礼拝宣教 ダニエル12章1-13節
これまで礼拝で読んできましたダニエル書も本日で最終章となります。
今日は12章のダニエルの見た幻から「希望の道を行く」と題し、御言葉に聞いていきますが。
先日知り合いの方からショッキングなニュースを聞きました。その方は定期的にアメリカの牧師の方がたとZoomで対話と祈り合う時をもっておられるのですが。その方との先日のやりとりで中耳にしたのは、長いコロナ危機が続く中でアメリカの4,000ものキリスト教会が閉鎖されたということです。それはわかっているだけでもということですから、実際にはさらに多く、今保たれている教会も運営が困難な状況にさらされているところが多いということでした。
世界を見渡せば、近いところで中国、さらに香港。ミャンマー、タイ、インドネシアと、アジアだけでもキリスト者のみならず、神とその戒めを愛し、畏れ敬う人々への迫害や弾圧が起こり、それが今も続いています。ロシアでも神に忠実であろうとする教会や信徒は弾圧と迫害を受けておられるようです。
さて、これまで礼拝で読んできましたダニエル書も本日で最終章となります。
今日は12章のダニエルの見た幻から「希望の道を行く」と題し、御言葉に聞いていきますが。それは10章からが「ダニエルの黙示録」といわれていますように、「終わりの時についての幻」の記述であります。そこに示されたとおり、神さまを信じて生きるユダヤの人々は、ダニエルの時代後も、権力をもった国々の王の支配下におかれて翻弄され、厳しい迫害と苦難にさらされ続けます。
その中でこのダニエル書が編纂され、殊にこのダニエルの黙示は繰り返し読まれ、どんな時代においても「神の救いの民」として生きる希望を与え続けてきたのです。
今日はこのところから、私たちに語りかけられているメッセージを聞いていきたいと思います。
1節には、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は」と語られています。
ミカエルは7人の大天使長のうちの一人で、ユダヤの信仰の民を守る役割をもった天使であったのです。唯一の神に対して忠実に生きようと苦難をも受けとめたユダヤの人たち。その信仰の闘いの先には、「神の救いの完成が必ずもたらされる」という約束がここに宣言されているのです。それは私たちにとっても恵みの希望であります。
苦難はある。艱難は来る。信仰の闘いは神を信じる者すべてに起こって来ると。しかし、必ずやその信仰が報われる時が訪れると。それがダニエル書の希望のメッセージであります。
「希望」と申しますと、未だに見出すことの出来ないずっと先のことのように見えるかもしれません。けれどもその日、その時まで神はいらっしゃらないのか、どこか遠い天の上におられるのかといいますと、決してそうではありません。
5節の「川の両岸に立つ2人」とはダニエル同様、民の行く末を案じる預言者であり、6節の「川の流れに立つ、麻の衣を着た人」は、厳しい迫害の激流のような時代の上に立ち、神に忠実に生きようとしている人たちを見守り、「目を覚ましていなさい」と励まし続けておられるのです。その姿は、先の10章5節に「麻の衣に純金の帯を腰に締め、体は宝石のよう、顔は稲妻、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう。話す声は大群衆の声のようであった」とありまように。それは正に私共にとりましては、ヨハネ黙示録の1章に記された、天上におられるキリストのお姿であります。このお方が、ユダヤの民のみならず、主を信じ救われた私共とともにおられるのです。
2-3節には、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」と記されていますが。
ここではまさに、死者の復活が語られています。それは永遠の生命に入る者だけではなく、永久に続く恥と憎悪の的となるような者も地の塵から目覚めるというのです。
だれもがこの世の人生をどう生きたかが、すべて主なるお方から問われる日が来るのです。そこですべてのことが明らかになり、遂に裁きの座に着くべき時が来るのです。
主イエスは、それがあたかも羊飼いが羊と山羊を左右に選り分けるように、その時にはそれぞれの業が明るみにされ、主の御心に生きた者たちは永遠の命に与り、不義の者たちは永遠の罰を受ける事になるとおっしゃいました。(マタイ25:31-46)
日本でも死んだ後の世界のことを極楽と地獄といったり、天国と地獄とかいうわけですが。
それは何かきらきら光あふれる処であったり、真っ暗闇で鉄の棒をもった鬼に苦しめられる所であるのでしょうか。昔から絵に描かれているそんな様子を想像する人も多いかも知れません。
しかし聖書は大変明確です。前者は、主なる神さまとの永遠の交わりに入れられる。そして後者は神さまとの交わりが永久に絶たれてしまうとのことです。一言でいえば、神と共にある世界か、神なき世界かです。聖書は人間にとって本当の地獄とは、真の神さまとの関係、交わりが断絶した状態のことなのです。それは罪の支配による滅びです。
交わりと言えば、先の羊と山羊に分けられるという主イエスのお話も、神さまの愛の中でどのように自分を愛するように他者と関わったか、逆にそれに無関心であったか。そのところが問われていますが。来たるべき日に、愛する神さまの御許にあって主にある姉妹兄弟との再会を喜び、共に主の御顔を拝し、賛美できるなら、それはまさしく神の国、天国の祝宴の日でありましょう。
さて、7節「川の流れの上に立つ、あの麻の衣を着た人が、左右の手を天に差し伸べ、永遠に生きる方によってこう誓うのが聞こえた。『一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』」この一時期とは1年、二時期とは2年。半時期とは半年のことで、合計3年半の時が経ってという意味のようです。
これを見たダニエルは不安になり、「主よ、これらの終わりはどうなるのでしょうか」と尋ねます。そりゃあそうでしょう。聖なる民の力が全く打ち砕かれると聞かされたのですから。
ダニエルはずっとユダヤの民の背きの罪を自らのことと悔い改め、涙ながらにとりなし祈っていたのです。
すると、麻の衣を着た人が、「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらのことは秘められ、封じられている」と告げるのです。口語訳聖書には、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」と訳されています。
先行きが見えず神さまのご計画も御心もわからなくなってしまうような時代の中でも、揺るぎなく「あなたの道を行きなさい」と主はダニエル書を通して奨められるのです
このダニエル書が編纂されてから約150年後に、神の御子、イエス・キリストが全世界の救い主として世にお出でくださいました。
私たち主イエス・キリストを救い主と信じる者は、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)とおっしゃるキリストの「希望の道」、そして何よりも「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(同個所)という「信仰の道」を歩み通して来るべき日に至るようにと、日々招かれているのです。
私たちたちも同様に、この混沌とした時代の中で社会はどうなっていくのか不安にかられ、
先の結果を知りたいという思いが湧きおこって来ることがあるでしょう。
しかし、先の御言葉通り終りの時まで、神さまは共におられ、来たるべき時に顔と顔を会わせる日が訪れる希望のいただいているのです。私たちは現に今、生ける主の御救いのうちにおかれているのです。私どもに与えられた救いの道において、たとえそこに茨が生えていようが、砂利道であろうが、でこぼこ道であろうが、生ける神さまが共にいて下さるという恵みと感謝を忘れることなく、歩む者でありたいと願うのです。
繰り返すようですが、コロナ危機、戦争、多くの国々の民主的社会の崩壊、地球温暖化による異常気象、環境破壊、地殻変動、今も超大型の台風が差し迫っておりますが。こんなことがのべつまもなく続いており、私たちもダニエル同様「主よ、これらのことの終わりはどうなるのでしょうか」と問いかけるものでありますが。
それに対して主は、「多くの者は清められ、白くされ、練られる」とお答えになります。
私たちの信仰は何か心地良く順調に事が進むような時よりも、むしろ逆境の中で問われ、試されていく中で、主に祈り求め、御言葉を自分に語りかけられたものとして受け取り、真に主にのみ依り頼んで行く信仰へと、清くされ、白くされ、練られていくのです。そうして立て上げられ、目覚める者、目を覚ましている者とされていくのです。
ヘブライ人への手紙12章に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます」と記されていますように、主は私たちが救いの子として神の国にふさわしい者となるよう取り扱っておられるのです。
使徒パウロは又、「艱難は忍耐を忍耐は練達を練達は希望を生むということをわたしたちは知っています」(ローマ5章)と記していますが。
主なる神さまは愛する子としてわたしたちを鍛錬し、私たちがあらゆる状況の中で、神さまへの信頼において、確かな、ゆらぐことのない希望に満ち溢れた者へと立て上げてくださるのです。
そうして13節の最後には、「終わりの日まで自分の道を行き、歩み通して憩いに入るようになさいりなさい」と、ダニエルにお告げになります。さらに、「時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう」とおっしゃるのです。この立ち上がるというのは、復活を意味しています。
ダニエルは困難な時代を生きましたが。どのような時代にも終りが必ず来ることを神さまはダニエルに告げました。時の王たちが、如何に力を誇示しようとも、彼らも又、神の下では一人の人間にすぎません。地上における時の終わりの時に、生きている者、死んだ者のすべては、主の御前に立たされることになります。
今日という日、その一日一日が主の御前おかれていることをわきまえ知り、御心に沿った歩みがなされていくようにと願うものです。なぜなら、今私たちは世界の救い主としてお出で下さった主イエス・キリストによって与えられた復活のいのち、永遠のいのちのうちに生かされているのですから。
もう一度、主イエスのお言葉を味わってみましょう。ヨハネ14:6-7をお読みします。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父を知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
そこに決して朽ちることのない真の希望の道があります。そのあなたの「希望の道を行く」者とされてまいりましょう。
礼拝宣教 ダニエル6章1~24節
ペルシャのダレイオス王は、国の行政制度を改め総督を120人おき、さらにその中から3人の大臣をおいて全国を治めます。その大臣の一人として捕囚となったユダヤ人のダニエルが立てられます。彼は若い頃からエリート教育を受け、又人格的にも誠実な人であったとありますが。彼が大臣に立てられた理由について聖書は、「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた。王は彼に王国の全体を治めさせようとした」(4節)とあります。
私たちにとって学識を得ることや資格や技術を身につけることは人生を豊かにしてくれるものでしょう。しかし聖書には、「主を畏れ敬うことは知恵の初め」と(箴言1:7)ありますように、真の生ける神を知り、主に従い、聖霊によって生きる人には神からの祝福と恵みが絶えることはありません。ダニエルは共におられる主によって、その時代の王にも神を畏れて務めるよう導かれていたのではないでしょうか。
ところが、5節「大臣や総督は、政務に関してダニエルを陥れようと口実を探し」ます。
彼らにとって捕囚出身のダニエルが自分たちより上に立つことは許せなかったのでしょう。けれども王はダニエルをひいき目にするものですから、彼らに妬みや嫉妬心が起こります。何より自分たち役人の地位や権限まで損なうことになりかねないと考え、ダニエルを何とか排除しようとあらを探します。「しかし、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠惰もなく、訴えて失脚させる口実を見つけることができなかった」(5節)のです。
そこで彼らは、「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関して何らかの言いがかりをつけるほかはあるまい」(6節)と、ある禁止事項を共謀して作ります。
それは「王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」(8節)というものでした。
彼らは王に次のように請願します。
8節「王国の大臣、執政官、総督、地方長官、側近ら一同と相談いたしまして、王様に次のような、勅令による禁止事項をお定めいただこうということになりました。」
けれどここで彼らは嘘を言っています。すべての大臣と相談したのではありません。ダニエルには一切の相談もなく除外されていたのです。こうした彼らの陰謀に対して、王はいともたやすく同意し、署名してしまいます。
それはダレイオス王も自分の地位と権威が保たれるよいアイデアだと考えたからです。国民におそれ敬われてこそ王としての威厳は保たれ、権力を行使して国を治めることが出来るとの思いがあったのではないでしょうか。けれどもどんなにおそれられ伏し拝まれても王が神に成り代わることなどできません。
やすやすと署名をしてしまったその禁止令によって、まさか自分が目にかけていたダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれることになるなどとは思ってもみなかったでしょう。一度承諾して署名すれば、たとえ王であっても変更不可能なため、王は只々慌てふためき弱い一人の人間の姿をさらすことになるのです。
一方、大臣のダニエルのもとにもこの禁止令は届きます。当然ダニエルはそこに書かれていたことを知っていました。しかし彼は、「家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(11節)のです。
この御言葉のダニエルの姿から、今日は大切なメッセージを読み取ることができます。
彼はここで、「エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき祈った」とあります。
遠いエルサレムの地には主であられる神さまの神殿があり、そこはすべての主の民、同胞の故郷でありました。たとえ物理的にエルサレムから遠く離れていたとしてもその魂は生ける神との交わりから決して離れることなく、祈りと賛美を通して繋がっていたのです。
ダニエルはすべての捕囚の民の希望であったエルサレムに向って、ひざまずいて神に祈り、賛美を捧げるのです。それも特別なこととしてではなく普段通りの事としてなすのであります。神とその恵みを慕い求める者にとって祈りは、教会堂や神殿といった特別な場所だけに留まりません。どこに居ても、どのような状況で何をしていても、生ける神が共におられる。すべてを知っていて下さる。その信仰をもって生ける神さまと日々繋がって生きること、その行為自体が祈りであるのでしょう。その中で時を定めて生ける神を慕い求めて祈る。その「日に三度の祈りと賛美」を神はお聞になっておられるのです。
主イエスも、たゆまず祈る事について教えられましたが。時が良くても悪くても、三度の食事を摂るように日毎に三度、三度祈りと賛美を生ける神に捧げ続けたダニエルでありました。いつも、どのような時もその神に望みをおき、愛し畏れ敬う日々の祈りの中で、きっとダニエルの「神への信頼」は育まれ、彼の信仰は立て上げられていったのでしょう。
何か問題が起きたら、何とかしてくださいと祈る。反対に、祈らなければどうしようもないときに祈らず、どうせかなわないとあきらめて主に賛美を捧げ、礼拝すること自体をやめてしまう人もいます。つらい時も変わらず生ける神に依り頼み祈る中で本当の意味で賛美の心が育まれていくのに、神との信頼関係を築けないまま信仰の歩みをやめてしまうのは大変もったいないことです。
ダニエルの祈りと賛美はまさに、獅子の洞窟に入れられることをも承知していたその瀬戸際で「主に祈り、その神との霊的交わりから生まれる賛美(礼拝)」を捧げることを普段どおり継続していくのです。そのようにダニエルには賛美と祈り、そこに生ける神さまとの繋がりから来る「希望」があったからです。これが「神への信頼」ということです。
ダニエルのように神との信頼の関係を築いていける習慣を、どんな時も継続してまいりましょう。
さて、ダレイオス王は、ダニエルが禁止令を破って獅子の洞窟に投げ込まれることになったのを知り、「たいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した」(15節)とあります。
王は家臣たちが提案した禁止令に署名したことに対してどれほど悔い、憂えた事でしょう。それが最も信頼していたダニエルを獅子の洞窟に送りこむことになったからです。
驕り高ぶりが判断力を鈍らせたのです。慢心ほど危険なものはありません。それは神への畏れを忘れさせるからです。
自らダニエルを獅子の洞窟に入れる命令をくだす王は、そのダニエルに対して「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」(17節)と言うほかありませんでした。
さて、「王は王宮に帰ったが、食を断ち、眠れずに過ごした」(19節)とあります。どのようなことを王は想い長い夜を過ごしたのでしょう。
夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ向かいます。神がダニエルを救い出して下さらないかというかすかな期待の思いが垣間見える気もしますが。
王が獅子の洞窟に近づくと、不安に満ちた声をあげてダニエルにこう呼びかけます。
「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか。」(21節)
すると何と洞窟の中からダニエルの声がします。「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」(22節)
ここでダニエルは救出について2つの重要な点を語ります。
一つは、「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざした」という事です。
もう一つは、「神さまに対するダニエルの無実が認められた」という事であります。その救いの主体は「神」です。が、聖書の語り手はそれが「神を信頼していたから」起こったと伝えてるのです。
ダニエルは幸い無傷のまま獅子の洞窟から出てくることができました。
けれどもこの時代は信教の自由が認められず、厳しい迫害がなされ、殉教の死を遂げざるを得なかった信仰者がどれほど多くいたことでしょう。ダニエルの身に起こった事がダニエル書として編纂された時代はまさにそうした迫害の時代でありました。今も、世界のいたるところで迫害が起こっています。
主イエスはマタイ福音書10章のところで次のように仰せになりました。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである・・・・体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(26-28節)
けれどいくら勇ましいことを言っていても人は恐れを抱くものです。誰が自ら進んで獅子の穴に入っていくでしょうか。
話が変わりますが。皆さまはすでにご存じでいらっしゃるでしょう。ペシャワールの会の中村哲さんは、アフガニスタンで医者として務められる中で、病を未然に防ぐにはきれいな水、生活用水が不可欠であることを思い立ち、実に160本の井戸を掘り続け、そしてさらに25キロにも及ぶ用水路拓き、農作物をも収穫できるまでの作業をなさいましたが。現地の社会的情勢が急激に悪化する中で不安も感じていらしたようですが。しかしそれまでと変わらずその身を挺して事業にあたられていたある日、心ない者たちの襲撃に遭われ、残念ながらお亡くなりになられました。
中村哲さんはその遺作となったご著書「天、共に在り」の「はじめに」ところに「現地の三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです」、さらに「あとがき」には「『信頼』は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる」と書かれていますように、そのご生涯は最後まで神とアフガニスタンの人びとを愛する思いこそが力の源であったことが読み取れます。主(神)にある人(キリスト者)としての歩みを貫き通されたお方であるといえましょう。
イエス・キリストは神を愛し、人を愛するその愛によって十字架を担われました。神はそのイエス・キリストを死よりよみがえらせてくださったのです。それは、そのイエス・キリストとその愛を信じて生きる者にも、死に打ち勝つ勝利を生ける神は与えて下さったのです。
主イエスは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。又、生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:25-26)とおっしゃいました。この二つの事柄は矛盾ではなく、唯ひとえに、「信じる者は生きる」とおっしゃっているのです。
中村哲さんがその地においてなされたお働きやその精神は、今もかの地に生きて働き続け、現地に住まわれる方々の希望となっています。どんな世の力も暴力も神が造られた命と尊厳を奪い取ることなどできないのです。
本日は「三度の祈りと賛美を聞かれる神」という題のもと御言葉を聞いてきました。
昨今様々な状況の変化から以前にも増して不安や恐れに囚われそうになることもあるでしょう。
しかしそこで、本当に恐るべき愛なるお方、救いの神を知って生きる者でありたいと願うものです。
最後に詩編34編の御言葉をお読みして今日の宣教と閉じたいと思います。
「主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から断たれる。主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。主に従う人に災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。」(16-21節)
どんな時も、いつもこの主なる神さまとその御救いを信じ、望みつつ歩んでまいりましょう。
礼拝宣教 ダニエル3章13-30節 召天者記念
本日はダニエル書3章から「生ける神にのみ仕える」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。先々週から読み始めましたこのダニエル書は世界史にもありますバビロン帝国が栄えた時代の出来事が素材になっておりますが、実際はその約400年後の紀元前2世紀頃、シリアがユダヤを支配し、ギリシャの同化政策と激しい迫害にユダヤの人々がさらされていった時代に、このダニエル書が編纂されていくのです。
先々週の1章にありましたように、南ユダ王国が壊滅的状況とされ、異教の地バビロンの捕囚となったユダヤの人びとでありましたが。その中でダニエルら4人の若者は宮廷に召し上げられ、王に仕えるための養成を受けます。それが2章にありましたように、ある時、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を解き明かしたことで、ダニエルは高い位につき、本日のシャドラク、メシャク、アベド・ネゴもバビロンの行政官に任命されます。
ところが、ここは異教の地であります。王は夢を解き明かしてもらい、神を畏れ敬ったにも拘わらず、自分を神のように崇めさせようと、高さ60アンマ、1アンマが約40センチですので24メートルの巨大な金の像を造り、王は諸国、諸族、諸言語の人々に、これに「ひれ伏して拝まないなら、燃え盛る炉の中に投げ込む」と力を込めて叫んだというのです。まあ奈良の大仏の全長が15メートルですので、それよりもさらに10メートル近く高い金の像ということになります。それで、「人々は皆ひれ伏し、ネブカドネツァルの王の建てた金の像を拝んだ」のであります。(3:1-7)
この時、何人かのカルデヤ人の役人たちがユダヤ人を中傷しようと進み出て、王に「バビロン州の行政官をお任せになっているユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴらが、王の御命令を無視して、王様の神に仕えず、お建てになった金の像を拝もうとしません」と訴えます。(3:8-12)
カルデヤ人らは、捕囚の民である彼らが自分たちの行政官であることをうとましく思っていたのでしょう。それを聞いた王は怒りに燃え、その3人を自分のもとに連れてこさせて、「わたしの神に仕えず、わたしの建てた金の像を拝まないというのは本当か・・・・今ひれ伏し、わたしが建てた金の像を拝むつもりでいるなら、それでよい。もし拝まないなら、直ちに燃え盛る炉に投げ込ませる。お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか」と、3人を詰問します。
それに対して3人は、「このお定めにつきまして、お答えする必要はございません」と答えます。彼らの態度は断固たるものでした。如何なる地上の権力者の前であろうとも、彼らの立ち処は変わりません。それは神への揺るぎなき信仰の確信から発せられたものでした。天地万物の創造主であり、救いの主であり、神の民としてくださる神を彼らは愛し、畏れ敬っていたのです。その確信は彼らを生かす存在の根幹とも言えるものでした。ですから、そのような神でないものを神として崇拝することができません。いつの時代も、そして現代も世界のいたるところで権力と宗教とがもたれ合いながら強権政治をなし、市民の命の尊厳が踏みにじられていく事象が起こっております。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、異教の地バビロンにおいて王に対して敬意をもって忠実に仕えてはいても、そのように「神でないものを神のように崇拝する」ことに対してはきっぱりと拒否します。日本でもかつて、かの内村鑑三をはじめ、有名無名に関わらず、このシャドラク、メシャク、アベド・ネゴたちのように権力に屈することなく、ただ主なる神、自らの救いの神のみを拝していった信仰の先達がいらしたことを覚えるものでありますが。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王の前で、17節「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます」と、彼らが信じている神への信仰の宣言をいたします。
加えて彼らはこうも言います。18節「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
まあここの「そうでなくとも」と言うのを聞きますと、先の「必ず救ってくださる」と述べた言葉と矛盾しているように思えるかも知れません。「何だ、必ずと言っておきながら、そうでなくとも」というのは曖昧だと。ただ、ここで彼らが「そうでなくても」と言ったのは、単に、何かうまくいかなかった時の逃げ口上としてではなく、たとえ自分の考えどおりでなかったとしても、「主はすべてをご存じであられ、共にいてくださる」という、これもまた彼らの信仰の表明なのです。
先に触れました通り、ダニエルらの時代、さらに彼らのエピソードがダニエル書として編纂されていった時代も又、激しい迫害下にユダヤの人びとはおかれていました。誠実に神を畏れ敬う人たち、又真理を心から愛する人たちは、いつの時代も煙に巻かれ、うとまれ、時に迫害のうめきに遭ってきたのです。
さて、ネブカドネツァル王は彼ら3人の言葉を聞くや、「血相を変えて怒り、炉をいつもの七倍も熱く燃やすように命じ」ます。
王は兵士の中でも特に強い者に命じて彼ら3人を縛り上げ、燃え盛る炉の中に投げ込ませました。
すると、彼ら3人を引いていったその屈強な男たちさえその吹き出る炎が焼き殺します。しかし、神を愛し畏れ敬う彼らには燃え移りません。
こうして「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った」のでありますが。「間もなく・・王は驚きの色をみせ」ます。
その「間もなく」の間に何が起こっていたのか。それについて旧約聖書続編「ダニエル書補遺・アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」の中に、彼ら3人の若者は神をたたえ、主を賛美しつつ、炎の中を歩んでいた。そしてアベド・ネゴことユダヤ名のアザルヤは立ち止まり、火の中で、口を開いて祈ったとあり、次のように記されています。
「あなたは、お造りになったすべてのものに対し正しくあられ、その御業はすべて真、あなたの道は直く、その裁きはすべて正しいのです。」(同4)又「あなたが主、唯一の神であり、全世界で栄光に輝く方であることを彼らに悟らせてください。」(22)まさにその祈りは聞かれるのであります。アザルヤ、今日のところではアベド・ネゴが祈り終えた時、「主の使いが炉の中の3人たちのもとに降り、炉から炎を吹き払ったので、炉の中は露を含む涼風が吹いているかのようになった。火は全く彼らに触れず、彼らを苦しめることも悩ますこともなかった」と、記されいます。(同26-27)
その光景を目の当たりにしたネブカドネツァル王は、燃え盛る炉の口に自ら近づいて、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ、いと高き神に仕える人々よ、出てきなさい」(3:26)と呼びかけました。
すると3人が炉の中から出てきますが、全くの無傷であったというのです。
王は28節「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。彼らは王の命令に背き、体を犠牲にしても自分の神に依り頼み、自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちに、神は御使いを送って救われた」と言うのです。
ところが、王はほんとうに生ける神に出会ったわけではありませんでした。この後、王は夢で、主なる神こそすべてを統治されるお方であられることを示されるのありますが。
そうして、3章の終りには王の次のような言葉が記されています。
「わたしは命令する。いかなる国、民族、言語を属する者も、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をののしる者があれば、その体は八つ裂きされ、その家は破壊される。」(29節)
それは一見、神を認め賛美しているようにも思えますが。その実、権力と暴力による思想信条の強制に外なりませんでした。王は排他的迫害を繰りかえそうとしているのです。
バビロンの王は金の像を打ち立て、侵略していった国々をより強固で団結力のある一つの国家としてつくりあげようとしていました。それをもって優秀なユダヤ人たちを同化させ、その信仰をも簡単に変えることができると高を括っていたのでしょう。けれども、エルサレムの神殿崩壊とバビロン捕囚下において、ユダヤの民は主なる神の御前にあって心打ち砕かれ、真に悔い改め、その信仰はより堅固なものとされていきました。 後も、燃え盛る炉のような迫害の時代においても、共におられる神さまに守られつつ、銀が火で精錬されるようにその信仰は練り清められていくのです。
本日は召天者記念礼拝として、天の神さまの御もとに帰って行かれた主にある兄弟姉妹を偲びつつ、生ける主に礼拝をお捧げしています。信仰の先達はいかなる苦難や試練の中にありましても、生ける真の神さまが共におられ、導いてくださるというその「信仰」と「希望」と「愛」のうちに歩み通されて、今や主の御もとにおける平安に与っておられることでしょう。今を生きる私たちも又、この「生ける神にのみ仕える」確かな信仰の生涯を歩みゆく者でありたいと願います。