主日礼拝宣教 出エジプト記1章1-14節
8月に入り、ようやく長い梅雨が明けました。が、九州や東北で、豪雨災害に遭われ、家を失われた方がた。又、生活の見通しがコロナ禍と相まって立たずみに不安を抱えておられる方がたがおられます。一日も早い復旧を祈るばかりです。
又、コロナ感染症がもはや大都市圏だけでなく、全国各地に蔓延拡大している状況です。
そういった中、緊急事態宣言がいつ再び出され、また礼拝や集会を開いて集まることが困難になるかわかりません。
先日新聞のコラムで「コロナと教会」という韓国の教会の情勢を交えたソウル支局の日本人記者の記事に目が留まりました。
「韓国では一時、大統領府が教会だけに正規の礼拝以外の集会や食事の提供を禁止する規制強化政策を発表したが、宗教界からの反発もあり、約2週間でこの措置を解除した。26日、解除後初めての日曜日を迎えた。ソウル市内にあるキリスト教会は自主的に規制を続ける。礼拝に集まった人々はコロナ禍前より少なく、大多数の信徒がオンラインで参加した。『元の日常に戻れるとは限らないから、準備を進めるべきだ』。この教会で聖歌隊を指揮する友人は、自宅でも賛美歌を練習できるように動画を撮影、信徒を対象に公開している。教会に通うより、オンラインを好む人もいる。『画面越しでも感動は伝わるし、むしろよく集中できる』。Tさんは自宅で夫と娘と一緒に、最近好きになった牧師の説教に耳を傾ける。この牧師のいる教会には、まだ一度も行っていない。伝染病流行の度に人々は集い、終息を祈ってきた。コロナ禍はそんな『祈りの場』のあり方にも変化をもたらしている」とあります。
確かにコロナ禍がさらに進んで再び緊急事態宣言になった折にも対応できる、教会の方々向けオンライン礼拝の配信も含め、備えていくことも必要な時期にきているように個人的には思います。まあそのように、今ネットのユーチューブで好みのお話や礼拝まで手軽に見ることができますが。やはり信仰の成長は、キリストのからだなる教会の主にある兄弟姉妹との関りの中で育まれていくものです。折が良くても、又悪くても、人間関係の様々ある中においても、キリストの教えに共に聞き、愛とゆるしの福音に生きる中でキリスト者として立て上げられていくのです。まさにそのために教会があり、その主にある交わりに招かれていることが大事です。
礼拝や祈り会に参加を望まれる方、又、様々な状況から礼拝に集いたくても集うことができない方もいらっしゃいます。共に主の教会に連なる兄弟姉妹として励まし、祈り合う霊的交わりとを築いてまいりましょう。共に祈り合い、励まし合いながら歩んでまいりましょう。
さて、礼拝では今日から9月いっぱいまで、出エジプト記から御言葉を聞いていきます。このコロナ禍で世界と教会の状況が大きく変化しようとしていた時、しきりとこの出エジプト記の「疫病やいなごの災い」や「過越し」の記事が思い起こされました。今もそうですが。災いともいえる状況下にあって、いかに真の神に望みをおき、神の御心に聴き、神に仕えて生きるかが問われているように思います。
この出エジプト記はイスラエルの民の移動に沿って区分しますと、1-15章が「エジプトからの脱出」。15章―18章が「荒れ野の旅」。19-40章が「シナイ山での神の顕現と契約締結と律法の授与」となります。
記事の紙面としては「シナイでの神との契約」が多くとられておりますが、今回礼拝で読む箇所は、その「エジプトからの脱出」の第1回目ということになります。
この「エジプトからの脱出」の出来事が、単にイスラエルの民の歴史の学びにとどまらず、現代に生きる私たちに向けられたメッセージとして御言葉から聞き取っていかなければなりません。
今日の宣教題を、「私たちの出エジプト」とつけさせて頂きましたが。それは、これから読んでいきます出エジプト記の大きなテーマとなりますことを申し添えて、お話を始めたいと思います。
「神の祝福」
まず今日の箇所の冒頭で、「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトを下ったイスラエルの子らの名前」が列挙されていますけれども。
そもそも、イスラエルの民がどのような経緯でエジプトに来ることになったかについては、創世記の37-50章にございますとおり、信仰の父祖アブラハムの祝福を受け継ぐヤコブの11番目の息子ヨセフが、兄たちの妬みによって洞穴に落とされ、そこを通ったエジプトへ向かうキャラバンにヨセフは奴隷として売られてしまうのですが。その後ヨセフの夢解きによってエジプトの総理大臣となるのです。その夢に示された大飢饉がいたるところで起こる中、主の知恵の霊に満たされたヨセフはエジプトにおいてその大飢饉に備えた備蓄政策をとってエジプトは難を逃れることができたのです。
そこへ、カナン地方の大飢饉によって穀物を求めてやって来たヨセフの兄たちがエジプトの宮廷を訪ね、総理大臣となったヨセフと面会するのです。ヨセフはそれがかつて自分を妬んで洞穴に落とした兄たちであることは知っていましたが、兄たちは知るよしもなくヨセフは複雑な心情で兄たちの思いを試みます。しかし、結局はその兄たちを許し、父を含めた兄弟たち家族をエジプトに呼び寄せ、生活できるようにしたのです。
この時にヨセフがエジプトに呼び寄せたイスラエルの家族の総数は、創世記46章に記されていますが、本日の5節にも記されているとおり70人でした。
その後ヤコブやその息子ヨセフをはじめ、兄たちとその家族の70人は亡くなりますが、その子孫は7節にありますように、「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」と、記されているとおりです。
因みに、その後イスラエルの民がエジプトを脱出する時には、男性だけで60万人いたと出エジプト記12章に記されていますことから、女性や子供を含めますと、200万人はゆうに超えていたことでしょう。
この7節の「産み、増し、溢れる(満ちる)」とは、創世記1章28節で、「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』との、神さまが御自分にかたどって創造された「人」に対する、神さまの祝福のお言葉を思い起こさせます。
神の民が祝福されることは、神さまのご配慮とご計画によることでした。
「神を知らない王」
一方、8節にありますように、ヨセフと彼の家族は、当初はエジプトでゆたかな待遇を受けていましたが。そのヨセフや家族の死後、長い年月が経っていきますと、ヨセフのことを知らない新しい王が出て、エジプトを支配するようになるのです。
「ヨセフのことを知らない」とは単に知らないということだけでなく、真の神を畏れ敬うヨセフを知らない、ひいてはその神さまを知らない王、真の神への畏敬の念が欠落していた王、ファラオが出現したということであります。
この新しい王は、「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた・・・これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」(9節)と、国民に警告します。
つまり、エジプト人にイスラエル人に対する敵意や警戒心を抱かせるのです。
真に畏れるべきお方を知らなかった王は、外国人が国内に増し加わることを脅威としてしか認識できず、次週読む予定の箇所では排除、さらに抹殺まで企てます。
そして11節、そのような王の警告を聞いた「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した」のです。
神を知らず、神を畏れない王が招いた、エジプト人によるイスラエル人たちへの一方的な偏見と差別。そこには、その存在を脅威に感じる恐れや不安が根底にありました。
アメリカで白人の警察官が黒人の男性に対して一方的力で暴行し殺害させた事件が全米、いや世界中のニュースとなり、こうした人種差別に対するデモが世界中に拡がっていますが。
こういった背景には、自分と違う相手を知らない。又、知ろうともしない。そこから起こる恐れや不安が偏見や分断を起こすのであります。今のコロナ禍もそうでしょう。世の中の、社会の不安が高まる時、その傾向が増すと言われています。
聖書に戻りますが。
このファラオの抑圧的政策は賢明なものではありませんでした。
なぜなら12節、「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」からです。
先に、「子を産み、数を増し、ますます強くなって国中に溢れた」というイスラエルの民に対する神の祝福の約束の実現について申しましたが。彼らはエジプトの至る所に労働力として送られ、そこでまた子が生まれ、数を増していったのです。神の民に対する約束と祝福は、激しい虐待の中で消し去られるどころか力をもって実現していくのです。
「真の礼拝とは」
さて、そのことを知った「エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を究めた」(12-14)というのですが。
今回、祈祷会の聖書の学びで聖書教育を読み、知ることができましたのは、この13-14節で「酷使」「従事」「労働」等と訳された原語「アーバド」が5回も記されておりますが、このアーバド、「労働」は、「礼拝」や「神に仕える」という意味もあるということです。
ここでイスラエルの人々は目に見える限り過酷な労働を強いられ、エジプトの王に仕えているように見えます。
けれども、彼らはその魂までは支配されていなかった。過酷な使役を課せられても、彼らは真の神を知っており、その神に仕え続けていたのです。ですから、彼らが虐待されればされるほど、神の祝福によってイスラエルの人々は増え広がったのです。
神さまが人を創造された目的は、強権的な力によって人をご自分の思い通りに仕えさせることではありません。神の善い作品として造られた人が、心から神に仕え、神を礼拝してその栄光を現すところにございます。
労働にせよ、何をするにしても、真の主である神さまを心から礼拝し、仕えることにこそ、神さまによって造られたすべての人の祝福と恵みの源なのです。
私たちは日々何に仕えて生きているでしょうか?
日常の仕事、家庭、その生活のすべての領域がアーバド、礼拝、神に仕える生き方に通じます。
コロナ禍で今後の礼拝についても先行きが見えませんけれども、どのような状況におかれようとも、私たちの魂はいつも心から主に仕える喜びと感謝の信仰を持ってたゆまず歩み続ける者とされてまいりましょう。
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