日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

共に生きる力

2018-06-17 14:20:47 | メッセージ

礼拝宣教 コリント二11章30-12章10節  沖縄・命どぅ宝の日をおぼえて

 

今週6月23日の「命どぅ宝の日」を覚えて、アピールと報告・祈りの時がもたれました。Iさんより沖縄バプテスト連盟普天間教会付属緑ヶ丘保育園米軍機部品落下物の現状報告がありましたが。その当事者の方々が抱えておられる苦しみや痛みは、こうして耳を傾けようとしない限りわからないものです。けれどもこれは決して人ごとで済まされることではなく、こんな状況をゆるし、「仕方がない」で済ませていく社会は、第2、第3のこうした非人道的な状態を作り出し、気づいた時には自分もその当事者にも、逆にその加担者の側にもなり得るのです。無関心でいることから関心をもつことが大切なことですね。

この沖縄のおかれてきた状況を私たちの課題としてまず知って、祈りに覚え、今日は読みませんでしたが、コリント二5章に記されている「キリストにある和解と平和の福音」に与る者として努めたいと願います。

 

さて、先週はそのコリント二4章から「土の器に納められた宝」というお話でありました。土の器のようなもろく欠けを生じるような私たちのうちに、救い主イエス・キリストが来てくださり、その主のみ救いという他にはない素晴らしい宝を頂いているという福音をともに確認することができ感謝でした。

偉大な力が人からでなく、神から出たものであることが明らかになるために。そのために、土の器の私があるがまま用いられるのであります。

 

本日は先ほど読まれ、こどもメッセージにもありました個所から「共に生きる力」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

今日の箇所は大きな文脈としては10章からのパウロ自身のことについて記されている中の一部ですが。ここで読み取るべきは、パウロが何を誇りとしているか、ということです。今日の11章30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」と言ったパウロのその真実とは何かをまず見ていきたいと思います。

 

この11章では、コリントの教会の中でパウロを非難中傷し、誇り高ぶっていた反対者たちに対して、パウロはあえて自分の誇りとなるような事どもを列挙するのです。

それは10章7節にあるように「うわべのことだけ見て」非難中傷する人たちにあえてそう言ったのですね。

パウロは10章1節で「あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われているこのわたしパウロ」と言ったり、又10節では「わたしのことを手紙では重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらないと言う者たちがいる」と、記していますが。まあ、この言葉に私をはじめ全国の牧師たちはどれだけ励まされてきたことでしょうか。

 

そういうパウロは自分の働きについて不適格であると見下す反対者たちが、肉的な面で自分を誇り、自分たちこそふさわしいと言うのなら、パウロ自身も肉的に言えば生粋の「ヘブライ人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」であると言うのですね。

もっと言えば、実際彼はコリントの教会の開拓者で、創始者のような実績をもった人でもあったわけです。

しかしそういった自分の功績や実績を決して誇ろうとするのではなく、23節以降にあるように、福音を伝え、証していく中で、自分が負った数々の苦難とその弱さを列挙していくのです。そこが反対者たちの態度とパウロのその態度との違いでした。

 

さらに、パウロには遠く離れている今でも、コリントの教会と信徒たちの心配ごとが日々あり、心はいつも彼らを思うがゆえに、こう述べるのです。

「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」

ここに弱さ、ということが出て来るわけですけれども。始めに「パウロの誇り」というものがどのようなものであるかを知るには、この「弱さ」ということがいわばキーワードとしてあることを申し上げましたが。

それはまさにパウロがコリントの教会と信徒たちのことをいつも自分のことのように思いやり、心配していたがゆえにその身に負った弱さであったということです。

 

この弱さとは単に消極的な弱さではありません。

確かにパウロはキリストの僕として仕え、福音を伝え証してしていくゆえに負った苦難の数々に自分の弱さを痛感したでしょう。しかし、それだけでなく彼は福音の種を蒔き、同じ主の救いに与る者となった教会の信徒たちの心配事で心を痛めたり、平静でいられなくなってしまうような自分の状態を、「弱さ」と表現したのですね。

それは愛すればこその弱さです。パウロが言うように、数えきれないほどの困難と苦難に遭いながら伝え続けた福音の実りが決して損なわれてはならない。たとえば、農夫が長いこと大変な苦労をしてやっと結実した実を台風の季節に案じるような弱さと言えるでしょう。あるいは、こどもを案じる親のような弱さに近いのかも知れません。

パウロの弱さとは、そのように共に生きる者として生じる、いわば積極的な弱さとでもいうことができるかと思います。

まあそのように言いますと、何かパウロが元々大変情が厚く、責任感があって面倒みのよい私たちとはかけ離れた存在だと思う人もいるかもしれませんが、そういう事ではありません。何度も言いましたように、パウロはキリストと出会う前は、自らの知識や律法を遵守する生き方を誇りとして、教会とクリスチャンを激しく迫害して回るような人物だったのです。

それがキリスト、生ける主との出会いによって徹底的にその魂が打ち砕かれるんですね。

そうして自分の弱さと罪を思い知った時、彼は神の弱さ、すなわち十字架につけられたキリストだけが自分の滅びの底にまで来られ、救うことがおできになる唯一のお方であることをさとるのであります。

 

ここでパウロは教会と信徒への愛のゆえの弱さを口にするのでありますが。その源泉は、キリストの十字架の救いにあるのです。

それは罪に滅ぶ他ない私たち一人ひとりのため、主イエスが私たちと同じ姿となってこの地上に来られ、共に生き、十字架の苦難と死に至るまで、私たち罪深い者を愛し通してくださった神の愛です。

主イエスの十字架の苦難と死の有様は、世の人々の目からすれば自分を救うこともできないような弱い敗北者のようにしか映らないものであります。しかし、そうではありません。主イエスが負われたその弱さは、まさに私たちの弱さと共にあって、共に泣き、痛みと絶望さえ共にする神の愛です。この愛は、相手を愛するがゆえに、自らの腸が千切れるほど痛むような愛、相手の苦しみをわが身に負うような愛であります。

 

パウロはその神に敵対するような罪深い自分のためにさえ、その受けるべき裁きの身代わりとなって死なれた十字架のキリストのお姿に「共に生きる神の力」、そしてパウロ自身の「共に生きる力」を見出すのですね。

 

さて、続く12章のところを読みますと、これはパウロ自ら、第三の天、楽園にまで引き上げられたという体験を第三者的な表現で語り、「このような人のことをわたしは誇りましょう」と述べます。

パウロがあえてそう言ったのは、反対者たちの中に、与えられた神秘的な体験を誇り、売りものにするような人々もいたからです。

彼は「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」と述べます。

ここでも「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇る」というのですね。

 

パウロはその「第三の天、楽園にまで引き上げられた体験」が自分を誇ることとなって、思い上がるようなことがないために、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは思い上がらないようにと、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と述べています。

この「とげ」とは、人につまずきを与えるのではと思われるほど目立つものであったとか、パウロの体に耐え難い痛みを与えるような病気のことだと言われております。ガラテヤ書2章から、ある種の眼病か発作を抱えていたと推測されています。

いずれにせよ、パウロはそのとげを何とか取り去ってくださるようにと主に3度願った、つまり祈ったというのであります。この3度とは、単に3度ということではなく、徹底的にという意味です。それほどにパウロは主に祈ったということです。

けれどパウロの祈りに対する主のお答えは意外なものでした。

9節「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」以前使用していた口語訳聖書には「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」とありますが。どちらにいたしましても、その力はわたしのうちにあるのではなく、主の力であり、主から来るその力はまさに、わたしのその弱さの中でこそ十分に発揮されるのだというのです。

 

「弱さの中でこそ十分に発揮されるこの神の力とは、ギリシャ語でデュナミス、ダイナメント。それは無から有を生じさせる、そんな爆発的な力です。また原語の「弱さ」は「無力」という意味をもっています。

 

パウロは「とげが自分の身から取り去られることを」徹底的に祈ったにも拘わらず、その思い通りになりませんでした。

これさえなければ、これさえなおればもっと神の栄光をあらわす生き方ができるのに。もっと働けるのに、さらに認められて用いられるはずなのに。人はそう考えますけれど、主はそうはおっしゃいません。

むしろ、主はパウロに、そのとげがあるという弱さの中でこそ、人の力ではなく、神の力が十分に発揮される、とおっしゃるのです。

 

パウロは遂にこの御言葉によって、「それだから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」とまで宣言するに至ります。

キリストの十字架の苦難と死、その神の弱さをとおしてもたらされた完全な救いのみ業の体験は、今まさに弱っている教会やその兄弟姉妹と共に生きる力となって、なおも彼らを叱咤激励して、遂にコリントの教会は神の前にしっかりと立ち返り、その後大きな福音の実りが結実してゆくことになるんですね。

まさしくパウロのとげの弱さの中で働いた神の力によって、ダイナミックな救いのみ業が起こされていくのですね。

 

今日のところをパウロはこう結びます。

10節「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足(岩波訳:喜ぶ)しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

 

私たちが無力さをおぼえる時にこそ、その弱いところに無から有を生じさせるようなダイナミックな神の力がゆたかに働いているのです。それは私たちにとって何と力強い励ましのメッセージでしょうか。

ややともすれば、私たちが弱さを誇るというとき、自分は弱くて力がなくて何もできません、とその弱さにあぐらをかいて、単なる弱さ自慢で終わることがないでしょうか。

パウロがここで言っている弱さとは、弱さやしんどさを抱える隣人や他者のために自ら弱さを身に負う、共に生きる力なんだということを、キリストの十字架を通して伝えているのですね。

 

最後に、このパウロが教会と信徒を思う「涙の書簡」といわれるコリントの信徒への第二の締めくくりとして、13章4節を読んで、今日の宣教を閉じたいと思います。

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって(力強く)生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者(隣人の苦しみ痛みを共に負う者)ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によって(力強く)キリストと共に生きています。」

 

私たちは弱いときにこそ強い。弱さの中にこそ働かれる完全な神の力を信じ、望み、頼りとして私たちもまた、キリストの証の存在として今週もここから遣わされてまいりましょう。

祈ります。

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こども食堂「おいでや」ご案内

2018-06-13 10:09:22 | イベント

本日 6月13日(水)午後4時~7時

親も子供も赤ちゃんも

中・高校生も みなおいでや

教会の2階ホールへおいでください。

今回のメニュー:八宝菜だよ。

小50円 中、高100円

ごはん食べていっしょにあそぼ。

宿題ももっておいでや。

赤ちゃん連れのママ・パパもおいでや。

ボランティアさん、ほぼ10人でまっています。

(食品衛生資格者・英語・中国語の話せるスタッフがおります)

場所 日本バプテスト大阪教会 (検索)

電話 06/6771-3865

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土の器に納められた宝

2018-06-10 16:31:52 | メッセージ

礼拝宣教 コリント二4:1-16

 

先週もお話しましたが、このコリントの教会にはパウロとその使徒職について、彼にその資格を問い、十字架の救いの教えにも否定的な人たちがいました。

そういった状況を受けてパウロは、今日の1節で「主の憐みを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」と述べます。

自分が使徒賭して召されたのは、自分が何か立派であるとか、何かができるとか、才能があるとかいうことでなく、それはただ事実「主の憐みを受けた」ことによるというのですね。

パウロを非難し混乱を巻き起こして人たちは、知識や誇らしい能力をもって福音そのものもではなく、パウロ曰く「混ぜ物」をしたようなことを教え説いていました。

どこかで仕入れてきた知識を巧みな話術や演出でふくらませる人たちは、あたかも神の栄光に光輝いているかのように人々に映ったかも知れません。

私が西南の神学部に在籍した時、新約学の青野先生から「彼らは栄光の神学をもっていた」と教わりましたが。それを私なりに理解したのは、熱心に信仰に励む者は祝福され、豊かであり、いわば御利益があるという。逆に実際に御利益が起らないなら、それはあなたの信仰が足りない。そういう自己傲慢とさばきの神学です。

こうした考え方のもとでは、十字架で呪われた者のように死なれたイエスさまの姿はただ敗北の意味しかなく、復活されたイエスさまの勝利のみが強調され、「十字架を負ってわたしに従って来なさい」と言われたイエスさまのお言葉がかき消されていくのです。パウロはそうした状態を「混ぜ物」と表現したのでしょう。

そんな彼に対して、パウロは「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」と言ったということであります。

 

さらにパウロは「わたしたちの福音に覆いがかかっている」「福音の光を見えなくした」と厳しく指摘しています。

 

「福音の光」とは具体的に、主イエスの十字架の苦難と死を通してなし遂げられた御救いであります。これこそ十字架の苦難をとおして示された神の栄光なのです。

 

このコリント書を読み出してもう、またかとお思いになるかも知れませんが。

パウロはキリスト教会とその信徒の迫害に燃えて進んだダマスカス途上で、主イエスに出会い、神に敵対するという恐ろしい自らの罪を知り、パウロは迫害者から180度の転換をして、キリスト者となり、実体験であるキリストとその救いを宣べ伝えることとなります。

彼はこの十字架の苦難と死を経たキリストの救い、この福音を「宝」と呼ぶのであります。そしてさらに、その宝を私たちは「土の器に納めている」というのです。

すばらしい宝を入れるのに金の器とか有名な何々焼きならよくわかります。

高価で価値ある宝物を納る入れものがみすぼらしく、ちゃちなものだったら、その宝物まで価値が下がるように思ったりしないでしょうか。

でも、パウロはその宝は、土くれから作られた器、もろく、ひび割れやすく、壊れやすいような器に、その宝が納めている、というのです。ここがいわゆる世の考えや基準とは異なっているのです。

 

今週の水曜日は3回目となります「こども食堂・おいでや」が開かれます。どうぞお祈りに覚えて下さい。

日本のこども貧困率は13.9%、7人に1人が深刻な貧困の状態にあり、先進国36のうちの29番目と7番目に貧困率が高いことになるそうです。成人の場合はもっと深刻なのでありますが。このような状況の中で全国各地にこども食堂が立ち上げられているとのことですが。

2日(土)に沖縄でこどもカフェを開いておられるアットホーム教会の砂川牧師から直接詳しいお話をお聞きする機会が与えられました。ご紹介下さったのは、いつも熱い思いをもって「おいでや」でボランティアやご献品をしていて下さるお二人の方ですが。

砂川牧師のお話によりますと、開拓伝道を始めた時、祈りながら随分それにふさわしい場所を探したけれども、どれもうまくいかず、最終的に残ったのが、古びた商店街の、それもほとんどがシャッターのおりた如何にもゴーストタウンのような店舗であったそうです。まさに欠けだらけの器のようなところで始められたんですね。

砂川牧師は当初、まさかこどもカフェを始めようなんて思ってもいなかったらしいのですが。牧師のお連れ合いさんがフードバンクという業者と、必要とするボランティア団体をつなぐお働きをお始めになったことがきっかけで、こどもカフェが始ったということでした。

すると、そういったまあユニークな場所柄もあってか、こどもが集うようになり、ボランティアの方々の祈りと忍耐強い愛情をとおしてこどもたちが変わっていって、親や学校はどうしてあの子はそんなに変わったのかと驚いていたそうです。

いつのまにか、さびた商店街にこどもの声が響くようになり、商店街の人も喜んでかわいがるので、こどもは喜んで自分からお掃除を手伝ったりするうちに商店街の人も元気にされてゆき、その噂が広まってTVやラジオや新聞の取材が来るようになったそうです。                                 そのような欠けだらけの土の器とも思える場所に。それだからこそ福音の光がそこに入ってきた時に、その欠けたところから神さまの愛と救いの福音が輝きを放っているんですね。

私たちの「おいでや」はまだ始ったばかりですが。先日そのような証しを分けていただき、たいへん励まされた次第です。

 

話を戻しますが。

パウロ自身があの時打ち砕かれ、土の器に過ぎないことを思い知った。その中に、それだからこそ、主の救いの福音という宝が納められたのですね。

パウロのように自分が如何に罪深く、救い難いものであるかを知った者。又、弱さ、もろさを知り、主イエスの救いがなければどうしようもないということを思い知らされ、心打ち砕かれたその自分うちに神さまの福音が納められている喜びと感謝にあふれ、その救いの証し人へと変えられていくのです。そういった体験をもつクリスチャンは強いですね。弱いけど強いんです。

 

8節‐11節。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。なぜなら、わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」

イエスの死、すなわち十字架の救いを頂いてこのように生きることができる、とパウロは言うのです。

 

パウロは如何に激しい恐れと不安、苦難の日々を送っていました。

それは1章8節以降にありますように、彼は耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまい、死の宣告を受けた思いをしたほどであったのです。

しかし、なおそこでパウロは、イエス・キリストの死に終らない神の力を見出していました。ここにあるように彼は、もはや自分の力を頼りにするのでなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになったのです。

彼は1章10節で「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」と記します。

 

そして本日の4章14節「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に立たせてくださると、わたしたちは知っているからです」とパウロは確信をもって宣言します。

 

土の器のようにもろく、欠けがある私。

しかしそのような私のうちに、いやそんな私たちだからこそ十字架の苦難と死をとおって復活されたの主イエスさまが、私のうちに宝として納められ、輝きを放っておられる。ここに私たちの真の希望があります。

 

16節をお読みします。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

今日は「土の器に納められた宝」と題して、御言葉を聞いてきました。

弱く、もろい、ひび割れをもつような私たちを用いて、神さまはゆたかなお働きをなさるのです。どんな器かということは、もはや問題ではありません。その中に何が納められているかということこそ重要です。

 

土の器」                     作詞・作曲 田中瑠美子

土の器 欠けだらけのわたし その欠けからあなたの 

光がこぼれ 輝く 土の器 ヒビだらけのわたし
そのヒビからあなたの 愛が溢れ 流れる

こんなわたしでさえも 主はそのままで愛してくださる

だから今 主の愛に 応えたい わたしの全てで

用いてください主よ わたしにしか できないことが 必ずあるから

 

私たちが金や銀などの立派な器だったなら、自分を誇り、正しいと思っているので心開かれることなく、神さまの福音の光を通すことができないでしょう。

けれども私たちがもろく、弱く、ひびが入っているような器であることを本当に知るなら、そのもろく弱いひびの隙間から、神さまの福音の光が差し込んで来るのではないでしょうか。

 

私たち一人ひとりをあるがままに主の器としてお用いくださる神の憐れみと恵みをほめたたえつつ、今週もまた、それぞれここから主の器として遣わされてまいりましょう。

祈ります。

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夕べの礼拝・主の食卓を囲んで

2018-06-09 10:11:19 | 教会案内

ご案内

6月10日(日)午後6時ー7時半  

みなさまのご来会を楽しみにお待ちしております。

これまでの枠にはまらない、とっても自由な礼拝。
気軽に参加できる礼拝。
誰もが受入れられて、居心地がよい礼拝。
そんな礼拝を目指しています。


*子どもが静かにしていてくれないから
 厳かな雰囲気の場所は行きづらい。

*長時間同じ姿勢で座っているのが大変。

*教会って何となく敷居が高い。

*こころに悩みごとを抱えている。

*身体的に困難なことがある。

*聖書の知識がない、


ご安心ください。

①食卓を囲んで一緒に食事をして、

②紙芝居または短い聖書のお話を聞いて、

③さんびの歌を一緒に歌う、

こんな感じの気楽に参加できる礼拝です。


※無料ですが、自由献金はあります。
 お車でお越しの方は、ご一報ください。

日本バプテスト大阪教会
電話 06-6771-3865

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キリストの香りを放つ務め

2018-06-03 18:20:12 | メッセージ

礼拝宣教 コリント二2:14-3:6

 

今日から数回に亘って読んでいきますコリントの信徒への手紙の二でありますが。この手紙の背景にはパウロのその使徒職について彼にその資格があるのかどうかを問い、コリントの教会を混乱させていた人たちがいたということです。そればかりでなく、偽教師がいて、勝手な解釈で語り、不当に利益を得る人たちもいたようです。

まあ、パウロは12弟子のように生前のイエスさまのことを知らなかったという点から、使徒としてふさわしくはない、と言われていたようです。

 

私は「牧師になるにも資格が必要ですよね」と訊ねられることがあります。確かにキリスト教の教派によっては補教師や正教師の試験をパスしなければなれないケースもあります。でも私たちの教派は、牧師となるためのそういった資格が前提となるわけではありません。大切なのは本人が主の前に如何に砕かれ、その大いなる恵みに応えていくべく主に導かれているかいなか、それを召命感ということができるかと思いますが。それが大前提であります。

又一方で、自分は牧師の召命を受けているからといって勝手に牧師となることはできません。

そこには教会の招聘がなされねばならないのです。

この教会であったら、教会の総会で私を牧師として招聘する決議をし、それに私が受諾してはじめて牧師として立てられていくのですね。その私の牧師という職務は大阪教会の群れにある限りにおいてであります。たとえばこの教会を事情で辞任することになれば、私はもはや牧師ではなくなります。

 

今日のところでパウロが「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言っていますが。ここを読むとコリントの教会も会衆の信任と推薦のうえに「使徒としてのパウロ」があったのだということがわかります。

パウロは自分の使徒職についていわゆる世の資格云々ということで問われるとしたなら、今日の2章16節でつぶやいたように「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」と言う以外ありませんでした。

彼はキリストと出会う前までは、彼は律法の子として専門的な教育を受け、律法を忠実に守り、その熱心さも非の打ちどころない人物でした。しかし彼は主との出会いによって、そういったどんな熱心をもってしても神に近づくどころか、逆に神に罪を犯す者であったそのわが身のふがいなさを思い知らされて魂が打ち砕かれるのです。いやそれだけでなく、主イエス・キリストがその彼の罪の裁きを自ら負って下さり、十字架で血を流して贖いの死を成し遂げてくださった大きな大きな愛とその犠牲を体験するんですね。

「主は到底救い難い自分を十字架の御血をもってお救いくださった」という驚くばかりの恵みをほんとうに知ったのですね。

それまでクリスチャンを激しく迫害し、その死にさえ加担したパウロは、その使徒職の資格について、彼自身が誰より「如何に自分がその任にふさわしい者ではない」かを覚えずにいられなかったのではないでしょうか。ただ、そういった救いようのない自分を滅びから救い出してくださった主のために献げ、証言者として自らを献げつつ、生きていくことを喜びとし、その使命とする任へ導かれていったのでありましょう。言い換えますなら、実はここに主がパウロを使徒としていった力と証明があるのです。

 

そのパウロは言います。3章5節「わたしたちの資格は神から与えられたものです。神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」

文字は殺す、これは律法の書を人の熱心で守ろうとしてもかえってそれをなし得ないため滅びる他ない、人の弱さを表します。

そうして、もはや人の力でなし得ない救いを、神の御霊みずから成し遂げて下さった。霊は生かす。それは神の一方的恵みです。

 

ここで「神から与えられた・・・新しい契約に仕える資格」とは、主の晩餐がこの後もたれますが、その時に「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」との御言葉が読まれますその「新しい契約」のことです。

それはまさに、如何に救い難いような者を救うために流された主イエスの主の尊い御血による犠牲であり、だれもが資格も価なくても、無条件で「新しい命に入れられる救い」の福音であります。後ほど、感謝のうちにこの新しい主イエスの御血による契約にともに与ってまいりましょう。

 

さて、今日はもう一つ「キリストの香りを放つ務め」について御言葉から聞いていきたいと思います。

使徒パウロは2章14節「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と述べます。

 

彼は十字架の救いが成し遂げられた事を、キリストの勝利だと言います。イエスさまご自身「わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16章33節)と、十字架の贖いを自らの勝利として宣言なさいました。

又、そのようにイエス・キリストが勝利なさったので、イエス・キリストに従っている人もみな勝利者なのです。そのキリストの勝利をパウロはローマの将軍と兵士たちが戦いで勝利して戻って来る時の凱旋の様子に重ねます。

一説によれば、ローマの将軍が兵士たちとともに多くの戦利品と捕虜を携えてローマに戻てくる時、ローマ市民は歓呼の声と拍手喝采を送り、焚いた香の薫りが市内に充満しました。

そのようにキリストの勝利とそれに連なる者を通して「神」が至るところに福音の香りを漂わせて下さる、とパウロは言っているというのですね。

ここにおいでのお一人おひとりが、そのようなキリストの勝利の行進に連ならせて頂いているのですね。

まあキリストの香りがする人などと申しますと、何か非常に敬虔で崇高な人をイメージさせる方もおられるかも知れませんが。実はそういうわけではありませで、ここにございますとおりそれは「キリストを知るという知識の香り」なのです。

 

旧約聖書においては、人の罪が贖われるため動物を献げ、祭司がそれを屠って焼き尽くし、その立ちのぼる煙は神の怒りをなだめる香りとされたということです。

しかし、新約聖書に至っては、神の御子であるイエス・キリストが完全な贖いの供え物として自らをお献げになった、このキリストの贖いの香り、神の救いと慈愛の香りであります。

キリスト者はこのキリストを知る、という知識の香りを神から賜っている、ということであります。ですから自分がなにか芳しい香りのするような人間になろうなどと無理することではないんです。私共がキリストの贖いの業、神の慈愛を知って、受け入れ、キリストの勝利の行進に連なっていくとき、その香りは充満し、その周囲に放たれるのです。

 

さらに15節には「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」とあります。

 

そのようにキリストに従う道を私たちが辿る時、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りなのです。しかしその香りがすべての人に良いものとして受け取られるとは限りません。

それはヘンな例かも知れませんが。私がオタフクソースをどんなに良い香りだと思っても、他の人がそう思うとは限りらず、むしろ気分が悪くなる人もいるでしょう。

 

キリストの香りそのものは救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても良い香りでありますが。香りをかぐ人によってはそれが死に至らせるものとなり、命の香ばしい香りともなるのです。

 

キリストの香ばしい福音は、その受けとる人の応答次第で、命ともなり、滅びともなるのです。それは、キリストの香りである福音が死を招くというのではなく、神の愛と恵みの福音を退けることによって自ら死を招く、ということです。

先にもお話したローマの将軍と兵士が凱旋するときには数多くの捕虜を携えていましたが。その捕虜たちは凱旋行進と香を焚くその時が終わると、自分たちが処刑されるほかないことを知っていました。勝利に与る者にとっての芳しい香りが、彼らにとっては恐れと死の香りでしかなかったのです。

私がそこから思いましたのは、ここにキリストの勝利の行進に連なる者の生き方も問われているということではないでしょうか。

その行進が救いの道を辿っているのか、否か。キリストの香りそのものは福音なのですが、その福音をどう受け取り、どう行進に連なってその道をあゆんで行くか。キリストの勝利を自らのも確信し、その喜びと感謝:今年の大阪教会のテーマですが。そのように賛美に生きてゆくか。はたまた、勝利の香りが異臭であるかのように受け入れ難く喜びのない行進となるのか。

 

水野源三さんという方をご存じの方もおられるでしょう。この方は9才の時、病で目と耳の機能以外すべて失い話すことも書くこともできなくなりました。やがてクリスチャンとなった彼は、目の動きで50音の表を示すことで、47才でこの世を去るまで神の救いを見出した喜びを伝えるすばらしい詩を生み出し続け、多くの人々に励ましと勇気を与え続けてくださいましたが。

その1つをご紹介します。

 「悲しみよ」

悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら つよくなかったなら

私は今どうなったか 悲しみよ悲しみよ お前が私を

この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある

主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ

 

私どももキリストの福音の「命から命に至らせる香り」の中で、その勝利の行進に連ならせて頂きたいですね。

パウロはコリントの信徒たちに向け17節で、「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と言っています。

そこにはあたかも物売りのようにする多くの偽教師たちがいたのです。神の言葉に混ぜ物をして売りものとするような者たちが入り込んで、巧妙に人々を騙し、実質的な被害を与えていたと思われます。

パウロは、御言葉を自分勝手に解釈して利益を得ようとしたり、人気や賞賛を得るための道具とする者らへ警戒を促します。

パウロ自身、ある人たちから使徒として不適格だと非難されながらも、キリストと出会った証言者として、ただ主から受けた恵みと力だけを愚直に伝え続けました。それこそが本物です。

 

私たちが日々の生活の中で主の福音を生き、「喜び・祈り・感謝」の証しの人生をあゆむとき。命の香りを放つ者とされていきたいですね。

愚直に主の福音に生き、証しし、その命から命に至らせる香り、その恵みの証人とされていきたいです。

私たちも又、キリストによって神に献げられる良い香りを放つ者として、主と共に勝利の道を歩み続ける祝福を祈り願いながら、今日もここから遣わされてまいりましょう。

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