日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2023年4月2日(日)主日礼拝式(受難週)

2023-03-29 17:19:21 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたがたと共に

2023-03-26 21:15:45 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ22章14-23節 レントⅤ 

まず22章の始めを読みますと、イエスさまを殺す計画がユダヤの祭司長や律法学者たちによって進められていきます。しかし彼らは民衆がイエスを慕い求めているため手が出せなかったのです。
そうした中12弟子の一人イスカリオテのユダのうちにサタンが入り、ユダ自ら彼らのもとに行って金と引き換えにイエスを民衆のいないところで引き渡すという怖ろしい取引をするのです。イエスさまへの危険が間近に迫っていました。
そうした悪しき人間の策略が進められていく一方で、これとは全く異なる主のご計画が着々と進められていきます。
イエスさまはこれから起こるであろうことを知って、その備えのため弟子たちに向けて特別な時間を設けられました。それが本日のイエスさまその弟子たちと共に持たれた過越しの食卓、最後の晩餐であります。
この過越しの準備のためには、前の7-13節に記されておりますように、イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われます。二人が「どこに用意いたしましょうか」とイエスに尋ねると、「都に入ると、水がめを運んでいる男と出会う。その人が入る家までついて行き、家の主人にはこう言いなさい。行きなさい。『先生が「弟子たちと一緒に過越しの食事をする部屋はどこか」と、あなたに言っています。すると席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備しておきなさい」とお送り出されます。二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の準備をした、とこのように記されています。

前々回でしたか。イエスさまがろばの子を解いて来るように弟子たちに命じられた折も、すでにろばの子がそのところに備えられており、「主がお入り用です」とイエスさまのお言葉通りのことを子ろばの持ち主に伝えると、そのろばが貸し出されイエスさまのもとに連れて来ることができました。そうしてイエスさまは預言者ザカリヤの書に書かれてあるとおり、平和の王としてエルサレム入城を果たされたというところを読みましたが。
人の思いや考えで突っ走ろうとしても、空回りすることが多いわけですが。神の御心でありましたイエスさまの十字架への道は、神のご計画によって持ち運ばれ、すべてが備えられていくのです。

本日のイエスさまと12弟子(使徒)たちとの最後の晩餐も、人間の思いを超えて、すべてが備えられ、やがて全世界で神の救いの記念として思い起こされるにふさわしい場と時が整えられるのです。
その日は折しもユダヤの民にとって、自分たちを神の民ならしめた、その根幹となったの出エジプトの出来事を記念する大切な「過越し祭」の日でありました。
それは、イエスさまの時代から溯ること1300年程前、モーセの時代エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民の苦しみと痛みの叫び声を、主がお聞きなられ、民の解放を拒むかたくななエジプトの王と国に致命的な災いをもたらされることを告知なさいます。イスラエルの民は神のお命じになることに従い、小羊をほふって各々の家の門柱にその小羊の血を塗ります。そしてそれがしるしとなって災いをもたらす神の使いはその家を過越し、主の民は滅びから逃れることができ、奴隷の状態から解放されるのです。

主の民はその神の救いのみ業を先祖代々語り伝えられ、記念しとしておぼえ、祝い続けてきた。
それが過越しの祭であったのです。
イエスさまはその過越の日に用意されたぶどう酒を、あの民の救いのために流された小羊の血と重ねて「あなたがたのために流されるわたしの血である」とおっしゃいます。又、裂かれた肉とおっしゃったのも、神による解放のためにほふられ民の間で分かち合われた小羊とご自分の十字架の死が象徴的に表されているのです。

そしてその最後の晩餐に際し、イエスさまは開口一番、次のように使徒(弟子)たちにおっしゃるのです。
「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」 福音書のマタイ(26章)やマルコ(14章)にも同じ記事が記されているのですけれども、そこで、イエスさまが開口一番おっしゃったことは、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」ということでした。
このようにマタイとマルコではイエスさまが過越の食事の始めから裏切る者が予告されているのです。
ところが今日のルカ福音書では、イエスさまは裏切る者が誰であるのかをご存じでありながら、「わたしが苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、切に願っていた」とありますように、そのイエスさまの「あなたがたと共に」という強いご意志が示されています。そこにはイエスさまがイスカリオテのユダを除外することなく、そのあなたがたと過越の食事をしたいということを強く願っておられたということです。
それは、イエスさまの側からはユダを拒まれていません。ユダを受け容れ、愛し抜かれるのです。そして、イエスさまの過越の食事が終った後で、「しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者は不幸だ」と、裏切る者の告知がなされるのです。
この過越の食卓の時において、ユダは自分自身をイエスさまの御前にあってわきまえ知る機会が与えられていたのです。イエスのその言葉を聞いたユダは、「それをご存じなのに、なぜ自分を招かれたのかとその心も動揺していたのかも知れません。しかし彼は沈黙し続け、結局イエスさまを金で引き渡して裏切るのです。ユダは、自分を愛し抜かれたイエスさまを拒み続け、彼はその責任を自ら負わなければならなくなるのです。

一方、イエスさまから裏切る者の予告を聞いた他の使徒たちはというと、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」とあります。
それは祭司長や律法学者らから命を狙われ、殺されようとしているイエスさまに目を向けるのではなく、自分たちのだれが悪いのか、という犯人探しに終始していたということです。
この時点で11人の弟子たちはいくら何でもイエスさまを裏切るようなことを自分たちは決してしはないと思っていたのではないしょうか。
しかしイエスさまは、暴力的な力によってご自身が捕えられていく時、使徒たちは自分の命が惜しくて逃げてしまうことを、ご存じでした。
 筆頭格の弟子シモン・ペトロはイエスさまが捕らえられていく後を宮廷まで追っていきます。
しかしそこにいた3人の人たちからイエスとの関係を問われると、ペトロは「わたしはあの人を知らない」と、3度も否んでしまうのです。イエスさまはそのペトロのこともご存じであられたのです。他の弟子たちもイエスさまが捕えられ、裁かれ、十字架に引き渡されて処刑される中、みな散り散りに逃げ去っていきました。

すべて存じであられたイエスさまは、それにも拘わらず「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過ぎ越しの食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と招かれるのです。何という主のご慈愛、いつくしみでしょうか。
この「最後の晩餐」の後、ゲッセマネの園で祈られ神の御心に従ってイエスさまは引き渡され、体中の肉が引き裂けるほどのむち打ちと十字架刑による暴力的な死を目の当たりにして、なお弟子たちが主の十字架における神の救いの真理を知り、そのイエスさまの愛によって使徒として福音を伝えて行くときがやって来るのです。
 このイエスさまの最後の晩餐、私たちにとって主の晩餐は、ユダヤ・イスラエルの民だけでなく、天地創造の主が命の息を吹きかけて生きる者となった全人類に与えられました。
旧約の時代よりの預言されていたように、異邦人の希望であるキリストの御救いにより、この主を信じる者だれも罪と悪の力の支配の滅びから救われるのです。

私たちは月に一度の主の晩餐に与ることを通して、イエスさま御自身がすべての人の罪を贖う神の小羊として、十字架にかけられ、肉を裂き、血を流して犠牲の死を遂げて下さって、私たちの罪と咎の審判をイエスさまが受け、すべての罪を贖ってくださったことを想起していくものですが。
 過越の折は、ほふられた小羊の血を家の門柱に塗ることで災いや滅びが過越しましたが。私たちは主イエスが十字架で裂かれたみ体を表すパンと流された尊い血潮を表すぶどうから作ったものを戴いて、その主イエスのいのちに与って生きる力に与るのです。それは私たちが日常の中で食事をするように普段からみ言葉を味わい、祈りの霊の油を戴くことで私たちの歩みは守られ、支えられていくことと同様です。主の晩餐によって自分の体の中にイエスさまの愛が入り、養われ、主のお姿に倣うものとされていくのです。

2000年前の晩餐の席には、神の御心がわからなくなり、主イエスの愛を否むような者、恐れから逃げ出すような弱く、つまずきやすい弟子たちがいました。けれどもイエスさまはそのような弟子たちを主の聖なる晩餐へと招かれました。彼らがその体験を主の記念として行う度ごとに、「わたしの愛と救いを思い起こすように」と、唯、主が差し出して下さる贖いのしるしに与る以外救いようのない弟子たちを主の聖なる食卓へと招かれるのです。

この最後の晩餐の後、使徒たちの中で誰が一番偉いかと議論していた彼らに向けて、イエスさまは次のように仰せになられます。
「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」
これはまさに、イエスさまご自身が十字架の苦難と死を通して自ら神と世人にお仕え下さったそのお姿であられます。

キリスト者というのは何か世的に立派な働きをするとか。親切で優しく清らかだからということではありません。神の御前で自分の罪深さに気づき、自分の弱さに泣き、「唯、神よ、お救い下さい」とひれ伏し祈る者が神の差し出される救いのパンと杯に与って救われ、その愛を知ってキリスト者とされているのです。このキリストの命とその愛に応えて生きるものとされてまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年3月26日(日)主日礼拝式(受難節・レントⅤ主日)

2023-03-22 12:51:45 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年3月26日(日)主日礼拝式(受難週・レントⅣ主日)

2023-03-22 12:51:45 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長居公園 梅 最終

2023-03-17 15:22:46 | 教会案内
長居公園 梅 最終
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年3月19日(日)主日礼拝式

2023-03-16 10:21:59 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平和の王による救いと解放

2023-03-12 13:04:00 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ19章28-40節 レントⅢ

①「ムナのたとえ」から
本日はイエスさまが都エルサレムへと入城なさる記事でありますが。イエスさまはこの時を迎えるにあたり1つのたとえを弟子たちにお語りになられました。それは今日のところの前に記された
「ムナのたとえ」(19:1-26)です。
そこには、「遠い国へ旅立つ」ことになった主人が僕らにお金を与えて旅立ち、「王位を受けて帰って来」て、僕らが預かったものに対してどのようであったかを問われる話です。その主人とはイエスさまでご自身であり、僕とは弟子となった者たちです。
ここではイエスさまとの十字架の出来事による別れがあること、そしていつの日かイエスさまが平和の王として再び帰って来られることが示されています。同時に、主の僕である弟子たちが、主イエスから託された福音を与る者として各々がどのように用いるのか、その心備えが語られています。主の弟子となった者は、自分の小ささや無力さに嘆き、涙することも多くあったでしょう。今も主に従って生きていきたいと願う者ほど、自分の小ささ、足りなさを知らされるものです。しかし、主の福音はその小さき者らにより代々運ばれ、終末のときを迎える備えがなされていくのです。
 このことを踏まえて、今日の御言葉に聞いていきたいと思います。

②「まだだれも乗ったことのない子ろばに乗られる主イエス」
そして、今日のエピソードでありますが。
イエスさまはエルサレムに向かう途上のべトファゲとベタニヤに近づいたとき、二人の弟子に、「向こうの村へ行きなさい。そこを入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」(30-31)と、お命じになります。
 イエスさまはエルサレムへ入城するにあたり、勇ましく、又見栄えのいい馬ではなく、まだだれも乗ったことがない、たよりない子ろばに乗られると言われるのです。
真の王の王であられるイエスさまがお乗りになられるなら、勇ましく見栄えのいい馬、その力と権力を示す軍馬に乗られる方がふさわしいようにも思えます。
しかし、人や荷物を運ぶのに便利だからと借りたり雇ったりしていたろば。又、農家の労働力として飼われていたろば。しかも、「まだだれも乗ったことがない」、大人のろばのようには役に立たず、未熟な子ろばを、イエスさまは「主がお入り用だ」とおっしゃるのです。それは、主の栄光が顕されるために用いられるように、と選ばれた存在であったのです。
 注目すべきは、イエスさまが平和の王としてエルサレムに入城するにあたり、そのような子ろばをあえてお用いになられたということであります。

③「御言葉どおりになる信仰」
まだまだ未熟で、、、といえば、この時の弟子たちも同様であったでしょう。
彼らはイエスさまがなさろうとしていることがなかなか理解できませんでした。
それも無理なからぬことでしょう。「この方こそ世を改めてこの地を統治するにふさわしいお方、来るべき王」と、従って来た彼らに対して、イエスさまは「十字架にかけられる」とか「殺される」とか口になさるようになっていたからです。
しかしそのような彼らが主に用いられるのです。
では彼らはどのようにして用いられていったのでしょうか。
それは唯、神の「お言葉に従う」ことを通してであります。
この時子ろばを連れて来るように命じられた2人の弟子たちは、「何で子ろばなどを必要となさるのか。馬だって借りることができたのではないか」と考えたかも知れません。しかし彼らは自分の思いではなく、「主がお入り用なのです」というお言葉に自分を従わせたのです。
そして、32節「使いに出された者たちが出かけて行くと、イエスさまが言われたとおりであった」のです。
彼らは、イエスさまのおっしゃるように、唯神の御心に聞き従ったとき、言われたことは本当だった、という体験をするのです。

さて、そうして「おっしゃっていたとおりだ」と、その「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちがやって来て、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言うのでありますが。弟子の二人は、『主がお入り用なのですと答えなさい』という、イエスさまのお言葉どおり、その持ち主にたちに伝えると、そうしますと、持ち主たちは不思議にもあっさりと彼らに子ろばを引き渡したというのですね。
これらの事から知らされましたのは、たとえ私たちが未熟であったとしても、弱々しく頼りないろばの子のようであったとしても、主のお言葉どおりに行なっていくと、主はその御心に適うみ業を起こしてくださるということであります。
主なるお方を尋ね求め、主なるお方のみ言葉にこそ聞いて従い、神の栄光を仰ぐ者とされてまいりたいと願います。

 ところで、このろばの子ですが。「つながれていた」のが「ほどかれて」イエスさまのところに引いて来られたわけですが。
 その「ほどく」という言葉が2度繰り返して使われ強調されているのです。これは当時のローマの悪政によってつながれ、あえぎ苦しんでいる人々が、「ほどかれ」ること、つまり解放されていくことを表したものです。
 イエスさまは、当時のローマの悪政や傀儡政権の支配のもとで軽んじられ、苦しむ民の1人としてお育ちになり、民が解放されることを切に願っておられたことでしょう。
けれどもイエスさまは、その手段として軍事力や武力という力による解放をお求めにはならなかったのです。
イエスさまは軍馬ではなく、「子ろば」をお用いになられるという象徴的行為によって、平和の王として来られたことを世に示されるのです。
37-38節では、「イエスさまがオリーブ山のくだり坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた。『主の名によって来られる方。王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。』とあります。
弟子の群れは、子ろばに乗ったイエスさまにつまずくことなく神を賛美して、これこそ王の王・「平和の王」であると、喜びたたえます。
 ただ、ここに「天には」とありますように、地上における平和は実現されていないのです。しかし、時は満ちていました。それはまさに、主イエスの十字架の受難と死、そして復活を通してもたらされようとしていたのです。

 この主イエスの御業によって神と人の関係の回復、人と人の関係の回復の道が開かれていくのであります。そして、真の平和である神の国の完成は最初に申しました「ムナのたとえ」にありますように、イエスさまが子ろばに乗って表わされた平和の王としての行進は、その時だけで終ったものではなく、再び主がこの地上に来られる神の国の完成のときに至る壮大な歩みであるのです。

④「石が叫ぶ」
 このように子ろばに乗って進み行かれるイエスさまに向かって、宗教家であるファリサイ派のある人々が群衆の中から、「先生、お弟子たちを叱ってください」と進言します。それに対してイエスさまは、「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と、お答えになるのであります。
ファリサイ派と聞けば、十把一絡にイエスさまに敵対していた人たちという先入観で見てしまいがちですけれども。
そのグループの中には敬虔でイエスさまのことを尊敬していた人たちもいたようであります。イエスさまを「先生」と言ったこのファリサイ派の人々も少なからずイエスに親愛と尊敬の念を抱いていた人たちであったと言われています。
けれども彼らはイエスさまの弟子にはなれず、一定の距離を保っていたのであります。
ここで彼らは、「これ以上、賛美が高まれば、イエスの身に危険が及びかねない」という観点から、「賛美をやめさせて黙らせるように」と、指摘しているようです。これはある意味、思いやりのある言葉であったのかも知れません。
けれどもその彼らに対してイエスさまは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」と、ユーモラスにお答えになります。
それは、心から湧き出る神への賛美。それを押しとどめることはできない。たとえ彼らを黙らせることができたとしても、この世界のすべてを造り、おさめておられる神がおられ、その神とその御業を全被造物がほめたたえる日がやがて訪れる。石ころさえも主を賛美する日が訪れるということであります。

⑤「今をどう生きるか」
最後に、その日その時を前にして、今、私たちは遂に始まった産みの苦しみのような時代を生きているように思えます。
以前に新聞のコラムで、昨今の風潮は、「『相手をたたきのめす』それがいいんだとするような過激な手法に待望論が集まるほど、戦後民主主義は行き詰っているのかも知れない」と、ある精神科医の方が記していた事が心に留まっています。
いろんな面で厳しく、不安や恐れの多い時代であります。そういう時に強いリーダーシップを求め、逆に身動きがとれなくなり、ひいては争いの過ちを繰り返そうとしていないかを問われます。力に依存し、力に服従していく社会や人間関係は、神の国とは程遠い殺伐とした世界といえるでしょう。
全能の主なる神は力ある軍馬ではなく、小さな子ろば乗られたイエス・キリストを通して神の国の到来をお示しになられました。
私たち一人ひとりは小さな存在に思えるかも知れません。しかし神の国の到来を叫び、祈り求める私を、「主がお入り用なのです」。
 主が再び来られるその時を待ち望みつつ、今も平和の王、主の行進に連なる者となっていきたいと切に祈り求めていきたいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023年3月12日(日)主日礼拝式(レントⅢ) ごあんない

2023-03-08 13:24:38 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神への信頼

2023-03-05 15:41:18 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ18章1-8節 レント(受難節Ⅱ)

本日はまず、いくつかの祈りの課題を共有することから始めたいと思います。
世界各地で起こっている戦争や紛争、そこで命の脅威にさらされている一般市民と心ならずも武器を手にする兵士たち。そのような状況下、平和を祈り願うすべての方がたと心を合わせ、一刻も早く戦争が止みますように。
 又、世界各地の軍事政権下で抑圧と迫害に遭い、痛み苦しんでおられる市民の自由と解放のために。
 さらに、トルコとシリアの大地震はじめ、地球温暖化の影響よる災害に遭われて悲しみと苦しみの只中におられる方がたが忘れられることなく、必要な助けと支援を受けることができますように。
 そうした中、今週の土曜日11日は東日本大震災と原発事故から12年目を迎えます。未だに復興もままならず苦闘しておられる方がた。又、放射能汚染によって避難生活を余儀なくされている方がたと祈りをともにいたしましょう。
 最後に、コロナ禍によって起こった急激な変化の下、苦境に追い込まれ自ら命を絶った方がたが、特に若い世代が増加しているということです。
 主よ、叫び祈る人々の声に、否、言葉に出すこともできないよう方がたのうめきに、耳を傾けて下さいますように。

さて、本日の箇所でありますが。
当時のユダヤ社会は、ローマ帝国の支配下にあって人びとは圧迫を受けていました。同時に、ユダヤの特権階級にあった権力者の高慢と怠慢によって、弱い立場におかれた人びとの生きる権利が損なわれるような事が起こっていたのです。
そういった状況の中でイエスさまが弟子たちに対して語られたのは、気を落とさずに絶えず祈ることでした。
私はこの「やもめと裁判官」のたとえをこれまで、「ただ執拗に神に祈り求めることが大事だ」という程度に理解していました。
しかし、今回、今までとの理解とは異なるリアリティをもった叫びとして聞こえてきたのです。ご一緒に聖書から聴いていきたいと思います。

この裁判官は、「神を畏れず、人を人とも思わない」人物でした。
やもめ(寡婦)は夫を亡くした人、あるいは、当時の社会において一方的に離縁されてしまった人でありますが。当時は13歳、14歳くらいが結婚の適齢期だったようですから、そういう若い人や子育て中のシングルマザーや、高齢でも共同体としての扶助や援助を受けることができず、全く頼るべき人のいない方がいたのでしょう。
そうした中で、たとえば結婚後若くして夫を亡くしてしまい、生活に困り果て、高利貸しに借金するも、不当な返済額を請求されて返済できず、食いものにされていた人たちもいたようです。
どこの国どの時代においても、女性、さらに寡婦や一人親は往々にして弱い立場にあります。

古代のイスラエル社会は家父長制社会であり、女性の権利が認められることは少なかったのですが、申命記の時代には大家族制が崩れて家父長の地位が衰え、モーセの時代すでに申命記の契約の書には女性の地位保障について規定されています。が、しかしその後も女性は弱い立場におかれることが多く、殊に寡婦はじめ、親を亡くした孤児、寄留者は、人として生きる権利や尊厳までも蔑ろにされ、不当に扱われていたのです。

それを裏付けるように、イザヤは次のように主の言葉を取り次ぎ告発します。
「災いだ、偽りの判決を下す者、労苦を負わせる宣告文を記す者は。彼らは弱い者の訴えを退け、わたしの民の貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、みなしごを略奪する。」(イザヤ10:1-2)
一方、詩編の作者は次のように主を賛美します。「主はすべてしえたげられる者のために、正義と公正とを行われる。」(103:6口語訳)
 預言者イザヤが、「貧しい者から権利を奪い」と告発した「権利」とは、「正義」や「公正」とも訳せる原語だそうです。 
主は弱く小さくされている人を知っていてくださり、人としての権利、正義と攻勢を回復してくださるお方であるのです。

たとえの方に話を戻しますが。
やもめ(寡婦)は、裁判官に訴えても、一向にとりあってくれません。それでも彼女は何度も裁判官のところに出向き、訴え続けたのです。
人を人とも思わなかった不当な裁判官は、その自分の立場を保証してくれる裕福な人や、わいろを包んでくるような人とのかかわりは大事にしてきたと考えられますが、自分にメリットのない人とは関わろうともしなかったのでありましょう。又、この裁判官は、ユダヤの町では律法の専門家であったわけですが、そもそも「神を畏れない」ということは、裁判官としての資質が欠如していたことを示しています。

ところが、その裁判官の気が変わり、彼女のために裁判をしてやろうと思ったというのです。

なぜでしょう。
それは彼が神に回心したとか、人情をもって助けてやろうという思いになったということではなかったのです。彼は相変わらず、「私は神を畏れないし、人を人とも思わない」と明言しています。
 では一体何が彼の心を動かしたのでしょう?
それはここに語られているように、彼女が何度もやってきては、その苦境を訴えたからであります。ではなぜ彼女はそんなに強くなれたのでしょうか。それは、ほかに方法がなく、唯神に望みをもってそうする以外の道がなかったからです。逆に言えば、神にすべてをかけて祈り、望みをおくからこそ、彼女な不当な裁判官に声をあげ続ける事ができたのです。
そうしてとうとう、押しても引いてもやもめのために動こうとはしなかった裁判官が、「うるさくて、かなわないから」と折れて、彼女の裁判をするように事が動き出すのです。そこには、目には見えませんが神さまがお働きになられたからです。

このたとえをもって、主イエスは言われます。
「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」

この主イエスのお言葉を弟子たちはどのように聴いたでしょうか。
日夜叫び、訴える人たちの声を神は決して聞き逃すことなく、いつまでも放っておくようなことはなさらない。神は速やかに裁いてくださる。だから「気を落とさず、絶えず祈りなさい」とおっしゃるのです。そこには主イエスご自身が、不当にも迫害をお受けになる者の一人として祈られたお姿と重なります。

私たちも又、不当な状況の中で、同様に困難な状況の中にある人びと共に、「神さまは速やかに裁いてくださる」「神さまは、すべてをご存じであり、神の前にはすべて明らかにされている」という、その神に信頼し、日夜祈り続ける者でありたいと願うものです。

「言っておくが(そこで、わたしは言う)『神は速やかに裁いてくださる。』」
この言葉が今日の結論です。すべてをご存じの神さまは速やかに必ず全き裁きをなさるのです。
ここに希望があります。

ただ主イエスは気になる一言を発せられます。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』
主は私たちに「神への信頼」を問われるのです。
神に信頼できなければ、祈りが出てくるはずありません。それは又、祈らなければ神との信頼の関係も確かなものとならないでしょう。まさに、どんな時も、常に祈る必要があります。

最後に、イエスさまのたとえ話は、神に対するあり方を示すと共に、人に対するあり方をも示しています。
神が聴き入れてくださることを信じ、神への信頼に生きて、気を落とさず、絶えず祈ること。
それは、この社会にあって神の愛を阻むものへの執拗な闘いであるでしょう。
『人の子が来るとき、果たして信仰を見いだすだろうか。』
それは、困難な中におかれても、主の裁きは必ずなされるという励ましです。

神の国の到来という終末における神の審判に、目を覚まして祈り備えていくことは大事です。
今この時も、このやもめが苦境に立たされていたその苦しみ、悲しみ、怒り。そのように軽んじられ、不当に扱われ、人としての尊厳を踏みにじられてあらゆるものを奪われながらも、ただ公正と正義の回復と裁きを日夜訴え、祈り続ける一人ひとりを神は知っていてくださり、守ってくださる、と主はおっしゃっているのです。
「恐れるな、小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
主イエスの苦難と死を覚えて過ごす受難節にあって、この週も主に信頼し、気を落とすことなく、希望をもって絶えず祈り、御心に叶うように歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2023/03/05 主日礼拝式 ご案内

2023-03-01 13:27:37 | 教会案内

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする