日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

聖霊の降臨とその働き

2009-05-31 07:30:23 | メッセージ
聖霊の降臨とその働き ヨハネ16・1-15 
                            
聖霊降臨日・ペンテコステを記念する礼拝を心から感謝し祝いつつ、さんびとあかしをもって主にささげています。聖霊の降臨・ペンテコステとは、ギリシャ語で50番目という意味で、イエスさまが復活され50日後に使徒言行録2章に記載されているとおりの事が起こったということです。弟子や使徒たちが集まっているところに炎のように聖霊が下り、一同聖霊に満たされるのです。彼らは、もはやリーダーの主イエスを失って失望と無力に打ちのめされた集団ではありません。主イエスの福音「十字架と復活の救い」を全世界に伝える、新しい力に満たされたイエス・キリストの共同体とされていったのです。
この聖霊降臨後、30年も経たないうちに主イエスの福音が当時の世界に飛躍的に広まっていきました。しかし一方で、エルサレムを中心に、イエスさまを十字架につけたユダヤ教の祭司長や指導者たちのキリスト教会に対する迫害は厳しくなり、その結果信徒たちは各地に散らされることになりました。使徒言行録にはサウロの教徒への迫害やステパノの殉教などにそのような様子を伺い知ることができます。しかしこうした迫害が起これば起こるほど、主イエスの福音は力強く伝えられ、回心が起こり、世界各地に福音が広がっていきます。これは神のご計画といいますか摂理としか言いようがありません。
主イエスのみ業は、イエスさまが地上での歩みを終えられた後も、生き生きと継承されています。それは真理の霊である聖霊ご自身があかしをし、又イエスさまを信じ従う者をとおして、今もそのみ業をなしておられます。
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死から命の希望

2009-05-24 07:17:38 | メッセージ
宣教テーマ 「死から命の希望へ」 ヨハネ11・17-44より 

イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」と宣言なさいました。
このイエスさまにある命について、同じヨハネ福音書の中に幾つか同様なみ言葉がありますので、ピックアップし、味わってみましょう。3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。5:24「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。6:40「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。8:51「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」。
このように挙げてみますと、ヨハネ福音書はイエスさまがお語りになっておられるこの「永遠の命」、「新しい命」をどれほど大事にしていたかがよく分かります。そしてこの命は、常に十字架によって救いの業を成し遂げられたイエスさまというお方と固く結び合わされているものなのです。
この「命」は、ただ心臓の鼓動が鳴り続けているというような身体的な次元にとどまるものではありません。また、肉体が滅んでも霊魂が浮遊し不滅であるというようなものではありません。先のヨハネ5:24に「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになったお方を信じる者は、永遠の命を得、死から命へと移っている」とありますように、イエスさまそのものが、永遠の命であり、イエスさまを信じることによって新しい命に与っていくのであります。大事なのは、そのことがイエスさまからの一方通行というのではなく、私たち人間の側も、信じてイエスさまの命を受け、その命に結びつき、連なっていくということであります。主の呼びかけに応えて生きる。そこに「イエスさまの命に与っている」実感が伴うのです。信じるというのは飾りではなく「困難や危機の中で信じ抜く体験や経験を通して、神さまのみ業を見ていく」ということです。
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命を与えるのは霊である

2009-05-17 06:48:03 | メッセージ
「命を与えるのは霊である」 ヨハネ6・63  

昨日は、2つのゴスペルコンサートに行ってきまた。一つはノアというゴスペルバンドによるもので、関西地方連合CSデーキャンプの一環として持たれました。リビングプレーズの歌集、CDやカセットにノアさんの曲がいくつもあります。私の好きな「そのままの姿で」という曲もノアさんが作られたものです。コンサートは子どもから大人までが集い、ノアさんの素敵な歌声と演奏に心満たされ、子どものみならず大人にとっても楽しいひとときとなりました。又、その日の午後からは、私たちの夏のコンサートでメインゲストとしてプロデュースしてくださる小田彰先生のコンサートに足を運びました。このコンサートは小田先生の所蔵される「バックストンの聖書」が公開される聖書展の特別プログラムとして持たれました。こちらは聖歌を中心に小田先生の素晴らしい歌声とトークに心熱くされました。ノアさん小田先生と賛美のスタイルは異なりますが、音楽という賜物によって神さまをたたえ、その恵みを力強く証ししておられました。どちらも歌唱力や演奏技術の水準は高いものですが、単にそれを披露するというのではなく、ご自身に与えられた喜びと感謝を込め賛美しているお姿が何よりも素晴らしかったですし、そこに集う方々も共感と感動をもって心満たされる思いであったでしょう。「命を与えるのは霊である、肉は何の役にも立たない」(63)とございます。音楽はそれ自体素晴らしい神さまからの賜物ですが。しかし、それが単に感覚を満足させるだけのものなら虚しいものです。音楽家が、信仰者となって初めて本当の音楽の喜びを見出した、とはよく言われることでありますが。真に人に命を与えるのは霊なる主であられるのです。それは何も音楽だけの話ではありません。
私たちはただ肉のために生きるのではなく、霊なる神さまのために、神さまと共に生きるというところに、その意義と目的があると聖書は語ります。そしてそれこそが、「真に人を生かす力」となるのであります。
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生命のパン

2009-05-10 07:05:44 | メッセージ
宣教テーマ 「生命のパン」ヨハネ6・22~40より 

本日は「生命のパン」と題し、ヨハネ福音書6章22節から40節よりみ言葉を聞いていきます。このエピソードの前日、イエスは5つのパンと2匹の魚によって5千人もの人々を満腹させるという驚くべきしるしを示されました。そのような奇跡を体験した群衆はイエスの足取りをカファルナウムまで追っていきます。イエスはそんな群集に、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)といわれ、群集の心をすべて見通しておられました。さらに、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(27節)とそのように言われました。群集は5千人もの人々にパンと魚を与えられた奇跡を見、体験しましたが、そのことで逆に、どこか当然のごとくイエスが自分たちの願望や欲望を満たしてくれるお方であるというような思い違いをしていたのです。ですから、イエスを自分たちのために政治的王として立てようとしました。
私たちは様々な願望や欲求を持ちます。しかし、それを手に入れてみると、暫しの満足や喜びは与えられても、やがて心は新しい対象を追い求めて飽くことがありません。それはちょうど、パンを食べて一時は満腹感に満たされても、また飢えて糧を求めるのと、似たようなことであります。わたしたちの心は絶えず新たな欲求に引きずり廻されやすいものです。肉体を持った弱い私たち、だからこそイエス・キリストは尽きぬ命の水、朽ちない生命のパンとしてこの地上に来られたのであります。
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その人の内で泉となる

2009-05-03 07:30:29 | メッセージ
ヨハネ4・1~30より  

ユダヤ人であったイエスは、ユダヤの同胞らが蔑視し、交わりを絶ち、避けていたサマリヤ人の住む町を通ってガリラヤへ行かなければならなかった、と記されています。
この時からイエスの福音宣教がエルサレム中心のユダヤという身内の地域だけでなく、ユダヤ人から忌み嫌われ、蔑視されていたサマリヤの地の人々にもなされていくことになります。
ユダヤ人とサマリヤ人との対立の由来は古く、北イスラエル王国がアッシリア軍の攻撃によって陥落した時代にまで遡ります。その首都であったサマリヤには移民が住むようになり、異教の神々が祭られ偶像礼拝に伴う、不品行がはびこりました。又移民との結婚も行われました。サマリヤ人とは、陥落後もサマリヤに留まったイスラエル人と、移民との結婚により生まれたその子孫のことをさしていました。イエスが生きていた当時、サマリヤ人はエルサレムを都にしていた血筋や純粋性を主張するユダヤ人から血を穢した民族としてさげすまれ、交わりが絶たれていたのです。彼らはそのため山の上に自分たちの神殿を建てそこで礼拝をしていたのです。今日の箇所は、そのさげすまれていたサマリヤの女にイエスが声をかけ、神の福音を伝えたというところであります。その福音を聞いた女は、解放された者としてこれまでの彼女とは思えないような行動をとりました。人生の孤独を何度も痛いほど味わってきた彼女は、イエスとの出会いと神の福音によって、その深い孤独が解放されます。そして自ら福音を伝えていく者とされるのです。「その人の内で泉となる」(14)
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