日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

いずれ人の助けを必要とする時が来る・・・

2009-02-22 08:13:59 | メッセージ
「いずれ人の助けを必要とする時が来る・・・」 H・T   

勤務時間中に携帯電話が鳴ったようだ(当然、マナーモードで)。すぐに出ることは出来ないため、しばらくした後に取り上げることになったのだが、見慣れない番号であり、結果、血液センターからであった。何でも、不足血液の白血球の型が私の血液のそれと一致したためで、緊急の要請であった。幸い、他のドナーも見つかっていたため、私のそれは不要となったのだが・・・。今までは一方的に提供するばかりであったのが、要請を受けるのは初めてだった。少なくとも私の血は今のところ人様に使っていただける血であるということだけは分かった(笑)。
献血をするようになったのは数年前のこと。いずれ年を取り人の助けを必要とするときが来るのだから、元気なうちに目一杯人の役に立っておこう・・・。そんな思いからだった。今は採血技術が進歩しており、血漿と血小板のみを分離し、それ以外の成分を体内に戻すという成分献血も行われており、体への負担が少ないそちらの方を私は何時も選択することにしている。
採取後の私の血液がどのように処理され、用いられるのか、詳しいことは専門家ではないので分からないけれども、キリストを知っている私の血が人を助け、御心ならば、その人がキリストに触れられればいいなぁ・・・。
ふと思った。
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礼拝宣教「荒れ野に生きる道しるべ」

2009-02-15 08:31:14 | メッセージ
「荒れ野に生きる道しるべ」 出エジプト記20:1-11から

今朝は旧約聖書の中でも特に重要な律法の柱である「十戒」のところからみ言葉を聞いていきます。この十戒は本日の出エジプト記20章の他に申命記5章のところにも記されています。内容はほぼ同じですが、ただ注目すべきこととして、申命記ではモーセがこの十戒について次のように語っています。
「今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々の先祖と契約を結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」。
 さて、この十戒でありますが、出エジプト後、荒れ野を旅する民たちが、厳しく過酷な荒れ野にあって解放された神の民として生きていくための言うならば「道しるべ」となってゆきます。ちょっと考えてみて下さい。車の行き交う横断歩道を前に、小さな子どもが渡ろうとしています。その子は幼くてまだ信号の意味も危険も理解できません。いつ自分勝手に道を飛び出してしまうか分かりません。その子にはその手をしっかりとつないで横断歩道を一緒に渡ってくれる、危険と安全について教え、手引きしてくれる人(大人)が必要なのです。
 そのように十戒は出エジプトに象徴される世の力から解放を受けたばかりの民が、あらゆる世の危険から守られ、導かるために大切な手引きでもあるのです。
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宣教「天からの糧~荒れ野の中の平安」から

2009-02-08 07:39:37 | メッセージ
宣教テーマ 「天からの糧~荒れ野の中の平安」 出エジプト記16:1-32から

本日は出エジプト記16章より御言葉を聞いていきます。追従してくるエジプト軍の戦車と騎兵の難を逃れ、不思議なる主の御手によって葦の海を渡ったイスラエルの民たちは、まずシュルの荒れ野に向かいます。その途上で民は3日間水を得られず、ようやく湖に辿り着くのですが、その水は苦くてとても飲めたものではなかったのです。民たちはモーセに不平を言うのでありますが、マラの湖には紅海と地中海の海水が流れ込んでいたのですから当然苦いわけです。そこで主はモーセに一本の木を示され、その木が水に投げ込まれると湖の水が甘くなったということです(出エジプト記15章)。本日の箇所はこの出来事から2ヶ月は経っていたようでありますが、人々はここにきて今度は食糧がついに底をついてしまいます。彼らは空腹のあまりモーセらに不平を述べ立てるのであります。
荒れ野で水と食糧を得るということは確かに過酷なことであります。現代のように時速90キロの観光バスに乗って荒れ野をスイスイ横断できるのとは全く状況が違います。喉が渇いたりお腹がすいた時は、途中売店に寄ってペットボトルに詰められたミネラル水や食物を求められるような今日とは全く状況が違います。日中は炎天下、深夜や早朝は冷え込みの厳しい荒れ野において野宿生活をし、水や食料の渇きや飢えをしのぎつつ、お年寄りや子どもたちと一緒に、又家畜を率いながら荒れ野を歩いて旅するというのですから、これは私どもには想像もつかない過酷で厳しい闘いがあったはずです。
 本日はそのような民に主が「天からの糧」と「御言葉」を与えられる箇所であります。そのことを通して主は民たちに、それはまた私たちに何を語りかけているのでしょうか。
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恐れることなんか何もない

2009-02-01 08:56:28 | メッセージ
「恐れることなんか何もない」   

先週の水曜日の午後、天王寺区民センターで、大阪市と天王寺区の地域女性団体主催による「ゴスペルコンサート」が行われるということで参加した。近頃ゴスペルブームはいいのですが、教会と関係のない人や神を知らない人でもゴスペルといって歌っていますので、あまり期待せずに足を運んだのですが、その思いとは反対に大当たりの二重丸でした。ゴスペルのゲストは市岡裕子さん、あの吉本新喜劇で一世風靡した岡八郎さんの娘さん。最初に講演があり、ご自分やご家庭のことを振り返りながら、おばあちゃんの死、いとこの死、お母さんの自死、父のアルコール依存症など、次々に起こる世に言われる不幸が立て続けに起こったお話をされました。今は天涯孤独の身であられるということです。
そのような自分がニューヨークに行きゴスペルを歌う口が大きくて体格のいいおばちゃんとの出会いを通して、「神さまはずっとあなたの親だよ」と教えられ、ゴスペルの中に「大胆に神さまに祈り叫んでいい」「恐れることなんか何もない」そこに「喜びと希望がある」「神さまを信じて生きるって素晴らしい」という発見をされたお話で、涙なしでは聴けない内容でした。
後半はコンサート形式で「アメージン グレース」アメリカの公民権運動で歌われた「WE SHALL OVERCOME」それに私どもの教会の礼拝でもおなじみの「きみは愛されるために生まれた」「感謝します」などのゴスペルの熱唱を聴いた。
市岡裕子さんの歌唱力はかなりレベルの高いものですが、単にそれだけではないのです。何よりも彼女自身が人生で、生きることのつらさ、苦しさ、悲しみや絶望を何度も経験されても、そこで喜びや希望、祈りや感謝を見いだし、力強く生きるあかしとしてゴスペルを歌っているところにパワーがあるのです。彼女自身の体験から溢れ出たゴスペルに、今悲しみや苦しみの中にある人たちに、力と勇気を与えているのです。わたしはそこに、神の救いの業と働きを見せて頂いたようで、私自身も勇気と励ましを強く戴きました。(俊)
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