日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

夕べの礼拝へのご案内!

2017-06-23 11:50:35 | 教会案内
6月25日(日)夕方午後6時ー7時半


これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-67771-3865
メール obcs@nifty.com
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主のために共に生きる

2017-06-18 14:11:06 | メッセージ
礼拝宣教  ローマ14章1節~12節 

本日は沖縄(命どう宝の日)を覚える日として、先ほど祈りとアピールがありました。
命どぅ宝、命こそ宝。それは鉄の雨といわれた爆撃とねじ曲げられた教育、思想統制によって集団自決に追い込まれ、犠牲となった方々の祈りの言葉に思えました。
個々人の内心の自由を侵害してきた戦前の治安維持法によって歯止めが効かなくなっていた戦争への動き。この過ちがどうか二度と繰り返されることのないように祈るばかりです。

本日の14章を読みますとローマの教会内には菜食主義者や特定の日を重んじるキリスト者たちがいたことがわかります。
ユダヤの人々は律法に定められた食物規定を守ることや特定の日を重んじる慣習があり、それを神の民のなりわいとして生きていたのであります。
それが、主イエス・キリストを信じて義とされてキリスト者とされたとき、もはや食物規定や特定の日を重んじるという、こだわりや捕われからの解放が、恵みによって与えられるのであります。
しかし、中にはその捕われから抜け出すのが困難な人たちもいました。キリスト者であるからには、「こうあらねばならない」「こうでなければふさわしくない」と、自らを律することは良いのですが。それが高じて、自分と違う考え方の人を裁く人たちもいたようであります。

1節のパウロのいう「信仰の弱い人」というのは、主イエスにある救いの確信が弱いために、そのように「かくあるべき」という決り事、規定を守っていたおそらくユダヤ人キリスト者の一部の人たちを指していたようであります。

主を信じているクリスチャン、キリスト者は、律法を守るから救われるのではなく、
イエス・キリストの救いの恵みを、ただ信じ受け入れて救われているのです。その恵みに感謝をもって応えて生きる。それは各々に委ねられていることで、全く自由なのです。きまりなどないのです。
そのように「キリスト者」は形骸化した規定や戒めから解放されています。けれども、そのことに何らかの疑いや懸念を抱いていた人たちがいた。
「キリストを信じるだけで救われるなど虫がよすぎる」「もっと清い生活に心がけるべきだ」と、食物規定や特定の日を重んじ、ストイックな生活をしていた人たちがいた。そういう人をパウロは「信仰の弱い人」と呼んだのでありましょう。

ローマの教会内には、そういった立場の人は少数で、数のうえでは「何を食べてもよいと信じていた人たち」が多数を占めていました。

そのようになっていきますと、今度は何を食べてもよいと信じる人たちが、野菜だけしか食べない人を信仰が足りないということで批判したり、軽蔑するようになっていくのです。
このようにローマの教会は、互いに主張し合い、軽蔑と裁き合いによって主の交わりが損なわれていくような残念なことが起こっていったということなのでしょう。残念といえばこんな残念なことはありません。せっかく救われて神の子とされて神の家族とされたのに、優劣をつけたり、軽蔑したり、蔑んだりと、神の恵みが躓きを与える場になっていきます。

パウロ自身はキリスト者となってからは、「なんでも食べてもよい」と信じていたのでありますが。それは彼自身が単に律法を厳格に守り、行うからといって罪は解決され、救われる者ではないということを、イエス・キリストの十字架の福音と出会い、身をもって知ったからです。
どんなにがんばっても、善行を積み、人から称讃されようとも、一方で罪を繰り返し犯してしまう。そんな罪ある自分のためにイエス・キリストは十字架にかかられた。人にはなし得ない罪からの解放が、イエス・キリストによって与えられた。そのことを受け入れたとき、パウロはもはや、すべての律法の縄目から解放されたことを知ったのです。

さて、そういうパウロはまず、「何を食べてもよいと信じているキリスト者」に向け、
1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と非常に強い口調で勧告します。

実はコリントの教会もローマの教会とは異なりますが、それと似たような問題を抱えていました。それはコリント一8章の「偶像に供えられた肉」というところに詳しくあります。
当時ギリシャ神話など偶像だらけであったその所では、食用にする前に肉を供え物にして献げ、その肉を市場などに卸して売買していたのです。
パウロ自身は、そういう「偶像の神」にたとえ供えられた肉だとしても、主イエスのもとにあるならすべては清い。信仰をもって頂くのなら、それを食べて汚れるということはないとの考えをもっていました。そもそも「偶像の神など存在せず、神は唯一なるお方である」との信仰のうえに立った知識をもっていたからです。

そのパウロはこうも述べています。
「この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」。
主にある信仰によって選びとった行動が、パウロのいう弱い人、つまりあの人がやっているから、やってもいいのかな、と信仰によらないで迷いのうちにやってしまう。すると神の前に弁明の余地無く罪を犯すことになるということを、パウロは言っているのです。
さらに、パウロは述べます。「知識をもっているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。この兄弟のためにもキリストは死んでくださったのです。・・・中略・・・食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」。
私たちの教会においても10数年前でした。イースターエッグをお近くにある他の宗教のもとへもっていった折に、お返しにお供えの赤飯を頂いたということがあったとき、それをどのように扱ったらよいか、という物議が起こったそうです。
まあ、それを感謝していただいて食べるという方がいる一方で、私は頂いて食べるには抵抗があるという方もおられたようです。そう言う中、各々の信仰で選ぶこととなり、ローマやコリントの教会のように裁き合う事は無かったようで、そうように互いの信仰観を尊重できるということが大事だと思います。

その8章の冒頭で述べているパウロの言葉をお読みします。
1-2節「偶像に供えられた肉についていえば、『我々は皆、知識をもっている』」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」。

そこには、自らの信仰的な考えと異なる人を非難したり、軽蔑するようなことが決してあってはいけない、と厳しくいさめるパウロがいます。

パウロは、すべての信仰者が食べものについて、同じ意見でなければならないとは考えていません。肝心なのは、6節にあるように「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と、双方がそれぞれのあり方で神に感謝している。そのことが尊いと言っているのです。
もしみんな自分と同じ意見や考えでなければならないとなったらどうでしょう。意見や考えを同じくする者同士でグループを作ってしまい、意見を異にする者とは関わりを持たなくなります。どこの世界でもそうやって分裂や分派ができていくのが世の常ですが。しかしそれが主に救われた者同志、キリストのからだなる教会でなされたならどうでしょう。私の信仰観こそ正しいと主張し、いがみ合うクリスチャンを見て多くの人が躓き、神の国はどこにあるのかという事態に陥ってしまうとしたなら、それこそ本末転倒です。

さて、4節でパウロは「他人の召使を裁くとは、いったいあなたは何ものですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです」と述べます。

ちょっと私たちには分かりにくい表現です。
これは当時のローマの家の奴隷を引き合いに出したたとえなのですが。
召し使いは各々主人のもとにいるのであり、裁くのであれば、その主人に権限があるわけで、召し使いの間では裁く権限はありません。なぜなら各々は主人のものだからです。
同様に私共キリスト者は、イエス・キリストによって罪贖われて、主のものとされたのであります。その主のもとにある一人ひとりですから、当然、裁くとすれば主がお裁きになるのであり、クリスチャン同志があなたは罪人だと裁いたり、レッテルを貼るようなことはできないということです。私たちは裁く立場、また人から裁かれる立場にはないということであります。
召し使いが「立つ」も「倒れる」も、この主人である主の意のままであり、たとえ信仰のうえで倒れるようなことがあったとしても、主がその人を立たせることがおできになる、ということをパウロは確信をもって言っているのです。

ここで大切なのは、主人である主の心を自分の心としていくいとき、主は兄弟姉妹をも憐れまれたことを考えなければならない、ということであります。もう一度言いますが、主の御心を生きていくとき、主はどの兄弟姉妹も同様に愛しておられる、ということを忘れないようにしなければなりません。多くの場合そのことを忘れたために裁いたり、見下したりしてしまうからです。
何を選び取るにしても、「私はこう考えるが。しかし主は何とおっしゃるだろうか」「主はどのようにお考えになるだろうか」。そのことを祈り求めていくことは大事です。

5節には、「ある日を他の日より尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」と、まあ、祭儀やまつりごとにおける守り方について様々な考えの違いがあったようです。これは日本という社会において他宗教の方の葬儀やクリスチャンでない家族が亡くなった後の供養や祀りごとと如何に関わっていくかとも関連していますが。
それらのことについてパウロは、「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」と述べます。
肝心なのは、各々が神との交わりの確信に基づいて決めるべきことであり、一人ひとり
の主に向かう心が尊重されなければならないという勧めであります。

今日は読みませんでしたが先の22節以降に、「自分の抱いている確信を、神の御前で心のうちにもっていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動しないので、罪に定められます」と語られています。

その「確信」とは、主イエスがわたしのために血を流し、肉を裂いて罪の束縛から解放し、救い出してくださったという恵みであり、その恵みにただ感謝し、よろこんで主のために仕えて生きる心にあります。何事も、その感謝の思いから出ることを神は喜ばれるのですね。

何を選択するにしても、人と比較するのではなく、私の感謝を捧げて生きる。そうであるなら私たちは知識によって高ぶることはないでしょうし、愛は立て上げるという信仰の恵みに生きることができます。
主に喜ばれることを目指して生きようと願う人は、食事にせよ何にせよ、神に感謝してなすなら、人を裁くようなことは起こり得ないはずです。
それが、喜びや感謝からでなく、義務感、さらには自己満足のための裁きや要求になっていくとき、それは本来の祝福を見失っている状況に陥っているかも知れません。何をするにしても、しないにしても、初めの喜びを見失うことのないようにしたいものです。主の愛と感謝のうちに留まり続けること。これに尽きます。

そういうことで、本日のみ言葉の中心メッセージは8節-9節にございます。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。

キリスト死と復活のバプテスマに与ったキリスト者は自らの生も、そして死すらも、主イエス・キリストに結びついているのです。
今、私の生きているありとあらゆる時間・場所・生の全領域のことがらは、主との結びつきにうちにすべてがあるのです。ここにキリスト者の根源的な安らぎと平安がございます。
同様に救いに与ったどの兄弟姉妹も尊い者とされている。主のものであるのですね。
何を食べているか、食べていないか。かの日を尊んでいるか、否かといった偏見の眼で高ぶり、見下し、主の兄弟を裁く者に対して、パウロはだれもが主のものとして尊い存在ではないのか!10節「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」と訴えるのであります。

主イエス・キリストが再び来られる主の勝利の完成の時、すべての人が神の裁きの座の前に立つのであります。
その時、12節にあるように「わたしがなしてきたことについて、(このわたしが)神に申し述べることになるのです」。

人間一人ひとりの考え方やその思想はみなそれぞれに違います。それは又、時と共に移ろい行くものでもあります。教会はそういう中で、何を大事にしてきたのか、何を基としていくのか、ということを聖書から聞いていく必要があります。
今日の荒波の時代にあっても、私がキリスト者として、又教会がキリストのからだとして神のいのちのことばである聖書から聞いていく。

キリストに罪贖われて「主のもの」とされた私です。教会に連なるだれもが、私と同様「主のものである」という尊敬の念をもって接し、お互いに神の愛によって仕え合い、立て上げられていくようにと、招かれています。

今週も今日の御言葉をこころにとめ、ほんとうに人を生かす福音の歩みへと導かれてまいりましょう。

最後に14章17-19節と22節を読んで宣教を閉じます。
「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」
「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい」。

今日もここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。
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神の権威の下で

2017-06-11 15:16:48 | メッセージ
主日礼拝式 ローマ12章9節~13章10節 

先ほどは本日のローマの信徒への手紙の箇所が読まれ、わかりやすい子どもメッセージが語られました。
「上に立つ権威に従いなさい」とは、「弱い立場の人の側に立って考える」「間違っていることは間違っているって勇気を出して伝える」。
そのことを十字架におかかりになるまで、身をもって示してくださったイエスさまに従うことを言っているのではないかという、メッセージ、アーメンです。

さて、私たちの日本においてはクリスチャンが1%いるかいないかです。欧米のようなキリスト教が根付いている社会とは異なる、いわば日本は異教社会といえますが。実にこのパウロの時代のローマの国は、クリスチャンからしてみれば異教社会そのものであったのです。
その後、キリスト教がローマの国教となっていくのでありますが。まだこの当時のローマのクリスチャンは、キリストを信じない異教社会にあって生活していたという事です。

そこでローマのクリスチャンたちが、その国において「如何に生きていくべきか」について具体的に述べているのが、今日読まれた12章9節以降の箇所なんですね。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という勧めの言葉以降には、異教社会に生きるクリスチャンの「愛に生きる生き方」について語られています。
ローマではじめにキリストを伝えていってローマ教会の礎を築いたその人たちの中にユダヤ人のプリスカとアクラ夫妻がいました。彼らは紀元49年にクラウディウス帝のユダヤ人追放令で、ローマを追われてしまうのですが。
その背景にはローマで熱狂主義的なユダヤ人たちが暴徒化する騒ぎがあったようです。
この暴動によりしばらくの間ユダヤ人はローマの政府指導者から危険視され、厳しい迫害が始まっていくのです。ローマの皇帝はクリスチャンもユダヤ教の一派とみなし迫害していったのです。
ですから、ローマ教会のクリスチャン達もまた、ローマの権力者に対して強い反感と敵意を抱いていたということであります。

そういう中で、使徒パウロはクリスチャンたちにユダヤ人の暴徒化していく動きとは異なる「キリストにあるもの」としての道を示します。パウロは12章21節にあるように「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と、イエスさまの歩まれた道、その生き方に倣うキリスト者としての道を勧めるのです。

それは今日の13章1節以降にもつながり、そこからは具体的に異教のローマという国において生きるクリスチャンとしての立ち位置、スタンスを提示します。
それが、1節冒頭の「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものです」とのパウロの勧めであります。

このパウロの言葉には驚きを覚えます。なぜならここでの「今ある権威」とは具体的には当時のローマの政府や行政を司るものすべてを指しているからです。
それは自分達クリスチャンを迫害し、排除しようとしている世の権力です。パウロはそれをも神に由来した権威として認めている。
そう聞いていくとき私たちはこれを一体どのように読めばよいのか考え込まないでいられません。
まあ、けれどもパウロはここで「教会と国家」という関係について、何か教会は国家や政府の下にあるのだからその言うことに従いなさいと言っているのではありません。

旧約聖書の時代より、たとえば預言者ダニエルと3人の友人は、異教のビロンの王宮に仕えながらも、王が下した命令に聞き従うことを拒み、偶像にひれ伏しませんでした。彼らは主なる神に祈ってはならないという命令を破り、いつものように日に3度ひざまずき、神の前に祈ることをやめませんでした。
このように神を信じ、畏れ愛する者は、信仰のうえで譲ることのできないことに対しては「否は否、それは違う、それはできない」と意志をもって行動してきたのです。
たとえ相手が権力をもつ王であれ、為政者であれ、同様でした。真理に反するものには従えない。神を信じる信仰者にとって、何でも権力者のいうことに聞き従うことにはならないのです。使徒パウロも、ここで世の権力者たちの命令に何でも聞き従い、どんなことでもいいなりになりなさい、と言っているのではありません。
では、どうしてパウロはローマの教会のクリスチャンたちに向けて、「上に立つ権威に
従いなさい」と勧めたのでしょう。

それは先ほども触れましたように、たとえ世の権力者による抑圧や弾圧が降りかかるようなことがあったとしても、権力者に対して暴動や熱狂による「悪をもって仕返しする」のではなく、クリスチャンとして「信仰を示していく」必要がある。そのことをパウロはここでローマの教会の信徒たちにさとしているように思います。

先の「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行なうように心がける」。21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」ということですが。
そのように生き、行動していく時、本当の権威とは何か、権威はどこにあるのか、ということが世に明らかにされていく。それがパウロの信念であり、信仰でありました。

3日の土曜日、9月公開の「アメージングジャーニー;神の小屋」という映画の試写会
に行ってまいりました。娘を殺害された父親が犯人を恨んで許せませんでした。そこに「英知」という名を持つ女性の裁き司が現れます。そして裁きの座に彼を立たせ「あなたが裁きなさい」と言うのですが、クリスチャンである彼は結局娘を殺した犯人を裁けないんですね。そのシーンを見ますと、彼は裁きの権威がどこにあるのかを知るがゆえに裁けない。そしてそれを見た私も、ああやはり「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものなんだ」と、今日の13章1節後半のそのお言葉の通りだと、改めて知らされるわけです。

さて、その一方でパウロは、ローマの為政者、権力者も「神の権威の下にある」ことを否定していません。世の権力をもつ国や行政の機能と秩序を肯定しています。それらを絶対悪として否定する熱狂主義的な立場には立っていないということです。
一般的な責務があるのなら、それを果たすことは、キリスト者としてふさわしい事であり、そうすることが世にあって信仰を示すことにつながると考え、行動してしていたといえます。

7節でパウロは「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢ぎを納めるべき人には貢ぎを納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」と勧めています。

イエスさまも税金について尋ねられた時、「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に」とおっしゃいましたが。このイエスさまのお言葉はまさに主である神にこそ一切の権威、権能を司り、それを自由にお与えになることのできるお方であることが言い表わされているんですね。

今日、この聖書の箇所から「神の権威の下で」という題をつけました。
世のあらゆる種々の権威は、この神の権威の下にあるということを覚えたかったからです。おおよそのクリスチャンは無政府主義者というわけでも反国家主義者というわけでもないでしょう。あるとするなら、世のあらゆる権威の源である神を畏れ敬い、その神の前に如何に生きるかというこの一点であるでしょう。そこにはクリスチャンの然りは然り、否は否という生き方があるのです。まあそのことのゆえに、国のこと、世界の動向、政治のことにも無関心でいられないということがあるわけですね。昨今の社会情勢
も気が気でないということで、見守り、覚えて、祈り続けておられる方もここには多くいらっしゃることでしょう。
そのように、世の種々の権威は神の権威の下にある。では、「神の権威」とは、具体的にどういうものでしょうか。さっき映画の話をいたしましたが、。映画では「英知」という存在として、それが示されていたのでありますが。

私たちクリスチャンは、その神の権威を旧約聖書イザヤ書9章5節に見ることができます。クリスマスのときによく読まれる箇所でありますが。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに
与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父
、平和の君』と唱えられる。」

そうですね。私たちにとって神が与えたもう最高の権威は、このイエス・キリストの肩にあるのです。

イエスさまは十字架につけられる直前、ローマの総督ポンティオ・ピラトに尋問され
「お前がユダヤ人の王なのか」との問い掛けられたとき、「わたしは真理について証しするために来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18章37節以降)とお答えになります。
これはローマ総督のピラトがまず世の権力をもってイエスさまに尋ねるわけですが。
けれど、このイエスさまの「わたしは真理を証しするために世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声に聞く」とおっしゃったこのお言葉には、すごい権威がありますよね。ここに私は地上の権力とは異なる神の権威といったものを、このイエスさまのお言葉に感じるのであります。
また、安息日に麦の穂を摘んで食べた人々を問い詰めたファリサイ派の人たちにイエスさまがお答えになった箇所のマタイ12章9節以降にも、イエスさまは「神殿よりも偉大なものがここにある。もし「わたしが求めるものは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである」とおっしゃいました。
神がその権威を「愛と憐れみをもって顕わされた」。それがイエスさまなのですね。
イエス・キリストはまさにこの神の憐れみを身にまとわれて、神の権威をお示しになられたのです。

私たちは、このイエスさまの憐れみによって生かされ救われた者として、今生かされている生活の場において、主の愛に応え、証ししていく者とされてまいりましょう。
今週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります(8節a,10読む)。
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キリストに結ばれて

2017-06-04 20:51:09 | メッセージ
主日礼拝式 ローマ12章1節~8節 聖霊降臨・ペンテコステ

聖霊降臨、ペンテコステを迎えました。
今日はその大いなる恵みを覚えつつ、御言葉のもとそれぞれ主に立返り、ここから新たな週のあゆみを始めてまいりたいと願っています。

本日はローマの信徒への手紙12章1~8節より「キリストに結ばれて」と題し、御言葉に聞いていきます。

先週の11章のところでお話しましたように、ローマの教会の開拓はユダヤ人クリスチによって始まり、教会の基礎ができ、その伝道を通して異邦人であるローマ人やギリシャ人といった人たちがクリスチャンとなっていきました。
そのうちの異邦人クリスチャンがユダヤ人クリスチャンの人たちより多くなり、力をもつようになり、どこかユダヤ人クリスチャンたちを見下したり、自分たちの優位性を誇ったりすることがあったようです。片やユダヤ人クリスチャンもユダヤの慣習を押し付けようとする者もいました。
パウロはその異邦人クリスチャンに対して、「野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝(ユダヤ人)に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11章17-18節)と忠告しました。
その根とは、ユダヤ人も異邦人も「すべての人を憐れむ」(11章32節)神の愛です。
そこには分け隔てはありません。主イエスによって救われた罪人にすぎず、主の憐れみによって神の民とされます。だれも誇ることはできないのです。

この問題を私たちのことに引きつけて考えてみたいと思います。
たとえば、この人は「奉仕をされる」とか「何々ができる」ということが物差しになって、教会の中で重んじられたり、逆に軽んじられたりすることがあったとしたら、ローマの教会でユダヤ人の人たちを見下したり、自分たちの優位性を誇っていた人たちと何ら変わらないでしょう。
クリスチャンとしての存在の価値は、ただ神の子が流された血による「神の憐れみ」以外の何ものでもないからです。それは完全に神の賜物です。
わたしたちはどのような人も、例外なく、あなたも、わたしも、この神の憐れみの根っこに支えられ、価値ある存在とされているのです。

その事を受けて今日の12章1節で「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とお勧めがなされているのですが。
それは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして捧げなさい。これこそ礼拝です」という礼拝についての勧めです。しかしこの礼拝というのは何も日曜日の午前10時半から12時と、そういうことを言っているのではありません。ここで問われているのは私たちの捧げる信仰の中身、本質であります。

パウロは1節で自分のからだを神に喜ばれるものとして、「聖なる生けるいけにえとして捧げなさい」と述べます。
岩波訳では「生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」となっています。これが「なすべき礼拝」、原語的には「理にかなった礼拝」だというのです。

そこにはまず「イエス・キリストご自身が私たちの罪を贖う生きた、聖なる供え物となってくださった」ことがございます。その主イエスを仰ぎ、倣いつつ生きるように私たちは招かれているのです。
具体的には2節にあるように「世に倣ってはなりません。むしろ、日々心を新たにして主の言葉と聖霊のお働きに聞いて自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知るようになりなさい」とのお勧めであります。

まあ、そこには異邦人のクリスチャンたちを取り巻く環境や誘惑があったことが読み取れますが。まあ、私たちもそうですね。だからこそ、聖霊によって心を新たにしていただく必要がございます。
それは人の力ではなし得ません。又一人でなし得るものでもありません。
主に呼び集められた人たち、それをエクレシア;教会というのですが。その主に呼び集められた人たちの間にお働きになる聖霊によってのみ、わたしたちはその招きに応え得る者とされるのです。聖霊を通して大いなる主の恵みに心から感謝と賛美をもって、自分のからだを神に喜ばれるものとして捧げる真の礼拝に与ることが出来るのですね。そこに主のゆたかなお取りはからいと祝福がございます。

さて、そのように1節、岩波訳では「あなたがたのからだを、生ける、聖なる、神に喜ばれる供え物として献げなさい」と勧めるパウロは、3節以降のところではローマの地域教会を人間の体にたとえ、ユダヤ人も異邦人も相互に支え合い助け合う存在であることを説きます。

私たち一人ひとりのクリスチャンはキリストの教会の体の一部であるというのですね。
さらにその大切な一人ひとりは、人間の体がそうであるように「すべての部分が同じ働きをしていない」。そこが重要です。
パウロはコリントの信徒への手紙12章においても、「一つの体、多くの部分」として
教会をキリストの体にたとえていますが。
今日の5節にも「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と同様のことを述べられています。

耳は目になることはありません。しかし耳をとおして体は聞くことができます。又、目を通して体は見ることができるのです。それは言い換えるなら、わたしという存在が他者を生かす者であり、同時に他者の存在が意識しなくても私を生かしているという関係性です。
主イエスあってだれもが尊く、主に呼ばれていることを知り、お互いの存在を認め合いながら、共に先に申しあげたような礼拝者として生きていく。それこそが「キリストの体なる教会の本来あるべき姿」であり、そのような教会を建てあげていくように、わたしたちも招かれているのです。

さて、ローマの教会と同様コリントの教会にも重大な問題が起こっていました。文字通りからだが病んでいるような状況に陥っていたのです。
それは、ある人たちは自分に与えられた賜物や立場といったものを誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人への無理解や無関心によって、その人たちが痛みを覚えるようなことになっていたのです。それは教会にとって病巣(びょうそう)となっていたということですね。
そのことに関してパウロはコリント一12章22節でも「からだの中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と述べています。
弱いというのではなく、弱く「見える」部分と記されていることに注意を払う必要があります。
世の競争社会に生まれ育った私たちはあらゆるところでランクづけされ、優劣をつけられる中で優越感や逆に劣等感にさいなまれ、他者と比較し強いか弱いか評価してしまうところがあります。
しかし弱いか強いかなんて本来他者であれ自分であれ、人が評価するようなこととは違うと思うんです。人はいつどうなるか、その立場も境遇もどう変わるか分かりません。
ましてや立場や境遇で人の尊厳が損なわれるものではありません。
弱いとか強いとかいうものは極めて相対的なものであるのです。単に「弱い」「強い」という世の価値観がその人をもちあげたり、おとしめたりしているに過ぎません。
だからパウロは、弱く見える、そう見えるだけという意味でこの言葉を用いたのですね。

レ―ナマリアさんという方がいます。ご存じの方も多いと思いますが。彼女は生まれつき両手がつけねまで、片足も短く生まれました。
そういう中で、ご本人の周りの方、特にご家族の深い愛情と祈りに育まれ、ご自身の
るがままにその命を輝かせておられます。片方の足でみごとに生活の必要を満たし、家事炊飯針仕事までなさるそうですね。そしてその信仰の感謝と喜びに満ちた希望の歌は、聞く人の心をいやし励ましてくれます。彼女は社会的には身体しょうがい者という立場の弱者とみなされるかも知れません。しかし彼女は信仰によって自分がどれほど尊い者とされているかをご存じです。だからこそ、クリスチャンのみならず世の多くの人に生きる力を分け与えてくれているのですね。

かつて世界中が戦争を繰り返していた国において「しょうがい者」を世にあって必要のない存在:優生思想のもと切り捨て、ないがしろにする暗い時代があったわけですが。それはまさに社会が病んでいる、機能不全に陥っている状況であったといえます。
弱く見えるから切り捨てる。基準が合わないから排除する壁を作る。それは殺伐とした世界を示します。社会全体が病んでいることを現しています。様々な人がいるからこそ本当のゆたかさ、学びや気づきや愛情など、目に見えものだけでは計り知ることのできない経験を得ることが出来るのに。本当に残念なことです。
 私たちの体は血液の循環によってそのいのちと健康が日々保たれていますが。私たちの体内には常に一分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。血液は体を感染や悪い菌から守り、血液の白血球や赤血球というものはからだの中で最も小さな部分のように思えますが。その最も小さいように思えるところが実は体を守り、すべての器官を助け、影響を及ぼしているんですね。心臓の弁だってそうですね。肉眼では見落とすぐらい小さな蓋です。
このように考えると、からだの中で最も小さく、弱く見えるようなパーツの一つひとつが保たれてこそ、健やかに過ごせるでしょうし、傷んだところ、弱ったところができたならいたわり、ケアすることで命は保たれるんですね。

先週はローマ11章を読みましたが。神はユダヤ人も異邦人も合われ憐れんでおられるのです。その神の腸が痛まれるほどの愛によってユダヤ人も、又異邦人であっても救いに与り、キリストに結ばれて神の民とされたのです。
わたしたちは今、目に見えるかたちで大阪教会という一つの地域教会において礼拝を捧げて今日の宣教題のように「キリストに結ばれて、一つのからだを形づくっています」。
互いが大切な存在とされていることを、支え合い、祈り合う中で確認しています。
それが主に結ばれた恵みのあかしとなっていくよう心から願うものです。

同様にこの世界中に建てられているすべての教会は、主に呼び集められた群れなのです。
それらの出発点は、今日記念し覚えています「聖霊降臨」、ペンテコステであります。
ご復活の後、天に昇られる際、主イエスは弟子や従って来た者たちに「約束された聖霊が降るまで、エルサレムを離れず待ちなさい」(使徒言行録1章)とおっしゃいました。
一同が主の約束に望みをおいて集まり、心を一つにして祈っていたそのところに聖霊が降った(使徒言行録2章)のですね。
世界で最初の聖霊降臨の記述です。聖霊のお働きは、賜物として一人ひとりを主に用いられる者となし、そこに初代教会が誕生していったのです。
聖霊は2000年を経た今日も主イエスを信じ、救いに与る教会の力、慰め主、導き手であられます。今日のこのペンテコステはその誕生祭としてこのように祝われているのですね。
「主イエスの十字架による贖いと復活、その主イエスを信じる者は救われる」との福音は、エルサレムだけでなく、中近東、そして小アジア、ギリシャやローマにも聖霊の働きとお導きによって伝えられていきました。
そして今や、あらゆるところにまでキリストのからだなる教会が建てあげられ、さらに福音の証しが立てられ続けています。
今日はこのすばらしい恵みを心から覚え、感謝と新たな献身の思いを頂いてここから今週のそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。祈り(6節~8節)
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