもはや自分がかすめ取った祝福を失ったと思ったに違いありません。この時のヤコブにとって神の祝福とは、父祖アブラハム、そして父イサクから受け継ぐところの土地、家、財産そのものであったからです。そんな失意と不安のうちに道行くヤコブが、11節「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つとって枕にして、その場所に横たわった」と、道端で野宿するのであります。
当時の旅人は、町の住民の家に泊らせてもらいながら旅を続けたのですが、金銭もなかったのでしょうか、あるいは兄エサウに見つかることを恐れたのでしょうか。でもそれは、自分が父をだまして兄の祝福を奪い取ってしまったからです。後悔もあったかもしれません。失ったものが大きすぎました。灯り一つない道端彼はどんなに心細い思いで野宿をしたことでしょう。季節はいつ頃であったのか定かではありませんが、日昼の暑さとは対照的に凍てつくような冷え込みで、地べたは氷つくほど冷たくなっていたことでしょう。毎年越冬支援の夜回活動が大阪市内で行われていますが。1月から2月にかけて一番寒さの厳しい時期に路上で寝泊まりをされている方々にとって心配なのは、コンクリートの地面に寝て凍死されることです。地面に寝ている方を見つけ出しては、まず段ボールを敷くように手渡し、毛布のない方には毛布を渡していきます。その方々お一人おひとりにもそうせざるを得ないそれぞれの事情がおありなのでしょう。
ヤコブは柔らかな枕でなくゴツゴツとした固い石を枕に、地面に横たわって寝るほかありませんでした。
そうしたところ、ヤコブはその夜夢を見ます。
それは「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかもその階段を神の御使いたちが上ったり下ったりしている」そんな夢でした。天と地をつなぐ階段。それは天の神さまと、地のヤコブをつなぐ階段であります。神の使いたちがその間を行き来している。それはヤコブがこのような状態にあったとしても、「決して忘れられてはいないのだ」「見捨てられてはいないのだ」ということを物語っていました。
この階段と訳される原語の元は「梯子」を指すそうですが。時折礼拝にお見えになられるSさんは長年商船関係の会社にお勤めになっている折、海外を行き来するそのどの船にも「ジェイコブラダー」(ヤコブの梯子)という名の縄梯子見かけたそうです。特に何かの為に使うものではないようですが。しかし、そこには、恐れや不安が伴う長い船旅にあって、いつも天と船上をつなぐ神の守りがあることを祈り願って置かれているものなのでしょう。
いつ野獣が襲ってくるかも分からない荒れ野。家もない、屋根もない、布団もない、暖かい家庭の団欒もない、荒れ野で横たわるヤコブ。又、大海原で高波や嵐におびえ、逃れようのない船上で祈るほかない船乗りたち。そして、私たちも又、時にそのような如何ともし難い状況に身を置くほかない事があるでしょう。けれどもそんな私と天を結ぶ梯子がある。
13節「見よ、主が傍らに立って言われた。」
「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」この主の約束はどんなことがあっても決して変わることがないのです。
そうして、眠りから覚めたヤコブはこう言いました。
「まことに主(神)がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
主が共におられる方であることに目が開かれる時、それは平穏で何事もないような時よりも、むしろ逆境の中で石の枕に涙するような時なのではないでしょうか。自分にとって最低と思えるようなところにまで落ち、身も心もボロボロになり、孤独と不安の中におかれるヤコブ。そのような辛い思いをしているヤコブであるからこそ、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「あなたを決して見捨てない」との神さまの臨在に気づいたのではないでしょうか。
さらにヤコブは恐れおののいてこう言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブが言った「天の門」とは、文字通り神さまがおられる天に通じる門のことですが。今日は特に、ヤコブがここで「神の家」と言ったこの言葉にこだわってみていきたいのです。「神の家」と言えば、普通教会堂とかの建物が思い浮かびますけれども、しかしここではそういった物理的な建物のことではなく、神さまが今ここにおられる、生きて働いておられる所を言っているんですね。それも今日の聖書は、人間として何もかも失い、どん底といえるような状況、不安や恐れ、孤独の殺伐とした心の荒れ野のただ中に、神はおられる。ここが「神の家」だ、と言うんですね。
ヤコブが神の臨在に畏れおののいたその畏れというのは、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」という驚きから引き起こされたものでありました。ヤコブはその驚きと畏れを、この険しい荒れ野の途上で見出すのであります。
今日のこの「神の家につながる」とのエピソードを読む時、新約聖書の御言葉を思い出しました。それは、ヨハネ1章14節の神の子イエス・キリストの受肉の出来事を伝える御言葉であります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言」というのはイエス・キリストであります。「神が罪深い私たちの間に宿って下さった。」この「宿る」というギリシャ語は「テント(幕屋)を張る」という意味です。つまり、神さまは罪深い私たちの間に来て天幕を張り、いつまでも共に住んでくださる「神の家」となってくださったのであります。それを「受肉」と申しますが。
神の御独り子イエス・キリストは人となって私たち人間の苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、孤独をすべて負われ、十字架の処刑場に至る最期の時まで、罪深い人間を愛し抜き、共に生きる道を貫き通されて、死を遂げられた。その主イエス・キリストによって、私たち人間の深い罪は贖われ、救いの道が開かれたのであります。
ヨハネはそのくすしき神さまの御業について、「わたしたちはその栄光を見た」と言い表しました。それは、ヤコブが荒れ野という身も心もすさみきっていたその所に、神さまが共におられる、という驚くべき臨在を知らされた時、彼が畏れおののきながら「これはまさしく神の家である」と言った言葉と共通する響きを持っているように思えるのです。
今や私たちは救い主イエス・キリストというまさしく「神の家」に住まいを得ているこの幸い。「そうだ。ここは天の門だ」と、それを見出した幸い。その驚きと畏れをもって今日もこうして礼拝を捧げているのであります。
主はヤコブに「必ずこの土地に連れ帰る」と約束されますが。それヤコブの生まれ育った地カナンを指します。地上の故郷というものは、私どもにとって生まれ育った場所であり、懐かしく大切なものです。今の生活も生きる上で大切なものであります。しかし、主がここでヤコブに約束した「その土地」とは地上のカナンという意味以上の「神の家」であったのです。
私たちは主イエス・キリストのご復活によって、「我が本国は天にあり」との希望の信仰を与えられております。究極の本国は天にあります。けれども、主は「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われてますように、この究極の神の家・天の御国は、今私たちが生かされてこの地上において、「神が私たちの間に天幕を張って住んでくださっておられる」ように、もうすでに形づくられているのであります。この主の救いの希望の約束を信じながら、私たちも地において共に励まし合い、祈り合いながら命の旅路を共に歩んでまいりましょう。
先週は夏季休暇を戴き、家族で福岡・北九州の郷里に帰省しました。火曜日には久山療育園ワークキャンプに部分参加し、街頭募金やワーク、入所者の方々とのふれあいの時を持ちましたが。入所者の方々もわりあいご高齢の方が多く、実に今日に至るまでご家族をはじめ多くの方々の善意と献身があり、主イエスの「共に生きる福音」がこの活動を支え続けているということを思わされました。又、24日の日曜日には新会堂が完成したばかりの東八幡バプテスト教会で第一回目目の最初の礼拝に与ることができました。ホームレス状態にある方々の支援を長年に亘り取り組んでこられた教会ですが。ここも又、連盟諸教会のつながりや支援が共に生きて働き、主の福音に基づいた尊い働きがこうして実を結んでいるのだな、と思いました。
さて、本日は創世記28章の「ヤコブの見た夢」の箇所から、「帰るべき家あり」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
アブラハムに与えられた祝福はその子イサクに受け継がれ、イサクはその双子の子どもの兄であるエサウに継承しようといたします。しかしその祝福を弟のヤコブが母リベカの言うままになし、奪い取ってしまうのです。
兄エサウから祝福をだまし取ったヤコブは、兄エサウに憎まれ命を狙われるようになり、故郷カナンの地から700キロはゆうに離れた遥か遠いハランの地、そこは母リベカの兄弟のいる地でしたが、そこに逃亡せざるを得なくなるのです。もとはといえば、それは父イサクがエサウを祝福しようとした時に、ヤコブが兄エサウになりすまして、兄から祝福を奪ったことから生じた結果でありました。
兄からの復讐を避けるために旅立ったヤコブの身なりは、杖一本だけであったということですから(32:10)、彼はもはや自分がかすめ取った祝福を失ったと思ったに違いありません。この時のヤコブにとって神の祝福とは、父祖アブラハム、そして父イサクから受け継ぐところの土地、家、財産そのものであったからです。そんな失意と不安のうちに道行くヤコブが、11節「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つとって枕にして、その場所に横たわった」と、道端で野宿するのであります。
当時の旅人は、町の住民の家に泊らせてもらいながら旅を続けたのですが、金銭もなかったのでしょうか、あるいは兄エサウに見つかることを恐れたのでしょうか。でもそれは、自分が父をだまして兄の祝福を奪い取ってしまったからです。後悔もあったかもしれません。失ったものが大きすぎました。灯り一つない道端彼はどんなに心細い思いで野宿をしたことでしょう。季節はいつ頃であったのか定かではありませんが、日昼の暑さとは対照的に凍てつくような冷え込みで、地べたは氷つくほど冷たくなっていたことでしょう。毎年越冬支援の夜回活動が大阪市内で行われていますが。1月から2月にかけて一番寒さの厳しい時期に路上で寝泊まりをされている方々にとって心配なのは、コンクリートの地面に寝て凍死されることです。地面に寝ている方を見つけ出しては、まず段ボールを敷くように手渡し、毛布のない方には毛布を渡していきます。その方々お一人おひとりにもそうせざるを得ないそれぞれの事情がおありなのでしょう。
ヤコブは柔らかな枕でなくゴツゴツとした固い石を枕に、地面に横たわって寝るほかありませんでした。
そうしたところ、ヤコブはその夜夢を見ます。
それは「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかもその階段を神の御使いたちが上ったり下ったりしている」そんな夢でした。天と地をつなぐ階段。それは天の神さまと、地のヤコブをつなぐ階段であります。神の使いたちがその間を行き来している。それはヤコブがこのような状態にあったとしても、「決して忘れられてはいないのだ」「見捨てられてはいないのだ」ということを物語っていました。
この階段と訳される原語の元は「梯子」を指すそうですが。時折礼拝にお見えになられるSさんは長年商船関係の会社にお勤めになっている折、海外を行き来するそのどの船にも「ジェイコブラダー」(ヤコブの梯子)という名の縄梯子見かけたそうです。特に何かの為に使うものではないようですが。しかし、そこには、恐れや不安が伴う長い船旅にあって、いつも天と船上をつなぐ神の守りがあることを祈り願って置かれているものなのでしょう。
いつ野獣が襲ってくるかも分からない荒れ野。家もない、屋根もない、布団もない、暖かい家庭の団欒もない、荒れ野で横たわるヤコブ。又、大海原で高波や嵐におびえ、逃れようのない船上で祈るほかない船乗りたち。そして、私たちも又、時にそのような如何ともし難い状況に身を置くほかない事があるでしょう。けれどもそんな私と天を結ぶ梯子がある。
13節「見よ、主が傍らに立って言われた。」
「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」この主の約束はどんなことがあっても決して変わることがないのです。
そうして、眠りから覚めたヤコブはこう言いました。
「まことに主(神)がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」
主が共におられる方であることに目が開かれる時、それは平穏で何事もないような時よりも、むしろ逆境の中で石の枕に涙するような時なのではないでしょうか。自分にとって最低と思えるようなところにまで落ち、身も心もボロボロになり、孤独と不安の中におかれるヤコブ。そのような辛い思いをしているヤコブであるからこそ、「わたしはあなたと共にいる」「あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」「あなたを決して見捨てない」との神さまの臨在に気づいたのではないでしょうか。
さらにヤコブは恐れおののいてこう言いました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」
ヤコブが言った「天の門」とは、文字通り神さまがおられる天に通じる門のことですが。今日は特に、ヤコブがここで「神の家」と言ったこの言葉にこだわってみていきたいのです。「神の家」と言えば、普通教会堂とかの建物が思い浮かびますけれども、しかしここではそういった物理的な建物のことではなく、神さまが今ここにおられる、生きて働いておられる所を言っているんですね。それも今日の聖書は、人間として何もかも失い、どん底といえるような状況、不安や恐れ、孤独の殺伐とした心の荒れ野のただ中に、神はおられる。ここが「神の家」だ、と言うんですね。
ヤコブが神の臨在に畏れおののいたその畏れというのは、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」という驚きから引き起こされたものでありました。ヤコブはその驚きと畏れを、この険しい荒れ野の途上で見出すのであります。
今日のこの「神の家につながる」とのエピソードを読む時、新約聖書の御言葉を思い出しました。それは、ヨハネ1章14節の神の子イエス・キリストの受肉の出来事を伝える御言葉であります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「言」というのはイエス・キリストであります。「神が罪深い私たちの間に宿って下さった。」この「宿る」というギリシャ語は「テント(幕屋)を張る」という意味です。つまり、神さまは罪深い私たちの間に来て天幕を張り、いつまでも共に住んでくださる「神の家」となってくださったのであります。それを「受肉」と申しますが。
神の御独り子イエス・キリストは人となって私たち人間の苦しみ、悩み、悲しみ、痛み、孤独をすべて負われ、十字架の処刑場に至る最期の時まで、罪深い人間を愛し抜き、共に生きる道を貫き通されて、死を遂げられた。その主イエス・キリストによって、私たち人間の深い罪は贖われ、救いの道が開かれたのであります。
ヨハネはそのくすしき神さまの御業について、「わたしたちはその栄光を見た」と言い表しました。それは、ヤコブが荒れ野という身も心もすさみきっていたその所に、神さまが共におられる、という驚くべき臨在を知らされた時、彼が畏れおののきながら「これはまさしく神の家である」と言った言葉と共通する響きを持っているように思えるのです。
今や私たちは救い主イエス・キリストというまさしく「神の家」に住まいを得ているこの幸い。「そうだ。ここは天の門だ」と、それを見出した幸い。その驚きと畏れをもって今日もこうして礼拝を捧げているのであります。
主はヤコブに「必ずこの土地に連れ帰る」と約束されますが。それヤコブの生まれ育った地カナンを指します。地上の故郷というものは、私どもにとって生まれ育った場所であり、懐かしく大切なものです。今の生活も生きる上で大切なものであります。しかし、主がここでヤコブに約束した「その土地」とは地上のカナンという意味以上の「神の家」であったのです。
私たちは主イエス・キリストのご復活によって、「我が本国は天にあり」との希望の信仰を与えられております。究極の本国は天にあります。けれども、主は「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われてますように、この究極の神の家・天の御国は、今私たちが生かされてこの地上において、「神が私たちの間に天幕を張って住んでくださっておられる」ように、もうすでに形づくられているのであります。この主の救いの希望の約束を信じながら、私たちも地において共に励まし合い、祈り合いながら命の旅路を共に歩んでまいりましょう。