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主の過越しの犠牲

2020-08-30 18:43:35 | メッセージ

礼拝宣教   出エジプト記12章1-28節 


① 「100年前から何を学び、活かすか?」
先日私は、2人の知人を介しての資料や記事から、100年前に世界で大流行したイン
フルエンザ(スペイン風邪)について知る機会がありました。この疫病によって世界で
は数千万人の命が奪われたというのです。日本では総人口の約3割が罹患し、実に25
万7千3百6人が亡くなられたことを知り、生まれていなかった私にとってたいへん驚
きでした。第1次世界大戦のさなかであったことも状況を深刻化させたようですが。そ
ういった中、当時の日本政府は「流行性感冒予防心得」なるものを出したそうです。そ
れが実に100年後の新型コロナウイルス禍の感染症対策とほぼ変わらないものであ
るようです。今後コロナ感染症の第3波4波が来るとも予想されていますから、「検査
と医療体制の充実や自粛や休業を要請する法的整備やそれに見合った補償等の施策を
国政として進めて頂くことが急務」と、過去の歴史から何を学んだのかが問われている
という内容でした。
こういった過去の歴史を知り、思い起こすことから、何を学び、どう今に生かしていく
かということがとても大事なことなんだと、改めて思わされます。


② 「主の過越し」
さて、8月より旧約の出エジプト記を読んでいますが、この3600年も前の出来事か
ら私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
先週のモーセとアロンの記事から、今日は「主の過越し」の記事となりますが。
その間、モーセとアロンを通して主なる神さまは、モーセとアロンを通してファラオに
警告なさったとおり、エジプトに「血の災い」「蛙の災い」「ぶよの災い」「あぶの災い」「疫病の災い」「はれものの災い」「雹の災い」「いなごの災い」「暗闇の災い」を行われます。しかしファラオは神を畏れるに至らず、その心はかたくなになるだけでした。
ファラオはイスラエルの民を解放することなく奴隷としてしいたげ続けたのです。
そこで遂に主がファラオとエジプトに直接手を下されるかたちでなされたのが、この
「主の過越し」の御業でした。
それは11章4節にありますように、「真夜中頃に主ご自身がエジプトの中を進まれ、
その時エジプト中のすべての初子が撃たれて死んでしまう」というものでした。これは
エジプトの全土に及ぶものであり、そのままではイスラエルの民のすべての初子も撃た
れてしまいます。そこで主はイスラエルに災いが及ぶことがないために、主の裁きがそ
のイスラエルの家々を過ぎ越していくための備えをするようにと、主はイスラエルの民
にお命じになられるのです。
先ほど読まれたとおり、それは「家族ごとが食べるのに見合う傷のない雄の一匹の小羊
もしくは山羊を用意し、それをイスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、
その血をとって、小羊を食べる家の入口の2本の柱と鴨居に塗り、その夜のうちに肉を
火で焼いて食べる」ということです
又、「酵母を入れないパンと苦菜を添えて食べる」。さらに「それを食べるときは、腰に
帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」ということでありました。
出立の声がかかれば、すぐにでもエジプトを出立する身支度をしておくということです。
酵母入りのパンはエジプト人の主食でした。エジプトにはそのパン焼き工場が盛んであ
ったようです。酵母入りのパンを焼くには発酵させるための時間がかかったのでありま
す。まあ、出エジプトに際しては、酵母入りのパンを作る時間などがなかったとか、そ
のまま旅にもっていく場合、酵母の入っていないパンの方が腐らず長期の保存ができた
ということがあったようですが。肝心なのは、この酵母の入っていないパンが代々に亘
って、この主の過越しの出来事の記憶とされていく、ということです。
続けて主は13節後半からこう仰せになります。「これが主の過越しである。その夜、
わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を
撃つ・・・あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たな
らば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の
災いはあなたたちには及ばない」。
ここで主の過越しと、犠牲の血を塗る意味が語られます。
その夜、ファラオよりも力あるお方がエジプトを訪れその全土を行き巡られるのであり
ますが、イスラエルの共同体も例外ではありません。彼らはエジプトの至る所に増え広
がり、ファラオの労働力として移住させられていたのです。
そこで主はイスラエルの共同体には、主の過越しと、犠牲の血を塗る意味を語られます。
この血は主の守りのしるしでありました。主なる神が「傷のない小羊の犠牲の血」が門
柱と鴨居に塗られるのをご覧になり、その家々を通り越されるのです。
一方、主が直接手を下されるこの災いによって、ファラオの初子をはじめ、エジプトの
国のすべての初子と家畜の初子すべては撃たれ、失われることになるのであります。
それまでの9つの自然界の災い、また疫病といった災いもそれはファラオやエジプトに
とって確かに大きな問題とはなりましたが。それでもなおファラオは自らの力を誇示し、
その心はかたくなであり続けました。9章30節でモーセが言うように、「ファラオも
家臣も、まだ主なる神を畏れるに至っていなかった」のです。
しかし、この自分の初子が災いに遭い、失ってしまうという事態に、さしものファラオ
も自分の力では及ばない力があるということを思い知らされ、心砕かれるほかなかった
のであります。彼にとっては得体のしれない「主」という存在に、大きな恐怖を感じた
のでありましょう。そうしてイスラエルの民が荒れ野で、「主に仕える」ことを許可す
る(12章31節)こととなるのです。


③ 「記念として」
さて、今日の箇所で特に心に留めたいのは、14節「この日は、あなたたちにとって記
念すべき日となる。あなたたちはこの日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべ
き不変の定めとして祝わなければならない」。24節「あなたたちはこのことを、あな
たの子孫のための定めとして、永遠に守らなければならない」との、主のお言葉であり
ます。
それは、彼らのために屠られた傷のない小羊の血が家の2本の柱と鴨居に塗られ、その
しるしをご覧になった主が過越しによってイスラエルの民を守られ、救われたという出
来事を思い起こして記念とするためです。そうして小羊を屠って焼き、種入れぬパンを
食べるという行為を通して子どもたち次の世代に、イスラエルの民とその信仰の期限を
なすエジプトの脱出とその意味をきちんと伝え、語り継ぐためであるということです。
出エジプトした世代は、直接それを目の当りにして経験しました。しかし時代が経つに
つれ、恵みの記憶は次第に薄くなっていきます。
そのことをだれよりもご存じであった神は、主の過越しの出来事を祝い、記念すること
を永遠の定めとして、子々孫々守り語り継ぐようにと命じられるのですね。
今もイスラエルのユダヤ教徒の共同体はその祭りの日に、「小羊を屠って焼き、種入れ
ぬパンを共に食べる」とことを通して、神さまが決定的に起こしてくださった大いなる
救いと恵みの出来事を追体験してきているのですね。
主イエス・キリストによる救いの時代に生きる私たちキリスト者は、この「主の過越し」
の出来事を神さまの新しい契約として与えられました。
すなわち、神の御独り子であられる主イエス・キリストは「世の罪を取り除く犠牲の小
羊」として十字架で屠られ、罪に滅びるほかない世界の、私たちの罪をあがなう「主の
過越し」を成し遂げてくださったのであります。
主イエスが十字架におかかりになる前夜、主イエス自らわたしの記念として行うように
と定められたのが、私たちが月の最初の主の日の礼拝の中で守っております主の晩餐で
あります。
主イエスが私たちの罪のために十字架でその御からだを裂かれ、槍で刺されて御血を流
されたことを共に覚えつつ、主の御からだを表すパンを食し、御血を表すぶどうの杯を
飲みます。神の義の厳粛な裁きとともに、主の大いなる赦しの重みと滅びからの解放の
恵みの深さを、私たちはそこで心新たに確認するのです。
そのように、記念として守り続けることは、私たちがその信仰の原点を見失うことがな
いためであり、それを忘れることがないためにとても大切なことなのです。


④ 「礼拝する共同体」
28節に「民はひれ伏して礼拝した」とございますが。
個々人の礼拝は毎日捧げることができますけれども、私たち主を信じる者が共に一つと
ころに集まって共に捧げる礼拝は、主にある兄弟姉妹という交わりの中で捧げる礼拝で
あります。
過ぎ越しの日、神さまはイスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れに羊を屠るように命じ
られました。また、1家族で食べきれない家は隣人と共に頂くように命じられたのです。
あの聖霊降臨を体験した主の群、エクレシアは、共に心を合わせて、祈り、互いのもの
を分かち合っていたのです。(使徒言行録2章43節以降)
共に分かち、共に祝うところに主の恵みの再確認がより深く心に刻まれるのであります。
先週の夜の祈祷会の聖書の学びの折に、コロナ禍もあり今はユーチューブなどで聖書の
御言葉を手軽に聞けるようになった一方で、教会に行く必要がないと思うようになるク
リスチャンたちが増えてこないかというご意見がありました。確かに、いろいろな伝道
者や牧師といわれる方からのメッセージを聞いて励まされるということもあるかも知
れません。
けれども思いますのは、主を信じる私たち一人ひとりが共に集い、共に賛美し、祈りを
合せ、礼拝を捧げ、主の晩餐を守る中で、主の臨在を覚えたり、聖書のことばが生きた
御言葉として響いてきたり、会衆賛美の中で涙が自然にあふれ出るような感動を覚える
のです。今まさにここで、共に集い、共に主を礼拝する中に聖霊のゆたかなお働きを感
じ、ここででしか味わうことのできないものがあるのではないでしょうか。主の交わり
の中に聖霊が豊かにお働きくださるのです。
もちろん様々な事情から礼拝に集うことが困難な方もおられます。そのような方を主は
必ずその求めによって顧み、慰めと励ましをもってお支え下さるでしょう。主にあって
私どものとりなしの祈りが継続されていくことは大切なことです。
今日の聖書の箇所で、主なる神が命じられておられるのは、いつも「主の共同体」とし
て共にその主の命じることをなしなさい、ということであります。
それは後の世代までも、又個々人の生涯においても、主の救いの恵みを覚え続けるとい
う目的があるからです。
コロナ禍のこういった状況下であっても、12章14節にありますように、「この日を
主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」。
それは、新約の時代に生きる私たちにとりましても変わることのない主の祝福の継続の
ための招きであります。その祝福に共に与りつつ、今日の御言葉をもって今週もそれぞ
れの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

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