日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

復活の希望

2018-05-27 15:52:24 | メッセージ

礼拝宣教 Ⅰコリント15章50-58節

 

本日はコリント15章50~58節より「復活の希望」と題し、み言葉を聞いていきますが。主イエスの「十字架と復活の希望」は別々にあるのではなく、ちょうどコインの裏表のように神の恵みを十全に示し、私たちを救うものです。

 

ところが12節以降に記されているように、当時コリントの教会では「死者の復活などない」という人たちがいて皆を惑わしていました。それに対してパウロは死者が復活しないなら、キリストも復活しなかったはずだ。しかし、実際キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた。そのことによって私たちも又、終わりの時に復活のイエスさまと共にあって復活する希望が与えられているのだ、と説きます。

 

パウロ自身が復活の主イエスと出会ったのは、キリスト教は邪教としてその信徒と教会を激しく迫害している最中でした。

その時、彼は幼い頃から叩き込まれてきた律法や徳を立てるというような自己完結型の教義等では救われるものではないことを悟ります。

神に従っているつもりが、全く的外れな罪の滅びの中にあった。律法や行いによって義を全うしようとしても、それをなし得ないどころか、かえって自我によってがんじがらめになり、罪に滅びるほかないということを思い知らされるんですね。まさに死のとげは罪であり、罪の力は律法でした。

そういう中でパウロは、主イエスの十字架の死によって自分の罪があがなわれるという、驚くべき神の救いを知り、まさに死のとげである罪が取り除かれるという経験をするんですね。

死のとげはもはや無く「死は救いの御業を成し遂げられたイエス・キリストの勝利にのみ込まれた」。これが使徒パウロの証しであり、復活の確信なのです。

 

さて、本日の聖書の中で強く心に留まりましたのは、51節「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」との言葉です。

ここに「わたしたちは皆」とありますね。一人ではないんです。わたしはでもないし、あなたはでもない。「わたしたちは皆」なんです。復活の有様は、孤独・孤立した状態ではないんですね。

私たちは皆、共に、一緒にキリストの救いに生かされている。復活のときも「わたしたちは皆」、共にその恵みに与ることになる、というのですね。

ちょっと話は変わりますが。

以前にもお話したことがございますが。キリスト教協友会の野宿をなさる方を対象とした夜まわりに参加した各グループや個人が集まり、報告会をした時のことですが。そこには「NPO子どもの里」から子ども夜まわりに参加した多くの子どもたちとリーダーの顔もあり、にぎやかな時間となりましたけれども。

ある新聞ではこの子ども夜まわりのときの光景が写真と言葉で紹介されていました。そこに映し出された子どもたち一人ひとりのまなざし、瞳はとっても生き生きと輝いていて、普段の学校では見られないような表情です。この子ども夜まわりは現在も続けられていますが。

その新聞の記事の中で「NPO子どもの里」の館長さんは夜回りを始めた当初のことをこう回想されます。「6歳の児童が、このおっちゃんら、かあちゃんからうまれたんやろ。なんで、こんなところで、ねなあかんの」と言った言葉に。おかしいことに率直な疑問をもつ「子どもの力」に気づかされた」と。

私が出席した報告会でその館長さんは。子ども夜回りの報告書を見せてくださいましたが、そこには子どもたちが夜回りで出会ったおじさん、おばさんたち一人ひとりの顔や名前が手書きで書かれていて、ファンキーなおっちゃん、笑っているおっちゃん、怒っているおっちゃん、泣いているおっちゃん、あめくれるおばちゃん、などなどニックネームをつけて紹介しているんです。

館長さんはその報告書に次のような文章を添えておられたのに目が留まりました。「人は二度死ぬ」。これは、クリスチャン・ボルタンスキ―というフランスの芸術家が言った言葉です。一度目は自分が死んだとき。二度目は、自分のことを忘れ去られるとき。震災のとき路上で死んでいった人たちには名前がありませんでした。統計で行方不明者何名とかいう数でしか知らされていません。同じように野宿している人たちの中に路上で亡くなる方がいます。身寄りがなくて一人で死んでいく人、路上であれアパートであれ、釜ヶ崎、大阪、関西全体、日本全体でどれくらいいるかわからないですが。でもその人たちはほとんど名前がわかりません。誰もその人の名前も知らない。つまり生きている時に、すでに「2度目の死」の状態にあるということです。想像してみてください。自分の名前を呼んでくれる人が一人もいない状態を」。
そのようなことを、子ども夜まわりの毎回行われる事前学習会で、子どもたちと大人に語りかけてきたそうです。そうやって子どもたちは単に気のどくな人に何かを配るというのではなくて、同じ人間として出会うその経験をしていくのですね。そういう記事を読んだり、直接話を聞いたりして私は改めて人と人のつながりの大切さを思わされたわけですが。

この地上に生きる私たちは、死の恐怖や不安を抱えながら生きています。ある意味それは孤独との戦いであります。

先ほどの「人は2度死ぬ」というショッキングな言葉がありましたが。忘れ去られていく死、その人の存在がまるで無かったように消えてしまうよう孤独ほど悲しく、虚しいものはありません。

 

しかし使徒パウロがいうように「わたしたちは皆は先に復活された主イエス・キリストの約束と勝利に共にあずかる希望が用意されているのです。

そこにパウロがこの51-52節のところで、「私」という個人でなく、「わたしたちは皆、眠りに云々」「わたしたちは皆、今と異なる状態に」「わたしたちは皆、変えられます」と何度もこの「わたしたちは」と語りかけている意味を受け取っていきたいと思います。

 

パウロは52節で「最後のラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と述べます。

この「死なないもの」とは、すなわち「キリストの復活の命」です。その救いと霊の命をまさに上から着せられるようにしてわたしたちは復活に与るのです。

「主の勝利にもはや死は飲みこまれた」。そういうことが、主に結ばれる「わたしたち」に起こる、いや起っているというのであります。

その日は自分一人であー良かったという自己満足の虚しさではなく、わたしたちの大いなる喜びと賛美、地上の歩みと献身が報われる素晴らしい祝宴の日です。必ずその完全な救いの日、主にある労苦も報われる日がやって来る。

パウロは言います。「わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」

 

人間関係が煩わしい人も多い世の中です。クリスチャンでも時としてお互い理解に苦しむことはあるでしょう。それでも、愛の冷えゆくようなこの世界にあって、わたしたちはあきらめてはならないのです。この地上にいるかぎり、だれかに覚えらえれ、支えられ、世話になり、迷惑をかけ合いながらも、つながり合いながら、祈り祈られ、ゆるしゆるされてキリストの愛の中で生かされている。その延長線上に復活の喜び、希望の日があるのです。そういうつながりをこの地上にあって大事にしていきたいものです。

パウロは「主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っています」と力強く語りかけます。

今日のメッセージを受けてわたしたちも又、この地上に与えられている限られた時間を、時を生かして、動かされることなく、主の業に励んで、いきたいものです。

最後に主イエスがお語りになったお言葉をお読みします。

ヨハネ福音書6章39~40節

「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 

復活の大いなる希望に力を頂いて、今週もここから遣わされてまいりましょう。

 

 

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んで ご案内

2018-05-27 08:15:44 | お知らせ

本日 5月27日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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聖霊降臨の恵み

2018-05-20 19:13:19 | メッセージ

礼拝宣教 使徒言行録2章1~13節 

 本日はペンテコステ・聖霊降臨によってキリストの教会が誕生し、主イエスの十字架と復活の福音が全世界に告げ知らされることとなった、その初めの出来事を記念する礼拝を捧げております。

聖霊は世々の時代を経て、世界各地に、こうして日本の私たちのもとにも臨んでおられます。

主イエスがバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のように主イエスのうえにお降りになり、主イエスは地上における神の国の到来を実現なさる使命を果たしていかれました。

同様に、聖霊が降臨したキリストの教会、信徒一人ひとりの群れもまたこの地上にあって、主イエスの十字架と復活の福音を世に伝え、証し、分かち合う使命を託されています。

使徒言行録2章はじめに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人のうえにとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。そこにいたのは無学なガリラヤ出身の者が多かったことから、人々はたいへん驚いたということです。

旧約聖書・創世記11章のバベルの塔の記事を読みますと、そもそも「世界中は同じ言葉を使い、同じように話していた」とあります。国や民族が異なっても一つの言葉で意思疎通を図っていたということです。そういう中、東の方から移動してきた人々がシンアルの地にバベルの塔を建設しようと企てます。彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされないようにしよう」と、このような目的をもって塔を建て始めます。彼らは全地を創られた神を忘れ、ただ自分たちの名をあげるためにそれを建てようとするのです。今流行の言葉で言えば、「テッペンを目指す」という事でしょうか。それは又旗印を掲げるような排他主義的統一の思想。又うちの国のファーストみたいな偏狭な民族主義と相通じるものがあります。

そのことを見抜いておられた神は、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は下って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」と言われ、彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはバベルの塔の建設をやめた、と記されています。

一つの民族が排他的思想や国粋主義に陥るとどんな事が起っていくかは、世界の歴史の示す通りでありますけれども。

まあ私たち人間にとりましては、主なる神が言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようになさったことは残念な気も正直いたします。学生の頃あああの時、いっそ日本も英語でしゃべれるようになっていたらどんなによかったか、そう思ったのは私だけではないのではないでしょうか。

けれども神のご計画はゆたかです。様々な言語や文化が形づくられていくことを神は良しとなさいました。

それは、一人ひとりの存在がオリジナルなものであるゆたかさでありますし、その多様性を認め合い、互いを尊重することのゆたかさです。

しかし私たち人間というのは、その多様性、違いのゆたかさに気づけない。受け入れられないため、今も世界は混沌とした状況があるわけですが。

さて、そういう混沌とした世界、道筋の見えないような状況の中で、使徒言行録1章13―14節にありますように弟子たちや女性たちは、主イエスの約束のお言葉を握りしめ、「心を一つにして」熱心に祈り続けていたです。

それは1章8節に復活の主イエスが語られた「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という約束です。

イエスさまの十字架の出来事からそれ程日が経っておりませんから、彼らはその身に危険も感じたり、不安や恐れもきっとあったに違いありません。

又、弟子たちの中には疑う者もいたということですから、不信を起こさせるような試みもきっとあったと思うのです。

それでも彼らは主イエスの約束をしっかり握って、互いに心を合わせて熱心に祈り続けたというのです。そうして遂に約束の聖霊が降臨されて、集うその一人ひとりの上にとどまり、主のお約のとおり様々な言語の人たちに「神の偉大な業」を語り出したのであります。これこそが聖霊のバプテスマです。

聖霊は目に見えませんけれども、主の御名によって集い、祈り求めるエクレシア、呼び集められたその一人ひとりに降臨されるのであります。

聖霊は私たちが主にあって心を合わせて祈り求めていくところにゆたかに臨まれるのです。

皆さまも礼拝や祈り会、又讃美を共にささげる集いで、自分の意識や理性とは別のところで感動が溢れたり、胸が熱くなったり、何だか知らないけれど涙が止らなくなったりという体験をお持ちではないでしょうか。それは祈り求める人びとにお応えくださる神さまからの一方的愛の介入、聖霊がお働きになっておられるのであります。

私たちが心を開いて聖霊による神の愛と慰めを受け入れる時、魂は平安を得、救い主への確信が与えられます。昔も今も永遠に変わることのない聖霊がゆたかにお働きになられるのです。

聖書にもどりますが。「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」というその時、大勢の人が何事かと集まってくるのですが。その中には「天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人たちがいて、ガリラヤの無学な人が、様々な言葉で神のみ業をたたえていること」に驚くのですね。

彼らはユダヤの地を様々な事情により離散した者らとその子孫たちであり、エルサレムに帰ってきた人たちでした。おそらくユダヤ以外のお国の言葉しか話せない人たちも少なくなかったと思うのですが、その魂のふるさとであるユダヤの地に帰ってきた人々は、何とその自分たちが散らされていたお国の言葉で「神の偉大な業」を、聖霊に満たされた人たちから聞くことになるんですね。散らされた人たちがここで再び聖霊によって一つとされる出来事が起っていくわけです。

この偉大な神の業とは、具体的に、主イエスの贖いの死と復活におけるみ救いであります。

聖霊に満たされた12弟子の一人ペトロは14節以降で、その証しを力強くユダヤの人々に語るのでありますが。そこでも記されているように、聖霊がお働きくださる時、私たちが如何に神に背を向け、あのバベルの塔の人たちと同様自分本位に生きてきたかに気づかされていきます。

そして、そのような罪の滅びの中から私を救い導き出すために主イエスが十字架の贖いの業を遂げてくださったその神の愛を聖霊は悟らせてくださるのです。これは神の一方的な恵みであります。この神の愛にあって心一つとされて共にその恵みを「喜び、祈り、感謝していく」。私たちの今年のテーマでもありますが。ここに神の霊、聖霊の豊かな働きを見るのです。

国の違い、言葉や文化の違いを越えて、共に主のみ救いの恵みとゆたかさを覚える幸いを、私たちも又、このキリストの教会で与えられている幸いを覚えます。

先週はギデオン協会の方からお証しを聞きました。そのお働きというものも、世界中の人々が自分の国の言葉に訳された聖書によって「神の偉大な業」を知ることができるそのための尊いお働きであるということです。又、先週書店で「超訳聖書・生きる知恵」という書物を見つけたんですが。編者の石井さんは「聖書は地球上の2932の言語に翻訳され、過去50年間で39億部も発行されている。これは第2位の「毛沢東語録」8億2千部を大きく引き離す数字」ということをおっしゃってて、まあそれだけ多くの人たちが自分たちの言語で聖書は読めるようになっているということですね。

 ペンテコステ:聖霊降臨によって、今日世界中で神の偉大な業を聞くことができるようになりました。それは神の愛、主イエス・キリストにある救いと新しい命のメッセージです。今も聖霊のお働きをとおして新しく生まれ変わる人たちが世界中のいたるところで起こされています。

私たちは誰しも一人ひとりが神さまのご計画によって救われています。それは主の福音を知らせ、分かち合って生きる者として召されているということでもあります。

その召しに応えて生きる者でありたいと願うものです。

最後に、「神の偉大な業が語られている」一方で、「『あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ』と言って、あざける者もいた」と今日の箇所に記されています。

これは教会に自分の意思で行き初めるようになった時や信仰を持つ決心をした時に、直面する試みでもあります。私たちは異教の地ともいえる日本において信仰を守ることの困難さが常につきまとうものであります。あざけられたり、馬鹿にされたり、友情や人間関係がぎくしゃくしたり、危うくなることもあるかも知れません。

それでも命の主、救いの主への信頼、その信仰の確信を失わずに一足一足を歩み通してゆくことができますように祈るものです。そうした救いの喜びに生きるその姿を見て、このみ救いが本物であることを認めてくれる人も出て来るかもしれません。こうした生ける証し人へと導きお用いくださる。これこそがペンテコステを生きる聖霊のお働きであります。今日ここに集われたお一人おひとりにもれなく聖霊がとどまってくださり、イエス・キリストに顕される神の愛を悟らせてくださいますように。

神の偉大な業を証しする者とされるよう、聖霊に満たされますよう祈ります。

主の御力を受け、今週もここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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愛がなければ・・・

2018-05-13 15:46:56 | メッセージ

礼拝宣教 コリント12:31-13・13

 

先週の水曜午前の祈祷会に、訪日中の韓国の青年たち4人が出席され、ほんとうに恵みの時が与えられ感謝でした。水曜日集会を持っている教会をネットで検索していたところこの大阪教会がヒットして来られたそうですが。その目的は日本のキリスト者と一緒に心を合わせて、日韓における福音宣教のために祈りを共にしたいということでした。帰り際教会へということでプレゼントを頂いたのですが、それはコリント書一16章14節の「何事も愛をもって行いなさい」が記された素敵な壁掛けのボードでした。その日の祈祷会の聖書の箇所がまさにコリント13章の「愛」をテーマにしていましたのでお互いに神さまのゆたかなお導きを思い讃美しました。掲示版のところに青年たちのそのボードと心を込めて日本語で書いてくださったメッセージカードと写真を貼っておりますのでご覧下さい。

その日の午後は第二回目のこども食堂が開かれ、こどもとおとな22名が集まり、ボランティアの方々が本格的に味付けした美味しい麻婆豆腐をこどもたちと一緒にいただきました。こどもたちは遊んだり本を読んだりと楽しく過ごしていました。特に今回天王寺区の社会福祉協議会よりお二人のスタッフさんが出席してくださり、この様子を見ていただけたのも幸いでした。

まだまだ月一度の活動ですが、地域の学校や福祉機関にもつなげられ、見守りと励ましの場としてゆかたに用いられ、キリストの教会にふさわしい証が立てられていくことを期待しています。どうぞ、このためにもお祈りにおぼえてください。

 

さて、本日はコリント13章の愛の讃歌としてよく知られる個所から、「愛がなければ」と題し、御言葉を聞いていきます。

パウロは12章終わりの31節でこのように言います。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」

 

パウロは私たちが賜物を欲することやそれを得るために祈り努力することを否定していません。むしろ積極的にそれらを求めるように促します。

そのうえでパウロはコリントの信徒たちに向け、1~3節「わたしが異言や天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかなしいシンバル、たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘と知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰をもっていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしは何の益もない」と述べます。

 

「愛がなければ何の益もない」。パウロは「愛」のない状態を「騒がしいどら」や「やかましいシンバル」にたとえます。

ずっと以前関西地方教会連合の信徒大会で講演者が「騒がしいどら」と「やかましいシンバル」の実演をされ、大きなどらをただ無秩序に打ち鳴らすまあそのうるささ、やかましさといったらなかったですが。

ギリシャの異教の神殿では当時そういうどらやシンバルを打ち鳴らして悪霊を追い出す儀式、そのようなことが行なわれていたようです。

真の神さまを知るパウロにとってそれらはやかましいただの騒音に過ぎなかったんですね。同様に異言や天使の異言を語るという賜物が与えられた人も、異言は言葉にならない祈りや嘆き、そして讃美を聖霊がうめきをもってとりなして下さるその言葉でありますから、そもそも神の恵み以外の何ものでもないわけです。ですからそれを受けたから本物のクリスチャンになったとか、受けなければ半人前などと言うことは全くないんですね。それは賜物の一つであって、それを誇ったり、人のことも全く考えないでやみくもに用いてそこに「愛がなければ」、やかましいだけのどらやシンバルに過ぎない、人の耳を疲れさせる騒音に過ぎなと言っているのです。

 

パウロは又、「預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていたとしても、愛がなければ、無に等しい」と言います。

今日も有名な伝道者やいろんな賜物を与えられた人を呼んで大集会を開き、大勢の人が集まったりしますが。そういった人の前でたいてい臆したり、畏敬の念を持ったりするでしょう。

ところが、そのように偉大に見られるその人の働きや業も、もしそこに「愛がないならば無に等しい」と言うのです。

マタイ7:21-23で、イエスさまはおっしゃいました。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』というであろう。そのとき、わたしはきっぱりこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』そうしてイエスさまは「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と言われたのです。

この神の御心とは「み子を信じる者が一人も滅びないで永遠のいのちに与ること」であります。その神の愛、神の願いに応え、その愛に根ざした行為でないなら、主はそのような者は知らないと言われるということであります。

 

さらにパウロは、「たとえ自分の全財産を投げ打って救済のため使い尽くそうとも、殉教の犠牲さえも、愛がなければ、わたしに何の益もない」と言います。

これらの行いは世に称賛される行為のように思うのですが。しかしその動機が、もし自分の栄誉や誇りのためなされ、そこに愛がないなら、神の前にわたしは何の益もないと言うのです。自己満足や自己完結型の行為はむなしいものだというのです。

 

4節以降においては、その「愛」のもつ特性について述べられてます。

よく言われるのは、この愛のところに「自分の名前」を入れて読んでみるとよく自分のことが分かるということです。

たとえば、私・・・は忍耐強い。私・・・は寛容だ。私・・・は情け深い。私・・・はねたまない。自慢しない。高ぶらない。ああ、なんか「歯」が浮いてくるような思いにさせられますがどうでしょうか?そのように生きていきたいとは願うものでありますが。

しかしそれら愛の特性は、どちらかといえば目立たず地味な、時代遅れと思われるような言葉です。

ここで特に心に留まりますのは、「愛は忍耐強い」口語訳は寛容で始まり、「すべてに耐えること」で終っている点であります。

ここでいう愛とは単なる感情ではなく、自分にとって怒りや憤りを覚えること、或いは面倒くさいようなこと、嫌なこと、苦しいことまでも相手のために引き受け、耐え忍んでいく意志なのです。

教会にせよ、社会生活にせよ、神の御心を行ない生きるとは、「寛容」と「慈愛」、そして「忍耐」という具体性をもった愛に生きるということなのですね。

ただ、だからといってそれがすべての悪をそのまま容認するとか、悪に妥協するということではないんですね。それならば愛でなく不義であります。

「愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ」とあるとおり、間違ったことには否と、正します。愛は真実と共にあり、その真実を追い求めることで悪は捨てさられるのです。

 

パウロはローマの信徒への手紙5章8節でこのように言っています。

「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」

この神の正しさ(義しさ)、この神の愛を受けているものにふさわしく生きていきたいと願うものであります。

 

さてその「忍耐強い」に続く「愛」のもつ個々の特性について、ねたまない、高ぶらない、礼を失せず、恨みをいだかないなどの項目が列挙されていますが、これらは実際にコリントの教会の分裂を引き起こした人々の悪徳であったのでしょう。

愛の特性とは、これとは正反対の「心の狭さ、冷淡、ねたみ、高ぶり、自慢、不作法、自己中心、いらだち、恨み、不義、短気、不信、あきらめ」などが人々の間で膨らんでいたということでしょう。

イエスさまは良いパン種と悪いパン種の話をされましたが。

良いパン種、すなわちキリストの愛に根差した言葉は私たちの間に天国の喜びをもたらし。一方悪いパン種、すなわち反キリスト的言葉、先の愛のない言葉ですが、それは人の間で不満と混乱を生じさせるのです。

 

じゃあここを読んで愛の特性がよくわかった、さあそれを行おう、そのように生きてゆこう、と考えてそのように実際過ごせるかというと、先ほどこの「愛」のところに自分の名前を入れて読んでみてもお分かりのように、なかなかそうはいかない。私たち自身のうちにもコリントの信徒たちが抱えていたような弱さや欠けたる面があるということに気づかされます。

 

私たちは生きていく中で、身近に親子愛、家族愛、又学生時代や思春期においては友だちや親友ができていく友愛を知るでしょう。さらに恋愛があり、社会の一員となっていくなかで隣人愛を培われるということがあるわけです。私たちはそういう様々な愛を受け合いながらともに生き、生かされているといえます。

 

けれども私たちの愛は燃え上がることはあってもずっと持続していくことが出来るかというと悲しいかなそうではありません。

状況や事態が変わってしまうといく愛情が薄れたり、泡のように消えてしまうものです。

私たちの愛情で次元が高いともいわれている親が子を思う愛情でさえも、無償の愛とはいいきれず、どこか親も子に自分の思いや願いを押し付けにしながらの愛情であったりいたします。どんな人間の愛もエゴや自我の思いが混ざり込んだ愛であるのです。

 

それに対してパウロは8節~13節で、神の愛、ギリシャ語で「アガペー」の不変性について述べます。

私たち人間の愛は友愛;フィリアレや性愛:エロスというものですが。13章に記されている愛は、実にすべてが「アガペー」で記されている神の愛なのですね。

ですから今日のところは正しくは「神の愛がなければ、わたしは騒がしいどら」「神の愛がないければ無に等しい」「神の愛がなければ何の益もない」、さらに「神の愛は忍耐強い」、そして「神の愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」と「神の愛は永久に存続する」ということが言われているのです。

たとえ自分の中に「愛があります」などといえる者でなかったとしても、「神の愛」を頂いている者として、その最高の道を求めて生きることはできます。その福音の喜びの中で価値ある愛に生きるものでありたいものです。

 

私たちはたとえどのような賜物を与っているにせよ、それらはみな一時的なものであり、限界があるということを知る必要があります。

今この時与えられていても、明日それがあるかどうかは分りません。健康も財も時間も能力も同様です。だからこそ今与えられている賜物をもって、神から愛を受けているその喜びを知る者にふさわしくそれらの賜物を用いるということが大切です。

 

私どもはパウロが言うように「土の器」であり、欠け多い者、もろさを持つ者でありますけれども、その土の器に愛なるキリストが入って戴くことによって、この土の器が尊い主の器としてゆたかに用いられていくのです。

 

私たちそれぞれに与えられた種々の賜物、預言や異言や知識はじめ諸々の賜物は、前の12章27~31節にあるようにキリストの救いを証し、福音を共有するための道具に過ぎないのです。それらは神の愛を私たちが益々深く知り、証しされていくための神の手段に過ぎないのです。

 

パウロはそのことを10節で「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう」と述べているのです。

パウロはそれを「鏡」の前に立つ人にたとえています。

「わたしたちは、今は鏡におぼろげに映ったものを見ている。だが、そのとき(10節;完全なものが来たとき)には、顔と顔とを合わせて見ることになる。今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

この時代の鏡は銅製のものが中心で、その映りは完全でなくおぼろげであったと言われます。

どんな賜物をもってしても、今は神の栄光の一部分しか映しだすことができない。

しかし必ず、かの日には完全なものが来る。神の愛の実体であられる主イエスと顔と顔とをはっきり合せる日が来る。その日を望みながらもっとも優れたる道、神の愛、アガペーの愛に生きていくようにとパウロは勧めます。

いつの日にか何の業もできない時、出来なくなる日が来るでしょう。その時、私の中に何が残っているか。それが問題です。それは私が何によって生き、働いてきたかが明らかになる時であります。

 

それゆえに13節「信仰と、希望と、愛、この3つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

 

私たちにとって、信仰と希望と愛、それらはどれも尊いものであります。

「信仰」とは、ヘブライ書11章に「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。この信仰は人を救います。信仰なしに神の国に入ることができません。

又「希望」は生きる力と勇気を与えます。この地上において様々な苦しみや悲しみはつきませんが、永遠のいのちと天のみ国での報いに対する希望が私たちには与えられています。しかしこの信仰と希望はこの地上にいる間のものです。地上の生活を終えれば、主と顔と顔とを合わせるのですから、見えないものを信じてきた信仰の生活は終わりです。又もう望んでいた主のもとに与れるのですから、希望は叶ったということでこれもある意味終ります。

 

けれども、愛は違います。神の愛は永遠に存続するのです。

パウロはこの3つの中で「愛を最も大いなるもの」と示します。

私たちはこの神の愛によって、地上に生き生かされ、一日一日を神と人を愛し、天の国の喜びにつながって生きていきます。

 

今日はそのようにこのところを読んでまいりまして気づく事は、この愛というのは、十字架と復活を通して永遠のいのちを賜った「主イエス・キリストご自身」であり、私たちはこのお方の愛を内に頂いて、共にこの主の愛を分かち合って生きるよう召されているということです。

「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」

今週も神の愛に満たされて「世の光、地の塩」としてまたここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。

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こども食堂・おいでや

2018-05-08 14:36:17 | イベント

「天王寺・こども食堂おいでや」 

親も子供も赤ちゃんも

中・高校生も みなおいでや

会場:日本バプテスト大阪教会 

日時:5月9日(水)午後5:00~7:00

今回のメニュー:麻婆豆腐!


教会の2階ホールへおいでください。

小50円 中、高100円

付添の大人200円

 

*毎月第二水曜日

5月9日、6月13日、7月11日

ごはん食べていっしょにあそぼう。

宿題も持っておいでや。

 

06-6771-3865

日本バプテスト大阪教会

 

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主の食卓を囲み

2018-05-06 13:43:26 | メッセージ

礼拝宣教 コリント11:1-34節


ゴールデンウイーク5月3日憲法記念日、扇町公園で行なわれた平和集会に参加しました。多くの様々な団体や個人がそれぞれの思想信条をもって集っていましたが。共通するのは「平和と人権」への願いと、そのためにも日本国憲法を大切に守っていきたいという意志です。日本国憲法には平和という文言がたくさん明記されていますが。当初の米国GHQの憲法草案の原文には「平和」という文字は一言も記載されていなかったそうで、その後その草案に「平和」の文言を加えたのは日本の憲法草案を作成した人たちであったということを、私はこの頃知り、たいへん驚き感動しました。戦争によって流された内外の犠牲者の方々の血によって書き上げられたとも表現されますが。まがりなりにも日本が平和を維持していくことができたのは日本国憲法が大きな役割を果たしてきたことは違いありません。

 

さて、本日は先ほど読まれました「主の晩餐について」の記事から御言葉を聞いていきたいと思います。

今から32年くらい前でしたが、私が大阪の神学校で学ぶことになり、前教会の牧師のお勧めもあって、この大阪教会に客員として出席することになりました。そうして初めて主の晩餐が執り行われた時のことでありましたが。

主の晩餐が行われるに際し、大阪教会員はみな起立して主の晩餐に与るのですが、それ以外の人は、たとえクリスチャンであってもみな座ったまま主の晩餐に与ることができなかったのです。私は大変衝撃を受け、「私は主を信じているのにどうして」という戸惑いと疎外感にかられて、しばらく悩みました。

それで当時の大阪教会牧師にこの主の晩餐の持ち方について、私の正直な思いを打ちあけました。

すると牧師は「排除や差別ではない、戦前のキリスト教会が国家の戦争にくみしていった過ちは、教会という信仰共同体の一致がそこに欠落していた。その過ちを繰り返さないために、教会の共同体形成をしていくうえで、教会員のみという仕方にこだわっている。しかしその在り方も絶対的なものではない」というようなことを私に話してくださったことを記憶しています。

まあ、この牧師のお話をお聞きして、ああそういう背景や考え方もあるのかと、良いも悪いも学びが得られるのではないかと大阪教会に飛び込んで主の交わり加えていただく決心をしたのです。

それから年月が流れた2005年春、私が再び大阪教会に戻って来た時には、大阪教会のその主の晩餐の持ち方も大きく変わっていました。

大阪教会以外のクリスチャンにも開かれるようになっていたのです。

現在の主の晩餐に際しては、主イエスが十字架で裂かれた体と流された血とが神に立ち返って生きることを願うすべての人に与えられた、ゆるしの恵みであり、それを信仰をもって受け取るすべての人に開かれたものとして、ここに集われる方の信仰と自由な意志を尊重することとしております。

聖書で主イエスが「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24節)と、もとは命令形で強く命じておられる主の晩餐式は、神の側からの一方的な恵みであり、クローズにせよ、オープンにせよ、そのようにそれぞれの教会がその時代、そこに集う人たちとともに、神の導きの中で選び取っていくものだと思います。

 

さて、水曜祈祷会に出席された方々と今日の箇所を共に読む中、いろんな感想があがりました。

特に多かったのは27-28節にかけての「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」と記されている点でありました。

その「ふさわしくないまま」というのは、どういうことを言っているのかということですね。ある方は、信じて間もない頃、主の晩餐に与るのに、自分の普段の生活や歩みを振ると、とても主の晩餐に与る資格などないんじゃないか、と考えて与らないということが何度かあったということですね。

又、ある方はこのようなお話をしてくださいました。

以前通っていた教会で、子どもと一緒に主の晩餐に出席したお母さんが、洗礼を受けていない子どもにパンとブドウジュースを与えたということが大きな問題になり、そのお母さんは非常に辛い思いをなさった、ということでした。それでお母さんの思いいを聞いたこの方は、後に行かれることになった教会の牧師にこの事に関して意見を求めると、その牧師は「イエスさまであったらどうなさったでしょうかね」とおっしゃったそうです。すばらしい回答だと思います。

 

ここで「ふさわしくないままで」と、新共同訳聖書、又口語訳聖書、新改訳聖書も訳していますが。原語に忠実に訳すならば、これは、ふさわしくない「仕方で」という訳が的確だということです。

「ふさわしくないままで」というと、それはそれぞれの資格、何らかの資格が問われる気がしますから、その資格に自分をあてはめようとしたり、自分や人を裁いて与っていいのか云々となります。

しかし、「ふさわしくない仕方で」ということですと、何も資格云々という話ではなく、その後の29節にあるとおり「主の体のことをわきまえずに飲み食いしている」ということが問題だということを言っていることがわかります。

具体的にコリントの信徒の間で持たれた家の教会での主の晩餐は、21節以降に「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」であったり、又22節の「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせる」ようなものとして、裕福な人たちの宴会のようになっていた状況をパウロは厳しく問うているのです。

 

初代の教会においては、先に招詞で使徒言行録2章44節以降が読まれましたが。

もう一度その一部をお読みしますと、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をした」のです。

主によって救われ、神との和解と救いに与る人たちが喜びと真心からあらゆる立場や違いを超えて一緒に「主の食卓を囲んで」晩餐を分かち合っていたのです。

 

ところが、コリントの信徒たちの家の教会においてその状態が次第に変質していったようであります。

福音を信じその喜びを分かち合うべく主の食卓を囲んで一緒に晩餐を持っていたのが、次第に身分の違いや貧富の差、あるいはいろんな分派や確執からか、談笑しながら腹を満たし酔いつぶれている者がいる一方で、労働を終え駆けつけた人たちや奴隷の立場にあった人たちは空腹のまま忘れ去られたようにたたずむ。そんな状況になっていったのであります。

パウロは33節にあるように、「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」と、主の晩餐に与るにふさわしくないあり方をいさめているのです。

 

「自らの身にさばきを招く」と言われるのも、食べ過ぎ飲み過ぎもあったかもしれませんが、何よりそういう状況の中で主イエスの血の贖いによる信仰そのものが希薄なものになって、自らに災いを招いていったということだと思います。

主が言われた「これはあなたがたのためのわたしの体である」「この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である」。私たちはこの神の子、イエス・キリストが私たち一人ひとりのために、又すべての人のために十字架で血を流し、み体を裂いて下さった、その尊い犠牲の愛によって救われていることを共に感謝し味わう。そのための主の晩餐であります。

 

最初に日本国憲法が多くの犠牲の血によって平和の礎として具現化したという話をしましたが。その血の犠牲が記念として覚えられず、忘れ去られていく時、この平和憲法のもつ力が損なわれていくのではないか、と懸念する一人でありますが。

話をもとに戻しますけれども。主の流された血の尊さを思わずして、それに与ることは、それを軽んじることであります。同じくその救いに与った兄弟姉妹を蔑ろにすることは、主のみ体を軽んじることに等しいということでありましょう。

 

私たちはこの主の晩餐を礼拝の中で守るようにしています。

教会によっては礼拝後に教会員のみが集まって行っているところもありますが。

私たちの教会が礼拝の中で行うのは、それを主イエスの見えるかたちでの福音宣教

と位置づけているからです。

神の救いが見えるかたちで示され、すべての人がその御救いへと招かれていることを表します。主イエスが自分の罪のゆるしを得させて下さる救い主であることを信じ、受け入れていく決心なさった方はどなたでも主の晩餐に与ることが出来るという選択を大阪教会はしているわけです。

この後持たれる主の晩餐が、主の御救いと恵みに与る素晴らしい機会となりますよう祈ります。

 

私たちは主イエスの裂かれたみ体を象徴するパンを裂きそれを戴くことで、主が私の罪を十字架でご自身の裂かれた肉をもって贖いとって下さったことを確認いたします。しかもそれを共に分かち合い、味わいます。

ちなみに、私が福岡の神学生時代に出席していた教会では、パン屋でもあった教会員の方が朝焼きあげた酵母入りのふかふかの丸い大きなパンを、牧師がそれをアーメン、アーメンと唱えるたびに2分割4分割にして裂いて、礼拝席の方々に渡して、それをさらに裂いては次の人にという具合に裂いて渡していくのが、なんとも新鮮でしたが。

又、キリストの流された血潮を象徴するぶどう酒を戴くことによって、私の罪を贖って神との関係を回復・新しい契約を結んでくださったことを確認するのであります。

これももともとぶどう酒が注がれた「一つの杯」を回しながら飲むというものでした。一説では、お茶を頂く茶道の原型ともなったと言われていますが。現在でもこういうふうに主の晩餐(聖餐式)を行っている教派もあります。これも今は衛生面の問題などから予め杯に注がれたものが用意され、それぞれが取って戴くというのが大半のようです。

今もぶどう酒を使っている教会もありますが、私たちの教会はやはり諸般の事情を踏まえぶどうジュースにいたしました。ただそのジュースは混ざりもののない100パーセントぶどうジュースがこだわりをもって準備されています。

主にある兄弟姉妹と共に、「キリストのいのちに与っている」ことを記念とし思い起こす、味わうというその奥深さ。

形式はどうであれ、本質的なところで主の晩餐をとおして、救いの原点を確認し、ゆるしと和解の恵みの中で、全世界の、すべての主の兄弟姉妹と主にあって一つとされていることを実感する恵み。それは唯主の霊、聖霊によってなされる業であります。

 

今日は「主の食卓を囲み」と題し、御言葉に聞いていきました。

大阪教会はよく食べる機会が多いですね。第一主日礼拝の中で持たれる「主の晩餐」をはじめ、毎週礼拝後の愛さん昼食、祈祷会後の昼食、さらに月二回の夕べの礼拝の中での食事と主の晩餐、そしてこども食堂と、実に食べることづくしですけれども。

しかしそれは、単に肉の欲求を満たすだけのものではありません。主の食卓を囲んで誰もが主に招かれた尊い存在であることを確認し、互いに励まし合う場、愛餐なのです。そこで私たちは肉の糧を頂くとともに、霊の糧である主の愛を分かち合い、ともに元気にされていくのです。

神さまの慈しみを、又、天の国の幸いを実感できる。そのような主の食卓がこれからも祝されますよう祈ります。さらに主によって満たされた私たちが、それぞれの生活の場でその福音に与っている祝福を分かち合って生きるなら、それこそ主の御心であります。

今日も主の食卓に共に与り、ここから遣わされてまいりましょう。祈ります。

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こども食堂・おいでや

2018-05-03 09:12:29 | お知らせ

「天王寺・こども食堂おいでや」 

親も子供も赤ちゃんも

中・高校生も みなおいでや

日本バプテスト大阪教会 

5月9日(水)午後5:00~7:00

教会の2階ホールへおいでください。

小50円 中、高100円

付添の大人200円

 

*毎月第二水曜日

5月9日、6月13日、7月11日

ごはん食べていっしょにあそぼう。

宿題も持っておいでや。

06-6771-3865

日本バプテスト大阪教会

 

 

 

 

 

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