日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

一緒に喜ぼう

2012-01-29 13:39:09 | メッセージ
宣教 ルカ15章1~10節 

本日はルカ15章1~10節から非常によく知られる「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえから御言葉を聞いていきます。本日は読まれませんでしたが、15章にはもう一つ「放蕩息子」のたとえが記されています。それらのたとえ話は、15章の冒頭にありますように「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。その事に対してイエスさまがなされたたとえ話であります。

① 迎える
まず、注目したいのは、徴税人や罪人たちを迎えられるイエスさまについてであります。
この「迎える」という事については、9章の「五千人以上の人々に食べ物を与えられた」記事からもお話いたしましたが。そこでイエスさまは、「さまよう群衆の一人ひとりを迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた」という事であります。又、先週は10章の「マルタとマリア」のお話から「必要なことは唯一つ」という宣教をいたしましたが。マルタとマリア。それぞれスタイルは異なりますが、マルタが成したことは、「イエスさまを家に迎え入れる」のです。そのようにルカによる福音書は、「迎え入れる」、又「迎え入れられる」という事について、かなり意識的に語られているということが分かります。
さて、そのような「迎え入れる」ということをどこか心に留めながら本日の二つのたとえ話を読んでいきたいと思います。

最初の「見失った羊」のたとえでは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われます。言うまでもなくこの羊飼いとは主ご自身のことであり、羊たちは主の前にあるべき人々のことです。そして羊飼いが見失った一匹とは、本来神の民の一人でありながら、罪人として生きる人、生きざるを得ない人々のことであり、見つけ出された羊とは、悔い改めの心をもって主イエスと食卓を共にした人たちのことであります。
ここに、見失った羊を見つけ出すまで捜し回るとありますが、この言葉に、一人の罪人が悔い改め神の前に立ち返って生きる。それをどこまでも追い求める主イエスの執念といいますか、強い意志が示されています。それは飼うもののいない羊のような群衆を見つめ、断腸の思いで涙された、あの主の愛であり、慈しみであります。

さて、5節を読みますと、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と言われています。イエスさまは「罪人とされる人たちを迎えて、食卓を共にされ」ました。神の前に失われていたが、見出された人と、その喜びを一緒にするために人々を家に呼び集め、迎え入れ祝ってくださる。私たちの主はそのようなお方なのであります。

ここで「罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九十九人の悔い改める必要のない正しい人たちであるでしょう。百人のうち九十九人もの人が正しい人であるなら、罪人の一人くらいどうでもいいじゃないか。それが世界のある意味合理的で常識的な考え方かも知れません。
しかし、百匹という羊を託されていた羊飼いにとって、その一匹の価値は非常に大きなものであったのです。であれば、一匹でもいなくなったとなればこれは一大事であったに違いなかったでしょう。そして、その見失った羊を捜し回って見つけたとしたら、それはさぞかしホッとし、ほんとうにうれしかったことでしょう。

次に、「無くした銀貨」のたとえですが。イエスさまは「ドラクメ銀貨10枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われます。ドラクメという銀貨の単位は聖書の後ろの付録表によれば一デナリオンと同等の額で、この時代のほぼ一日分の賃金に相当するということであります。まあ、それは確かに貴重なものであったとはいえますが。しかし、その女性が九枚の銀貨が当座あって食べて過ごせるのに、ともし火をつけ、わざわざ家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す必要がどこにあったのでしょうか。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、ありますようにそこまでどうして大袈裟に喜ぶのか不思議に思えます。
 それは、多分その銀貨は彼女にとって十ドラクメでないといけなかったということを示しています。九ドラクメであっては意味をなさなかったということかも知れません。
注解書などを読みますと、「この10ドラクメは女性が嫁入りのために備えていたものであり、首飾りか頭飾りであった」とも記されていました。つまり、その一枚でも無くしてしまったなら、大変なことでそれ自体の価値がなくなるということです。だから彼女はもう真剣に一枚の無くした銀貨を捜し回ったということです。
私は以前、お腹がすいてコンビニに食べ物を捜しに立ち寄ったところ、が、財布の中を見るとあと十円あればパン一つなりと買えるのに、その十円足りないがために買う事が出来なくてお恥ずかしい話ですが、ガッカリして帰宅したことがありました。みなさまも買い物をした時、あと十円、あと百円、千円足りなくて困った何てことないですか。百円ショップの商品は、消費税分の五円がなければ手に入れることはできません。あと五円ないと必要な百円の商品は買う事ができないのです。その場合のこの五円って本当に重たくて、価値あるものになりますね。

この一枚の銀貨を無くしたこの女性にとって、その一枚の銀貨はなくてはならないものであり、それは又残りの九枚の銀貨にとっても必要不可欠なものであったという事でしょう。
そして、この一枚の無くした銀貨を見つけた時の彼女の喜びは本当に大きいものでした。「友達や近所の人々を家に呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、イエスさまは先のたとえと同様おっしゃるのです。
主の前に私たち一人ひとりがこの貴重な一枚の銀貨であり、主の前に失われてはならないかけがえのない存在であるということをこのたとえを通して主イエスは語っておられます。

② 一緒に喜ぼう
以上、イエスさまがファリサイ派の人々や律法学者に話された、「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえを見てきました。
「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、徴税人や罪人を裁き、イエスさまに不平を言った彼らに対して、イエスさまは「一緒に喜ぼうではないか」と招いておられるのです。実はその彼らも真の羊飼いであられるイエスさまの御救の中におかれた者たちであり、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九枚の銀貨として見なされているということであります。そして、見出された一匹の羊も一枚の銀貨も、そのかけがえのない主の宝の民であるのです。見失った一匹の羊、無くした一枚の銀貨が主によって見出されることによって、悔い改める必要のない彼らの存在自体もほんとうに価値ある者とされるのです。だからイエスさまは、「一緒に喜ぼう」とおっしゃったのです。

③ 悔い改め
最後に、この2つのたとえの終わりのところに共通した言葉が語られています。それは「悔い改める」ということであります。その「悔い改め」ということについて触れて本日の宣教を閉じます。
聖書に「義人は一人もいない」とありますように、本来、失われた者としての人間は、自分の力や業によって神さまのもとへ立ち返ることはできないものです。そこに人間の弱さと無力があります。そういう中で、主は「悔い改め」についてお語りになります。
「ああ、あんなことしなきゃあよかった」「悪い事をしてしまった」。そのような後悔の念を持つことはどなたもあるでしょう。しかし聖書のいう悔い改めは、そうではありません。
それは主の前に立ち返ることであり、主のもとに向き直る、主に向かって方向転換することであります。そしてそれは勿論、人の力や思いだけで出来ることではありません。
11節からの「放蕩息子」のたとえにあるように、人が「我に返って」父のもとに立ち返ろうと思った時、そこで両手を広げ、待っていて、走り寄り抱きしめて、接吻してくださる、ということが起こりますが。しかしその悔い改めの本質は主ご自身にあるのです。
「どこまでも失われた者を捜し、見出される主」。その主ご自身によって、人は本当の悔い改めへと導かれるのであります。
私たちは唯その主に全幅の信頼をもって、委ね切り、かけがえのない者として見出された喜びを持って、今日、唯、イエスさまの十字架のみ業によって主に見出され、赦され、喜びのうちにおかれている私たちであることを、あるがままで受け入れていく。それが私たちの「悔い改め」でありますその喜びを一緒にする。喜び合うところに神の国があり、教会があるのです。主を心から讃美いたします。
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必要なことは唯一つ

2012-01-22 11:40:48 | メッセージ
宣教 ルカ10章38~42節 

本日もまた先週に引き続き、ルカ10章からこれもよく読まれています「マルタとマリア」の記事より、「必要なことは唯一つ」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は「善きサマリア人」のたとえ話を読みました。イエスさまは、永遠の命を受け継ぐ者とされてゆくため大切なこととして、律法の書に書かれてある「主なる神を愛する」こと、又「隣人を自分自身のように愛する」ことの実践を説かれました。これはこの二つの律法が、切っても切り離せない関係であることをお示しになられたのであります。主イエスは別の個所において、この2つにすべての律法と預言者とがかかっているともおっしゃいましたが、本日の「マルタとマリア」のお話も実は「主なる神を愛する」事と「隣人を自分のように愛する」事について語られており、その中で主は「必要なことは唯一つである」と語りかけておられるのです。

① マルタ
まず、本日の箇所の始めに、「マルタという女がイエスを家に迎え入れた」とあります。
マルタはイエスさまのことをとても大事なお方として、大切にもてなしていこうとするのです。先々週の「5000人に食べ物を与えられた」記事で、イエスさまはどこまでも後を追ってくる「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」という記述がありました。そのイエスさまの人々を「迎える」お姿の中に、神と人とに仕える尊さを教えられます。
そしてこのマルタもまた、心からイエスさまを迎え入れ、もてなしをなしていくのです。
それは本当に尊い奉仕であり、働きであったといえるでしょう。何よりもマルタ自身、唯イエスさまに心を向け、唯イエスさまのために奉仕するということに喜びを感じていたのです。そしてイエスさまは彼女のその思いを快く受けてくださったのです。
ところが、です。マルタは自分がせわしなく立ち働いているにも拘わらず、「妹のマリアがイエスさまの足もとに座って、その話に聞き入っていた」ことに憤慨するのであります。
「聞き入っていた」というのですから、もうマリアはイエスさまの前にずっと座り込んでいたのでしょう。そして周りの事など全く気にするような気配すらなかったのでしょう。その間「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」というのですね。
私はマルタさんがさばけていた人でわりと忍耐強い人なのかという気がします。心の中で「マリアそろそろ手伝って」「ほら、こんなに忙しいの」「いい加減こっちに来て」と思いながらバタバタしているうちに心を乱し、遂に堪忍袋の緒が切れてしまったのか、という気がします。「忙しいなあ」と思った時に、そっとマリアのところに行って「ちょっと一人じゃ無理だから手をかして」と言えば、そんなにカッカとならなくて済んだのかも知れません。しかしもはや平静を保てなくなったマルタは、つかつかとイエスさまのそばに近寄って行き、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるようにおっしゃってください」と不平をいってしまうのであります。マルタは始め大切なお方としてイエスさまを迎え入れ、唯イエスさまのために奉仕する喜びの気持ちでいっぱいでした。ところが、次第に、じっと何も手伝おうともしないマリアの態度が許せなくなったのです。そして最後には、大切なお客様であるイエスさまに対して、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と裁きの言葉に同調させ、さらに、「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と、指図するのであります。喜びあふれて主を迎え入れ、奉仕していたマリアの姿は一体どこへいってしまったのでしょう。

②「必要なことはただ一つだけ」
イエスさまはそんなマルタにお答えになります。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

ここで、イエスさまは頭ごなしにマルタを否定し、咎めるようなことはされていません。
「マルタ、マルタ」よ、と実に彼女に対して優しく丁寧に呼びかけ、彼女の陥っている現状について、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と明らかにされ、「必要なことはただ一つだけである」と、諭されるのです。そして、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われます。

このイエスさまのお言葉に想いを深め、味わってみましょう。
ここでイエスさまはマルタに「必要なことはただ一つだけである」と言われ、又「マリアは良い方を選んだ」とも言われています。本日の箇所でマリアは一言も発していませんので、その思いを計り知ることはできませんが。マリアにとっては、きっと今この時しかないというタイミングでイエスさまが来られたのではないしょうか。それまで真剣に、又必死に主の御救いを求め、このイエスさまに期待していたからこそ、唯ひたすらに彼女は主の足もとに座って、その話に聞き入ったのです。ですからイエスさまが弁護されたように、彼女にとって「主の御言葉に聞く」そのことが必要不可欠であり、何人もそれを彼女から取り上げてはならないものであったのです。

では、マルタの場合どうでしょう。
まあ、多くのことに思い悩み、心を乱しているマルタに対して主は、「マルタよ、あなたも主の御言葉をまず聞くことが必要です」と、読めなくもないでしょう。けれども、イエスさまはそのような事は一言もおっしゃらないで、「必要なことは唯一つだけ」とおっしゃるのです。
始めにも触れましたが、今日の箇所の最初のところで、「マルタが、イエスを迎え入れた」。このマルタが、主イエスを心から迎え入れ、主イエスのために喜んで奉仕していくその姿勢こそ、マルタなりの喜びや感謝の表現であり、ある意味礼拝であったのです。そういうマルタの「もてなし」や「給仕」の奉仕が、喜びと感謝をもってなされる事を、主もお喜びになられたのでありましょう。

では、彼女の何が「唯一つの大切なこと」からずれてしまったのでしょうか?
それはマルタの唯主のためにという奉仕が、いつの間にか自分の思い通り、願い通りのものとなってしまった、ということです。その結果、自分を手伝ってくれないマリアを責め、マリアの主の御言葉を聞くという「唯一つ必要なこと」をも取り上げようとしたのです。
唯主のために仕えていたマルタ。しかし彼女の心はいつしか、あれもこれもと、いろいろのもてなしのことでいっぱいになって、不平不満が頭をもたげ、遂にマリアを裁いてしまうのです。
奉仕も給仕も、自分はこれだけのことをやっているのに誰も動こうとしない、手伝ってもくれないという苦い思いが沸いて来たマルタは、自分のやり方が正しくて、自分のしていることこそが一番重要だという思いに陥ったのです。それを何とイエスさまに同調を求め、マリアに強要しようとしたのです。マルタはイエスさまの上に立って裁いているのです。もはや彼女は自分も自分のしていることも見失ってしまうのです。

しかしどうでしょう、このような過ちは私たちも犯し得るのです。主に奉仕しているのに不平や不満を言っている私たちがいないでしょうか。そして人を傷つけ、自分のしていることが正しく認識できない状態に陥ることがあります。
主とその御救いを愛し喜ぶ。喜びがあふれ隣人とそれを分かち合う思いへと招かれる。主に捧げる心で隣人をもてなす。それが奉仕の黄金律です。そのバランスが崩れる時、不平不満が起こってきます。もしそうなったなら、一呼吸置く必要があるかも知れません。なぜ、私は苛立っているのか?ある場合は奉仕の負担が大き過ぎるのかも知れません。体調のこともあるかも知れません。そんな時は「助けて」と声を発して可能な人に助けてもらえばよいのです。又、主への感謝や喜びが損なわれているなら、その時にこそイエスさまのお言葉どおり、「必要なことは唯一つ」と、どっしり構えて御言葉に聞くことが必要です。
何につけ、主はすべてをご存じであられるという信仰がそこにあれば、大抵のことは感謝を持ってお捧げできるものです。まず何よりも主に信頼し、事の大小によらず心を込めて主に相対する・相見えるということ、そのことがマルタに、そしていつも心揺れ動く私たちにも示されているのであります。

③「礼拝と奉仕」
私たちにとってこの礼拝は、生きていくためになくてはならない必要不可欠な時であります。もちろん家庭や個々人において祈り、御言葉を読むことも大切ですが。しかしこの主の御体である教会にあって共に主に向き合い、喜びと感謝をもって主のみ前に座り、私に語られる主のメッセージを聞き取り、受けとっていくことは、何ものにも替え難い必要なもの、なくてはならないものであります。その点において私たちも又、マリアのようでありたいと願います。同時に、この礼拝は宣教や司式をはじめ、奏楽、献金、朗読、受付、託児、清掃、会場の設営、又祈りの執り成しなどの奉仕者によって成り立っていることにも心を留めたいと思います。それらの奉仕に気づいたなら、「ありがとう」と労う一言も奉仕者の励みにもなるものです。見えない奉仕は主ご自身がお報いくだいます。
礼拝はワーシップ「主を賛美する」とサービス「奉仕する」という意味を持っております。この点においてマルタのもてなし(スチュワードシップ)の心を共有していきたいものです。本当に、私たちのこの礼拝が、心から主を賛美し、心から奉仕するものとなるよう共に造りあげ、喜びと感謝を主にささげるものとなりますように。そこに主の豊かな祝福が必ず伴うはずであります。
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隣人となる

2012-01-16 17:41:03 | メッセージ
宣教 ルカ10章25~37節 

本日はルカ10章の「善きサマリア人のたとえ」話より、「隣人となる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

①「永遠の命」を巡る問答
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスさまを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけたとあります。それはイエスさまがどんな答えをされるか、ちょっと試してみてみよう。またその受け答えによっては自分の律法の知識で論破してやろうと考えていたのか。まあ定かではありませんが、とにかくイエスさまを試したというのです。
ところが、イエスさまは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問い返され、そこで律法の専門家は逆にイエスさまに試されることになってしまうのです。彼は「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。
それはまさに神の律法の書に記された教えであり、それがたとえ律法学者でなくてもユダヤ人であれば答えられるような模範解答でした。イエスさまもユダヤ人として育ちその教えの重要さをよくご存じであられたことでしょう。

イエスさまはその律法の専門家の答えに対して、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいます。イエスさまはここで、「正しい答えだ」と言われるのですが、「よくできた」といわれません。「それを実行しなさい」と言われます。
そのいのちの言葉を、知識としてではなく、実行ある行いとしてなせと、御言葉に自らをかけて生きるように促し、勧められます。

よく「言うは易く、行うは難い」と言われるように。教えを知っていることが、そのように生きることに繋がらなければ、又努めなければ虚しいという事でありましょう。イエスさまは、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」との問いに対して、それを行うものとなるように勧められます。
このイエスさまの勧めに、彼はあげ足を取られたようで悔しかったのでしょう。自分の立場を正当化するために、「では、わたしの隣人とはだれですか」と、イエスさまに問い返します。
彼には「隣人を愛することなど当然のことだ、言われなくともやっている」と、そういう思いがあったのでしょう。ちなみに、この隣人(プレシオン)とは、すぐそばの人、自分の身に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友などを表しています。

そこでイエスさまは、「わたしの隣人とはだれですか」との彼の問いかけに答える形で、「サマリア人のたとえ話」をなさるのです。

② なぜサマリア人か?
イエスさまはなぜ、この話にわざわざサマリア人を登場させたのでしょうか。
それはサマリア人がユダヤ人から忌み嫌われていた人々であったからです。律法の専門家がなした「わたしの隣人とは誰ですか」という質問の背景に、彼自身の思いや考え、好みで「あの人は隣人、あの人は隣人ではない」と線引きしたり、色分けしたり、優劣をつけていくような思い込みがあったことをイエスさまは見抜いておられたのです。だから、ここでわざわざサマリア人を登場させておられるのです。

では、このたとえ話を少し丁寧に見ていきたいと思います。
たとえに出てくるエリコは、エルサレムから下ってヨルダン川の西側にあり、谷沿いの殺伐とした荒れ地でありました。現在では道路も住居も整備され、アパートのようなレンガの住宅が建ち並んでいるパレスチナ地区となっております。まあ、イエスさまの時代にエリコといえば殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、追剥に襲われるようなこともあったということです。

たとえに出てくる追剥にあった人。これは律法の専門家と同じユダヤ人と考えてよいでしょう。その傷つき路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかりますが、彼らは道の向こう側を通って行きます。
彼らはそれぞれ神に仕える身でした。助けを必要とする同国人、又同信の隣人に手を差し伸べることは、わけても神に仕える者にとって律法に適う行動でした。「自分自身のように隣人を愛する」との律法を知らないはずありません。何て無関心で無情なのか。偽善者なのか。私は青年時代の頃はそう思っていました。
しかし後々分かったことは、追剥が行き倒れの旅人を装って人を襲うようなこともあるということ、又彼らは仮に旅人が亡くなっていても、もし死体に触れたとなれば、ある期間神殿での務めを行う資格を奪われることになりかねなかった、等。つまり関わろうとした彼ら自身が身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったということです。果たしてリスクを冒してまで関わることができるだろうか? そう考える時、彼らを責めることはできない自分自身の弱さと罪深さを思い知らされます。

③「善いサマリア人」との出会い
さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。
このサマリア人とはどういう人々なのでしょう。かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、サマリアは北イスラエル王国の主要都市であったのです。しかしその都市の崩壊後、多民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じました。以来、ダビデの子孫といわれるユダヤ人から、サマリア人は神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼ばれ、罪人のように見なされてきたのです。ユダヤ人はサマリア人の先祖の犯した罪が子子孫孫にも及ぶものとして、彼らを見下し、交わりを絶ってきました。イエスさまのこの当時も、ユダヤ人とサマリア人の間には、もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、その敵意と対立の壁、強い確執が続いていたのです。

そのような現状の中で、イエスさまはこのたとえ話に「サマリア人」を登場させ、こともあろうに傷つき倒れていたユダヤ人を助け、介抱させるのです。
このたとえ話が、律法の専門家にとって衝撃的だったのは、傷ついた同胞が同じユダヤ人から見捨てられるが、常日頃から「汚れた民」「異教徒」「罪人」と見下し、侮蔑していたサマリア人から助けられる、ということです。
常識的に見れば、サマリア人はこの傷つき倒れていたユダヤ人に対し、「ざまみろ。それみたものか」と憎悪の念をもって素通りしてもおかしくありません。けれどもこのサマリア人は、傷つき倒れたユダヤ人を見て、憐れに思い、自ら危険を侵し、又身銭を切り、時間を割き、出来得る限りのことを行って介抱するのです。
この「憐れに思う」とは、「お気のどくに」というような、上から目線のものではなく、「憐れみ」という原語の由来は、はらわたが引き裂かれるような痛みを持つ、ということです。先週礼拝の宣教聖書個所にも出てきましたね。ご自分の後を追って来る群衆を主イエスは断腸の思いで深く憐れみ、彼らをお迎えになった。このサマリア人は、もはや傷つき倒れた人が何人とか、誰であるとか関係なく、唯々、断腸の思いでその人の痛みを自分のものとして感じ、自らのリスクを顧みず介抱したということであります。
サマリア人はユダヤ人から汚れた者、異教徒と呼ばれ見下され、侮蔑されてきました。
いわばその屈辱や痛みをずっと持って生きてきたのではないでしょうか。しかしそれだからこそ、追剥に襲われ、さらに同胞からも見捨てられた惨めなその人の痛みを、まるで自分のことのように受け、はらわたが引き裂かれるほどの思いにされ、放っておくことができなかった。介抱せずにいられなかったのではないでしょうか。

さて、追剥に襲われたこのユダヤ人でありますが。彼にとって切なくいたたまれなかったのは、追剥に襲われた事も勿論そうでしょうが、これまで同胞・同信であった祭司やレビ人たちが、倒れている自分を避けるように通り過ぎていったということであったでしょう。
しかし、彼はそこでこのサマリア人と出会い助けられることで、今まで持っていた価値観や思い込みによる差別意識や憎悪の念が覆されたのではないでしょうか。彼はこのことを通して真の隣人を得るのです。

ここにはサマリア人が傷つき、倒れた人を介抱する様子が細やかに語られています。それらの一つひとつの行為は、具体的なものであり、配慮と献身とに満ちています。
それはまさに、主イエスがガリラヤでの伝道において、傷ついた人、病んだ人、差別や抑圧された人と出会い、いやしと解放の業をなし、神の国を伝えていかれたお姿、、、そして最期には十字架上でその尊い命の犠牲を払ってまで、罪深い人間一人ひとりをゆるし、愛し抜いて救おうとしてくださったイエスさまご自身のお姿がそこに示されています。

④ 終わりに
本日は「隣人となる」と題し、御言葉を聞いてきました。
これは、旧約聖書・レビ19章18節の「自分自身のように隣人を愛しなさい」との、律法からのお話であります。そしてこの教えは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(申命記6章5節)との教えと共に最も重要な教えであり、永遠の命に通じる道であるとされています。神を愛すること、と隣人を愛することは切り離すことのできない教えであり、主によって救われている者すべてがここに招かれているのです。主イエスは「律法と預言者とがこの教えにかかっている」と言われました。
イエスさまの「誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか」との問いかけに、「その人を助けた人です」と答えた律法の専門家。「サマリア人です」と言わないところに、彼の頑なさが見え隠れします。イエスさまはそんな彼をさとすように言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい」。

私たち自身、主と出会う前迄は、罪にさまよう者、又望みなくあの傷ついた者でした。
主はそのような私たち一人ひとりを、はらわたが引き裂かれる痛みを持って憐れまれ、寄り添って、いやしと真の救いを与えてくださるお方であります。主はその私に、「行って、あなたも同じようにしなさい」「隣人となりなさい」とおっしゃるのです。
自ら痛みを知る者だからこそ成し得る業があります。隣人となる。イエスさまは十字架の痛みをもって私たちの隣人となってくださった。
Ⅱコリント1章4節の使徒パウロの言葉を味わってみましょう。
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めて下さるので、わたしたちも神から頂くこの慰めによってあらゆる苦難の中にある人々を慰めることが出来ます。」
この主の愛を携えてゆく豊かな人生の旅路を共々に歩んでまいりましょう。
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分け合う豊かさ

2012-01-08 11:46:00 | メッセージ
宣教 ルカ9章10~17節 

本日はルカ9章の「5千人に食べ物を与えられた」記事より、「分け合う豊かさ」と題し、み言葉を聞いていきます。ちなみに、この物語はマタイ14章を見ますと、バプテスマのヨハネがヘロデに捕えられ殺されるという殉教の後、にわかに主イエスと弟子たちに迫害と危険が及ぶ緊張感の中で、この「5千人に食べ物を与える」という出来事が起こったことになっていますが。今日のルカ9章では、主イエスが12人のお弟子たちを神の国を宣べ伝えるために派遣するという大きなテーマの中で、本日のこの事柄が書き記されているのであります。ですから、主イエスの弟子として如何にあるべきか、主イエスに遣わされるとはどういうことか等を、私たちはこの記事から読みとることができるのです。

①「迎えるということ」
この「5千人に食べ物を与える」物語からまず示されていることは、「主イエスが切なる求めをもってどこまでも追ってくる人々を迎えられた」ということであります。イエスさまは10節にあるように「弟子たちを連れ、自分たちだけでベトサイダの町に退かれた」とありますから、かなりご自身もおつかれになられていたのでしょう。
にもかかわらず、自分たちの後を追って来た「人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」というのです。イエスさまがそこまでなさったことについて、マタイ14章には「彼らを深く憐れまれた」からだとあります。この憐れみとは単なる可哀そうというような同情ではなく、へブル語でヘセド、すなわち「断腸の思い」をするということであります。群衆一人ひとりの切なる求めと痛み、疲れたその姿に触れ、腸が引きちぎれるような思いで彼らを迎えられた主イエス。私たちの救い主がこのようなお方であられるというのは、大きな慰めであります。

さて、そのイエスさまと対照的なのはお弟子さんたちでした。彼らは日が傾きかけたので、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう」とイエスさまに申します。きっと弟子たちも疲れのピークで、早く群衆との関わり事から解放されたかったんだろうと思います。まあ弟子たちは自分たちの食物や宿のこともあるのに、そこまで人の事など考えられず、もうそろそろ群衆を解散させて、ということであったでしょうが。しかしそのような思いは私たち自身のうちにも起こってくるものですし、よくわかる気がいたします。

このイエスさまが「人々を迎え入れた」ということを考えるとき、いろんな思いを私は抱きます。この天王寺という場所に住んでおりますと、いろいろな方が教会に訪ねて来られます。そして時々、「地方から来てお金を盗られ大変困っているので、当座を凌ぐためにお金を貸してほしい」という方もおみえになります。どのような方にも「金銭を渡すことはできないんです」とお断りする時に、心が痛むことが確かにあります。あの人は騙すためでなく、ほんとうに困ってここに来られたのかもしれないと。でもお金を渡す事はしてはいけないと、、、本当にすっきりしない気持ちになって悩むこともあります。イエスさまだったら、ほんとうにどうなさったんだろうか?と思わされます。
使徒言行録3章のところに、使徒となったペトロとヨハネが足の不自由な人に物乞いをされる場面があります。ペトロは「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。するとその人は「歩き回り、躍ったりして神を賛美した」ということです。
しかし私たちに出来ることは本当に小さなことです。目の前にいる群衆の前におかれた五つのパンと2匹の魚。それが一体何になるんでしょうか。お金が必要な人にわずかな食事とお話を聞いて祈ること。それが一体何になるのか?しかしそれでも主イエスはこの出会いの中におられる。必ずおられる。そこに私自身救いを得るのであります。

又、これは教会や礼拝において人を迎えるということについてでありますが。主の日の礼拝は私たちにとって最高の喜びの日であります。主の救いの恵みを新たにする日であり、神の民とされたことを感謝する日であります。礼拝への期待と喜びをもって主の家に集う時、そこに賛美と祈りに満ちた豊かなみ霊の交わりが起こります。それは主イエスの祝福により開かれる霊的食卓の場であります。そこに一人一人が小さな証しを持ち寄り、喜びをもってもてなし合います。新来者や求道者を迎え、祝福を分け合う豊かさ、喜びと楽しさがあります。
先週の祈祷会の日。息子が病院に行っていまして、その帰りしなに母親が、「このまま町に行く?」と聞くと、息子が「いや、みんながいるから教会がいい」と言ったそうです。美味しいものなら外で食べられますが、まあ病院で心細くもあったのか、教会のみなさんのお顔を見て祈るって、子どもながらにホッとしたかったのでしょう。主の食卓を分かち合う喜びは私たちに平安を与えてくれます。今年はさらにそういった賛美と祈りに溢れ、祝福を分け合う豊かさに満ちた教会、礼拝とされますよう心から祈ります。

②「信仰をもってことをなす」
さて、イエスさまは、お弟子たちに対して、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。これにはさすがの弟子たちも驚いたことでしょう。なぜなら「弟子たちにはパン5つと魚2匹しかなかった」からです。弟子たちは「このすべての人たちのために、大金をもって食べ物を買いに行かない限りムリ」と、まあ常識的なことを言っているのです。イエスさまが望まれること、おっしゃることは、時に私たちの常識で計れないことがあります。それは世間では考えられない、私の能力では難しい、私はやりたくないというようなことも含めてです。
しかしこの記事をよく読みますと、イエスさまは弟子たちに、そんな難しいことをおっしゃってはいないのです。まず、持っているそのわずかな「5つのパンと2匹の魚」をご自分のところに持ってくるようにと言われます。そして「群衆を50人ぐらいずつ組にして座らせるように」とお命じになります。「弟子たちもそのようにして皆を座らせた」と記されています。ここで弟子たちがしたことは、自分たちの持てるものをイエスさまに差し出し、イエスさまのお言葉どおり、人々を50人の組にして座らせたということです。
弟子たちが何か特別な事をしたとか、自分たちに出来ないようなことを無理になしたということではないのです。イエスさまは弟子たちに、「出来ないことではなく、彼らに出来ること」をお命じになっているのです。お弟子さんたちが「イエスさまのお言葉どおりに聞いたことをただ行った」ということが大事なのです。
そうした時、何が起こったでしょうか。すべての人が食べて満腹したというのですね。
主ご自身が栄光を顕わし、恵みのみ業を起こして下さったのです。
それはムリ、できないと否定的なことを言った弟子たち。しかし彼らが自分の考えをひとまずおいて、その彼らがイエスさまのお言葉に聞いてただ従った時、主の霊のお働きがなされるのであります。
私たちも、自分の出来ないことをつぶやき、否定的になるのではなく、自分の出来得るる限りのものを、まず主の御前に捧げていくとき、主は豊かにそれを用いてくださるのです。そういった「主への信仰をもって」事にあたっていきたいものです。

③「痛みを伴ったささげもの」
「イエスは5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで、それらに賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」。

弟子たちが「これしかありません」といった5つのパンと魚2匹。それが「弟子たちのすべての食べ物」でした。これだけで12人が食事をしなければならなかったのです。弟子たちはそれをまずイエスさまに差し出したのです。
もしそのような場面に自分が出くわしたとしたらどうでしょうか?どうするでしょうか?まず自分たちの食べ物を確保したうえで、その余裕のある中から自分に痛みが伴わない分をとって、「これしかありません」と、普通はそうするのではないでしょうか。
イエスさまの弟子たちの「これしかありません」と、私たちの「これしかありません」という間には随分大きな開きというか、違いがあるといえないでしょうか。
ここでイエスさまが望まれたのは、「痛みを伴ったささげもの」であります。イエスさまは弟子たちが差し出したパンを「裂いて渡した」とあります。私たちの教会で持たれる主の晩餐では、予めパンが一つ一つに切られ、きれいに分けられたものを受けとっていますが。この当時のパンはふわふわとしたコッペパンや食パンのようなものではなく、平ぺったいせんべいのようなものでした。それをペリペリと裂いて食べていたのです。

イエスさまは弟子たちから差し出されたそのような「パンと魚を取り、賛美と祈りを唱えて、ぺりぺりとパン裂いて弟子たちに渡して、そして群衆に配らせた」のです。まずイエスさまが祝福してパンを裂いて、そのパンが弟子たちに渡され、今度は弟子たちから群衆へと次々に裂かれていく。そうやって分け合ったということですよね。このイエスさまの裂かれたパンは、幾つにも裂かれ、そうして分け合われていくのです。
この裂かれたパン。それはまさに、あの十字架の上で、私たちの罪の贖いのために裂かれたイエスさまのみ体を表してはいないでしょうか。飼う者のいない羊のように弱り果て、痛み、疲れた者たちの救いのため、断腸の愛をもって十字架上でみ体を裂かれた主イエス。そこにどんなに深く大きな痛みが伴ったことでしょうか。私たちはこの主の痛みをもって裂かれた命のパンに与っているのです。

さて、このようにイエスさまが裂いたパンは、弟子たちに渡され、また群衆たちにも渡され、分け合えば分け合うだけ、その裂かれたパンに与る人々はみな、豊かに満たされていくのであります。分け合えば分け合うだけ少なくなったり、目減りするということを普通考えたりいたしますが。けれどもイエスさまにあってはそうじゃないんです。分け合えば分け合うだけそれに与り、満たされる人々が増え広がり、分ける人も受ける人も豊かに満たされていくということですね。人間の常識からしてはまったく逆のことが、イエスさまの祝福によって起こるのです。
主イエスは十字架上で血を流し、み体を裂いてまで私たちを愛し抜いてくださった。
私たちはその主イエスにお返しするものを何も持ち得ません。けれども、主イエスのその愛の痛みを日々感じて生きることが大切です。そして主イエスが裂かれたご愛を賜った私たちは、その痛みを感じながら主にまず自分自身を捧げて生きる者となります。礼拝、執り成しの祈り、ささげもの、奉仕の働きをとおして、主のご愛を分かち合うように招かれています。愛と痛みの伴ったすべてのささげものは、まず主が聖別し、祝福して、人と人の交わりの中で豊かに用いられていきます。それは分かつ者、受ける者相互の祝福となるものですこの「5千人に食べ物を与える」聖書の記述は、単なる象徴としてではなく、主の愛が及ぶあらゆる世界に起こされるものであることを信じ、希望を持ってこの2012年を歩んでいきたいものです。
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少年イエス

2012-01-04 08:27:34 | メッセージ
2012年新年宣教 ルカ2章41~51節 

今年は暦のうえで丁度2012年の初日が日曜日で、主の日から1年がスタートいたしました。一年の計は元旦にありという言葉にもありますように、この主日礼拝から一年の歩みを始められるのは幸いなことであります。

本日の冒頭に「両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした」とあります。過越祭とはユダヤ教の三大祭りの一つで中でも一番大事にされている行事であります。それはイスラエルの民が神によってエジプトから救い出されたことを祝う祭りであり、エジプト人の長子と家畜の初子を滅ぼした神の使いが、小羊の血を鴨居に塗ったイスラエル人の家を過越したことにその名称の由来があります。モーセの律法の書において神は、この過越の儀式を世代に亘り守るようお命じになりました。そして子どもたちが「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねる時、「これが主の過越の儀式である。主がエジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過越し、我々の家を救われたのである」と答えるようお命じになりました。救いとみ守りはまずこの「過越の犠牲」によって始められたことを代々に亘って思い起こす日。それが過越祭であります。
ユダヤの人々はそのように、新年の最初の祝祭日を(正月)として祝っているのです。キリストも受難の前夜これを祝われ、主の晩餐を持たれました。それはすべての人々の罪を贖うための犠牲としてご自身をおささげになることを表していました。私たちのキリスト教会も又、代々に亘ってこの神の小羊イエス・キリストによる救いの過越を覚え、主の日の礼拝、又主の晩餐において祝い、賛美しているのです。
こうして新年の最初が主の日であり、主日礼拝と主の晩餐をもって始められますこと、死から命へと移された神の民としての希望を抱いてスタートできますことは、真に感謝であります。

さて、先週はクリスマス・主イエスのご降誕の記事をルカ福音書より読みましたが。その後両親はユダヤの律法に従ってイエスをエルサレムの神殿に連れて行き主にささげます。親子は主の律法で定められたことをみな終えて自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰りました。それから本日のイエスが12歳になる迄のイエスと両親の事柄についてルカ福音書には何も書かれていませんので、伺い知ることはできないのですが。本日の冒頭に「両親は過ぎ越祭には毎年エルサレムへ旅をした」と毎年一度は定期的にエルサレムの都に行きユダヤの過越祭を祝っていたようです。そして「イエスが12歳になったときも、両親はユダヤの祭り(過越祭)の慣習に従って都に上った」とあります。ユダヤ教では今でも一般的には13歳で律法の子として、まずユダヤ教の宗教儀礼を行う義務が課せられるということです。ですから両親はわが子イエスにその少し前からそれらのことに慣れさせようという思いをもってエルサレムに上ったということも考えられます。
それらの記事から、イエスは幼児期から12歳までの間、神の民ユダヤ人の子として律法や祭りごとの慣習に忠実であった両親のもとに育てられ、成長していったというであります。
福音書でイエスさまが語られた話やたとえ話などは、そういった神の律法のもとに育ったというバックボーンがあったということです。家庭、又神殿や会堂での宗教教育とその体験を重ねながら少年イエスは育ち、成長していったということです。
私たちも、いくつになっても聖書のみ言葉を生きる基盤にすえ、祈りの生活をなし、礼拝と祈祷会をささげていくことは大切なことです。このところが崩れてしまいますと、生活も崩れてしまいます。地道にみえてもこれらのみ言葉と祈りの日々、礼拝と祈祷会をささげていく中で、私たちは養われ、成長させてくださる神さまの恵みを戴くのであります。

聖書記事に戻しますが。
その過越祭からの帰りに両親がイエスを見失い、それに気づかないといった事態が生じます。44節「両親はイエスが道連れ(過越祭から帰途に向かう巡礼の一行)の中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから親類や知人の間を探し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した」とあります。まあこの当時の巡礼は家族や町の人たちと共に連れだって旅をしていたともいわれますから、両親はわが子もきっとその巡礼の群のどこかにいると思い込んで1日分の道のりを行ってしまったということでしょう。ところがまる一日経って親類や知人の中にわが子がいない一大事に両親は気づくのであります。血相を変えた両親の姿が思い浮かんでくるようです。彼らは心当たりのあるところを次々と懸命に捜し歩きながらとうとうエルサレムにまで引き返します。

そして見失ってから3日目にようやくわが子イエスを見つけるのであります。ところが心配して心配して捜しあてた当の本人、「イエスが何と神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つける」のであります。「両親はイエスを見て驚いた」。無理もないでしょう。親とはぐれてどんなにか不安で泣きべそをかいているかと思いきや、境内で律法の教師たちを相手に一人前の顔で参加し、それもど真ん中に座って議論するわが子イエス。彼を捜すのに懸命であった母の口から真先に出たのは、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのですよ」との言葉でありました。

その母の心配をよそに少年イエスはこう答えます。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。
「捜すのは当たり前じゃないか。親の気持ちも知らないで」と逆に厳しく叱りつけたくもなるのではないでしょうか。
ところが、聖書の記者は次のように言うんですね。「両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった」。
このイエスの理解し難いような言葉。しかしそれが何に対してなされたかが問題なのであります。ここで母は、「何てことをしてくれたのです。お父さんもわたしも云々」と言っていますが、彼ら両親は確かにイエスの誕生の告知の時からその誕生に至るプロセスにおいて恐れ、悩み、不安の連続でした。しかしそのイエスを神より託され与った子として受け取っていきました。そしてそれが12年の歳月の中でいつしか自分たちの肉の子として見るように変わったのかも知れません。一般的に親は愛情がなければ子を育てることはできませんし、育てる、育てられるとは愛情を育むことでもあります。ただ、12歳。今で言えば中学生位になりますと多くの子どもたちは、自立心も芽生えてまいります。ひとり立ちの日が近づいてくるのです。12歳の少年イエスも又、この旅をきっかけに自分が何者であるかを考え模索していく年令に入っていかれたのではないでしょうか。

聖書教育の青年成人科のところにあった記述を読んでみます。
「自分の子どもが成長し変化していく過程のなかで、親が戸惑いや不安を感じるときに問われるのは、子どもの素行や言動とは限りません。親が子どもに対して「当たり前」と思い込んでいる『思い込み』こそが、そこで問われているのかも知れません。それはイエスさまや神に対して抱いている私たちの『当たり前』や『思い込み』についても言えることではないでしょうか?。」
そうですね。私たちはとかく自分の思い込みや世の常識や基準といったものに囚われがちです。そして自分よりも若い人や弱い立場の人に対して、自分の思い込みや観念でもって見たり、裁くことも起こり得るのです。

さて、母マリアの場合はどうだったでしょう。彼女は「これらのことをすべて心に納めていた」とルカ福音書の記者は記しています。マリアは自分が経験した戸惑いや不安の出来ごとの意味は分からないままに、その一切を「心に納めていた」のです。彼女はそこで自分の力や知恵でもって原因究明や解決をしようとはしなかったのですね。ただ、その出来事の一切を「心に納めた」のです。
ここには記されていませんが、マリアの神にみ心を尋ね求める祈りが、み言葉に聞き従う姿がそこに示されています。私ども信仰者も、このマリアの信仰に倣う者でありたいです。

最後に、イエスさまは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前」とおっしゃっていますが。「自分の父の」というのは「天の父なる神さま」のことであります。それはマリアが母でヨセフが父であることを否定しているのではありません。現にイエスさまはこの後、「ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」と記されているとおりです。  
ここでイエスさまが何よりもおっしゃりたかったこと。
それは血縁や民族を超えた「すべてを包括したところの天の父」の存在であり、「わたしがその天の父のことがらの中にあるのは当然なのだ」とおっしゃりたかったのです。
イエスさまは、天の父のみ心を行われるためにこの世界の来てくださったのです。
私たちがどこにいようと、どのような状況におかれようと、「わたしは天の父のことがらの中にあって御父に仕えて」いかれたイエスさまに倣って、あゆみゆく者とされてまいりましょう。イエスさまが神と人に愛されたように、神と人に仕えていく者とされてまいりましょう。

今年一年が本当に主と共に歩み続ける年。主のみ業に期待と希望をもってあゆみ、そしてはっきりとその恵みを仰ぎ見ることのできる年でありたいと願います。
「見よ、新しいことをわたしは行なう。今や、それは芽生えている。」イザヤ書43章19節
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ご挨拶

2012-01-01 08:25:54 | 巻頭言
新しい2012年を迎えました。

旧年中はこのささやかなブログに目を通してくださった皆さま、ありがとうございました。
メッセージを中心に記事を発信させて頂きましたが、まだまだ発展途上であります。
今年はさらに充実したものになればと願っております。

本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
どうか皆さまのうえに、主の祝福と豊かな導きをお祈りいたします。

平安

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