日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

この世界に真の平和を!

2021-11-28 12:55:39 | メッセージ

礼拝宣教 イザヤ11・1-10 世界バプテスト祈祷週間・待降節(アドベント)

                                                

主イエスのご降誕を待ち望む、待降節・アドベントを迎えました。今年はクリスマス礼拝(聖書からのメッセージとゲストを迎えての「ピアノ演奏と朗読と祈り」が12月19日、イブの燭火礼拝・キャンドルライトサービスが24日に予定されております。又、本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝となります。

 

今朝はアドベントの始まりと世界祈祷週間を覚えつつ、イザヤ書11章から「この世界に真の平和を」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

救い主、イエス・キリストのご降誕からさかのぼること、紀元前722年。当時イエスラエルは北と南に分断されておりましたが。まず、北イスラエルがアッシリアによって滅び陥落した後、南ユダもそのアッシリアの脅威にさらされることになります。そこで神によって立てられた預言者イザヤはそのユダに向けて、「シオンに住むわが民よ、アッシリアを恐れるな。主の怒りは彼らの滅びに向けられる」と語ります。その預言どおりアッシリアからの難を逃れたものの、神と人とにおける不義に対して主の言葉を聞きながら悔改めることのなかったユダは、後にバビロニアによって崩壊の途を辿り、都エルサレムも遂に壊滅的な状況となるのであります。

エルサレムの神殿は倒壊し、その周辺の家々は焼き払われ、廃虚と化し、技術や技能を持つ働き手たちの多くはバビロニアに捕囚として連れ去られ、ユダの地はまさに切り倒された大木の切り株のみが残されるような惨たんたる結末を迎えるのであります。

 

ところが、これで終わりではなかったのです。

11章1節「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる」。

主なる神は彼らが滅ぼし尽くされることを決してよしとはなさいません。彼らの悔い改めといやし、回復と復興の道。さらには、全世界に開かれる祝福に向けた神のご計画は人の目に見えないところで着々と推し進められていたのであります。

 

この「エッサイ」とは、統一イスラエル王国の初代王であるダビデの父親の名です。ダビデはエッサイの7番目の末っ子であったのですが、神の召命によりイスラエルの王となるのです。列王記や詩編には、その栄光とともに力をもった王ダビデの罪深さや弱さも赤裸々に記されていますが。そのゆえに、ダビデは神さまに依りすがらなければ到底立ち得ない者であることを深く思い知らされるのです。彼の切実な主への祈りと訴え、悔い改めと感謝が綴られている詩編は時代を越え、今も私たちに深い共感と生きる指針を与え続けているのであります。

 

まあ、そのようなダビデ王が立てられ、治め、ゆたかな葉を茂らす大木のようになったイスラエルはその子ソロモン王に引き継がれていきますが、それも長くは続かずやがて王国は南北に2分され、先に申しましたように北イスラエルは滅び、遂に南ユダも切り倒される木のように裁きの時を迎えるのであります。

しかし、今日の聖書はその切り株からひとつの芽が萌え出でる、というのです。

このエッサイの木は遂に切り倒されて切り株のみが残りましたけれども、その根っこの部分はしっかり生きていたのです。そうして「その根からひとつの若枝が育つ」のであります。

根っこのところというのは土の下ですから目には見えません。大木でありますならその根はその地表に現れる大木の大きさの何倍何十倍もの根を地中に張りめぐらしています。根は英語でルーツ。それは起源とか根源とか、あるいは由来とか先祖とか、よくルーツをたどるとかという使い方をよくいたしますが。ユダヤの人たちにとってルーツ、根っこは、まさしくアブラハムから脈々と受け継がれてきた神の選びと救いの祝福とその契約であります。

 

木は切り倒されても切り株の根から新芽が萌え、若枝が育っていきます。そのように人の世の力や権力とは異なる神の権能を帯びた若枝が芽吹く。

イザヤは、この切り倒されたエッサイの株から、そのような若枝、すなわち平和の王(メシア)が出現なさることを預言します。そしてこの新しい王がダビデやソロモンといった世の力、権力による王と異なりますのは、「主の霊がその上にとどまる」という点でありました。

それは2節にありますように「知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」がとどまる全く新しい王であります。

 

さらに、この新しい王は3節以降で語られるように「目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭でもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし/真実をその身に帯び」と、そのように世界を治めるお方だというのです。

 

これらの「霊」がとどまる新しい王は、3~4節にありますように、世の論理や権力や武力によって裁くのではなく、権利と尊厳を奪われ「弱くされた人」と、搾取され苦しめられている「貧しい人」のために、神の掟と戒めに沿った「正当な裁き」と「公平な弁護」を行うのです。又、それに逆らう者に御言葉の鞭をもって打ち、死に至らしめるともありますように、弱い人、貧しい人を蔑ろにする者に対して、神の義が厳格に行われることが示されます。

 

ところで、これまでの旧約聖書におけるサムソンやギデオンのような士師たちはイスラエル王国が出来るまでの間、さばき司として仕えたとされますが。彼らはイスラエル王国成立のためのいわば軍事的指導者たちでありました。けれども、預言者イザヤは、新しい王がもたらす「平和の訪れ」を語ります。

イザヤ書2章4節~5節「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ。主の光の中を歩もう。」

 

この預言の言葉から思い起こされますのは、私たちの国の憲法9条であります。敗戦の中から「二度と戦争はしない」という不戦の誓いとして今日まで先人が守り、保ってきた、その礎によってまがりなりにも戦争に組みせず、平和を享受してきた私たちであります。

この福音の響きを有する「平和憲法」の理念とその価値が今後も失われることのないように、私たちはその平和の尊さを守り、イザヤを通して語られた不戦の平和とそのビジョンを次世代に語り継いでいく責務があるといえるでしょう。

 

6節以降では、その平和の王が治める世界観が描かれています。

「狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さな子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては 何ものをも害を加えず、滅ぼすことはない。」

 

そのように新しい王、平和の王であられるメシアのもとでは、相容れなかった「人と人」「国と国」「人と自然界」の間に和解と共生の道が築かれていくと語られています。

それは「狼は子羊と共に宿り」「乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる」ごとく、世にある対立の関係はもはやなくなり、そこには恐れも不安も不要となる。又、弱いもの、小さいものを脅かし、害を与え、牙をむくようなものが、弱いもの、小さいものと共生、共存する世界であります。

それはあたかも天地万物の造り主であられる神さまが創世記1章において、すべてのものを創造し終えた時にそれらを御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1章31節)とおっしゃった、そのような世界であるようにも思えます。

まさに9節で「大地が主を知る知識で満たされる」とありますように、あらゆる国々のあらゆる民が、平和をもたらす王なる主と、その御心を知る知識に満たされ、素晴らしい神の国が実現されていくというビジョンがここに語られているのであります。

 

10節「その時が来れば/エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。

 

イザヤ自身は地上の生涯においてその出来事を目にする事はありませんでしたけれども、彼はその出来事が将来必ず実現するとの信仰による希望を抱きつつ、その時を神の民として生き抜いたのです。

イザヤの時代から700年あまり、想像しがたい幾多の苦難の時代を経て、遂に神の御独り子イエス・キリストが救い主、平和の君として、まさに切り倒された株のエッサイの根から萌え出でる若芽のごとく世に現れてくださったのであります。それの神の国とその福音は、選びの民としてユダヤ人、又イスラエルの国の隔ての壁を突き破られ、あらゆる民族、すべての国のメシア、「真の平和」の王としてお出でくださったのであります。私たちも今こうして、その旗印を見上げ、その栄光を拝しているということでございます。

最後に、今日のこの「平和の王」と「その御国」についてのイザヤの預言というのは、当時のユダヤの状況と、現実からすればあまりにもかけ離れたものでありました。神への不信と不義、さらに不正、搾取と争いがはびこっていたのです。イザヤはそれでも神から預かった「平和の王」到来のビジョンを、かたくなで聞く耳をもたない人々にも訴え続けていったのです。

 

今、私たちの生きる世界や時代もイザヤの時代のように戦争や紛争、抑圧や搾取が絶えません。確かに、平和の王なる主は来られたのでありますが、「真の平和」の完成の日は未だ途上にあるといえます。それどこか昨今、後退しているようにさえ思える現実があるわけですが。しかし、イザヤはそのような日常の生活、取り巻く社会の中で神のビジョンを掲げ続けていったのであります。

 

聖書の「預言」とは、将来に起こることを予め語るというのではなく、神からの言葉とビジョンを預かるという意味です。ほど遠い現実に嘆き、苦悩しながらも、それをしっかりと握り、掲げ続けていったその先に民の大いなる悔い改めが実現していきました。ビジョンを掲げ続けるところに平和は生み出され、実現していくと信じます。

その一つの顕れとして、本日は世界バプテスト祈祷週間を覚えての礼拝をお捧げしています。日本バプテスト連盟からインドネシアに派遣されています野口日宇満・野口佳奈両宣教師、カンボジアに派遣されています嶋田和幸・嶋田薫両宣教師夫妻、シンガポールの国際日本語教会に伊藤世里江先生が現在派遣されています。それらのお働きはかつての日本のアジア諸国に対する戦争を神の前に悔い改めをなし、神の和解の福音の招きによって始められ、こうして続けられています。又、ルワンダに派遣されています佐々木和之国際ミッションボランティアの働きは、福音とその教えを基とした平和構築の学びと活動が中心となっています。

それぞれのお働きとご健康と必要とがすべて備えられ、かの地と私たちの間に、平和の王なる主とその御国が、このクリスマスにあって実現しますように。

「この世界に真の平和を」。私たちも又、今日の主の御言葉を預かりました。この主の約束を望み、信じ、祈りながら、平和の王、主イエス・キリストの和解の福音に生きる者として、今週もそれぞれの場所へ遣わされてまいりましょう。

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あなたの神を賛美せよ

2021-11-21 16:11:26 | メッセージ

礼拝宣教 詩編147編1~20節

 

先週日曜日の午後は、田辺バプテスト教会の草刈りワークに参加させていただきました。田辺教会の方々はじめ、このワークに参加された平野教会の方がたともお会いし、正味2時間ぐらいの作業でしたが、草を刈り、小枝を切ったその心地よい自然の匂いにほんまに癒されました。又お茶の時間には参加者の自己紹介なども行われ、良き出会いと交流の時にもなりました。長いコロナ危機が続き、教会間でこうした主にある交わりがなかなか持てなかった私には2年前まであたりまえのようにあった主にあるつながりの喜びと拡がりを改めていただくことができ、心身ともにリフレッシュされました。田辺教会のある方が私に「大阪教会でも草刈や木の選定等が必要な時には、出かけていきますので、声をかけてください」と仰ってくださった言葉がうれしかったです。

又、9月に行われました関西地方連合信徒大会の報告等が綴られた「連合ニュース」が出来ました。まだ、御覧になられていない方には配布しております。必要な方は受付にも置いておりますので、ぜひお読みください。長きに亘るコロナ危機で諸教会の抱える課題は様々でありますけれども、1つの教会で行き詰まることなく、キリストの体として建てあげられていくために、協力し合える教会のつながりがあるということは幸いです。今後そうした教会間の出会いと協力がさらに活かされ、福音が分かち合われ、証しとされていくようにと願うものです。

 

さて、本日は詩編147編から「あなたの神を賛美せよ」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。詩編の中には、あなたたちは「賛美せよ(ハレル)、神(ヤハウェ)を」と謳われている賛歌が多く収められていますが、それらは「ハレルヤ詩編」と呼ばれています。

本日の147編も「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる「ハレルヤ詩編」の一つであります。詩編の最後におさめられた146編から150編の5つの「ハレルヤ詩編」は、あのヘンデルの「メサイア」のハレルヤコーラスのように「神を賛美せよ」、ハレルヤ、ハレルヤとほめうたう、天と地の大群衆の壮大な光景が浮かんでくるような思いがいたします。

 

本日の1節で、詩人は「ハレルヤ」と、神への賛美、神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、いかに美しい(うるわしい)ことかと謳います。

それは「わたしたちの神が」、2、3節にあるように、「崩壊したエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださり、打ち砕かれ心の人々を癒し/その傷を包んでくださる」お方であるからです。

人の罪が招いたエルサレムの滅亡後、追いやられ、飼い主のいない羊のようにさまようほかなかったイスラエルの人々を囚われの身から解放し、エルサレムへ帰還させてくださった。主は憐みと慈しみをもって心の砕かれた人々を癒し、その傷を包まれます。そうしてイスラエルの人々は主である神さまに立ち返って生きる喜びで満たされ、「賛美します、神よ、ハレルヤ」と高らかにほめうたうのです。

わたしたちも同様ですね。先ほども、救いの神とその栄光を高らか賛美しました。神の慈しみをほめうたいました。地上のどんな歌よりも魂に喜びがあふれる主である神への賛美は、ほんとうに美しく快いものであります。

 

その主なる神さまは、万物を創造し、司って4,5節「星に数を定め、それぞれに呼び名をお与えになる。わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない」と謳われています。一昨日金曜の夕方6時頃でしたが、皆既月食がありました。御覧になられた方いらっしゃいますか。天体の運行も英知によって完成され、この地球をいのちにあふれる星となさった壮大な創造主である神の御業。

 

さらに8節でも「主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせる」と、自然界における神の恵みのゆたかさをほめうたいます。

詩人は、天体や自然、森羅万象のすべてを生み出し、治めておられる神がお造りになった世界はかくもすばらしい。しかし、人は神から離れその御声を聞くことをやめたところから、この世界は大きく損なわれていきます。弱い立場にある者は顧みられず、権力を持つものや財や富を持つ者から搾取と抑圧を受けるような社会にあって、6節「主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される」と主を畏れる詩人は謳うのです。います。その声は小さいようにありましても、主は決して聞き逃したりなさいません。「主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。」

 

クリスマスの時期に読まれます「マリアの賛歌」には「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。この卑しい仕え女に、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/私を幸いな者というでしょう。力ある方が私に大いなることをしてくださったからです。その御名は聖であり/その慈しみは代々限りなく/主を畏れる者に及びます。主は御手をもって力を振るい/思い上がる者を追い散らし/権力ある者をその座から引き降ろし/低い者を高く上げ/飢えた人を良い物で満たし/富める者を何も持たせずに追い払い/慈しみを忘れず/その僕イスラエルを助けてくださいました。私たちの先祖に語られたとおり/アブラハムの子孫に対してとこしえに。」(ルカ1章46-55新共同訳改訂版)と、そのようにマリアは主を賛美しました。

それはおかれた社会で、その生活の中から出た神を畏れる貧しい人の祈りでした。それは又、実現されるべき神の国の訪れに向けた預言でもありました。今を生きる私たちも、すべてを統治し、司っておられる主に訴え祈り続ける者でありたいと願うものです。

 

詩編147編9節には(これも新共同訳改訂版でお読みしますと)、「獣にも、叫び求める烏の雛にも/食べ物をお与えになる」と謳われていますが。ここでは、人に疎んじられる烏、しかも産まれたばかりのなすすべのない無力な「雛」が象徴的なかたちで描写されていますように、主はご自分に向かって叫び求める力のない者たちに、代価なしに食べ物を与え、養ってくださるお方であるということが賛美されているのです。

 

10―11節では「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」と謳います。馬の勇ましさとは軍事力の誇示を表しています。人の足の速さは戦争に備えた勇敢な歩兵、これも力の誇示です。強さや猛々しさを誇示する様は、裏を返せば不安や恐れの表れでもあります。自らを守ろうとして「権力」「財力」「体力」「実力」など、力とつくものを鎧のように身にまとって尊大に振舞いますが、それはやがては廃れていくものでしかありません。

それとは全く反対に、主なる神さまが人間に望んでおられるのは、主を畏れる人、自らのなすすべもない無力さを知り、心砕かれて神の慈しみを乞い求める人、祈らずにはおれない人、そのような人を望まれるということです、

今世界には、又私たちの社会には、痛み苦しむ人、飢え渇く人、紛争によって国を逃れるしかないような人があふれています。軍馬や歩兵の勇ましさによる繁栄や戦の勝利よりも、人としての尊厳といのちが回復されますように、と切に訴え求める祈りが神の御前に満ちているのではないでしょうか。

 

そこで詩人は12-14節で、イスラエルの同胞に向けて次のように謳います。

「エルサレムよ。主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む(あなたの)子らを祝福してくださる。あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。」

本日はこの個所から「あなたの神を賛美せよ」という宣教題をつけさせて頂きました。

詩人はこの短い節の中で、全天全地を創造され、森羅万象を司っておられる大いなる主である神さまが非常に近しい「あなたの神である」ということを6回にも亘り、宣言し、賛美するように促しているのです。

10月から本日迄、8週に亘り詩編を読んできました。そこで気づかされた一つは、この賛美されるお方が、あなたにとって如何なるお方であるかということを問いかけであります。そして、どのような時にも、わたしの主、わたしの神としてより頼んでいく者のところに、主である神さまは確かに共におられる。その確信、喜びと希望が「ハレルヤ」という「神への賛美」へとつながっていくのであります。

最後に詩人は、神の民としての幸いを賛美します。

19-20節「主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない、ハレルヤ。」

「掟と裁き」と聞くと、何かマイナスのイメージがありますけれども、決して人を縛り、不自由にすることではありません。「掟」は十戒をはじめ神が語られた律法とその精神です。これは主イエスがおっしゃった「神を愛し、隣人を自分のように愛する」ことに集約されている、真に人を生かすためのいのちの御言葉なのです。

「裁き」とは、単に白か黒かを判定し、黒なら断罪されるということではありません。それは、神の慈しみによる助けと救いが実現されているか否かということが明らかにされる、ということなのです。

 

ここで詩人は、主がご自分の民のために語られる生きた御言葉を、その全き「掟と裁き」の麗しさを、感謝をもってほめたたえます。

そうです、それは意味の分からない呪文や呪いではありません、単に道徳的な規律やルールでもありません。人を真に生かす掟。そして主ご自身が、痛まれるほどの慈しみによる裁きを明らかにされ、御言葉によって教え、さとし、守り、導いてくださったのです。

私たちの主、イエス・キリストの御名と御救いを今日も賛美します。

来週は救い主のご降誕を待ち望むアドベント(待降節)、バプテスト世界祈祷週間を迎えます。

私たちもまた、主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人とされている幸い、そして神の祝福を受け継ぐヤコブの子孫に接ぎ木された幸いを、「ハレルヤ」と心の底から喜び、共に心を合わせ、主に心からの賛美を捧げてまいりましょう。

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乳離れした幼子のように

2021-11-14 17:04:07 | メッセージ

礼拝宣教 詩編131編1~3節 

 

この「主の日」、七日の旅路を守られ、導かれてこの「主の家」に帰って来て共に礼拝を捧げることのできます恵みを感謝します。

聖書は世界中の多くの国において翻訳されて世界のベストセラーとなっていますが。どの国の言葉もそうですが、一つの単語、日本では漢字には幾つかの意味があります。文化も時代背景も異なりますので、当然翻訳する人はそれを考慮するわけです。執筆者の意図を正しく受け取るためにこうして聖書も訳を比較して読むのです。すると、パッと読んで分かったつもりだったのが、実はまったく違っていたとか、あぁ~本当はそうだったのかと、気づかされることもあります。又、聖書は一人で黙想しつつ読むことはもちろん大事ですが、祈祷会の時にしていますように、共に聖書を読み合うことによって、自分の読み方だけでなく、互いが受けた聖書の言葉を分かち合いによって御言葉のもつゆたかさやその恵みに気づかされています。

 

先ほど新共同訳聖書の詩編131編が読まれましたが、この詩編を読み解いていくうえで2018年に出された新共同訳聖書訳も週報表面に載せました。

「1.都に上る歌。ダビデの詩。主よ、私の心は驕っていません。私の目は高ぶっていません。私の及ばない大いなること/奇しき業に関わることはしません。2.私は魂をなだめ、静めました/母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。イスラエルよ、主を待ち望め。今より、とこしえに。」

その題はどちらも「都に上る歌。ダビデの詩」となっています。

都とはエルサレムを指しますが。そこは、イスラエルの民が神の民とされた時に受けた、十戒の板などが納められた「神の箱」が運び入れられ、祭儀が行われていました。

ダビデの息子であるソロモンが王となってからは見事な神殿が建てられ、多くの巡礼者が都詣でのために、このエルサレムへとのぼって来て都は栄えたのです。しかしその繁栄もやがて偶像崇拝へと向かい、神から心は離れたところからイスラエルの国はソロモン王の死後、北と南に分裂してしまいます。この後も2つの国の王と民とは神に背き、預言者の警告にも逆らい続けた結果、まず北王国がアッシリアによって滅ぼされ、その後南王国もバビロニアに支配され、ソロモン王が建てたエルサレムの神殿は崩壊します。そうして技能や技術のある多くの人たちがバビロニアに捕囚として連れていかれてしまいます。                       

けれども約半世紀の後に、神の御業としか言いようのないかたちで、ペルシャ帝国がバビロニアを支配し、捕囚とされていたユダの人たちは奇跡的に自由の身となり、エルサレムに帰還することができるのです。

そうして、ネヘミヤやエズラなどの神に立てられた執事や高官ら指導者の働きを通して、ユダの地に帰還した人たち、又ユダの地の残っていた人たちは主を礼拝するために心を一つして、荒廃したエルサレの神殿を再建していくのです。それはまさに、神の奇しき恵みによる信仰の復興を証しするものでした。

捕囚の期間は半世紀余にもわたるものでしたが、バビロニアに捕囚とされた人たち、さらにユダの地に残された人々はそれぞれの地にあって、如何に自分たちが主なる神から離れ反逆するような者であったかを深く顧み、悔い改めたのです。又、そのような自分たちを決して見捨てず、守り、導いてくださる主こそ讃美すべきお方という証しが立てられ語り伝えられる中で、詩編が編纂されていったのです。131編の「都に上る歌」も、そういったイスラエルの民の歴史と心情を重ねながら読みますと、この詩人の一つひとつの言葉がより深く響いてまいります。

 

1節「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」

驕り、高ぶるとは、思い上がるということです。それは、自分は人より優れた者、人より重要で人より価値ある者と慢心し、人を見下すこと。又、自分を何ものでもあるかのように尊大に、偉そうに振る舞う態度を表します。

これは、対人関係の中で起こることですが。詩人は「驕り」「高ぶり」の大元が、神の前に思い上がることにあると気づくのです。あの神に油注がれ、王にまで登り詰めたダビデが、いつの間にか驕り高ぶり、神への畏れを忘れ、欲望を満たすために部下を死に追いやった罪のおぞましさ。その後の深いダビデの悔い改めを下地にこの詩は紡がれたのではないでしょうか。

ユダの人たちも同じように、神の義(ただ)しさ、その裁きとともに神の深いいつくしみの御業を思い知らされて、如何に自分たちは神の前に思い上がって自らの滅びを招くことになったか。その主である神への悔い改めと、もう過ちを繰り返すことはいたしませんとの堅い決意をして、詩人は「神の御前に礼拝する者の姿」をこの詩に託し謳っているのです。

 

さらに、詩人は2節で「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします」と謳います。

この「魂」はヘブライ語で元来は人の「のど」を表す言葉だそうです。ちょうどハートという言葉が心臓と心を表すような感じですが。この「のど」が傷つきますと命に係わるのでそれが魂と結びついたのかも知れません。一方、ヘブライ語で「のど」と言えば、それは「貪欲」を表すものであるということです。「のどから手が出るほど欲しい」といった言い方を私たちもよくしますが。ヘブライ語と共通だというのは興味深いことですね。

 

さておき、ここで詩人が「わたしは魂を沈黙させます」、正確には「沈黙させました」と完了形で謳っていますのは、先の1節の「心のおごり」「高ぶり」、そこから生じる自身の貪欲を「私はなだめ、静めました」、つまり、「貪欲」の思いを静かに制御したと言っているのです。

それを詩人は「幼子」に譬えて詩にします。

新共同改定訳の方が良い訳なので、そちらをお読みしますと。「母親の傍らにいる乳離れした幼子のように。私の魂は母の傍らの乳離れした幼子のようです。」

なぜ良い訳かと申しますと、新共同訳で「幼子」と訳されているのを、改訂版の訳が原語に沿って「乳離れした幼子」ときちんと訳しているからです。単に幼子であるなら、それは生まれたばかりの乳飲み子か、乳離れした幼児かわかりません。ここで詩人が乳離れした幼子と敢えて言っているのには、乳飲み子と乳離れした子の違いがあるからです。

乳飲み子は母親の強い愛情によって抱きかかえられて、貪欲といえば言い過ぎかもしれませんが、がむしゃらに母親のお乳を飲んで腹を満たすわけです。けれども乳離れした幼子は乳飲み子とは違います。まあここでいう乳離れした幼子は3歳ぐらいなんでしょうか。一般的にそれは、お母さんの愛の養いをいっぱい受けて成長し、形のある食べ物を自分で食べることができるようになった頃だと言われています。親への甘えはありますが、幼いながらも素直に親の思いを汲み取っていくことができるようになった時期といえるかしれません。詩人はまさに主なる神さまのいっぱいの愛とゆたかな養いを経験した者として、母の傍らにいる乳離れた幼子のように、魂をなだめ、静めました。もはや貪欲なまでに欲し満たそうとする心の驕りと高ぶりを静めて、「私の魂は母の傍らの乳離れた幼子のようです」と謳います。

私の魂はどうだろうか、と問いかけられているように思います。

自分の力を過信し、真の主なる神に養われる幸いを知らないまま驕り高ぶり生きるなら、虚しい人生で終わるかもしれません。しかしその主の愛と養いを知り、悔い改めと感謝をもって応えてゆくなら、それは「乳離れした幼子のような」、主の御前にゆたかな人生となるのです。

この詩編131編は「都に上る歌」と冒頭に見出しがけられています。それは神殿に詣でる「巡礼」の歌であるということです。それは又、私たちが主日礼拝に向かうための歌である、と読んでよいでしょう。

私たちも「救い主なる神」を礼拝するために、喜びと感謝、主への期待をもってこのところに集まっていりました。コロナ下でなかなか出かけることの困難さや妨げもある中、遠い方は1時間以上かけてこの礼拝に足を運んで来られました。先日も申しましたが、90歳超え足腰の弱さがございましても、礼拝に向かわずにいられないその思いは、年を重ねてもなお日毎に新たにされるのですね。

 

詩人は締めくくりとして3節で、こう謳います。

「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。」

私たちも又、唯主のいつくしみによる愛とゆるし、その信仰よって「義」とされ、神の国に与る者とされています。その祝福を妨げるものはほかならぬ自分自身の内に働く心の驕り、高ぶりにあるのではないでしょうか。日々、救いの神の御前に、乳離れした幼子のように、どのような時も主に信頼し、主を待ち望んで、信仰の旅路を巡礼者のように歩み続けてまいりましょう。

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御言葉の光に照らされて

2021-11-07 15:04:53 | メッセージ

礼拝宣教 詩編119編129~136節 招詞:ヨハネ12章35-36節

 

本日は日本バプテスト連盟の「バプテスト福祉ディ」を覚えての礼拝でもございます。先にその福祉事業の一団体のしんもり福祉会の理事長であられ、私たちの教会のメンバーでもあるKさんから「しんもり福祉会」についてのご紹介がありました。しんもり福祉会の歴史は、私たち大阪教会から生み出されました新森小路教会の閉鎖後、教会の青年有志たちの厚い祈りと願いによって平和の子保育園(現しんもり福祉会)は残り、その教会跡地において働きが現在まで続けられているということであります。又、活動休止となりましたが、大阪旭伝道所の礼拝や祈祷会はじめ、ベルフィリアによるハンドベルコンサートがその場所で行われてきたということも付け加えさせて頂きます。このように、私たち大阪教会にもゆかりのある事業体であるということで、今後も身近に祈りに覚えてまいりたいと思います。

 

本日は先ほど読まれました詩編119編129-136節から、御言葉に聞いていきます。この詩編119編全体は150ある詩編の中で最も長いものであります。その大きな特徴として、22の段落がヘブライ語のアルファベット順に構成されているという点です。中でも私たちにとって馴染みのある聖句の一つとして、105節「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という御言葉はご存知の方も多いのではないでしょか。                                            この詩編が編集されていった時代背景はお話してなしたように、国が滅ぼされ、連れて行かれた異教の地バビロンでの捕囚の体験がありました。詩人は生まれ故郷とは違う風土と文化の中で生活を余儀なくされる状況下において、どのように生きていくことが自分や同胞にとっての幸い、喜びなのか。又、様々な困難の中で、いかに人生の道を歩んでいったらよいのかを謳ったのが、このアルファベットからなる119編なのです。おそらくアルファベットにしたというのは、次世代にも語り伝えて行きたいとの願いをこめ、なじみやすく、又おぼえやすくしたのでありましょう。                      

まず、129節に「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります」とあります。岩波訳では「あなたの定めは奇跡、それゆえわが魂はそれを守る」となっています。ちなみにこの「驚くべきもの」「奇跡」は死海写本によれば「蜂蜜の流れ」と訳され、つまり「あなたの定めは蜂蜜の流れのように麗しく、口に甘く、活き活きと回復させてくれるもの、という意味になります。                                               それは、たとえ先行きの見えないような状況下でも、又如何に困難な事が起ころうとも、であるからこそ詩人は「神よ、あなたの定めはそれほど素晴らしいので、「わたしの魂はそれを守る」と、力強く、神への信頼をもってこう謳っているのです。

次に、130節「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます」とありますが。これだと「たとえ無知なものであっても、、、」と、どこか他人事のように聞こえるかも知れません。又、岩波訳の「未熟者らを悟らせる」も、未熟な者たちという不特定多数の人たちを指す表現となっています。けれども、そもそも自分自身はどうなのか。自分はよく分かっているのでしょうか。よく分かっている、よく知っていると自認している人、満足している人は、御言葉に対する求めも、飢え渇きもなく、御言葉の本質とその奥深さを体感することが難しいのです。                                        むしろ口語訳がズバリと「無学な者に」と訳しておりますように、神の御前にあって自分は無知で未熟な者、何も分かっていないと思う人は、それを慕い求めるので御言葉が開かれ、光が射し出でるように、その人は御言葉の理解を得ることができるのです。このように御言葉を与えられる人は、131-132節にあるようになお一層「口を大きく開き、神の戒めを慕い求め、御顔をわたしに向け、憐れんでください。御名を愛する者への裁きに従って」と謳います。                                                                 ところで、この「裁き」とは神の戒め、律法でありますが。それは弱い立場に立たされた人に対する神の救済ともいえます。                                                        この詩編が書かれた時代、神の教えに敵対するような世の力と働き、神ではないものを神として崇め、自分の腹を満たし、神に造られた者が神に成り代わろうとする高慢と、弱い立場の人たちに対する虐げが横行していたことが読み取れます。                                               詩人は神に「御名を愛する者への裁きに従って、わたしを憐れんでください」と訴えます。又、「そういった社会に働くどんな悪もわたしを支配しませんように。虐げる者からわたしを解き放ってください」と、神の義を求めて訴えます。

ひるがえって私たちを取り巻く社会にありましても、様々な心に痛む出来事、あるいは弱者が置き去りにされている状況が深刻さを増しているように感じます。                                                                                                                                                                               詩人は136節「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです」と嘆き祈るように謳います。                                                   本日は特にバプテスト福祉ディを覚えての礼拝を捧げています。主が世にあって小さくされた人、弱い立場におかれた人を深く憐まれ、愛してくださるとのキリスト教精神に基づき今日まで尊いお働きを続けられておられる6つの社会福祉の事業体を覚え、益々主の栄光が顕されていきますお祈りいたします。  

詩人は135節「御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟を教えてください」と謳います。この「あなたの掟」は、129節の「あなたの定め」、133節の「あなたの戒め」、134節の「あなたの命令」も又そうですが。神の御言葉は決して人を縛り、不自由にするためのものではありません。むしろその「定め」と「戒め」、神がお命じになる御言葉は、人を救い、人を生かし、平安と喜びをもたらす驚くべき神の恵みなのであります。                                                                   十戒をはじめ律法の書には実に600以上もの守るべき「定め」「戒め」が記されていますが。すべての掟は「神を愛すること」「隣人を愛すること」に集約されるのです。蜂蜜のように甘く、麗しく、人を活き活きと回復させる「神の定め」「神の戒め」「神の命令」「神の律法」。                               しかし人はなかなかそれを行い生きることができません。律法の遵守は神でなく人の裁きとなり、高慢と差別を引き起こしていきました。けれども、遂に時至って神の言(ことば)が人となり、お生まれになった。そのイエス・キリストによって「神を愛すること」「隣人を愛すること」が、私たちの間に具体的に見えるカタチで現わされたのです。まさにイエス・キリストは神の義と愛の顕れとして、十字架に引き渡され、私たち全人類の罪の裁きを十字架の死をもって成し遂げてくださったのです。この詩編の詩人の御言葉への渇望と神の義を求める嘆きの祈りは、まさにこの生ける御言葉なるイエス・キリストによってなされ、応えられているのです。                                                                 本日は1年半ぶりに主の晩餐式が持たれるようになりほんとうに感謝です。主イエスの十字架における贖いと救いの御業を心に刻んで覚える時となるよう願います。「主イエスが、人の世で小さくされている者を受け入れ、食卓を共にして下さったこと」を思い起こしつつ、御言葉の光に照らされて、今週もそれぞれに精一杯の歩みができますよう主に導いて頂きましょう。

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