日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

皆が共に学び、皆が共に励まされるように

2010-03-28 08:08:38 | メッセージ
宣 教 Ⅰコリント14:26-33

初代教会の礼拝は、聖霊の導きによって生き生きとした躍動的な礼拝がささげられていました。今日の私たちの礼拝は確かにプログラムなど整い秩序正しくなされてはいますが、その半面それが形式だけ、プログラムを消化するだけの礼拝になってしまう危険性がないとはいえません。聖霊の導きによって生き生きとした礼拝を主にささげていくために、もっと祈り、もっと主に求めていくことが大変重要でないかと思います。「神に、今日礼拝の中で私にいま本当に必要なメッセージを与えてください」と祈って礼拝に臨んでください。礼拝が整えられていくためにまず必要なのは、宣教者、各奉仕者のために祈ってくださる霊の助け手であります。祈り、そこには神への期待があるから祈るのです。私たちは心の底から神に期待していますか。祈りが聞かれるということに。

もう一つ示されたことは、この宣教の後に持たれています応答のときについてであります。礼拝の宣教は教会に託されたメッセージであります。それは会衆があってこそ成り立つものです。宣教は宣教者が独りよがりできるものではありません。牧師だけのものでもありません。教会というバックグラウンドがあり、そこにつらなる方々と関わりをもつ中で宣教というものがあります。宣教は机上でなく教会の現場や交わりから生まれ、作られます。ですから、宣教はただ語られっぱなしで終わるものではなく、宣教とどう向き合い、どのように応答していくかが問いかけられているのです。又応答の時の分級クラスで各々が主から受けたメッセージを分かち合うことで、さらにそれが豊かなものにされていき、ひいては各々を、そして教会全体を建てあげていくことになるのです。礼拝を通してなされるすべてのことが、互いを造り上げることを目指すものとなるようにしなさいとのパウロの勧めは、私たちにチャレンジを与えています。応答のときが、主からの戴いた恵み、決意や促し、あかしを互いに分かちあう目的で行われているということをもう一度確認し、ひとりよがりにならないように互いの声に耳を傾け合いましょう。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように」なっていく。これらのことを心から求め、そのように行ってまいりましょう。   
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愛がなければ

2010-03-21 08:00:11 | お知らせ
宣 教 Ⅰコリント12:31-13:7
     
前回「キリストのからだ」という題で、キリストの教会における「ひとつの体と多くの部分」の関係について話をいたしました。今回はその体に多くの部分がしっかりとつながり、健全な関係を保つには、最高の賜物である「愛」が不可欠であるというパウロの話を心に刻んでいきたいと思います。 1~3節でパウロは様々な賜物や行いを引き合いに出しながら、「しかし、それらに愛がなければ」と3度も繰り返し、愛に根差した行動の重要性を強調しています。

あのマザーテレサさんはかつて「大切なのは、どれだけたくさんのことや偉大なことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」と言われました。
4節~7節で「愛」のもつ特性が15項目述べられていますが。その愛のところに「自分の名前」を入れて読んでみると自分のことがよく分かりますね。それら愛の特性は、どちらかといえば目立たず地味なのか、時代遅れと言われるような言葉です。私の世代は子どもの頃、忍耐、根性、星ヒューマなんて言われていましたが。今の時代からするとダサいとか言って一笑いされてしまうかも知れません。この特性について目にとまりますのは、愛は忍耐すること(寛容)で始まり、「すべてに耐えること」で終っている点であります。先週のからだを構成する部分のたとえで、肝臓の働きについて申し上げましたけど、どこか重なるように思えます。すなわち、愛とは、自分にとって怒りや憤りを覚えること、或いは面倒くさいようなこと、嫌なこと、苦しいことまでも相手のために引き受け、耐え忍んでいくことなのです。コリントの教会の複雑な人間関係を解いていく鍵はこの愛のもつ「寛容」と「慈悲」、そして「忍耐」にあると言うのです。
それらに次に続いて、ねたまない、高ぶらない、礼を失せず、恨みをいだかないなどの項目が列挙されていますが、これらは実際にコリントの教会の分裂を引き起こした人々の悪徳であったのでしょう。愛の特性とは正反対の「心の狭さ、冷淡、ねたみ、高ぶり、自慢、不作法、自己中心、いらだち、恨み、不義、短気、不信、あきらめ」などが人々の間で膨らんでいたのですね。

ところで、人間同士の愛をいうとき、男女が愛する愛(エロス)、友を愛する愛(フィリア)などあります。今日の個所に出てくる愛という言葉はアガペーの愛、それは神の愛やキリスト者が他者に自らを与える愛を示しています。そうです、ここに列挙されたような愛は、そう私の内側から出てくるものではない、この愛はアガペーの愛であり、つまり向こう側から、神さまから与えられ、キリストによって実現可能な愛であります。
アガペーの愛の特徴は、相手からどんな事をされても、どんな侮辱を受けても、傷つけられても、苦しめられても、キリストの赦しを覚えつつ、憎しみや恨みの感情と闘い、解放を受け、キリストの願いを受けて、その人のために祈り執りなすというような、「十字架の主から与えられる愛」だということです。

人の愛情というものは自然に起こって来るもの、心の中にある情から生じるものであります。しかし、アガペーの愛は敵すら愛することを可能にする愛であります。そこには感情とは異なる、愛するという意志が伴います。愛さないではおれないから愛すのではなく、神の愛のゆえに、愛そうという意志をもって愛する、それがアガペーなのです。

私たちにとってそれは、十字架のキリストに由来する愛であり、その尊いキリストの愛と恵みを戴かなければ、そういう愛について知るよしもありません。私たちは限界をもちながらもキリストに愛され、赦され、生かされている者として、他者を自分のように大事にすることが可能なのです。イエスさまは「自分によくしてくれるものを愛したからといって、何の徳になろうか」と言われました。愛せないようなものを主の愛アガペーの愛を受けて愛し執りなしていくところに、キリスト者としての生き方があります。私たちも十字架の主に従うものとなりたいと願います。
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キリストのからだ

2010-03-14 07:59:15 | メッセージ
宣 教  Ⅰコリント12:12-26  
 
使徒パウロは教会をキリストの体であると表現します。12節「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」。体に頭・目・耳・手・足とありそれが一つの体を形成していると同様にキリストの体なる教会も様々な個性をもった人たちで構成され、一つの主にある共同体としての命があるということです。このコリントの教会には重大な問題が起こっていました。体に例えるなら病んでいるとも言える状況に陥っていました。ある人たちは自分に与えられた賜物や立場といったものを誇り、そのおごりが高じて排他的になり、弱い立場におかれた人への無理解や無関心によって弱い立場の人たちが置き去られ、痛みを覚えるようなことになっていたのです。それは教会にとって病巣となっていました。 
 
私たち人間のからだには表皮細胞(皮膚等)というものがあり、その数は成人で50兆個、新生児で2兆個あり、何と2週間に一度の割合でそれらの細胞は死に新しいものが生まれるということが繰り返されているそうです。又、私たちの体内には常に一分間に4200CCという新鮮な血液が流動し、20秒間に体内を一周しているということです。それらの小さく見えないところがもし病気になり、機能しなくなると大変です。からだのすべての器官にも影響を及ぼし、他の器官との連携がうまくいかなくなり、からだ全体が崩れていくことにもなります。又忍の臓器ともいわれる肝臓は、隠れた体内にあって過酷で、しかも大変重要な解毒や分解といった働きをしています。そういった隠れているところこそ、からだにとってなくてはならない重要な部分であります。この個所を読むうえで、22節「からだの中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」との、それは弱いのではなく、弱く「見える」と記されているところに注意を払う必要があります。   
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いのちに与っている

2010-03-07 08:21:29 | メッセージ
宣 教  Ⅰコリント11:17-26

私どもは主の晩餐によって、キリストの裂かれたみ体を象徴するパンを裂き、それを共に戴くことで、キリストのいのちに共に与り、キリストのみ体につながっているということを確認します。このパンはもともと種入れぬ状態で焼いた一つのパンを互いに裂いて戴いた。又、キリストの流された血潮を象徴するぶどう酒を共に戴き、罪びとである人間の罪をあがなって神との関係を回復・新しい契約を結んでくださったことを確認します。
これももともとぶどう酒が注がれた「一つの杯」を回しながら互いに飲むというものでした。現在でもこういうふうにして主の晩餐、又聖さん式を行っている教派もありますが、
今は衛生面の問題などから予め裂かれた、あるいは切られたパンが、又ぶどう酒(汁)も予め個別の杯に注がれたものが用意されているものをそれぞれが取って戴くというのが大半ではないでしょうか。まあ主の晩餐によって、同信の友と「キリストのいのちに与っている」ことを味わうという意味からすれば、一つのパンを互いに裂いて与る、一つの杯を共に与るという方がほんとうなのでありましょう。けれども、このように私たちは主の晩餐においてキリストにあって一つ、又信じる一人ひとりとつながっているということを感じることができます。

私たちは、教会で主の交わり、主にある交わりということをいいます。この交わりをギリシャ語で「コイノニア」と呼びますが。それはただ心地のよい、当たり障りのよい交わりをいうのではなく、「与る」ないしは「共有」するというもっと開かれ、積極的な意味があります。それはキリストの十字架にその原点というものを見ることができます。
罪と何の関係もないキリストが、罪のゆえに滅ぶしかない者の咎を背負ってくださったことに由来します。キリストにとってはいわば他人さま、赤の他人のような罪びとであるにもかかわらず、その罪人と交わり、関わりをもたれた。どんなに重たく、自らつぶれてしまうようなことであったと想像します。私たちの罪、咎を自らのこととして抱え込み、その弱さと痛みをコイノニア・共有する姿。そこに十字架のキリストがおられるのです。教会は十字架のみ業を遂げられたこのキリストのコイノニア、共有の場として存在しているのであります。
キリスト教会、聖書の言う「交わり」は、すべてこの共有するというところから来ているのです。主の晩餐において、私たちが一つのパンから共に戴き、又一つの杯を共に与るとは、実際はそういう重みのあることなのです。

話は変わりますが、先日止揚学園を訪問した折、職員の方がお風呂場を案内してくださいました。マキで炊けるお風呂だそうで、マキで炊くと滑らかなお湯になるとか。コックをひねってお湯が出るのとは違って手間がかかるのに、本当に心と体がしあわせを感じる方法をとってあるんですね。
それと、お風呂場に手すりがないのです。もちろんリフトもない。何でと初め思いましたが。経済面をケチっているということではなく、入所者と職員が一緒にお風呂に入るためには手すりはかえって無用だということでした。しかし抱えたり、支えて入るのはやはり大変なことでしょう。けれど入所者の方にとっては荷物のようにリフトで運ばれるより、手すりをつたって一人で入るより、やっぱり心地よいんじゃないでしょうか。
それともう一つ、入所者の方がお風呂に入る場合、職員の方も同じように裸になって一緒に入るということでした。それをずっと初めから続けておられるということです。実習の学生さんたちが「ええ、一緒に入るんですか」と驚かれることもあるそうですが。そういう時、「お風呂というほんとうにくつろぎの時間に、着物をつけて私たちが入ってもくつろげないでしょう」と答えているそうですね。そういう話を聞きながら、止揚学園の「ともに生きる」、又「願いや思いを一緒に担う」ということをほんとうに実践されている姿勢を改めて教えられ、心が温かくされました。支えられる側という関係を越えた、喜びと笑顔が園に満ち溢れています。
私たちは主から「新しいいのち」に与っています。そのいのちは、ただ受けるためでなく、主のご用のため、それすなわち他者を生かし、共に生きていくために戴いたいのちであるということを心にとめていきたいものです。

「いのちに与っている」。それは、キリストご自身があるがままの私をまるごと引き受け、贖いの業を成し遂げてくださったそのいのちと死に与っているということです。
感謝と喜びをもってこの主の死と十字架の福音を語り伝え、主にならい従いゆくものとされていきましょう。
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何のために集まるのか。

2010-03-07 08:11:48 | メッセージ
宣 教  Ⅰコリント11:17-22

夜の祈祷会の聖書の学びの時間、この個所を出席者に黙読していただき導かれたこと、心に示されたことを分かち合いました。
23節に「主から受けたもの」であるのにもかかわらず、お互いの間に仲間割れがある。主から受けたものに謙虚さと畏れをもって、互いが歩み寄ることが大事という思いが出されました。又、17節の「あなたがたの集りが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです」との個所から、「それなら何で教会に集まっているのだろうか」との思いが出されました。ほんとうにそうですよね。教会の交わりが「良い結果」。キリストの救いの証となるような実を結ばないで「悪い結果」。何のための救いなのかと人に躓きを与えるようなことになるなら、一体何のために教会に集まるのか、と言われてもしかたないでしょう。まあ、私たちはコリントの教会ほどではないにしても、そこは人の集まりでありますから、いろんな考え方、物の見方から問題が起こることもあります。それはどのような教会もはたからはどんなに素晴らしく見え、熱心で、有能な牧師や役員、信徒がいて、人が多くいて、立派に見える教会であったとしても問題や課題から免れることは出来ません。じゃあなぜそんなしんどい思いまでして教会へ行くのか、集まるのか。実にそのことがはっきりしていないのであれば、これは本当に教会で何か問題が起こればすぐに教会を変わり、また何かの問題が起こればの別の教会に行くと言うことを繰り返すような教会の放浪者、根なしクリスチャンになってしまうでしょう。何のために集うのか。ただ一つはっきりしていることは、主は教会を恵みとして与え、そこに生じる様々な問題や課題を通して私たちがキリストの弟子、主の民として生きるにふさわしく成長してゆくことを期待しておられるということです。 
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