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神を畏れる人たちの知恵

2020-08-09 14:50:57 | メッセージ

礼拝宣教「神を畏れる人たちの知恵」出エジプト記1:15~2:10 2 平和をおぼえて

 

8月6日広島、そして本日長崎への原爆投下、15日は太平洋戦争の終戦記念日と、戦後75年目を迎えます。本日は、神が創造された「いのち」の尊さを覚え、平和を祈りつつ、礼拝を捧げております。

今年も、御年92歳であられるSさんより、先ほど戦時中に体験されたその貴重なご証言をお聞きすることができました。思い出すのも大変な苦痛でいらっしゃると思います。現在、戦後生まれの人は人口のおよそ82パーセントになったということです。戦争体験のこうした証言を戦争を知らない方々が聞いて、その悲惨を知って、二度と戦争が繰り返さないようにと祈り求め、努めることができますように切に願います。武力や核兵器の抑止力によって真の平和は築けません。憎しみと争いの連鎖は拡がるのみです。戦争の悲惨さを語り継ぎ、恒久平和を掲げ続けることこそ戦争を繰り返さない真の抑止力になっていくと信じます。

 

  • 「2人の助産婦たち」

さて、先週の箇所ですが。エジプトの王が国民に「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」と警告し、エジプト人はそこで、イスラエルの人々のうえに重労働を課して虐待します。

王は自分が抱いた懸念をエジプトの人たちにも持たせ、エジプトの人たちは恐れや不安からイスラエルの人たちを差別し虐待したのです。

「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」のであります。

 

今日のところで王は、事態が思うようにならないことに苛立ち、秘かにヘブライ人の男児殺害を企てます。

これまでの「イスラエルの人」という呼び方が、ここで「ヘブライ人」に変わっていますが。これは、この当時エジプト人がイスラエル人を異邦人と見なし、壁を作り、見下すようになったことを表します。ヘブライ人は、定住地をもたずに移動する遊牧民、寄留者だという偏見と軽蔑を込め、そう呼ぶようになっていたのです。

日本人も戦時中戦後とジャップと軽蔑を込めて呼ばれたり、逆に日本の植民地統治下の朝鮮で、朝鮮名を廃して日本式の氏名に改めさせた負の歴史がありました。

しかし現代においても、差別的呼称をつける風潮というものがあり、SNSで拡散しているというのは大変残念なことです。

 

さて、増え広がるヘブライ人を脅威に感じたエジプトの王は、ヘブライ人の2人の助産婦を呼びつけ、「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」と命じます。

ところが、この二人の助産婦たちは、この王の命令に背き、従いません。彼女たちは男の子を生かしていました。聖書はその理由について、「助産婦はいずれも神を畏れていたので」と述べます。

彼女たちは王が怖くなかったとは思えません。王に逆らえば命さえ失う危険があるとわかっていました。それにも拘わらず、王の命令に対して抵抗します。神を畏れていたからです。それは助産婦として日夜、命が生みだされる現場で働いていたからこそ、彼女たちは「命の重さ、命の尊さ、命に優劣などない」「命にヘブライ人もエジプト人もない」「命に男も女もない」「みんなそれぞれが貴い命を神から授かった存在である」ということを、知らされていたのですね。

まさにそれは、命が生みだされるという神の創造の業に日々携わる中で、彼女たちは神への畏敬の念を日々覚えていたからでありましょう。

彼女たちはファラオから、「どうしてこのようなことをしたのか」と問いただされると、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と、まさに機転を働かしてそのように答えます。

 

  • 「3人の女性たち」

ファラオはその後、さらに全国民に向けて、『生まれた(ヘブライ人の)男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』と命じます。もはや秘密裏にではなく公の政策で、すべてのヘブライ人男児殺害の勅令を発布するのです。

 

そのようなヘブライ人の男児殺害の勅令の中、イスラエルの民をエジプトから脱出させる将来のリーダーとなるモーセが選び立てられていくのでありますが。そのための大きな働きをなしたのが、モーセの母と姉、そして何とファラオの王女という3人の女性たちであったのです。

まず、その母は、「その子がかわいかったのを見て、3ヶ月間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなった」とあります。泣く声も大きくなり、いつエジプト人の調査が来るか気の休まることはなかったでしょう。

そして、もはや隠しきれず、何とか命が助かるようにと切に願いながら、母は「パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」というのであります。母は子供が水に溺れないように祈る思いでそうしました。でも、その葦の籠がどこでどうなるかの不安はいっぱいだったでしょう。

その母親同様、心配でたまらなかったのはその男の子の姉(ミリアム)です。

葦の茂みから弟を案じながら、その様子をそっと伺っていたのです。

そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川を下りて来て、葦の茂みの間に籠を見つけ、仕え女をやってその籠を取って来させる様子を、息詰まる思いで見守っていたことでしょう。

王女が籠の中で泣いているその男の子を見て、ふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言うのを聞いたその子の姉は、葦の茂みの中からファラオの王女の前に出て、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出るのです。いや何とも勇気があるなあと思います。

彼女自身にもどんな危険が及ぶかわからない中、何とか弟を助けたい一心で、このような行動に出るんですね。

一方、ファラオの王女でありますが。

葦の茂みの間に置かれた籠の中の男の子を見たとき、その赤ん坊の様子や産着などを見て、「これは、きっと、ヘブライ人の子ですと言った」とあるように、その泣いている男の子のおかれた状況を察知し、とてもふびんに思ったのですね。

さらに、王女はその子と関わりがあると思われる女の子が突然目の前に現れ、「ヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出たとき、その背後にある状況をも察し、「これは何とかしなければ」と心動かされ、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」と答えたのであります。

 

この王女の行為はまさに、ファラオの「ヘブライ人の男の子を殺せ」との命令に真っ向から背くことでした。この事で父ファラオからどんな仕打ちを受けるかという恐れや不安を王女が持っていたことは十分考えられます。

けれども、この王女も又、先の神を畏れる2人の助産婦たちのように、目の前の命を守らねばという思いが、恐れや不安より勝っていたんだと思うのですね。

赤ちゃんというのは本当に可愛いもんですね。でも、それはただ可愛いだけでなく、王女は、エジプト人かヘブライ人か。男か女かということで、選別することのできない命の尊さを感じ取っていたと思うのです。

彼女はエジプト人の王女ではありましたが、命を創造し、命を生みだされる神への畏敬の念を覚えていたように思えるのであります。

 

  • 「命に優劣はない」

本日の聖書に登場する女性たちは、助産婦であったり、一介のヘブライの女性であったり、又、エジプトの王女であったり、と民族、立場はそれぞれ異なっていますけれども、ただ共通していることがあります。

それは、彼女たちは命の重み、命の尊さ、命に優劣はない、ということを知って、その信じるところから勇気ある行動を示したということです。

そして、それこそが実に神さまの御心を行うことであったのです。

神さまは人の目には見えませんが、そのような神を畏れる人たちに天来の知恵を授けて、御心を行うように導き、その道を守ってくださるのです。

今日の時代においても、命に優劣をつけた悲惨な事件が後を絶たないことは非常に残念なことです。それぞれが貴い命を神から授かった存在であること、その神を畏れる心を持つことが大切かと思います。

 

「隠れた神の計画」

ファラオの王女は、ナイル川の湖畔の葦の茂みの間に置かれた、ヘブライ人の男の子が大きくなったとき、その子を養子に迎え自分の子とします。

そしてその子にエジプト名「モーセ」と名付けるのですが。その名前は「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)」というところから名をつけたとありますが。

実はこの「水の中からわたしが引き上げた」の「引き上げた」には、「選び取られた」というもう一つの意味があるのです。

このモーセの名には、ナイル川に象徴される世の力と支配からイスラエルの人々を救い出すために「選び取られた者」という、隠れた神さまのご計画が表されているのですね。

今日の聖書の箇所を通して示されますことは、神さまの救いと解放のご計画は世の力や勢力が如何に強く働こうとも、必ず実現されていくという事です。しかもそれは世の支配と力によらず、神を畏れ、神が生み出す命を尊ぶ人たちを通して成し遂げられていくのです

神を畏れる2人の助産婦、祈るほかないヘブライ人の母と娘、さらに民族や立場の違いを超えて命をいつくしむエジプトの王女を、天地万物を創造され、すべての命の源であられる神が隠れたかたちでお用いになり、その後偉大な救いのご計画実現へ導かれるのです。

私たちは今日の聖書の御言葉から、神さまが神を畏れていた女性たちの背後にあって、生きてお働きになられ、すべてを持ち運んでおられることを知ることが出来ます。主である神への信仰を新たにいたしたいと思います。

今日は「平和を覚えて」の礼拝を捧げておりますが。この平和が脅かされ揺るがされている今、世界の国々に、神を畏れ、命の尊厳を見出し、それを成す人々が呼び起こされますよう切に祈りたいと願います。又、何であれ、指導的立場におかれた方々が「いのち」を生み出される神さまの存在を知り、神への畏れの念をもってその職務にあたられますよう祈り執り成したいと思います。

神の作品として造られた世界に生きる一人ひとりの命と尊厳が守られ、人種、性差、立場、国家間を超えた良好な関係が築かれてゆくことができるよう心から祈り願います。

今年は春先以来、コロナ禍で世界中の人々は先行きが見えず、日常の生活に恐れや不安を抱えながら過ごしています。しかし、私たちは、すべてを御存じであられる、命の主に信頼し、聞き従っていくところに真の救いと解放の恵みがあるということを確信して、主の栄光を仰ぎみつつ、共に歩んでまいりましょう。

聖書「あなたは主を畏れることを悟り、主を知ることに到達するであろう。知恵を授けるのは主。主の口は知恵と英知を与える。」箴言1章5-6節

 

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