日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の霊が共に働く人

2010-11-28 07:18:29 | メッセージ
宣教より  ローマ8章18節~30節 

①「被造物のうめき」~「被造物」は、22節「すべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と述べられております。現代は神の造られた生態系や自然の秩序が損なわれていることを如実に示していますが。そういう中で被造物は19節「神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」。それは、来るべき時に神の子たちが神の支配にあずかり、神の国を相続するとき、被造物もその栄光に共にあずかっていくという希望であります。

②「キリスト者のうめき」~23節「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体が贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです」。キリスト者はみなこのキリストによる新しい命を宿しているのです。そしてこの地上での生涯を生きていくなかで、キリストの姿に似る者とされ、やがて訪れる終末の時に、キリストと共にその栄光を受ける神の子とされ、朽ちる肉の体を脱ぎ「霊の体が復活する」(Ⅰコリント15・44)、つまり「体が贖われる」ことを待ち望んでいるのです。

③「霊のうめき」~26~27節「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」そこには十字架の主イエスの深い苦悩と叫び、又、執り成す愛が、このみ霊の「助け」のなかにも込められていることを知らされます。

④「霊の人・神の霊が共に働く人」~私たちは「霊の執り成しを祈る」ということにうみ疲れてはなりません。祈り会、祈祷会が教会にとって大事なのは、この霊の執り成しによって教会がキリストの愛を覚え、教会が兄弟姉妹の霊的交わりをもってキリストの体を立て上げてゆくためであります。神は実に、そのような霊の人と共に働いて、万事を益としてくださるのであります。
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罪の法則と霊の法則

2010-11-21 06:45:59 | メッセージ
宣 教  ローマ7章14節~8章2節 

①「罪と善の間で」
ここで使徒パウロは自ら罪人であることを告白します。15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。19節「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。17節では「そういうことを行っているのは、いまだわたしの中に住んでいる古い性質であり、それが罪を犯させる」とパウロは述べているのであります。それはキリスト者として歩む私たちの思いをも代弁しているかのようです。

②「霊によって完成されたものを肉によって仕上げようとする罠」
キリスト者はキリストの救いに与った罪人であります。神は私たちの罪を完全に贖い、救ってくださいました。神の側の救いは完全であるのです。しかし、救われた「義人」ではなく、救われた「罪人」です。ややともすれば、その救われた罪人ということの自覚がなくなり、自分が義人のようになった思いになってしまう。それでは、霊によって始められたことを、再び肉によって仕上げようとすることにほかなりません。

③「霊の法則に従って生きる」
もう一つ知らされたことは、「キリスト者は肉や罪の法則にではなく霊の法則に従って生きる」ということであります。私たちはこの地上において現実や限界をもった罪人としての人間でありますけれども、その一方でこの地上にあって神の子どもとして生き、証しする使命を託されているということであります。人の世の基準や判断はすべて移ろいやすく、やがては虚しく無くなってしまうという事を知らされ、それと共に普遍であり、とこしえに変わることのない真理のお方をご聖霊によって知らされているからです。
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キリストにある平和

2010-11-14 07:23:24 | メッセージ
宣 教  ローマ5章1~11節 

先日の朝刊にこんなコラムが載っていました。メルボルンの聖パトリック大聖堂の司祭は日頃聖堂前でスケートボードをする若者たちをしかっていたそうです。ある日彼が激怒し、口汚い悪態を連発した上、1人の頭を叩き、アジア系の若者に人権差別発言までしてしまったらしいのですが。若者らは当初からこれをビデオで隠し撮りする魂胆だったようで、あの今騒がれています動画サイトの「ユーチューブ」に公開したらしいのです。それは世界中に流された司祭は辞職に追い込まれたということです。私としては何と言いますか、この祭司に同情しないではおれないのですが。まあ「ユーチューブ」ではありませんが、神様の前ではすべてが明らかで、その思いのうちまで見通されていると思うと、身の引き締まる気がいたします。日ごとに救いの恵みを確認しつつ、み言葉を聞いて幼子のように従う、そのような信仰の原点にたえず立ち帰っていくことが大切ですね。

①「神との平和」

使徒パウロはまず、1節で「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と述べます。この1~11節の大きなテーマは「神との平和」であります。人との平和ではなく、神との平和についてであり、まず人が神との平和を得ること、神と和解する道を示します。
まあこのクリスチャンというものは、不信仰で、罪深い神の怒りの対象である者が、御子キリストによる罪の贖いの死によって、神の怒り、それは罪の滅びから救われたということです。どのような人間にとりましても、死への恐怖や不安、世にあって様々な問題や出来事がありますが。聖書はその一番大本の問題は、神との断絶であり、神に背を向け続けることにあると説いています。人間には神との平和、神と和解させて戴くことが必要なのであります。そこがまず解決されていくと私どものうちに平安と力が与えられます。人と人の関係も、神との関係をまずしっかりと築いていく時、正しく整えられてゆくでしょう。神との平和の回復が人生において如何に尊く、平安と希望につながるかということであります。

②「キリストにある平和」

この個所をお読みになってお気づきかとは思いますが、「キリストによって」、あるいは「御子」、すなわち「神の独り子イエス」の「血によって、死によって、命によって」と数えると、8回も「主イエス・キリスト」が指し示されています。神との平和が築かれるために、神の御子イエス・キリストがその平和・和解の「仲介者」となられたことが強調されているのです。この「主(救い主)イエス・キリスト」を抜きにしてわたしたちは神との平和、神との和解をなし得ません。神に背を向け続けるなら、人はただその罪に捕われ、苦しみ、滅びへと向かうしかないのです。
しかしクリスチャンは、「イエス・キリストによって」罪の縄目から解き放たれた者、滅びから救われた者として、神との平和をその根底に賜っています。それはまさにキリストの十字架の苦難と死によって、神との平和、神との和解が私たちに与えられたことに他なりません。キリストが十字架で裂かれた御体、流された血によって、わたしたちのおぞましく醜い罪、憎悪やねたみの罪が清算された。キリストがわたしどもの罪を背負い、その罪を贖って死なれた。そのことの下に、わたしと神さまとの平和、和解が築かれていることをしっかり覚えて生きることがほんとうに大切なのです。又、その神の愛を受け入れて生きる者のうちには神の平和の種が蒔かれ、それが人と人の間に萌芽してゆきます。人との関係においても神の義をもって平和に生きて行くよう招かれているのであります。
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あかし~新たな事にチャレンジ

2010-11-07 16:14:23 | メッセージ
礼拝の中で証をさせていただく機会が与えられた事に感謝しています。

9月末に「今年、新たな事をやってきた中で、何か、証をしてみませんか?」との話をいただきました。今年、新たな事といえば...教会生活の中で、初めて役員の奉仕をさせていただいている事だと思います。

私は、1981年12月20日にバプテスマに授かっていますので、来月で29年が経つことになります。現在35歳ですので、29年といえば...すごく長く感じますが、実際には、この大阪教会に来るまでは、教会に深く関わるというようなことは無かったような気がします。大阪教会に来るまでの事は、転入会の証をさせて頂いた時に話をしていますので、知りたいという方は大阪教会のブログを2007年まで遡って見ていただいたら、と思います。

大阪教会に来てからを少し振り返ってみますと...
2005年に「大阪教会に面白そうな先生が来たよ!」と母から聞いて礼拝に出席をし、2006年に毎週礼拝に出席するようになり、2007年に青年会の活動があった、駐車場奥の畑、青年会ではボアズ農園と呼んでいた畑に関わらせていただき、2008年には青年会の会長、2009年には会計監査、そして今年、2010年は教育委員をさせてもらっています。
私は、大阪教会に来るようになってから、毎年、新たなことをやらせてもらっているのだなぁと思いました。

去年、私は、ひどい頭痛に悩まされ、身体的にも辛く、気持ちの上でもしんどく、教会をしばらく休ませてもらう事はできないか?とマイナスに考えたりしていた時期に、役員選出の選挙が行われ、役員に選ばれました。そののち「どの役員をやりたいのか?考えてきて下さい」と言われましたが、私は、どの役員をやりたいのか?特にありませんでした。その理由は、役員そのものが今まで一度も経験したことがなく、どの役員をやらせてもらっても、何もわからないゼロからのスタートになる為、与えられた役をやらせてもらえれば、それでよいと思ったからです。

役員に選ばれ、教育委員をすることになった私は、こんなにしんどい状況にあるのに、なんで役員に選ばれたのだろう?とか、どちらかというと、教育される側の私が、なんで教育委員なのだろう?と思ったりする事が多々ありました。

今年、新たな事をやってきて...と、証させてもらっていますが、私には、今年、何か、今までと違う事をしてきたという認識は、あまりありません。というのは、私が一人で何か...?というのではなく、周りで祈り・支えてくださったり、相談など...他にもたくさんありますが、多くの方々がサポートしてくださっているからです。

今回、証をさせていただく機会が与えられた事、本当に感謝しています。
このように、証をさせていただく機会が無かったら、なかなか、思い返してみるということもなく、自分自身、気づかせてもらえることは無いのではないかと思います。

私は、人前に出て話をするのが苦手ということもありますが、証をおのリーダーの場合も同じです。願いされると...なぜか構えてしまいます。自ら進んで、証をさせて下さい!と手を挙げる事もありません。分級のリーダーの場合も同じです。自分には、リーダーは務まらない、。とか、いや~ちょっと無理です。とか、プライベートな事を持ち出してきて、それを理由に何んとか断れないだろうか?と考えてしまうこともあります。ただ、断る話はそこで終わり、しばらくの間、そのような話はこなくなります。

最近、断ってばかりだと...なんの成長もないのだなぁと思うようになりました。せっかく神様が与えてくださっているのに、自分事で断るのは凄くもったいない。そのように思うようになりました。

先週の礼拝メッセージは「まことのささげもの」と題して、献金についてのお話でした。先週は駐車場で仕事をしていましたので、スピーカーを通してメッセージに耳を傾けていました。メッセージの中に、「献金だけでなく、信仰的チャレンジ」という言葉と「神様から託されている。それを活かしきっていきたい」との言葉が私の中に響いてきました。

週報ボックスに、役員会議事録が入っていましたので、ご存じの方もおられると思いますが、来年は、また新しい事にチャレンジさせていただきたいと思っています。どのようなことが出来るのか、まだ解りませんが、経験をさせていただき、学ばせてもらいたいと思っています。

最後に、聖書を読んで証を閉じたいと思います。

コリントの信徒への手紙一 12章27節
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」    (M・K)































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