礼拝宣教 マルコ7章24~30節 2022/1/30
本日はマルコ7章24~30節より御言葉に聞いていきたいと思います。同じ場面が記されているマタイ15章には、主イエスはただ「ティルスとシドン地方に行かれた」とあるだけですが。
このマルコ福音書には、24節「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」と、詳しく記されております。
そのティルスとは、ガリラヤ湖北西部の地よりかなり離れたフィニキア、今のシリアでありました。この地は当時ローマの管轄下にあって、政治的にも民族的にもユダヤ人から見れば外国であり、異教の地でした。
主イエスはユダヤの地で多くの人に望まれ、イスラエルの民に救いと解放がもたらされることを強く願っておられたのに、なぜわざわざ異邦の地ティルス地方に迄行かれたのでしょうか。その理由については何も記されていません。
ただ、「だれにも知られたくないと思っておられた」とあります。それは連日、御自分を追って来る群衆への対応で、さすがの主イエス御自身も肉体的、精神的にも疲労困憊なさっておられた。まあ、ここまで足をのばせば少しは静かに休むことがきると、そうお考えになっての事だったのかも知れません。
また、もう一つ考えられることは、3章に、ガリラヤでの主イエスの活動に対して、「ファリサイ派の人たちがヘロデ派の人々と一緒にイエスを殺そうと相談し始めた」とあります。主イエスは、ユダヤの指導者たちから常に非難を受け、命までも狙われ始めたことを身に感じ、そんな彼らの頑なさを嘆き、苦悩されておられたのでしょう。
そのような中で、主イエスは御自身を取り巻く物事や事象から一旦距離をおいて、静かに状況を見つめ直し、父なる神の御前に静まる時をもとうとお考えになったのかも知れません。そういった忙しさと緊張の日々に休息を必要となさったのかも知れません。多忙と緊張を強いられる日々にあって、霊肉共休養なさる必要があったとも考えられます。
ところが、この遠い異邦の地においても救いと解放を求める人の願いは切実でした。
主イエスが滞在されていた家はすぐに見つけられてしまうのです。
25節、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏し、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」。
きっと、この女性も以前から主イエスのうわさを耳にしていたのでしょう。何とかそのお方に娘を助けていただきたい、と切に願い、祈っていたのではないでしょうか。
そのお方がこの異教の地の、しかもすぐそばにまで来ておられるという、まあ驚くような情報を得るのです。
そうして、イエスさまのことを聞きつけた彼女は、「来てその足もとにひれ伏した」のです。
苦しむ娘から目を離し、家に置いて自分が出かけても大丈夫だろうか、といった心配もあったかも知れません。しかし、この神が与えてくださったチャンスを逃してなるものかと、何をさておき主イエスの御もとに駆けつけたのです。それはもう信仰です。
そして、主イエスにお会いすると、「足もとにひれ伏し」必死に懇願するのであります。
「ひれ伏した」とは、「礼拝した」ということです。
異教の地においては、神ならざるものを神として拝み、偶像崇拝と汚れた霊の働きが満ちていました。そのような中でこの女性は、主イエスのうちにお働きになるすべてを治め司っておられる神によりすがり、礼拝するのです。
又、28節でもこの女性は、イエスさまに対して「主よ」と呼びかけています。それはイエスが「教師」や「先生」ではなく、私の「救い主である」との表明、つまり「信仰の告白」を言い表わしているのです。
彼女は娘の解放と救いのために主イエスの御許に向う中で、自分の救い主と出会ういうこの上ない経験をすることとなるのです。
主イエスは「娘から悪霊を押し出してください」との彼女の言葉に対して、次のように答えます。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない」。
主イエスのお答えは意外なものでした。
ここを読みますと、「こんなにも必死に頼んでいるのに、何て冷たい」「犬と軽蔑して呼んでいるのは差別ではないか」などと思う方もおられるでしょう。
一つ考えられますのは、この時の主イエスの心境についてであります。
そのお心のうちには、ユダヤの民の救いと解放のことでいっぱいであったということがまず考えられます。それは単に同じ民族としての愛着から起こる感情というより、神の前におけるイスラエルの民の悔改めとその救いに対する主イエスの強い思いがあったと考えられます。
しかし、この主イエスの「まず」という言葉には、異邦人である女性の娘の救いと解放を頭から否定しているものではないのです。
主イエスは「神の救いと解放はユダヤから始まって、そこから異邦の地に」という神のご計画があることをここでお示しになります。
先週は、主イエスがユダヤのガリラヤで5千人以上の人たちを「5つのパンと2匹の魚」で養われた記事を読みましたが。それはガリラヤ湖から山間の地で、ユダヤの民に対してなされた主イエスの養いでありました。
それが本日のティルス・フェニキアの女性との場面を境に、主イエスはさらにデカポリスの地においては、「7つのパンと少しの魚」で4千人以上の異邦人を主イエスが養われるのです。
そのように、主イエスが、ここで「まず」と言われたことの中には、異邦人の救いと解放を否定したという意味ではなく、ユダヤ人に訪れる救いと解放はやがて異邦の人たちにも訪れる、ということが予知されていたのであります。
また、この「犬」というのは、確かにユダヤ人が異教の神々を崇める偶像崇拝者である異邦人を野良犬のように軽蔑して犬と呼んだということでありますが。しかしここで主イエスが口にされたのは「小犬」たちです。それは野良犬ではなく、当時の中近東でも室内で飼われていた飼い犬や愛犬を表していたのです。
この時代も食事の折に食卓の下で待ち受けている愛犬がその落ちてくるパンくずを今か、今かと待ち受けており、その食卓のおこぼれに与っていたのです。
ユダヤでのパンの食べ方については、独特な食事規定があり、私たちからしてみればちょっと風変わりな食べ方をしていたということです。彼らはまずパンをちぎりやすいように平たく作り、大きな皿に盛り、各自が取って、分け合って食べたそうです。パン以外の料理は、主に手で食べ、食事が終わると、残ったパンの切れはしを指で拭き、そのパンの切れはしを床に放ち、飼い犬に与えていたそうです。
いずれにしましても、ここで主イエスが野良犬とは言わず小犬と言っておられるということで、それはいわばイスラエルの民が羊たちであるなら、異邦の民は愛犬たちとでも申しますか。主人(あるじ)である神さまとその子らユダヤの民らの住まいに、異邦人である彼ら彼女ら、そして私たちも又、共に住み、共に神の養いに与る神の家族であることが、ここに暗示されているように思います。
さて、その主イエスの言葉を聞いたこの女性は次のように答えます。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。
彼女はそこでくさることなく、決して諦めず、主に求め続けるのです。何しろ娘の人生と命が主なるイエスさまとの出会いにかかっていると信じているからです。
さすがの主イエスも、この彼女の返答とそこにこめられた一途な信仰に突き動かされるかのように、29節「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と、おっしゃいます。
30節「女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた」。主イエスのお言葉のとおりの御業が現わされるのであります。
本日は、主イエスのお言葉から「それほど言うなら」という宣教題をつけました。
口語訳や新共同訳改定版には「その言葉で十分である」と訳されていますが、やはりもとの新共同訳の「それほど言うなら」、又岩波訳が「そう言われては(かなわない)」とうまく訳していますように、「それほど言うなら」、「そう言われては(かなわない)」との訳が、ここでの文脈にあって私たちのうちに強く響いてきますよね。
しばし喧騒から逃れ、だれにも知られず安息を得ようと異邦の地にまで来られた主イエスでした。又、異邦人に救いがもたらされるのは、まずユダヤの人々に次いでとお考えになっておられた主イエスでした。
その異邦の地で主イエスはご自分の思いを超えた、「これはまいった」としか言うほかないような異邦人の女性の「生きた信仰」を目の当たりにするのです。
そのような出会いの中で、喧騒から逃れて来た主イエスご自身が、実に励まされ、リフレッシュされる経験をなさったのではないでしょうか。
この後、主イエスはまるで霊肉ともパワーアップされたように、さらに異邦の地のシドンやデカポリス地方に足を運ばれ、異邦の人々に御国の福音を伝え、4000人以上を養われるのです。
主イエスに「それほど言うなら」と言わせたこの女性の信仰。その主イエスに信頼し、どこまでも尋ね求めていくその一途で一心な願いと祈りは、必ず主のお心に届く。
それは又、私たちにとってもこの上ない大きな希望ではないでしょうか。