宣教 ルカ15章1~10節
本日はルカ15章1~10節から非常によく知られる「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえから御言葉を聞いていきます。本日は読まれませんでしたが、15章にはもう一つ「放蕩息子」のたとえが記されています。それらのたとえ話は、15章の冒頭にありますように「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。その事に対してイエスさまがなされたたとえ話であります。
① 迎える
まず、注目したいのは、徴税人や罪人たちを迎えられるイエスさまについてであります。
この「迎える」という事については、9章の「五千人以上の人々に食べ物を与えられた」記事からもお話いたしましたが。そこでイエスさまは、「さまよう群衆の一人ひとりを迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた」という事であります。又、先週は10章の「マルタとマリア」のお話から「必要なことは唯一つ」という宣教をいたしましたが。マルタとマリア。それぞれスタイルは異なりますが、マルタが成したことは、「イエスさまを家に迎え入れる」のです。そのようにルカによる福音書は、「迎え入れる」、又「迎え入れられる」という事について、かなり意識的に語られているということが分かります。
さて、そのような「迎え入れる」ということをどこか心に留めながら本日の二つのたとえ話を読んでいきたいと思います。
最初の「見失った羊」のたとえでは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われます。言うまでもなくこの羊飼いとは主ご自身のことであり、羊たちは主の前にあるべき人々のことです。そして羊飼いが見失った一匹とは、本来神の民の一人でありながら、罪人として生きる人、生きざるを得ない人々のことであり、見つけ出された羊とは、悔い改めの心をもって主イエスと食卓を共にした人たちのことであります。
ここに、見失った羊を見つけ出すまで捜し回るとありますが、この言葉に、一人の罪人が悔い改め神の前に立ち返って生きる。それをどこまでも追い求める主イエスの執念といいますか、強い意志が示されています。それは飼うもののいない羊のような群衆を見つめ、断腸の思いで涙された、あの主の愛であり、慈しみであります。
さて、5節を読みますと、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と言われています。イエスさまは「罪人とされる人たちを迎えて、食卓を共にされ」ました。神の前に失われていたが、見出された人と、その喜びを一緒にするために人々を家に呼び集め、迎え入れ祝ってくださる。私たちの主はそのようなお方なのであります。
ここで「罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九十九人の悔い改める必要のない正しい人たちであるでしょう。百人のうち九十九人もの人が正しい人であるなら、罪人の一人くらいどうでもいいじゃないか。それが世界のある意味合理的で常識的な考え方かも知れません。
しかし、百匹という羊を託されていた羊飼いにとって、その一匹の価値は非常に大きなものであったのです。であれば、一匹でもいなくなったとなればこれは一大事であったに違いなかったでしょう。そして、その見失った羊を捜し回って見つけたとしたら、それはさぞかしホッとし、ほんとうにうれしかったことでしょう。
次に、「無くした銀貨」のたとえですが。イエスさまは「ドラクメ銀貨10枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われます。ドラクメという銀貨の単位は聖書の後ろの付録表によれば一デナリオンと同等の額で、この時代のほぼ一日分の賃金に相当するということであります。まあ、それは確かに貴重なものであったとはいえますが。しかし、その女性が九枚の銀貨が当座あって食べて過ごせるのに、ともし火をつけ、わざわざ家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す必要がどこにあったのでしょうか。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、ありますようにそこまでどうして大袈裟に喜ぶのか不思議に思えます。
それは、多分その銀貨は彼女にとって十ドラクメでないといけなかったということを示しています。九ドラクメであっては意味をなさなかったということかも知れません。
注解書などを読みますと、「この10ドラクメは女性が嫁入りのために備えていたものであり、首飾りか頭飾りであった」とも記されていました。つまり、その一枚でも無くしてしまったなら、大変なことでそれ自体の価値がなくなるということです。だから彼女はもう真剣に一枚の無くした銀貨を捜し回ったということです。
私は以前、お腹がすいてコンビニに食べ物を捜しに立ち寄ったところ、が、財布の中を見るとあと十円あればパン一つなりと買えるのに、その十円足りないがために買う事が出来なくてお恥ずかしい話ですが、ガッカリして帰宅したことがありました。みなさまも買い物をした時、あと十円、あと百円、千円足りなくて困った何てことないですか。百円ショップの商品は、消費税分の五円がなければ手に入れることはできません。あと五円ないと必要な百円の商品は買う事ができないのです。その場合のこの五円って本当に重たくて、価値あるものになりますね。
この一枚の銀貨を無くしたこの女性にとって、その一枚の銀貨はなくてはならないものであり、それは又残りの九枚の銀貨にとっても必要不可欠なものであったという事でしょう。
そして、この一枚の無くした銀貨を見つけた時の彼女の喜びは本当に大きいものでした。「友達や近所の人々を家に呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、イエスさまは先のたとえと同様おっしゃるのです。
主の前に私たち一人ひとりがこの貴重な一枚の銀貨であり、主の前に失われてはならないかけがえのない存在であるということをこのたとえを通して主イエスは語っておられます。
② 一緒に喜ぼう
以上、イエスさまがファリサイ派の人々や律法学者に話された、「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえを見てきました。
「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、徴税人や罪人を裁き、イエスさまに不平を言った彼らに対して、イエスさまは「一緒に喜ぼうではないか」と招いておられるのです。実はその彼らも真の羊飼いであられるイエスさまの御救の中におかれた者たちであり、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九枚の銀貨として見なされているということであります。そして、見出された一匹の羊も一枚の銀貨も、そのかけがえのない主の宝の民であるのです。見失った一匹の羊、無くした一枚の銀貨が主によって見出されることによって、悔い改める必要のない彼らの存在自体もほんとうに価値ある者とされるのです。だからイエスさまは、「一緒に喜ぼう」とおっしゃったのです。
③ 悔い改め
最後に、この2つのたとえの終わりのところに共通した言葉が語られています。それは「悔い改める」ということであります。その「悔い改め」ということについて触れて本日の宣教を閉じます。
聖書に「義人は一人もいない」とありますように、本来、失われた者としての人間は、自分の力や業によって神さまのもとへ立ち返ることはできないものです。そこに人間の弱さと無力があります。そういう中で、主は「悔い改め」についてお語りになります。
「ああ、あんなことしなきゃあよかった」「悪い事をしてしまった」。そのような後悔の念を持つことはどなたもあるでしょう。しかし聖書のいう悔い改めは、そうではありません。
それは主の前に立ち返ることであり、主のもとに向き直る、主に向かって方向転換することであります。そしてそれは勿論、人の力や思いだけで出来ることではありません。
11節からの「放蕩息子」のたとえにあるように、人が「我に返って」父のもとに立ち返ろうと思った時、そこで両手を広げ、待っていて、走り寄り抱きしめて、接吻してくださる、ということが起こりますが。しかしその悔い改めの本質は主ご自身にあるのです。
「どこまでも失われた者を捜し、見出される主」。その主ご自身によって、人は本当の悔い改めへと導かれるのであります。
私たちは唯その主に全幅の信頼をもって、委ね切り、かけがえのない者として見出された喜びを持って、今日、唯、イエスさまの十字架のみ業によって主に見出され、赦され、喜びのうちにおかれている私たちであることを、あるがままで受け入れていく。それが私たちの「悔い改め」でありますその喜びを一緒にする。喜び合うところに神の国があり、教会があるのです。主を心から讃美いたします。
本日はルカ15章1~10節から非常によく知られる「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえから御言葉を聞いていきます。本日は読まれませんでしたが、15章にはもう一つ「放蕩息子」のたとえが記されています。それらのたとえ話は、15章の冒頭にありますように「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」。その事に対してイエスさまがなされたたとえ話であります。
① 迎える
まず、注目したいのは、徴税人や罪人たちを迎えられるイエスさまについてであります。
この「迎える」という事については、9章の「五千人以上の人々に食べ物を与えられた」記事からもお話いたしましたが。そこでイエスさまは、「さまよう群衆の一人ひとりを迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやされた」という事であります。又、先週は10章の「マルタとマリア」のお話から「必要なことは唯一つ」という宣教をいたしましたが。マルタとマリア。それぞれスタイルは異なりますが、マルタが成したことは、「イエスさまを家に迎え入れる」のです。そのようにルカによる福音書は、「迎え入れる」、又「迎え入れられる」という事について、かなり意識的に語られているということが分かります。
さて、そのような「迎え入れる」ということをどこか心に留めながら本日の二つのたとえ話を読んでいきたいと思います。
最初の「見失った羊」のたとえでは、「百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と言われます。言うまでもなくこの羊飼いとは主ご自身のことであり、羊たちは主の前にあるべき人々のことです。そして羊飼いが見失った一匹とは、本来神の民の一人でありながら、罪人として生きる人、生きざるを得ない人々のことであり、見つけ出された羊とは、悔い改めの心をもって主イエスと食卓を共にした人たちのことであります。
ここに、見失った羊を見つけ出すまで捜し回るとありますが、この言葉に、一人の罪人が悔い改め神の前に立ち返って生きる。それをどこまでも追い求める主イエスの執念といいますか、強い意志が示されています。それは飼うもののいない羊のような群衆を見つめ、断腸の思いで涙された、あの主の愛であり、慈しみであります。
さて、5節を読みますと、「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」と言われています。イエスさまは「罪人とされる人たちを迎えて、食卓を共にされ」ました。神の前に失われていたが、見出された人と、その喜びを一緒にするために人々を家に呼び集め、迎え入れ祝ってくださる。私たちの主はそのようなお方なのであります。
ここで「罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九十九人の悔い改める必要のない正しい人たちであるでしょう。百人のうち九十九人もの人が正しい人であるなら、罪人の一人くらいどうでもいいじゃないか。それが世界のある意味合理的で常識的な考え方かも知れません。
しかし、百匹という羊を託されていた羊飼いにとって、その一匹の価値は非常に大きなものであったのです。であれば、一匹でもいなくなったとなればこれは一大事であったに違いなかったでしょう。そして、その見失った羊を捜し回って見つけたとしたら、それはさぞかしホッとし、ほんとうにうれしかったことでしょう。
次に、「無くした銀貨」のたとえですが。イエスさまは「ドラクメ銀貨10枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われます。ドラクメという銀貨の単位は聖書の後ろの付録表によれば一デナリオンと同等の額で、この時代のほぼ一日分の賃金に相当するということであります。まあ、それは確かに貴重なものであったとはいえますが。しかし、その女性が九枚の銀貨が当座あって食べて過ごせるのに、ともし火をつけ、わざわざ家を掃き、見つけるまで念を入れて捜す必要がどこにあったのでしょうか。「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、ありますようにそこまでどうして大袈裟に喜ぶのか不思議に思えます。
それは、多分その銀貨は彼女にとって十ドラクメでないといけなかったということを示しています。九ドラクメであっては意味をなさなかったということかも知れません。
注解書などを読みますと、「この10ドラクメは女性が嫁入りのために備えていたものであり、首飾りか頭飾りであった」とも記されていました。つまり、その一枚でも無くしてしまったなら、大変なことでそれ自体の価値がなくなるということです。だから彼女はもう真剣に一枚の無くした銀貨を捜し回ったということです。
私は以前、お腹がすいてコンビニに食べ物を捜しに立ち寄ったところ、が、財布の中を見るとあと十円あればパン一つなりと買えるのに、その十円足りないがために買う事が出来なくてお恥ずかしい話ですが、ガッカリして帰宅したことがありました。みなさまも買い物をした時、あと十円、あと百円、千円足りなくて困った何てことないですか。百円ショップの商品は、消費税分の五円がなければ手に入れることはできません。あと五円ないと必要な百円の商品は買う事ができないのです。その場合のこの五円って本当に重たくて、価値あるものになりますね。
この一枚の銀貨を無くしたこの女性にとって、その一枚の銀貨はなくてはならないものであり、それは又残りの九枚の銀貨にとっても必要不可欠なものであったという事でしょう。
そして、この一枚の無くした銀貨を見つけた時の彼女の喜びは本当に大きいものでした。「友達や近所の人々を家に呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろうと、イエスさまは先のたとえと同様おっしゃるのです。
主の前に私たち一人ひとりがこの貴重な一枚の銀貨であり、主の前に失われてはならないかけがえのない存在であるということをこのたとえを通して主イエスは語っておられます。
② 一緒に喜ぼう
以上、イエスさまがファリサイ派の人々や律法学者に話された、「見失った羊」と「無くした銀貨」のたとえを見てきました。
「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、徴税人や罪人を裁き、イエスさまに不平を言った彼らに対して、イエスさまは「一緒に喜ぼうではないか」と招いておられるのです。実はその彼らも真の羊飼いであられるイエスさまの御救の中におかれた者たちであり、このたとえで言えば九十九匹の羊であり、九枚の銀貨として見なされているということであります。そして、見出された一匹の羊も一枚の銀貨も、そのかけがえのない主の宝の民であるのです。見失った一匹の羊、無くした一枚の銀貨が主によって見出されることによって、悔い改める必要のない彼らの存在自体もほんとうに価値ある者とされるのです。だからイエスさまは、「一緒に喜ぼう」とおっしゃったのです。
③ 悔い改め
最後に、この2つのたとえの終わりのところに共通した言葉が語られています。それは「悔い改める」ということであります。その「悔い改め」ということについて触れて本日の宣教を閉じます。
聖書に「義人は一人もいない」とありますように、本来、失われた者としての人間は、自分の力や業によって神さまのもとへ立ち返ることはできないものです。そこに人間の弱さと無力があります。そういう中で、主は「悔い改め」についてお語りになります。
「ああ、あんなことしなきゃあよかった」「悪い事をしてしまった」。そのような後悔の念を持つことはどなたもあるでしょう。しかし聖書のいう悔い改めは、そうではありません。
それは主の前に立ち返ることであり、主のもとに向き直る、主に向かって方向転換することであります。そしてそれは勿論、人の力や思いだけで出来ることではありません。
11節からの「放蕩息子」のたとえにあるように、人が「我に返って」父のもとに立ち返ろうと思った時、そこで両手を広げ、待っていて、走り寄り抱きしめて、接吻してくださる、ということが起こりますが。しかしその悔い改めの本質は主ご自身にあるのです。
「どこまでも失われた者を捜し、見出される主」。その主ご自身によって、人は本当の悔い改めへと導かれるのであります。
私たちは唯その主に全幅の信頼をもって、委ね切り、かけがえのない者として見出された喜びを持って、今日、唯、イエスさまの十字架のみ業によって主に見出され、赦され、喜びのうちにおかれている私たちであることを、あるがままで受け入れていく。それが私たちの「悔い改め」でありますその喜びを一緒にする。喜び合うところに神の国があり、教会があるのです。主を心から讃美いたします。