日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神への信頼の祈り

2013-08-25 15:53:21 | メッセージ
宣教 ダニエル6章1~24節 

先週は帰省させて戴きましたが、その間も「いつものとおり」大阪教会の礼拝と祈祷会が主のお導きの下、奉仕者又会衆の兄弟姉妹方によって守られましたことに感謝申しあげます。

さて、8月から礼拝でダニエル書をお読みしていますが、今日でその最終回となります。本日は6章から「神への信頼の祈り」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。
この「獅子の洞窟に投げ込まれるダニエル」の物語を、私は小学生のとき教会学校の礼拝で初めて聞いた憶えがあります。今日は今、この物語が私たちに何を伝えようとしているのか、耳を傾けていきたいと願っています。

メディア人のダレイオス王は、ダニエルを大臣の一人に任命します。そして彼に王国全体を治めさせようとますが、それは「ダニエルには優れた霊が宿っていたので、他の大臣や総督のすべてに傑出していた」からだと記されています。ダニエルは大変秀でた人物であったようです。若い頃からエリート教育を受けており、又人格的にも誠実で王の信頼に値する優秀な人でした。
けれども王がダニエルに国を治めさせようとしたのは、何よりダニエルに「優れた霊が宿っていた」からであり、それだから「他の大臣や総督のすべてに傑出していた」というのです。ダニエル自身が優れていたとか能力があったというのではなく、神の霊がダニエルに注がれていたというのです。
私たちにとっても学ぶことや資格や技術を身につけることは人生を豊かにしてくれるでしょう。しかし聖書に「主を畏れ敬うことこそ知恵のはじまり」とありますように、真の生ける神を知り、主に従って生きる人、聖霊に満たされて生きる人に、神からの祝福と平安は絶えることはありません。主はダニエルに主の香りを放たれ、その香りはまた王にも届けられていき、ダニエルは王からの信頼を得たのです。

さて、そのようにダニエルでありましが。それは他の大臣や総督たちには、捕囚出身である異国籍のダニエルが自分たちより上に立つことは許せないことであったのです。そこで彼らはダニエルを陥れる口実を探すのですが、ダニエルは政務に忠実で、何の汚点も怠惰もなく、訴えて失脚させる口実を見つけることができなかったのです。
そこで彼らは「ダニエルを陥れるには、その信じている神の法に関して何らかの言いがかりをつけるほかはあるまい」と話合い、共謀して王様の心に付け入るようなある禁止事項の制定をして戴くよう、訴えるのです。その禁止事項というのは、「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」というものでした。王がそれに承諾して署名すれば、それはメディアとペルシャの法律として、たとえ王さまであっても変更不可能なものとなるのであります。
しかしダレイオス王は自分の地位と権威が保たれるよいアイデアだと高ぶり、やすやすとその禁止令に署名をしてしまい、禁令は発布されるのです。この時点で王自身、まさか目にかけていたダニエルが獅子の洞窟に投げ込まれることになるなどとは思ってもみなかったことでしょう。

この禁令はダニエルのもとにも届き、ダニエルも当然それを知っていました。しかし彼は、「家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」というのです。

ダニエルは、主なる神に祈るのならば、獅子の洞窟に投げ込まれるということを知っていながら、「いつものとおり祈り、神を神として礼拝する」というその日課を、ふだん通り守り、行ったのであります。

このダニエルの姿から、実に様々なことを教えられるわけです。
彼はここでエルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき祈ったとあります。
エルサレムには神殿があり、そこはすべてのユダヤ人同胞の故郷でありました。それはまた、たとえ物理的にエルサレムから離れていたとしてもその魂は神とその恵みから決して離れることなく祈りを通してつながっていることを示しています。神とその恵みを慕い求める者にとって祈りは、神殿や教会といった特別な場所だけに留まりません。私たちがどこに居ても、どのような状況で何をしていても、主は共におられ、すべてを知っていて下さるお方なのです。その生ける神さまと繋がっていきることが祈りなのであります。

また、ダニエルは日に三度祈りました。これは何か特別な祈りではなく、日常のいつもどおりの祈りであったのです。ダニエルの祈りから、たゆまず祈る事について教えられます。私たちは「たえず祈りなさい」という御言葉の実践が難しいと考えますが。「たえず祈りなさい」とは、24時間ただ祈りなさいという意味ではありません。それは、いつでも、どのようなときにも神に信頼をもって祈っていくということです。
「日頃はなかなか祈らないなあ。何か問題が起きたら、その解決のためには祈るけれども。」まあ困った時に祈るそれも祈りでありますが。反対に、ほんとうに苦しくて、祈らなければならないときに祈らず、さらに礼拝すること自体をやめてしまう人もいます。実は、つらい時ほど祈るべきであるのに、つらくて祈れないといって祈らないのです。
聖霊はたとえ私たちの祈りが言葉にならないようなうめきで祈る状態であっても、御霊ご自身が一緒にうめきながら、私たちを執り成してくださると聖書はいいます。主への信仰をもってたゆまず祈り続けてまいりましょう。

さて、ダレイオス王は、ダニエルが禁止令を破って獅子の洞窟に投げ込まれることになったのを知り、「たいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した」とあります。

王は家臣たちが禁止令を提案したとき、彼らの言葉の背後にあるダニエルへの殺意に気づきませんでした。王は自分があたかも神のように拝まれることを喜び、とんでもない法令を発布してしまいました。そのことによって最も信頼し国を治めさせたいとまで思っていたダニエルが殺されることになったのです。高ぶりは判断力を鈍らせます。どのような世の権力者も地位ある者、又指導者たちも神にはなれません。ダレイオス王は自分の高ぶりによってダニエルが死の危機にさらされたことを知ってどれほど悔い、憂えた事でしょう。
しかし王が法令に署名した以上、王ですら法令の変更は不可能であったため、自らダニエルを獅子の洞窟に入れる命令をくだす他なかったのであります。そのダニエルに対して王は、「お前がいつも拝んでいる神がお前を救ってくださるように」と言って最期の別れを告げました。王はダニエルの神について知っていたわけではなかったでしょう。しかしダニエルが神と共に生きる人、神の霊が宿っている人であることを知ったのです。私たちもキリスト者としてそのような者となりたいものでありますが。

さて、「王は王宮に帰ったが、食を断ち、眠れずに過ごした」とあります。どのようなことを王は想い長い夜を過ごしたのでしょうね。
そして夜が明けるやいなや、急いで獅子の洞窟へ行った、とあります。もちろんダニエルの生死を確認するために獅子の洞窟に急いだのでしょうが。王が洞窟に近づくと、不安に満ちた声をあげて、ダニエルに呼びかけます。「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」。すると何と洞窟の中からダニエルの声がします。「神さまが天使を送って獅子の口を閉ざしてくださいましたので、わたしはなんの危害も受けませんでした。神様に対するわたしの無実が認められたのです。そして王様、あなたさまに対しても、背いたことはございません。」

「王はたいそう喜んで、ダニエルを洞窟から引き出すように命じ、引き出されると、その身に何の害も受けていなかった。神を信頼していたからである」と記されています。「神を信頼していたから。」
本日は「神への信頼の祈り」という題をつけさせて頂きました。
私たちのささげる祈りのすべては、神の御心にかなうものではないかも知れません。私たちの祈りには、形式的な言葉を繰り返すだけの祈りが多いかも知れません。疑いながら祈る祈りや自分の欲だけの祈り、神の国と神の義を考えない祈りをささげることも多いでしょう。私たちの祈りは神の御前にあって不完全で、欠けだらけであります。にもかかわらず祈り続ける私たち、祈るほかない私たちを、それでも主なる神さまはどこまでも見守り、導こうとなさっておられるのです。詩編でしたか、このような御言葉がございます。「神に従う人は苦難が多いが、主はそのすべてから救い出してくださる。」

ダニエルは命が脅かされる中にあっても、日毎に三度の祈りと賛美を欠かしませんでした。人は苦しみに遭うとき、自然と祈りに導かれます。それは神を信じる人も信じない人も同じです。神を信じない人も、漠然としてはいても自分が神と考える存在に祈ったりするものです。しかし主なる神を信じる人の祈りは、真に信頼し得る神さまの存在を知っているので、その生ける神さまに祈るのです。そしてその祈り方も違ってくるのです。
ダニエルの祈りはその典型であります。たとい獅子の洞窟に入れられても、主なる神さまとの平安と命の交わりを保つ祈りを手放さず、絶やさなかったのです。生ける神を信じる私たちもまた、この大きな神さまからの祈りの賜物を戴いているのです。神への信頼の祈りをもって、益々主の栄光を顕わしていきましょう。
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まことに神々の神

2013-08-11 16:30:06 | メッセージ
宣教 ダニエル2章31~48節 

今週8月15日に68回目の終戦記念日を迎えようとしています。それは日本にとって敗戦の日でありますが。お隣の韓国ではこの日を解放の日、勝利の日として祝われています。日本は戦争による被害国であると同時に加害国であったことを忘れるわけにはまいりません。先の戦争のわだかまりが今なおその関係の火種となってくすぶっています。先週6日の広島原爆の日、9日長崎原爆の日、各市長から平和宣言がなされました。核兵器の廃絶を求め、核不拡散条約に日本政府が速やかに賛同するよう訴えておられました。それが世界で唯一の被爆国日本がなすべき責務だということであります。それは新聞マスコミが報じているような政府批判というよりは、恒久平和への切なる願いであり、二度とあのような惨事が繰り返されることがないように、との警告であります。

さて、本日はダニエル書2章から「まことの神々の神」と題し、御言葉を聞いていきます。
先程31~49節が読まれましたが。2章の初めの箇所から読みますと、バビロンのネブカドネツェル王はある強烈なインパクトをもった夢を見て悩み苦しみます。あらゆる世の権威と力を掌中に治めた鬨の王が、夢で悩み苦しんでいたというのですから、彼もまた一人の弱い人間に過ぎなかったということです。
そこで王は国中の賢者たちを呼び出して自分の見た夢を話させ説明を求めます。まあ見た夢を聞いてそれに解釈をつけるというのなら適当にこじつけて語る者もいたでしょうが。「どんな夢を見たか当ててみよ、説明せよ」という無茶な話でありますから、誰もその夢について話すこと、説明できる者がいなかったのは当然といえば当然でありましょう。
それで王は怒り、憤慨して、バビロンの知者たちを皆殺しにするという何とも無体な命令を出すのであります。それはダニエルやその同僚をも巻き込む一大事となり、その命が危うくされるのであります。

「対話していく心得」
さて、ダニエルは知者を殺そうと出て来た王の高官に「思慮深く賢明に対応した」とあります。剣を帯びている者に対面した時、人はどうするでしょう。ある人は身を守るために応戦するかも知れません。ある人は、大声で助けを呼ぶかも知れません。用心深ければ、剣を買って予め懐に持っている人もいるかも知れません。現在日本の政治の世界では、集団的自衛権等の審議が政府主導でなされていますが。憲法改正案はじめ様々な国際間の問題もございましょうが、願わくばダニエルのように、まずは思慮深く賢明に対応していくことを心がけて頂きたいものです。このバビロンの高官は、そのようなダニエルの対応に柔軟な姿勢を示し、「どうして王様はこのような厳しい命令を出されたのか」とのダニエルの質問にきちんと事情を説明したというのですね。さらにダニエルは王へのお目通りがかない、「しばらくの時がいただけますいなら、解釈いたします」と願いでます。それが聞き入れられたのも、「思慮深く賢明」なダニエルの誠実な人柄によるのでしょう。

「夢を解くための準備」
さて、ダニエルは家に帰るとユダヤの同胞のハナンヤ、ミヒャエル、アザルヤと共に「天の神に憐みを願い、その夢の秘密を求めて」祈りました。それは正に命懸けの祈りでした。
 すると、夜の幻によってその秘密がダニエルに明かされた、というのです。「秘密が明かされた」というのですから、やはりこの王の夢というのは、紛れもなく神からのものであり、神ご自身が「啓示」としてお与えになったものだったということです。
 ダニエルはその秘密が明かして下さった「天の神をたたえ」祈ります。彼は活ける神さまがこの世のすべてのものを治めておられる主であられ、王権や国々の行く末までも司っておられることを深く確信するのです。ダニエルの知恵の源はまさにここにありました。それはバビロンのどんな知者の持てる知識に勝るものとなりました。「主を畏れ敬うことは知恵のはじまり」と箴言にございますが。何事をなすにしても、この活ける神に祈りをもってなし、御言葉によって備えていくことは、私たちに生きる知恵と勇気を与えます。そうして行く時、私たちは活ける主のお働きを体験することができるのです。
「王の夢を解くダニエル」
本日の箇所の27節以降、ダニエルは王に夢の概要とその意味を解きあかしていくのでありますが。ダニエルは王に開口一番次のように伝えます。「王様がお求めになっている秘密の説明(夢とその意味)は、知者、祈祷師、占い師、星占い師にはできません。だが、秘密を明かす天の神がおられ、この神が将来何事が起こるのかをネブカドネツェル王に知らせてくださったのです」。王の見た夢は、バビロンのすべての呪術師たちが信じる偶像の神々とは違う真の神から来たものである、というのです。

さらに王が見た夢の概要について、ダニエルはまず一つの巨像を明らかにしていきます。この巨像は種々の材料によって出来あがっており、頭の部分は純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土で出来ていました。そこへ、一つの人手によらず切り出された石が、その像の足の鉄と陶土の部分を打つと、他の金属で出来ていた腹や腿、胸や腕さら頭もろとも巨像全体を跡形もないまでに砕け散った。そしてその像を打った石は大きな山になって、全地に広がったというのです。これが王の見た夢の概要でありました。何だかSF映画に出て来そうなかなり迫力のある描写ですし、これを何度も夢に見たなら、さすがのバビロンの王も不安になったというのもうなずけます。ダニエルは先々の事を思い巡らしていた王に、活ける神が夢をもって秘密を明かし、将来起こるべきことを知らせようとなさった、と言っています。

37節以降、ダニエルは王が見た夢を解き、その意味が明かされていきます。
はじめの金の頭の部分はバビロンを指し、ダニエルは王に対しては「王様、あなたはすべての王の王です。天の神はあなたに、国と権威と威力と威光を授け、人間の野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられました」と、特別な敬意を表します。そして「後に他の国が興こるが、それはバビロンと王に劣るものだ」と告げます。その第二の銀の胸と腕の部分はメディア、後に興る第三の青銅の腹と腿の部分はペルシャ、第四の鉄のすねや足の部分はマケドニア、すなわちギリシャを表しておりますが。強い鉄のようにギリシャは破壊を重ねるということが語られ、実にそれらの国々がバビロン以降の時代において世を統治するということです。しかしそのギリシャにおいて足指の一部が鉄と陶土でなっていたように、それは一国でありながら争いと分裂が起こり、婚姻政策が取られるも一つの国となることはできなかった、という内容でした。
問題はここからですが。そういった世の権力争いと分裂の中で、天の神は一つの国を興され、その国は他の国々と違い、44節「永遠に滅びることがない」と言うのです。
王は、一つの石が人手によらず切り出されて、先の陶土と鉄、青銅、銀、金を打つのを夢に見ました。巨大な像、つまり一大帝国を築いたあらゆる権力がその石によって砕け、夏の脱穀場のもみ殻のようになり、風に吹き払われ跡形もなくなった、というのですから。まさにおごれる者もひさしからずであります。この石が何を表しているのかについてダニエルは何も言っていません。様々な解釈があるでしょうが。それが人による権威ではなく、活ける神によるものであることは明らかです。

「主を畏れ敬う者に臨む知恵と平安」
ダニエルの夢解きの内容を聞いたバビロンの王は、「ひれ伏してダニエルを拝し、献げ物と香を彼に供えさせた」とあります。王は次のように宣言します。「あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主。」
国と権威、力と栄光は、全世界をすべ治めておられる神さまのものであり、その神さまの御心に従って治めていくことが託されていることを、バビロン王は知ったのであります。聖書には「主を畏れれば頼るべき砦を得。子らのためには避けどころを得る。」(箴言14:26)とあります。夢を見て悩み苦しんでいたバビロンの王はその真理に畏敬の思いを持ち、同時に心落ち着ける安らぎを得たのでしょう。

王はダニエルを高い位につけ、、、バビロンの全州を治めさせ、バビロンの知者すべての上に長官として立てました。ダニエルは王に願って、同じく神を畏れ敬う3人の同僚をバビロン州の行政官に任命してもらった、と記されています。
ダニエルはじめ3人の同僚は、バビロンという異教の地においていわば主のスポークスマンとしての役割を負いながら、世の政治的指導者としてその働きを担う者とされたのです。神ならざるものを神とし、偶像に依り頼んで生きる者の行く末は滅びに通じます。
「まことに神々の神、すべての王の主」を畏れ敬って生きる者には、神さまの平安と祝福が伴うのです。王の見た夢の35節には、「その像を打ち砕いた石は大きな山とまり、全地に広がった」とあります。まことの神、すべての王の主、その主権は今や世界中で告げ広められています。
権力や経済を神のように崇拝し、すべてに優先させていくようなこの時代にあって、なおまことの神、すべての王の主を告げ知らせていく働きはまことに重要であります。

今日は特に、政治を職務とする方々、権力と地位にある人たちが、世々に亘って人知を超えた絶対的権威を持つお方の存在を知り、畏れの思いをもってその職務を遂行されるよう、祈り執り成したいと思います。日本におられるあらゆる一人ひとりの命と人権が守られ、諸外国との良好な関係が築かれてゆくことができますように、心から願います。
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真実を貫く信仰

2013-08-04 13:23:06 | メッセージ
礼拝宣教 ダニエル1章(平和)

今月は平和月間として「平和」「いのち」の尊さを覚え祈りつつ過ごしてまいりたいと願っております。8月15日は今年も8・15こども&おとなの平和祈祷集会が行なわれます。先日A財務相・副総理が「ナチスドイツの手法にならって憲法改正を日本もすればいい」などととんでもない暴言を口にして大変な問題になっていますが。そういった憲法改正の動き、特に9条の戦争放棄や武力攻撃を禁じている現憲法を変えようとしている政治の動きが起こっています。それは又私たちの信仰とも関る「思想信条の自由」が制限され脅かし兼ねるものでもあります。そういった中でもたれる今回の8・15平和集会は「非暴力運動の可能性」がテーマです。人種差別解放運動や公民権運動のマルチン・ルーサーキング牧師やマハトマ・ガンジー師はよく知られておりますが。その思想の根底にありますのは、聖書の「殺すなかれ」、イエス・キリストの「剣によるものは剣で滅びる」と語られた御言葉にあるといえます。今日の日本を取り巻く周辺諸国との関係が非常にぎくしゃくとしておりますが。その中で私たちは、イエス・キリストの言動に学び、聖書の御言葉に立って祈り、行動していくことが求められています。平和祈祷集会は今回京都の北山バプテスト教会で開かれます。どうぞ覚えてご参加ご援祷ください。

さて8月は4週に亘りダニエル書・ダニエルの物語の部分から御言葉を聞いていきます。本日は1章より「真実を貫く信仰」という宣教題をつけさせて頂きました。

「はじめに」
ダニエル書は、主にバビロンの捕囚時代と捕囚からの帰還後のことが少し触れられておりますが、この書が編纂されたのは実際にはそれからずっと後の約400年後の起源前2世紀頃と言われております。ダニエル書の10章からの幻の記述には、主を信じるユダヤ人たちが激しい宗教的弾圧と迫害によって苦しめられていた歴史的背景が読みとれます。つまりこのダニエル書はバビロンの捕囚という過去の出来事を物語りながら、当時大国の侵略や激しい迫害にさらされる主の民、ユダヤの人々に向けて、今一度「主の信仰を守って生きる」道を説き、励ましを与える目的をもって編まれた書物なのです。

「同化政策」
この書のいわば主人公であるダニエルはじめ、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤや4人でありますが。彼らはバビロンの王ネブカデネザルが捕囚として連行してきたイスラエルの王族と貴族の中から選ばれた、秀でた少年たちでありました。優れた少年を選び、3年間バビロンの原語を教えこませ、バビロン名に改名させ、宮廷料理を食べさせて宮廷教育を施し養成させました。これは彼らを高い地位につかせるためでしたが、そうすることで捕囚であるイスラエルの民をよりよくコントロールするという政策的意図があったようです。それは又、少年たちとその民にイスラエルの民であることをやめさせ、バビロンに同化することを強要するものでした。
同化は権力をもつ側によってなされるのであります。日本でもかつて近隣アジア諸国の人たちを強制連行し、強制労働を強い、皇国史観の強要、日本語の強要、神社参拝の強要、さらに、氏名を日本名に呼び変えさせるといった、まさにその民族と個人のアイデンティティーを奪う同化政策がとられました。その人がその人であること、その人らしく生きる権利を踏みにじる、それが戦争であり、侵略であります。二度とこのような事が繰り返して起こることがないように願い祈るばかりでございますが。

「ダニエルらのとった行動」
さて、王から食事が出され、贅沢な宮廷料理とぶどう酒を前にした時のことです。ダニエルは「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」、王の侍従長に「自分を汚すようなことはさせないでほしい」と願いでます。それが異教の神々に一旦ささげられた食物であったからです。最高権力者の王さまが出されたものを断るのですから、何と無礼な御咎めを受けるかも知れません。ダニエルも相当な勇気がいったでしょう。しかしそれにしても、何で食べ物ぐらいのことで、と思われる方もおられるでしょう。けれどもそれはイスラエル・ユダヤ民族である彼らにとって「神の民として生きる」ために守るべき重要な事柄であったのです。今でもユダヤ人(教徒)は血を含んだレアステーキやぶた肉はその規定に従い口にしません。それは彼らにとってのアイデンティティー、彼らが彼らであるための大事な要素の一つなのです。戴くことは礼儀だという考えもあるでしょう。ダニエルは目の前のおいしそうな食事を前に食欲にかまけて神の法に反する王の宮廷料理とぶどう酒を飲めば、バビロンのもつ異教的な価値観や習俗慣習に呑みこまれてしまうことになると察知し、それを拒否したのです。

さて、王の侍従長は真の神さまを信じてはいなかったのですが。神さまの御計らいによってダニエルは侍従長に好意的に又、親切な待遇を受けたとあります。主は生きて働いておられます。ところが、ダニエルが食事のことについてそのように願い出たものですから、10節にあるように「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、大変困惑します。

するとダニエルは次のような提案をもって答えます。
12節「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」

そうして十日たってみると、不思議なことにダニエルら4人の少年らの顔色と健康は、宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった、事が分かります。それ以降、ダニエルら4人の少年は宮廷の肉類と酒を除いて野菜だけを受けたというのです。
 
ダニエルらは、「神を神とし畏れ敬う信仰」をもっていました。世のいかなる権力もこれに並ぶものではありません。「神の民として生きる」ことこそ、ダニエル;「神はわが審き主」という名が示すとおりダニエルをダニエルたらしめる生き方だったのです。その信仰により主に従って生きることを貫くことで、彼らはバビロンとその権力による同化政策から身を守ったのであります。からその身を守ったのであります。
ダニエルら4人は3年間の養成の期間を終えて、バビロン王の前に召し上げられ王に仕えるようになったとあります。彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れ、王からも信任を受けたといいます。

今日のメッセージは、ダニエルら4人の少年たちが異教バビロンの捕囚の地においても、なお「主への真実を貫く信仰」にスポットライトがあてられております。それは命を賭けたものでありました。けれどその勇気や行動は、単に自分を闇雲に押し通すためのものではなく、主への信頼と愛に裏打ちされたものであったのです。そのダニエルを形作っていた神の愛はきっと同胞3人の少年の行動に影響を与えたことでありましょう。

「沖縄の同化政策と集団自決」
最後に一つだけ日本の歴史を教訓として学びたいと思います。かつて沖縄は琉球王国という独立した国でありましたが。日本の支配下となり同化を強いられる中で、かの戦争に至ります。その時代アメリカ軍は鬼畜であり、その捕虜になるぐらいならいさぎよく日本人として死を選ぶべし、とまで軍国教育がなされたのでした。これはあの沖縄戦の時に二つのガマ(洞窟)で起こった対照的な出来事についてでありますが。
読谷村にある一つはチビチリガマとよばれる洞窟。ここはいわゆる「集団自決」が行なわれたガマです。この洞窟には住民約140人が避難していましたが。米軍が上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、住民たちの指導者の「自決せよ」との言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた劇薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられ、暗闇の洞窟の中で、83人が死亡、その6割が18歳以下の子供で、中には乳幼児もいたということです。
もう一つも読谷村のシムクガマとよばれる洞窟です。ここには約1000人が避難していました。米軍が投降を呼びかけたところ、壕の中は一時パニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの二人の老人が、「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができたのです。その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されたということです。この対照的な二つのガマは1キロも離れていなかったのです。避難住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。

この二つの大きな異なる結果は、日本軍による教宣活動によるものです。琉球のことばを許すなと命じ、日本人(ヤマト)として働くこと戦うことを強い、神ならざるものを崇拝させお国(ヤマト)への同化政策が巧妙になされていきました。そして鬼畜米軍の捕虜になるくらいならお国のために死ぬことが美徳として洗脳されていった時、沖縄の人が沖縄の人として生きることを否定され、その島の宝である多くの命が失われていったのです。
チビチリガマの出来事然りです。しかし、その一方でシムクガマの出来事は、出会いと経験から誤ったデマや教宣に惑わされなかった二人の人、いうならば日本軍の同化政策に流されなかった人たちの真実と信念の言葉と行動によって、ガマの人たちは助かったのです。
私が私であることの存在の意義を大事に守っていくこと。それと同時に、誰もがその人らしく生きていける命の尊厳を重じる社会の実現を、キリストの平和のうちに祈り、執り成してまいりましょう。
主なる神さまは私たち人類を愛し、一人ひとりの命は尊く、決してないがしろにされてはならないことを自ら十字架の苦難と死をもって示してくだいました。いかなる場合も武力によって平和は建てられるものではありません。

ダニエル書10書19節の御言葉を読んで宣教を閉じます。
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」
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