日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「共に福音に与るために」

2024-04-28 14:05:30 | メッセージ
主日礼拝宣教 Ⅰコリント9・19~27                

四月も四週目を迎えますが、朝の光を受けた木々の新緑に心和む時節になりました。教会玄関前のバラ(アンジェラ)も開花し始めました。一方で今年も猛暑が予想されます。
今年3月に「外国人国籍者の永住許可取り消し法案」が閣議決定され、4月から国会で審議されています。一昨日はこのことを受けて外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会(外キ協)等が主催する緊急集会にオンラインで参加しました。この法案は倒産、失業、大病をして、税金や社会保障料支払うことができなかったり、在留カードの不携帯、その更新を怠った場合、又僅かな罪等で執行猶予になった場合等で長年かけて取得した永住権を取り消されてしまう、強制退去となるような法案だということを初めて知りました。集会では諸教会につながる外国人国籍の方、その家族の方、教会の方からの不安と戸惑いの声をお聞きしました。病や資産の問題等は誰にでも起こり得ることでありますから、もし自分や家族がそのような対象になったらと考えますと、それは大変なことです。願わくば、日本で移住生活をされておられる方々の命と尊厳とが守られますよう、祈りに覚えていきたいと思いました。

さて本日は、先ほど読まれましたⅠコリント9章19節~27節よりみ言葉を聞いていきます。
パウロは、19節で「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」と述べます。
彼はキリストに出会う前は神の律法を規定通りに細かに守っていました。律法を守らない者を裁き見下し、律法そのものを否定しているように思えたクリスチャンを激しく迫害しました。
けれどもパウロは復活の主イエスと出会った時、その律法の本質といえる「神の愛」を知って打ち砕かれました。そうして自由な者とされたのです。それは囚われからの解放であり、まさしく救いでありました。この「福音」を伝えずにはいられなくなったパウロは、できるだけ多くの人たちを救いへと獲得するため、奴隷のようにすべての人に仕えるようになった、という事です。
どのようにかと言いますと、20-23節にあるように、「ユダヤに対しては、ユダヤ人のようになりましたユダヤ人を得るためです。・・・律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。・・・律法を持たない人(異邦人)に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人には(ここでは信仰における確信がないまま偶像にささげられたものを食べて心痛めたりと、誘惑にからめとられていく人)に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてにものになりました」とパウロは述べています。
そこには、23節「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」と言う福音伝道のパッションがありました。けれどその情熱の原動力は、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるため」だと言うのです。あらゆる人と「わたしが福音に共にあずかる者となる。」そのためにパウロは「どんなことでもする」とまで言うのです。

祈祷会の聖書の学びの時に、ある方がこの箇所を読まれて、「クリスチャンになったばかりの時は福音に共に与るということを考えたこと、思ったことがなかった。ここで、パウロはどんな人にも福音を伝えるということを書いている。相手に一方的に福音を伝える以前にその人との関係が築いていき、そういう中で一緒にイエスさまのことをお話できるということが大事かと思った」とこう話されていました。そのとおりだと思います。
福音とは自分一人が救いと解放を受け、満足することからさらに隣人や他者と共にあずかっていくことにより益々ゆたかなものになっていくのです。
福音と出会う前のパウロは自分が律法を持っていると人を見下し、迫害していましたが。福音による解放と救いにあずかってからは、福音を共に分かち合う者となったのです。

クリスチャンであっても自分はすばらしい言葉を持っている、助けてあげるといような上から目線で一方通行の押しつけであるなら、相手は引いてしまうでしょう。パウロがここで「福音に共にあずかる者となる」と言っていることと相反することになるでしょう。
神の愛と良き訪れであります「福音に共にあずかりたい」と願う時、祈りと共に相手を尊敬する思いが与えられるでしょう。自分の信仰を持ちながら相手を尊重し、主の愛に依り頼んで祈りとりなす福音の伝達者でありたいと願います。

毎年越冬の夜回りに参加させて戴いていますが。釜が崎キリスト教協友会という団体はカトリックやプロテスタントの教会の神父、牧師、信徒、ミッションスクールの教師や学生などが自由に参加して活動していますけども。夜回りも炊き出しもキリスト教の布教目的ではなく、「神にあってみな尊い命」というところで、一つになって奉仕しています。
そういう中で、「ああ、キリストの人たちか」と気づき、福音に出会う方が起こされれば、それはうれしいことですが。
大震災の被災地で、炊き出しの食事と一緒にキリスト教のトラクトや聖書を差し出された人が、「善意と思ったが、ああ布教のためだったのか」と心閉ざされたという事が実際あったようです。
私の苦しみに共感して、と思っていたが。自分の信仰のためだったのかと、がっかりさせてしまうとしたのなら、パウロの言っていることは逆のことをしていることになりかねません。
「もし自分がその立場であったら、どう思うだろうか。」一人の尊い存在として向き合う中で、声かけをし、心に迎え入れてもらうところからまず始まっていくのですね。
キリストの教会がすばらしい言葉を持っているとか、私たちはそうした人たちに語るべき言葉があるという思いは、夜回りをするなかで打ち砕かれ、私自身のうちに語りかける言葉が乏しいなという無力さ、ただその人の側に寄り添うことしかできない経験をします。
それでも向き合い、関わりをもち続ける中で信頼関係が少しでも築かれていけるとしたならうれしいですね。それは神の恵みの賜物です。
そこにはもはや支援する側とか支援される側というような関係、教える側とか教えられる側というような関係はなく、互いが神に造られた尊厳を持って生き、生かされているという思いが与えられるのです。それもパウロのいう「福音に共にあずかる」ということなのではないかと思うのです。
そういうことから申しあげたいことは、パウロのいう福音は一人で受けるものではなく、共にあずかるものであり、共有していくものなのです。
主イエスは「天の国は実にあなたがたの『ただ中』にある」とおっしゃいましたが。そのとおりだと思います。私たちの間、又私たちの遣わされる人と人の間が、そのような天の国となりますようにと祈ります。

さて、今年はパリでオリンピックが開催されますが。4年に一度世界のスポーツの祭典となっていますオリンピックは、古代ギリシャの町の一つであったオリンピアがその発祥の地であります。
ギリシャのコリントの町では、イトモスというスポーツの祭典が2年に1度行われていたようで、24節以降に、それに関係する競技場、走者、拳闘、賞といった用語が出てきます。競技はレスリング、幅跳び、やり投げ、円盤投げ、競争、拳闘(ボクシング)の6種目がアスリートたちによって競われていたようです。
ここでパウロは競技場のアスリートたちを例にしながら、福音を語る自らの使徒としてのあり方について述べています。
まず、競技場で走る選手たちやボクシングの選手たちは、「賞を得る」ためにどう走るか、どう考え、目標を定めて、そのために体づくりをしたり、さまざまな備えを惜しまず臨みます。
私はスポーツ好きとはいえ、今ももっぱら応援をする側ですが。例えば野球の選手は試合前にストレッチやキャッチボール、打撃、守備を入念に行い、試合の為に備えています。見えないところでもものすごいトレーニングをこなし、日毎の生活においても自己節制をしておられることを知らされます。
パウロは、「やみくもに走ったり・・・空を打つような拳闘をする」ことのないよう、アスリートたちのように目標を立てます。それは、一人でも多くの人がキリストの福音に出会い、共に福音にあずかることができるようになるための目標でした。そのために自己節制し、賞を得る者のようにひたすら福音を伝えるキリスト者として生きようと努めるのです。
そこでパウロが大切にしたのは謙虚さでした。
先ほど触れましたように「福音」は、「私は救われた、恵まれたで終わり」というように自己完結するものではなく、共にあずかることによって一層ゆたかにされ、神がほめたたえられることになってゆくのです。隣人や他者との出会い、関わりを通して、福音が共に活きて働くことをそこで私たちは体験するのです。そこに聖霊が共に働いてくださるのであります。

又、パウロはここで節制することが大事だと言っています。
競技に臨む者はベストの状態で臨めるように心と体のコンディションを保っていく必要があります。いざ競技という時に不調になってしまうわけにはいきません。できる限りベストな状態で臨んでいくことが大事です。そこで競技者は日頃から食生活と体調の管理に気をつかい、心と体を養い、鍛えていくのです。

今日の主題であります「共に福音に与るために」出来る事とは何でしょう。
それは、まず自ら聖書を読み続け、み言葉に日々親しんでいくこと、日々祈り続けることです。
神と私との親密な関係を日々築いていくことは言うまでもないことです。又、共にみ言葉に聞き、共に祈り合うことも大切です。そのために教会が与えられています。自分と違った視点から聞くことで、より聖書の言葉が深みを増してきます。又、共に祈り合うことを通して、聖霊がゆたかにお働きくださることを知ることができるのです。そのような日毎の霊的養いを通して、共に福音あずかる者として建て上げられていくのです。

本日は「共に福音に与るために」と題して、み言葉に聞いてきましたが。
パウロは21節で「わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っている」と述べました。
先に申しましたように、かつてのパウロは書き記された規定どおりを行うことで自分の義を立てようとしました。ところがそれは、神の救いの恵みを締め出すことであったのです。彼は石や皮や紙に書かれた律法に縛られていました。
しかし、この「キリストの律法」、それはキリストが肉のからだをとってわたしたちすべての人間と共におられるお方、インマヌエルの主としてこの世界においでくださり、それはすべての人の苦悩と痛みを知って、十字架にかかり、すべての人の救いと解放の道を切り拓いてくださった、この福音こそが「キリストの律法」なのです。
1章23節「わたしたちは、この十字架につけられているキリストを宣べ伝えています。」
今も、苦悩と痛みが絶えることがないこの世界にあって、神の愛を通して救いと解放の道を示してくださったキリストの福音を共に分かつ者とされ、今週もそれぞれの場へと主と共に遣わされてまいりましょう。お祈りいたしましょう。

「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(コロサイ3章14節)

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2024/4/28 主日礼拝式

2024-04-27 08:56:50 | お知らせ

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「共に生きるために」

2024-04-21 14:59:24 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント8章1-13節

コリントは当時ギリシャの中心地として栄えていましたが、ギリシャ神話にありますように、まあ神々を崇めるため数々の偶像が町中の至るところにあり、多くの人がその偶像に供え物をするような風土でした。
コリント教会の信徒たちはそのような中で、自分たちの信仰を守っていました。
私の前任地の篠栗キリスト教会が建っています福岡県糟屋郡篠栗町は、九州の新四国霊場として町中に88か所の札所があり、春秋のシーズンになりますと九州各地から白装束を身にまとい杖をもったお遍路さんたちで賑わいます。篠栗町にはキリスト教会が篠栗教会ただ一つでありましたので、お遍路さんが88か所の札所を回り終った後に、ぜひともキリストの十字架を掲げる篠栗キリスト教会にて、唯一の神、万物の創造主、まことの救い主と出会って頂きたいという祈りをもって、福音宣教に励んでおりました。篠栗町にはこの天王寺と同様神社仏閣が多くありました。さらに、大きな涅槃像が建立され、いろんな地蔵もいたるところにありました。
そういうものを純粋な気持ちお参りなさる方々に対して、私は偶像を拝んでいると人々に対して裁くようなことはいたしませんでした。なぜなら、その方々の中には不治の病や難題を抱えておられるご家族のために、自分がお遍路さんになって巡礼されているという方がおられ、亡くなられた故人の魂が安らかであるようにとの切に願いながら札所を回っておられることを知ったからです。しかしだからといって、全天全地を創造し給う神さまが人が作った動かない石像や木像に宿るわけはありません。
かつて使徒パウロはギリシャ(アテネ)での伝道旅行の時(使徒17章22節以降)に、アテネの人々に次のように語りかけました。
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。」
いくら科学や物理学が発展し進化しても、それらの研究が進めば進むほどすべてを構成している存在と意思を無視することができない、という思い至った学者は少なくありません。生ける神こそが、この世界と万物を創り、治めておられます。
又、偶像は何も仏像や仏壇、地蔵や観音に限りません。偶像を作り出すのは人であり、人の欲望や執着心、囚われた心が偶像を作り出していくのです。お金や財産、名誉や地位、権力。仕事、家庭ですら神よりも絶対的なものに成り代って崇拝対象となるのも、偶像を拝むことにほかなりません。
こうした世のものを絶対化し最優先するとき、神の御心に反する生き方に向かっていきます。それは他者や社会に対してもそうです。戦争や環境の悪化もその一つの事象であります。

聖書に戻りますが。当時コリントの町にはそのような偶像が多く立ち並び、祀られ、その参道が市場と化していました。お宮参りの観光地のように、露店が出て様々なものが売られ賑わっていたのでしょう。
コリントの市場で売られている物のなかには、ユダヤ人が律法で禁じられていた動物の肉や、ここで問題となった偶像に供えられてから卸された肉類なども並んでいたのでしょう。
律法に厳格なユダヤ人たちは、そういう肉などを一々詮索して、買い物をしたのです。
私も随分前にガリラヤとエルサレムに聖地旅行した折、ユダヤの方々が食事に関してのきまりを細かに守っておられる様子を伺い知りました。たとえば、かの地にはチーズ入りハンバーガーが売られておりませんでした。仔牛の肉をその母の乳で煮てはならないとの律法の書・レビ記の戒めを固く守られていたからだそうです。

先ほど読みましたコリントの教会には、ギリシャ人、ローマ人のほかユダヤ人のキリスト教徒もおりました。彼らの中には、「偶像に供えられたものは汚れているから、そういった食べ物を口にすべきかどうか」と悩み苦しんでいた人たちがいたのです。彼らが人の家に招かれて食事をする時も、偶像に供えられたものかを確認し、どう対処したらよいか迷っていました。ある人たちは食べても大丈夫だと言うし、別の人たちは絶対食べないと言うのです。彼らの日常生活はいつも悩ましいものでした。

この「偶像に供えられた肉について」、パウロ自らの考えを持っていました。それは今日読みました先に書かれています10章25節のところで次のように述べています。
「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。」
その根拠については、本日の8章4-6節で「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外いかなる神もいないことを、わたしたちは知っています・・・・たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちはこの主によって存在しているのです」と述べます。これがパウロの基本的なスタンスでありました。
ですから、それがたとえ偶像に供えられた肉であったとしても、イエス・キリストの御名によって神に感謝して頂く。「地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」(10章26節)

ところでコリントの教会の一部の人たちは、こうした偶像の肉について「「我々は、知識を持っている」と誇り、良心が責められる人の前で平然と飲み食いしていました。
そのことに危機感をもったパウロは、7節のところで、「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」と説明します。
この「汚される」と言うのは、懸念や疑い、惑う心が出ることによって、良いはずのものが損なわれてしまうという事です。
さらにパウロは9節で、「あなたがたのこの自由な態度が、(良心の)弱い人々を罪に誘うようなことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱い(良心が弱い)のに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い(良心の)人が滅びてしまいます」と述べます。
心に確信が持てない人たち、ここでは「弱い人たち」と表現されていますが。その人たちは確信が持てないまま知識を持つ人の言葉のまま偶像に供えられた肉を食べ、後で後悔し、自分を責める人や信仰そのものにつまづく人がいたのです。
弱い良心の人が、あなたの知識と自由な態度によって滅びてします。これは衝撃的なことです。
1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」とありますように、たとえ信仰の知識を持っていても、すべての人に向けられた神の愛を知るのでなければ、人を傷つけ罪を犯すことになるというのです。

私どもの教会のほんのすぐ側に建っております宗教施設がありますが。私が着任する前から年に一度、そこの信徒さんが「お裾わけです」と赤飯をもっていらっしゃっていました。私どもの教会からもイースターにはイースターエッグをお届けしていたことから、こうした交流が始まったようですが。
しかし、私たちの教会の中で、その頂き物をどのように扱い、対応したらよいのか、という話になったことがありました。コリントの信徒たちと同様、「食べても問題ない」「いや食べるのは問題だ」という様々な意見がでました。教会で食べると、良心に呵責や抵抗を感じる方がいるのなら、それはどうだろうか。食べても大丈夫という方に持ち帰ってもらえばどうだろうか。みんなでいろいろと話し合われました。結果的には、感謝の気持ちで頂いたうえで、教会の通車場に勤務されている方にお渡しし、受け取っていただきました。
各々これが正しいと思うことはあっても、共に祈りつつ、最善を見出そうと努めることができたこと。又、主にあって良心が責められる思いをされている方とも思いを通わせてあゆむことができたのは、幸いでした。

パウロはローマの信徒たちに向けても、「何を食べてもよい」と主張する人たちに向け、「信仰の弱い人」を受け入れなさい!と強く勧告します。そして「その考えを批判してはなりません。信仰的な考えで野菜しか食べない人を軽蔑することが決してあってはならない」(ローマ14章)と述べます。
その一方で、「信仰的な考えで野菜しか食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とも述べます。
その人たちも、何を食べてもよいと信じていた人を裁くようなことがあった。自分が野菜しか食べないとしても、自由に肉を食べる人を裁く権利はないのです。「食べる人は主のために食べる。食べない人も主のために食べない。」その人その人それぞれの主との関係性、そのあり方で神に感謝を表す。そのことが何よりも尊いのです。

私たちは小さい時から、親から言われること、あるいは先生と言われるような人から「そうあるべき」「そうすべき」との指摘を、考えるいとまもなくただ受け入れて育ってきたという経験を持つ方は多いのではないでしょうか。幼少期から、大きくなって皆と同じようにとか。常識的にということが教えら育ってきた。社会生活をしていく上でのルール、決まりごとを大切にし、学習し、知識をもつことによって、考える力、判断する力が培われていったわけですけれども。その一方でそれらの染みついた知識によって、「こうあるべき」「こうあって普通、あたりまえ、当然」といった固定観念に縛られ、それを人に押しつけたり、逆にそのように生きることが出来ない自分を傷つけることも起こっていくのです。
以前、私がアンガーマネージメントの基礎講座を受ける機会があった折、講師の方から、「わたしたちのうちには怒りの根があり、『自分はこうあるべきだ』というものが、わたしたちを怒らせるものの正体だと」教えていただいたのですが。「自分はこうあるべきだ」ということを、私は意識、無意識のうちに自分とは異なる人にも同様にあてはめていないだろうか。だとするなら、わたしたちはいつも怒りの感情に支配され続けている、とそのことをまず知らされたのです。普段から自分の怒りがどこから来ているのか。怒りと向き合うということについて学ぶことができました。

イエスさまも時に、心の憤りや怒りを表すことがありました。宮清めの折に貧しい者たちが蔑ろに扱われていたことを怒られたのです。ここでは、何に対して怒られたかということが大事です。
又、律法を学んだことで高慢になった人が、律法を守ることの困難な人を裁いて、罪人と決めつけていることを非常に残念に思われました。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」(1b-3)
イエスさまは律法とは、「神を愛すること。そして自分を愛するように隣人を愛すること」にそのすべてがあると、仰せになりました。また、「自分にしてもらいたいと思うことは何でも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7章12節)と仰せになられました。
今週も今日のみ言葉を思いめぐらし、聖霊に導かれつつ、それぞれの場に遣わされてまいりましょう。
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2024/4/21 主日礼拝式

2024-04-20 09:50:22 | お知らせ

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「神の畑、神の建物」

2024-04-14 13:59:19 | メッセージ
礼拝宣教  Ⅰコリント3章1-15節

 春爛漫の4月、入学、就職、又異動のシーズンを迎えています。新しい歩みを始められた方に主の伴いがゆたかにありますようお祈りいたします。

先週はコリントの第一の手紙1章から、コリントの信徒たちの間で分派や派閥による争いが起こっていたというお話でした。
今日の3章の冒頭でパウロは、「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語った」と述べます。
ここに肉の人と霊の人が出てきますが。
「肉の人」とは、主を信じてクリスチャンとなったが、その考え方や生き方は相変わらず自分本位でキリストに倣うことなく、未だ妬みや争いが絶えず、悪口を言い合っている人たちのことを言っています。
一方、「霊の人」とは、人間的に立派であるとか、完全な者という意味ではなく、どんな時も神との関係を築き、キリストに倣いながら主の平和を祈り願いつつ日々を生きる、霊的に成長している人のことを言っているのです。
ある教会では牧師が替るたびに、前任の牧師に導かれた教会員の数人は教会に来なくなり、その教会に着任された牧師の数だけ分派ができたりすることもあるようですが。
コリント教会の党派争いは、伝道者のアポロが現れて表面化してきました。彼は旧約聖書に精通し、素晴らしい伝道の働きをしました。ところが、ある人々が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言う状態になっていたのです。

ここでパウロはまずコリント教会の信徒たちに5節、「アポロとは何者か。又、パウロとは、何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」と問いかけました。
アポロも私も福音の伝道者、福音のあかし人にすぎないということであります。
それにも拘わらず、コリントの信徒はパウロやアポロが自分たちに信仰を与えてくれた者であるかのように考え、パウロ党、アポロ党といった派閥を造り反目し続け、争い合っていたのです。
そればかりでなく、自らを知恵ある者として高慢になり、人を見下す者がいました。

パウロはこの高慢になっている人たちに対して、6節で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と語ります。
いくらパウロが優れた働きをした者であったとしても、ただ信仰の苗を植える者であり、一方アポロがいくら雄弁な働きをした者であったとしても、その福音の苗にただ水を注ぐ者であったに過ぎないのです。
実際に信仰の苗を育て、実りへと至らすことがおできになるのは、すべてのものを創造し、生かし、守り育て、永遠の命に至らせことがおできになる救いの神さま以外にいません。すべては人の業ではなく、この神さまの御業なのです。

ところで、パウロが言う「成長」とは何でしょうか。
日本は敗戦後、高度成長期がありましたが。この場合の「成長」は前進する、発展する、大きくなる、拡大することを示すものであったでしょう。けれど教会が大きくなった、人が増えた、信仰生活が長くなったということが「成長」とは言いません。ここでパウロが成長と述べたことは、能力によるものでも発展といえるものでもないのです。
先に「肉の人」に対して「霊の人」という事が語られていましたが。この神が与えて下さる成長とは、どんな時もキリストに倣う人、神の御心に聞いて歩む人、神の栄光が顕されることを忍耐強く祈り続けていく人、でありましょう。
私たちの教会においても、90歳以上であるにもかかわらず遠方よりこの礼拝に毎週出席なさっておられる方がたがおられますが。そのお姿を通して、どんなにか共々に元気づけられ、励まされます。又、仕事などの忙しさの中でも時間をできる限り作って礼拝に参加されておられる方。礼拝に対面で参加できなくても、オンラインで礼拝に参加されておられる方。真摯に礼拝の音声配信に耳を傾けておられる方、なかなか礼拝に来ることができなくても教会の祝福を祈り続けておられる方とさまざまですが。神への感謝と喜びを色あせることなく保ち続けて生きるところに、その成長は確かなものとされていくのです。

パウロは9節のところで、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と述べています。
それは自分本位の生き方でなく、豊かな実を共にみのらせていく「神の協働者」ということです。
「あなたがたは神の畑」と述べたのは、6節でパウロは植え、アポロは水を注いだ神の協働者として共につながりながら、神さまの栄光が顕わされる畑として成長するということです。

では、「あなたがたは神の建物」と述べたのは、どういう事でしょう。
それは、一人ひとりと教会がしっかりと建て上げられていくことを示しています。
パウロは「神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と述べています。この土台は11節にあるように「イエス・キリスト」であります。
パウロは「すでに据えられたこの土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできない」とも述べます。
どのような建築に際しても、重要なのはまずきちんとした土台を据えることです。

私たちの大阪教会では2013年11月に3代目の新会堂が完成しました。
基礎には確かな土台をつくるため13本もの杭が打ち込まれました。まるでイエスさまと12弟子を表しているようにも思いましたが。何よりも起工式に聖書が据えられ土台ができました。神の言(ことば)であるイエス・キリストの信仰が据えられた、ということが重要でありました。
どんなに外観的に立派で頑丈に見えても、基礎となる土台がしっかりと据えられていないのなら、大きな災害が襲来すれば、どうなるかわかりません。梁や基礎は隠れて見えませんが、建物にとってはとても大事な要となるのです。
同様に、パウロは「だれも他の土台を据えることはできません」と述べ、その土台が「神からいただいた恵みによって据えました」(10節)と述べます。
この恵みとは、パウロ自らもそうであったように、罪のため十字架にはりつけにされ、その贖いの血によって赦しと新しい命を与えてくださるイエス・キリストの救いであります。
ですから、如何にキリスト教的であろうとも、賛美歌らしきものを歌っていようとも、説法が優れていようとも、イエス・キリストを神の救いの基としないのなら、それは本質を欠いたものであり、キリストの信仰とは言えません。
キリストが、今も十字架につけられたままのお姿で私たちを、この世界をとりなし続けていてくださる。この神の愛のお姿こそが私たちの信仰の「土台」なのです。

次にパウロは、このイエス・キリストという土台の上に、「おのおの、どのように建てるかについて注意すべきです」と述べます。
建物を建てる人は、まずどんな建材を用いるか。又、その設計を熟考するでしょう。
ある人は「金、銀、宝石」と、それぞれ自分がイエス・キリストという尊い土台にふさわしいと思えるもので建て上げていこうと努めます。
「木」という自然の建材を用いて土台の上に築こうとする人もいます。ある人は「草」や「わら」によって。それが劣っているとか悪いというのではありません。問題はどのような目的でそれを建てるのか。どのようなあり方で神の栄光を表わそうとしているのか、ということです。
これは、信仰者として人生を、日々どう生きるか。どのように建てあげていくかに、たとえられているのです。
そして、やがてそれがどのようなものであるかを試される日が必ずやってきます。

13節「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その日はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。」(13-15節)。
これは最後の審判と裁きの時を示しているように思いますが。同時にいつそういった試みられるような時が来るかわかりません。
現実の生活の中で信仰が揺さぶられる出来事が起こるかも知れません。又、思い通りにいかなくて喜びや感謝があせる事があるかも知れません。けれど、そこで主への信仰を投げ出してしまうなら、どれほどの損失でしょう。建築中半で神にある価値ある人生を投げ出さないためにはどうしたらよいのでしょう。
主イエスは、「だからいつも目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃいました。しっかりとした信仰の土台が築かれているかどうか。日毎、自分自身が主からの問いかけに聞いて、その信仰を吟味していくことがとても大切なことです。
どんな勇者も躓き倒れることがあるでしょう。しかし、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る」とイザヤ書にあるとおりです。

パウロはここで、「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、仕事が焼き尽くされたその人は損害を受ける」とは述べても、その人が滅びるとは言っておりません。「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と述べるのです。
どういうことでしょうか。
救いは、人の業にあるのではなく、唯神の御手のうちにあるからです。
神さまの目的は私たちを断罪するためでなく、救うことにあるのです。
ですから大事なことは、私たちのすべての営み、その生の全領域においてイエス・キリストを土台としていくことであります。そのように神さまに信頼して生きる限り、神さまは御憐れみによってかならず救って下さるのです。

今日の聖書の言葉は、何を土台に据えて、人生設計をしているのかを問いかけます。
イエス・キリストの土台の上に人生をどのように建て上げていくか。その土台の尊い価値に気づいた人は、その建て方、生きる質も大きく変わってくることでしょう。
たとえ、試練や予想もしなかった出来事に遭遇したとしても、主が共におられる希望、イエス・キリストという「土台」を基に据えて生きる確かさは、何ものにも勝る恵みです。
今週もこの感謝と喜びのうちに歩みだしてまいりましょう。
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2024/4/14 主日礼拝式 

2024-04-13 08:34:48 | お知らせ

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TiA ゴスペルクワイアWS 大阪 

2024-04-09 09:29:38 | イベント
TiA ゴスペルクワイアWS 大阪 

16歳で歌手デビュー、その後アメリカ・ニューヨークに渡り、本場のゴスペルとの出会いを経験され、Jesusと出会う!
アメリカ最大級のMC(マクドナルド)ゴスペル大会にエントリーされ、日本人で初めてその抜群の歌唱力で優勝!
ニューヨークから日本に帰ってからはTiAクワイアを率いて活動中。
全国に800人以上のクワイアがおられ、ゴスペルWSが行われている。

某TVカラオケバトルで2連覇達成という偉業をもたれるTiAさん。
昨年TiAさんとの出会いが与えられ、当教会で初めてTiAクワイアゴスペルWSが大阪で行われ、今回で3回目となった。


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争いを越えて

2024-04-07 15:56:34 | メッセージ
礼拝宣教   Ⅰコリント1章10-18節

本日から6月いっぱい迄使徒パウロの書簡、コリントの信徒への手紙1と2を読んでまいります。
はじめに、当時のコリントの背景について少し申しますと。コリントは紀元前の古い時代から大変優れた文化をもっていました。ローマ領になってからコリント(現・ギリシャ)はアカイア州の首都となります。
南部の海沿にあった大きな2つの港は、地中海の西と東を結ぶ地点にあったので貿易による商業が非常に栄えました。又、さまざまな地域から人びとが海を渡って集まっていたので多民族、多文化、多宗教がこの地にもたらされ、混在していたのです。まあ、どことなくこの「大阪」とも重なってくるように思えますが。当時コリントには約60万の人が住む大都市であったようです。
一方で、古代ギリシャ神話の女神を祀る巨大神殿を山に建て、その神殿には多くの神殿娼婦が仕えることを公認する道徳的な退廃や賭博場も開かれていました。
そのようなコリントの地に使徒パウロは2年近く滞在します。そこで、パウロと同じく天幕造りで生計を立てていたユダヤ人のアキラとプリスキラ夫妻の家に住み込んで一緒に仕事をし、福音伝道に励んでいたのです。
当初はなかなか福音伝道がうまく進まなかったようですが。しかし行き詰まった中で、ユダヤ会堂長のクリスポなどその地の有力者や資産家が福音を信じて救われ、パウロの働きに加わり、コリントでの福音伝道は大きな実を結び、コリントの信徒の教会が建てあげられていくのです。
しかしその後パウロがコリントを離れますと、徐々にコリントの信徒たちの間で様々な問題が生じました。パウロはクロエという女性の家の人たちからその内実を知らされ、この手紙を書いたということです。

コリントの教会の中で大きな問題となっていたのは、「派閥争い」でした。これって昨今のニュースでもよく聞くフレーズですが。「パウロ派」「アポロ派」「ケファ派」すなわちペトロ派が存在し、それぞれを支持したり批判したりするような人たちがいたのです。
パウロもアポロもペトロも意図して派閥を作ったのではなく、周りの人たちの思惑によってそうした分派や派閥ができてしまったのです。
パウロはそのコリントの信徒たちに対して、「わたしたちの主イエス・キリストの名によって勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と書き送ります。
この「勧告」とは、大変強い言い方です。キリストの十字架による神と人、人と人との和解の福音を宣べ伝えてきたパウロにとって、それはあってはならないことであったからです。

先に申しましたように、コリントの教会には様々な人たちがいました。ギリシャ人やローマ人、ギリシャで生まれ育ったユダヤ人、その周辺諸国から、又遠く海を渡って移り住んだ人たちがキリストの共同体として教会形づくられていたのです。
そこでパウロを支持していた異邦人の信徒、哲学や知識にたけていたアポロを支持していた信徒、ケファ(ペトロ)を支持していたユダヤ人の信徒がいたというのは頷ける気がします。
ただ問題は、それぞれが派閥を作って自分たちこそ正しいと主張しては相手を非難し、争い合っていったということです。
ここでパウロが「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と言っているのは、皆同じようになりなさい、ということではありません。ギリシャ人やローマ人がユダヤ人のように生きる必要はないし、ユダヤ人が律法を守る習慣を棄てねばならないということでもありません。
神の救いの福音は、今もキリストによって分け隔てなくすべての人にもたらされたものです。
神から受け入れられたのですから、私たちもまた互いを尊重するようにと、聖書は奨めます。
では、そのように違いを認め合うためには、一体「何によって」心を一つにし思いを一つにし、固く結び合うか。そのことが重要なのです。

パウロはこの手紙の12章において、キリストを信じる群、教会を「キリストのからだ」と言い表しました。それは世の中の組織とは異なる、キリストを体現するつながりです。一人ひとりがその体の一部であり、それぞれの存在が尊く、キリストを頭として互いに組み合わされているのです。私たちはそれぞれの環境、生活スタイルも異なりますが、そうした違いを持つ人が互いにキリストの体として建てあげられていくことが神のみ業であり、素晴らしいのです。
人は誰も自分と考えや見方の異なる人との出会いや交流を通して、気づきや発見が与えられます。又、教会のつながりは、み言葉を聞くだけでなく行う者として生きる、体験的学びでもあります。さらに互いに励まし合い、祈り合う、「愛、喜び、平安、寛容、親切、誠実、柔和、忍耐、自制心」という御霊の実をみのらせる救いの証し、主の恵みのゆたかさと奥深さを与り知ることにつながっていきます。
私たち一人ひとり同じ者などいません。それぞれに違いがあり、個性や特徴をもっています。
その一人ひとりが主にあってキリストのからだなる共同体とされていること自体奇跡であります。そこに聖霊のゆたかなお働きがあるからです。
全国規模では「日本バプテスト連盟」、関西圏では「関西地方教会連合」とのそれぞれの協力関係があることは、大きな励ましであり、感謝なことであります。その一つひとつの主のみ体なる教会がそれぞれの地域にあって福音をさらに伝え、分かち合っていけますよう、祈り努めてまいりましょう。

先週は、ブラジル人のチアゴさんの信仰告白とバプテスマが行われました。彼は英語で信仰告白する事で、英語が理解できる海外のクリスチャンたちにそれをシェアしたいと願われました。一方、日本の方には日本語に彼の信仰告白を翻訳して信仰を表明する事ができました。
このようなスタイルで信仰告白がもたれたのは私も初めてでしたが。言語の違いを越えて主の救いの証しを共有することができた、記念すべき時になりました。今の世界的状況の中で、こうして共に主のみ名をほめたたえることの意義を深く覚えました。
それにしましても不思議です。海外からの方が多いのは牧師の英語力が無いのに。感謝なことにここに招き集められている海外の方々は私の英語力以上の日本語力をもっておられます。翻訳ツールも助けになっています。しかし、やはり素晴らしいのは聖霊が常に良き導きをもってお働き下さり、国の違い、言語の違い、文化の違い、世代の違い、あらゆる違いを越えて、キリストにより救われた者のうちに愛と喜びを満たし、招いて下さるその豊かさです。
パウロはコリントの教会に起こった勢力争いや分派争いをどれほど残念に思ったことでしょう。
けれどそういったことは何もコリントの教会だけでなく、どの教会にも起こり得ることです。私はそういう話を聞いてきたし経験もしました。
そういったことから自由であるためには一体どうしたらよいでしょう。
そういうときに私たちは頭なる主の御前に静まって常にこう尋ねる必要があります。
「私たちはどうしてここにいるのか?同じ救いの主、イエスさまを信じて従う者とされて、唯イエスさまによって、ここに呼び集められたかのではないか。他に、どんな理由があるでしょうか。」そうご自分に問いかけるのです。主は必ず平安と、福音の持つ力、真の自由と解放を与えてくださいます。

さて、パウロは17節で「キリストがわたしを遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで、告げ知らせるためだ」と述べます。
彼は12弟子に並ぶ使徒であり大伝道者ですが。自ら権利や力を振りかざし、教会と信徒を自分の思う通りにしようとはしません。パウロは唯ひたすらキリストの福音を知ってほしいと伝え、心から喜びのうちに、主がほめたたえられることを願ったのです。
パウロは世の知恵、すなわち「言葉の知恵」によらず、パウロ自ら経験した救い、十字架にかけられ、今も十字架に磔にされたまま執り成し続けていて下さるキリストを宣べ伝えるために、自分はキリストに遣わされたのだ、と述べます。それが神から与えられたパウロの召命でした。

キリスト者もそれぞれに、初めに主イエスを信じて救われ、信仰の告白しバプテスマを受けました。それはずいぶん昔であろうとも、主はその時のことを覚えておられ、今もその愛は変わることなく注がれています。
今年は教育委員の方から第2週の各会の時間に、例えば青年の会で壮年会や女性会の中から、証しやお話を聞く方を招き、その方の体験や信仰について尋ね合ったり、聞き合う機会を作っていきたいと提案がなされました。このことは女性会や壮年会の方々にとってもよき交流と信仰の確認の時にもなるでしょう。私たち一人ひとりに与えられた十字架の救いと証し。このキリストによってもたらされた平和の福音こそが、争いを越えて働く一致の力なのです。
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2024/4/7 主日礼拝式

2024-04-05 08:56:31 | お知らせ

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