日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

すべてを照らす日がやって来る

2016-05-29 16:39:57 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録22章 賛美&証  

本日は賛美と証しの礼拝です。
先にKさんからは熊本地震被災地ボランティアをとおしてのお証し。Sさんから転入会のお証しがありました。この地上にある人の世は様々な困難と課題が尽きませんが、主イエスの福音は私たちに生きる証しと日毎に新しい賛美の歌を授けてくださいます。
4月から礼拝で読んできましたヨハネの黙示録も今日の22章で最後となります。
この章には、「主イエス・キリストの来臨」が確実な事、すぐにも起こることとして示されています。そのような神のときの迫りを覚えつつ、ヨハネの黙示録の時代に激しい迫害に遭った信徒たちの祈りと共に、今日の箇所から主のメッセージを聞いていきたいと思います。

①「命の水」
さて、まずここに出てまいります「命の水」についてです。
22章1節以降で、ヨハネが天使から「神の小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川」を見せられます。
「命の水」については、「主なる神さまご自身が『命の水』の源泉である」ということが、旧約聖書のエゼキエル、ゼカリヤ、ヨエル各書に記されております。さらに新約聖書に至りますと、ヨハネによる福音書4章で、主イエスご自身が「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃっています。
今日の箇所の冒頭では、「神の小羊の玉座から流れ出て」とございますとおり、はっきりとこの命の水が、世の罪を取り除く神の小羊、主イエス・キリストから湧き出る恵みであることが明らかにされています。もはや覆いは取り除かれました。私たちの救いのために流された御血汐。そのあふれ流れる愛と義、すなわち「命の水」。その和解と平和は都の大通りメインストリートの中央を流れ、両岸に植えられた「命の木」を育み、遂にはその葉が諸国の民をいやしていくというのです。

主の来臨によってこの世界は新しいエルサレム、新天新地に変ります。
21章5節「見よ、わたしは万物を新しくする」。この世界は創世記3章に記されているように、アダムとエバが罪を知り、神に背いてエデンの園から隔てられてから人間は、「命の木」を見ることも、知ることもできなくなっていました。しかし新約の時に至り、救い主イエス・キリストの到来と罪の贖いによる御救いが成し遂げられることによって、今日の箇所に記されています「命の木」のゆたかな実りに与ることが許されたのです。もちろんその完成は主が再びおいでになられるときですが、その日を待望し、備えつつ歩む者にすでに実現されているのです。
ここに「木の葉は諸国の民の病を治す」とありますが。それは単に肉体の病のいやしだけでなく、まさに「死に至る病」、罪による死の滅びからの解放、神の祝福を阻むあらゆる呪いからの完全な解放を表わします。さらにそれは、個々人に留まらず、諸国の民のいやし、和解と平和につながっていきます。
 又、「神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見ます。」
もはやあの時のアダムとエバのように神の御顔を避け、身を隠す必要はありません。
小羊主イエスによる赦しと和解の中で神を仰ぎ見、礼拝します。しかも最後の主の日、「新しいエルサレム」が訪れたとき、はっきりと「主と顔と顔とを合わせて仰ぎ見る」(3節)のです。
 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一13章でこう言いました。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部分しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」

さて、次いで天使は、すぐにも起こるはずのことを示します。そのような迫りの中で、12節「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」さらに14節「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである」と、これは主イエスさまからの直接的なお言葉として語られているのです。
命の木に対する権利。それをお与えになるのは主ご自身です。人の努力や精進、倫理や道徳心によって決して得られるものではありません。私たちが唯、主イエスの十字架の贖いという門を通って主の都に入れるように。自分の衣、御救いの義の衣を日々洗い清める幸いな者としてこの生涯を歩み通したく願います。
主イエスはヨハネ福音書10章で、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とおっしゃいました。その牧草とは羊のように迷いやすい私たちのために与えられる「命の糧」、御言葉であります。
又、17節に「霊と花嫁」なる教会、そして信徒たちが「主よ、来て下さい」と切望する呼びかけに対して、主は「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と、確かに応え、招いてくださっています。
詩編23編にございますように、「主はわたしの羊飼いとして、憩いの水のほとりに伴って、魂を生き返らせてくださる」のです。私たちも又、主イエスこそ「渇くことのない命の水」の源であることを心に留めたいと思います。

②「主の光がすべてを照らす日」 
さて、新しいエルサレムにおける最大の特徴とも言えるのは、「主の光がすべてを照らす」ということです。
5節、「もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」

ともし火の光と聞いて、やはり思い浮かびますのは、主の来臨にそなえるために主イエスがお語りになった「10人のおとめ」のたとえです(マタイ25章)。この黙示録を読み出してもう何度もそこを持ちだしてまいりましたので、またかとお思いになるかも知れませんけれども。今回は遂に5節にあるように、そのともし火の光も、もはや要らなくなるということであります。
主の来臨、すなわち花婿なる主が真暗な夜に突然来ても、迎えられるように「ともし火」をもって備えることの大切さ。それはどんな闇夜であれ、ほんの小さなともし火があれば花婿を確認して、出迎えることができるようにしておくということです。
いかに暗闇のような世にあっても、主の来臨に備えて「ともし火」を灯し続けるための「油」を携えておく必要があります。それが今私たちに託された生き方であります。
10人のおとめのたとえでは、5人は愚かで、5人は賢かった。愚かなおとめたちはともし火を持っていたが油を用意していなかった。賢いおとめたちは壺に油を入れて持っていたとあります。彼女らは待ちくたびれて眠気に襲われるのですが、突然「花婿だ、迎えに出よ」との声に、愚かなおとめたちは夜中でもう閉まっている中油を探しにいった。その間に花婿は到着して用意のできている5人は花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸は閉じられてしまうのであります。
その来るべき主の来臨のときが訪れますと、「もはや夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らないのですね。なぜなら「神である主が僕たちを照らし」、すべてが主の光のもとで照らされる時がやって来たからです。
それは私たちのすべての行い、信仰の生き方が明るみになる日でもあります。その事を知っていると、知らないとでは、同じクリスチャンでもその生き方が大きく違ってくるでしょう。あの10人のおとめたちのように。
主イエスは私たちが罪と死に滅びることなく、主のもとに立ち返って、主の命に生きるように、戸が閉じられるその時まで招き続けてくださっています。その主の愛に応えて生きる。、それは私たちにとってどんなに大きな力、希望でしょうか。「すべてを照らす日がやってくる。」すべてが主のもとに明るみに出され、報われる日がやがて訪れる。そのような希望の持てる日々の歩みとされていきたいと、そう願います。

Sさんから先程転入会のお証しを伺いました。主から離れようとしているその時々に、主は信仰の友を遣わして主のもとに白鳥さんを幾度も引き戻さられた事を知らされました。主は生きておられます。「わたしはアルファであり、オメガである。最初にして、最後の者。初めであり、終わりである。」主は私たちの間に幕屋を張って、いつまでもともにいてくださる、その希望のメッセージを今日も確認し、主の招きに応えて歩んでまいりましょう。
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「命の書」に基づく最後の裁き

2016-05-22 15:31:59 | メッセージ
 礼拝宣教 ヨハネ黙示録20章1-15節

ヨハネの黙示録の「黙示」という意味については、何度かお話しましたように「覆われて見えないものが、覆いを取り除かれて見えるようになった」ということです。
それはいわば神の人類に対するご計画があらわにされた、ということでもあります。
ところが、この20章「千年間の支配」いわゆる「千年王国」についての記述は、見えるどころか読めば読むほどわかり辛いですよね。それが何時なのか?具体的にどんな形で実現されるのか?様々な説があるところですが。いずれにしても私たちは今日のヨハネの黙示録20章より、このところからでなければ受け取ることのできないメッセージをご一緒に聞きとっていきたいと願っております。

1節以降でヨハネは、「一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、それ以上、諸国の民を惑わさないようにした」と記しています。
天使の持っている鍵と鎖は、主イエスの主権を表わします。悪魔、サタン、蛇、竜を取り押さえ、縛りあげたことは、主イエスが十字架と復活によってサタンが既に行動を制御されて敗北したことを示しています。
確かにこのヨハネの時代における初代教会の現実は未だローマ帝国による激しい迫害や弾圧が繰り返されており、完全な形での救いはとてもじゃありませんが見出せないような混沌とした情勢でありました。それにも拘わらず、ヨハネはここで千年の間の完全なキリストの統治を幻に見るのです。
旧約聖書のイザヤからエゼキエル、さらに後の時代にもユダヤの民は衰退と迫害にさらされる中で、いつかメシアが出現して民族と王国の復興を成し遂げて下さると考えてきました。ユダヤ教では国の再建と統治はメシアとその再臨に不可欠なことなのです。
その一方で、キリスト者に示されるメシア像とその統治はユダヤ教のものとかなり異なっています。

4節以降にはこのようにあります。「わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年経つまで生き返らなかった。これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間をキリストと共に統治する。」
ここには、迫害と弾圧の中でキリストへの信仰を貫き通したが故に惨殺された多くの信徒たちの魂が生き返って、キリストと共に千年の間統治している様が記されています。  
まあ私たちがここを読む時、自分はこの殉教者たちの中には入らなかったら千年生き返らないのだろうか、といろいろ考えてしまうかも知れません。しかし大切なのは、殉教という行為そのものというより、その根底にあるところの、主イエスの救いに対する誠実さだと思うのです。それは何も殉教者だけでなく、神ならぬものを神として拝ませようとする様々の世の勢力に抗いつつ生き抜く信徒たちに対しても又、、主イエスと共にあり、命を得ていると、そのような励ましと希望とがここで語られているように思うのであります。
そしてそれらの者たちには、第二の死は何の力(効力)もないとあります。第二の死とは、13節14節にあるように、完全な滅びです。そんな魂の滅びに至ることはない。否、逆に、世にあって神を神とせず、偶像を拝み、主の御救いを拒んで罪を犯し続ける者には、最後の審判の座において、すべての行いが明るみに出され、それらの行いに応じて厳粛な裁きが下される。第二の死、魂の滅びを免れ得ないということであります。まさに襟を正される思いがいたしますが。

さて、7節以降において、千年の間縛られ、底なしの淵に投げ入れられて牢に封印されていたサタンがその牢から解放されると、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ(神に敵対する諸国)を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都を囲んだと」と記されています。
ここを読んで分かりますのは、サタンは自力でその牢の鍵をこじあけて出て来たのではなく、主のゆるしのもとそこから解放されたものに過ぎないということです。
千年の間牢に閉じ込められていたサタンがどうしてまた再びそこから解放されることになったのでしょう。迫害の嵐の後の千年間の統治なのに、なぜまた、と考え込んでしまいました。
 そして、そのことを考えている時、思い出しましたのは、主イエスが荒れ野でサタンの試みに遭われるという場面であります。共観福音書には共通してこのエピソードが記載されていますが。
その試みは、サタン主導でイエスさまを荒れ野に導いたのではなく、神の霊、聖霊がイエスさまを荒れ野に導いてサタンの誘惑に遭われたということが伝えられています。
それはつまり、神の御言葉、命の言葉を基として生きるか。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言葉によっていきるかどうか」をお試しになられたということです。イエスさまはサタンの実に巧妙な誘惑をすべて退けて、勝利されたのですね。
そのようにこの7節以降の解放されたサタンの勢力が、再び聖なる者たちの陣営と主に愛された都とを取り囲むのですけれども。しかしそれは実に主なる神さまのご支配のもとにあってなされている。それが前提としてあるということです。
私たちは祝福と主の御業を目の当たりにして感謝と賛美でいっぱいの時もあれば、祈っているのに、礼拝を守っているのになぜ?どうしてこんなことが起こるのか、ということがあるでしょう。人生には時にまるで苦難に逃げ場もなく、囲まれているかのように思える時があるものです。
しかし、主なる神さまが私たちをご自分のものとして愛しておられるがゆえに、そのよな事態を敢えておゆるしになる、ということがあるのです。そしてそれはまた、主の愛してやまない教会とその信徒たちが、神ならざるものを神としていくような、あらゆる世のサタン的勢力に取り囲まれても、イエスさまが荒れ野で自ら示されたように、神の御言葉、命の言葉を固く守り、生きてゆくところに本当の勝利、最終的勝利が約束されているということです。
この牢から解放されて出てきたサタンの勢力が拡散していく状況を想像しますとき、それはまさに今日の時代において世界の各地で、また国内において起こっている悲惨な紛争、テロ、凶悪な犯罪、又科学技術や経済主義を神のように讃え、それに依存し神格化ている文明の罪を見るようです。まさに終末は近くに来ているという感がありますが。しかしそのように、人を滅びへと向かわせて来た勢力は、9節後半から10節に記されていますように、「天から火が降って来て、彼ら(サタンの勢力)を焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。」
 そのような終末が待っているのです。
神から人間を引き離し、罪を犯させていく働きはおびただしいのでありますが。しかしそれは終りのときが来ますと、、主が天から再び来臨なさるそのときがきますと、世に拡散し攻撃をしかけていたサタンの勢力はあっという間に敗れはてるのです。主のご支配のもとにすべてがあるということを、私たちはここから知らなければなりません。

さて、聖書はそのことを経たうえで、11節以降の「最後の裁き」の記述へと移ります。
ヨハネが見た「大きな白い玉座と、そこに座っておられる方」とは再臨の主イエス・キリストを示しています。再臨の主イエスさまによって最後の裁きがなされるのです。
ヨハネはその玉座の前において、死者たちが、大きな者も小さな者も立っていているのを見ます。そこでは幾つかの書物が開かれるのですが、そこで開かれたもう一つの書は「命の書」であり、「死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」というのです。
これが再臨の主イエスによる「最後の審き」であります。すべての死者は例外なくこの最後の裁きを主の玉座の前で受けるというのです。主を信じて地上の生涯を全うした者も、そうでない者も、すべてが主の玉座の前に裁きを受けます。
ここで重要なことは、その裁きが「『命の書』に記録された彼らの行いに応じて裁かれる」ということです。命の書については、旧約の時代の民に向けても語られてきたものです。主の義に生きる人は命の書に名を連ねることが許されていたのです。旧約時代の義人はその義の行いによって主の裁きを受けるということでありますが。一方、新約の主イエスの御救いに与る者は、主イエスの義を身にまとうことによって、命の書にその名が記されるのです。そうして霊による新生にあずかり、主イエスに従って生きた信仰者もまた「命の書」に基づき、その行いに応じて裁かれるのですね。
 しかしその行いとは何でしょうか?クリスチャンは自分の正しさや義によっては救い難い者でありますから、主イエス・キリストの義の救いに与かっる外ない存在なのです。ですから、私たちは逆に自分たちには自分を救い得るような力も愛もないという事を日々日常において思い知らされる事の方が多いのではないでしょうか。
そのようにして、自分の正しい行いによっては主の裁きの御座にでることはできないことを知っているクリスチャン、私たちでありますが。しかしだからこそ、救いの主イエスを信頼し、望みをもって従って生きていくとき、感謝のうちに証しとなる生涯とされていくのではないでしょうか。
ルカの福音書7章36節以降に、罪深い女がイエスさまの足を涙でぬらし自分の髪で拭い接吻して香油を塗ったエピソードが記録されています。イエスさまは、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と言われました。又、「はっきり言っておく、世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃいました。
私たちそれぞれの「命の書」の記録も又、唯主の恵みによる以外ありません。その主の恵みのもとで、私たち一人ひとりがどう行動し生きていくか、その事が問われるということですね。信仰の恵みに応えて行動し、生きるその原動力は、救いの喜びをもって、主を主として生き抜く信仰です。賜物は各々に与えられており、身体が不自由になっても「祈るり」「とりなす」事はできます。それらは主の御前に意義ある尊い働き、行動です。大切なのは「何をなしたか」ではなく、「主の恵みにどう応えて生きるか」です。

今日の聖書の箇所は、私たちに終末の備えをするように促します。その日その時は誰にも分かりません。だからこそ目を覚まして祈り続け、与えられた時を生かしていきましょう。主の義を身にまとって日々生きる者には、来るべき日の希望があるということを心に留めて、主と共に命の道を歩んでまいりましょう。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」マルコ13章31節
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小羊の婚宴に招かれた者たち

2016-05-15 15:37:13 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録19章5-10節 ペンテコステ

先週は18章から「強大なバビロン、すなわちローマ帝国が倒れた」との啓示の箇所から、「神不在の世界への審判」というテーマのもと聖書の御言葉を聞きました。
今日の19章1,2節においても、世の人を神から引き離し、堕落させた「強大な力を誇る存在」が神の審判によって終わりを迎えたことを告げています。それはまさに1節「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである」と宣言されているとおり、神はご自身の真実で正しい裁きを下して悪と罪の勢力を滅ぼし尽くし、完全に勝利してくださった、そのことが力強く宣言されているのです。
その宣言は1節で「わたしたちの神」とありますように、主に従い通している者たちによって表明されているのです。

確かに地上の目に見える状況としては依然、キリスト教会とその信徒たちは神の国とは相容れない勢力や権力によって軽んじられ、不当に忌み嫌われ、迫害や弾圧にさらされ続けているのですけれども。しかしそのような現状のただ中でヨハネは確かに、「真実で正しい神の裁きは成し遂げられた」との天の啓示というべき大群衆の賛美の歌声が鳴りわたっているのを聞くのです。

ところで、賛美とは何でしょうか?以前、お寺に行くとお坊さんの念仏を聞いてるだけたが、教会に来るとたくさんの歌をうたう。なぜだろうか、といった方もおられます。又、なんとなく教会に来てみたが、讃美歌を聞いているだけで心が安らぎ、いやされたという方もおられました。私どもにとりまして賛美とは、主の御救いに与かている確信であるでしょうし、又、喜びや日々の導きと恵みに対する感謝の応答でもあるでしょう。さらに、私たちは時に、祈る言葉さえ見つからないような試練の日においても、信仰の先達と共にささげる賛美に励まされ、やがて来るべき勝利の日を仰ぎ見ていくような、希望の歌でもあるのですね。

5節以降は、神無き世界、神を神とせず、金や銀、力や権威等を神のように崇拝する世にあって、どこまでも神を神とし、神の僕として神を畏れ、信仰の道を歩み通す信徒たちに、「小さな者も大きな者も、私たちの神をたたえよ」という声が天の玉座から聞こえます。
するとそれに応答するように、「大群衆の声のようなもの」「多くの水のとどろき」や「激しい雷のようなもの」が、「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた」というのをヨハネは聞くのです。
先程も触れましたとおり、地上の権威と力を誇示していた存在は神に裁かれて滅んだ。そして「わたしたちの神である主が王となられた」と、そのように賛美するのです。
ここのところは有名な「ハレルヤコーラス」の大合唱で歌われているように、このお方こそ「まことの王の王、まことの主の主」であられます。それはまた「十字架と復活の御子イエス・キリスト」。ヨハネの福音書1章に記されています「世の罪を取り除く神の小羊」なのです。

旧約聖書の時代において、この御子イエス・キリストの御救いと裁き、その十字架の贖罪を預言したとされるイザヤ書53章の「苦難の僕」には、世の罪を贖う、贖罪のための小羊として、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」と、そのように記されています。
その「真の王の王」とは、この黙示録が書かれた時代のローマ帝国のような、その権威や力で人を支配する政治的な王、様々な偶像を拝ませ地上を堕落させるような王ではありません。主自ら人の罪を負い、傷つき、ほふられ、私たち人間を罪による滅びから贖いとって下さった。この方こそが真の王の王、主の主である。
この「主の御業と栄光を心から讃える」。これこそが旧約時代、さらに聖霊降臨によって生まれた初代教会から今日の私たちに受け継がれている礼拝の原点であるのです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8章)。今日こうして天の賛美につながれ、主を讃えるために集まっている私たちであることをおぼえたいと思います。

さて、第ニのメッセージは、7節~8節にかけて語られています。
「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」
 花嫁はキリストの教会、主に贖われ呼び集められた群、エクレシアです。神を畏れる者たちのために正しい裁きがなされ、遂に花婿である小羊イエスさまの婚礼の日が訪れます。花嫁であるキリストの教会もまたその用意を整えます。

今私たちは聖霊の導きによって主の御救いに与り、その生き方も大きく変えられて、すでに主に結ばれている証しの生活を与えられているのでありますけれども。それと同時に聖書は終末のときに際して、主イエスが再び来臨されることを伝えております。それこそが究極の「小羊の婚礼の日」なのです。
花嫁なる教会は婚礼のために用意を整えます。マタイ福音書25章では、イエスさまが「十人のおとめ」のたとえを通して、主の来臨に私たちが如何に備えるべきかお話になりました。ともし火と備えの油とをもって花婿なる主を出迎えることができるように、「目を覚ましている」ことの大切さがそこでは語られています。
折しも今日はペンテコステですが。その油は主の日に備えるため教会に注がれる聖霊の油といえますね。その油が絶えることなく注がれ続けるように共に祈りましょう。

ところでこの黙示録では、主の来臨に際して、花嫁は「輝く清い麻の衣を着せられた」と記されています。それは自分で着たというよりも着せられたのです。ところがその後に、この「麻の衣」は「聖なる者たちの正しい行いである」と記されているのですね。うん、ちょっとまてよ、結局は人の正しい行為のことかと思えるのですが、実はそうではないのです。ここで重要なのは、その正しい行いのイエスさまが「十字架をとおして与えて下さった完全な義」です。その救いの衣を私たちは天から着せられることです。
如何に自分という存在は主の御前に出でるに価しない者であるか。しかし主は、そういう罪深く、どうしようもない人間が救われるために、キリストの義の衣を着せて下さった。この聖なる者たちの正しい行いの「正しさ」は「ディカイオー」という「義」を表わす言葉であります。それは主イエスが与えたもう「義」なんです。その義を私たちは衣として身にまとう、つまり生活の中において生きていくことが大切なのです。   
この地上においてはいまだ、神の義と愛を蔑ろする罪と悪の力が働いています。そういう中で私たちが主の義に立って生きるために必要なのは、この私たちがキリストの義の衣を身に着けて、来るべき小羊の婚礼の日に備えて生きる者であるという、自覚と、何よりもそのような者とされたことへの感謝と喜びです。
また、具体的には主の恵みへの応答として、私たちが自分の思いではなく、私たちの日常のそのときその時において、主イエスが目の前におられるとしたなら、どのように考え、祈り、行動されるかに、思いを馳せていくことは、とても意義あることだろうと思います。
全米のプロバスケットの選手等が「WWJD?」と入ったリストバンドをしていることは知られていますが。それはWhat Would Jesus Do? 「イエスさまならこんな時どうなさるだろう」という意味の英語の4つの頭文字なのですね。私たちも主イエスにあって日々を具体的かつ主体的にあゆんでいきたいものです。

また、今日の箇所でもう一つ興味深いのは、9節で天使いがヨハネに「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」「これは、神の真実の言葉である」と語ったことであります。ここでは婚礼という挙式を終えた後に行われる、披露宴、宴の席ということになるんでしょうか。私たちは月に一度礼拝の中で主の晩餐うをとり行っていますが。主イエスが「主の晩餐」を弟子たちと行った最後にこうおっしゃいました。「神の国で新たに飲むその日が来る」。その時まで「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。その日こそこの婚宴の祝いの席ではないでしょうか。
そのことを思いますと、私たちの主の晩餐は、やがて訪れる神の国でもたれる宴の備えであり、又その先取りでもあるのです。
「小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。」
私たちの地上における教会の交わりの基盤は、主が私たちの罪のために十字架で流された御血汐と裂かれた御体にあるということです。キリスト者、クリスチャンはそのことを主の晩餐を通していつも確認します。そうして主の御傷に触れることによって、私たち自身も主に立ち返らせて頂き、新たに神を神として崇め、人が人として大事にする愛と正しさを頂く事ができるのではないでしょうか。
再び神の国で持たれる「主の食卓」(小羊の婚宴)の時に備え、待ち望んでいくわたしたちでありたいものです。

話は逸れますが、今、教会の玄関に植えられて3年目になるバラ(品種;アンジェラ)
が見事に多くのピンク色の花を咲かせてました。3月に行った剪定がよかったみたいですが。通りを行き交う多くの方々から「きれいですね」と声をかけられたり、写真を撮らる方々もおられます。そして教会堂の正面に目を向けられたり、備えつけの「教会案内」を手に取って行かれる方がたの姿を目にいたしました。このバラのアンジェラという名は、実に「天使」という意味なんですよね。このバラが教会を水先案内者なのです。
今日の最後のところになりますが、天使の素晴らしい言葉に感動したヨハネは、「天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏しました」。その時、天使は「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ」と言ったとあります。
随分謙虚な天使ですよね。ここで押さえておかねばならならのは、「唯神のみが神として礼拝の対象であられる」ということです。しかし人間というものは弱いです、ヨハネでさえこう言った素晴らしい存在があったら、神のように崇拝の対象になってしまうのです。私たちも世にあるものを神のような崇拝の対象にしないまでも、どこか自分にはない魅力あるものや力のあるものに、憧れ心奪われ、虜になってしまうようなことってないでしょうか。神よりもそのことが優先され大事にしているとすれば、神への畏れが希薄になっている時かも知れません。
唯神のみを礼拝の対象とすることを天使は示します。又、私たちは「イエスの証しを守っている兄弟姉妹と共に主に仕える者であることを、確認したいと思います。

本日はペンテコステ、聖霊降臨日を記念する礼拝を捧げることができ感謝です。聖霊が共に主を信じ、祈る群の上に降り、キリストの教会が誕生しました。聖霊に満たされたキリストの弟子たちは、それぞれに主の証し人として生き、主にあって心一つとなって共に主に仕え合う者とされ、さらに多くの主の教会が新しく生まれていきました。
2000年の時を経た今日、今や世界中に主の福音が伝えられ、主の御名がほめたたえられています。イエス・キリストを証しする私たちに今日も「預言の霊」、聖霊の働きを乞い願いつつ、主の御業をほめたたえましょう。
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神不在の世界への審判

2016-05-08 16:46:05 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ黙示録18章1-8節 母の日

本日は、母の日をおぼえての礼拝であります。先にそのことをおぼえて、新生讃美歌584番の「主なる神よ み言葉にみたされ」という讃美歌もって主を賛美いたしました。
この3節には、「主なる神よ イエスを常に招く 尊さを教える 母と生きる家を いまわれらに 与えたまえ」という歌詞がございました。ほんとうにこれこそが「母の日」の原点なんですよね。
旧約聖書の十戒、律法には「あなたの父母を敬え」と命じられていますが、エフェソ6章には、「父と母を敬う」ことは、あなたが幸福になるという約束を伴う最初の掟です」と記されています。今日は、主を信じ主に仕えるお母さん方のその信仰のお姿と、日頃のお働きに心から感謝を表わし、祈りにおぼえたいと思います。

礼拝の御言葉として、ヨハネ黙示録18章1-8節が読まれました。そこから今日は「神無き世界への審判」と題し、み言葉に聞いていきたいと思います。
この当時ユダヤを支配していたローマ帝国は自分たちに勝ち得るものはほかにないと、その力と優れた能力、文明を誇っていました。それは真の神を神とせず、己の腹を神として富と贅沢に酔いしれ、不品行と不義を重ねていたのです。又、帝国の支配のもとにありました諸々の権力者やユダヤの裕福層の貴族や商人たちらも、そのローマ帝国に追従して富と快楽に酔いふけっていたのであります。それらの勢力は、自分たちに従わずいうことを聞かないキリスト者を厳しく取り締まり、迫害と弾圧を繰り返しました。それはそのような世の力と神の福音;御言葉の真理とが決して相容れるものではないからです。ヨハネの黙示録は、真の神を神とせず、己を神として崇めさせ、誇り高ぶる当時のローマ帝国の勢力を直接名ざしできない状況でしたので、神に敵対する勢力、又反キリスト的象徴として「大バビロン」と叫んだのです。

「倒れた。大バビロンが倒れた」
今日の18章の冒頭で、ヨハネが「大きな権威を持っている別の天使が天から降ってくるのを見、地上はその栄光に輝いた」とあります。そしてこの天使の力強い叫び声をヨハネは聞くのです。
「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、そこは悪霊どもの住みか、あらゆる汚れた霊の巣窟、あらゆる汚れた鳥の巣窟、あらゆる汚れた忌まわしい獣の巣窟となった。すべての国の民は、怒りを招く彼女のみだらな行いのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女とみだらなことをし、地上の商人たちは、彼女の豪勢なぜいたくによって 富を築いたからである。」

この天使はの「倒れた。大バビロンが倒れた」との宣言は、ローマ帝国が繁栄するそのただ中でなされているわけですが。ローマの皇帝やそれに追従した多くの人たちは、繁栄する文明と巨額な富に築かれたこの時代がいつまでも続くように思っていたことでしょう。しかし、神の天使は「倒れた。大バビロン(ローマ帝国)が倒れた」と宣言するのですね。
 3週前に5章のところから、天上の礼拝の描写を通してすでに主イエスの十字架の救いの御業により勝利は成し遂げられている、というメッセージを聞きました。同様にこの天使の宣言もまた、厳しい迫害と腐敗した文明社会のただ中ですでに成し遂げられた主の勝利の宣言として響いてきます。
「すでにイエス・キリストの十字架と復活によって決着は着いているのだ」、そのような神の確約、必ず成し遂げられていく約束として聞こえてまいります。祈祷会の時でしたが、この「倒れた。大バビロンが倒れた」というそのことを象徴する出来事として、教会の方が紀元3世紀代にローマ皇帝のコンスタンティヌスがキリスト教に改宗したことについて書かれた本、「『私たちの世界』がキリスト教になったとき」(ポール・ヴェーヌ著・岩波書店)を私に紹介してくださいました。この黙示録の時代から大よそ230年を経たローマにおいて依然としてキリスト教は極めて少数の一宗派にすぎなかったのですが、コンスタンティヌスはその教えに帰依し、これこそ人類を救い得る真理としてキリスト教信仰を持つのです。そしてローマ帝国内においては教会の自治と宣教にすべてをゆだねることによって、ゆっくりと、キリストの信仰を受け入れていき、主の福音が次第しだいに拡がりをもち、やがてキリスト教がローマに公認されて、世界に伝えられていく大きな足掛かりとなっていくのですね。
いずれにしましても、極めて厳しい迫害と弾圧の時代はヨハネの黙示録の時代以降も続くのでありますが、しかしこの「倒れた。大バビロンは倒れた」との宣言は、確かに後の時代に至って大バビロン、ローマ帝国の皇帝の改宗という人知では考えられないような出来事が天の御業として実現いたします。そしてローマ帝国自体は確かにこの後滅亡してしまうのです。ここに歴史に神が確かに働かれておられる証しを見せられ、ただただ驚くばかりであります。そのように、希望の持てないような現状、不義の力と世の勢力が荒れ狂う時代の中で、神の勝利の宣言とご計画の遂行とが行なわれ、実現に至った。そういうことを押さえてこのヨハネ黙示録を読むか、読まないかでは天と地ほどの差が、希望の書か滅びの書かの違いがあります。

「バビロンの滅びを身に受けない」
さて、今日のもう一つのメッセージは、4節以降のところで、ヨハネが天から別の声を聞いたその御言葉であります。
「わたしの民よ、彼女から離れ去れ。その罪に加わったり、その災いに巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」
ここにはバビロンの滅びを私たち自身が受けないように、「悪と罪の勢力から離れ去れ」と語られているのです。まあ牧師がこう言ってなんですが。この箇所は大変難解であります。礼拝の讃美歌の選曲も悩みました。そしてこの4節のところから思い浮かんだのが新生讃美歌520番「人生の海のあらしに」でした。その讃美歌の4節には、「すさまじき罪のあらしの もてあそぶまにまに 死を待つはたれぞただちに 逃げ込め港に」との歌詞があります。罪に加わったり、その災いに巻き込まれて荒波に呑まれてしまわないように、救い主イエスの手にある主の港に逃げ込んでいく。それは単に現状から逃避するというのではありません。積極的な意味で、滅びの道を回避するということです。人生の嵐に吹きすさぶ時、主イエスの救いと福音を基に立ち返り、身を寄せる。そうすることで「バビロンの滅びを身に受けない」その滅びを免れることができるのです。
ついで5節には「神はその不義を覚えておられるからである」と語られます。
主は私たちが主に対して犯す罪や不義の一切についてもすべてご存じであられるのです。主に対する不義や罪について主の目をごまかすことはできないのです。そう言った意味から、私たちの信仰は、主に対しての「畏れ」を失ってしまうことこそ、信仰の危機であるといわざるを得ません。ここで肝心なことは、神の審きと怒りこそ畏れるべきこととして「主の救いの港へ逃れ行く」というそのことにあります。今日ここに集われたお一人おひとりも船が港に帰ってくるようにこうして教会にお集いになったことと存じますが。

「神がすべてに報いてくださる」
又、5節の「神はその不義を覚えておられるからです」との御言葉には、もう一通りの意味があるでしょう。それは神に敵対する者の不義です。
この世界において主にどこまでも信頼し、忠実に従って生きる道は困難や妨げが尽きません。私たちが主への信仰を貫くがゆえに世の悪や罪の勢力によって受ける不義や攻撃は確かにあります。従おうと思えば思いうほど内に外にそのような力が働いてまいります。けれども、「神はその私たちが主に従うがゆえに受ける世の不義や攻撃のすべてを覚えておられる」というのです。 
6節以降には、己が腹を神とするバビロン、神不在のバビロンへの審きについて、記されています。ここの「仕返しせよ」「仕業に応じ、倍にして返せ」などと記されていることについて、ある方から、先週「汝復讐するなかれ」ということを聖書のメッセージとしてお聞きしたのですが、今日のこの箇所と矛盾していないでしょうか?そういうお尋ねがありました。ここだけを読みますとまるで私たちが報復するかのように読めますが、後の方までよく読みますと、その罪の仕業に応じた報いといいますか、復讐は人間自らするのではなく、神さまご自身がなさるということですね。
 7節に、「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは、女王の座に着いており、やもめではない。決して悲しい目には遭いはしない。』」と豪語しているように、大バビロンの罪の根源は自分を神のようにたてまつり、神など不要だとしていく高慢以外の何ものでもありません。その根底の問題は人間に対する罪ではなく、神に対する罪なのです。そのことのゆえに8節にこう語られています。「一日のうちに、さまざまの災いが、死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。また、彼女は火で焼かれる。彼女を裁く神は、力ある主だからである。」
神さま自らがその罪に応じて完全な報いを行う。不義のすべてを覚えておられる神さまが自らきちんと審かれるのです。

11節以降には、巨大なバビロンがひとときの間に裁かれたのを目にした、ユダヤの商人たちは、自分たちがこれまで築いてきたものが何も役に立たないことを知り、泣き悲しむ」とあります。それは、神不在の世界がいかに虚しいものであるかを教えています。

「真の神を神として生きる」
主イエスはおっしゃいました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マルコ8章36節)
天地を造りすべてを支配したもう神こそが、すべてを正しく審き、正義と公平をもって義しく審くことのできる全き唯一なるお方です。神不在の世界。そこには無秩序と貪り、報復の連鎖と殺伐とした人間関係、そして虚しい結末が待つばかりです。
 次週は聖霊降臨日;ペンテコステへと続きますが。今日のメッセージに警告されるような悪霊の働きから常に守られつつ、聖霊の風に帆を張って人生の航海を続けたいものですね。「真の神を神として生きる。」
すべてのものをお造りになり、生かしておられる天の神さまは生きておられます。
その神さまはすべてをご存じであられ、すべてのことに報いてくださるお方であります。私たち人間はこの神さまを仰ぎつつ生きることによってのみ、揺るぎない真の平安と幸いが得られます。今週も救いの主をたえず賛美しながら進んでまいりましょう。
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神の用意された場所

2016-05-01 14:31:04 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ黙示録12章1-18節   

今日はヨハネ黙示録12章が読まれましたが、新共同訳聖書には章や段落ごとに小見出しが親切につけられおり、ここでは「女と竜」となっております。
これを目にしたとき、北九州育ちの私はとっさに「花と竜」という火野葦平の長編小説で、実父の玉井金五郎と吉田磯吉を描いた映画のタイトルが浮かんできました。玉井金五郎役を石原裕次郎さんや高倉健さんが演じたこともあり良く知られていますが。
その玉井親分の相手方の吉田磯吉親分。彼は強きをくじき、弱きを助ける「にんきょう」の元大親分で衆議院議員にもなった方でもありますが。その息子さんであった吉田敬太郎さんがこれまた、実にユニークな人生を歩んだ方なのですね。昔大阪教会の特伝にも講師として来て下さいました。
吉田敬太郎さんもまた父磯吉のように衆議院議員になるのですが、太平洋戦争中に戦争反対を唱え投獄されます。その憎しみと復讐に燃えた獄中で聖書と出会い人生が大きく変えられるのです。
それはかつて奥様が学生時代に西南女学院で聖書と出会っておられ、戦後、吉田敬太郎さんも西南女学院のあるシオン山教会に導かれて主を信じてバプテスマを受けて共に信仰生活を始められるのです。私の大大先輩であられますが。それからは献身なさって若松教会の牧師をされながら若松市長となられるのです。その後5市が合併して誕生した北九州市の初代市長となります。大きな仕事としては若戸大橋の建設にも尽力されました。
北九州市長退任後は、天に召されるまで全国の教会を巡って奉仕なさったと聞いております。
この吉田敬太郎さんが残された自叙伝「汝復讐するなかれ」(絶版)は、戦時中における証しの書であり、同時に今日いつ戦争が起こってもおかしくないような世にあって、二度と同じ過ちを犯さないようにと警鐘をならす、そのような大変意義のある手引き書ともなるものです。
戦時中に吉田さんを迫害し、投獄していった官憲や法廷官等は、後に吉田さんの思いもよらないところで次々とその罪を世に暴露され、逮捕されて裁かるていくことになりました。吉田さんはローマ12章19節の「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」との御言葉をそのように目の当たりにされるのですね。
このヨハネの黙示録6章10節には「神の言葉と自分たちが立てた証しのために殺された人々の魂が「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか」と大声で叫んだとあります。それに対して主は、彼らと同じように殉ずる兄弟、仲間の僕たちの数が満ちるまでなおしばらく静かに待つように告げられます。「静かに待つ」。それは「自分で復讐しない」ということです。そして「しばらくは」というのですから、それは必ず厳粛なさばきの時が来るということです。一切が神のご計画のもとにございます。これらはすべてのキリスト者に向けた希望と励ましのメッセージであります。

そして本日の12章には、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで竜に象徴されます力に打ち勝った「兄弟」が出てまいります。主の救いのご計画は、救い主イエス・キリストの誕生から天に昇られるその時に至って、すでに成し遂げられているのです。

さて、ここに登場する「一人の女」;12の星の冠を頭にかぶった女は真のイスラエルを象徴します。その女から一人の男の子が生まれました。それこそが旧約聖書の時代から待望されてきた救い主、御子イエス・キリストです。
又、大きな赤い「竜」はサタンや悪魔を象徴します。7つの冠を頭にかぶっていたとありますが。これは世の権力や名誉を表します。この時代における赤い大きな竜はローマのドミティアヌス皇帝の権力下におけるキリスト教会とその信徒たちへの激しい迫害を表します。後にそれは、この書が読まれるその時代その時代において形を変えて働く世の力を表します。それらサタンや悪魔の働きは、人を惑わし、信徒を告発し、教会を分裂させ、神への不信と反逆へ誘い、遂には神から引き離すものとして今も働いています。神の救いの計画を破壊しようとする強い力が大きな赤い竜の本性であります。

この赤い竜ははじめ、女が身ごもって男の子を産むなり、すぐにその子を食べてしまおうと目論みます。この救い主メシア、真の王が生まれると彼らの地位や働きが脅かされてしまうからです。イエスさまがお生まれになった時、ヘロデ王はまさにそうでした。そこで2歳以下の男の子の殺害令をユダヤ全土に発布しました。サタン、悪魔は世の権力者のうちに忍びこみ、神の救いの計画が成し遂げられないように阻止しようとするのです。しかし、その御子イエスさまは父の神の御心どおり、十字架の御業を成し遂げ、復活なさり、御神のもと、その玉座へ引き上げられるのです。赤い竜はその力によって神の御子を葬ったように見えましたが。実にその十字架の出来事こそが、神の救いの計画が成就したことを表すのです。

この赤い竜については、7節にありますように、天において神とその使いとに敗れ、天に居場所を失い、地上に投げ落とされてしまいます。
10節には、天でヨハネが聞いた大きな声が書きとめられています。
「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟を告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しとで、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまで命を惜しまなかった。」

ヨハネは、主イエスが十字架で流された御血汐と、その信徒たち自身が立てた主イエスの救いの証しが、大きな赤い竜、すなわちサタンとも悪魔とも言われる勢力に打ち勝った」という大きな声を聞くのです。

それにも拘わらずヨハネの生きていた地上においてはローマ帝国による大迫害と弾圧が教会と信徒たちを襲っていました。天においては既に完全な勝利があります。しかし13節にあるように「地に投げ落とされた竜は怒りに燃え『男の子を産んだ女(教会のこと)のそのあとを追った」とあります。そのような状況下、教会の中や信徒たちも非常に厳しい状態にあったため、内部分裂や紛争のようなことが起こっていったことでしょう。実はそれこそがサタン、悪魔が一番喜ぶことで、その術中にはまることなのです。兄弟同士が互いの罪を訴えて悪口を言い、また不平不満をもって争い、結果、神への信仰を失わせ、神さまから引き離すことがサタンの大目的なのです。

主の勝利は既に実現されましたが、その一方で、地上の私たちにはなお信仰の戦いがあります。私たちの世界の状況に目を向けてみますと、イエスさまがかつておっしゃった「終末の徴」をそこに見るようです。マタイ24章のところでイエスさまは、「人に惑わされないよう気をつけなさい」「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる」「多くの人がつまづき、互いに裏切り、憎しみ合うようになる」「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす」「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と言われました。
 熊本の大地震が起きて今も被災された方々は大変なんですけれども、でもそのような中、遠くから多くのボランティアの方々が何とか自分にできることはないかという思いに駆り立てられるようにして熊本入りされて、活動されているその姿が伝えられているのを知り、被災地の現状は厳しいですが、人の愛が冷えるどころか、いやいやここにも「神の用意された場所がある」と気づかされました。

さて、サタンは訴える者、分裂を起こす力として争いや不和を生じさせ、不信が増し、人々の愛が冷えることを喜んでいます。先にも申しましたようにサタン、地に落ちた竜の最大の目的は何かといいますと、神の愛を信頼する信仰を失わせてしまうことにあるのです。このサタンは、私たちが主に信頼せず、自分の思いどおりに生きる方がずっと楽だしすばらしいと、そのように誘います。
では私たちは、そのような赤い竜の働きや力からどのように自分を守ってゆけばよいのでしょう。今日の12章はそこに一つの大きなメッセージがあるのです。
それにはまず6節を見てみましょう。「12の星を冠を頭にかぶった女が荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が1260日の間養われるように、神の用意された場所があった」と記されています。又、8節には「ミカエルとその使いたちに勝てなかった大きな竜は、もはや天には彼らの居場所がなくなった」とそのように記されています。先程もふれましたように、この女というのは教会と信徒たちをさしています。又、14節には「女には大きな鷲の翼が2つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」と記されていますね。その一方で、地に投げ落とされた大きな竜は逆に、もはや「天に彼らの居場所がなくなった」と記されています。自分の場所や居場所があるというのは本当にありがたいことです。ましてや「神の用意された場所」です。赤い竜が働くこの地上にあって、神さまが養ってくださる場所が私たちにも与えられているのです。しかし、それは荒れ野の中にある、と記されています。荒れ野ですから、人を楽しませるようなものは何もありません。それどころか人的な保証が与えられていないような所、それが荒れ野です。聖書は、神の用意された場所が、そのような状況の中に存在するというのですね。何もかもが整ったような中でその場所を見出す事はできないんです。

私は水曜日の祈祷会の前まで、この12章の宣教題を「神の勝利と世の苦難」としていました。けれどもそれでは天上と地上のことが分離しているように思えてきたのです。確かに私たちには未だに荒れ野ともいえる状況がそれぞれにあるわけですけれども、そこに実は神の用意された場所があることを強く思わされ、宣教題を「神の用意された場所」に変えました。

さて、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所に飛んで行くためである」と、このように記されています。
それはまさに、主イエスへの信仰の翼であり、御言葉の約束への信頼の翼であるでしょう。又、その翼は神への祈りであり、賛美でもあるでしょう。
招詞でもその一部が読まれましたが、イザヤ書40章28節~31節にこうあります。
「あなたは知らないのか、聞いたことはなのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく その英知は極めがたい。疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与える。若者も倦み、疲れ、勇士をもつまづき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」
 そのように私たちにも又、鷲のように大きな翼が与えられているのです。今回の黙示録を読んでつくづく深い信仰の書であるとともに、私たちへの叱咤激励の書であること知らされています。
ヨハネは、天上における神の勝利を聞き、主の御救いとその証の言葉に最後まで立つ者のうえに神の勝利が実現する、天の勝利は地上の教会と信徒たちの勝利の先取りである、と大いなる希望と慰めを得たのではないでしょうか。
ヨハネ福音書16章33節に次のような御言葉がございます。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
この主の勝利を私たちも天上の聖徒らと共に高らかに賛美してまいりましょう。
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